後村上天皇
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後村上天皇 | |
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後村上天皇像(来迎寺蔵) | |
即位礼 | 延元4年10月5日(1339年11月6日)[1]? |
大嘗祭 | 興国元年11月17日(1340年12月6日)[1]? |
元号 |
延元 興国 正平 |
関白 |
二条師基→近衛経家→二条教基 →(近衛経家)→二条教基 |
准后 | 北畠親房 |
先代 | 後醍醐天皇 |
次代 | 長慶天皇 |
誕生 | 嘉暦3年(1328年)[2] |
崩御 |
正平23年3月11日(1368年3月29日) 住吉行宮(住之江殿) |
大喪儀 | 正平23年3月15日(1368年4月2日) |
陵所 | 檜尾陵 |
追号 | 後村上院 |
諱 | 義良(儀良)、憲良 |
別称 | 吉野帝、賀名生殿、住吉殿 |
元服 | 延元元年3月10日(1336年4月21日) |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 阿野廉子(新待賢門院) |
女御 |
源氏(北畠親房女) 藤原勝子?(嘉喜門院) |
子女 |
寛成親王(長慶天皇) 熙成親王(後亀山天皇) 惟成親王 他 |
皇居 |
吉野行宮 賀名生行宮 男山八幡行宮 金剛寺行宮 観心寺行宮 住吉行宮 |
親署 |
後村上天皇︵ごむらかみてんのう︶は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇︵在位‥延元4年/暦応2年8月15日︵1339年9月18日︶ - 正平23年/応安元年3月11日︵1368年3月29日︶︶。諱は初め義良︵のりよし / のりなが︶、後に憲良に改めた[3]。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和︵奈良県︶の吉野・賀名生、摂津︵大阪府︶の住吉などを行宮とした。
明治44年︵1911年︶に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。
系譜
後醍醐天皇の第七皇子。母は、阿野公廉の女・廉子︵新待賢門院︶。 ●女御‥源氏 - 北畠親房女 ●女御‥藤原勝子?︵嘉喜門院・三位局︶ - 実父不詳、二条師基猶子 ●第一皇子‥寛成親王︵長慶天皇、1343-1394︶ ●第二皇子‥熙成親王︵後亀山天皇、1350?-1424︶ ●生母不詳 ●第三皇子‥惟成親王[4]︵?-1423︶ - 護聖院宮家、後亀山天皇皇太弟か ●第四皇子‥泰成親王[4]︵1360?-?︶ ●第五皇子‥師成親王︵1361-?︶ ●第六皇子‥説成親王[4]︵懐成親王、?-?︶ ●皇子?‥良成親王︵?-1395?︶ - 後征西将軍宮に比定される ●皇女?‥憲子内親王?︵新宣陽門院、1345?-1391?︶ - 一説に後醍醐天皇皇女とする ●皇女?‥貞子内親王 - 南朝系図は後醍醐天皇皇女とする 生母に関して、吹上本﹃帝王系図﹄の巻末付紙は、熙成親王︵後亀山天皇︶を阿野実為女の所生とし、近世成立の南朝系図は、憲子内親王を中宮北畠顕子の所生、泰成親王を藤原勝子の所生、惟成親王・師成親王を中原師治女︵大蔵卿局︶の所生、説成親王・良成親王を越智家栄女︵冷泉局︶の所生とするが、その確たる史料的裏付けはない。系図
【持明院統】 〔北朝〕 |
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| 【大覚寺統】 〔南朝〕 |
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| 96 後醍醐天皇 |
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光厳天皇 北1 |
| 光明天皇 北2 |
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| 97 後村上天皇 |
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崇光天皇 北3 |
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| 後光厳天皇 北4 |
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| 98 長慶天皇 |
| 99 後亀山天皇 |
| 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) |
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| 後円融天皇 北5 |
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| (不詳) 〔玉川宮家〕 |
| 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) |
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| 100 後小松天皇 北6 |
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102 後花園天皇 |
| 貞常親王 〔伏見宮家〕 |
| 101 称光天皇 |
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略歴
元弘3年/正慶2年︵1333年︶鎌倉幕府が滅亡し、父の後醍醐天皇が建武の新政を始めると、幼い義良は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かう。建武元年︵1334年︶5月多賀城において親王となる。翌2年︵1335年︶足利尊氏が新政から離反すると、北畠親子とともに尊氏討伐のために京へ引き返す。建武3年︵1336年︶3月行在所比叡山において元服を行い、同時に三品陸奥太守に叙任され、尊氏が京で敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いた。延元2年/建武4年︵1337年︶多賀城が襲撃されて危険となり、霊山に難を避けたが、8月に再度上洛を始める。12月に鎌倉を攻略し、延元3年/暦応元年︵1338年︶1月さらに西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破って、伊勢・伊賀方面に転進した後、父天皇のいる大和の吉野行宮に入った。父天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自らの皇子を派遣する中、9月に義良親王も宗良親王とともに北畠親房・顕信に奉じられて、伊勢国大湊から三たび奥州を目指すものの、途中暴風に遭って一行は離散し、親王の船は伊勢に漂着。翌延元4年/暦応2年︵1339年︶3月吉野へ戻り、間もなく皇太子となった[5]。8月15日に父天皇の譲位を受けて践祚する[6]。諡号・追号・異名
父の後醍醐天皇が醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治を理想とし、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていたことを受け、後村上院と追号された。在位中の元号
●延元 ︵1339年8月15日︶ - 1340年4月28日 ●興国 1340年4月28日 - 1346年12月8日 ●正平 1346年12月8日 - ︵1368年3月11日︶陵・霊廟
脚注
(一)^ ab﹃続史愚抄﹄・﹃南朝公卿補任﹄による。
(二)^ 誕生した月日について、﹃南朝編年記略﹄は9月1日︵1328年10月4日︶とし、中田憲信の﹃南方遺胤﹄は9月8日とするが、その確たる史料的裏付けはない。
(三)^ 鴨脚本﹃皇代記﹄に﹁諱義良後改憲良﹂とあることによる。ただし、近世の﹃続史愚抄﹄・﹃系図纂要﹄などのように、憲良を初名として掲げている文献も多い。
(四)^ abcかつては東宮︵皇太弟︶を泰成親王に、護聖院宮を説成親王に比定する南朝系図の説が通説であったが、近年、護聖院宮と東宮とを同一人とし、これを惟成親王に比定する説が有力となっている。なお、護聖院宮の母については、長慶天皇らと同じく嘉喜門院であったと推定されている︵﹃満済准后日記﹄永享3年10月28日条︶。
(五)^ ﹃新葉和歌集﹄雑上・1034の詞書から立太子がこの年であったことは確実だが、その月日は不詳である。﹃南朝編年記略﹄は何によってか、3月4日とする。
(六)^ ﹃太平記﹄によれば、即位式は周到ではなく、ただ神器を拝するだけの簡便なものであった。その月日は不詳だが、10月に即位の旨を神宮に奉告している。
(七)^ 八代国治とともに長慶天皇即位確定に大きな役割を果たした武田祐吉は、﹃新葉和歌集﹄が﹁後醍醐天皇﹂﹁後村上院﹂と記していることを指摘して、後村上天皇が生前に譲位して上皇となっていた可能性を指摘している︵﹁長慶天皇を仰ぎ奉りて﹂ ﹃武田祐吉著作集 第8巻 文学史・歌物語篇﹄ 角川書店、1973年。初出は1917年︶
関連項目
- 建武の新政
- 両統迭立
- 大覚寺統
- 懐良親王
- 宗良親王
- 古剣智訥
- 能仁寺 (広川町)・雲樹寺 - 孤峰覚明を開山とし、天皇から勅願寺に列せられた。
- 荘厳浄土寺 - 正平18年(1363年)・同21年(1366年)に法華八講を修した寺院。