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大正2年︵[[1913年]]︶[[第1次山本内閣]]が成立すると[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]に就任、鳥取県出身の最初の大臣となった。その後同内閣の松田法相の死去により[[司法大臣]]を兼任したが、[[シーメンス事件]]のため大正3年︵[[1914年]]︶3月には内閣総辞職となった。野に下った奥田は[[中央大学]][[学長]]に迎えられたが、翌年6月東京市会の強い要請により[[東京市長]]に就任。
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大正2年︵[[1913年]]︶[[第1次山本内閣]]が成立すると[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]に就任、鳥取県出身の最初の大臣となった。その後同内閣の松田法相の死去により[[司法大臣]]を兼任したが、[[シーメンス事件]]のため大正3年︵[[1914年]]︶3月には内閣総辞職となった。野に下った奥田は[[中央大学]][[学長]]に迎えられたが、翌年6月東京市会の強い要請により[[東京市長]]に就任。
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2015年11月26日 (木) 13:20時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a5/Okuda_Gijin.jpg/220px-Okuda_Gijin.jpg)
奥田 義人︵おくだ ぎじん\よしと、万延元年6月14日︵1860年7月31日︶ - 大正6年︵1917年︶8月21日︶は日本の政治家、官僚。幼名留三郎[1]。従二位勲一等法学博士男爵。文部大臣、司法大臣、東京市長。中央大学学長。中央大学の創設者の一人。鳥取県人初の大臣[1]。
経歴
邑美郡栗谷町︵現在の鳥取市栗谷町︶で生まれた[1]。父鉄蔵は禄高三〇〇石の鳥取藩士で、作事組頭、武術師範をつとめた[1]。
7歳のとき藩の儒者坂田順蔵の門弟となり、藩校尚徳館に入学、四書五経の素読を終わって大いに学力を身につけた[2]。
鳥取変則中学校︵現在の鳥取西高等学校︶に入ってからは成績群を抜き、再三級長をつとめた[2]。
名古屋英語学校、京都府中学校を経て上京、東京に第一歩をふみ入れた[2]。明治10年︵1877年︶9月3日のことである[2]。不眠不休で勉強して大学予備門への入学を果たした[3]。
明治13年︵1880年︶7月東京帝国大学法学部に入学[3]。明治17年︵1884年︶7月優秀な成績で東大を卒業した[3]。
藩閥のうしろだてのない義人は、北垣国道の口ぞえで伊藤博文の知遇を得、官界入りした[1]。義人の振り出しは太政官御用掛で、伊東巳代治らを補佐して憲法起草にあたったが、内閣制度発足とともに農商務省参事官となった[1]。
以後歴代内閣にあって特許局長、内閣官報局長、衆議院書記官長、拓殖務次官、農商務次官、法制局長官を歴任[1]。
明治36年︵1903年︶3月、神奈川県から第8回衆議院議員総選挙に立候補して当選し政界入りを果たす。
明治37年︵1904年︶3月の解散選挙で鳥取県から立候補して再選。明治41年︵1908年︶4月21日、宮中顧問官[4]に任じられ、1913年2月21日まで在任[5]。明治45年︵1912年︶5月27日、貴族院議員に勅撰された[6]。
大正2年︵1913年︶第1次山本内閣が成立すると文部大臣に就任、鳥取県出身の最初の大臣となった。その後同内閣の松田法相の死去により司法大臣を兼任したが、シーメンス事件のため大正3年︵1914年︶3月には内閣総辞職となった。野に下った奥田は中央大学学長に迎えられたが、翌年6月東京市会の強い要請により東京市長に就任。
大正6年︵1917年︶8月21日、肝腫瘍のため病没[7]。死去の一週間前8月14日に多年の功績により男爵を叙爵した[8]。
栄典
- 1895年(明治28年)9月20日 - 正五位[9]
- 1900年(明治33年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[10]
- 1914年(大正3年)4月13日 - 勲一等瑞宝章[11]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[12]
脚注
(一)^ abcdefg﹃鳥取県郷土が誇る人物誌﹄167頁
(二)^ abcd﹃鳥取県百傑伝﹄171頁
(三)^ abc﹃鳥取県百傑伝﹄172頁
(四)^ ﹃官報﹄第7443号、明治41年4月22日。
(五)^ ﹃官報﹄第174号、大正2年3月1日。
(六)^ ﹃官報﹄第8680号、明治45年5月28日。
(七)^ 服部敏良﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄付録﹁近代有名人の死因一覧﹂︵吉川弘文館、2010年︶7頁
(八)^ ﹃官報﹄第1512号、大正6年8月15日。
(九)^ ﹃官報﹄第3671号﹁叙任及辞令﹂1895年9月21日。
(十)^ ﹃官報﹄第5098号﹁叙任及辞令﹂1900年7月2日。
(11)^ ﹃官報﹄第510号﹁叙任及辞令﹂1914年4月14日。
(12)^ ﹃官報﹄第1310号・付録﹁辞令﹂1916年12月13日。
参考文献
- 『因伯立志人物』鳥取佛教靑年會編纂、1915年、1-7頁
- 『鳥取県百傑伝』 1970年、170-176頁
- 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 137頁
関連項目
外部リンク
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