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| 死没 = [[慶長]]5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]([[1600年]][[11月6日]])(41歳没)

| 死没 = [[慶長]]5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]([[1600年]][[11月6日]])(41歳没)

| 改名 = 佐吉(幼名)、三也、三成

| 改名 = 佐吉(幼名)、三也、三成

| 別名 = 石田治部少輔

| 別名 =

| 戒名 = 江東院正軸因公大禅定門

| 戒名 = 江東院正軸因公大禅定門

| 墓所 = [[大徳寺|大徳寺三玄院]]、[[高野山]]奥の院、[[滋賀県]][[彦根市]][[佐和山遊園]]内、[[京都市]][[妙心寺]]内[[壽聖院]]

| 墓所 = [[大徳寺|大徳寺三玄院]]、[[高野山]]奥の院、[[滋賀県]][[彦根市]][[佐和山遊園]]内、[[京都市]][[妙心寺]]内[[壽聖院]]

| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[治部省|治部少輔]]

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| 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]

| 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]

| 氏族 = [[桓武平氏]][[平良文|良文]]流[[三浦]]支流[[石田氏]]

| 氏族 = [[桓武平氏]][[平良文|良文]]流[[三浦]]支流[[蘆名氏]]庶流[[石田氏]]?

| 父母 = 父:[[石田正継]]、母:[[岩田氏]]([[瑞岳院]])

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| 兄弟 = [[石田弥治郎|弥治郎]]、[[石田正澄|正澄]]、'''三成'''、[[福原長堯]]正室、

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| 子 = [[石田重家|重家]]、[[石田重成|重成]]、[[深長坊清幽|佐吉]](清幽)、山田隼人正室、小石殿([[岡重政]]室)、[[大舘御前|辰姫]]([[津軽信枚]]室)、八郎?

| 子 = [[石田重家|重家]]、[[石田重成|重成]]、[[深長坊清幽|佐吉]](清幽)、山田隼人正室、小石殿([[岡重政]]室)、[[大舘御前|辰姫]]([[津軽信枚]]室)、八郎?

}}

}}



''' ''' [[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref>{{Citation||author=|editor=|year=2009|title= 5|publisher=|page=101}}</ref>[[]][[]][[]]西[[]][[]]

'''石田 三成'''(いしだ みつなり)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]・[[大名]]。[[豊臣家]]家臣。[[豊臣政権]]の[[奉行]]として活動し、[[五奉行]]のうちの一人となる<ref>{{Citation|和書|author=上田正昭ほか監修|editor=三省堂編修所|year=2009|title=コンサイス日本人名事典 第5版|publisher=三省堂|page=101}}</ref>。[[豊臣秀吉]]の死後、[[徳川家康]]打倒のために決起して、[[毛利輝元]]ら諸大名とともに西軍を組織したが、[[関ヶ原の戦い]]において敗れ、京都[[六条河原]]で処刑された。



== 生涯 ==

== 生涯 ==


=== 秀吉の子飼い ===

=== 秀吉の子飼い ===

[[ファイル:Birthplace of Ishida Mitsunari.jpg|thumb|240px|石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)]]

[[ファイル:Birthplace of Ishida Mitsunari.jpg|thumb|240px|石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)]]

[[永禄]]3年([[1560年]])、[[石田正継]]の三男(長男・[[石田弥治郎]]は早世しているため、事実上は次男)として[[近江国]][[坂田郡]]石田村(現在の[[滋賀県]][[長浜市]]石田町)で誕生した。幼名は佐吉。

[[永禄]]3年([[1560年]])、[[石田正継]]の三男(長男・[[石田弥治郎]]は早世しているため、事実上は次男)として[[近江国]][[坂田郡]]石田村(現在の[[滋賀県]][[長浜市]]石田町)で誕生した。幼名は佐吉。

[[北面武士]]であった[[下毛野氏|下毛野]][[朝臣]]の一族、もしくは[[三浦氏|三浦一族]]である[[相模国]][[大住郡]]石田郷(現・[[神奈川県]][[伊勢原市]]石田)の住人[[石田為久]]の末裔とされるほか、石田村は古くは石田郷ともいい、[[石田氏]]は郷名を苗字とした[[土豪]]であったともいわれている。

[[北面武士]]であった[[下毛野氏|下毛野]][[朝臣]]の一族、もしくは[[三浦氏|三浦氏流]][[蘆名氏|蘆名支流]]である[[相模国]][[大住郡]]糟屋庄石田郷(現・[[神奈川県]][[伊勢原市]]石田)の住人[[石田為久]](為重)の末裔と自称されるほか、石田村は古くは石田郷ともいい、[[石田氏]]は郷名を苗字とした[[土豪]]であったともいわれている。




[[|]][[]][[ ()|]][[]]2[[1574]][[|]][[]]5[[1577]]

[[|]][[]][[ ()|]][[]]2[[1574]][[|]][[]]5[[1577]]
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秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの[[羽織]]を与えた。同年、[[越後国]]の[[上杉景勝]]が秀吉に臣従を誓うために[[上洛]]してきたとき、これを斡旋した。

秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの[[羽織]]を与えた。同年、[[越後国]]の[[上杉景勝]]が秀吉に臣従を誓うために[[上洛]]してきたとき、これを斡旋した。




[[]][[]][[]]15[[1587]][[]][[]]{{sfn||1996|p=19}}[[]]

また、秀吉から[[堺奉行]]に任じられる。

三成は[[堺]]を完全に従属させ、[[兵站]]基地として整備する。


15[[1587]][[]][[]]{{sfn||1996|p=19}}[[]]


九州平定後、[[博多]]奉行を命じられ、軍監の[[黒田孝高]]らとともに博多町割り、復興に従事した。


[[]][[]]16[[1588]][[ ()|]][[]][[]]

また、天正16年([[1588年]])、[[取次 (豊臣政権)|取次]]として[[薩摩国]]の[[島津義久]]の秀吉への謁見を斡旋した。



天正17年([[1589年]])、[[美濃国]]を検地する。天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]に参陣。秀吉から[[後北条氏]]の支城の[[館林城]]、[[忍城]]攻撃を命じられる。[[忍城の戦い|忍城攻め]]では[[元荒川]]の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が[[石田堤]]として周囲に現存している<ref>{{Citation|和書 |editor=岡山市教育委員会 |title= 備中高松城水攻め築堤跡 高松城水攻め築堤公園建設に伴う確認調査 |date= 2008 |page= 24 |url= http://sitereports.nabunken.go.jp/12803}}</ref>。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である[[小田原城]]よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。

天正17年([[1589年]])、[[美濃国]]を検地する。天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]に参陣。秀吉から[[後北条氏]]の支城の[[館林城]]、[[忍城]]攻撃を命じられる。[[忍城の戦い|忍城攻め]]では[[元荒川]]の水を城周囲に引き込む[[水攻め]]が行われ、その際の遺構が[[石田堤]]として周囲に現存している<ref>{{Citation|和書 |editor=岡山市教育委員会 |title= 備中高松城水攻め築堤跡 高松城水攻め築堤公園建設に伴う確認調査 |date= 2008 |page= 24 |url= http://sitereports.nabunken.go.jp/12803}}</ref>。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である[[小田原城]]よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。


[[]][[ ()|]][[]][[]]

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19[[1591]]4[[|]][[]][[]][[|]]<ref name="">42003</ref>

天正19年([[1591年]])4月、近江[[佐和山城|佐和山]]に入城する。

ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる[[城代]]としての入城であった。

当時の三成の所領は美濃国内、[[安八郡]][[神戸町|神戸]]とその周辺にあったと推定されている<ref name="伊藤真昭">伊藤真昭「石田三成佐和山入城の時期について」『洛北史学』4号、2003年</ref>。



[[ファイル:Ishida Mitsunari's letter to Toyotomi Hideyoshi.jpg|thumb|300px|朝鮮から、[[大音新介]]に送った三成の書状]]

[[ファイル:Ishida Mitsunari's letter to Toyotomi Hideyoshi.jpg|thumb|300px|朝鮮から、[[大音新介]]に送った三成の書状]]

[[文禄]]元年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]](朝鮮出兵)では渡海し、[[増田長盛]]や[[大谷吉継]]とともに[[漢城]]に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年([[1593年]])、[[碧蹄館の戦い]]や[[幸州山城の戦い]]に参加。その後、[[明]]軍の講和使・[[謝用梓]]、[[徐一貫]]を伴って[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。


[[]][[1592]][[#|]][[]][[]][[]]2[[1593]][[]][[]][[]]使[[]][[]][[|]][[]][[]][[]]

しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で[[福島正則]]、[[黒田長政]]ら武断派の反発を招いた。



文禄3年([[1594年]])、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった[[藤原惺窩]]や[[大村由己]]らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している{{Sfn|谷|2018|pp=12-13}}。


3[[1594]]93[[]][[]]{{Sfn||2018|pp=12-13}}[[]][[]]

また、この年に[[島津氏]]・[[佐竹氏]]の領国を奉行として検地する。



文禄4年([[1595年]])、秀吉の命により、秀吉の甥・[[豊臣秀次]]を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。

文禄4年([[1595年]])、秀吉の命により、秀吉の甥・[[豊臣秀次]]を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。

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[[]][[]]<ref>{{Cite book| |author= |chapter=  |title=    |date= 2014 |publisher=  |pages= 24-25 |isbn= 978-4-86403-139-4}}</ref>[[]][[|]]

[[]][[]]<ref>{{Cite book| |author= |chapter=  |title=    |date= 2014 |publisher=  |pages= 24-25 |isbn= 978-4-86403-139-4}}</ref>[[]][[|]]


慶長3年([[1598年]])、秀吉は[[小早川秀秋]]の領地であった[[筑後国]]・[[筑前国]]三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している

慶長3年([[1598年]])、秀吉は[[小早川秀秋]]の領地であった[[筑後国]]・[[筑前国]]三成を加増移封しようとしたが、三成は辞退し

しかし、筑後国・筑前国の[[蔵入地]]の代官に任命されて[[名島城]]を与えられた。

しかし、秀吉の直割地となった筑後国・筑前国の[[蔵入地]]の代官に任命されて[[名島城]]を与えられ事実上支配した。



慶長4年([[1599年]])に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた<ref>「島津家文書」二‐九七八</ref>。

慶長4年([[1599年]])に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた<ref>「島津家文書」二‐九七八</ref>。

しかし、慶長3年([[1598年]])8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、かわって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。


3[[1598]]8退


=== 秀吉死後 ===

=== 秀吉死後 ===

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戦いに敗れた三成は、[[伊吹山]]の東にある[[相川山]]を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して[[姉川]]に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、[[小谷城|小谷山]]の谷口から[[高時川]]の上流に出て古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた[[田中吉政]]の追捕隊に捕縛された。

戦いに敗れた三成は、[[伊吹山]]の東にある[[相川山]]を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して[[姉川]]に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、[[小谷城|小谷山]]の谷口から[[高時川]]の上流に出て古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた[[田中吉政]]の追捕隊に捕縛された。




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10月1日、家康の命により[[六条河原]]で[[斬首刑|斬首]]された。[[享年]]41。[[辞世]]は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は[[三条大橋|三条河原]]に晒された後、生前親交のあった[[春屋宗園]]、[[沢庵宗彭]]に引き取られ、京都[[大徳寺]]の三玄院に葬られた。

10月1日、家康の命により[[六条河原]]で[[斬首刑|斬首]]された。[[享年]]41。[[辞世]]は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は[[三条大橋|三条河原]]に晒された後、生前親交のあった[[春屋宗園]]、[[沢庵宗彭]]に引き取られ、京都[[大徳寺]]の三玄院に葬られた。

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* 家康に従軍した[[板坂卜斎]]は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成はほとんど蓄えを持っていなかったと記している(『[[慶長年中卜斎記]]』<ref>近藤瓶城編『史籍集覧』第26冊1902年、p66</ref>、寛永年間成立)。

* 家康に従軍した[[板坂卜斎]]は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成はほとんど蓄えを持っていなかったと記している(『[[慶長年中卜斎記]]』<ref>近藤瓶城編『史籍集覧』第26冊1902年、p66</ref>、寛永年間成立)。

* 三成が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので[[干し柿]]を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。(『[[明良洪範]]』<ref>『明良洪範』国書刊行会1912年、p467</ref>[[享保]]以降成立)。なお、[[横浜一庵]]から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候(私の好物をよくご存知ですね)」と書いている<ref>某年10月7日付石田三成自筆書状(「廓坊文書」)</ref>ことや、ほかにも三成への柿の贈答が記録されたことから、三成の好物が柿だったことは広く世間に知られており、柿の逸話とも関連がある可能性がある{{Sfn|谷|2018|p=11}}。

* 三成が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので[[干し柿]]を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。(『[[明良洪範]]』<ref>『明良洪範』国書刊行会1912年、p467</ref>[[享保]]以降成立)。なお、[[横浜一庵]]から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候(私の好物をよくご存知ですね)」と書いている<ref>某年10月7日付石田三成自筆書状(「廓坊文書」)</ref>ことや、ほかにも三成への柿の贈答が記録されたことから、三成の好物が柿だったことは広く世間に知られており、柿の逸話とも関連がある可能性がある{{Sfn|谷|2018|p=11}}。

* 三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城でさらされた。このとき、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った(『[[武功雑記]]』<ref>近藤瓶城編『続史籍集覧』第7冊1930年</ref>、寛文年間成立)。

* 三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城でさらされた。このとき、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った(『[[武功雑記]]』<ref>近藤瓶城編『続史籍集覧』第7冊1930年</ref>、寛文年間成立)。小早川秀秋は「亡き太閤を裏切って恥ずかしくないのか」と罵り、黒田長政に同情させられると涙を流した。<ref>{{Cite web|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f6857b13cf6117d78b0a636f5088954db95f7886|title=【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦後、無念の最期を迎えた石田三成の気骨あふれる魂の言葉とは(渡邊大門)|website=エキスパート|publisher=Yahoo!ニュース|date=2021-10-18|accessdate=2024-05-09}}</ref>

* 関ヶ原の戦いの直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の[[浪人]]を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあのとき、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという([[多賀谷英珍]]『[[遺老物語]]』)。

* 関ヶ原の戦いの直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の[[浪人]]を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあのとき、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという([[多賀谷英珍]]『[[遺老物語]]』)。



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少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の[[頭蓋骨]]から復顔した肖像画を取り上げる。

少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の[[頭蓋骨]]から復顔した肖像画を取り上げる。



関ヶ原の戦いから約300余年を経た[[明治]]40年([[1907年]])、[[時事新報社]]と実業家・[[朝吹英二]]の呼びかけで、[[東京大学|東京帝国大学]]の[[渡辺世祐]]が三成の伝記執筆のために、[[大徳寺]]三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。このとき発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。[[京都大学|京都帝国大学]]解剖学教室の[[足立文太郎]]が遺骨を鑑定調査し、1943年に[[清野謙次]]が調査を引き継ぎ<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210515-00237922 関ヶ原合戦後に斬られた石田三成。その遺骨から判明した衝撃的な事実とは][[渡辺大門]]、Yahooニュース、2021/5/15</ref>、損傷が激しい頭蓋骨を丹念に接合・復元し、遺骨の正確な記録・写真・計測表・透視図を作成し鑑定文を執筆した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」で、このとき頭蓋骨の石膏模型が作られた。なお、三成の遺骨は当初の場所と位置を変えて、再び三玄院に埋葬された。

関ヶ原の戦いから約300余年を経た[[明治]]40年([[1907年]])、[[時事新報社]]と実業家・[[朝吹英二]]の呼びかけで、[[東京大学|東京帝国大学]]の[[渡辺世祐]]が三成の伝記執筆のために、[[大徳寺]]三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。このとき発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。[[京都大学|京都帝国大学]]解剖学教室の[[足立文太郎]]が遺骨を鑑定調査し、1943年に[[清野謙次]]が調査を引き継ぎ<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/16a14fe72241a52c020b09efa3a206c7b4a30d36 関ヶ原合戦後に斬られた石田三成。その遺骨から判明した衝撃的な事実とは][[渡辺大門]]、Yahooニュース、2021/5/15</ref>、損傷が激しい頭蓋骨を丹念に接合・復元し、遺骨の正確な記録・写真・計測表・透視図を作成し鑑定文を執筆した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」で、このとき頭蓋骨の石膏模型が作られた。なお、三成の遺骨は当初の場所と位置を変えて、再び三玄院に埋葬された。



下って[[昭和]]51年([[1976年]])、末裔の一人である[[石田多加幸]](写真家)からの依頼を受け、[[東京科学警察研究所]]元主任技官・[[長安周一]]が先の鑑定調査を元に[[石膏]][[復顔]]を行った。さらにそれを元に[[関西医科大学]]の[[石田哲郎]]の指導の下、昭和55年([[1980年]])3月、[[日本画家]]・[[前田幹雄]]の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、[[大坂城|大阪城]]天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている<ref>市立長浜城歴史博物館編集・発行 『没後四〇〇年特別展覧会 石田三成 ─秀吉を支えた知の参謀─』 1999年10月22日</ref><ref>市立長浜城歴史博物館編集・発行 『文化財保護五〇年記念 特別展覧会 石田三成 第二章 ─戦国を疾走した秀吉奉行─』 2000年10月27日</ref>。

下って[[昭和]]51年([[1976年]])、末裔の一人である[[石田多加幸]](写真家)からの依頼を受け、[[東京科学警察研究所]]元主任技官・[[長安周一]]が先の鑑定調査を元に[[石膏]][[復顔]]を行った。さらにそれを元に[[関西医科大学]]の[[石田哲郎]]の指導の下、昭和55年([[1980年]])3月、[[日本画家]]・[[前田幹雄]]の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、[[大坂城|大阪城]]天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている<ref>市立長浜城歴史博物館編集・発行 『没後四〇〇年特別展覧会 石田三成 ─秀吉を支えた知の参謀─』 1999年10月22日</ref><ref>市立長浜城歴史博物館編集・発行 『文化財保護五〇年記念 特別展覧会 石田三成 第二章 ─戦国を疾走した秀吉奉行─』 2000年10月27日</ref>。

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=== 子女 ===

=== 子女 ===


{{Wikisource||3=西}}

3男3女もしくは2男5女がいたとされる。三成本人は家康の命により死罪となったものの、子孫には比較的寛容であったことは特徴的である。

3男3女もしくは2男5女がいたとされる。三成本人は家康の命により死罪となったものの、子孫には比較的寛容であったことは特徴的である。

* 長男:[[石田重家]] - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され[[出家]]。父・三成と親交が深かった[[春屋宗園]]の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に[[祖心尼]]がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる[[岡吉右衛門]]に娘おたあを嫁がせている(以下、次女・小石殿の項参照)。また、重家の子直重<ref name="名前なし-20230316130729">[https://president.jp/articles/-/27414?page=1 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情]</ref>は[[松平忠直]]の庇護をうけ{{要出典|date=2019年4月|}}、国替えで[[越後高田藩]]に入封した際に随伴。{{要出典|date=2019年4月|}}[[妙高市]](妙高高原一)の新田開発を命ぜられ、以降、当地に定住した。

* 長男:[[石田重家]] - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され[[出家]]。父・三成と親交が深かった[[春屋宗園]]の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に[[祖心尼]]がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる[[岡吉右衛門]]に娘おたあを嫁がせている(以下、次女・小石殿の項参照)。また、重家の子直重<ref name="名前なし-20230316130729">[https://president.jp/articles/-/27414?page=1 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情]</ref>は[[松平忠直]]の庇護をうけ{{要出典|date=2019年4月|}}、国替えで[[越後高田藩]]に入封した際に随伴。{{要出典|date=2019年4月|}}[[妙高市]](妙高高原一)の新田開発を命ぜられ、以降、当地に定住した。

また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目の直重(重家の子)の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが<ref name="名前なし-20230316130729"/>、それを示す史料は戦争で燃えたという<ref>[https://president.jp/articles/-/27414?page=2 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情 ]</ref>。

また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目の直重(重家の子)の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが<ref name="名前なし-20230316130729"/>、それを示す史料は戦争で燃えたという<ref>[https://president.jp/articles/-/27414?page=2 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情 ]</ref>。

* 次男:[[石田重成]] - 関ヶ原の戦い後、[[津軽信建]]の助力で畿内を脱出。[[津軽氏]]にかくまわれ、杉山源吾を名乗る。のちに[[弘前藩]][[家老]]職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。

* 次男:[[石田重成]] - [[関ヶ原の戦い]]後、[[津軽信建]]の助力で[[畿内]]を脱出。[[若狭国]][[小浜]]に逃れた後、[[津軽氏]]にかくまわれ、杉山源吾を名乗る。のちに[[弘前藩]][[家老]]職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。

* 長女:某 - 名は定かではないが、生前は吹殿と呼ばれていたという説がある。石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。山田隼人正の叔母は家康の側室・[[茶阿局]]で、その縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ[[松平忠輝]]に2万5,000石にて仕えた。山田隼人正は忠輝改易後は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた(ただし異説あり)。

* 長女:某 - 名は定かではないが、生前は吹殿と呼ばれていたという説がある。石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。山田隼人正の叔母は家康の側室・[[茶阿局]]で、その縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ[[松平忠輝]]に2万5,000石にて仕えた。山田隼人正は忠輝改易後は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた(ただし異説あり)。

* 次女:小石殿 - [[蒲生氏|蒲生家]]の家臣[[岡重政]](岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主・[[蒲生忠郷]]の母・[[正清院|振姫]](家康の三女)の勘気に触れ)、[[江戸幕府|幕府]]により[[江戸]]に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のちに[[若狭国]]へ移り住み、[[小浜市|小浜]]で没したと伝わる。子の[[岡吉右衛門]]の娘は[[徳川家光]]の側室・[[自証院|お振の方(自証院)]](三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・[[霊仙院|千代姫]]を産んだ。[[尾張徳川家]]に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・[[徳川宗春]]まで続き、さらに女系(千代姫の孫[[徳川吉通]]の娘[[信受院|三千君]])を通じ[[二条家]]、[[九条家]]を経て[[貞明皇后]]、そして現在の[[皇室]]などに三成の血を伝えている(系譜 '''石田三成''' - 小石殿 - 岡吉右衛門 - [[自証院]] - [[霊仙院]](千代姫) - [[徳川綱誠]] - [[徳川吉通]] - [[信受院|三千君]] - [[二条宗基]] - [[二条治孝]] - [[九条尚忠]] - [[九条道孝]] - [[貞明皇后]] - [[昭和天皇]])。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。

* 次女:小石殿 - [[蒲生氏|蒲生家]]の家臣[[岡重政]](岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主・[[蒲生忠郷]]の母・[[正清院|振姫]](家康の三女)の勘気に触れ)、[[江戸幕府|幕府]]により[[江戸]]に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のちに[[若狭国]]へ移り住み、[[小浜市|小浜]]で没したと伝わる。子の[[岡吉右衛門]]の娘は[[徳川家光]]の側室・[[自証院|お振の方(自証院)]](三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・[[霊仙院|千代姫]]を産んだ。[[尾張徳川家]]に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・[[徳川宗春]]まで続き、さらに女系(千代姫の孫[[徳川吉通]]の娘[[信受院|三千君]])を通じ[[二条家]]、[[九条家]]を経て[[貞明皇后]]、そして現在の[[皇室]]などに三成の血を伝えている(系譜 '''石田三成''' - 小石殿 - 岡吉右衛門 - [[自証院]] - [[霊仙院]](千代姫) - [[徳川綱誠]] - [[徳川吉通]] - [[信受院|三千君]] - [[二条宗基]] - [[二条治孝]] - [[九条尚忠]] - [[九条道孝]] - [[貞明皇后]] - [[昭和天皇]])。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。


* [[|]] - [[]]2[[]][[]]3[[]][[#%E9%9B%85%E6%A5%BD%E9%A0%AD%E9%85%92%E4%BA%95%E5%AE%B6|]]

* [[|]] - [[]]2[[]][[]]3[[]][[#|]]

* 三男:佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・[[石田正澄]]に仕えていた[[津田清幽]]が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた[[長谷川守知]]が裏切り[[小早川秀秋]]、[[田中吉政]]の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった[[木食応其]]の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。

* 三男:佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・[[石田正澄]]に仕えていた[[津田清幽]]が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた[[長谷川守知]]が裏切り[[小早川秀秋]]、[[田中吉政]]の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった[[木食応其]]の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。

上記の3男3女は全て正室の[[皎月院]]の所生だが、このほかに側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。写真家・[[石田多加幸]]の家には庄屋となった備中石田氏の祖である、三成の次男八郎(三成の三男は佐吉ではなく八郎とする説も)の子孫という伝承がある(杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はないため、重家と重成の間に生まれた側室所生の次男の子孫と推測することもできる)。『石田三成の末裔として育った』([[近代文藝社]])を書いた[[澁谷理恵子]]の家には、三成の末子の姫が、[[大坂の陣]]後、[[乳母]]に抱かれて[[越後]][[高田藩|高田]]へ落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。

上記の3男3女は全て正室の[[皎月院]]の所生だが、このほかに側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。写真家・[[石田多加幸]]の家には庄屋となった備中石田氏の祖である、三成の次男八郎(三成の三男は佐吉ではなく八郎とする説も)の子孫という伝承がある(杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はないため、重家と重成の間に生まれた側室所生の次男の子孫と推測することもできる)。『石田三成の末裔として育った』([[近代文藝社]])を書いた[[澁谷理恵子]]の家には、三成の末子の姫が、[[大坂の陣]]後、[[乳母]]に抱かれて[[越後]][[高田藩|高田]]へ落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。


[[2013年]]7月、三成の子孫を名乗る石田竹雪<ref>https://www.kankokeizai.com/%E3%80%90%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%A3%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%9B%EF%BC%81%E3%80%91%E7%9F%B3%E7%94%B0%E9%A4%A8%E5%A6%99%E9%AB%98%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%9F/</ref>が経営する「石田館 妙高ホテル」が倒産したことが報道されている<ref>https://www.joetsutj.com/articles/52040940</ref>。



== 家臣 ==

== 家臣 ==

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* [[大橋掃部]]

* [[大橋掃部]]

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* [[小倉作左衛門]]

* [[小倉行春|小倉作左衛門]]

* [[蒲生大膳]]

* [[蒲生大膳]]

* [[田丸中務少輔]]

* [[田丸中務少輔]]

* [[北川忠信]](平左衛門)

* [[北川忠信]](平左衛門)

* [[土田桃雲]]

* [[土田桃雲]]

* [[八十島助左衛門]]

* [[八十島助左衛門]]

* [[島信勝]](左近清興の長男)

* [[島信勝]](左近清興の長男)

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*『石田三成の妻は大変』(重野なおき)

*『石田三成の妻は大変』(重野なおき)

*『八本目の槍』([[今村翔吾]])

*『八本目の槍』([[今村翔吾]])

*『四杯目の茶』(『戦国武将伝 西日本編』収録、今村翔吾)



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; テレビドラマ

; テレビドラマ

* 『[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]』(1981年、演:[[加藤剛]])

* 『[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]』(1981年、演:[[加藤剛]])

* 『家康と三成のスマホ』(2023年、演:[[柄本時生]])

* 『[[家康と三成のスマホ]]』(2023年、演:[[柄本時生]])



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396行目: 393行目:

* {{Wayback|url=http://saipo.net/11217105.html |title=石田堤史跡公園|date=20120114225921}}

* {{Wayback|url=http://saipo.net/11217105.html |title=石田堤史跡公園|date=20120114225921}}

* [https://www.sekigahara1600.com/spot/ishidamitsunarijinato.html 笹尾山 石田三成陣跡] 関ケ原観光Web

* [https://www.sekigahara1600.com/spot/ishidamitsunarijinato.html 笹尾山 石田三成陣跡] 関ケ原観光Web

* [https://mitsunari.biwako-visitors.jp/ 石田三成×滋賀県 ポータルサイト] 滋賀県観光情報

* {{Wayback|url=https://mitsunari.biwako-visitors.jp/ |title=石田三成×滋賀県 ポータルサイト |date=20160213023904}} 滋賀県観光情報

* [http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=960 石田三成出生地] 滋賀県観光情報

* [http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=960 石田三成出生地] 滋賀県観光情報

* {{Cite web |url=http://mainichi.jp/articles/20160325/k00/00m/040/160000c |title=石田三成・痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け |publisher=毎日新聞 |date=2016-03-25 |accessdate= 2018-11-02

* {{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20160325/k00/00m/040/160000c |title=石田三成・痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け |publisher=毎日新聞 |date=2016-03-25 |accessdate= 2018-11-02

|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180907110414/http://mainichi.jp/articles/20160325/k00/00m/040/160000c |archivedate=2016-09-07 |deadlinkdate=

|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180907110414/http://mainichi.jp/articles/20160325/k00/00m/040/160000c |archivedate=2016-09-07 |deadlinkdate=

}}

}}


2024年6月4日 (火) 20:24時点における最新版

 

凡例

石田 三成
東京大学史料編纂所所蔵
時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長5年10月1日1600年11月6日)(41歳没)
改名 佐吉(幼名)、三也、三成
戒名 江東院正軸因公大禅定門
墓所 大徳寺三玄院高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内、京都市妙心寺壽聖院
官位 従五位下治部少輔
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 桓武平氏良文三浦氏支流蘆名氏庶流石田氏?
父母 父:石田正継、母:岩田氏瑞岳院
兄弟 弥治郎正澄三成福原長堯正室、
正室:皎月院宇多頼忠娘)
重家重成佐吉(清幽)、山田隼人正室、小石殿(岡重政室)、辰姫津軽信枚室)、八郎?
テンプレートを表示

  [1]西

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31560()

2157451577

1015826 111583 121584

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使

131585711 7400060004137618159041595[ 1]

1415861 [ 2]

151587[5]

161588

171589181590[6]7

1915914[7]

159221593使

3159493[8]

41595 7[ 3] [9]194,000[10] [7]

1596 使

21597 [11]

31598退


41599[12] 315988退

[]


315988[13] 1012

41599 415958 使[14]212[15]

336[16]

退310[17]

4159911

関ヶ原の戦い[編集]

笹尾山の石田三成陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町
石田三成の馬印と旗印
石田三成自筆密書の複製(秀吉清正記念館所蔵)。関ヶ原の戦いの直前、1600年7月に三成から真田昌幸に、家康を共に討つよう呼びかける内容。

516006167171913

西西[ 4]宿[19]

71770

使()西[20]

西718818西西西

西西西西917[21]

921

918922927928西929

10141    

[]




使[22][ 5]

[ 6]

[ 7]

西便[23]

[24]

34[25]

3159885[26][27]

[]


使使使

逸話と人物像[編集]

JR 

稿

[28]61716寿18

[29]

441911[30]

西[31]

10

17261873[32][33]

168828[34]

15967715[35]

31598121672[36][37][ 8]

[39]5912131019

[40]




[41]

[42]100[43][44]

[45][46]

殿殿100100

71770



殿

西3殿殿[ 9]

殿[]


殿殿

殿殿28315938296

殿



 殿

 西

 

西

殿西

西

西



 

退




[47]

[]


34

300401907調1943調[48]調41

511976調西55198034[49][50] 156cm160cm159cm

[]


[51][51][52]

[53][53][54][55][55]

系譜[編集]

兄弟[編集]

  • 石田弥治郎 - 一説に三成の長兄で石田正継の長男といわれる。
  • 石田正澄
  • 石田三成
  • 女(福原長堯室)

子女[編集]


3325

 - 104103寿殿[56][][]

3()[56][57]

 - 

 - 殿25,000150

殿 - 7  - 殿 -  -  -  -  -  -  -  -  -  -  -  - 

 - 23

 - 

33()

[]




















































































[]









[]










 



 

 

 



 



  





 西

 







 西
















2017




1981

2023




1973SJX-155

2010

2014

 2021




  2011

[]


1976

1982 ISBN 978-4061317864

1983 ISBN 978-4010705568

1985 ISBN 978-4404012586

1986 ISBN 978-4404013750

1988 ISBN 978-4642051422

1995 ISBN 978-4404021793

PHP1997 ISBN 978-4569554426

1997 ISBN 978-4404025500

 1998 ISBN 978-4056019179

2003 ISBN 978-4873730769

2007 ISBN 978-4404035097

  2009 ISBN 978-4883251629

 2009 ISBN 978-4863660540

 4002009 ISBN 978-4404036445

 2009 ISBN 978-4404037350

 2009 ISBN 978-4883254002

2009 ISBN 978-4404037886

 122012 ISBN 978-4883254903

 2012 ISBN 978-4800205032

2013 ISBN 978-4642064583

2016 ISBN 978-4642029346

  2018 ISBN 978-4-86403-277-3

  西2022 ISBN 978-4-8016-0274-8

[]


[58][59]

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^  78[2]

(二)^ 4159519[3] 1815905使[4]42

(三)^ 21

(四)^ 3715西西[18]

(五)^ 

(六)^ 

(七)^ 

(八)^ [38]

(九)^ 

出典[編集]



(一)^   52009101 

(二)^  2018, p. 41.

(三)^ 1982 

(四)^     2018 ISBN 978-4-86403-277-3p46-47

(五)^  1996, p. 19.

(六)^   調200824http://sitereports.nabunken.go.jp/12803 

(七)^ ab42003

(八)^  2018, pp. 1213.

(九)^ 1912 

(十)^  寿寿 1968 

(11)^   201424-25ISBN 978-4-86403-139-4 

(12)^ 

(13)^ . 962

(14)^ 429

(15)^ . 1015)

(16)^ 32757198151p53

(17)^ 222000  200027-46 

(18)^ 732005 

(19)^  2018, p. 62.

(20)^ 782008 

(21)^ (1) : (2)542013267-78CRID 1390013021067468928doi:10.32289/dk05406ISSN 0286-4983 
(2) : (2)152013335-53CRID 1390575971020898560doi:10.32289/gk01503ISSN 1345-0530 

(22)^ , p. 222.

(23)^ 372009 

(24)^ 212006 

(25)^ :720073101-117CRID 1520009407467617280ISSN 13490893 

(26)^ 3858893

(27)^ 482010341-361CRID 1520009409378827008ISSN 02865823 

(28)^ -----1999

(29)^  2018, p. 8.

(30)^ 201531-32 

(31)^  2018, pp. 930.

(32)^  21

(33)^ 2016114 

(34)^  - 1 1999204

(35)^ 532013 

(36)^  131913 

(37)^ 2016320 

(38)^ 西111996 

(39)^ 522006812-22CRID 1520853833747444864ISSN 02877449 

(40)^    : ︿ 1981 

(41)^ 261902p66

(42)^ 1912p467

(43)^ 107

(44)^  2018, p. 11.

(45)^ 71930

(46)^ . .  Yahoo! (20211018). 202459

(47)^ 1997 

(48)^ Yahoo2021/5/15

(49)^     19991022

(50)^       20001027

(51)^ ab 1993, 1, p. 77.

(52)^   ( )e

(53)^ ab 1978, pp. 201205.

(54)^  1993, 2, pp. 314-315.

(55)^ ab 1993, 2, p. 122.

(56)^ ab

(57)^  

(58)^ ×2018106

(59)^ PR2018106

参考文献[編集]


 6 ( 342)1978ISBN 978-4582803426 

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[]

外部リンク[編集]