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| 誕生年月日時= [[嘉暦]]3年︵[[1328年]]︶<ref name=b> |
| 誕生年月日時= [[嘉暦]]3年︵[[1328年]]︶<ref name=b>誕生した月日について、﹃[[南朝編年記略]]﹄は[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]︵[[1328年]][[10月4日]]︶とし、[[中田憲信]]の﹃南方遺胤﹄は[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]とするが、その確たる史料的裏付けはない。</ref>
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| 誕生場所= |
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| 崩御年月日時 = 正平23年3月11日([[1368年]][[3月29日]]) |
| 崩御年月日時 = 正平23年3月11日([[1368年]][[3月29日]]) |
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| 中宮= |
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| 女御= 源氏([[北畠親房]]女)<br/>藤原勝子?([[嘉喜門院]]) |
| 女御= 源氏([[北畠親房]]女)<br/>藤原勝子?([[嘉喜門院]]) |
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| 子女= 寛成親王([[長慶天皇]])<br/>熙成親王([[後亀山天皇]])<br/>[[惟成親王]] 他 |
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| 皇居= [[吉野行宮]]<br />[[賀名生|賀名生行宮]]<br />[[石清水八幡宮|男山八幡行宮]]<br />[[金剛寺 (河内長野市)|金剛寺行宮]]<br />[[観心寺|観心寺行宮]]<br />[[住吉行宮]] |
| 皇居= [[吉野行宮]]<br />[[賀名生|賀名生行宮]]<br />[[石清水八幡宮|男山八幡行宮]]<br />[[金剛寺 (河内長野市)|金剛寺行宮]]<br />[[観心寺|観心寺行宮]]<br />[[住吉行宮]] |
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| 親署 = Go-Murakami_Noriyoshi.png |
| 親署 = Go-Murakami_Noriyoshi.png |
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== 系譜 == |
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[[後醍醐天皇]]の第七[[皇子]]。母は、[[阿野 |
[[後醍醐天皇]]の第七[[皇子]]。母は、[[阿野公廉]]の女・[[阿野廉子|廉子]](新待賢門院)。 |
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* [[女御]]:源氏 - [[北畠親房]]女 |
* [[女御]]:源氏 - [[北畠親房]]女 |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
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[[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])[[鎌倉幕府]]が滅亡し、父の[[後醍醐天皇]]が[[建武の新政]]を始めると、幼い義良は[[北条氏]]の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に[[北畠親房]]・[[北畠顕家|顕家]]父子に奉じられて[[陸奥国|奥州]][[多賀城]]へと向かう。[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])5月多賀城において親王となる。翌2年([[1335年]])[[足利尊氏]]が新政から離反すると、北畠親子とともに尊氏討伐のために京へ引き返す。建武3年([[1336年]])3月行在所[[比叡山]]において[[元服]]を行い、同時に[[品位 (位階)|三品]][[陸奥国司|陸奥太守]]に叙任され、尊氏が京で敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いた。[[延元]]2年/建武4年([[1337年]])多賀城が襲撃されて危険となり、[[霊山 (福島県)|霊山]]に難を避けたが、8月に再度上洛を始める。12月に[[鎌倉]]を攻略し、延元3年/[[暦応]]元年([[1338年]])1月さらに西上して[[美濃国]][[青野原の戦い]]で足利方を破って、[[伊勢国|伊勢]]・[[伊賀国|伊賀]]方面に転進した後、父天皇のいる[[大和国|大和]]の[[吉野行宮]]に入った。父天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自らの[[皇子]]を派遣する中、9月に義良親王も[[宗良親王]]とともに北畠親房・[[北畠顕信|顕信]]に奉じられて、伊勢国[[大湊 (伊勢市)|大湊]]から三たび奥州を目指すものの、途中暴風に遭って一行は離散し、親王の船は伊勢に漂着。翌延元4年/暦応2年([[1339年]])3月吉野へ戻り、間もなく[[皇太子]]となった<ref>『[[新葉和歌集]]』雑上・1034の詞書から立太子がこの年であったことは確実だが、その月日は不詳である。『[[南朝編年記略]]』は何によってか、[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]とする。</ref>。[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]に父天皇の[[譲位]]を受けて[[践祚]]する<ref>『[[太平記]]』によれば、[[即位式]]は周到ではなく、ただ神器を拝するだけの簡便なものであった。その月日は不詳だが、10月に即位の旨を[[伊勢神宮|神宮]]に奉告している。</ref>。 |
[[元弘]]3年/[[正慶]]2年︵[[1333年]]︶[[鎌倉幕府]]が滅亡し、父の[[後醍醐天皇]]が[[建武の新政]]を始めると、幼い義良は[[北条氏]]の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に[[北畠親房]]・[[北畠顕家|顕家]]父子に奉じられて[[陸奥国|奥州]][[多賀城]]へと向かう。[[建武 (日本)|建武]]元年︵[[1334年]]︶5月多賀城において[[親王宣下|親王]]となる。翌2年︵[[1335年]]︶[[足利尊氏]]が新政から離反すると、北畠親子とともに尊氏討伐のために京へ引き返す。建武3年︵[[1336年]]︶3月行在所[[比叡山]]において[[元服]]を行い、同時に[[品位 (位階)|三品]][[陸奥国司|陸奥太守]]に叙任され、尊氏が京で敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いた。[[延元]]2年/建武4年︵[[1337年]]︶多賀城が襲撃されて危険となり、[[霊山 (福島県)|霊山]]に難を避けたが、8月に再度上洛を始める。12月に[[鎌倉]]を攻略し、延元3年/[[暦応]]元年︵[[1338年]]︶1月さらに西上して[[美濃国]][[青野原の戦い]]で足利方を破って、[[伊勢国|伊勢]]・[[伊賀国|伊賀]]方面に転進した後、父天皇のいる[[大和国|大和]]の[[吉野行宮]]に入った。父天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自らの[[皇子]]を派遣する中、9月に義良親王も[[宗良親王]]とともに北畠親房・[[北畠顕信|顕信]]に奉じられて、伊勢国[[大湊 (伊勢市)|大湊]]から三たび奥州を目指すものの、途中暴風に遭って一行は離散し、親王の船は伊勢に漂着。翌延元4年/暦応2年︵[[1339年]]︶3月吉野へ戻り、間もなく[[皇太子]]となった<ref>﹃[[新葉和歌集]]﹄雑上・1034の詞書から立太子がこの年であったことは確実だが、その月日は不詳である。﹃[[南朝編年記略]]﹄は何によってか、[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]とする。</ref>。[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]に父天皇の[[譲位]]を受けて[[践祚]]する<ref>﹃[[太平記]]﹄によれば、[[即位式]]は周到ではなく、ただ神器を拝するだけの簡便なものであった。その月日は不詳だが、10月に即位の旨を[[伊勢神宮|神宮]]に奉告している。</ref>。
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[[ファイル:Former imperial palace at Ano.jpg|thumb|200px|堀家住宅(賀名生皇居跡)]] |
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== 陵・霊廟 == |
== 陵・霊廟 == |
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[[ファイル:Kanshinji gomurakami tenno hinoomisasagi.jpg|thumb|235px|檜尾陵]] |
[[ファイル:Kanshinji gomurakami tenno hinoomisasagi.jpg|thumb|235px|檜尾陵]] |
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[[大阪府]][[河内長野市]]寺元の[[観心寺]]内にある'''檜尾陵'''(桧尾陵、ひのおのみささぎ)に治定されている。形式は円丘。 |
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崩御後の[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]に当所で[[火葬]]され、間もなく天皇のための法華三昧堂︵現存せず︶も建立された。[[天授 (日本)|天授]]4年/[[永和 (日本)|永和]]4年︵[[1378年]]︶に観心寺を参詣した[[賢耀]]の﹃観心寺参詣諸堂巡礼記﹄によれば、墓所の東に法華三昧堂、その前に[[勾当内侍]]の[[五輪塔]]があったと伝える。同寺は天皇の御在所でもあったが故、古来御陵を崇敬しており、近世の地誌類も当所を御陵として挙げている。なお、同境内にコウボ坂[[陵墓参考地]]、境外に檜尾塚陵墓参考地が所在し、ともに母・[[阿野廉子]]の墓と伝えられている。
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崩御後の[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]に当所で[[火葬]]され、間もなく天皇のための法華三昧堂︵現存せず︶も建立された。[[天授 (日本)|天授]]4年/[[永和 (日本)|永和]]4年︵[[1378年]]︶に観心寺を参詣した[[賢耀]]の﹃観心寺参詣諸堂巡礼記﹄によれば、墓所の東に法華三昧堂、その前に[[勾当内侍]]の[[五輪塔]]があったと伝える。同寺は天皇の御在所でもあったが故、古来御陵を崇敬しており、近世の地誌類も当所を御陵として挙げている。なお、同境内にコウボ坂[[陵墓参考地]]、境外に檜尾塚陵墓参考地が所在し、ともに母・[[阿野廉子]]の墓と伝えられている。
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2014年3月30日 (日) 04:16時点における版
後村上天皇 | |
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後村上天皇像(来迎寺蔵) | |
即位礼 | 延元4年10月5日(1339年11月6日)[1]? |
大嘗祭 | 興国元年11月17日(1340年12月6日)[1]? |
元号 |
延元 興国 正平 |
関白 |
二条師基→近衛経家→二条教基 →(近衛経家)→二条教基 |
准后 | 北畠親房 |
先代 | 後醍醐天皇 |
次代 | 長慶天皇 |
誕生 | 嘉暦3年(1328年)[2] |
崩御 |
正平23年3月11日(1368年3月29日) 住吉行宮(住之江殿) |
大喪儀 | 正平23年3月15日(1368年4月2日) |
陵所 | 檜尾陵 |
追号 | 後村上院 |
諱 | 義良(儀良)、憲良 |
別称 | 吉野帝、賀名生殿、住吉殿 |
元服 | 延元元年3月10日(1336年4月21日) |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 阿野廉子(新待賢門院) |
女御 |
源氏(北畠親房女) 藤原勝子?(嘉喜門院) |
子女 |
寛成親王(長慶天皇) 熙成親王(後亀山天皇) 惟成親王 他 |
皇居 |
吉野行宮 賀名生行宮 男山八幡行宮 金剛寺行宮 観心寺行宮 住吉行宮 |
親署 |
系譜
系図
【持明院統】 〔北朝〕 |
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| 【大覚寺統】 〔南朝〕 |
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| 96 後醍醐天皇 |
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光厳天皇 北1 |
| 光明天皇 北2 |
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| 97 後村上天皇 |
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崇光天皇 北3 |
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| 後光厳天皇 北4 |
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| 98 長慶天皇 |
| 99 後亀山天皇 |
| 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) |
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| 後円融天皇 北5 |
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| (不詳) 〔玉川宮家〕 |
| 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) |
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| 100 後小松天皇 北6 |
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102 後花園天皇 |
| 貞常親王 〔伏見宮家〕 |
| 101 称光天皇 |
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略歴
諡号・追号・異名
父の後醍醐天皇が醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治を理想とし、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていたことを受け、後村上院と追号された。
在位中の元号
陵・霊廟
脚注
関連項目
- 建武の新政
- 両統迭立
- 大覚寺統
- 懐良親王
- 宗良親王
- 古剣智訥
- 能仁寺 (広川町)・雲樹寺 - 孤峰覚明を開山とし、天皇から勅願寺に列せられた。
- 荘厳浄土寺 - 正平18年(1363年)・同21年(1366年)に法華八講を修した寺院。