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[[新潟県]][[新潟市]]出身。[[新潟県立新潟商業高等学校]]を経て[[新潟高等学校_(旧制)|官立新潟高等学校]]卒業。[[1941年]]、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]政治学科を卒業し、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省。[[中曽根康弘]]とは東京帝大、内務省で同期。戦後、内務省が解体されると[[厚生省]]に移り、厚生省[[医務局]]整備課長を務めた後、公衆衛生局、保険局などに勤務。1959年12月から翌年5月まで新潟赤十字センター長を務め、[[在日朝鮮人の帰還事業]]において警備や帰還者の援護の統括業務を行った<ref>﹁北朝鮮日本人妻里帰り問題 小沢辰男衆院議員に聞く 居住希望するなら認めるべき﹂﹃[[産経新聞]]﹄1997年10月21日、東京朝刊、2面。</ref>。{{main|在日朝鮮人の帰還事業#新潟赤十字センターへ移動}}
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[[新潟県]][[新潟市]]出身。[[新潟県立新潟商業高等学校]]を経て[[新潟高等学校_(旧制)|官立新潟高等学校]]卒業。[[1941年]]、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]政治学科を卒業し、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省。[[中曽根康弘]]とは東京帝大、内務省で同期。戦後、内務省が解体されると[[厚生省]]に移り、厚生省[[医務局]]整備課長を務めた後、公衆衛生局、保険局などに勤務。1959年12月から翌年5月まで新潟赤十字センター長を務め、[[在日朝鮮人の帰還事業]]において警備や帰還者の援護の統括業務を行った<ref>﹁北朝鮮日本人妻里帰り問題 小沢辰男衆院議員に聞く 居住希望するなら認めるべき﹂﹃[[産経新聞]]﹄1997年10月21日、東京朝刊、2面。</ref>。{{main|在日朝鮮人の帰還事業#新潟赤十字センターへ移動}}
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厚生省を退官すると、地元の新潟硫酸取締役や新潟米油社長を務める。[[1960年]]、[[衆議院議員総選挙]]に[[新潟県第1区 (中選挙区)|旧新潟1区]]から[[自由民主党]]公認で立候補し当選する︵当選同期に[[宇野宗佑]]・[[海部俊樹]]・[[仮谷忠男]]・[[細田吉蔵]]・[[佐々木義武]]・[[田沢吉郎]]・[[谷垣専一]]・[[久保田円次]]・[[伊藤宗一郎]]・[[田川誠一]]・[[渋谷直蔵]]・[[藤井勝志]]など︶。以後当選回数13回。
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厚生省を退官すると、地元の新潟硫酸取締役や新潟米油社長を務める。[[1960年]]、[[衆議院議員総選挙]]に[[新潟県第1区 (中選挙区)|旧新潟1区]]から[[自由民主党]]公認で立候補し当選する︵当選同期に[[宇野宗佑]]・[[海部俊樹]]・[[亀岡高夫]]・[[仮谷忠男]]・[[細田吉蔵]]・[[佐々木義武]]・[[田沢吉郎]]・[[谷垣専一]]・[[久保田円次]]・[[伊藤宗一郎]]・[[田川誠一]]・[[渋谷直蔵]]・[[藤井勝志]]など︶。以後当選回数13回。自民党では[[池田勇人]]→[[前尾繁三郎]]→[[大平正芳]]派︵[[宏池会]]︶に所属したが、同郷の[[田中角栄]]が[[1972年]]に[[木曜クラブ|田中派]]を立ち上げる際、小沢は宏池会を退会して田中派に入会した。
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自民党 |
自民党田中派の大幹部で木曜クラブ事務総長などを務める。田中角栄の金庫番とも言われ、田中の最側近の一人であった。田中派には同姓の[[小沢一郎]]がいたため、二人を区別するため、小沢辰男は﹁本家小沢﹂などとも呼ばれた。田中派内では田中直系として田中の意の下に終始行動し、田中も[[竹下登]]と後見役の[[金丸信]]を抑えるために自民党幹事長に小沢を送り込もうとしたが、これは果たせなかった。田中派分裂に際しては、[[平成研究会|竹下派]]、[[二階堂進|二階堂]]グループ双方に参加せず、無派閥となる。
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[[1993年]]6月に自民党を離党し、[[羽田孜]]、小沢一郎らの結成した[[新生党]]に参加。翌[[1994年]]12月には[[新進党]]に参加するが、新進党分党後は[[改革クラブ (1998-2002)|改革クラブ]]を結成し、代表を務めた。改革クラブは、旧[[公明党]]系の[[新党平和]]と院内会派﹁[[平和・改革]]﹂を結成し、小沢が代表となった。
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[[1993年]]6月に自民党を離党し、[[羽田孜]]、小沢一郎らの結成した[[新生党]]に参加。翌[[1994年]]12月には[[新進党]]に参加するが、新進党分党後は[[改革クラブ (1998-2002)|改革クラブ]]を結成し、代表を務めた。改革クラブは、旧[[公明党]]系の[[新党平和]]と院内会派﹁[[平和・改革]]﹂を結成し、小沢が代表となった。
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2013年2月17日 (日) 11:47時点における版
小沢 辰男 おざわ たつお | |
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生年月日 | 1916年12月7日(107歳) |
出生地 | 新潟県新潟市 |
出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) |
前職 | 厚生省官僚 |
所属政党 |
(自由民主党→) (新生党→) (新進党→) 改革クラブ |
称号 |
勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 |
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内閣 | 福田赳夫改造内閣 |
在任期間 | 1977年11月28日 - 1978年12月7日 |
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内閣 | 三木内閣 |
在任期間 | 1974年12月9日 - 1976年9月15日 |
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内閣 | 第2次田中角榮第2次改造内閣 |
在任期間 | 1974年11月11日 - 1974年12月9日 |
選挙区 |
(新潟県第1区→) 比例北陸信越ブロック |
当選回数 | 13回 |
在任期間 | 1960年11月21日 - 2000年6月2日 |
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在任期間 | 1998年1月1日 - 2000年6月25日 |
小沢 辰男︵小澤 辰男、おざわ たつお、1916年︵大正5年︶12月7日 - ︶は、日本の政治家。元衆議院議員。建設大臣、厚生大臣、環境庁長官などを歴任した。父は衆議院議員の小沢国治。
来歴・人物
新潟県新潟市出身。新潟県立新潟商業高等学校を経て官立新潟高等学校卒業。1941年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、内務省に入省。中曽根康弘とは東京帝大、内務省で同期。戦後、内務省が解体されると厚生省に移り、厚生省医務局整備課長を務めた後、公衆衛生局、保険局などに勤務。1959年12月から翌年5月まで新潟赤十字センター長を務め、在日朝鮮人の帰還事業において警備や帰還者の援護の統括業務を行った[1]。詳細は「在日朝鮮人の帰還事業#新潟赤十字センターへ移動」を参照
厚生省を退官すると、地元の新潟硫酸取締役や新潟米油社長を務める。1960年、衆議院議員総選挙に旧新潟1区から自由民主党公認で立候補し当選する︵当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・細田吉蔵・佐々木義武・田沢吉郎・谷垣専一・久保田円次・伊藤宗一郎・田川誠一・渋谷直蔵・藤井勝志など︶。以後当選回数13回。自民党では池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳派︵宏池会︶に所属したが、同郷の田中角栄が1972年に田中派を立ち上げる際、小沢は宏池会を退会して田中派に入会した。
自民党田中派の大幹部で木曜クラブ事務総長などを務める。田中角栄の金庫番とも言われ、田中の最側近の一人であった。田中派には同姓の小沢一郎がいたため、二人を区別するため、小沢辰男は﹁本家小沢﹂などとも呼ばれた。田中派内では田中直系として田中の意の下に終始行動し、田中も竹下登と後見役の金丸信を抑えるために自民党幹事長に小沢を送り込もうとしたが、これは果たせなかった。田中派分裂に際しては、竹下派、二階堂グループ双方に参加せず、無派閥となる。
1993年6月に自民党を離党し、羽田孜、小沢一郎らの結成した新生党に参加。翌1994年12月には新進党に参加するが、新進党分党後は改革クラブを結成し、代表を務めた。改革クラブは、旧公明党系の新党平和と院内会派﹁平和・改革﹂を結成し、小沢が代表となった。
2000年、第42回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界を引退した。
自民党離党の前後に新潟国際情報大学の運営法人新潟平成学院理事長に就任している︵現在は名誉職の学院長︶。
脚注
議会 | ||
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先代 左藤恵 |
![]() 1997年 |
次代 神田厚 |
先代 森山欽司 |
![]() 1972年 |
次代 田川誠一 |
公職 | ||
先代 渡辺美智雄 |
![]() 第56代:1977年 ‐ 1978年 |
次代 橋本龍太郎 |
先代 毛利松平 |
![]() 第6代:1974年 ‐ 1976年 |
次代 丸茂重貞 |
先代 亀岡高夫 |
![]() 第36代:1974年 |
次代 仮谷忠男 |
先代 小坂徳三郎 |
![]() 第5代:1974年 |
次代 植木光教 |
党職 | ||
先代 結成 |
改革クラブ代表 初代:1998年 ‐ 2000年 |
次代 解散 |