加賀乙彦
加賀 乙彦 (かが おとひこ) | |
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文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
誕生 |
小木 貞孝(こぎ さだたか) 1929年4月22日 東京府東京市 |
死没 | 2023年1月12日(93歳没) |
職業 |
小説家 医学者 精神科医 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 |
医学博士 (東京大学・1960年) |
最終学歴 | 東京大学医学部卒業 |
活動期間 | 1967年 - |
ジャンル | 小説 |
代表作 |
『フランドルの冬』 (1967年) 『帰らざる夏』(1973年) 『宣告』(1979年) 『錨のない船』(1982年) 『湿原』(1985年) 『永遠の都』(1997年) |
主な受賞歴 |
芸術選奨新人賞(1968年) 谷崎潤一郎賞(1973年) 日本文学大賞(1979年) 大佛次郎賞(1986年) 芸術選奨(1998年) 日本芸術院賞(1999年) 旭日中綬章(2005年) 毎日出版文化賞(2012年) 歴史時代作家クラブ賞(2016年) |
デビュー作 | 『フランドルの冬』 (1967年) |
子供 | 加賀真帆(娘) |
親族 |
野上八十八(祖父) 小木孝次(父) |
公式サイト | 加賀乙彦オフィシャルブログ |
ウィキポータル 文学 |
加賀 乙彦︵かが おとひこ、男性、1929年4月22日 - 2023年1月12日︶は、日本の小説家、医学者︵犯罪心理学︶、精神科医。勲等は旭日中綬章。学位は医学博士︵東京大学・1960年︶。日本芸術院会員、文化功労者。本名は小木 貞孝︵こぎ さだたか︶。本名でも著作がある。
東京大学医学部助手、東京大学医学部脳研究所助手、東京拘置所医務部技官、パリ大学サンタンヌ病院医師、北仏サンヴナン病院医師、東京大学医学部附属病院精神科助手、東京医科歯科大学医学部助教授、上智大学文学部教授などを歴任した。
東大医学部卒。フランス留学の後、﹃帰らざる夏﹄(1973年)で谷崎潤一郎賞を受賞。ほかに﹃フランドルの冬﹄(1967年)、﹃宣告﹄(1979年)、﹃湿原﹄(1985年)、﹃炎都﹄(1996年)など。精神科医としての研究も踏まえて、生の問題について描き続けた。
2017年8月24日、東京都にて
1964年、立原正秋主催の同人誌﹃犀﹄に参加し、高井有一、岡松和夫、白川正芳、佐江衆一、金子昌夫、後藤明生らと知り合う[1]。また、辻邦生を通じて、同人誌﹃文芸首都﹄にも参加[1]。この頃、久里浜特別少年院で犯罪心理学者として非行少年の調査を行う[2]。
1968年、長編﹃フランドルの冬﹄の第一章を太宰治賞に応募し、候補作として﹃展望﹄に掲載されるが、その後全体を刊行、芸術選奨新人賞を受賞。1968年には、短編﹁くさびら譚﹂で第59回芥川賞候補にもなる。5年後の1973年に、﹃帰らざる夏﹄で谷崎潤一郎賞を受賞、同年活躍した小川国夫、辻邦生とともに﹁73年三羽ガラス﹂と呼ばれたが、江藤淳がかれらを﹁フォニイ﹂︵贋物。﹁内に燃えさかる真の火を持たぬままに文を書き詩を作る人間[3]﹂︶と批判したため、江藤と平岡篤頼の﹁フォニイ論争﹂を引き起こした。
1979年から文筆に専念。同年に﹃宣告﹄で日本文学大賞受賞。1986年に﹃湿原﹄で大佛次郎賞受賞。1987年のクリスマス︵58歳︶に妻とともにカトリックの洗礼を受ける。︵代父母は交流があった遠藤周作夫妻[4][5]。︶1998年に﹃永遠の都﹄で第48回芸術選奨文部大臣賞受賞。
2000年、日本芸術院会員。2005年、旭日中綬章受章[6]。2011年、文化功労者[7]。2012年、﹃雲の都﹄︵全5巻完結︶により毎日出版文化賞特別賞を受賞。2021年、宮中歌会始の召人。
2023年1月12日、老衰のため死去[8]。93歳没。叙従四位[9]。
来歴[編集]
生い立ち[編集]
1929年、東京府東京市芝区三田に生まれ、東京市淀橋区西大久保︵現・東京都新宿区歌舞伎町︶に育つ。母方の祖父は医師・発明家の野上八十八[1]。父の小木孝次は安田生命のエリート社員で、のち、取締役[1]。 大久保小学校5~6年の頃、新潮社の世界文学全集を耽読したことが、後年長篇作家になる素地を培ったという。1942年4月、東京府立第六中学校入学。1943年4月、100倍の倍率を突破して名古屋陸軍幼年学校に入学するも、在学中に敗戦を迎えたため軍人への道が絶たれ、1945年9月、東京府立第六中学校に復学。同年11月、旧制都立高等学校理科に編入学。1949年3月、旧制都立高校理科卒業。同年4月、東京大学医学部入学。1953年3月、東京大学医学部卒業。医学者として[編集]
東大精神科、同脳研究所、東京拘置所医務部技官を経た後に、1957年よりフランス留学を果たす。フランスに向かう船中で私費留学生の辻邦生と知り合う[1]。 パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、1960年に帰国。同年医学博士号取得︵学位論文﹁日本に於ける死刑ならびに無期刑受刑者の犯罪学的精神病理学的研究﹂︶。東京大学附属病院精神科助手を経て、1965年、東京医科歯科大学犯罪心理学研究室助教授。1969年から1979年まで上智大学文学部教授。小説家として[編集]
TV出演[編集]
●﹃こころの時代﹄﹁作家・加賀乙彦 信ずることの恵み﹂︵2003年11月2日放送NHK、2023年6月4日アーカイブ放送Eテレ、2023年6月10日アーカイブ再放送Eテレ︶[10]番組の中で﹁K神父に自分の疑問を全て問答し、3日目に質問が無くなっちゃった。幾ら考えても質問が出て来ない。みんな解けちゃった。と語っていた︵﹁カトリックの洗礼を昭和62年12月24日クリスマスイブ、加賀さんは妻と共に洗礼を受けます﹂とNHKアナウンサーのナレーション︶ ●﹃あの人の戦争体験﹄﹁あの日 昭和20年の記憶:自宅の前が進駐軍の便所になった 昭和20年10月10日の出来事と新聞記事。加賀乙彦さんの証言。安西冬衛の日記﹂︵2005年10月10日放送、NHK︶人物・主張[編集]
●室生犀星とは7親等の血縁。娘はQVCジャパンショッピングナビゲーターの加賀真帆。 ●労働衛生学者の小木和孝は実弟で東京大学医学部の後輩でもある。 ●自宅は東京都文京区本郷にある。 ●長野県軽井沢町に別荘を所有しており、﹁僕は執筆に行き詰まると、必ずここに来るんです。すると、不思議なことにとたんに書けるようになる﹂といい、同地で執筆に励んだほか、同じく軽井沢にいた学者や作家仲間の鈴木道彦、原卓也、加藤周一、小島信夫、中村真一郎、遠藤周作、北杜夫、矢代静一らと交流するなどした[11][12]。1998年より、軽井沢高原文庫の館長を務める[11]。 ●アイスアスケートが長年の趣味で、フィギュアを習っていたこともあった[12]。本郷の自宅にいる時は午前中、執筆前に滑るのを日課としており[13]、別荘のある軽井沢ではプリンスホテルのスケートセンターを愛用していた。フィギュアスケートを題材にした﹁スケーターワルツ﹂という小説もある。 ●オウム真理教事件において、弁護士に依頼され麻原彰晃に接見し、訴訟能力はなく治療すべきであると結論づけた[14][15]。 ●死刑囚の苦しみを描いた﹃宣告﹄が代表作で、死刑廃止論者と見られている。 ●80代になっても都内の精神科病院へ月2回は出向き、50人ほどの患者を診察していた[16]。 ●58歳で親友遠藤周作を代父としてカトリックの洗礼を受けたクリスチャンである[17]。小説かノンフィクションか[編集]
1982年発表の﹃錨のない船﹄は太平洋戦争中の外交官来栖三郎とその一家をモチーフにした小説だが、作中でその息子が大日本帝国陸軍の戦闘機操縦者となり、戦闘中被弾し脱出降下したところ、日米ハーフだったためにアメリカ兵と誤認され、民衆に竹槍で惨殺されたこととなっている。 実際にも来栖三郎の子息来栖良陸軍航技大尉︵死後少佐に昇進︶は日米ハーフであり、テストパイロットとして多摩飛行場に所在の陸軍航空審査部に所属していたが、死亡の状況は小説とは異なり、空襲迎撃の為に出撃準備中にプロペラに巻き込まれる事故によって即死している︵戦死扱い︶。 来栖夫妻は、息子が小説に描かれたような﹁アメリカ人と誤認され殺される﹂といった死に方をすることを何より恐れていたとされる。当初は小説の登場人物は名前が変えてあったが︵来栖三郎→来島平三郎、来栖良→来島健︶、再版時に実名に変更された為、実際に来栖大尉が誤認惨殺されたとの誤った認識が流布されることとなった。 来栖大尉の戦死時の状況については航空史家渡辺洋二が詳細な聞き取り調査を行い、実際には事故死であることは確定している。死因の捏造とも言える加賀の記述と実名への変更については、当時の戦友などが抗議を行い、渡辺も加賀に質問状を送付しているが、加賀からの回答は無く、現在も同書は実名記述のまま書店に並んでいる。受賞・栄典[編集]
●1968年﹃フランドルの冬﹄ 芸術選奨文部大臣新人賞 ●1973年﹃帰らざる夏﹄ 第9回谷崎潤一郎賞 ●1979年﹃宣告﹄ 第11回日本文学大賞 ●1986年﹃湿原﹄ 第13回大佛次郎賞 ●1998年﹃永遠の都﹄ 第48回芸術選奨文部大臣賞 ●1999年 ﹃高山右近﹄ 日本芸術院賞、第4回井原西鶴賞 ●2000年 日本芸術院会員 ●2005年 旭日中綬章 ●2007年 文京区区民栄誉賞 ●2011年 文化功労者、文京区名誉区民 ●2012年﹃雲の都﹄ 第66回毎日出版文化賞・企画特別賞 ●2016年 第5回歴史時代作家クラブ賞・特別功労賞役職[編集]
●日本文藝家協会 理事︵1986年 - ︶ ●日本ペンクラブ 理事︵1988年 - ︶、副会長︵1997年 - 2003年[1]︶、顧問 ●軽井沢高原文庫 館長︵1998年 - ︶ ●森鴎外記念館 名誉館長 ●周作クラブ 会長著書︵加賀名義︶[編集]
単著[編集]
●﹃フランドルの冬﹄︵筑摩書房 1967年、のち新潮文庫、角川文庫︶ ●﹃風と死者﹄︵筑摩書房 1969年、のち角川文庫︶ ●﹃文学と狂気﹄︵筑摩書房 1971年︶ ●﹃荒地を旅する者たち﹄︵新潮社 1971年︶ ●﹃夢見草﹄︵筑摩書房 1972年、のち角川文庫︶ ●﹃帰らざる夏﹄︵講談社 1973年、のち講談社文庫、文芸文庫︶ ●﹃ドストエフスキイ﹄︵中公新書 1973年︶ ●﹃虚妄としての戦後﹄︵筑摩書房 1974年︶ ●﹃異郷﹄︵集英社 1974年、のち集英社文庫︶ ●﹃現代若者気質﹄︵講談社現代新書 1974年︶ ●﹃死刑囚と無期囚の心理﹄︵小木貞孝名義 金剛出版 1974年︶ ●﹃あの笑いこけた日々﹄︵角川書店 1975年︶ ●﹃春秋二題﹄︵沖積舎 1975年︶ ●﹃黄色い毛糸玉﹄︵角川書店 1976年︶ ●﹃頭医者事始﹄︵毎日新聞社 1976年、のち講談社文庫︶ ●﹃日本の長篇小説﹄︵筑摩書房 1976年 ﹁日本の10大小説﹂ちくま学芸文庫︶ ●﹃仮構としての現代﹄︵講談社 1978年︶ ●﹃宣告﹄︵新潮社 1979年、のち新潮文庫︶ ●﹃私の宝箱﹄︵集英社 1979年︶ ●﹃死刑囚の記録﹄︵中公新書 1980年︶ ●﹃頭医者青春記﹄︵毎日新聞社 1980年、のち講談社文庫︶ ●﹃見れば見るほど…﹄︵日本経済新聞社 1980年、のち中公文庫︶ ●﹃イリエの園にて﹄︵集英社 1980年︶ ●﹃犯罪﹄︵河出書房新社 1980年、のち河出文庫︶ ●﹃生きるための幸福論﹄︵講談社現代新書 1980年︶ ●﹃犯罪ノート﹄︵エッセイ集 潮出版社 1981年、のち文庫︶ ●﹃作家の生活﹄︵エッセイ集 潮出版社 1982年︶ ●﹃戦争ノート﹄︵エッセイ集 潮出版社 1982年︶ ●﹃錨のない船﹄︵講談社 1982年、のち文芸文庫︶ ●﹃頭医者留学記﹄︵毎日新聞社 1983 のち講談社文庫︶ ●﹃加賀乙彦短篇小説全集﹄︵全5巻 潮出版社 1984年 - 1985年︶ ●﹃読書ノート﹄︵エッセイ集 潮出版社 1984年︶ ●﹃残花﹄︵潮出版社、1984年︶ ●﹃くさびら譚﹄︵成瀬書房 1984年︶ ●﹃湿原﹄︵朝日新聞社 1985年、のち新潮文庫︶ ●﹃フランスの妄想研究﹄︵小木貞孝名義 金剛出版 1985年︶ ●﹃スケーターワルツ﹄︵筑摩書房 1987年、のちちくま文庫︶ ●﹃キリスト教への道﹄︵みくに書房 1988年︶ ●﹁永遠の都﹂ ●﹃岐路﹄︵新潮社 1988年 ﹁永遠の都﹂新潮文庫︶ ●﹃小暗い森﹄︵新潮社 1991年 ﹁永遠の都﹂新潮文庫︶ ●﹃炎都﹄︵新潮社 1996年 ﹁永遠の都﹂文庫︶ ︵﹁永遠の都﹂1-7 新潮文庫は、﹁岐路﹂﹁小暗い森﹂﹁炎都﹂をつなげて改題したもの) ●﹃母なる大地﹄︵潮出版社 1989年︶ ●﹃ゼロ番区の囚人﹄︵ちくま文庫 1989年︶ ●﹃ヴィーナスのえくぼ﹄︵中央公論社 1989年 のち中公文庫︶ ●﹃ある死刑囚との対話﹄︵弘文堂 1990年︶ ●﹃加賀乙彦評論集﹄︵上下巻 阿部出版 1990年︶ ●﹃海霧﹄︵潮出版社 1990年 新潮文庫︶ ●﹃生きている心臓﹄︵講談社 1991年 文庫︶ ●﹃脳死・尊厳死・人権﹄︵潮出版社 1991年︶ ●﹃悠久の大河 中国紀行﹄︵潮出版社 1991年︶ ●﹃私の好きな長編小説﹄︵新潮選書 1993年︶ ●﹃日本人と宗教﹄︵対談集 潮出版社 1996年︶ ●﹃生と死と文学﹄︵潮出版社 1996年︶ ●﹃鴎外と茂吉﹄︵潮出版社 1997年︶ ●﹃聖書の大地﹄︵日本放送出版協会 1999年︶ ●﹃高山右近﹄︵講談社 1999年 文庫︶ ●﹃雲の都﹄第1-5部 ︵新潮社 2002年 - 2012年︶ ●﹃夕映えの人﹄︵小学館 2002年︶ ●﹃ザビエルとその弟子﹄︵講談社 2004年 のち文庫︶ ●﹃小説家が読むドストエフスキー﹄︵集英社新書 2006年︶ ●﹃悪魔のささやき﹄︵集英社新書 2006年︶ ●﹃不幸な国の幸福論﹄︵集英社新書、2009年︶ ●﹃科学と宗教と死﹄︵集英社新書、2012年︶ ●﹃加賀乙彦 自伝﹄︵集英社、2013年︶ ●﹃ああ父よ ああ母よ﹄︵講談社、2013年︶ ●﹃日本の古典に学びしなやかに生きる﹄︵集英社、2015年︶ ●﹃殉教者﹄︵講談社、2016年︶︵ペトロ岐部を描く︶ ●﹃ある若き死刑囚の生涯﹄ちくまプリマー新書 2019 ●﹃死刑囚の有限と無期囚の無限 精神科医・作家の死刑廃止論﹄コールサック社, 2019 ●﹃妻の死 加賀乙彦自選短編小説集﹄幻戯書房, 2019 ●﹃わたしの芭蕉﹄講談社, 2020.1共編著[編集]
●﹃芸術と狂気﹄︵徳田良仁共編著 造形社 1971年︶ ●﹃嫌われるのが怖い 精神医学講義﹄︵笠原嘉対談 朝日出版社 1981年 (Lecture books) ︶ ●﹃脳死と臓器移植を考える﹄︵編 岩波書店 1990年︶ ●﹃野田弘志の文筐﹄︵米倉守共編 東邦アート 1991年︶ ●﹃死の淵の愛と光﹄︵編 弘文堂 1992年︶ ●﹃光と風のなかで 愛と音楽の軌跡﹄︵遠山慶子共著 弥生書房 1993年︶ ●﹃日本の名随筆 別巻69秘密﹄︵編 作品社 1996年︶ ●﹃素晴らしい死を迎えるために 死のブックガイド﹄︵柳田邦男・アルフォンス・デーケン共著、編著 太田出版 1997年︶ ●﹃宗教を知る 人間を知る﹄︵河合隼雄・山折哲雄・合庭惇共著 講談社 2002年︶ ●﹃愛する伴侶(ひと)を失って 加賀乙彦と津村節子の対話﹄︵津村節子共著、集英社 2013年︶ ●﹃﹁永遠の都﹂は何処に? TAIDAN-22世紀に向かって﹄岳真也共著. 牧野出版, 2017.5外国語への翻訳[編集]
●﹃錨のない船︻英語︼﹄Riding the east wind ︵リービ英雄訳 講談社インターナショナル 1999年︶ ISBN 4770028563 ●高山右近︵独訳︶ Kreuz und Schwert: Roman über die Christenverfolgung in Japan ︵ラルフ・デーゲン訳 Berlin : Be.bra Verlag, c2006︶漫画化[編集]
●﹃錨のない船﹄松本零士﹁毎日グラフ﹂掲載 1991年[18]本名での著作[編集]
著書[編集]
●﹃日本の精神鑑定﹄福島章, 中田修, 小木貞孝 編集 みすず書房 1973 ●﹃死刑囚と無期囚の心理﹄小木貞孝 著 金剛出版 1974 ●﹃フランスの妄想研究﹄小木貞孝 著 金剛出版 1985翻訳[編集]
●アンリ・バリュック 著、高橋宏、黒川正則、小木貞孝 訳﹃精神病の治療﹄白水社︿文庫クセジュ﹀、1956年12月5日。NDLJP:1376105。(要登録) ●モーリス・メルロ=ポンティ﹃知覚の現象学﹄第1竹内芳郎, 小木貞孝 訳 みすず書房 1967脚注[編集]
出典[編集]
(一)^ abcdef﹃加賀乙彦 自伝﹄
(二)^ 加賀乙彦. “なださんと堀内君とラガーシュ先生”. PR誌ちくま. 筑摩書房. 2020年10月7日閲覧。
(三)^ 江藤淳﹁”フォニイ”考﹂﹃リアリズムの源流﹄︵河出書房新社1989年︶
(四)^ “遠藤 周作 | 兵庫ゆかりの作家”. ネットミュージアム兵庫文学館 : 兵庫県立美術館. 2023年6月11日閲覧。
(五)^ “戦争の時代を徹底検証 加賀乙彦﹁永遠の都﹂|好書好日”. 好書好日. 2023年6月11日閲覧。
(六)^ ﹁春の叙勲 中綬章以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧﹂﹃読売新聞﹄2005年4月29日朝刊
(七)^ “文化勲章に丸谷才一さん、大滝秀治さんら功労者”. YOMIURI ONLINE (2011年10月25日). 2011年10月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
(八)^ “作家・加賀乙彦さん死去 93歳 ﹁宣告﹂﹁帰らざる夏﹂”. 毎日新聞. (2023年1月17日) 2023年1月17日閲覧。
(九)^ ﹃官報﹄第921号、令和5年2月20日
(十)^ "アーカイブ 追悼 作家・加賀乙彦 信ずることの恵み". NHK. 2023年6月4日. 2023年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月3日閲覧。
(11)^ ab”作家・精神科医 加賀乙彦 さん”軽井沢ウェブ︵2016/05/19︶
(12)^ ab“加賀乙彦︵作家︶自分らしく幸福に死ぬために必要なこと”現代ビジネス︵2010/08/13︶
(13)^ ﹁創作の現場﹂﹃新刊展望﹄(1990年3月号) 日本出版販売
(14)^ 加賀乙彦﹃悪魔のささやき﹄集英社、2006年8月12日、146-151頁。ISBN 978-4087203547。
(15)^ 森達也﹃A3 上﹄集英社、2012年12月14日、305-306頁。ISBN 978-4087450156。
(16)^ “ピープル|軽井沢新聞社 Karuizawa,News Paper”. www.karuizawa.co.jp. 2023年6月11日閲覧。
(17)^ カトリック碑文谷教会ブログ ﹁追悼!加賀乙彦氏﹂2024年4月23日閲覧。
(18)^ “松本零士のライフワーク ﹁戦場まんがシリーズ﹂の すべてを詰め込んだ永久保存版 単行本未収録作品﹃錨のない船﹄再録! - NEWS | ぴあ関西版WEB”. kansai.pia.co.jp. 2022年8月15日閲覧。
関連項目[編集]
- 将校志望を断念した日本の人物の一覧
- 正田昭 - 小説『宣告』のモデルとなった。