「後村上天皇」の版間の差分
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| 説明= 後村上天皇像([[来迎寺 (守口市)|来迎寺]]蔵) |
| 説明= 後村上天皇像([[来迎寺 (守口市)|来迎寺]]蔵) |
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| 在位= [[1339年]][[9月18日]] - [[1368年]][[3月29日]] |
| 在位= [[1339年]][[9月18日]] - [[1368年]][[3月29日]]<ref name=a/> |
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| 和暦在位期間 = [[延元]]4年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]] - [[正平 (日本)|正平]]23年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]] |
| 和暦在位期間 = [[延元]]4年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]] - [[正平 (日本)|正平]]23年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]] |
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| 即位礼 = 1339年[[11月6日]](延元4年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]])<ref name=c>『[[続史愚抄]]』・『[[南朝公卿補任]]』による。</ref>? |
| 即位礼 = 1339年[[11月6日]](延元4年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]])<ref name=c>『[[続史愚抄]]』・『[[南朝公卿補任]]』による。</ref>? |
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| 大嘗祭 = |
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| 大嘗祭 = [[1340年]][[12月6日]]([[興国]]元年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]])<ref name=c/>? |
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| 元号= [[延元]]<br />[[興国]]<br />[[正平 (日本)|正平]] |
| 元号= [[延元]]<br />[[興国]]<br />[[正平 (日本)|正平]] |
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| 追号= 後村上院<br />(後村上天皇) |
| 追号= 後村上院<br />(後村上天皇) |
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| 追号勅定年月日= |
| 追号勅定年月日= |
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| 政府首脳官職= [[関白]] |
| 政府首脳官職= [[関白]] |
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| 政府首脳人物= [[二条師基]]→[[近衛経 |
| 政府首脳人物= [[二条師基]]→[[近衛冬経]]→[[二条教基]]→[[近衛経家]]→二条教基?→近衛経家? |
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| 政府首脳官職2= [[准后]] |
| 政府首脳官職2= [[准后]] |
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| 政府首脳人物2= [[北畠親房]] |
| 政府首脳人物2= [[北畠親房]] |
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| 先代= [[後醍醐天皇]] |
| 先代= [[後醍醐天皇]] |
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| 次代= [[長慶天皇]] |
| 次代= [[長慶天皇]] |
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| 誕生年月日時= [[1328年]]︵[[嘉暦]]3年︶<ref |
| 誕生年月日時= [[1328年]]︵[[嘉暦]]3年︶<ref name=b>生日について、﹃[[南朝編年記略]]﹄は[[10月4日]]︵旧暦[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]︶、[[中田憲信]]の﹃南方遺胤﹄は[[10月11日]]︵旧暦[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]︶とするが、いずれも確たる史料的裏付けはない。</ref>
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| 誕生場所= |
| 誕生場所= |
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| 崩御年月日時= [[1368年]][[3月29日]](正平23年3月11日) |
| 崩御年月日時= [[1368年]][[3月29日]](正平23年3月11日) |
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| 崩御場所= [[住吉行宮]](住之江殿) |
| 崩御場所= [[住吉行宮]](住之江殿) |
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| 大喪儀= 1368年[[4月2日]](正平23年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]) |
| 大喪儀= 1368年[[4月2日]](正平23年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]])<ref>鴨脚本『[[皇代記]]』</ref> |
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| 陵所= 檜尾陵 |
| 陵所= 檜尾陵 |
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| 元服= [[1336年]][[4月21日]]([[延元]]元年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) |
| 元服= [[1336年]][[4月21日]]([[延元]]元年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) |
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| 母親= [[阿野廉子]](新待賢門院) |
| 母親= [[阿野廉子]](新待賢門院) |
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| 中宮= |
| 中宮= |
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| 女御= 源氏([[北畠親房]]女)<br /> |
| 女御= 源氏([[北畠親房]]女)<br />[[嘉喜門院|藤原氏]]([[二条師基]]猶子) |
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| 子女= 寛成親王([[長慶天皇]])<br />熙成親王([[後亀山天皇]])<br />[[惟成親王]] 他 |
| 子女= 寛成親王([[長慶天皇]])<br />熙成親王([[後亀山天皇]])<br />[[惟成親王]] 他 |
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| 皇居= [[吉野行宮]]<br />[[賀名生|賀名生行宮]]<br />[[石清水八幡宮|男山八幡行宮]]<br />[[金剛寺 (河内長野市)| |
| 皇居= [[吉野行宮]]<br />[[賀名生|賀名生行宮]]<br />[[石清水八幡宮|男山八幡行宮]]<br />[[金剛寺 (河内長野市)|天野行宮]]<br />[[観心寺|観心寺行宮]]<br />[[住吉行宮]] |
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| 親署= Go-Murakami_Noriyoshi.png |
| 親署= Go-Murakami_Noriyoshi.png |
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| 注釈= |
| 注釈= |
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'''後村上天皇'''︵ごむらかみてんのう、[[1328年]]︿[[嘉暦]]3年﹀ |
'''後村上天皇'''︵ごむらかみてんのう、[[1328年]]︿[[嘉暦]]3年﹀<ref name=b/> - [[1368年]][[3月29日]]︿正平23年3月11日﹀︶は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の第97代[[天皇]]で、[[南朝 (日本)|南朝]]第2代[[天皇]]︵在位‥[[1339年]][[9月18日]]︿[[延元]]4年/[[暦応]]2年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]﹀- [[1368年]][[3月29日]]︿[[正平 (日本)|正平]]23年/[[応安]]元年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]﹀︶。[[後醍醐天皇]]の第7皇子で、数多い皇子らの中でただ一人の天皇である。[[諱]]は初め'''義良'''︵のりよし/のりなが︶、即位後に'''憲良'''︵読み同じ︶に改めた<ref name=d>鴨脚本﹃[[皇代記]]﹄。親王時代や践祚時は﹁義良﹂︵[[神皇正統記]]︶だが、﹃鰐淵寺文書﹄正平6年︵[[1351年]]︶9月8日付宸筆願文には天皇自ら﹁憲良﹂と署名している。</ref>。
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父の[[後醍醐天皇]]の遺志を継いで南朝の[[京都]]回復を図り、[[東北地方]]([[陸奥国]])南部の[[宮城県]][[多賀城市]]にある[[陸奥国府]]兼[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]の[[多賀城]]に入城。後醍醐天皇が多賀城に創設したに[[陸奥将軍府|奥羽将軍府]]([[東北地方]]将軍府)のトップとして、[[北朝 (日本)|北朝]]を擁する[[室町幕府]]軍と[[南北朝の内乱]]を戦った。のち[[大和国|大和]]([[奈良県]])の[[吉野行宮|吉野]]・[[賀名生]]、[[摂津国|摂津]]([[大阪府]])の[[住吉行宮|住吉]]などを[[行宮]]した。 |
父の[[後醍醐天皇]]の遺志を継いで南朝の[[京都]]回復を図り、[[東北地方]]([[陸奥国]])南部の[[宮城県]][[多賀城市]]にある[[陸奥国府]]兼[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]の[[多賀城]]に入城。後醍醐天皇が多賀城に創設したに[[陸奥将軍府|奥羽将軍府]]([[東北地方]]将軍府)のトップとして、[[北朝 (日本)|北朝]]を擁する[[室町幕府]]軍と[[南北朝の内乱]]を戦った。のち[[大和国|大和]]([[奈良県]])の[[吉野行宮|吉野]]・[[賀名生]]、[[摂津国|摂津]]([[大阪府]])の[[住吉行宮|住吉]]などを[[行宮]]した。 |
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[[1911年]]([[明治]]44年)、[[明治天皇]]の[[明治政府]]によって南朝が正統とされたため、歴代天皇として列された。 |
[[1911年]]([[明治]]44年)、[[明治天皇]]の[[明治政府]]によって南朝が正統とされたため、歴代天皇として列された。 |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
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[[正慶]]2年([[1333年]])義良親王の父の[[後醍醐天皇]]が[[執権]][[北条氏]]の[[鎌倉幕府]]を滅亡して[[建武の新政]]を始めると、同年、後醍醐天皇は鎌倉幕府将軍[[守邦親王]]に擁立された[[光厳天皇]]を廃した。 |
[[正慶]]2年([[1333年]])義良親王の父の[[後醍醐天皇]]が[[執権]][[北条氏]]の[[鎌倉幕府]]を滅亡して[[建武の新政]]を始めると、同年、後醍醐天皇は鎌倉幕府将軍[[守邦親王]]に擁立された[[光厳天皇]]を廃した。 |
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同 |
同年、義良親王は[[北条氏]]の残党の追討と東国武士の帰属を目的に後醍醐天皇の側近︵[[寵臣]]︶の[[北畠親房]]および北畠親房の長男である[[公卿]]・[[鎮守府大将軍]]・[[陸奥守]][[北畠顕家]]に奉じられて[[陸奥国]]の[[国府]]兼[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]の[[多賀城]]へと向かい、[[建武 (日本)|建武]]元年︵[[1334年]]︶5月、多賀城において[[親王宣下|親王]]となった。義良親王は多賀城で、東北地方における[[南朝 (日本)]]に味方する武将を束ね、東北地方における後醍醐天皇の小[[朝廷]]の[[陸奥将軍府|奥羽将軍府]]︵[[東北地方|東北]]将軍府︶を創設した。後醍醐天皇の奥羽将軍府の管轄エリアは[[東北地方]]および[[関東地方]]の北部三ヶ国︵[[下野国]]・[[上野国]]・[[常陸国]]︶を含んでいたため、奥羽将軍府は事実上の[[東日本]]小朝廷であった。このとき東北地方および関東地方北部において、後醍醐天皇の[[南朝 (日本)|南朝]]の諸大名の中で[[武家]]のトップとなったのが、[[伊達氏]]の[[伊達行朝]]と[[白河結城氏]]の[[結城宗広]]・[[結城親朝]]親子の三人だった。
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翌年の建武2年︵[[1335年]]︶、[[新田義貞]]に鎌倉幕府を滅ぼされて自害した[[北条高時]]の子の[[北条時行]]が[[中先代の乱]]を起こすと、その混乱のなか幽閉されていた後醍醐天皇の皇子である[[征夷大将軍]][[護良親王|護良︵もりよし︶親王]]は足利尊氏の弟の[[足利直義|足利直義︵ただよし︶]]に殺された。更に中先代の乱を鎮圧するため後醍醐天皇から朝廷軍を預けられた[[足利尊氏]]は謀反を起こし、後醍醐天皇の建武新政から離反した。同年12月、足利尊氏は[[箱根・竹ノ下の戦い]]で[[朝廷]]軍を破り、翌年の[[延元]]元年/建武3年︵[[1336年]]︶正月、尊氏は入洛し京都を占領した。そのため後醍醐天皇は一旦[[比叡山]]に逃れる。
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翌年の建武2年︵[[1335年]]︶、[[新田義貞]]に鎌倉幕府を滅ぼされて自害した[[北条高時]]の子の[[北条時行]]が[[中先代の乱]]を起こすと、その混乱のなか幽閉されていた後醍醐天皇の皇子である[[征夷大将軍]][[護良親王|護良︵もりよし︶親王]]は足利尊氏の弟の[[足利直義|足利直義︵ただよし︶]]に殺された。更に中先代の乱を鎮圧するため後醍醐天皇から朝廷軍を預けられた[[足利尊氏]]は謀反を起こし、後醍醐天皇の建武新政から離反した。同年12月、足利尊氏は[[箱根・竹ノ下の戦い]]で[[朝廷]]軍を破り、翌年の[[延元]]元年/建武3年︵[[1336年]]︶正月、尊氏は入洛し京都を占領した。そのため後醍醐天皇は一旦[[比叡山]]に逃れる。
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翌年の延元2年/建武4年︵[[1337年]]︶、主力軍が不在となっていた多賀城の奥羽将軍府は北朝軍の攻撃をうけ危険な状態となったため、延元2年/建武4年︵1337年︶1月8日、義良親王および陸奥守北畠顕家らは奥羽将軍府を[[伊達行朝]]の領地内にある[[福島県]][[霊山 (福島県)|霊山]]に遷した。同年8月、東北地方軍を率いた義良親王および北畠顕家は今度は霊山城から再び京都目指して軍を進め、同年12月、奥羽将軍府軍︵南朝軍︶は北朝軍を破って[[鎌倉]]を奪還した。翌年の延元3年/[[暦応]]元年︵[[1338年]]︶1月、義良親王の奥羽将軍府軍はさらに西上して[[美濃国]][[青野原の戦い]]で足利方を破り、[[伊勢国|伊勢]]・[[伊賀国|伊賀]]方面に転進したあと後醍醐天皇のいる[[大和国|大和]]の[[吉野行宮]]に入った。
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翌年の延元2年/建武4年︵[[1337年]]︶、主力軍が不在となっていた多賀城の奥羽将軍府は北朝軍の攻撃をうけ危険な状態となったため、延元2年/建武4年︵1337年︶1月8日、義良親王および陸奥守北畠顕家らは奥羽将軍府を[[伊達行朝]]の領地内にある[[福島県]][[霊山 (福島県)|霊山]]に遷した。同年8月、東北地方軍を率いた義良親王および北畠顕家は今度は霊山城から再び京都目指して軍を進め、同年12月、奥羽将軍府軍︵南朝軍︶は北朝軍を破って[[鎌倉]]を奪還した。翌年の延元3年/[[暦応]]元年︵[[1338年]]︶1月、義良親王の奥羽将軍府軍はさらに西上して[[美濃国]][[青野原の戦い]]で足利方を破り、[[伊勢国|伊勢]]・[[伊賀国|伊賀]]方面に転進したあと後醍醐天皇のいる[[大和国|大和]]の[[吉野行宮]]に入った。
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そうした状況のなかの同年の延元3年/[[暦応]]元年︵1338年︶、足利尊氏は光明天皇から[[征夷大将軍]]に任命され[[室町幕府]]が成立した。延元3年︵建武5年︶/暦応元年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]︵1338年[[6月10日]]︶、南朝の[[公卿]]・[[鎮守府大将軍]]・[[陸奥守]][[北畠顕家]]は[[北朝 (日本)|北朝]]・[[室町幕府]]の[[執事 (室町幕府)|執事]][[高師直]]・[[高師泰]]兄弟との[[石津の戦い]]︵[[和泉国]][[堺浦]]石津、現在の[[大阪府]][[堺市]]一帯︶に敗れ、北畠顕家は戦死した。更に同年の延元3年閏7月2日、南朝の[[新田義貞]]は越前国藤島︵福井市︶[[灯明寺畷]]で北朝軍との[[藤島の戦い]]に敗れ、義貞は戦死した。同年9月、義良親王は[[宗良親王]]と供に北畠親房および戦死した長男の北畠顕家の弟である[[北畠顕信]]に奉じられ、[[伊達行朝]]・[[結城宗広]]・[[結城宗広|中村経長]]らの軍船のもと、伊勢国[[大湊 (伊勢市)|大湊]]から三たび陸奥国︵東北地方南部の[[宮城県]][[多賀城]]︶を目指したが、途中暴風雨に遭って一行は離散し、義良親王の船は伊勢に漂着した。延元4年/暦応2年︵[[1339年]]︶3月、義良親王は南朝の京都の吉野へ戻り、間もなく[[皇太子]]となった<ref |
そうした状況のなかの同年の延元3年/[[暦応]]元年︵1338年︶、足利尊氏は光明天皇から[[征夷大将軍]]に任命され[[室町幕府]]が成立した。延元3年︵建武5年︶/暦応元年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]︵1338年[[6月10日]]︶、南朝の[[公卿]]・[[鎮守府大将軍]]・[[陸奥守]][[北畠顕家]]は[[北朝 (日本)|北朝]]・[[室町幕府]]の[[執事 (室町幕府)|執事]][[高師直]]・[[高師泰]]兄弟との[[石津の戦い]]︵[[和泉国]][[堺浦]]石津、現在の[[大阪府]][[堺市]]一帯︶に敗れ、北畠顕家は戦死した。更に同年の延元3年閏7月2日、南朝の[[新田義貞]]は越前国藤島︵福井市︶[[灯明寺畷]]で北朝軍との[[藤島の戦い]]に敗れ、義貞は戦死した。同年9月、義良親王は[[宗良親王]]と供に北畠親房および戦死した長男の北畠顕家の弟である[[北畠顕信]]に奉じられ、[[伊達行朝]]・[[結城宗広]]・[[結城宗広|中村経長]]らの軍船のもと、伊勢国[[大湊 (伊勢市)|大湊]]から三たび陸奥国︵東北地方南部の[[宮城県]][[多賀城]]︶を目指したが、途中暴風雨に遭って一行は離散し、義良親王の船は伊勢に漂着した。延元4年/暦応2年︵[[1339年]]︶3月、義良親王は南朝の京都の吉野へ戻り、間もなく[[皇太子]]となった<ref>﹃[[新葉和歌集]]﹄雑上・1034の詞書から立太子がこの年であったことは確実だが、その月日は不詳である。﹃[[南朝編年記略]]﹄は何によってか、[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]とする。</ref>。[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]、義良皇太子は後醍醐天皇の[[譲位]]を受け、'''後村上天皇'''として即位した。
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[[ファイル:Former imperial palace at Ano.jpg|thumb|200px|堀家住宅(賀名生皇居跡)]] |
[[ファイル:Former imperial palace at Ano.jpg|thumb|200px|堀家住宅(賀名生皇居跡)]] |
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[[ファイル:住吉行宮.JPG|thumb|200px|住吉行宮跡]] |
[[ファイル:住吉行宮.JPG|thumb|200px|住吉行宮跡]] |
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天皇は若年ながら主に畿内近国の寺社や武士に対して精力的に[[綸旨]]を発し、南朝の安寧祈願や所領[[安堵]]・給付、軍勢催促や褒賞を行った。[[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]4年︵[[1348年]]︶1月足利方の[[高師直]]に吉野を襲撃され、天皇は[[紀伊国|紀伊]]花園︵[[和歌山県]][[かつらぎ町]]︶へ一旦難を避けたが、後に[[大和国|大和]][[賀名生]]︵[[奈良県]][[五條市]]︶へ移った。正平5年/[[観応]]元年︵[[1350年]]︶足利一族間の内訌が激化すると︵[[観応の擾乱]]︶、先に[[足利直義]]が南朝に降伏し、翌年︵[[1351年]]︶10月には尊氏が同じく南朝に降伏した︵[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]︶。天皇は尊氏に対して直義・[[足利直冬|直冬]]追討の[[綸旨]]を与え、11月には北朝[[崇光天皇]]を[[廃位]]するとともに[[三種の神器]]︵後醍醐天皇は偽器と主張していた︶を接収し、[[皇太子]][[直仁親王]]も[[廃太子]]と |
天皇は若年ながら主に畿内近国の寺社や武士に対して精力的に[[綸旨]]を発し、南朝の安寧祈願や所領[[安堵]]・給付、軍勢催促や褒賞を行った。[[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]4年︵[[1348年]]︶1月足利方の[[高師直]]に吉野を襲撃され、天皇は[[紀伊国|紀伊]]花園︵[[和歌山県]][[かつらぎ町]]︶へ一旦難を避けたが、後に[[大和国|大和]][[賀名生]]︵[[奈良県]][[五條市]]︶へ移った。正平5年/[[観応]]元年︵[[1350年]]︶足利一族間の内訌が激化すると︵[[観応の擾乱]]︶、先に[[足利直義]]が南朝に降伏し、翌年︵[[1351年]]︶10月には尊氏が同じく南朝に降伏した︵[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]︶。天皇は尊氏に対して直義・[[足利直冬|直冬]]追討の[[綸旨]]を与え、11月には北朝[[崇光天皇]]を[[廃位]]するとともに[[三種の神器]]︵後醍醐天皇は偽器と主張していた︶を接収し、[[皇太子]][[直仁親王]]も[[廃太子]]とした。
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[[南朝 (日本)|南朝]]は、尊氏が直義を追討すべく関東に向かった隙を突いて、京を回復する作戦に出 |
[[南朝 (日本)|南朝]]は、尊氏が直義を追討すべく関東に向かった隙を突いて、京を回復する作戦に出た。正平7年/[[文和]]元年︵[[1352年]]︶2月に賀名生を発し、[[河内国|河内]]東条︵大阪府[[富田林市]]︶を経て[[摂津国|摂津]]住吉︵大阪市[[住吉区]]︶に至り、[[2月19日 (旧暦)|閏2月19日]][[山城国|山城]][[石清水八幡宮|男山]]︵[[京都府]][[八幡市]]︶に入り、[[八幡の戦い|七条大宮の戦い]]で[[楠木正儀]]が[[足利義詮]]を破って京の回復に成功した。一統は破綻して義詮は[[近江国|近江]]に逃亡し、天皇は[[光厳天皇|光厳]]・[[光明天皇|光明]]・崇光の三[[太上天皇|上皇]]と[[廃太子]]の[[直仁親王]]を男山に連行した。3月に足利方の反撃に遭って京を放棄し、男山に立て籠もるが、5月義詮の軍に敗れて辛うじて脱出、[[大神神社|三輪社]]・宇陀を経て、賀名生に帰還した。正平9年/文和3年︵[[1354年]]︶3月には光厳・光明・崇光三上皇と直仁親王を[[河内国|河内]]天野の[[金剛寺 (河内長野市)|金剛寺]]塔頭観蔵院に入れると、10月には自身も金剛寺に移って塔頭摩尼院を[[行宮]]と定めた。正平10年/文和4年︵[[1355年]]︶1月、再び南朝に帰順した直冬を立てて京の回復を目指すが、尊氏・義詮の軍に敗れて頓挫し、しばらくして光明上皇は京都に返した。
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正平12年/[[延文]]2年︵[[1357年]]︶2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返し、正平14年/延文4年︵[[1359年]]︶12月、自身も[[観心寺]]︵大阪府[[河内長野市]]︶に行宮を移し、翌年9月には[[住吉行宮|住吉]]まで北上。正平16年/[[康安]]元年︵[[1361年]]︶[[室町幕府|幕府]]の政争に敗れて失脚した[[執事#室町幕府の執事|執事]][[細川清氏]]の帰順を受け、[[12月8日 (旧暦)|12月8日]][[四条隆俊]]・楠木正儀らが京へ攻め込み、一時的に京を回復するが、すぐに義詮軍の反撃に遭って、[[12月26日 (旧暦)|同月26日]]には撤退している。南朝の力は既に弱体化しており、退勢を挽回するまでには至らなかった。それでも南朝はなお強硬姿勢を貫いたと見え、正平22年/[[貞治]]6年︵[[1367年]]︶4月に[[勅使]][[葉室光資]]をして幕府との和睦交渉が行われたものの、天皇は武家側の降伏を条件に要求したため、義詮の怒りを買った末に和議は決裂している。この年にはもう病気がちであったらしく、翌正平23年/[[応安]]元年︵[[1368年]]︶[[3月11日 (旧暦)|3月11日]][[子 (十二支)|子]]刻に[[住吉大社]][[宮司]][[津守氏]]の[[住吉行宮|住之江殿]]にて[[崩御]]した<ref |
正平12年/[[延文]]2年︵[[1357年]]︶2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返し、正平14年/延文4年︵[[1359年]]︶12月、自身も[[観心寺]]︵大阪府[[河内長野市]]︶に行宮を移し、翌年9月には[[住吉行宮|住吉]]まで北上。正平16年/[[康安]]元年︵[[1361年]]︶[[室町幕府|幕府]]の政争に敗れて失脚した[[執事#室町幕府の執事|執事]][[細川清氏]]の帰順を受け、[[12月8日 (旧暦)|12月8日]][[四条隆俊]]・楠木正儀らが京へ攻め込み、一時的に京を回復するが、すぐに義詮軍の反撃に遭って、[[12月26日 (旧暦)|同月26日]]には撤退している。南朝の力は既に弱体化しており、退勢を挽回するまでには至らなかった。それでも南朝はなお強硬姿勢を貫いたと見え、正平22年/[[貞治]]6年︵[[1367年]]︶4月に[[勅使]][[葉室光資]]をして幕府との和睦交渉が行われたものの、天皇は武家側の降伏を条件に要求したため、義詮の怒りを買った末に和議は決裂している。この年にはもう病気がちであったらしく、翌正平23年/[[応安]]元年︵[[1368年]]︶[[3月11日 (旧暦)|3月11日]][[子 (十二支)|子]]刻に[[住吉大社]][[宮司]][[津守氏]]の[[住吉行宮|住之江殿]]にて[[崩御]]した<ref name=a>[[八代国治]]とともに[[長慶天皇]][[即位]]確定に大きな役割を果たした[[武田祐吉]]は、﹃[[新葉和歌集]]﹄が﹁後醍醐天皇﹂﹁後村上院﹂と記していることを指摘して、後村上天皇が生前に[[譲位]]して上皇となっていた可能性を指摘した︵﹁長慶天皇を仰ぎ奉りて﹂ ﹃武田祐吉著作集 第8巻 文学史・歌物語篇﹄ 角川書店、1973年。初出は1917年︶。近年では、[[坂口太郎]]も同様の理由から生前譲位説を提唱している︵﹁建武政権・南朝と院政 ―後院の設置を中心として﹂ ﹃人間・環境学﹄17巻 京都大学大学院人間・環境学研究科、2008年︶。</ref>。宝算41。
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[[和歌]]は[[二条為定]]に師事し、正平8年︵[[1353年]]︶の﹃内裏千首﹄や同20年︵[[1365年]]︶の﹃[[正平二十年三百六十首|内裏三百六十首歌]]﹄に詠進して、[[勅撰和歌集|准勅撰集]]﹃[[新葉和歌集]]﹄には最多の100首が入集した他、﹃[[源氏物語]]﹄にも関心を寄せた。また、[[孤峰覚明]]に就いて[[禅]]を極め、[[琵琶]]・[[箏]]の音楽や[[大覚寺統]]の唐様を受け継いだ[[書道]]にも長けていたとされる。
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[[和歌]]は[[二条為定]]に師事し、正平8年︵[[1353年]]︶の﹃内裏千首﹄や同20年︵[[1365年]]︶の﹃[[正平二十年三百六十首|内裏三百六十首歌]]﹄に詠進して、[[勅撰和歌集|准勅撰集]]﹃[[新葉和歌集]]﹄には最多の100首が入集した他、﹃[[源氏物語]]﹄にも関心を寄せた。また、[[孤峰覚明]]に就いて[[禅]]を極め、[[琵琶]]・[[箏]]の音楽や[[大覚寺統]]の唐様を受け継いだ[[書道]]にも長けていたとされる。
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
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[[後醍醐天皇]]の第 |
[[後醍醐天皇]]の第7皇子。母は[[阿野公廉]]の女の[[阿野廉子]](新待賢門院)。 |
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* [[女御]]:源氏<ref>『[[園太暦]]』[[文和]]2年([[1353年]])6月4日条。『南朝編年記略』『系図纂要』は名を顕子とし、後に[[中宮]]に冊立されたとするが、当時の史料には確認できない。</ref> - [[北畠親房]]女 |
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** 皇子:某親王 - 後亀山天皇[[皇太弟]]、[[護聖院宮]]家の祖。下記の惟成親王または泰成親王に比定される |
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* [[典侍]]:藤原氏(二品典侍、生没年不詳)<ref>[[末柄豊]] 「萩原寺所蔵『理趣三昧表白』 ―後亀山天皇の生母に関する一史料」([[中山一麿]]監修 『寺院文献資料学の新展開 第5巻 中四国諸寺院Ⅰ』 臨川書店、2020年、ISBN 9784653045458)</ref> - [[阿野実為]]女か |
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* [[女御]]:源氏 - [[北畠親房]]女(名を顕子とし、[[中宮]]に冊立されたという異伝もある) |
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* 生母不詳 |
* 生母不詳 |
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** 第3皇子:[[惟成親王]](梅隠祐常、? - 1423年) |
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** 第三皇子‥[[惟成親王]]<ref group="注釈" name="a">かつては[[皇太子|東宮]]︵皇太弟︶を泰成親王に、[[護聖院宮]]を説成親王に比定する[[南朝系図]]の説が通説であったが、近年、護聖院宮と東宮とを同一人とし、これを惟成親王に比定する説が有力となっている。なお、護聖院宮の母については、長慶天皇らと同じく嘉喜門院であったと推定されている︵﹃[[満済准后日記]]﹄永享3年10月28日条︶。</ref>︵? - 1423年︶ - [[護聖院宮]]家、[[後亀山天皇]][[皇太子|皇太弟]]か
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** 第 |
** 第4皇子:[[泰成親王]](1360年? - ?) |
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** 第 |
** 第5皇子:[[師成親王]](竺源恵梵、1361年 - ?) |
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** 第 |
** 第6皇子:[[説成親王]](懐成親王・上野宮、生没年不詳) |
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** 皇子 |
** 皇子?:[[良成親王]](? - 1395年?) - 後征西将軍宮に比定される |
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** 皇 |
** 皇子?:[[泰邦親王]](生没年不詳) - 一説に泰成親王の王子とする |
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** 皇女 |
** 皇女?:憲子内親王?([[新宣陽門院]]、? - 1391年?) - 一説に[[後醍醐天皇]]皇女とする |
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** 皇女?:[[貞子内親王 (南朝)|貞子内親王]](? - 1423年) - [[南朝系図]]は後醍醐天皇皇女とする |
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[[近世]]成立の『[[南朝皇胤紹運録]]』『[[系図纂要]]』などは、憲子内親王を[[中宮]][[北畠顕子]]の所生、泰成親王を[[嘉喜門院]]の所生、惟成親王・師成親王を[[中原師治]]女(大蔵卿局)の所生、説成親王・良成親王を越智家栄女(冷泉局)の所生とするが、いずれも確たる史料的裏付けはない。 |
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=== 系図 === |
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[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 |
[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 |
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[[宮城県]][[多賀城市]]の[[多賀城|多賀城政庁跡]]の北側にある[[多賀城神社]]にも祀られている。多賀城政庁跡の正面石段の登り口の脇には[[後村上天皇碑]]がある。 |
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多賀城政庁跡の正面石段の登り口の脇には[[後村上天皇碑]]がある。 |
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== 登場作品 == |
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== 脚注 == |
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* [[能仁寺 (広川町)]]・[[雲樹寺]] - [[孤峰覚明]]を開山とし、天皇から[[勅願寺]]に列せられた。 |
* [[能仁寺 (広川町)]]・[[雲樹寺]] - [[孤峰覚明]]を開山とし、天皇から[[勅願寺]]に列せられた。 |
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* [[荘厳浄土寺]] - [[正平 (日本)|正平]]18年([[1363年]])・同21年([[1366年]])に法華八講を修した寺院。 |
* [[荘厳浄土寺]] - [[正平 (日本)|正平]]18年([[1363年]])・同21年([[1366年]])に法華八講を修した寺院。 |
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{{歴代天皇一覧}} |
{{歴代天皇一覧}} |
2023年2月5日 (日) 15:43時点における版
後村上天皇 | |
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![]() 後村上天皇像(来迎寺蔵) | |
即位礼 | 1339年11月6日(延元4年10月5日)[2]? |
元号 |
延元 興国 正平 |
関白 | 二条師基→近衛冬経→二条教基→近衛経家→二条教基?→近衛経家? |
准后 | 北畠親房 |
先代 | 後醍醐天皇 |
次代 | 長慶天皇 |
誕生 | 1328年(嘉暦3年)[3] |
崩御 |
1368年3月29日(正平23年3月11日) 住吉行宮(住之江殿) |
大喪儀 | 1368年4月2日(正平23年3月15日)[4] |
陵所 | 檜尾陵 |
追号 |
後村上院 (後村上天皇) |
諱 | 義良、憲良 |
別称 | 吉野帝、賀名生殿、住吉殿 |
元服 | 1336年4月21日(延元元年3月10日) |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 阿野廉子(新待賢門院) |
女御 |
源氏(北畠親房女) 藤原氏(二条師基猶子) |
子女 |
寛成親王(長慶天皇) 熙成親王(後亀山天皇) 惟成親王 他 |
皇居 |
吉野行宮 賀名生行宮 男山八幡行宮 天野行宮 観心寺行宮 住吉行宮 |
親署 |
![]() |
略歴
正慶2年︵1333年︶義良親王の父の後醍醐天皇が執権北条氏の鎌倉幕府を滅亡して建武の新政を始めると、同年、後醍醐天皇は鎌倉幕府将軍守邦親王に擁立された光厳天皇を廃した。 同年、義良親王は北条氏の残党の追討と東国武士の帰属を目的に後醍醐天皇の側近︵寵臣︶の北畠親房および北畠親房の長男である公卿・鎮守府大将軍・陸奥守北畠顕家に奉じられて陸奥国の国府兼鎮守府の多賀城へと向かい、建武元年︵1334年︶5月、多賀城において親王となった。義良親王は多賀城で、東北地方における南朝 (日本)に味方する武将を束ね、東北地方における後醍醐天皇の小朝廷の奥羽将軍府︵東北将軍府︶を創設した。後醍醐天皇の奥羽将軍府の管轄エリアは東北地方および関東地方の北部三ヶ国︵下野国・上野国・常陸国︶を含んでいたため、奥羽将軍府は事実上の東日本小朝廷であった。このとき東北地方および関東地方北部において、後醍醐天皇の南朝の諸大名の中で武家のトップとなったのが、伊達氏の伊達行朝と白河結城氏の結城宗広・結城親朝親子の三人だった。 翌年の建武2年︵1335年︶、新田義貞に鎌倉幕府を滅ぼされて自害した北条高時の子の北条時行が中先代の乱を起こすと、その混乱のなか幽閉されていた後醍醐天皇の皇子である征夷大将軍護良︵もりよし︶親王は足利尊氏の弟の足利直義︵ただよし︶に殺された。更に中先代の乱を鎮圧するため後醍醐天皇から朝廷軍を預けられた足利尊氏は謀反を起こし、後醍醐天皇の建武新政から離反した。同年12月、足利尊氏は箱根・竹ノ下の戦いで朝廷軍を破り、翌年の延元元年/建武3年︵1336年︶正月、尊氏は入洛し京都を占領した。そのため後醍醐天皇は一旦比叡山に逃れる。 建武2年︵1335年︶12月22日、後醍醐天皇の側近の北畠親房および北畠親房の長男の北畠顕家や伊達行朝をはじめとする陸奥将軍府の武将達と供に陸奥国多賀城を進発し、足利尊氏を追討するため京都方面へ軍を進めた。翌年の延元元年/建武3年︵1336年︶正月、義良親王および陸奥守北畠顕家が率いる奥羽将軍府軍は京都で足利尊氏軍を破り、尊氏を京都から九州︵鎮西︶へ敗走させた。同年3月義良親王は元服し、三品陸奥太守に叙任された。 しかし延元元年/建武3年︵1336年︶、九州落ちした足利尊氏・直義兄弟は九州で態勢を立て直して再び京都方面へ攻め上り、湊川の戦いで南朝の楠木正成・新田義貞を破り楠木正成は戦死した。こうして足利尊氏は再び京都を奪い取ると鎌倉幕府の北条氏を見習い、後醍醐天皇に廃された光厳天皇の弟である持明院統の光明天皇を擁立し北朝を樹立した。一方後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を樹立する。 翌年の延元2年/建武4年︵1337年︶、主力軍が不在となっていた多賀城の奥羽将軍府は北朝軍の攻撃をうけ危険な状態となったため、延元2年/建武4年︵1337年︶1月8日、義良親王および陸奥守北畠顕家らは奥羽将軍府を伊達行朝の領地内にある福島県霊山に遷した。同年8月、東北地方軍を率いた義良親王および北畠顕家は今度は霊山城から再び京都目指して軍を進め、同年12月、奥羽将軍府軍︵南朝軍︶は北朝軍を破って鎌倉を奪還した。翌年の延元3年/暦応元年︵1338年︶1月、義良親王の奥羽将軍府軍はさらに西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破り、伊勢・伊賀方面に転進したあと後醍醐天皇のいる大和の吉野行宮に入った。 そうした状況のなかの同年の延元3年/暦応元年︵1338年︶、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され室町幕府が成立した。延元3年︵建武5年︶/暦応元年5月22日︵1338年6月10日︶、南朝の公卿・鎮守府大将軍・陸奥守北畠顕家は北朝・室町幕府の執事高師直・高師泰兄弟との石津の戦い︵和泉国堺浦石津、現在の大阪府堺市一帯︶に敗れ、北畠顕家は戦死した。更に同年の延元3年閏7月2日、南朝の新田義貞は越前国藤島︵福井市︶灯明寺畷で北朝軍との藤島の戦いに敗れ、義貞は戦死した。同年9月、義良親王は宗良親王と供に北畠親房および戦死した長男の北畠顕家の弟である北畠顕信に奉じられ、伊達行朝・結城宗広・中村経長らの軍船のもと、伊勢国大湊から三たび陸奥国︵東北地方南部の宮城県多賀城︶を目指したが、途中暴風雨に遭って一行は離散し、義良親王の船は伊勢に漂着した。延元4年/暦応2年︵1339年︶3月、義良親王は南朝の京都の吉野へ戻り、間もなく皇太子となった[6]。8月15日、義良皇太子は後醍醐天皇の譲位を受け、後村上天皇として即位した。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/69/Former_imperial_palace_at_Ano.jpg/200px-Former_imperial_palace_at_Ano.jpg)
系譜
後醍醐天皇の第7皇子。母は阿野公廉の女の阿野廉子︵新待賢門院︶。 ●女御‥源氏[7] - 北畠親房女 ●女御‥藤原氏︵嘉喜門院・三位局、生没年不詳︶ - 実父不詳、二条師基猶子 ●第1皇子‥寛成親王︵長慶天皇、1343年 - 1394年︶ ●皇子‥某親王 - 後亀山天皇皇太弟、護聖院宮家の祖。下記の惟成親王または泰成親王に比定される ●典侍‥藤原氏︵二品典侍、生没年不詳︶[8] - 阿野実為女か ●第2皇子‥熙成親王︵後亀山天皇、1350年? - 1424年︶ ●生母不詳 ●第3皇子‥惟成親王︵梅隠祐常、? - 1423年︶ ●第4皇子‥泰成親王︵1360年? - ?︶ ●第5皇子‥師成親王︵竺源恵梵、1361年 - ?︶ ●第6皇子‥説成親王︵懐成親王・上野宮、生没年不詳︶ ●皇子?‥良成親王︵? - 1395年?︶ - 後征西将軍宮に比定される ●皇子?‥泰邦親王︵生没年不詳︶ - 一説に泰成親王の王子とする ●皇女?‥憲子内親王?︵新宣陽門院、? - 1391年?︶ - 一説に後醍醐天皇皇女とする ●皇女?‥貞子内親王︵? - 1423年︶ - 南朝系図は後醍醐天皇皇女とする 近世成立の﹃南朝皇胤紹運録﹄﹃系図纂要﹄などは、憲子内親王を中宮北畠顕子の所生、泰成親王を嘉喜門院の所生、惟成親王・師成親王を中原師治女︵大蔵卿局︶の所生、説成親王・良成親王を越智家栄女︵冷泉局︶の所生とするが、いずれも確たる史料的裏付けはない。系図
【持明院統】 〔北朝〕 |
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| 【大覚寺統】 〔南朝〕 |
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| 96 後醍醐天皇 |
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光厳天皇 北1 |
| 光明天皇 北2 |
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| 97 後村上天皇 |
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崇光天皇 北3 |
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| 後光厳天皇 北4 |
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| 98 長慶天皇 |
| 99 後亀山天皇 |
| 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) |
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| 後円融天皇 北5 |
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| (不詳) 〔玉川宮家〕 |
| 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) |
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| 100 後小松天皇 北6 |
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102 後花園天皇 |
| 貞常親王 〔伏見宮家〕 |
| 101 称光天皇 |
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諡号・追号・異名
父の後醍醐天皇が醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治を理想とし、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていたことを受け、後村上院と追号された。在位中の元号
●延元 ︵1339年8月15日︶ - 1340年4月28日 ●興国 1340年4月28日 - 1346年12月8日 ●正平 1346年12月8日 - ︵1368年3月11日︶陵・霊廟など
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/Kanshinji_gomurakami_tenno_hinoomisasagi.jpg/235px-Kanshinji_gomurakami_tenno_hinoomisasagi.jpg)
登場作品
脚注
関連項目
- 建武の新政
- 両統迭立
- 大覚寺統
- 三河吉野朝
- 懐良親王
- 宗良親王
- 古剣智訥
- 能仁寺 (広川町)・雲樹寺 - 孤峰覚明を開山とし、天皇から勅願寺に列せられた。
- 荘厳浄土寺 - 正平18年(1363年)・同21年(1366年)に法華八講を修した寺院。