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* [[讃岐うどん]] - 全国に広まった理由として、乃木が[[第11師団 (日本軍)|陸軍第11師団]]の師団長時代に部隊食にするよう提案したのがきっかけとする説がある<!--リンク切れのためコメントアウト ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagawa/news/20091017-OYT8T01190.htm|title=ブーム発端乃木将軍|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2009-10-18|accessdate=2009-10-19}}{{リンク切れ|date=2010年11月}}</ref-->。 |
* [[讃岐うどん]] - 全国に広まった理由として、乃木が[[第11師団 (日本軍)|陸軍第11師団]]の師団長時代に部隊食にするよう提案したのがきっかけとする説がある<!--リンク切れのためコメントアウト ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagawa/news/20091017-OYT8T01190.htm|title=ブーム発端乃木将軍|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2009-10-18|accessdate=2009-10-19}}{{リンク切れ|date=2010年11月}}</ref-->。 |
2024年6月25日 (火) 13:46時点における版
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生誕 |
1849年12月25日 (嘉永2年11月11日) ![]() (現:東京都港区六本木) |
死没 |
1912年9月13日(62歳没)![]() |
所属組織 |
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軍歴 | 1871年 - 1912年 |
最終階級 |
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勲章 |
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墓所 |
青山墓地 乃木神社 |
名前
幼名は無人︵なきと︶で、その後、源三と改め、頼時とも称した[2][注釈 1]。後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから﹁源希典﹂との署名もよく用いた[4][注釈 2]。 号としては、静堂、秀顕、石樵および石林子を用いた[2]。 軍人として高名になった後には、﹁乃木大将﹂または﹁乃木将軍﹂と呼称される[5]。出自
●宇多源氏支流乃木氏 - 毛利家に仕えた乃木家の本姓は出雲源氏・佐々木氏とされている。乃木家は雲州野木の地頭となった、佐々木高綱の二男である野木光綱の後裔を称している。現在の松江市浜乃木一帯が野木︵乃木︶氏本貫の地であったとされる。ただし異説もあり[6]。生涯
幼少期
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/Stone_monument_of_Maresuke_Nogi%27s_birthplace.jpg/200px-Stone_monument_of_Maresuke_Nogi%27s_birthplace.jpg)
長府への転居・元服
学者を志して出奔
元治元年3月︵1864年4月︶[注釈 4]、16歳の乃木源三は、学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、長府︵現・山口県下関市︶から70km以上離れた萩︵現・同県萩市︶まで徒歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。玉木家は乃木の親戚筋であった。文之進は、乃木が希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述べて、乃木の弟子入りを拒絶した。しかし結局、乃木は玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた[14][15]。 元治元年9月︵1864年10月︶から、乃木は萩藩の藩校・明倫館の文学寮に通学することとなった。一方で、同年11月︵同年12月︶から一刀流剣術も学び始めた[注釈 5]。一刀流については、明治3年1月︵1870年2月︶に、技術習得を意味する﹁目録伝授﹂されている。第2次長州征討に従軍
元治2年︵1865年︶、乃木は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した[16]。 慶応元年︵1865年︶、第二次長州征討が開始されると、同年4月︵同年5月︶、萩から長府へ呼び戻された。乃木は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口︵現・山口県下関市︶での戦闘︵小倉戦争︶に加わった。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げた[17]。しかし、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年︵1866年︶、長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に入学︵復学︶した[16]。 その後、報国隊は越後方面に進軍して戦闘を重ねたが、これに参加しなかった。明倫館在籍時に講堂で相撲を取り左足を挫いたことから、藩が出陣を許さなかったのである[18][19][20]。 乃木はなんとしても出陣しようと、脱藩を決意して馬関︵現・山口県下関市︶まで出たが、追捕され、明倫館に戻された[21]。陸軍少佐任官
慶応4年1月︵1868年2月︶、報国隊の漢学助教となるが、11月︵同年12月︶には藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ[22]。これは、従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助が、乃木源三に対し、学者となるか軍人となるか意思を明確にせよと迫り、乃木が軍人の道を選んだことから、御堀が周旋した結果発令されたという[23]。 明治2年7月︵1869年8月︶、京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治3年1月4日︵1870年2月4日︶、豊浦藩︵旧長府藩︶の陸軍練兵教官[24][25]として、馬廻格100石を給された。 そして、明治4年11月23日︵1872年1月3日︶、黒田清隆の推挙を受けて大日本帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した[26]。当時22歳の乃木源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢であった[27][注釈 6]。乃木は少佐任官を喜び、後日、少佐任官の日は﹁生涯何より愉快だった日﹂であると述べている[29][30]。 明治4年12月︵1872年1月︶、正七位に叙された乃木源三は、名を希典と改めた[31]。その後、東京鎮台第3分営大弐心得[注釈 7]および名古屋鎮台大弐を歴任し、明治6年︵1873年︶3月、越前護法大一揆鎮圧に出動する[33]。同年明治6年6月25日には従六位に叙される[34][31]。 明治7年︵1874年︶5月12日、乃木は家事上の理由から辞表を提出して4か月間の休職に入るが、9月10日には陸軍卿伝令使となった。この職は、陸軍卿︵当時は山縣有朋︶の秘書官または副官といった役割であった。なお、この時期の乃木は、まっすぐ帰宅することはほとんどなく、夜ごと遊興にふけり、山縣から説諭を受けるほどだった[35]。秋月の乱を鎮圧
西南戦争への従軍
放蕩生活と結婚
明治11年︵1878年︶1月25日、乃木は東京の歩兵第一連隊長に抜擢される。熊本から故郷の萩を経て2月14日に着任した乃木は、10月27日に旧薩摩藩藩医の娘・お七︵結婚後に﹁静子﹂と改名した。﹁静﹂ともいわれる。︶と結婚する。秋月の乱に始まる一連の不平士族の鎮圧で実弟など親族を失った乃木は東京に移ってから柳橋や新橋、両国の料亭への放蕩が激しくなり、静子との祝言当日も料理茶屋に入り浸り、祝言にも遅刻したという。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続いた[64][52]。その放蕩ぶりは﹁乃木の豪遊﹂として周囲に知れ渡ったという[65]。 歩兵第一連隊長時代の乃木は西南戦争の経験から白兵戦術よりも射撃戦術の向上を図り部下に訓練を課した。しかし当時射撃練習場に適した場所は深川越中島にある旧式かつ手狭なものが1か所だけであり、当時兵営が赤坂にあった第一連隊は訓練に支障が出ていた。そこで乃木は新たな実弾射撃場の設立を意見具申、自ら率先して設営工事を手伝い、明治14年に青山射的場を完成させた[66]。 またこの頃の話として乃木は他隊との合同訓練ではいつも正面攻撃しか行わず、歩兵第二連隊長として佐倉︵千葉県︶にいた児玉源太郎との合同訓練では奇襲に敗れ児玉に揶揄われたという話も伝わっている[注釈 13]。少将への昇進とドイツ留学
明治12年︵1879年︶12月20日に正六位に叙され、翌年4月29日に大佐へと昇進し、6月8日には従五位に叙された[67]。 明治16年︵1883年︶2月5日に東京鎮台参謀長に任じられ、明治17年︵1885年︶5月21日には最年少で少将に昇進し、歩兵第11旅団長に任じられた。7月25日には正五位に叙された[67]。 この間、長男・勝典︵明治12年︵1879年︶8月28日生︶および次男・保典︵明治14年︵1881年︶12月16日生︶がそれぞれ誕生している[67]。 明治20年︵1887年︶1月から明治21年︵1888年︶6月10日まで、乃木は政府の命令によって、同じく陸軍少将の川上操六とともにドイツ帝国へ留学した[68]。乃木は、ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉デュフェーについて、後に第3軍参謀長になる伊地知幸介中尉による通訳を介し﹃野外要務令﹄に基づく講義を受けた。次いで乃木は、ベルリン近郊の近衛軍に属して、ドイツ陸軍の全貌について学んだ[69]。ドイツ留学中、乃木は軍医として同じく留学中の森林太郎とも親交を深め、その交友関係は以後、長く続いた[70]。 帰国後、乃木は復命書を陸軍大臣・大山巌に提出した。この復命書は、形式上、川上と乃木の連名であったが、川上は帰国後に病に伏したため筆を執れず、そのほとんどを乃木が単独で書いた。その内容は、軍紀の確保と厳正な軍紀を維持するための綱紀粛正・軍人教育の重要性を説き、軍人は徳義を本分とすべきであることや、軍服着用の重要性についても記述されていた[71][72]。 その後の乃木は、復命書通りの記述を体現するかのように振る舞うようになった。留学前には足繁く通っていた料理茶屋・料亭には赴かないようになり、芸妓が出る宴会には絶対に出席せず、生活をとことん質素に徹した。平素は稗を食し、来客時には蕎麦を﹁御馳走﹂と言って振る舞った[73]。また、いついかなる時も乱れなく軍服を着用するようになった[74]。 こうした乃木の変化について、文芸評論家の福田和也は、西南戦争で軍旗を喪失して以来厭世家となった乃木が、空論とも言うべき理想の軍人像を体現することに生きる意味を見いだしたと分析している[75]。一方、乃木に関する著書もある作家の松田十刻は、上記の﹁復命書﹂で軍紀の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく振舞わねばならないと考えての結果という分析をしている[76]。 乃木は第11旅団︵熊本︶に帰任した後、近衛歩兵第2旅団長︵東京︶を経て、歩兵第5旅団長︵名古屋︶となった。しかし、上司である第3師団長・桂太郎とそりが合わず、明治25年︵1892年︶、病気を理由に2度目の休職に入った。休職中の乃木は、栃木県の那須野に購入した土地︵現・同県那須塩原市石林、後の那須乃木神社︶で農業に勤しんだ。これより後、乃木は休職するたびに那須野で農業に従事したが、その姿は﹁農人乃木﹂と言われた[77]。日清戦争への従軍
台湾征討(乙未戦争)への参加と台湾総督への就任
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日露戦争への従軍
馬蹄銀事件による休職
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/Nogi_Maresuke%27s_second_house_at_Nasushiobara.jpg/250px-Nogi_Maresuke%27s_second_house_at_Nasushiobara.jpg)
復職と出撃
日露戦争開戦の直前である明治37年︵1904年︶2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職した。しかし、乃木にとって﹁留守近衛師団長﹂という後備任務は不満であった[92]。 5月2日、第3軍司令官に任命された。乃木はこれを喜び、東京を出発する際に見送りに来た野津道貫陸軍大将に対し、﹁どうです、若返ったように見えませんか? どうも白髪がまた黒くなってきたように思うのですが﹂と述べている[93][94]。同年6月1日、広島県の宇品港を出航し、戦地に赴いた[95]。 乃木が第3軍の司令官に起用された背景について、﹁司令官のうち、薩摩出身者と長州出身者とを同数にすべきである﹂という、藩閥政治の結果とする主張もある[96]。しかし、第3軍編成時︵乃木の任命時︶の各軍司令官をみると、薩摩出身者は第1軍司令官の黒木為楨だけであって、薩長同数ではない。満州軍総司令官の大山巌や第4軍司令官の野津道貫も薩摩出身者だが、この2人が任命されたのは第3軍編成の後である。また、既に出征している第1軍および第2軍の師団長︵中将クラス︶6名のうち3名が長州出身者だが、薩摩出身者は1名に過ぎない。そもそも、乃木は中将では最古参の明治28年昇進組であり、同期の岡沢精が侍従武官長を拝命していたため、乃木の大将就任と第3軍司令官任命は、通常の序列人事として順当である[注釈 16]。 乃木が日本を発つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。乃木は広島で勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静子に電報で知らせた。電報には、名誉の戦死を喜べと記載されていたといわれる。勝典の戦死は新聞でも報道された[97]。旅順攻囲戦
水師営の会見
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/Nogi_and_Stessel.jpg/250px-Nogi_and_Stessel.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c4/Meeting_of_General_Nogi_and_General_Stessel_at_Shuishihying_1906.jpg/250px-Meeting_of_General_Nogi_and_General_Stessel_at_Shuishihying_1906.jpg)
敵将(ステッセル)に失礼ではないか
後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ
奉天会戦
凱旋
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Nogi.jpg/250px-Nogi.jpg)
乃木に対する世界的賞賛
乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価された[138]。また、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセルへの処遇については世界的に評価された[139]。乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの﹃ニーヴァ﹄誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また子供の名前や発足した会の名称に﹁乃木﹂の名や乃木が占領した﹁旅順﹂︵アルツール︶の名をもらう例が世界的に頻発した[140]。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された[141]。学習院長就任
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/69/%E8%A4%8C%E4%B8%80%E4%B8%81%E5%A7%BF%E3%81%AE%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8.jpg/250px-%E8%A4%8C%E4%B8%80%E4%B8%81%E5%A7%BF%E3%81%AE%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8.jpg)
明治天皇による勅命
明治40年︵1907年︶1月31日、軍事参議官の乃木は学習院長を兼任することとなったが、この人事には明治天皇が大きく関与した。山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を天皇に内奏したが、天皇はこの人事案に裁可を与えず、皇孫︵後の昭和天皇︶が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名した[142][143]。学習院長は文官職であり、陸軍武官が文官職に就く場合には、陸軍将校分限令により予備役に編入される規定であった[144]。しかし、明治天皇の勅命により、乃木は予備役に編入されなかった[144]。 天皇は、乃木の学習院院長就任に際して、次のような和歌を詠んだ[145]。いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ
乃木式教育
乃木は当時の学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、6棟の寄宿舎を建て、学生と寝食を共にして生活の細部にわたって指導に努めた︵学習院は1908年︵明治41年︶に目白︵現・東京都豊島区目白︶の現在地へ移転した︶。その際の乃木の居室であった総寮部は、﹁乃木館﹂︵国登録有形文化財、乃木没後に移築︶として現在も保存されている。 乃木は、剣道の教育を最重要視し[147]、時には﹁日頃の成果を見せよ﹂と生徒に日本刀を持たせ、生きた豚を斬らせることもあった[148]。当時、学習院中等部に在籍した近衛文麿︵後の公爵、内閣総理大臣︶は、幼少期には大変な怖がりで一人で出歩くこともままならなかったが、これを見かねた乃木が自ら竹刀を持ち近衛に打ち込んできた。近衛は﹁乃木さんのメンは本当に痛かった﹂とのちに回想している[149]。こうした乃木の教育方針は、﹁乃木式﹂と呼ばれた[150]。 その一方で乃木はテニスや野球のような西洋由来の運動を好まず、対校試合なども奨励しなかったため、一時は四大雄鎮と謳われた学習院野球部の勢いは著しく失墜した[151][152]。 1911年には朝日新聞社が行った野球に対するネガティブ・キャンペーン︵いわゆる野球害毒論︶の中で批判論者として登場し、﹁操練体操の外に馬術、弓術、撃剣、柔道、水泳等﹂は﹁必要なる運動﹂だが、野球は﹁必要ならざる遊戯﹂であると語った[153]。生徒からの評判
乃木は、自宅へは月に1、2回帰宅するが、それ以外の日は学習院中等科および高等科の全生徒と共に寄宿舎に入って寝食を共にした。乃木は、生徒に親しく声をかけ、よく駄洒落を飛ばして生徒を笑わせた[154][155]。学習院の生徒は乃木を﹁うちのおやじ﹂と言い合って敬愛した[156]。 他方で、そうした乃木の教育方針に反発した生徒たちもいた。彼らは同人雑誌﹃白樺﹄を軸に﹁白樺派﹂を結成し、乃木の教育方針を非文明的であると嘲笑した。これらの動きに対し、乃木は以前から親交のある森鷗外にも助言を求めている[157]。昭和天皇の養育
1908年︵明治41年︶4月に迪宮裕仁親王︵後の昭和天皇︶が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力した。 当時の裕仁親王は、赤坂にある東宮御所から、車での送迎で目白の学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったという。戦後の昭和40年代前半に、中曽根康弘が運輸大臣在任中に、昭和天皇への内奏で、刊行間もない司馬遼太郎の﹃殉死﹄に書かれている逸話[注釈 20]は本当でしょうかと尋ねたところ、おおむねその通りであるとの返答を得たという[158]。 明治45年︵1912年︶7月に明治天皇が崩御してから、乃木が殉死するまで3か月ほどの間、裕仁親王は乃木を﹁院長閣下﹂と呼んだ。これは、明治天皇の遺言によるものである。昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ[159][160]。殉死
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/66/House_of_Maresuke_Nogi.jpg/250px-House_of_Maresuke_Nogi.jpg)
自刃前の乃木
乃木は大正元年︵1912年︶9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王︵後の秩父宮雍仁親王︶および光宮宣仁親王︵後の高松宮宣仁親王︶に対し、山鹿素行の﹃中朝事実﹄と三宅観瀾の﹃中興鑑言﹄を渡し、熟読するよう述べた。当時11歳の裕仁親王は乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、﹁院長︵学習院︶閣下はどこかへ行かれるのですか﹂と聞いたという[161]。︵乃木は自刃の時まで学習院長であったため、自決後は院長が一時空席となっている。︶自刃
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/Nogi_Maresuke%27s_house.jpg/250px-Nogi_Maresuke%27s_house.jpg)
神あがりあがりましぬる大君の みあとはるかにをろがみまつる
うつ志世を神去りましゝ大君乃 みあと志たひて我はゆくなり
また、妻の静子は、
出でましてかへります日のなしときく けふの御幸に逢ふぞかなしき
乃木自刃に対する反応
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/08/Nogi-jinja_%28Minato%2C_Tokyo%29_haiden.jpg/200px-Nogi-jinja_%28Minato%2C_Tokyo%29_haiden.jpg)
相次ぐ乃木神社の建立
乃木の死去を受け、読売新聞のコラム﹁銀座より﹂では、乃木神社建立、乃木邸の保存、﹁新坂﹂の﹁乃木坂﹂への改称などを希望するとの意見が示された。その後、京都府、山口県、栃木県、東京府︵現・東京都︶、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立された[174]。 また、朝鮮半島にも朝鮮乃木神社[175]がある。評価
旅順攻囲戦における乃木の評価
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
司馬遼太郎らによる批判
乃木を無能・愚将であるとする主張が広まったのは、日本陸軍従軍経験のある作家・司馬遼太郎の小説﹃坂の上の雲﹄および﹃殉死﹄によるところが大きいとされている[181][182][178]。司馬は﹃坂の上の雲﹄および﹃殉死﹄において以下のように述べ、旅順における乃木を批判している。 (一)旅順攻囲戦当時、要塞攻撃についてはヴォーバンが確立した大原則が世界の陸軍における常識であったが、乃木は第1回総攻撃においてこれを採用しなかった[183]。 (二)ヴォーバンの戦術論︵近代要塞に対する攻撃方法︶に関する書物を読了することは軍人の当然の義務であった。しかし乃木は、近代要塞に関する専門知識を有しなかった[184]。 (三)乃木は司令部を過剰に後方へ設置したので、前線の惨状を感覚として知ることができず、児玉源太郎からも非難された[185]。 (四)第1回総攻撃は、あえて強靱な盤竜山および東鶏冠山の中央突破という机上の空論を実行に移したものであった[186]。 (五)早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずである。しかし、乃木は、203高地の攻略を頑なに拒み[187]、本来不要な旅順要塞全体の陥落にこだわった[188][189]。 (六)旅順要塞は無視してしまうのが正解であり、ロシア軍が旅順要塞から出撃してきた場合に備えて抑えの兵を残しておけば十分であった[190]。 (七)乃木は、児玉源太郎に指揮権を委譲し、ようやく、203高地を陥落させることができた。児玉が指揮を執らなかったなら、損害は拡大していた[191]。 この他、自身が陸軍少尉として日露戦争に従軍した宮脇長吉︵後に大佐、衆議院議員︶は、﹁乃木大将はほんとうに戦争がへただった﹂と語っていたという[注釈 22]。 また文学者のドナルド・キーンは、﹁明治天皇は乃木希典が嫌いだったと思う。乃木を学習院長に任命したが、これは名誉ある仕事なのか。乃木は教育者として強い信念があったわけでもない﹂と述べ、司馬の﹁乃木愚将論﹂に同調した[192]。司馬遼太郎への反論と乃木肯定論
乃木の行動を肯定する論説もあり、福田恆存﹁乃木将軍は軍神か愚将か﹂﹃中央公論﹄第85巻第13号、1970年12月、80-103頁。[注釈 23]、福井雄三﹁﹃坂の上の雲﹄に描かれなかった戦争の現実﹂﹃中央公論﹄第119巻第2号、2004年2月、61-72頁。[注釈 24]などが発表された。司馬遼太郎の主張に対する反論としては、桑原嶽[注釈 25]﹃名将 乃木希典︵第五版︶﹄︵中央乃木会、2005年︶および別宮暖朗﹃旅順攻防戦の真実﹄︵PHP文庫、2006年︶があり、以下のように乃木の判断を肯定している。 (一)乃木は、当時のヨーロッパにおける主要な軍事論文をすべて読破した理論派であった[195][196]。 (二)日露戦争当時、塹壕を突破して要塞を陥落させる方法は、ある程度の犠牲を計算に入れた歩兵による突撃以外に方法がなく、有効な戦術が考案されたのは第一次世界大戦中期であるから、後世の観点から乃木を批判すべきではない[197]。 (三)乃木率いる第3軍の司令部があまりに後方に設置されていたのと批判は当たらない。戦闘指令所が置かれた団山子東北方高地は、前線︵東鶏冠山︶まで直線距離にして3kmであり、戦況を手に取るように見える距離である。よって、攻撃中止の判断も迅速に行うことができた[198]。 (四)第3軍に大本営より手渡されていた旅順の地図には旅順要塞の堡塁配置などに誤りがあり︵例えば203高地などの前進陣地が書かれていない。東北方面の東鶏冠山などの堡塁が臨時築城の野戦陣地となっているなど︶日本軍全体で要塞の規模を把握していなかった。敵陣地の規模が不明な以上、攻略地点を自軍に有利な東北方面にする︵鉄道や道路があり部隊展開に有利。西北方面はそれがなく準備に時間を要しないと不利︶のは当たり前の決断と言える[199]。 (五)旅順要塞に対して残置すべき兵力は4万ほどになると思われるから、たとえ第3軍が北上しても奉天会戦において活躍することはできなかった[200][201]。 (六)児玉源太郎が第3軍に与えた指示は予備の重砲の配置転換であり、同士討ち覚悟の連続射撃も攻城砲兵司令部の判断で実施されている[202]。また児玉自身、作戦立案を第3軍参謀に行わせており、それを承認した上で攻撃を開始しており、彼自身の立案だったわけでもない[203]。 別宮暖朗は、乃木率いる第3軍が第1回総攻撃による被害が大きかったことを受けて、第2回総攻撃以降は突撃壕を掘り進めて味方の損害を抑える戦術に転換していることを評価すべきと主張する[204][205][206]。欧州各国陸軍も第1回総攻撃と同様の方法を採っていたのであるから、日露戦争当時にこの戦術を採用した乃木は評価されるべきである、という主張である[207][208]。 元防衛大学校教授・桑田悦は﹁乃木であればこそあの時期に旅順を攻略できた﹂と述べており[209]、大阪青山短期大学准教授・福井雄三も﹁精神的プレッシャーに強く平常心を失わずに部下を奮い立たせた乃木﹂として評価している[210]。乃木の人格に対する評価
質素と謹厳の代名詞
乃木が学習院院長に就任した後の明治40年︵1907年︶頃、﹁乃木式﹂という言葉が流行した。没後の大正4年︵1915年︶には﹃乃木式﹄という名称の雑誌も発行され、乃木の人格は尊敬を集めていた[211][212]。当時、乃木は、質素と謹厳の代名詞だった[213]。 乃木は、生前および死後を通じて詩や講談の題材に取り上げられ、伝記も数多く出版された。それら乃木を題材とした作品群は、﹁乃木文学﹂と言われた[214][215]。 幾つかの文献では、元帥となった記述があるが、乃木が元帥であった事実はない︵元帥の称号を贈る話はあったが、乃木本人が固辞したため︶。殉死に対する評価・議論
殉死直後から日本国内の新聞の多くはこれを肯定的に捉え[216]、乃木の行為を好意的に受け止める空気が一般的であった[217]。 新渡戸稲造は﹁日本道徳の積極的表現﹂、三宅雪嶺は﹁権威ある死﹂と論じ[217]、徳冨蘆花や京都帝国大学教授・西田幾多郎は、乃木の自刃に感動を覚え、武士道の賛美者でも社会思潮において乃木の賛同者でもないことを明言していた評論家の内田魯庵も、乃木の自刃に直感的な感動を覚えたと述べている[218]。 このような乃木の武士道的精神を評価する見方がある一方で、殉死は封建制の遺習であり、時代遅れの行為であると論ずる見方もあった[注釈 26]。東京朝日新聞[219]、信濃毎日新聞[217]︵主筆は桐生悠々︶などが乃木の自刃に対して否定的・批判的な見解を示した。 さらに、時事新報は、学習院院長などの重責を顧みず自刃した乃木の行為は武士道の精神に適うものではなく、感情に偏って国家に尽くすことを軽視したものであると主張し、加えて、もし自殺するのであれば日露戦争の凱旋時にすべきであったとまで述べた[220]。 白樺派は、生前の乃木を批判していたが、乃木の自刃についても厳しく批判した。特に武者小路実篤は、乃木の自刃は﹁人類的﹂でなく、﹁西洋人の本来の生命を呼び覚ます可能性﹂がない行為であり、これを賛美することは﹁不健全な理性﹂がなければ不可能であると述べた[221]。志賀直哉も日記で、乃木の殉死を﹁﹃馬鹿な奴だ﹄といふ気が、丁度下女かなにかゞ無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた﹂と突き放した。 社会主義者も乃木の自刃を批判した。例えば、荒畑寒村は、乃木を﹁偏狭な、頑迷な、旧思想で頭の固まった一介の老武弁に過ぎない﹂と評したうえで、乃木の行為を賛美する主張は﹁癲狂院の患者の囈語﹂︵精神病患者のたわごと︶に過ぎないと批判した。 乃木の殉死を否定的に論じた新聞は不買運動や脅迫に晒された。例えば時事新報は、投石や脅迫を受け、読者数が激減した[222]。 京都帝国大学教授・文学博士である谷本富は、自宅に投石を受け、教授を辞職せざるを得なくなった[223]。谷本は、乃木の﹁古武士的質素、純直な性格はいかにも立派﹂[注釈 27]と殉死それ自体は評価していたが、乃木については﹁衒気﹂であるから﹁余り虫が好かない人﹂であり、陸軍大将たる器ではない旨述べたことから、否定論者とみなされたのである[注釈 28]。 乃木の死を題材にした文学作品も多く発表されている。例えば、櫻井忠温の﹃将軍乃木﹄﹃大乃木﹄、夏目漱石﹃こころ﹄、森鷗外﹃興津弥五右衛門の遺書﹄﹃阿部一族﹄、司馬遼太郎の﹃殉死﹄、芥川龍之介の﹃将軍﹄、渡辺淳一の﹃静寂の声﹄などである。この中で大正時代に刊行された芥川の﹃将軍﹄は乃木を皮肉った作品で、大正デモクラシー潮流を推進するものであった[225]。日本国外における評価
旅順攻略戦中は一般国民にまで戦下手と罵られた。もっともこれはウラジオ艦隊捕捉に手こずった上村彦之丞中将と同じく結果が中々出ないのを批難されたものであり、旅順を攻略するとそれは称賛に変わった。さらに水師営の会見をはじめとする、多々の徳行・高潔な振舞いにより、稀代の精神家として徐々に尊敬の対象に変化していった。諸外国には各国観戦武官から乃木の用兵が紹介され、対塹壕陣地への正攻法が後年の第一次世界大戦で大々的に取り入れられるようになる[226]。また失敗した白襷隊の攻撃もドイツで研究され浸透戦術の雛型になった[要出典] 。各国報道機関では乃木を日本軍の名将として紹介している[173][注釈 29]。 日露戦争での日本の勝利は、ロシアの南下政策に苦しめられていたオスマン帝国で歓喜をもって迎えられた。乃木はオスマン帝国でも英雄となり、子どもに乃木の名前を付ける親までいたという[227]。人物・逸話
元帥府に列せられる前に殉死
現役の陸軍大将として軍事参議官に親補されていた乃木は、大正元年︵1912年︶に満62歳で殉死しており、前述の通り元帥府には列せられていない。しかし、乃木が殉死せずにもっと長生きしていれば、彼が元帥府に列せられていた可能性は高いとする説が有力である。 明治40年︵1907年︶に乃木が学習院長を兼任した時に、陸軍将校分限令の規定によって予備役に編入されるべきところを、明治天皇の勅命により現役に留まるという異例の人事がなされたことについて、桑原嶽は﹁これは当然、終身現役である元帥への昇進の含みもあったからであろう。﹂と述べている[144]。 もしも乃木が明治天皇に殉死していなかったら、乃木はいずれ元帥府に列せられたかどうかにつき、軍事史家の横山恵一は﹁歴戦の功将、人格高潔な武将という点で元帥を選考するなら、乃木は将に将たる器で、選に入ったのではないですか。﹂と述べ、秦郁彦は﹁︹乃木が︺生きていれば大正四年︹1915年︺に長谷川好道、貞愛親王、川村景明といっしょにね。﹂と述べている[12]。実際には前述の通り、乃木に元帥の称号を贈る話は生前からあったものの、本人がこれを固辞していたとも言われている。日露戦争における自責の念
乃木は、日露戦争において多くの兵士を無駄に死なせてしまったことを心底から悔い、生涯にわたって自責の念に苛まれ続けていた。乃木が前述の通り元帥の称号を断り、最終的に割腹自殺したのも、日露戦争で多くの兵士を死なせたことに対する自責の念が最大の理由だったとする意見は根強い。 ●前述の通り、日露戦争で多くの兵士を死なせたことを明治天皇に詫びた際にも、乃木は自ら死んで責任を取ることを希望したが、明治天皇は乃木の心情に理解を示しながらも、今はまだ死ぬべき時ではないと乃木を窘め、どうしても死にたいのであれば自分が死んだ後にしてもらいたい旨を述べて、その場は乃木の自殺を押しとどめたという。 ●時間があれば戦死者の遺族を訪問し、﹁乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思ってください。﹂と述べていた[228]。 ●東郷平八郎や上村彦之丞と共に、長野における戦役講演に招かれた際も乃木は勧められても登壇せず、その場に立ったまま、﹁諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります﹂とだけ言ったきり落涙し、それ以上何も言えなくなってしまった。その場に居合わせた人々も皆、乃木の心情を慮って涙したという[229]。 ●乃木は日露戦争で二人の息子を失った後、陸軍時代の部下であった佐藤正から養子を勧められていたが、乃木自身は戦争で多くの兵士を死なせた自責の念から、養子を取らず乃木家を断絶させる覚悟であると手紙に綴っている[230]。戦傷病者へのいたわり
●廃兵院を再三にわたって見舞い、多くの寄付を行った。乃木は、他者から寄贈を受けた物があると、そのほとんどを廃兵院に寄贈した[231]。そのため、廃兵院の入院者は乃木を強く敬愛し、乃木の死を聞いて号泣する者もあり、特に重体の者以外は皆、乃木の葬儀に参列した。また、廃兵院内には、乃木の肖像画を飾った遥拝所が設けられた[231][232]。 ●上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。この義手で書いたという負傷兵からのお礼を述べる手紙が乃木宛てに届き、乃木は喜んだという[233]。辻占売りの少年
楠木正成に対する尊敬
乃木は楠木正成を深く崇敬した。乃木の尽忠報国は正成を見習ったものである。乃木は正成に関する書物をできる限り集め考究した。正成が子の正行と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の﹁楠公父子訣別之所﹂という文字は乃木によって書かれたものである。そして、乃木は楠木正成について次のような歌を詠んでいる[235]。いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき
根も幹も枝ものこらず朽果てし 楠の薫りの高くもあるかな
元禄赤穂事件の批判
義挙と人口に膾炙する赤穂事件につき、乃木は天皇からの勅使を私怨での饗応放棄に加え﹁︵欠字︶寸のびの刀をさしてゆくこともず、更に後ろより斬りつけたる等々不心得も甚だし﹂など批判している[238]。但し、乃木の主家である長府藩主・毛利師就は江戸城の松の廊下にて乱心した水野忠恒から刃傷を受け、師就は吉良義央に倣い刀を抜かずに対応し、重傷を負ったが一命をとりとめている。赤穂義士を毛利家は罪人として厳しく扱った記録が残り[239][注釈 31]、現在でもお預かり四家で唯一、一切の供養塔や墓の類が長府毛利藩邸跡には存在が確認されていない[注釈 32]。また、乃木に影響を与えた吉田松陰[240]は米沢藩の古学者とも交流があり[241][注釈 33]、松陰神社の建てられた若林は吉良氏の領地だった[注釈 34]。このため公正な第三者の意見とは言い難い面もある[注釈 35]。健康状態
若い頃より歯が悪く、43歳の時点ですでに下顎に数本の歯が残っているのみであり、明治24年︵1891年︶には入れ歯が合わないことを理由とする休職願を陸軍大臣・高島鞆之助に提出している[242]。乃木が詠んだ漢詩
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/L%C3%BCshun_Prison_-_Example_Stored_in_Display_Room.jpg/200px-L%C3%BCshun_Prison_-_Example_Stored_in_Display_Room.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Ziziphus_jujuba%28m%29.jpg/150px-Ziziphus_jujuba%28m%29.jpg)
- 金州城外の作
山川草木轉荒涼 (山川草木
転 ()た荒涼)
十里風腥新戰場 (十里風腥 ()し新戦場)
征馬不前人不語 (征馬前 ()まず人語らず)
金州城外立斜陽 (金州城外斜陽に立つ)
- 爾霊山
爾靈山嶮豈難攀 (
爾霊山 ()の険豈に攀 ()ぢ難からんや)
男子功名期克艱 (男子功名克艱 ()を期す)
鐵血覆山山形改 (鉄血山を覆いて山形改まる)
萬人齊仰爾靈山 (万人斉 ()しく仰ぐ爾霊山)
- 爾霊山は203高地の当字。爾(なんじ)の霊の山という掛詞である。
- 凱旋
皇師百萬征強虜 (皇師百萬強虜を征す)
野戰攻城屍作山 (野戦攻城屍山を作 ()す)
愧我何顔看父老 (愧 ()ず我何の顔 ()あって父老に看 ()えん)
凱歌今日幾人還 (凱歌今日幾人か還る)
- 富岳を詠ず
崚曾富嶽聳千秋 (崚曾たる富岳千秋に
聳 ()ゆ)
赫灼朝暉照八州 (赫灼たる朝暉八洲を照らす)
休説區々風物美 (説くを休めよ区々風物の美)
地靈人傑是神州 (地霊人傑是れ神州)
乃木が詠んだ和歌
碑文の揮毫
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/71/Ogikubo-Hachiman-Jinja-20200730_%E5%BD%B0%E5%BF%A0%E7%A2%91_%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8_%E8%8D%BB%E7%AA%AA%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE.jpg/150px-Ogikubo-Hachiman-Jinja-20200730_%E5%BD%B0%E5%BF%A0%E7%A2%91_%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8_%E8%8D%BB%E7%AA%AA%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE.jpg)
唯一の肉声録音
肉声録音の概要
明治43年︵1910年︶1月31日、偕行社で加藤清正300年祭に関する第1回目の相談会が開かれた[246][247][248]。 その際、出席者の一人であった熊本の篤志家、湯地︵ゆじ︶丈雄の息子・敬吾が乃木に対し、蓄音機に声を吹き込んで欲しいと依頼した。すると乃木は、﹁ほう、それはおもしろい。皆さんと一緒に吹き込もうではないか。﹂と述べ、三上参次文学博士の紹介に次いで、﹁私は乃木希典であります﹂という声を吹き込んだ[249]。 この音声は、昭和5年︵1930年︶12月に相談会の出席者でもあった小笠原長生の解説を付して﹁乃木将軍の肉声と其憶出︵乃木将軍の肉声︶﹂として発売された[250]。 これは昭和館で聞くことができる[251]ほか、ビクターエンタテインメントが発売した﹁戦中歌年鑑︵1︶昭和4~12年﹂にも収録されている[252]。 ただし、﹁乃木将軍の肉声と其憶出︵乃木将軍の肉声︶﹂と後年発売のCDでは内容が異なる。﹁乃木将軍の肉声と其憶出︵乃木将軍の肉声︶﹂では小笠原の解説の後に﹁私は乃木希典であります﹂の録音が二度続くのに対し、CDでは三上の解説の後に乃木、小笠原、石栗剛三[注釈 37]、内村義一郎[注釈 38]、徳永熊雄[注釈 39]、高山昇、今井清彦[注釈 40]、湯地丈雄ほか1名[注釈 41]が次々と挨拶を吹き込んでいる[246]。 ﹁乃木将軍の肉声と其憶出︵乃木将軍の肉声︶﹂のB面には乃木の辞世、東郷平八郎および小笠原長生の詠んだ歌に橋本國彦が作曲し、合唱および徳山璉の歌唱による﹁乃木将軍の歌﹂が収録されている[253]。肉声録音の背景
この録音が実現した背景には、乃木とともにその肉声を吹き込んだ湯地丈雄が乃木の知遇を得ていたことから実現したもので、録音は湯地丈雄の息子である湯地敬吾が、自身が作成した円盤式録音装置で行われた[254][246][255]。 乃木と湯地丈雄の関係は明治24年︵1891年︶までさかのぼる。湯地丈雄の祖母である湯地津尾子が女手一つで丈雄に教育を施し、その善行貞節ぶりに乃木の母である壽子が私淑して教育方針に取り入れ、その流れで乃木自身も湯地津尾子を尊敬するようになった[256]。 乃木と湯地丈雄は、この明治24年︵1891年︶に第3師団で行われた元寇に関する湯地丈雄の講演会の後に開かれたパーティーで初めて対面したが[256]、この時乃木は、﹁外敵は今後も元寇と同様国の西北から来襲するとの確信から﹂[256]﹁元寇の講話をして国民の惰眠を醒まそうとする行動の動機﹂[256]について語った湯地丈雄に対し﹁君の祖母に当たる位の婦人の教育が然らしめた筈だ﹂と答えて湯地丈雄を驚かせた[256]。湯地丈雄はまた、乃木の私室に湯地津尾子が私塾の外で論語の素読を書き取っている姿が描かれている掛け軸が掛かっているのを見て、﹁以来将軍と私は肝胆相照らす﹂[256]関係を作ることとなった。 乃木らの肉声が収められたスタンパ︵湯地原版︶は湯地家の﹁家宝﹂[247]となり、長田幹彦の仲介で日本ビクターに有償譲渡された記録がある[257]。 その後、﹁乃木将軍の肉声と其憶出︵乃木将軍の肉声︶﹂が発売された同じ年に、日本ビクターおよび小笠原から乃木神社へ市販盤と、そのスタンパが奉納された[258]。それ以外の資料一切は、湯地家関連資料に関しては昭和20年︵1945年︶3月10日の東京大空襲で灰燼に帰して現存しない[257]。協栄生命保険元取締役[259]でSPレコード愛好家の志甫哲夫は、金属原盤をテープ化する頃には湯地原版のみ残存しており、そこからCD用の音源を制作したと推定しているが[260]、湯地原版の所在は﹁処分されたか或いは戦災で消失したか﹂で不明である[261]。なお、宝映が昭和32年︵1957年︶4月に公開した﹁日露戦争と乃木将軍﹂という映画には湯地原版が写っている[262]。また、長田幹彦によれば大正14年︵1925年︶11月3日︵明治節︶のJOAK︵東京放送局︶での講演放送で湯地原版を使用して乃木の肉声を放送したところ、﹁当時非常なセンセーションを捲き起した﹂[263]。その他
当該録音に先立つ明治42年︵1909年︶10月15日には、同じ偕行社で行われた加藤清正300年祭に関する第1回目の相談会で湯地敬吾が乃木の演説の録音に挑戦したが、この時の録音は復元が試みられたものの、最終的には再生は不可能だった[264]。 湯地丈雄・敬吾の湯地家と乃木の妻・静子の実家である湯地家とは血縁がない[265]。 読みについて志甫哲夫は、静子の実家である湯地家は﹁ゆち﹂であり、湯地丈雄・敬吾の湯地家は湯地富雄によれば読みは﹁ゆじ﹂であり、その理由として﹁父からの教え﹂・﹁細川侯がそう言って父︵敬吾︶を呼んでいた﹂・﹁熊本の知人がそう呼ぶ﹂ことを挙げていることを根拠としている[265]。乃木の愛馬
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経歴
略年譜
栄典
以下、乃木が受けた栄典︵勲章等︶について示す[267][268]。 位階 ●1886年︵明治19年︶10月28日 - 従四位[270] ●1893年︵明治26年︶4月11日 - 正四位[271] ●1896年︵明治29年︶12月21日 - 従三位[272] ●1904年︵明治37年︶6月16日 - 正三位[273] ●1909年︵明治42年︶7月10日 - 従二位[274] ●1916年︵大正5年︶11月3日 - 贈正二位[275] 勲章等 ●1878年︵明治11年︶1月30日 - 勲四等旭日小綬章 ●1885年︵明治18年︶4月7日 - 勲三等旭日中綬章[276] ●1889年︵明治22年︶11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[277] ●1894年︵明治27年︶5月29日 - 勲二等瑞宝章[278] ●1895年︵明治28年︶ ●8月20日 - 男爵・功三級金鵄勲章・旭日重光章[279] ●11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[280] ●1897年︵明治30年︶6月26日 - 勲一等瑞宝章[281] ●1906年︵明治39年︶4月1日 - 功一級金鵄勲章・旭日桐花大綬章・明治三十七八年従軍記章[282] ●1907年︵明治40年︶9月21日 - 伯爵[283] 外国勲章佩用允許 ●1906年︵明治39年︶9月8日 - プロイセン王国‥プール・ル・メリット勲章[284] ●1907年︵明治40年︶4月16日 - フランス共和国‥レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[285] ●1909年︵明治42年︶4月28日 - チリ共和国‥金製有功章[286] ●1911年︵明治44年︶ ●9月22日 - ルーマニア王国‥ルーマニア星︵エトアル・ド・ルーマニー︶勲章グランクロア[287] ●10月5日 - 大英帝国‥皇帝皇后両陛下戴冠記念章[287] ●1912年︵明治45年︶5月10日 - 大英帝国‥バス勲章ナイト・グランド・クロス[288]家族
家族構成 ●妻‥乃木静子︵1859–1912︶ ●子供 ●長男‥乃木勝典︵1879–1904︶ ●次男‥乃木保典︵1881–1904︶ ●長女‥乃木恒子︵1885–1886︶ ●乃木が歩兵第11旅団の旅団長として熊本に赴任していた際に生まれた子だったが、生後間もなく夭折し[289]、熊本県花岡山陸軍墓地の南側にある県営墓地に埋葬された[289]。 原田敬一によれば、文献によっては名前を﹁直子﹂とすることもあるものの、熊本市が立てた墓地の標識では﹁恒子﹂とされているという[290]。 ●三男‥乃木直典︵1889–1889︶ ●養子 ●乃木元智︵1880–1946︶ - 毛利子爵家の出身。1934年︵昭和9年︶に返上、毛利姓に復す[291][292][293]。 ●従兄 ●御堀耕助 ●親戚 ●玉木文之進 ●乃木高行 - 海軍少佐、正六位勲五等。父乃木希次の兄・乃木高蔵有伸の養子。高正の養子で、佐世保鎮守府海兵団副長などを勤めた。 乃木自刃後の乃木家 乃木伯爵家には世嗣がいなかった。乃木の子のうち長男および次男は日露戦争で戦死し、長女と三男は夭折しており、乃木の実弟・真人は萩の乱において戦死し、他の実弟・集作は大館氏の養子となっていたからである[294]。そこで、乃木の死から3年を経過した大正4年︵1915年︶9月13日、乃木家が属していた長府藩の旧藩主である子爵・毛利元雄の実弟・毛利元智が大正天皇から伯爵を授けられ、乃木伯爵家を再興しようとした。元智は乃木元智と改名し、乃木家再興の諸手続を済ませたが、これについて世論は反発した。﹁遺言条々﹂において乃木家の断絶を望んだ乃木の遺志に反し、藩閥政治の道具として乃木家が用いられていると世間の目には映ったのが理由である。元智は、1934年︵昭和9年︶に爵位を返上した[295]。著作
著書
●山鹿高興 著﹃中朝事實﹄上,下,乃木希典,国立国会図書館デジタルコレクション ●岡本学 編﹃修養訓﹄吉川弘文館、1912年2月。 NCID BA43169470。全国書誌番号:40002283。 ●岡本鷸園 編﹃乃木大将修養訓﹄三立社出版部、1912年5月。 NCID BA83458983。 ●日本弘道会青年部 編﹃乃木大将謹書教育勅語正義﹄大江書房、1913年10月。 NCID BA33209014。全国書誌番号:42004523。 ●荒川俊宗 編﹃乃木将軍献上書﹄至誠乃木会、1922年9月。全国書誌番号:43021080。 ●﹃乃木将軍歌詩集﹄乃木講元、1922年9月。 NCID BB12423760。全国書誌番号:42000913。 ●﹃乃木大将真筆﹄皆兵社、1925年9月。全国書誌番号:42017081。 ●﹃精神講話 乃木修養訓﹄三水社出版部、1927年10月。全国書誌番号:44061281。 ●玉木正之・根本惣三郎 編﹃噫々乃木将軍﹄菊香会本部、1927年12月。 NCID BA4292761X。全国書誌番号:46076247。 ●玉木正之 編﹃乃木大将遺香﹄文章院出版部、1934年4月。全国書誌番号:47016573。 ●渡部求 編﹃乃木大将真蹟﹄乃木頒徳会、1938年3月。 NCID BA49414985。全国書誌番号:46069976。 ●咆哮会 編﹃日本精神作興乃木修養訓﹄大洋社、1939年6月。 NCID BA64682618。全国書誌番号:46068601。校閲
●石村貞一﹃陸軍軍人読法誓文衍義﹄開文館、1907年11月。全国書誌番号:40004594。訓点
●山鹿素行﹃漢和中朝事実﹄東京国文社、1912年11月。 NCID BN06748007。全国書誌番号:42004758。 ●山鹿素行﹃新訳中朝事実﹄島津学堂訳述、三陽書院、1935年2月。 NCID BN09455388。全国書誌番号:47003444。敬書
●明治天皇﹃勅諭﹄帝国在郷軍人会下伊那郡聨合分会、1931年3月。全国書誌番号:47009702。詩歌集
●長谷川栄作 編﹃乃木大将歌集﹄主婦之友社、1927年2月。 NCID BN14157243。全国書誌番号:47016009。 ●和田政雄 編﹃乃木将軍詩歌集﹄鶴書房、1943年10月。 NCID BA30673536。 ●中央乃木会 編﹃乃木将軍詩歌集﹄日本工業新聞社、1984年1月。 NCID BN07747291。全国書誌番号:84058671。 ●﹃西郷隆盛・乃木希典﹄新学社︿近代浪漫派文庫3﹀、2006年4月。 NCID BA77011433。全国書誌番号:21143249。遺墨
●能勢天祐 編﹃乃木大将遺墨集﹄大阪中央乃木講社、1926年7月。 NCID BA30493206。全国書誌番号:43036286。 ●能勢天祐 編﹃乃木大将遺墨集﹄︵再版︶大阪中央乃木講社、1927年3月。全国書誌番号:21701234。 ●桑原江南 編﹃乃木希典大人遺墨﹄乃木希典大人遺墨刊行会、1976年。 NCID BA38592096。全国書誌番号:75048854。日記
●天野信太郎 編﹃乃木将軍日記﹄乃木将軍遺徳顕彰会、1936年10月。 NCID BA30206097。全国書誌番号:46070257。 ●和田政雄 編﹃乃木希典日記﹄金園社、1970年12月。 NCID BN02292376。全国書誌番号:73003241。全集
●﹃乃木希典全集﹄ 上、国書刊行会、1994年6月。 NCID BN11033991。全国書誌番号:94059106。 ●﹃乃木希典全集﹄ 中、国書刊行会、1994年7月。 NCID BN11033991。全国書誌番号:94063780。 ●﹃乃木希典全集﹄ 下、国書刊行会、1994年11月。 NCID BN11033991。全国書誌番号:95028751。 ●﹃乃木希典全集﹄ 補遺、国書刊行会、1997年12月。 NCID BN11033991。全国書誌番号:98075234。乃木を取り扱った作品
郵便切手
●普通切手︵第1次昭和︶﹁乃木大将︵2銭︶﹂ - 1937.5.10発行[296]︵第2項﹁生涯﹂の10章﹁日清戦争への従軍﹂の画像参照︶。 ●1942年 シンガポール陥落﹁乃木大将︵2銭︶寄付金1銭﹂ - 上記に﹁シンガポール陥落﹂スタンプと寄付金﹁+1﹂を追加したもの[297]。文学作品
●司馬遼太郎 ﹃殉死﹄﹃坂の上の雲﹄文春文庫など - ただし他の司馬小説と同様に、随所で史実のような語り口での創作・誤謬の記述がある。 ●池波正太郎 ﹃将軍﹄︵﹃賊将﹄収録︶新潮文庫 ●戸川幸夫 ﹃人間 乃木希典﹄光人社、学陽書房・人物文庫︵各・新版︶ ●﹃乃木と東郷﹄光人社、PHP文庫︵各・新版︶ ●古川薫 ﹃斜陽に立つ 乃木希典と児玉源太郎﹄文春文庫 ●スタンレー・ウォシュバン ﹃乃木大将と日本人﹄目黒真澄訳、講談社学術文庫︵新版︶ ●夏目漱石 ﹃こゝろ﹄岩波文庫など - 乃木の殉死を機に、明治の精神に強く影響された﹁先生﹂が自身も自殺を決意する。 ●森鷗外﹃興津弥五右衛門の遺書﹄ - 乃木の殉死に衝撃を受けた鷗外が霊前に捧げるつもりで2日で書き上げたと言われている短編。 ●芥川龍之介 ﹃将軍︵青空文庫︶﹄ - 乃木を皮肉ったものだが、初刊時は前半が官憲の検閲によって伏字だらけになっている[298]。 ●﹃将軍 乃木希典﹄志村有弘編 勉誠出版 2004 - 戦前期の作品全5編 ●高須芳次郎﹃乃木将軍詩歌物語﹄復刻版・島津書房 2013映像作品
●乃木将軍と生涯︵日活、1912年、演‥尾上松之助︶ ●乃木将軍︵日活向島、1918年、演‥山本嘉一︶ ●信州墓参 乃木将軍︵松竹蒲田、1921年、演‥関根達発︶ ●乃木大将伝︵松竹蒲田、1925年、演‥岩田祐吉︶ ●乃木将軍と熊さん︵日活大将軍、1925年、演‥山本嘉一︶ ●乃木将軍︵千代田映画、1926年、演‥関根達発︶ ●吉岡大佐︵日活大将軍、1926年、演‥山本嘉一︶ ●乃木将軍旅行日記︵マキノ御室、1927年、演‥関根達発︶ ●皇恩︵日活大将軍、1927年、演‥山本嘉一︶ ●擊滅︵日活太秦、1930年、演‥山本嘉一︶ ●陸軍大行進︵松竹蒲田、1932年、演‥岩田祐吉︶ ●乃木将軍︵日活多摩川、1935年、演‥山本嘉一︶ ●軍神乃木さん︵日活多摩川、1937年、演‥山本嘉一︶ ●明治天皇と日露大戦争︵新東宝、1957年、演‥林寛︶ ●天皇・皇后と日清戦争︵新東宝、1958年、演‥林寛︶ ●明治大帝と乃木将軍︵新東宝、1959年、演‥林寛︶ ●日本海大海戦︵東宝、1969年、演‥笠智衆︶ ●二百三高地︵東映東京、1980年、演‥仲代達矢︶ ●二百三高地 愛は死にますか︵テレビドラマ、演‥田村高廣︶ ●田原坂 (テレビドラマ)︵演‥国広富之︶ ●坂の上の雲 (テレビドラマ)︵NHK、演‥柄本明︶ ●いだてん~東京オリンピック噺~(大河ドラマ)︵NHK、演‥中村シユン︶ 乃木が殉死した2か月後、主演尾上松之助、監督牧野省三のゴールデンコンビによる﹃乃木将軍と生涯﹄が追悼公開された。6年後の1918年︵大正7年︶から山本嘉一が当たり役として乃木を7本演じた。戦前の作品は岩田祐吉が乃木を演じた﹃陸軍大行進﹄︵松竹蒲田、1932年︶の不完全版のみフィルムセンターにプリントが残っている。戦後は新東宝の﹁明治天皇もの﹂三部作と﹃日本海大海戦﹄の笠智衆と、乃木は全て脇役での登場であったが、1980年︵昭和55年︶の﹃二百三高地﹄での仲代達矢の熱演によって、ようやく乃木はスクリーンの主役に返り咲いた[299]。 もっとも、この映画での乃木は位置づけとしては群像劇の頂点であるのに対し、20年先立つ﹃明治大帝と乃木将軍﹄は、クレジット上の扱いは低い︵明治天皇、昭憲皇后をトップとして第二クレジットで4名連記の扱い︶ものの事実上全編乃木を主役として描いている。遊戯
- 手鞠歌 - 「日本の乃木さんが、凱旋す…」ではじまる手鞠歌がある。
- だるまさんがころんだ - 横浜市など、「乃木さんは偉い人」と数える地区がある。
脚注
注釈
出典
参考文献
●﹃西郷隆盛/乃木希典﹄新学社︿近代浪漫派文庫3﹀、2006年4月。ISBN 4-7868-0061-9。漢詩・語録の選集 ●伊藤之雄﹃政党政治と天皇﹄講談社︿日本の歴史 第22巻﹀、2002年9月。ISBN 4-06-268922-7。 ●伊藤之雄﹃政党政治と天皇 日本の歴史22﹄講談社︿講談社学術文庫﹀、2010年4月。ISBN 978-4-06-291922-7。 ●スタンレー・ウォシュバン﹃乃木大将と日本人﹄目黒真澄訳、講談社︿講談社学術文庫﹀、1980年1月。ISBN 978-4-06-158455-6。 ●大濱徹也﹃乃木希典﹄講談社︿講談社学術文庫﹀、2010年12月。ISBN 978-4-06-292028-5。 ●岡田幹彦﹃乃木希典-高貴なる明治﹄展転社、2001年2月。ISBN 4-88656-186-1。 ●桑原嶽﹃名将 乃木希典-司馬遼太郎の誤りを正す﹄︵第5版︶中央乃木会、2005年9月︵原著1990年9月︶。 ●桑原嶽﹃乃木希典と日露戦争の真実-司馬遼太郎の誤りを正す﹄PHP新書、2016年6月。ISBN 4-569-83014-5。改訂版 ●桑原嶽﹃乃木希典と日露戦争の真実-司馬遼太郎の誤りを正す﹄︵Amazon Kindle︶PHP研究所、2019年。 ●小堀桂一郎﹃乃木将軍の御生涯とその精神-東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録﹄国書刊行会、2003年4月。ISBN 4-336-04536-4。講演冊子 ●蔡焜燦﹃台湾人と日本精神︵リップンチェンシン︶-日本人よ胸をはりなさい﹄日本教文社、2000年7月。ISBN 4-531-06349-X。 ●蔡焜燦﹃台湾人と日本精神(リップンチェンシン)-日本人よ胸をはりなさい﹄小学館文庫、2001年8月。ISBN 4-09-402416-6。 ●佐々木英昭﹃乃木希典-予は諸君の子弟を殺したり﹄ミネルヴァ書房︿日本評伝選﹀、2005年8月。ISBN 4-623-04406-8。 ●司馬遼太郎﹃坂の上の雲4﹄︵新装版︶文藝春秋︿文春文庫﹀、1999年1月。ISBN 4-16-710579-9。 ●司馬遼太郎﹃坂の上の雲5﹄︵新装版︶文藝春秋︿文春文庫﹀、1999年2月。ISBN 4-16-710580-2。 ●司馬遼太郎﹃殉死﹄︵新装版︶文藝春秋︿文春文庫﹀、2009年8月。ISBN 978-4-16-766334-6。 ●千田稔﹃明治・大正・昭和華族事件録﹄新人物往来社、2002年7月。ISBN 4-404-02976-4。 ●千田稔﹃明治・大正・昭和華族事件録﹄新潮社︿新潮文庫﹀、2005年11月。ISBN 4-10-124641-6。 ●塚田清市 ﹃乃木大将事蹟﹄ 乃木十三日会、1916年 ●長南政義﹁第三軍参謀たちの旅順攻囲戦-﹁大庭二郎中佐日記﹂を中心とした第三軍関係者の史料による旅順攻囲戦の再検討-﹂﹃國學院法研論叢﹄第39号、2012年3月。 ●長南政義﹁乃木希典の奉天会戦 ロシア軍殲滅を目指した大運動戦﹂﹃歴史群像﹄学研パブリッシング、2014年8月。 ●戸川幸夫﹃人間 乃木希典 - 乃木夫妻の生涯の愛と真実﹄光人社、1988年。 ●中西輝政﹃乃木希典-日本人への警醒﹄国書刊行会、2010年4月。ISBN 978-4-336-05178-3。小冊子 ●日本博学倶楽部﹃日露戦争・あの人の﹁その後﹂-東郷平八郎、秋山兄弟から敵将ステッセルまで﹄PHP研究所︿PHP文庫﹀、2004年4月。ISBN 4-569-66169-6。 ●乃木神社、中央乃木會 監修﹃いのち燃ゆ-乃木大将の生涯﹄近代出版社、2009年2月。ISBN 978-4-907816-24-7。 ●﹃乃木希典日記﹄和田政雄編、金園社、1970年。 ●秦郁彦 編著﹃日本陸海軍総合事典﹄︵第2︶東京大学出版会、2005年。 ●半藤一利、横山恵一、秦郁彦、原剛﹃歴代陸軍大将全覧 明治篇﹄中央公論新社︿中公新書ラクレ 303﹀、2009年1月。ISBN 978-4-12-150303-9。 ●半藤一利 他﹃歴代陸軍大将全覧 明治編﹄︵Amazon Kindle︶中央公論新社︿中公新書ラクレ﹀、2013年。 ●福井雄三﹃﹁坂の上の雲﹂に隠された歴史の真実-明治と昭和の虚像と実像﹄︵文庫版︶主婦の友社、2007年12月。ISBN 978-4-07-258856-7。単行版は2004年刊。 ●福岡徹﹃軍神 乃木希典の生涯﹄文藝春秋、1970年。 ●福田和也﹃乃木希典﹄文藝春秋、2004年8月。ISBN 4-16-366210-3。 ●福田和也﹃乃木希典﹄文藝春秋︿文春文庫﹀、2007年8月。ISBN 978-4-16-759306-3。 ●別宮暖朗﹃﹁坂の上の雲﹂では分からない旅順攻防戦-乃木司令部は無能ではなかった﹄並木書房、2004年3月。ISBN 4-89063-169-0。 ●別宮暖朗﹃旅順攻防戦の真実-乃木司令部は無能ではなかった﹄PHP研究所︿PHP文庫﹀、2006年5月。ISBN 4-569-66605-1。 - 別宮 2004の増訂版。 ●別宮暖朗﹃﹁坂の上の雲﹂では分からない日露戦争陸戦-児玉源太郎は名参謀ではなかった﹄並木書房、2009年10月。ISBN 978-4-89063-249-7。 ●松下芳男﹃乃木希典﹄吉川弘文館︿人物叢書 新装版﹀、1985年12月。ISBN 4-642-05023-X。 ●松田十刻﹃乃木希典﹄PHP研究所︿PHP文庫﹀、2005年1月。ISBN 4-569-66322-2。 ●陸軍省﹃明治天皇御伝記史料 - 明治軍事史︵下︶﹄原書房︿明治百年史叢書﹀、1966年。 ●川北紘一監修﹃日本戦争映画総覧 映画黎明期から最新作まで 歴史群像パーフェクトファイル﹄学研パブリッシング、2011年9月。ISBN 4-05-404830-7。 ●志甫哲夫﹃SPレコード-その限りない魅惑の世界﹄ショパン、2008年。ISBN 978-4-88364-258-8。 ●﹃日露戦争-陸海軍、進撃と苦闘の五百日﹄学習研究社︿歴史群像シリーズ24﹀、1991年6月。ISBN 4-05-105609-0。 ●﹃学び考える歴史﹄浜島書店︿ニュータイプ中学歴史資料集﹀。 ●﹁︻総力特集︼二〇三高地の真実 ﹁旅順要塞﹂を陥落させた男たち﹂﹃歴史街道﹄2011/10/06発売号、PHP研究所、2011年11月、pp. 14-77。 ●木立順一﹃偉人伝‥児玉源太郎︵前篇︶現代人が今一番目指すべき姿﹄メディアポート、2014年4月 ISBN 978-4865580112。 ●廣木寧﹃天下なんぞ狂える―夏目漱石の﹃こころ﹄をめぐって﹄慧文社︵上・下︶、2016年 ISBN 978-4863301702 & ISBN 978-4863301719。 ●大野粛英、羽坂勇司、齋藤眞且、高橋滋樹、安藤嘉明﹁乃木希典大将の総義歯と上顎石膏模型﹂﹃日本歯科医史学会会誌﹄第30巻第2号、日本歯科医史学会、2013年4月、113-114頁、ISSN 0287-2919、NAID 110009615408。 ●原田敬一﹁﹁万骨枯る﹂空間の形成 陸軍墓地の制度と実態を中心に﹂︵pdf︶﹃佛教大学文学部論集﹄第82号、佛教大学、1998年。2017年3月26日閲覧。関連項目
●乃木家 (伯爵家) ●沙沙貴神社 ●讃岐うどん - 全国に広まった理由として、乃木が陸軍第11師団の師団長時代に部隊食にするよう提案したのがきっかけとする説がある。 ●塚田清市 - 長く乃木の副官を務め、乃木の殉死後に乃木家の遺言執行者となった。 ●乃木町 (台北市) ●乃木坂 ●長谷川栄作 - 乃木の甥にあたる彫刻家。乃木の彫像などを制作した。 ●野球害毒論 - 東京朝日新聞に野球害毒論者として談話を掲載された。 ●自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧 ●旧制第一高等学校 - 寄宿舎は﹁東・西・南・北・中・朶・明・和﹂の八寮があったが、この内の朶寮︵読み﹁ダリョウ﹂。1904年完成︶は乃木希典に因んで命名された。外部リンク
- 近代日本人の肖像「乃木希典」 - 国立国会図書館
- 乃木希典宛書簡(伊藤保一氏旧蔵) - 国立国会図書館 憲政資料室
- 乃木神社
- 姓氏類別大観 宇多源氏【10】 《野木氏》系譜 - 日本の苗字7000傑
- 乃木将軍と二愛児(写真)、殉死当日の大将夫妻(写真)『皇室写真帖』皇室写真帖編纂所 編 (皇室写真帖発行所, 1922)
- 乃木大将邸『大東京写真帖』1930年
- 『乃木希典』 - コトバンク
軍職 | ||
---|---|---|
先代 佐久間左馬太 |
第2師団長 第2代:1895年4月5日 - 1896年10月14日 |
次代 西寛二郎 |
先代 (新設) |
第11師団長 初代:1898年10月1日 - 1901年5月22日 |
次代 沖原光孚 |
公職 | ||
先代 桂太郎 |
台湾総督 第3代:1896年10月14日 - 1898年2月26日 |
次代 児玉源太郎 |
学職 | ||
先代 山口鋭之助 |
学習院長 第10代:1907年1月31日 - 1912年9月13日 |
次代 白鳥庫吉 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
伯爵 乃木(希典)家初代 1907年 - 1912年 |
次代 栄典喪失 |
先代 叙爵 |
男爵 乃木(希典)家初代 1895年 - 1907年 |
次代 陞爵 |
- 乃木希典
- 乃木傳庵家
- 上士階層出身の明治期の著名人
- 大日本帝国陸軍大将
- 西南戦争の人物
- 日清戦争の人物
- 日露戦争の人物
- 台湾総督
- 19世紀アジアの軍人
- 20世紀アジアの軍人
- 日本の伯爵
- 日本の男爵
- 学習院
- 隻眼の人物
- スカウト関係者
- 日本のスカウト運動
- 日本の漢詩人
- 19世紀日本の詩人
- 20世紀日本の詩人
- 20世紀日本の教育者
- 幕末長府藩の人物
- 山口県出身の人物
- 日本の神 (人物神 軍人)
- 乃木神社 (東京都港区)
- 自殺した日本の人物
- 切腹した人物
- 明治天皇
- 正二位受位者
- 勲一等旭日桐花大綬章受章者
- 勲一等瑞宝章受章者
- 功一級金鵄勲章受章者
- プール・ル・メリット勲章戦功章受章者
- レジオンドヌール勲章グラントフィシエ受章者
- バス勲章
- 1849年生
- 1912年没
- 青山霊園に埋葬されている人物