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* [[1921年]](大正10年)[[7月1日]] - [[記念章#第一回国勢調査記念章|第一回国勢調査記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref> |
* [[1921年]](大正10年)[[7月1日]] - [[記念章#第一回国勢調査記念章|第一回国勢調査記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref> |
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* [[1927年]](昭和2年)[[4月19日]] - [[勲一等旭日大綬章]]<ref name=joi/> |
* [[1927年]](昭和2年)[[4月19日]] - [[勲一等旭日大綬章]]<ref name=joi/><ref>『官報』第91号「叙任及辞令」1907年7月21日。</ref> |
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* [[1930年]](昭和5年)[[12月5日]] - [[記念章#帝都復興記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref> |
* [[1930年]](昭和5年)[[12月5日]] - [[記念章#帝都復興記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref> |
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* [[1931年]](昭和6年) - [[前官礼遇]]<ref>「特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ 宇垣一成」アジア歴史センター(ref.A03023459100)、国立公文書館。</ref> |
* [[1931年]](昭和6年) - [[前官礼遇]]<ref>「特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ 宇垣一成」アジア歴史センター(ref.A03023459100)、国立公文書館。</ref> |
2022年3月16日 (水) 20:00時点における版
宇垣 一成 うがき かずしげ | |
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![]() 中将時代の宇垣一成 | |
生年月日 |
1868年8月9日 (慶応4年6月21日) |
出生地 |
![]() (現・岡山県岡山市東区瀬戸町大内) |
没年月日 | 1956年4月30日(87歳没) |
死没地 |
![]() (現・伊豆の国市長岡) |
出身校 | 陸軍大学校卒業 |
前職 | 陸軍軍人 |
所属政党 | 無所属 |
称号 |
![]() 正二位 勲一等旭日大綬章 功四級金鵄勲章 |
配偶者 |
宇垣鎮恵(先妻) 宇垣貞子(後妻) |
内閣 | 第1次近衛内閣 |
在任期間 | 1938年5月26日 - 1938年9月30日 |
| |
在任期間 | 1931年6月17日 - 1936年8月5日 |
| |
内閣 | 濱口内閣 |
在任期間 | 1929年7月2日 - 1931年4月14日 |
在任期間 | 1927年4月15日 - 1927年10月1日 |
内閣 |
清浦内閣 加藤高明内閣 第1次若槻内閣 |
在任期間 | 1924年1月7日 - 1927年4月20日 |
その他の職歴 | |
![]() (1923年10月10日 - 1924年1月7日) | |
![]() (1953年 - 1956年) |
経歴
生い立ち
慶応4年︵1868年︶備前国磐梨郡大内村︵現・岡山県岡山市東区瀬戸町大内︶の農家に5人兄弟の末子として生まれた。水呑百姓・宇垣杢右衛門の五男で、幼名は杢次︵もくじ︶[1]。後に海軍中将となる宇垣纏と同郷だが縁戚ではない。 若くして教員採用試験に合格、10代で小学校校長として働いた後に上京し、成城学校を経て陸軍に入った。軍曹に昇進した宇垣は陸軍士官学校に入学した。明治23年︵1890年︶7月26日に陸軍士官学校︵1期︶を150人中11位で卒業、明治24年︵1891年︶3月24日に陸軍歩兵少尉に任官した。明治29年︵1896年︶に一成と改名している。明治33年︵1900年︶に陸軍大学校︵14期︶を39人中3位で卒業し恩賜の軍刀を拝領した。尉官時代には薩摩出身の川上操六(明治32年に病死)の元で地位を上げ、岡市之助に付き昇進した(明治41年夏、岡の推薦で早稲田で﹁軍民一致﹂の講演)。尉官時代の宇垣は他人より出世が遅く成ったのは、岡市之助(大隈派)に付いて陸軍の山県派に干されたためである、処世術は天才的が巧みであった(昭和天皇独白録参照)。明治35年︵1902年︶から明治37年︵1904年︶にかけてドイツに留学した。この間に最初の妻の鎮恵が死亡している。明治39年︵1906年︶に再度ドイツに留学した。明治40年︵1907年︶に小原貞子と再婚。明治43年︵1910年︶に陸軍歩兵大佐に進級した。大正2年︵1913年︶、山本権兵衛内閣による陸海軍大臣現役制廃止(軍務大臣現役武官制は後に広田内閣で復活し、軍部の独走を許してしまった。)に反対する怪文書を配布し、陸軍省軍務局軍事課長の要職から名古屋の歩兵第6連隊長に左遷された。大正4年︵1915年︶に陸軍少将に進級、大正5年︵1916年︶に参謀本部第一部長、大正8年︵1919年︶に陸軍中将に進級、大正10年︵1921年︶3月11日に姫路の第10師団長、大正12年︵1923年︶には陸軍次官に就任した。陸軍大臣
大正13年︵1924年︶、清浦内閣の陸軍大臣に就任した。組閣の際、陸軍の長老・上原勇作元帥は福田雅太郎を推したが、田中は陸軍三長官会議の合意を説得材料としており、以後、陸軍三長官の推薦に基づき陸軍大臣人事を決定することが慣例となる。この慣例は、のちに宇垣が組閣する際に大きな壁として立ちはだかることとなった。 加藤高明内閣でも陸軍大臣に留任した。田中および政友会と距離をとるようになり、憲政会の方針で宇垣軍縮を実行した。大正14年︵1925年︶に加藤内閣において軍事予算の削減を目的とする軍縮を要求する世論の高まりを受けて、陸軍省経理局長の三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会を設けた。21個師団のうち高田の第13師団、豊橋の第15師団、岡山の第17師団、久留米の第18師団の計4師団、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校が廃止された。 軍縮は予算縮減を目的としていたが、実際には浮いた予算は装備の更新に回された。第一次世界大戦を経て近代化されていた諸外国の陸軍に比べ日本の装備は見劣りがしていた。戦車連隊と高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾での山砲兵連隊1個の新設、自動車学校と通信学校の開校、飛行機、戦車、軽機関銃、自動車牽引砲、野戦重砲の配備がおこなわれた。定員の縮小に伴い多くの将校が退役させられた。師団長4人、歩兵連隊長16人のポストがなくなったことも将校の反発を招いた。さらに中学校以上に余剰な将校を配置し、軍事教育を徹底させて国家総動員体制を構築しようとした。第1次若槻内閣でも引き続き留任し昭和2年︵1927年︶まで務めた。陸軍大将に進級。 昭和2年︵1927年︶に政友会政権下での陸相を辞退して朝鮮総督に就任。昭和4年︵1929年︶に濱口雄幸内閣で再び陸軍大臣に就任し再度軍縮を検討したが、自身の健康悪化と濱口首相遭難事件で実現しなかった[2]。 幕僚が首謀者となり宇垣ら陸軍首脳も関与していた三月事件が発覚した。クーデター後の首相就任が予定されていた宇垣は、陸軍内の政友会系派閥に漏れたため計画を断念した。昭和6年︵1931年︶に予備役となり、昭和11年︵1936年︶まで再び朝鮮総督を務めた。朝鮮総督時代に﹁内鮮融和﹂を掲げ、皇民化政策を行った。一方で農村振興と工鉱併進政策を推進したが実効性には乏しく、宇垣の次に朝鮮総督となった南次郎の統治時代には農村振興政策は受け継がれなかった。また金の産出を奨励したものの、朝鮮系資本が育っていなかったことと国家予算の中から朝鮮への莫大な持ち出しが続きその回収のため、ほとんどの利益が日本資本に流されたことから、朝鮮人にまで利益は行き渡らなかった。ただし大谷敬二郎によれば、朝鮮人の間で歴代総督のなかで﹁朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督﹂と宇垣が高く評価されていた[3]。組閣流産
昭和12年︵1937年︶に廣田内閣が総辞職した。おりしも、昭和6年︵1931年︶の満州事変、翌昭和7年︵1932年︶の五・一五事件、翌昭和8年︵1933年︶の国際連盟脱退、昭和11年︵1936年︶には二・二六事件など、軍部による策謀や日本の国際的孤立化、さらには陸軍皇道派などによるテロ事件の発生、新聞報道による政治批判と政党政治の腐敗による国民の政治家不信などにより政情が不安定化していた。そして、それをきっかけとして軍部の政治への干渉が著しくなり、危険な戦争への突入が懸念された。 元老・西園寺公望は加藤内閣の陸軍大臣であったときに内閣の方針によく協力し、軍縮に成功した宇垣の手腕を高く評価していた。また宇垣ならば軍部に抑えが利くとも判断していた[4]。西園寺の奏上を受け、昭和天皇は宇垣の首相使命を承知しなかった(昭和天皇独白録を参照)。﹁大物でありながら軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣﹂の首班登場は、世評も高かったのである。 しかし、石原莞爾歩兵大佐などの陸軍中堅層は軍部主導で政治を行うことを目論んでいた。宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、彼らは宇垣の組閣を阻止すべく動いた[注釈 1]。石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように﹁説得﹂する命令を寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。中島中将は宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川六郷橋で止めてそこに乗り込み寺内大臣からの命令であると言い、拝辞するようにと﹁説得﹂したが宇垣はこれを無視して大命を受けた。 しかし、石原は諦めず、軍部大臣現役武官制に目をつけて宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、﹁宇垣四天王﹂と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮く。宇垣は小磯に直接陸相就任を打診したが、﹁三長官会議で合意がとれればよい﹂﹁︵合意がとれないから直接頼んでいるのだと詰め寄った宇垣に︶三長官会議の合意がとれない状態で引き受けても、東京に向かう途中で﹃予備役編入﹄の通知を受け取って無駄骨になる﹂と言われている。 当時予備役陸軍大将だった宇垣自身が首相と陸相の兼任による内閣発足を模索し﹁自らの現役復帰と陸相兼任﹂を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、失敗した際の宮中への悪影響を恐れた湯浅らに拒絶されたため組閣を断念せざるを得ない状態へ追い込まれた[4]。石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣の組閣流産の後の政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるもので、石原は宇垣の力をもってすれば、この流れを変えることができたに違いないと考えたわけである。また西園寺もこの組閣失敗によって気力をなくし、天皇の下問と奉答を辞退したい意向を述べるほどであった[4]。 大正デモクラシーのさなかの第1次山本内閣において軍部大臣現役武官制を予備役に拡大したときに、もっとも強硬に反対し、陸軍首脳部を突き上げたのが当時陸軍省軍務局軍事課長だった宇垣であり、皮肉にも広田内閣の時に復活したその現役武官制により組閣断念に追い込まれた。予備役でも陸相になることが可能であれば、宇垣自身が陸相を兼任すれば宇垣内閣が発足できた。その後
宇垣外交
太平洋戦争期の宇垣擁立工作
同年9月に辞任し以後一線を退いた。昭和19年︵1944年︶に拓殖大学第5代学長に就任している。この間も、民間から重臣層に至る幅広い和平派グループからの信頼が厚い宇垣は、何度も首班候補に挙げられている。特に、吉田茂は昭和14年から18年にかけ、度々宇垣首班擁立工作を行なったが、陸軍や内大臣の湯浅倉平、木戸幸一らの反対で全て失敗に終わっている。なお、吉田はこのような活動が元で昭和20年4月に憲兵隊に逮捕されている。 昭和14年︵1939年︶、吉田は、平沼内閣総辞職が噂されると、岳父で元内大臣の牧野伸顕や貴族院議員の樺山愛輔、元時事新報社社長の小山完吾らを通じ宇垣擁立工作を行うが、昭和天皇や陸軍が阿部信行を推したこともあり、断念した。また、昭和15年︵1940年)秋には第2次近衛内閣の総辞職を勧告し、宇垣に対しても組閣工作を促す手紙を送っている。さらに、昭和17年︵1942年︶、吉田は、4月に宇垣と平沼騏一郎の会談、10月に宇垣と真崎甚三郎︵陸軍皇道派の領袖︶の会談を実現させ、12月には東大病院に入院中の近衞文麿への根回しを行い、宇垣に組閣を打診するが、このときは拘束の多い中での組閣は望まないとして宇垣が断っている。 宇垣擁立工作を行なったのは吉田だけではない。東條内閣打倒の急先鋒だった中野正剛らは、昭和18年︵1943年︶、宇垣が後継首班として倒閣運動を行い、重臣たちの了解も取り付けた。宇垣本人も中野の策を了承し、東條内閣打倒に賛意を示した。しかし中野たちのこの倒閣運動は東條英機に事前に弾圧され、ここでも宇垣内閣は誕生することはなく終わった。 軍部を抑えることのできる人材として期待を集めた宇垣だったが、陸軍大臣時代に大規模な宇垣軍縮を実施したこと、三月事件で実行直前に翻意したことで陸軍内に敵が多く、その影響力は低下しており、ついに首相となることはなかった。戦後の宇垣
昭和20年︵1945年︶、太平洋戦争終結の後、公職追放[8]。 東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政・若槻礼次郎・岡田啓介と並んで宇垣を﹁ファシズムに抵抗した平和主義者﹂と呼び賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。 昭和27年︵1952年︶に追放解除された。昭和28年︵1953年︶4月に行われた第3回参院選挙で全国区から立候補し、51万票を集めトップ当選した。当選圏は約15万票だったが、宇垣は最高点51万3765票を集めて当選した[9]。選挙運動中に倒れ、ほとんど議員活動はできなかった。山田風太郎によると﹁打ち合わせ中の火鉢の焚き過ぎによる一酸化炭素中毒﹂という[10]。昭和31年︵1956年︶に静岡県伊豆長岡町︵現在の伊豆の国市長岡︶の松籟荘で議員在職のまま死亡した。墓所は多磨霊園[11]。宇垣の87歳は、平成28年︵2016年︶現在、現職の参議院議員として最高齢タイ記録である[12]︵もう1人は市川房枝、こちらも議員在職のまま死亡︶。評価
上原勇作元帥を中心とする九州閥には﹁蝙蝠のような男﹂と揶揄された。田中義一の腹心として陸相に抜擢されたにもかかわらず、自身の派閥強化のため反長州閥的な行動︵予備役入りや陸大からの排除︶をとる。怪文書内で軍部大臣現役武官制に固執し政党政治を強く批判、三月事件に代表されるように軍部による国家支配を画策したにもかかわらず、西園寺により首班指名されるとそれら全てを否定した。三月事件でも態度を翻している。軍国主義を誰よりも推進させてきた張本人の変節は石原のみならず宇垣閥にも受け入れられるものではなかった。ファシズムに抵抗したのではなく、ファシズムに受け入れられなかったのである。 ﹁聞き置く﹂など曖昧な表現を多用し、外相在任中に起きた張鼓峰事件においては、あたかも出兵を容認したかのように受け取られた。宇垣は昭和天皇に対しては明確に反対論を上奏していたため天皇は不信感を持ったとされ、﹃昭和天皇独白録﹄では﹁この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ﹂と酷評されていた。昭和天皇は三月事件の遠因も宇垣の言い回しが原因ではないかと考えていた。 自他ともに認める首相候補であり、内閣流産後も幾度となく候補として名前が挙がったが、結局首相になれず候補のままで他界したことから﹁政界の惑星﹂と呼ばれるようになった。惑星は太陽︵=首相︶のまわりを回り続けるが、自ら太陽︵=首相︶にはなれないとの意味である。議会主義を尊重していたことなどから大物軍人としては珍しく政党政治家グループにも人気があり、戦前は民政党総裁に、戦後直後には日本進歩党総裁に推されたことがあったが、これらも実現をみることはなかった。逸話
宇垣は、田舎者らしく無頓着な平民的容貌だったが、人一倍功名心に燃えているところもあった[1]。 田中の援助で陸相になれたにもかかわらず、﹁余に対する内外の期待はかなり大である﹂、﹁帝国の運命盛衰は吾一人にある﹂と日記に書くほど自意識過剰であった。 公刊された﹃宇垣一成日記﹄(正式名は﹃一如庵随想録﹄)には﹁!﹂が2000回以上、﹁!!﹂が1000回以上用いられているという[13]。宇垣閥
長州閥の領袖である田中義一の元で権力を蓄えた宇垣は、田中派を引き継ぐ形で陸軍内の一大派閥を形成し、1920年代の陸軍の主要ポストを独占した。宇垣派と目された陸軍中央幕僚としては、以下の人物が挙げられる。 ●金谷範三︵陸士5期、参謀総長︶ ●畑英太郎︵陸士7期、陸軍次官︶ ●南次郎︵陸士6期、陸軍大臣、朝鮮総督︶ ●阿部信行︵陸士9期、首相、陸軍大臣、朝鮮総督︶ ●二宮治重︵陸士12期、文部大臣、参謀次長︶ ●杉山元︵陸士12期、元帥、陸軍大臣、参謀総長、教育総監︶ ●小磯國昭︵陸士12期、首相、陸軍次官、朝鮮総督︶ ●建川美次︵陸士13期、参謀本部第一部長︶ また、同期の鈴木荘六︵参謀総長︶、白川義則︵陸軍大臣︶も宇垣に協力的であった。 彼らはいずれも長州出身者ではなく、菅野尚一、松木直亮といった長州出身者は有力ポストについていない。このような長州閥から宇垣閥への改造は、田中の後継者と目された津野一輔の死後本格化したとされる。[14] 1920年代中盤からは、永田鉄山ら一夕会のメンバーを中心とする中堅幕僚からの過激な突き上げの抑制に苦心する。一夕会メンバーは長州閥の流れを汲む宇垣閥による陸軍の支配をよく思っておらず、会員で課長クラスの要職を独占することで、徐々に権力を奪っていく。1931年の犬養内閣の組閣時には、宇垣の推す阿部信行が陸相になる手筈であったが、永田から政友会の有力者小川平吉へ、鈴木貞一から森恪への工作が功を奏し、荒木貞夫︵陸士9期︶を陸軍大臣に就くこととなる。田中・宇垣閥と対立していた上原閥の流れを汲む佐賀閥系に属する荒木は、参謀総長に閑院宮載仁親王、参謀次長に真崎甚三郎を据えたほか、小畑敏四郎作戦課長、山岡重厚軍務局長、山下奉文軍事課長など起用するなど、陸軍中央の要職から宇垣閥を一気に排除し、陸軍内部の勢力図を大きく書き換えることとなる。 1936年の二・二六事件後には、皇道派の粛清の巻き添え食らう形で、南、阿部、建川が予備役に編入されるなど、さらに勢力を弱めることとなった。 [15]首相候補
●第37代首相・阿部信行内閣‥近衛文麿、西園寺公望が宇垣を推薦 ●第41代首相・東条英機内閣‥若槻禮次郎、岡田啓介、清浦奎吾が宇垣を推薦 ●第42代首相・小磯国昭内閣‥若槻禮次郎が宇垣を推薦栄典
位階 ●1892年︵明治25年︶2月3日 - 正八位[16] ●1898年︵明治31年︶12月22日 - 正七位[17] ●1915年︵大正4年︶9月10日 - 正五位[18] ●1919年︵大正8年︶9月10日 - 従四位[19] ●1924年︵大正13年︶1月10日 - 従三位[20][21] ●1927年︵昭和2年︶1月15日 - 正三位[20][22] ●1930年︵昭和5年︶1月17日 - 従二位[20] ●1938年︵昭和13年︶5月27日 - 正二位[23] 勲章等 ●1895年︵明治28年︶11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[24] ●1902年︵明治35年︶11月29日 - 勲五等瑞宝章[25] ●1906年︵明治39年︶4月1日 - 功四級金鵄勲章 ●1915年︵大正4年︶11月7日 - 旭日中綬章・大正三四年従軍記章[26] ●1918年︵大正7年︶9月29日 - 勲二等瑞宝章[27] ●1920年︵大正9年︶11月1日 - 旭日重光章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[28] ●1921年︵大正10年︶7月1日 - 第一回国勢調査記念章[29] ●1924年︵大正13年︶2月23日 - 勲一等瑞宝章[20] ●1927年︵昭和2年︶4月19日 - 勲一等旭日大綬章[20][30] ●1930年︵昭和5年︶12月5日 - 帝都復興記念章[31] ●1931年︵昭和6年︶ - 前官礼遇[32] ●1936年︵昭和11年︶ - 前官礼遇[33] ●同年 - 前官礼遇[34] 外国勲章佩用允許 ●レジオンドヌール勲章・グラントフィシエ︵フランス︶ ●暹羅国レレファンブラン勲章・グランクロア︵タイ王国・勲一等白象勲章︶ ●満洲国建国功労章 ●大典紀念章著書
●﹃青年訓練﹄松江市、1929年。全国書誌番号:44027931。 ●﹃時局談片﹄[出版社不明]、1932年6月。 NCID BA35112795。 ●﹃朝鮮最近の面影﹄朝鮮総督府、1933年。 NCID BA40212664。 ●﹃宇垣総督口演要旨﹄朝鮮総督府、1934年1月。 NCID BB21320532。 ●﹃朝鮮の将来 宇垣総督の演述﹄朝鮮総督府、1934年9月。 NCID BN12456312。全国書誌番号:21357187。 ●﹃伸び行く朝鮮 宇垣総督講演集﹄宇垣一成、1935年1月。 NCID BA31517955。全国書誌番号:73016426。 ●橋本文吉編 編﹃朝鮮を語る﹄実業之日本社、1935年10月。 NCID BA43872488。全国書誌番号:47009672。 ●永島広紀編 編﹁朝鮮を語る﹂﹃植民地帝国人物叢書﹄ 21巻、ゆまに書房︿朝鮮編2﹀、2010年5月。ISBN 9784843333853。 NCID BB02397846。全国書誌番号:21784558。 ●﹃身辺雑話﹄今日の問題社、1938年7月。 NCID BN05510509。全国書誌番号:46059496。 ●﹃身辺雑話﹄︵普及版︶今日の問題社、1939年1月。 NCID BA51933861。全国書誌番号:44055848。 ●鄭大均編 編﹁朝鮮を憶う﹂﹃日韓併合期ベストエッセイ集﹄筑摩書房︿ちくま文庫 て-14-1﹀、2015年7月。ISBN 9784480432827。 NCID BB1909272X。全国書誌番号:22641710。共著
●宇垣一成述、鎌田沢一郎著﹃松籟清談﹄文芸春秋新社、1951年2月。 NCID BN04493903。全国書誌番号:51000105。日記
朝日新聞社
●﹃宇垣日記﹄朝日新聞社、1954年8月。 NCID BN07686040。全国書誌番号:54010222。みすず書房
●﹃宇垣一成日記﹄ 1︵明治35年9月-昭和6年6月︶、角田順校訂、みすず書房、1968年3月。ISBN 9784622017202。 NCID BN01776559。全国書誌番号:49005593。 ●﹃宇垣一成日記﹄ 2︵昭和6年6月-昭和14年2月︶、角田順校訂、みすず書房、1970年10月。ISBN 9784622017219。 NCID BN01776559。全国書誌番号:73002628。 ●﹃宇垣一成日記﹄ 3︵昭和14年3月-昭和24年7月︶、角田順校訂、みすず書房、1971年1月。ISBN 9784622017288。 NCID BN01776559。全国書誌番号:73002629。 ●﹃宇垣一成日記﹄ 1︵明治35年9月-昭和6年6月︶、角田順校訂︵オンデマンド版︶、みすず書房、2010年8月。ISBN 9784622062110。 NCID BB06384631。全国書誌番号:22312068。 ●﹃宇垣一成日記﹄ 2︵昭和6年6月-昭和14年2月︶、角田順校訂︵オンデマンド版︶、みすず書房、2010年8月。ISBN 9784622062127。 NCID BB06384631。全国書誌番号:22312069。 ●﹃宇垣一成日記﹄ 3︵昭和14年3月-昭和24年7月︶、角田順校訂︵オンデマンド版︶、みすず書房、2010年8月。ISBN 9784622062134。 NCID BB06384631。全国書誌番号:22312070。脚注
注釈
(一)^ 宇垣自身、﹁﹁あいつが出てきたら、我々がわがままが出来ぬ﹂といふことに尽きるだろう﹂と書き残している。(﹃宇垣一成日記﹄2) (二)^ なお、大杉自身はこのように宇垣外交を高く評価するがゆえに、外相を投げ出したことを﹁無責任﹂と厳しく批判するとともに、真意のはっきりしない突然の外相辞任を昭和史の謎の一つとしている。出典
参考文献
- 『宇垣一成日記』(全3巻、角田順・校訂 みすず書房 1968年 - 1971年)オンデマンド版2010年
- 『秘録宇垣一成』(額田坦・著 芙蓉書房 1973年)
- 『宇垣一成』(井上清・著 朝日新聞社 1975年)
- 『宇垣一成 悲運の将軍』(棟田博・著 光人社 1979年)
- 『陸軍に裏切られた陸軍大将 宇垣一成伝』(額田坦・著 芙蓉書房 1986年)
- 『宇垣一成―政軍関係の確執』(渡辺行男・著 中公新書 1993年)
- 『宇垣一成とその時代―大正・昭和前期の軍部・政党・官僚』(堀真清・編著 新評論 1999年)
- 『岡山人じゃが2 <ばらずし>的県民の底力』(岡山ペンクラブ・編 吉備人出版 2005年)
関連項目
- 岡山県出身の人物一覧
- 陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)
- 陸軍大学校卒業生一覧
- 成城学校
- 将官・佐官出身の国会議員の一覧
- 宇垣美里 - 宇垣一成の大甥の孫娘
外部リンク
公職 | ||
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先代 大谷尊由 |
![]() 第12代:1938 |
次代 近衛文麿 |
先代 廣田弘毅 |
![]() 第56代:1938 |
次代 近衛文麿 |
先代 斎藤実 斎藤実 |
![]() 臨時代理:1927 - 1927 第6代:1931 - 1936 |
次代 山梨半造 南次郎 |
先代 田中義一 白川義則 |
![]() 第19代:1923 - 1927 第21代:1929 - 1931 |
次代 白川義則 南次郎 |
先代 白川義則 |
![]() 第14代:1923 - 1924 |
次代 津野一輔 |
軍職 | ||
先代 児島惣次郎 |
![]() 第9代:1922 - 1923 |
次代 津野一輔 |
先代 金久保万吉 |
![]() 第9代:1921 - 1922 |
次代 神頭勝弥 |
先代 浄法寺五郎 |
![]() 第20代:1919 - 1921 |
次代 星野庄三郎 |
先代 菊池慎之助 |
![]() 1918 - 1919 |
次代 中島正武 |
先代 尾野実信 |
![]() 1916 - 1919 |
次代 武藤信義 |
先代 山田隆一 |
![]() 1911 - 1913 |
次代 鈴木朝資 |
名誉職 | ||
先代 西田天香 |
最年長参議院議員 1953年5月 - 1956年4月 |
次代 石坂豊一 |