1934年度の将棋界
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1934年度の将棋界︵1934ねんどのしょうぎかい︶では、1934年︵昭和9年︶4月から1935年︵昭和10年︶3月の将棋界に関する出来事について記述する。
できごと[編集]
1934年7月[編集]
●4日 - 東京日日新聞、大阪毎日新聞︵現在の毎日新聞︶主催の﹁全日本将棋選手権戦﹂が開始される。出場棋士は32名︵四段選抜4名、五段以上28名︶[1]。 ●25日 - 大阪朝日新聞所属﹁十一日会﹂の神田辰之助七段と東京の日本将棋連盟︵旧︶の七段棋士7名の対局が開始された[1]。1934年9月[編集]
●13日 - 神田辰之助七段と七段棋士7名の全対局が終了。神田の3勝4敗で負け越しとなった[1]。1935年1月[編集]
●14日 - これまで名人は推挙制であったが、関根金次郎名人は抜本的な改革が必要と判断し、日本将棋連盟顧問の中島富治に改革案の起草を一任した[2]。1935年2月[編集]
●2日 - 中島富治が名人戦の創設案をまとめ、関根金次郎名人により快諾された[3]。1935年3月[編集]
●14日 - 大山康晴が木見金治郎八段に入門。内弟子となる[3]。 ●20・24日 - 東京日日新聞が名人制度の改革案について報道。八段6名の﹁八段会﹂の討議によって、改革案が全員一致で可決された[3]。 ●26日 - 日本将棋連盟評議員会の総会が開かれ、名人制度の改革案を決議。名人戦に関する規約を決め、金易二郎会長︵八段︶と関根金次郎名人が声明を発表した[3][4]。昇段・引退[編集]
昇段 | 棋士 | 昇段日 | 注 |
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四段 | 梶一郎 | 1934年 | [5] |
松下力 | 1934年 | [6] | |
加藤治郎 | 1934年 | [5] | |
奥野基芳 | 1934年 | [7] | |
角田三男 | 1934年 | [8] | |
六段 | 坂口允彦 | 1934年 | [6] |
脚注[編集]
(一)^ abc加藤、原田、田辺 1999, p. 217.
(二)^ 加藤、原田、田辺 1999, pp. 217–218.
(三)^ abcd加藤、原田、田辺 1999, p. 218.
(四)^ “日本将棋の歴史︵14︶|将棋の歴史”. 日本将棋連盟. 2023年12月16日閲覧。
(五)^ ab日本将棋連盟 1968, p. 295.
(六)^ ab日本将棋連盟 1968, p. 284.
(七)^ 日本将棋連盟 1968, p. 297.
(八)^ 日本将棋連盟 1968, p. 289.