杵屋喜三郎
杵屋 喜三郎︵きねや きさぶろう︶は、長唄の三味線方、唄方の名跡。
近世初期以来のもので、杵屋六左衛門と並んで長唄宗家の名で、双方をともに代数に数える。喜三郎は六左衛門、杵屋勘五郎の前名であることが多い。元禄15年︵1702年︶の江戸劇場番付に名は見えるが、6代までは不明の点が多い。
1953年の杵屋家家族写真。
前列左から‥14代目杵屋六左衛門、喜三郎の息子 宏幸、六左衛門夫人 田鶴
中列左から‥15代目杵屋喜三郎、6代目杵屋勘五郎
後列左から‥六左衛門の娘 千恵子、喜三郎夫人 伸枝、六左衛門の娘 定子
︵1923年11月21日 - 2023年5月25日︶[1]
京都生まれ。14代目六左衛門の長男、本名・杵家安廣︵きねや やすひろ︶[1]。永田町小学校︵現・千代田区立麹町小学校︶[2]、東京美術学校 (旧制) を卒業。父および山田抄太郎、3代目杵屋六四郎に師事。1930年杵屋吉之丞、1942年喜三郎を襲名[1]。1997年人間国宝、1999年日本芸術院賞受賞。2006年4月旭日小綬章受章[3]。長唄協会名誉会長。妹が15代六左衛門を襲名しているため、代数に混乱がある。
弟に2代目寒玉︵前名‥六世 杵屋勘五郎︶がいる。
2023年5月25日22時3分、肺炎のため東京都内の病院で死去。99歳没[1][4]。
初代[編集]
後の2代目杵屋勘五郎。2代目[編集]
後の4代目杵屋六左衛門。3代目[編集]
4代目[編集]
後の6代目杵屋六左衛門。5代目[編集]
︵慶安2年?︵1649年︶ - 正徳5年?5月12日︵1715年6月13日?︶︶ 2代目杵屋勘五郎の次男。兄に4代目杵屋六左衛門。作曲に﹁酒呑童子﹂﹁槍踊﹂がある。6代目[編集]
︵生年不詳 - 享保15年︵1730年2月19日︶︶ 後年に6代目杵屋六左衛門を襲名したようだが確証する史料は存在しない。﹁泰平の綱引﹂を作曲。7代目[編集]
︵生年不詳 - 宝暦2年︵1752年2月25日︶︶ 6代目の実子。娘・お岸が2代目中村仲蔵の妻。杵屋太十郎が襲名。作曲に﹁傾城道成寺﹂﹁相生獅子﹂がある。8代目[編集]
︵生年不詳 - 天明7年︵1787年9月20日︶︶ 7代目の実子。初代杵屋三郎助が1768年に8代目喜三郎を襲名。養子の万吉が9代目杵屋六左衛門。作曲に﹁種蒔三番叟﹂。9代目[編集]
12代目杵屋六左衛門の前名。10代目[編集]
︵生年不詳 - 嘉永3年︵1850年7月30日︶︶ 12代目杵屋六左衛門の養子。初名を田中佐太郎。1839年から中村座に出ている。1844年に10代目喜三郎を襲名。夭折したという。11代目[編集]
5代目杵屋勘五郎の前名。12代目[編集]
13代目杵屋六左衛門の前名。13代目[編集]
後の杵屋俊二。14代目[編集]
14代目杵屋六左衛門の前名。15代目[編集]
脚注[編集]
(一)^ abcd“長唄唄方の人間国宝、杵屋喜三郎氏死去 99歳”. サンケイスポーツ. 産経デジタル. (2023年6月2日) 2023年6月3日閲覧。
(二)^ ﹁文芸春秋﹂1994年3月特別号、p.72、﹁同級生交歓﹂より。歌舞伎役者の市村鶴蔵とは同級で友人であった。
(三)^ “平成18年春の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都” (PDF). 内閣府. p. 1 (2006年4月29日). 2006年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月24日閲覧。
(四)^ ﹁杵屋喜三郎さん死去 長唄唄方の人間国宝﹂﹃時事ドットコムニュース﹄、2023年6月3日。2023年6月4日閲覧。