「石田三成」の版間の差分
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| 死没 = [[慶長]]5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]([[1600年]][[11月6日]])(41歳没) |
| 死没 = [[慶長]]5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]([[1600年]][[11月6日]])(41歳没) |
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| 改名 = 佐吉(幼名)、三也、三成 |
| 改名 = 佐吉(幼名)、三也、三成 |
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| 別名 = |
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| 戒名 = 江東院正軸因公大禅定門 |
| 戒名 = 江東院正軸因公大禅定門 |
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| 墓所 = [[大徳寺|大徳寺三玄院]]、[[高野山]]奥の院、[[滋賀県]][[彦根市]][[佐和山遊園]]内、[[京都市]][[妙心寺]]内[[壽聖院]] |
| 墓所 = [[大徳寺|大徳寺三玄院]]、[[高野山]]奥の院、[[滋賀県]][[彦根市]][[佐和山遊園]]内、[[京都市]][[妙心寺]]内[[壽聖院]] |
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| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[治部省|治部少輔]] |
| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[治部省|治部少輔]] |
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| 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]] |
| 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]] |
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| 氏族 = [[桓武平氏]][[平良文|良文]]流[[三浦]]支流[[石田氏]] |
| 氏族 = [[桓武平氏]][[平良文|良文]]流[[三浦氏]]支流[[蘆名氏]]庶流[[石田氏]]? |
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| 父母 = 父:[[石田正継]]、母:[[岩田氏]]([[瑞岳院]]) |
| 父母 = 父:[[石田正継]]、母:[[岩田氏]]([[瑞岳院]]) |
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| 兄弟 = [[石田弥治郎|弥治郎]]、[[石田正澄|正澄]]、'''三成'''、[[福原長堯]]正室、 |
| 兄弟 = [[石田弥治郎|弥治郎]]、[[石田正澄|正澄]]、'''三成'''、[[福原長堯]]正室、 |
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| 子 = [[石田重家|重家]]、[[石田重成|重成]]、[[深長坊清幽|佐吉]](清幽)、山田隼人正室、小石殿([[岡重政]]室)、[[大舘御前|辰姫]]([[津軽信枚]]室)、八郎? |
| 子 = [[石田重家|重家]]、[[石田重成|重成]]、[[深長坊清幽|佐吉]](清幽)、山田隼人正室、小石殿([[岡重政]]室)、[[大舘御前|辰姫]]([[津軽信枚]]室)、八郎? |
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'''石田 三成'''︵いしだ みつなり︶は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]・[[大名]]。[[豊臣家]]家臣 |
'''石田 三成'''(いしだ みつなり)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]・[[大名]]。[[豊臣家]]家臣。[[豊臣政権]]の[[奉行]]として活動し、[[五奉行]]のうちの一人となる<ref>{{Citation|和書|author=上田正昭ほか監修|editor=三省堂編修所|year=2009|title=コンサイス日本人名事典 第5版|publisher=三省堂|page=101}}</ref>。[[豊臣秀吉]]の死後、[[徳川家康]]打倒のために決起して、[[毛利輝元]]ら諸大名とともに西軍を組織したが、[[関ヶ原の戦い]]において敗れ、京都[[六条河原]]で処刑された。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 秀吉の子飼い === |
=== 秀吉の子飼い === |
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[[ファイル:Birthplace of Ishida Mitsunari.jpg|thumb|240px|石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)]] |
[[ファイル:Birthplace of Ishida Mitsunari.jpg|thumb|240px|石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)]] |
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[[永禄]]3年([[1560年]])、[[石田正継]]の三男(長男・[[石田弥治郎]]は早世しているため、事実上は次男)として[[近江国]][[坂田郡]]石田村(現在の[[滋賀県]][[長浜市]]石田町)で誕生した。幼名は佐吉。 |
[[永禄]]3年([[1560年]])、[[石田正継]]の三男(長男・[[石田弥治郎]]は早世しているため、事実上は次男)として[[近江国]][[坂田郡]]石田村(現在の[[滋賀県]][[長浜市]]石田町)で誕生した。幼名は佐吉。 |
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[[北面武士]]であった[[下毛野氏|下毛野]][[朝臣]]の一族、もしくは[[三浦氏|三浦 |
[[北面武士]]であった[[下毛野氏|下毛野]][[朝臣]]の一族、もしくは[[三浦氏|三浦氏流]][[蘆名氏|蘆名支流]]である[[相模国]][[大住郡]]糟屋庄石田郷(現・[[神奈川県]][[伊勢原市]]石田)の住人[[石田為久]](為重)の末裔と自称されるほか、石田村は古くは石田郷ともいい、[[石田氏]]は郷名を苗字とした[[土豪]]であったともいわれている。 |
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[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[織田信長]]に仕えて近江[[長浜城 (近江国)|長浜城]]主となった[[天正]]2年︵[[1574年]]︶ごろから、父・正継、兄・[[石田正澄|正澄]]とともに秀吉に仕官し、自身は[[小姓]]として仕える︵天正5年︵[[1577年]]︶説もある︶。
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[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[織田信長]]に仕えて近江[[長浜城 (近江国)|長浜城]]主となった[[天正]]2年︵[[1574年]]︶ごろから、父・正継、兄・[[石田正澄|正澄]]とともに秀吉に仕官し、自身は[[小姓]]として仕える︵天正5年︵[[1577年]]︶説もある︶。
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秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの[[羽織]]を与えた。同年、[[越後国]]の[[上杉景勝]]が秀吉に臣従を誓うために[[上洛]]してきたとき、これを斡旋した。 |
秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの[[羽織]]を与えた。同年、[[越後国]]の[[上杉景勝]]が秀吉に臣従を誓うために[[上洛]]してきたとき、これを斡旋した。 |
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また、秀吉から[[堺奉行]]に任じられる。 |
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三成は[[堺]]を完全に従属させ、[[兵站]]基地として整備する。 |
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九州平定後、[[博多]]奉行を命じられ、軍監の[[黒田孝高]]らとともに博多町割り、復興に従事した。 |
九州平定後、[[博多]]奉行を命じられ、軍監の[[黒田孝高]]らとともに博多町割り、復興に従事した。また、天正16年︵[[1588年]]︶、[[取次 (豊臣政権)|取次]]として[[薩摩国]]の[[島津義久]]の秀吉への謁見を斡旋した。
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また、天正16年([[1588年]])、[[取次 (豊臣政権)|取次]]として[[薩摩国]]の[[島津義久]]の秀吉への謁見を斡旋した。 |
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天正17年([[1589年]])、[[美濃国]]を検地する。天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]に参陣。秀吉から[[後北条氏]]の支城の[[館林城]]、[[忍城]]攻撃を命じられる。[[忍城の戦い|忍城攻め]]では[[元荒川]]の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が[[石田堤]]として周囲に現存している<ref>{{Citation|和書 |editor=岡山市教育委員会 |title= 備中高松城水攻め築堤跡 高松城水攻め築堤公園建設に伴う確認調査 |date= 2008 |page= 24 |url= http://sitereports.nabunken.go.jp/12803}}</ref>。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である[[小田原城]]よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。 |
天正17年([[1589年]])、[[美濃国]]を検地する。天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]に参陣。秀吉から[[後北条氏]]の支城の[[館林城]]、[[忍城]]攻撃を命じられる。[[忍城の戦い|忍城攻め]]では[[元荒川]]の水を城周囲に引き込む[[水攻め]]が行われ、その際の遺構が[[石田堤]]として周囲に現存している<ref>{{Citation|和書 |editor=岡山市教育委員会 |title= 備中高松城水攻め築堤跡 高松城水攻め築堤公園建設に伴う確認調査 |date= 2008 |page= 24 |url= http://sitereports.nabunken.go.jp/12803}}</ref>。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である[[小田原城]]よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。 |
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なお、三成は取次として、[[常陸国]]の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]が秀吉に謁見するのを斡旋し、[[奥州仕置]]後の[[奥州]]における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。
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なお、三成は取次として、[[常陸国]]の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]が秀吉に謁見するのを斡旋し、[[奥州仕置]]後の[[奥州]]における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。
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天正19年([[1591年]])4月、近江[[佐和山城|佐和山]]に入城する。 |
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ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる[[城代]]としての入城であった。 |
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⚫ | 当時の三成の所領は美濃国内、[[安八郡]][[神戸町|神戸]]とその周辺にあったと推定されている<ref name="伊藤真昭">伊藤真昭「石田三成佐和山入城の時期について」『洛北史学』4号、2003年</ref>。 |
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[[ファイル:Ishida Mitsunari's letter to Toyotomi Hideyoshi.jpg|thumb|300px|朝鮮から、[[大音新介]]に送った三成の書状]] |
[[ファイル:Ishida Mitsunari's letter to Toyotomi Hideyoshi.jpg|thumb|300px|朝鮮から、[[大音新介]]に送った三成の書状]] |
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[[文禄]]元年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]](朝鮮出兵)では渡海し、[[増田長盛]]や[[大谷吉継]]とともに[[漢城]]に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年([[1593年]])、[[碧蹄館の戦い]]や[[幸州山城の戦い]]に参加。その後、[[明]]軍の講和使・[[謝用梓]]、[[徐一貫]]を伴って[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。 |
[[文禄]]元年︵[[1592年]]︶からの[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]︵朝鮮出兵︶では渡海し、[[増田長盛]]や[[大谷吉継]]とともに[[漢城]]に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年︵[[1593年]]︶、[[碧蹄館の戦い]]や[[幸州山城の戦い]]に参加。その後、[[明]]軍の講和使・[[謝用梓]]、[[徐一貫]]を伴って[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で[[福島正則]]、[[黒田長政]]ら武断派の反発を招いた。
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しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で[[福島正則]]、[[黒田長政]]ら武断派の反発を招いた。 |
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文禄3年([[1594年]])、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった[[藤原惺窩]]や[[大村由己]]らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している{{Sfn|谷|2018|pp=12-13}}。 |
文禄3年︵[[1594年]]︶、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった[[藤原惺窩]]や[[大村由己]]らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している{{Sfn|谷|2018|pp=12-13}}。また、この年に[[島津氏]]・[[佐竹氏]]の領国を奉行として検地する。
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また、この年に[[島津氏]]・[[佐竹氏]]の領国を奉行として検地する。 |
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文禄4年([[1595年]])、秀吉の命により、秀吉の甥・[[豊臣秀次]]を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。 |
文禄4年([[1595年]])、秀吉の命により、秀吉の甥・[[豊臣秀次]]を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。 |
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この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である[[福原長堯]]らであり、処分を受けた黒田長政、[[蜂須賀家政]]らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果ととらえ、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった<ref>{{Cite book|和書 |author=山田貴司 |chapter= 加藤清正論の現在地 |title= シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正 |date= 2014 |publisher= 戒光祥出版 |pages= 24-25 |isbn= 978-4-86403-139-4}}</ref>。[[加藤清正]]は石田三成に帰国をしないことを[[豊臣秀吉|秀吉]]に報告され、武断派との対立が深まったといわれている。
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この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である[[福原長堯]]らであり、処分を受けた黒田長政、[[蜂須賀家政]]らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果ととらえ、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった<ref>{{Cite book|和書 |author=山田貴司 |chapter= 加藤清正論の現在地 |title= シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正 |date= 2014 |publisher= 戒光祥出版 |pages= 24-25 |isbn= 978-4-86403-139-4}}</ref>。[[加藤清正]]は石田三成に帰国をしないことを[[豊臣秀吉|秀吉]]に報告され、武断派との対立が深まったといわれている。
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慶長3年([[1598年]])、秀吉は[[小早川秀秋]]の領地であった[[筑後国]]・[[筑前国]] |
慶長3年([[1598年]])、秀吉は[[小早川秀秋]]の領地であった[[筑後国]]・[[筑前国]]に三成を加増移封しようとしたが、三成は辞退した。 |
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しかし、筑後国・筑前国の[[蔵入地]]の代官に任命されて[[名島城]]を与えられた。 |
しかし、秀吉の直割地となった筑後国・筑前国の[[蔵入地]]の代官に任命されて[[名島城]]を与えられ事実上支配した。 |
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慶長4年([[1599年]])に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた<ref>「島津家文書」二‐九七八</ref>。 |
慶長4年([[1599年]])に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた<ref>「島津家文書」二‐九七八</ref>。 |
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しかし、慶長3年([[1598年]])8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、かわって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。 |
しかし、慶長3年︵[[1598年]]︶8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、かわって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。小早川秀秋の越前への転封の話も消え、九州北部の支配から退くこととなった。
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=== 秀吉死後 === |
=== 秀吉死後 === |
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戦いに敗れた三成は、[[伊吹山]]の東にある[[相川山]]を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して[[姉川]]に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、[[小谷城|小谷山]]の谷口から[[高時川]]の上流に出て古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた[[田中吉政]]の追捕隊に捕縛された。 |
戦いに敗れた三成は、[[伊吹山]]の東にある[[相川山]]を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して[[姉川]]に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、[[小谷城|小谷山]]の谷口から[[高時川]]の上流に出て古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた[[田中吉政]]の追捕隊に捕縛された。 |
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一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継、兄・正澄を含む石田一族の多くは |
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継、兄・正澄を含む石田一族の多くは自刃した。9月22日、[[大津城]]に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、[[安国寺恵瓊]]らとともに大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、[[奥平信昌]]︵[[京都所司代]]︶の監視下に置かれた。
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10月1日、家康の命により[[六条河原]]で[[斬首刑|斬首]]された。[[享年]]41。[[辞世]]は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は[[三条大橋|三条河原]]に晒された後、生前親交のあった[[春屋宗園]]、[[沢庵宗彭]]に引き取られ、京都[[大徳寺]]の三玄院に葬られた。 |
10月1日、家康の命により[[六条河原]]で[[斬首刑|斬首]]された。[[享年]]41。[[辞世]]は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は[[三条大橋|三条河原]]に晒された後、生前親交のあった[[春屋宗園]]、[[沢庵宗彭]]に引き取られ、京都[[大徳寺]]の三玄院に葬られた。 |
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* 家康に従軍した[[板坂卜斎]]は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成はほとんど蓄えを持っていなかったと記している(『[[慶長年中卜斎記]]』<ref>近藤瓶城編『史籍集覧』第26冊1902年、p66</ref>、寛永年間成立)。 |
* 家康に従軍した[[板坂卜斎]]は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成はほとんど蓄えを持っていなかったと記している(『[[慶長年中卜斎記]]』<ref>近藤瓶城編『史籍集覧』第26冊1902年、p66</ref>、寛永年間成立)。 |
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* 三成が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので[[干し柿]]を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。(『[[明良洪範]]』<ref>『明良洪範』国書刊行会1912年、p467</ref>[[享保]]以降成立)。なお、[[横浜一庵]]から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候(私の好物をよくご存知ですね)」と書いている<ref>某年10月7日付石田三成自筆書状(「廓坊文書」)</ref>ことや、ほかにも三成への柿の贈答が記録されたことから、三成の好物が柿だったことは広く世間に知られており、柿の逸話とも関連がある可能性がある{{Sfn|谷|2018|p=11}}。 |
* 三成が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので[[干し柿]]を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。(『[[明良洪範]]』<ref>『明良洪範』国書刊行会1912年、p467</ref>[[享保]]以降成立)。なお、[[横浜一庵]]から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候(私の好物をよくご存知ですね)」と書いている<ref>某年10月7日付石田三成自筆書状(「廓坊文書」)</ref>ことや、ほかにも三成への柿の贈答が記録されたことから、三成の好物が柿だったことは広く世間に知られており、柿の逸話とも関連がある可能性がある{{Sfn|谷|2018|p=11}}。 |
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* 三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城でさらされた。このとき、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った(『[[武功雑記]]』<ref>近藤瓶城編『続史籍集覧』第7冊1930年</ref>、寛文年間成立)。 |
* 三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城でさらされた。このとき、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った(『[[武功雑記]]』<ref>近藤瓶城編『続史籍集覧』第7冊1930年</ref>、寛文年間成立)。小早川秀秋は「亡き太閤を裏切って恥ずかしくないのか」と罵り、黒田長政に同情させられると涙を流した。<ref>{{Cite web|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f6857b13cf6117d78b0a636f5088954db95f7886|title=【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦後、無念の最期を迎えた石田三成の気骨あふれる魂の言葉とは(渡邊大門)|website=エキスパート|publisher=Yahoo!ニュース|date=2021-10-18|accessdate=2024-05-09}}</ref> |
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* 関ヶ原の戦いの直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の[[浪人]]を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあのとき、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという([[多賀谷英珍]]『[[遺老物語]]』)。 |
* 関ヶ原の戦いの直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の[[浪人]]を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあのとき、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという([[多賀谷英珍]]『[[遺老物語]]』)。 |
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少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の[[頭蓋骨]]から復顔した肖像画を取り上げる。 |
少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の[[頭蓋骨]]から復顔した肖像画を取り上げる。 |
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関ヶ原の戦いから約300余年を経た[[明治]]40年([[1907年]])、[[時事新報社]]と実業家・[[朝吹英二]]の呼びかけで、[[東京大学|東京帝国大学]]の[[渡辺世祐]]が三成の伝記執筆のために、[[大徳寺]]三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。このとき発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。[[京都大学|京都帝国大学]]解剖学教室の[[足立文太郎]]が遺骨を鑑定調査し、1943年に[[清野謙次]]が調査を引き継ぎ<ref>[https://news.yahoo.co.jp/ |
関ヶ原の戦いから約300余年を経た[[明治]]40年([[1907年]])、[[時事新報社]]と実業家・[[朝吹英二]]の呼びかけで、[[東京大学|東京帝国大学]]の[[渡辺世祐]]が三成の伝記執筆のために、[[大徳寺]]三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。このとき発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。[[京都大学|京都帝国大学]]解剖学教室の[[足立文太郎]]が遺骨を鑑定調査し、1943年に[[清野謙次]]が調査を引き継ぎ<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/16a14fe72241a52c020b09efa3a206c7b4a30d36 関ヶ原合戦後に斬られた石田三成。その遺骨から判明した衝撃的な事実とは][[渡辺大門]]、Yahooニュース、2021/5/15</ref>、損傷が激しい頭蓋骨を丹念に接合・復元し、遺骨の正確な記録・写真・計測表・透視図を作成し鑑定文を執筆した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」で、このとき頭蓋骨の石膏模型が作られた。なお、三成の遺骨は当初の場所と位置を変えて、再び三玄院に埋葬された。 |
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下って[[昭和]]51年([[1976年]])、末裔の一人である[[石田多加幸]](写真家)からの依頼を受け、[[東京科学警察研究所]]元主任技官・[[長安周一]]が先の鑑定調査を元に[[石膏]][[復顔]]を行った。さらにそれを元に[[関西医科大学]]の[[石田哲郎]]の指導の下、昭和55年([[1980年]])3月、[[日本画家]]・[[前田幹雄]]の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、[[大坂城|大阪城]]天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている<ref>市立長浜城歴史博物館編集・発行 『没後四〇〇年特別展覧会 石田三成 ─秀吉を支えた知の参謀─』 1999年10月22日</ref><ref>市立長浜城歴史博物館編集・発行 『文化財保護五〇年記念 特別展覧会 石田三成 第二章 ─戦国を疾走した秀吉奉行─』 2000年10月27日</ref>。 |
下って[[昭和]]51年([[1976年]])、末裔の一人である[[石田多加幸]](写真家)からの依頼を受け、[[東京科学警察研究所]]元主任技官・[[長安周一]]が先の鑑定調査を元に[[石膏]][[復顔]]を行った。さらにそれを元に[[関西医科大学]]の[[石田哲郎]]の指導の下、昭和55年([[1980年]])3月、[[日本画家]]・[[前田幹雄]]の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、[[大坂城|大阪城]]天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている<ref>市立長浜城歴史博物館編集・発行 『没後四〇〇年特別展覧会 石田三成 ─秀吉を支えた知の参謀─』 1999年10月22日</ref><ref>市立長浜城歴史博物館編集・発行 『文化財保護五〇年記念 特別展覧会 石田三成 第二章 ─戦国を疾走した秀吉奉行─』 2000年10月27日</ref>。 |
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=== 子女 === |
=== 子女 === |
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{{Wikisource|老人雑話|3=原文﹁舞を舞し女に、常磐と云もの、人招けば何方へも来りけり。石田三成が息女也と云。さもありぬべし。真西山の孫女さへ歌妓となりしとぞ﹂}}
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3男3女もしくは2男5女がいたとされる。三成本人は家康の命により死罪となったものの、子孫には比較的寛容であったことは特徴的である。 |
3男3女もしくは2男5女がいたとされる。三成本人は家康の命により死罪となったものの、子孫には比較的寛容であったことは特徴的である。 |
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* 長男:[[石田重家]] - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され[[出家]]。父・三成と親交が深かった[[春屋宗園]]の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に[[祖心尼]]がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる[[岡吉右衛門]]に娘おたあを嫁がせている(以下、次女・小石殿の項参照)。また、重家の子直重<ref name="名前なし-20230316130729">[https://president.jp/articles/-/27414?page=1 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情]</ref>は[[松平忠直]]の庇護をうけ{{要出典|date=2019年4月|}}、国替えで[[越後高田藩]]に入封した際に随伴。{{要出典|date=2019年4月|}}[[妙高市]](妙高高原一)の新田開発を命ぜられ、以降、当地に定住した。 |
* 長男:[[石田重家]] - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され[[出家]]。父・三成と親交が深かった[[春屋宗園]]の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に[[祖心尼]]がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる[[岡吉右衛門]]に娘おたあを嫁がせている(以下、次女・小石殿の項参照)。また、重家の子直重<ref name="名前なし-20230316130729">[https://president.jp/articles/-/27414?page=1 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情]</ref>は[[松平忠直]]の庇護をうけ{{要出典|date=2019年4月|}}、国替えで[[越後高田藩]]に入封した際に随伴。{{要出典|date=2019年4月|}}[[妙高市]](妙高高原一)の新田開発を命ぜられ、以降、当地に定住した。 |
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また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目の直重(重家の子)の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが<ref name="名前なし-20230316130729"/>、それを示す史料は戦争で燃えたという<ref>[https://president.jp/articles/-/27414?page=2 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情 ]</ref>。 |
また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目の直重(重家の子)の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが<ref name="名前なし-20230316130729"/>、それを示す史料は戦争で燃えたという<ref>[https://president.jp/articles/-/27414?page=2 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情 ]</ref>。 |
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* 次男:[[石田重成]] - 関ヶ原の戦い後、[[津軽信建]]の助力で畿内を脱出。[[津軽氏]]にかくまわれ、杉山源吾を名乗る。のちに[[弘前藩]][[家老]]職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。 |
* 次男:[[石田重成]] - [[関ヶ原の戦い]]後、[[津軽信建]]の助力で[[畿内]]を脱出。[[若狭国]][[小浜]]に逃れた後、[[津軽氏]]にかくまわれ、杉山源吾を名乗る。のちに[[弘前藩]][[家老]]職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。 |
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* 長女:某 - 名は定かではないが、生前は吹殿と呼ばれていたという説がある。石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。山田隼人正の叔母は家康の側室・[[茶阿局]]で、その縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ[[松平忠輝]]に2万5,000石にて仕えた。山田隼人正は忠輝改易後は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた(ただし異説あり)。 |
* 長女:某 - 名は定かではないが、生前は吹殿と呼ばれていたという説がある。石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。山田隼人正の叔母は家康の側室・[[茶阿局]]で、その縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ[[松平忠輝]]に2万5,000石にて仕えた。山田隼人正は忠輝改易後は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた(ただし異説あり)。 |
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* 次女:小石殿 - [[蒲生氏|蒲生家]]の家臣[[岡重政]](岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主・[[蒲生忠郷]]の母・[[正清院|振姫]](家康の三女)の勘気に触れ)、[[江戸幕府|幕府]]により[[江戸]]に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のちに[[若狭国]]へ移り住み、[[小浜市|小浜]]で没したと伝わる。子の[[岡吉右衛門]]の娘は[[徳川家光]]の側室・[[自証院|お振の方(自証院)]](三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・[[霊仙院|千代姫]]を産んだ。[[尾張徳川家]]に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・[[徳川宗春]]まで続き、さらに女系(千代姫の孫[[徳川吉通]]の娘[[信受院|三千君]])を通じ[[二条家]]、[[九条家]]を経て[[貞明皇后]]、そして現在の[[皇室]]などに三成の血を伝えている(系譜 '''石田三成''' - 小石殿 - 岡吉右衛門 - [[自証院]] - [[霊仙院]](千代姫) - [[徳川綱誠]] - [[徳川吉通]] - [[信受院|三千君]] - [[二条宗基]] - [[二条治孝]] - [[九条尚忠]] - [[九条道孝]] - [[貞明皇后]] - [[昭和天皇]])。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。 |
* 次女:小石殿 - [[蒲生氏|蒲生家]]の家臣[[岡重政]](岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主・[[蒲生忠郷]]の母・[[正清院|振姫]](家康の三女)の勘気に触れ)、[[江戸幕府|幕府]]により[[江戸]]に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のちに[[若狭国]]へ移り住み、[[小浜市|小浜]]で没したと伝わる。子の[[岡吉右衛門]]の娘は[[徳川家光]]の側室・[[自証院|お振の方(自証院)]](三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・[[霊仙院|千代姫]]を産んだ。[[尾張徳川家]]に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・[[徳川宗春]]まで続き、さらに女系(千代姫の孫[[徳川吉通]]の娘[[信受院|三千君]])を通じ[[二条家]]、[[九条家]]を経て[[貞明皇后]]、そして現在の[[皇室]]などに三成の血を伝えている(系譜 '''石田三成''' - 小石殿 - 岡吉右衛門 - [[自証院]] - [[霊仙院]](千代姫) - [[徳川綱誠]] - [[徳川吉通]] - [[信受院|三千君]] - [[二条宗基]] - [[二条治孝]] - [[九条尚忠]] - [[九条道孝]] - [[貞明皇后]] - [[昭和天皇]])。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。 |
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* 三女‥[[大舘御前|辰姫]] - [[高台院]]養女。弘前藩第2代藩主・[[津軽信枚]]の正室、のちに[[満天姫]]︵家康養女︶降嫁により側室に降格したが、産んだ子は第3代藩主︵[[津軽信義]]︶となった。さらに女系を通じ[[酒井氏# |
* 三女‥[[大舘御前|辰姫]] - [[高台院]]養女。弘前藩第2代藩主・[[津軽信枚]]の正室、のちに[[満天姫]]︵家康養女︶降嫁により側室に降格したが、産んだ子は第3代藩主︵[[津軽信義]]︶となった。さらに女系を通じ[[酒井氏#雅楽頭酒井家|雅楽頭酒井家]]などに三成の血を伝えている。
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* 三男:佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・[[石田正澄]]に仕えていた[[津田清幽]]が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた[[長谷川守知]]が裏切り[[小早川秀秋]]、[[田中吉政]]の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった[[木食応其]]の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。 |
* 三男:佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・[[石田正澄]]に仕えていた[[津田清幽]]が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた[[長谷川守知]]が裏切り[[小早川秀秋]]、[[田中吉政]]の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった[[木食応其]]の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。 |
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上記の3男3女は全て正室の[[皎月院]]の所生だが、このほかに側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。写真家・[[石田多加幸]]の家には庄屋となった備中石田氏の祖である、三成の次男八郎(三成の三男は佐吉ではなく八郎とする説も)の子孫という伝承がある(杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はないため、重家と重成の間に生まれた側室所生の次男の子孫と推測することもできる)。『石田三成の末裔として育った』([[近代文藝社]])を書いた[[澁谷理恵子]]の家には、三成の末子の姫が、[[大坂の陣]]後、[[乳母]]に抱かれて[[越後]][[高田藩|高田]]へ落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。 |
上記の3男3女は全て正室の[[皎月院]]の所生だが、このほかに側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。写真家・[[石田多加幸]]の家には庄屋となった備中石田氏の祖である、三成の次男八郎(三成の三男は佐吉ではなく八郎とする説も)の子孫という伝承がある(杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はないため、重家と重成の間に生まれた側室所生の次男の子孫と推測することもできる)。『石田三成の末裔として育った』([[近代文藝社]])を書いた[[澁谷理恵子]]の家には、三成の末子の姫が、[[大坂の陣]]後、[[乳母]]に抱かれて[[越後]][[高田藩|高田]]へ落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。 |
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[[2013年]]7月、三成の子孫を名乗る石田竹雪<ref>https://www.kankokeizai.com/%E3%80%90%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%A3%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%9B%EF%BC%81%E3%80%91%E7%9F%B3%E7%94%B0%E9%A4%A8%E5%A6%99%E9%AB%98%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%9F/</ref>が経営する「石田館 妙高ホテル」が倒産したことが報道されている<ref>https://www.joetsutj.com/articles/52040940</ref>。 |
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== 家臣 == |
== 家臣 == |
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* [[大橋掃部]] |
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* [[小倉作左衛門]] |
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* [[蒲生大膳]] |
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* [[田丸中務少輔]] |
* [[田丸中務少輔]] |
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* [[北川忠信]](平左衛門) |
* [[北川忠信]](平左衛門) |
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* [[土田桃雲 |
* [[土田桃雲]] |
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* [[八十島助左衛門]] |
* [[八十島助左衛門]] |
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* [[島信勝]](左近清興の長男) |
* [[島信勝]](左近清興の長男) |
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*『石田三成の妻は大変』(重野なおき) |
*『石田三成の妻は大変』(重野なおき) |
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*『八本目の槍』([[今村翔吾]]) |
*『八本目の槍』([[今村翔吾]]) |
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*『四杯目の茶』(『戦国武将伝 西日本編』収録、今村翔吾) |
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; テレビドラマ |
; テレビドラマ |
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* 『[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]』(1981年、演:[[加藤剛]]) |
* 『[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]』(1981年、演:[[加藤剛]]) |
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* 『家康と三成のスマホ』(2023年、演:[[柄本時生]]) |
* 『[[家康と三成のスマホ]]』(2023年、演:[[柄本時生]]) |
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* {{Wayback|url=http://saipo.net/11217105.html |title=石田堤史跡公園|date=20120114225921}} |
* {{Wayback|url=http://saipo.net/11217105.html |title=石田堤史跡公園|date=20120114225921}} |
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* [https://www.sekigahara1600.com/spot/ishidamitsunarijinato.html 笹尾山 石田三成陣跡] 関ケ原観光Web |
* [https://www.sekigahara1600.com/spot/ishidamitsunarijinato.html 笹尾山 石田三成陣跡] 関ケ原観光Web |
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* |
* {{Wayback|url=https://mitsunari.biwako-visitors.jp/ |title=石田三成×滋賀県 ポータルサイト |date=20160213023904}} 滋賀県観光情報 |
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* [http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=960 石田三成出生地] 滋賀県観光情報 |
* [http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=960 石田三成出生地] 滋賀県観光情報 |
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* {{Cite web |
* {{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20160325/k00/00m/040/160000c |title=石田三成・痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け |publisher=毎日新聞 |date=2016-03-25 |accessdate= 2018-11-02 |
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|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180907110414/http://mainichi.jp/articles/20160325/k00/00m/040/160000c |archivedate=2016-09-07 |deadlinkdate= |
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180907110414/http://mainichi.jp/articles/20160325/k00/00m/040/160000c |archivedate=2016-09-07 |deadlinkdate= |
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2024年6月4日 (火) 20:24時点における最新版
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。(2020年1月) |
石田 三成 | |
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東京大学史料編纂所所蔵 | |
時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄3年(1560年) |
死没 | 慶長5年10月1日(1600年11月6日)(41歳没) |
改名 | 佐吉(幼名)、三也、三成 |
戒名 | 江東院正軸因公大禅定門 |
墓所 | 大徳寺三玄院、高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内、京都市妙心寺内壽聖院 |
官位 | 従五位下・治部少輔 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 桓武平氏良文流三浦氏支流蘆名氏庶流石田氏? |
父母 | 父:石田正継、母:岩田氏(瑞岳院) |
兄弟 | 弥治郎、正澄、三成、福原長堯正室、 |
妻 | 正室:皎月院(宇多頼忠娘) |
子 | 重家、重成、佐吉(清幽)、山田隼人正室、小石殿(岡重政室)、辰姫(津軽信枚室)、八郎? |
生涯[編集]
秀吉の子飼い[編集]
豊臣政権下[編集]
慶長4年︵1599年︶に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた[12]。 しかし、慶長3年︵1598年︶8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、かわって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。小早川秀秋の越前への転封の話も消え、九州北部の支配から退くこととなった。
秀吉死後[編集]
秀吉の死後、豊臣家の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。 しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められるなか、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。 慶長3年︵1598年︶8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼のために協力してこれにあたることを改めて誓う起請文を作成している[13]。 一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次、細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。 翌慶長4年︵1599年︶初頭、家康による縁組計画が発覚する。 これを文禄4年︵1595年︶8月に作られた﹁御掟﹂における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。 四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せる[14]など対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文[15]を提出することなどにより一応の解決をみた。 同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件︵石田三成襲撃事件︶が起きる。三成はのちにこの事件の中心人物として、事件直前に家康より豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興の名を挙げている[16]。 この後、七将と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城した。この事件の際、﹁三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた﹂という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の﹃日本戦史・関原役﹄などで、江戸時代に成立した史料に、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない[17]。 慶長4年︵1599年︶11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、浅野長政も奉行職を解かれ領国の甲斐国に蟄居となる。これによって五大老五奉行は四大老三奉行となり、以降、豊臣政権内部の主導権は家康が握る。関ヶ原の戦い[編集]
豊臣奉行としての三成[編集]
三成は秀吉直下の奉行としてさまざまな政策・実務に携わっている。三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地や、秀吉︵豊臣政権︶と地方大名との間の外交交渉、大名内部で起きた諸問題への介入などを通じて、秀吉の国内統一戦が始まって以降徐々に高まっていったものと考えられる。その影響力をうかがわせる発言がいくつか残っている。 ●毛利輝元‥﹁彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候︵大いに気を使う︶[22]﹂[注釈 5] ●島津義弘‥﹁江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし﹂[注釈 6] ●木食応其‥﹁治少︵治部少輔︶、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候﹂[注釈 7] 五奉行に限らず、地方大名とのさまざまな交渉を担当した豊臣秀長、富田一白、宮部継潤、小西行長、黒田孝高らは、単に秀吉の意思を伝達するだけではなく、相手の依頼に応じて便宜を図ることもあり、その結果秀吉の当初の決定に修正が加えられることがあった[23]。 三成に関しては毛利家・島津家が主な交渉相手であり、両家との交渉過程で築かれた関係がのちの関ヶ原の戦いにおける連携に繋がることとなる。 ただし、政策の基本的部分は秀吉の意志によって決定され、また実務はほかの奉行衆との連携・分担によって進められており、政権内部において三成一人が突出した権力を持っていたわけではない。浅野長政は秀次事件で失脚するまで東国諸大名に対して三成を上回る大きな影響力を有し[24]、朝廷や京周辺の寺社との交渉は主に前田玄以が務めていたように、三成の職権と影響力には限りがあった。 また、五奉行による連署書状の署名順は一部の例外を除き、前田玄以→浅野長政→増田長盛・三成→長束正家となっており、三成は五奉行内の序列においては3番手もしくは4番手であった[25]。 秀吉の最晩年期になると慶長3年︵1598年︶8月5日の秀吉遺言書や、同時期に奉行衆と家康および他の大老との間で交わされた起請文[26]の条項によって、奉行の政治的権限は五大老、なかでも家康の影響力を抑止する方向で強化されていく。これに対抗する家康と、現体制を保持しようとする奉行衆との対立関係が秀吉死後の政治抗争を招いたものと考えられる[27]。家紋[編集]
定紋は定かではなく、逸話と人物像[編集]
三成と淀殿及び高台院[編集]
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
ことなどを挙げている︵詳しくは高台院を参照︶[47]。
肖像画[編集]
少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身︵と伝えられる︶の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。 関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年︵1907年︶、時事新報社と実業家・朝吹英二の呼びかけで、東京帝国大学の渡辺世祐が三成の伝記執筆のために、大徳寺三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。このとき発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。京都帝国大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、1943年に清野謙次が調査を引き継ぎ[48]、損傷が激しい頭蓋骨を丹念に接合・復元し、遺骨の正確な記録・写真・計測表・透視図を作成し鑑定文を執筆した。調査の結果は﹁優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当﹂で、このとき頭蓋骨の石膏模型が作られた。なお、三成の遺骨は当初の場所と位置を変えて、再び三玄院に埋葬された。 下って昭和51年︵1976年︶、末裔の一人である石田多加幸︵写真家︶からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が先の鑑定調査を元に石膏復顔を行った。さらにそれを元に関西医科大学の石田哲郎の指導の下、昭和55年︵1980年︶3月、日本画家・前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、大阪城天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている[49][50]。 同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。小柄であるとされていた石田三成であるが、当時の男子の平均身長は160cm程度であり、骨格から考えると取り立てて小柄であったとは言いにくい。ちなみに家康は159cmと計算されている。佩刀[編集]
系譜[編集]
兄弟[編集]
子女[編集]
家臣[編集]
●島清興︵左近︶ ●蒲生頼郷 ●前野忠康︵舞兵庫︶ ●蒲生郷舎 ●大音新介 ●渡辺勘兵衛︵渡辺了とは別人︶ ●津田清幽︵兄・正澄の家臣︶ ●山田上野介 ●山田隼人正 ●小幡信世 ●塩野清助 ●内海重次 ●大山伯耆 ●森九兵衛 ●高野越中 ●谷村政盛︵九郎太夫︶ ●牧野成里 ●宇多頼忠 ●宇多頼重 ●宇多頼次 ●蒲生将監 ●杉江勘兵衛 ●平塚久賀 ●大場土佐 ●蒲生大炊助 ●大橋掃部 ●小倉作左衛門 ●蒲生大膳 ●田丸中務少輔 ●北川忠信︵平左衛門︶ ●土田桃雲 ●八十島助左衛門 ●島信勝︵左近清興の長男︶ ●柏原彦右衛門 ●浅香庄次郎 ●雑賀内膳︵鈴木重朝と同一人物とする説あり︶ ●磯野行尚 ●芳賀高武偏諱を与えた人物[編集]
●小出三尹︵和泉陶器藩初代藩主︶ ●相馬三胤︵のちの相馬利胤、陸奥相馬中村藩初代藩主︶ ●松野三正︵のちの松野重元。︶ ●多賀谷三経︵常陸下妻城主多賀谷重経の子。のち結城秀康の家臣︶三成を主題とする作品[編集]
小説 ●﹃石田三成﹄、続編﹃篝火﹄︵尾崎士郎︶ ●﹃関ヶ原﹄︵司馬遼太郎︶ ●﹃巨いなる企て﹄︵堺屋太一︶ ●﹃石田三成 ﹁義﹂に生きた智将の生涯﹄︵徳永真一郎︶ ●﹃石田三成﹄︵童門冬二︶ ●﹃乱世光芒 小説・石田三成﹄︵嶋津義忠︶ ●﹃悲将 石田三成﹄︵加野厚志︶ ●﹃石田三成 ソクチョンサムスン﹄︵荒山徹︶ ●﹃石田三成﹄︵江宮隆之︶ ●﹃捕縛 石田三成の無念と執念﹄︵加藤嶺夫︶ ●﹃三成の不思議なる条々﹄︵岩井三四二︶ ●﹃決戦!関ヶ原 石田三成編 孤狼なり﹄︵葉室麟︶ ●﹃石田三成の青春﹄︵松本匡代︶ ●﹃治部の礎﹄︵吉川永青︶ ●﹃石田三成 家康を驚愕させた西軍の組織者﹄︵相川司︶ ●﹃実伝 石田三成﹄︵火坂雅志編︶ ●﹃佐和山軍記﹄︵舘明︶ ●﹃石田三成の妻は大変﹄︵重野なおき︶ ●﹃八本目の槍﹄︵今村翔吾︶ ●﹃四杯目の茶﹄︵﹃戦国武将伝 西日本編﹄収録、今村翔吾︶ 漫画 ●﹃ミツナリズム﹄︵鈴木コイチ︶ ●﹃三成さんは京都を許さない﹄︵さかなこうじ︶ テレビアニメ ●﹃妖怪軍師ウィスベェ︵妖怪ウォッチのコーナー︶﹄︵日野晃博︶ 映画 ●﹃関ヶ原﹄︵2017年、演‥岡田准一︶ テレビドラマ ●﹃関ヶ原﹄︵1981年、演‥加藤剛︶ ●﹃家康と三成のスマホ﹄︵2023年、演‥柄本時生︶ 楽曲 ●三田明﹁夢のあと〜石田三成﹂︵1973年、作詞‥千家和也、作曲‥冬木透。コンピレーション・アルバム﹃戦国の武将﹄︵規格品番‥SJX-155︶収録︶ ●さくらゆき﹁夢陽炎﹂︵2010年、作詞‥遠野ゆき、作曲‥あきつ。石田三成・大谷吉継イメージ曲︶ ●さくらゆき﹁夢のあとさき﹂︵2014年、作詞‥小栗さくら、作曲‥真鍋貴之︶ ●カンケ﹁戦国ロボ﹃逆転評価 石田三成﹄﹂︵2021年、作詞‥土屋亮一、作曲‥カンケ︶ 舞台 ●﹃美しき生涯 -石田三成 永遠︵とわ︶の愛と義-﹄︵2011年、宝塚歌劇・宙組公演、演‥大空祐飛︶研究書籍[編集]
●安藤英男﹃史伝石田三成﹄︵白川書院、1976年︶ ●桑田忠親﹃石田三成﹄︵講談社、1982年︶ ISBN 978-4061317864 ●﹃石田三成﹄︵旺文社、1983年︶ ISBN 978-4010705568 ●安藤英男﹃石田三成のすべて﹄︵新人物往来社、1985年︶ ISBN 978-4404012586 ●石田多加幸﹃石田三成写真集﹄︵新人物往来社、1986年︶ ISBN 978-4404013750 ●今井林太郎﹃石田三成﹄︵吉川弘文館、1988年︶ ISBN 978-4642051422 ●白川亨﹃石田三成の生涯﹄︵新人物往来社、1995年︶ ISBN 978-4404021793 ●小和田哲男﹃石田三成﹁知の参謀﹂の実像﹄︵PHP研究所、1997年︶ ISBN 978-4569554426 ●白川亨﹃石田三成とその一族﹄︵新人物往来社、1997年︶ ISBN 978-4404025500 ●﹃石田三成 戦国を差配した才知と矜恃﹄︵学研、1998年︶ ISBN 978-4056019179 ●佐賀郁朗﹃石田三成と津軽の末裔﹁極楽寺系図﹂の探索から解き明かされた真実。﹄︵北の街社、2003年︶ ISBN 978-4873730769 ●白川亨﹃石田三成とその子孫﹄︵新人物往来社、2007年︶ ISBN 978-4404035097 ●太田浩司﹃近江が生んだ知将 石田三成﹄ ︵サンライズ出版、2009年︶ ISBN 978-4883251629 ●三池純正﹃義に生きたもう一人の武将 石田三成﹄︵宮帯出版社、2009年︶ ISBN 978-4863660540 ●﹃石田三成 復権!400年目の真実﹄︵新人物往来社、2009年︶ ISBN 978-4404036445 ●﹃石田三成 野望!関ヶ原﹄︵新人物往来社、2009年︶ ISBN 978-4404037350 ●オンライン三成会編﹃三成伝説 現代に残る石田三成の足跡﹄︵サンライズ出版、2009年︶ ISBN 978-4883254002 ●白川亨﹃真説石田三成の生涯﹄︵新人物往来社、2009年︶ ISBN 978-4404037886 ●中井俊一郎﹃石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方﹄︵サンライズ出版、2012年︶ ISBN 978-4883254903 ●別冊宝島編集部編﹃悲劇の智将 石田三成﹄︵宝島社、2012年︶ ISBN 978-4800205032 ●矢部健太郎﹃関ヶ原合戦と石田三成﹄︵吉川弘文館、2013年︶ ISBN 978-4642064583 ●中野等﹃石田三成伝﹄︵吉川弘文館、2016年︶ ISBN 978-4642029346 ●谷徹也編﹃シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成﹄︵戎光祥出版、2018年︶ ISBN 978-4-86403-277-3 ●太田浩司編﹃石田三成 ― 関ヶ原西軍人脈が形成した政治構造﹄︵宮帯出版社、2022年︶ ISBN 978-4-8016-0274-8現代の湖東地域と三成[編集]
上記のように、江戸時代以降の三成に対する評価はさまざまであるが、滋賀県では、三成の知行地があった湖東︵長浜市・米原市・彦根市など︶を中心に、観光客誘致や地域おこしのため顕彰対象になっている[58][59]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 石田堤史跡公園 - ウェイバックマシン(2012年1月14日アーカイブ分)
- 笹尾山 石田三成陣跡 関ケ原観光Web
- 石田三成×滋賀県 ポータルサイト - ウェイバックマシン(2016年2月13日アーカイブ分) 滋賀県観光情報
- 石田三成出生地 滋賀県観光情報
- “石田三成・痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け”. 毎日新聞 (2016年3月25日). 2016年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月2日閲覧。