浦河郡
浦河郡︵うらかわぐん︶は、北海道︵日高国︶日高振興局の郡である。
人口11,302人、面積694.3km²、人口密度16.3人/km²。︵2024年4月30日、住民基本台帳人口︶
以下の1町を含む。
●浦河町︵うらかわちょう)
郡域[編集]
1879年︵明治12年︶に行政区画として発足して以来、郡域は上記1町のまま変更されていない。歴史[編集]
郡発足までの沿革[編集]
室町時代以降、主に東北地方の商人が交易を行っていたと考えられている。 江戸時代に入ると、松前藩の商場知行制および場所請負制による浦川場所︵会所︶が荻伏地区に開かれている。浦川の名はこの時、今の元浦川︵アイヌ語でウララペッ=霧深い川の意味︶にちなんで名付けられた。陸上交通は、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る道︵浦河以西は国道235号の、浦河以東は国道336号の前身︶が通じていた。1669年︵寛文9年︶松前藩の将、佐藤権左衛門が、現在の浦河神社社務所付近に小祠を建立、金刀比羅宮の御分霊を奉斎。1700年︵元禄13年︶松前藩が幕府に呈上した元禄御国絵図には﹁浦川﹂と記載されている。 江戸時代後期、浦河郡域は東蝦夷地に属していた。国防のため1799年︵寛政11年︶浦河郡域は天領とされ浦川場所も今の浦河市街に移される。享和元年8月15日浦河場所請負人佐野嘉右衛門が稲荷大明神を祀る小祠を建立。文化4年南部藩家臣一戸政尹が厳島神社の御分霊︵天女宮︶を祀る小祠を建立。文政4年に浦河郡域は一旦松前藩領に復した。1842年︵天保13年︶には漁場支配人近江屋周介が、三つの祠を合祀し浦河神社の前身の稲荷神社となる︵昭和6年、浦河神社に改称︶。安政2年浦河郡域は再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。1858年︵安政5年︶幕府牧場掛、新家鉄作により、元浦川東岸に馬牧が開設される。戊辰戦争︵箱館戦争︶終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して浦河郡︵20村︶が置かれた︵この時、浦川から浦河となった︶。郡発足以降の沿革[編集]
明治9年の大区小区
- 第23大区
- 1小区 : 浦河村、向別村、茅実村、宜保村、鱗別村、蹈牛村、後鞆村
- 2小区 : 問民村、透消村、開深村、居壁村、姉茶村、野深村、荻伏村
- 3小区 :塘沸村、西舎村、杵臼村、可礼村、富菜村、原遠村
- 第23大区
●明治12年︵1879年︶7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての浦河郡が発足。
●明治13年︵1880年︶3月 - 浦河郡外十郡役所︵浦河三石様似幌泉広尾当縁十勝中川河西河東上川郡役所︶の管轄となる。
●明治15年︵1882年︶- 浦河村から井寒台村と後邊戸村が分離して独立。また下記の村をそれぞれ編入および合併。
・茅実村、宜保村、鱗別村→浦河村
・蹈牛村→後鞆村
・問民村→荻伏村
・透消村→姉茶村
・開深村→後邊戸村
・居壁村→野深村
・塘沸村︵一部︶、原遠村︵一部︶→幌別村
・可礼村、塘沸村︵一部︶→西舎村
・富菜村、原遠村︵一部︶→杵臼村
●明治15年︵1882年︶2月8日 - 廃使置県により札幌県の管轄となる。浦河村︵戸長役場所在地︶、向別村、井寒台村、後邊戸村、荻伏村、姉茶村、野深村、幌別村、西舎村、杵臼村、後鞆村の11村が存在した。
●明治19年︵1886年︶1月26日 - 廃県置庁により北海道庁札幌本庁の管轄となる。
●明治20年︵1888年︶6月 - 浦河郡外六郡役所︵浦河三石様似幌泉沙流新冠静内郡役所︶の管轄となる。
●明治30年︵ 1897年︶11月5日 - 郡役所が廃止され、浦河支庁の管轄となる。
●明治35年︵1902年︶4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、以下の町村が発足。︵1町3村︶
●浦河町︵二級村︶ ← 浦河村、後鞆村、向別村、井寒台村︵現存︶
●西舎村︵二級村︶ ← 西舎村、幌別村﹇一部﹈︵現・浦河町︶
●杵臼村︵二級村︶ ← 杵臼村、幌別村﹇一部﹈︵現・浦河町︶
●荻伏村︵二級村︶ ← 荻伏村、姉茶村、野深村、後邊戸村︵現・浦河町︶
●大正4年︵1915年︶4月1日 - 浦河町・西舎村・杵臼村が合併し、改めて浦河町︵一級町︶が発足。︵1町1村︶
●昭和7年︵1932年︶8月15日 - 浦河支庁が改称して日高支庁となる。
●昭和18年︵1943年︶6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
●昭和21年︵1946年︶10月5日 - 指定町村を廃止。
●昭和22年︵1947年︶5月3日 - 地方自治法の施行により北海道日高支庁の管轄となる。
●昭和31年︵1956年︶9月30日 - 荻伏村が浦河町に編入。︵1町︶
●平成22年︵2010年︶4月1日 - 日高支庁が廃止され、日高振興局の管轄となる。