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明治8年︵1875年︶、当時は[[実学]]教育に関する意識がまだ薄く、実学教育を実施する機関が無い事から[[森有礼]]の興した商業講習私塾を東京会議所が所管する[[商法講習所]]︵のちに[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]を経て、現在の[[一橋大学]]︶とし、経営委員として運営を支援した。明治14年︵1881年︶から明治16年︵1883年︶まで[[東京大学]]において自ら講師として日本財政論を講義した。明治21年︵1888年︶には、工手学校︵現‥[[工学院大学]]︶設立に際しても賛助員となり支援を行い、明治33年︵1900年︶には大倉喜八郎の[[大倉高等商業学校|大倉商業学校]]︵現‥[[東京経済大学]]︶にも創立委員として協するなど実業教育の充実発展を継続して支援した。
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明治8年︵1875年︶、当時は[[実学]]教育に関する意識がまだ薄く、実学教育を実施する機関が無い事から[[森有礼]]の興した商業講習私塾を東京会議所が所管する[[商法講習所]]︵のちに[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]を経て、現在の[[一橋大学]]︶とし、経営委員として運営を支援した。明治14年︵1881年︶から明治16年︵1883年︶まで[[東京大学]]において自ら講師として日本財政論を講義した。明治21年︵1888年︶には、工手学校︵現‥[[工学院大学]]︶設立に際しても賛助員となり支援を行い、明治33年︵1900年︶には大倉喜八郎の[[大倉高等商業学校|大倉商業学校]]︵現‥[[東京経済大学]]︶にも創立委員として協するなど実業教育の充実発展を継続して支援した。
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まだ[[男尊女卑]]の風が強い当時にあっても女子への高等教育の必要性を唱え、明治20年︵1887年︶には[[伊藤博文]]、[[勝海舟]]らと共に[[女子教育奨励会]]を設立し、これを母体として[[東京女学館]]を設立。明治34年︵1901年︶の[[日本女子大学]]創立においても支援を行った。なお実業界引退後はそれぞれ館長、校長も引き受けている。
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まだ[[男尊女卑]]の風が強い当時にあっても女子への高等教育の必要性を唱え、明治20年︵1887年︶には[[伊藤博文]]、[[勝海舟]]らと共に[[女子教育奨励会]]を設立し、これを母体として[[東京女学館]]を設立。明治34年︵1901年︶の[[日本女子大学]]創立においても支援を行った。なお実業界引退後はそれぞれ館長、校長も引き受けている。
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その他にも栄一は私学設立・運営への協力にも積極的で、明治21年︵1888年︶には[[新島襄]]の[[学校法人同志社|同志社]]の大学設立の基金の募集や管理に尽力。明治31年︵1908年︶の[[早稲田大学]]の理工系への事業拡大計画に際しても、基金管理委員長として協力した。明治33年︵1900年︶、台湾協会学校︵現‥[[拓殖大学]]︶の学校設立委員会委員に就任、学校設立に尽力し、設立後の明治36年︵1903年︶には大講堂において学生向けに演説を行った記録がある。明治34年︵1901年︶に朝鮮に開校した日語学校の関城学堂設立に向けての構想を、大日本海外教育会の有力後援者のひとりとして尽力した。
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その他にも栄一は私学設立・運営への協力にも積極的で、明治21年︵1888年︶には[[新島襄]]の[[学校法人同志社|同志社]]の大学設立の基金の募集や管理に尽力。明治31年︵1908年︶の[[早稲田大学]]の理工系への事業拡大計画に際しても、基金管理委員長として協力した。明治33年︵1900年︶、台湾協会学校︵現‥[[拓殖大学]]︶の学校設立委員会委員に就任、学校設立に尽力し、設立後の明治36年︵1903年︶には大講堂において学生向けに演説を行った記録がある。明治34年︵1901年︶に朝鮮に開校した日語学校の関城学堂設立に向けての構想を、大日本海外教育会の有力後援者のひとりとして尽力した。
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2024年5月19日 (日) 07:27時点における版
渋沢栄一 | |
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渋沢資料館所蔵 | |
時代 | 江戸時代末期-昭和時代初期 |
生誕 | 天保11年2月13日(1840年3月16日) |
死没 | 昭和6年11月11日(1931年11月11日) |
改名 | 市三郎→栄二郎、栄次郎もしくは栄治郎→美雄→栄一郎→仁栄→篤太夫→篤太郎 |
別名 | 栄一(ひでかず) |
戒名 | 泰徳院殿仁智義譲青淵大居士 |
墓所 | 谷中霊園 |
官位 | 正七位、従六位、正六位、従五位、正五位、従四位、男爵、正四位、従三位、正三位、子爵、従二位、正二位 |
幕府 | 江戸幕府 幕臣、旗本、御勘定格陸軍付調役、外国奉行支配調役、開成所奉行支配調役→明治政府 民部省租税正、改正掛掛長、大蔵省、大蔵権大丞、大蔵大丞、三等出仕、紙幣寮頭 |
主君 | 徳川慶喜→家達→明治天皇→大正天皇→昭和天皇 |
藩 | 武蔵岡部藩→静岡藩士 |
氏族 | 渋沢氏 |
父母 |
父・渋沢市郎右衛門 母・渋沢ゑい |
兄弟 | なか、貞子 |
妻 | 千代(1858年-1882年、死別)→兼子(1883年-1934年) |
子 |
渋沢篤二、渋沢武之助、渋沢正雄 、渋沢秀雄、穂積歌子、阪谷琴子、明石愛子など 下記参照 |
特記 事項 | 正確な子供の数は不明である |
経歴
郷里にて 1840年 -
尊攘派志士から、一橋慶喜の家臣へ 1861年 -
文久元年︵1861年︶、江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場︵お玉が池の千葉道場︶に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年︵1863年︶に共に従兄弟である尾高惇忠や渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、同じく従兄︵惇忠の弟︶の尾高長七郎の懸命な説得により中止する。 親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取り、喜作と連れ立って京都に出るが、八月十八日の政変直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により喜作と共に一橋慶喜に仕えることになる。士分となった栄一は篤太夫、喜作は成一郎の通称を名乗る。当時、慶喜は朝議参与として京都に常駐していた。仕官後、慶喜が朝廷から禁裏御守衛総督を拝命するが、御三卿は自前の兵力を持っていないため兵力調達が急務となり、栄一らが一橋家領内を巡回して農兵の募集で手腕を発揮した。幕臣となりヨーロッパへ 1867年 -
静岡藩、民部省・大蔵省時代 1869年 -
実業家時代 1873年 -
銀行
大蔵省を辞職した栄一は、井上馨やアレクサンダー・フォン・シーボルト、その弟のハインリヒ・フォン・シーボルトの協力も得ながら明治6年︵1873年︶自ら設立を指導した第一国立銀行︵後の第一銀行、第一勧業銀行、現‥みずほ銀行︶の総監役に就任する。大株主の三井組、小野組の頭取2名の上に立って、日本最初の銀行の創業を担う。明治7年︵1874年︶に二大株主の一つ小野組が破綻したことで、新銀行は経営危機に陥った。三井組は単独経営を志向するが、栄一は小野組の古河市兵衛の誠実な対応にも助けられ、被害を最小限に留め、三井組による銀行経営の独占を退けた。自ら単独の第一銀行頭取となり、公益に資する民間取引を軸に据えた銀行の路線を確立する。財閥の機関銀行的な運営とは一線を画し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開する。 また、栄一は全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行った。明治10年︵1877年︶、宇和島伊達家を主な出資先とする第二十国立銀行︵後、第一銀行と合併︶の設立には相談役を引受け、最終的には第一銀行が吸収合併して経営を引き取り、その深川支店を栄一自邸跡地に移した。 明治25年︵1892年︶、小口の貯蓄を集める貯蓄銀行の制度ができると、栄一はじめ第一銀行役員の出資により東京貯蓄銀行︵後の協和銀行、現‥りそな銀行︶を設立し、栄一は取締役会長を務めた。 栄一の郷里の埼玉では、明治26年︵1894年︶に熊谷銀行︵後、武州銀行、埼玉銀行、現‥埼玉りそな銀行︶の設立発起人、明治32年︵1899年︶設立の黒須銀行︵後、武州銀行、埼玉銀行、現‥埼玉りそな銀行︶では顧問役を引受けている。栄一の頭取退任後ではあるが大正8年︵1919年︶の武州銀行設立にあたり、第一銀行は栄一の甥で娘婿の尾高次郎監査役を初代頭取に送り出し、設立を支援した。その後、武州銀行は栄一が設立を支援した熊谷銀行、黒須銀行を合併している。 半官半民の特殊銀行が開設されるようになると、栄一は明治29年︵1896年︶に日本勧業銀行︵後、第一勧業銀行、現‥みずほ銀行︶、明治33年︵1900年︶に日本興業銀行︵現‥みずほ銀行︶、北海道拓殖銀行、いずれにおいても設立委員として開業を指導した。事業会社
明治6年︵1873年︶、栄一は大蔵省在職時から計画を練っていた抄紙会社︵現‥王子ホールディングス、日本製紙︶の設立認可を得て経営を始める。同年、東京府の瓦斯掛︵現‥東京ガス︶の委員となりガス事業を計画。明治8年︵1875年︶に廻米、生糸貿易の澁澤喜作商店の開業を支援。明治9年︵1876年︶、平野富二の石川島平野造船所︵現‥IHI、いすゞ自動車、立飛ホールディングス︶に対し個人出資や第一国立銀行の融資で創業を支援。同年、秀英舎︵現‥大日本印刷︶の印刷業創業や、﹃中外物価新報﹄︵現在の﹃日本経済新聞﹄︶の創刊を支援した。 明治12年︵1879年︶に東京海上保険会社︵現‥東京海上日動火災保険︶創立発起人および相談役に就き、保険業創業を支援。明治14年︵1881年︶に日本鉄道会社︵現‥東日本旅客鉄道︶理事委員となり設立に参画。明治15年︵1882年︶には倉庫会社・均融会社の設立出願総代、監査役。同年、共同運輸会社の創立発起人となり三菱財閥の日本郵船による海運独占に対抗した︵後に両社は合併︶。さらに同年には東京電灯会社︵現‥東京電力ホールディングス︶発起人、委員、大阪紡績会社︵現‥東洋紡︶発起人および相談役となった。明治16年︵1883年︶、工部省深川工作分局の浅野総一郎への払下げによる浅野セメント工場︵現‥太平洋セメント︶創業を支援。明治18年︵1885年︶、ジャパンブリュワリー︵現‥キリンホールディングス︶設立の理事員を務めた。 明治20年︵1887年︶、清水組︵現‥清水建設︶の後継者が幼少のため相談役に就き経営にあたる。同年、高峰譲吉の東京人造肥料会社︵現‥日産化学︶の起業を創立委員長として支援したほか、東京製綱会社︵現‥東京製綱︶創立委員、日本煉瓦製造会社理事長、東京ホテル︵現‥帝国ホテル︶発起人総代および理事長、札幌麦酒会社委員長、後に札幌麦酒㈱ 取締役会長︵現‥サッポロホールディングス︶、後に大日本麦酒㈱︵現‥サッポロホールディングス、アサヒグループホールディングス︶設立総会議長 取締役、日本土木会社︵現‥大成建設︶発起人総代、委員長。明治21年︵1888年︶、古河市兵衛の足尾鉱山組合︵現‥古河機械金属、古河電気工業、富士通、富士電機、横浜ゴム︶の設立を支援。明治25年︵1892年︶、東京帽子︵現‥オーベクス︶取締役会長。明治28年︵1895年︶東洋経済新報の創刊を支援、日本精糖︵現‥大日本明治製糖︶発起人および取締役。明治29年︵1896年︶、汽車製造︵現‥川崎重工業︶創立委員および監査役、浦賀船渠︵現‥住友重機械工業︶相談役、東京建物設立発起人を務めた。 栄一は汽車製造だけでなく、日本鉄道など45の鉄道会社の創立・経営に関わった︵小川裕夫﹃渋沢栄一と鉄道﹄天夢人︶[3]。豊島線︵現在の山手線の一部︶開業前には、目の前を鉄道が通ることによる騒音を嫌って旧主の慶喜が巣鴨から小石川へ転居する一幕もあった[3]。 明治30年︵1897年︶、澁澤倉庫部︵現‥澁澤倉庫︶を自邸倉庫を使った家業として創業。 明治31年︵1898年︶、北海道十勝清水町熊牛地区に開墾を目的とした十勝開墾合資会社を設立。明治39年︵1906年︶、京阪電気鉄道︵現‥京阪ホールディングス︶創立委員長、帝国劇場会社︵現‥東宝、東京会館︶創立委員長。経済団体
明治10年︵1877年︶に択善会︵後に東京銀行集会所、東京銀行協会に発展︶を組織して、銀行経営者の連携により、政府に対して各種の提言を実施。明治11年︵1878年︶には渋沢喜作、大倉喜八郎、三野村利助、益田孝らの財界人を誘い、東京商法会議所︵後に東京商工会議所、日本商工会議所に発展︶を設立して会頭に就任し、広く商工業者の輿論を形成して多様な財界活動を展開する。広く資本を集め事業を起こす合本主義の考え方を実践するためには、株式市場の創設が必須と明治11年︵1878年︶、東京株式取引所を設立。当初は債券取引が中心で、株式を公開する企業が少ない中、第一国立銀行の株式を率先して上場した。福祉・医療
明治7年︵1874年︶より、生活困窮者救済事業である養育院︵現‥東京都健康長寿医療センター︶の運営に携わり、後に事務長、院長に就いた[10]。幼少年や長期療養者ごとの分院や感化が必要な少年への学校を設置する等、終生この事業に係わり運営に心を砕いた。明治10年︵1877年︶には、佐野常民が西南戦争の傷病兵を敵味方無く救護する目的で博愛社が創立されると社員となり、後に同社が日本赤十字社と改称されると常議員となり、引き続き運営に関わった。明治17年︵1884年︶に高松凌雲が生活困窮者に無料で診療治療を行う事業のために設立した同愛社の幹事となり事業に協力した。 明治40年︵1907年︶東京慈恵医院︵現‥東京慈恵会︶の相談役および委員長となり、財団化に尽力する。明治41年︵1908年︶、癌研究会︵現‥がん研究会、がん研有明病院︶の設立にも尽力して副総裁となる。教育
明治8年︵1875年︶、当時は実学教育に関する意識がまだ薄く、実学教育を実施する機関が無い事から森有礼の興した商業講習私塾を東京会議所が所管する商法講習所︵のちに東京商科大学を経て、現在の一橋大学︶とし、経営委員として運営を支援した。明治14年︵1881年︶から明治16年︵1883年︶まで東京大学において自ら講師として日本財政論を講義した。明治21年︵1888年︶には、工手学校︵現‥工学院大学︶設立に際しても賛助員となり支援を行い、明治33年︵1900年︶には大倉喜八郎の大倉商業学校︵現‥東京経済大学︶にも創立委員として協するなど実業教育の充実発展を継続して支援した。 まだ男尊女卑の風が強い当時にあっても女子への高等教育の必要性を唱え、明治20年︵1887年︶には伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立し、これを母体として東京女学館を設立。明治34年︵1901年︶の日本女子大学創立においても支援を行った。なお実業界引退後はそれぞれ館長、校長も引き受けている。 その他にも栄一は私学設立・運営への協力にも積極的で、明治21年︵1888年︶には新島襄の同志社の大学設立の基金の募集や管理に尽力。明治31年︵1908年︶の早稲田大学の理工系への事業拡大計画に際しても、基金管理委員長として協力した。明治33年︵1900年︶、台湾協会学校︵現‥拓殖大学︶の学校設立委員会委員に就任、学校設立に尽力し、設立後の明治36年︵1903年︶には大講堂において学生向けに演説を行った記録がある。明治34年︵1901年︶に朝鮮に開校した日語学校の関城学堂設立に向けての構想を、大日本海外教育会の有力後援者のひとりとして尽力した。 また初代根津嘉一郎が大正11年︵1922年︶に旧制武蔵高等学校︵現・武蔵大学、武蔵高等学校中学校︶を創立したのは、先述に述べた渡米実業団への参加を通して、アメリカの実業家が積極的に私財を公共事業に投じる姿勢から、﹁社会から得た利益は社会に還元する義務がある﹂と確信したからという。文化・娯楽
栄一は国民への娯楽提供や文化・生活水準向上にも意を注いだ。明治23年︵1890年︶に東京・浅草での﹁日本パノラマ館﹂開業を主導した一人であった[11]。また後年、広く利用できる社交の場が必要と東京会館開業︵1922年︶を後押ししたほか、中流層が都市郊外で自然に触れながら生活できるようにと、パリの凱旋門広場をモデルに放射状・同心円状に区割りした田園調布の開発も進めた[4]。国際交流・民間外交
明治12年︵1879年︶、前アメリカ合衆国大統領グラント夫妻の訪日に際して東京商法会議所、東京府会に働きかけ、接待委員会を組織。福地源一郎と共同で接待委員総代を務めて歓迎行事を準備し、飛鳥山の自邸︵迎賓接待用の別邸︶でも歓迎会を実施した。明治14年︵1881年︶にはハワイ王国のカラカウア王の招待会を飛鳥山邸にて開催した。 明治26年︵1893年︶、栄一は海外からの賓客に対応するための組織として﹁貴賓会﹂を設立して幹事長となる。こうした事業は1912年のジャパン・ツーリスト・ビューロー︵JTB︶設立に繋がる。明治31年︵1898年︶、大韓帝国︵韓国︶を実地視察、韓国皇帝高宗に謁見。韓国のインフラ整備を支援し近代化を進め、両国間の貿易を通じて、善隣友好関係を結ぼうとの考えから、京釜鉄道、京仁鉄道の敷設に尽力[12]。 明治35年︵1902年︶に米欧を実地視察し、各地の商工会議所メンバーと交流したほか、セオドア・ルーズベルト米国大統領とも会談。明治36年︵1903年︶、大隈重信らと共に日印協会の設立に携わる[13]。後に実業界引退後は第三代会長も務めた。明治41年︵1908年︶、キリスト教系慈善団体の救世軍創設者のウィリアム・ブース来日時には、飛鳥山邸で歓迎午餐会を開いた。実業界引退後 1909年 -
明治42年︵1909年︶6月6日に数え70歳の古稀に達し、実業界からの引退を表明。第一銀行と東京貯蓄銀行︵第一銀行系の貯蓄銀行︶を除く61の会社役員を辞任した[14]。銀行経営は後継者の佐々木勇之介が担い、栄一は民間外交や教育、福祉、医療等に軸足を移した。大正5年︵1916年︶、数え77歳の喜寿には第一銀行頭取も辞任している[15]。その後は社会事業や道徳普及運動、民間外交などに注力していく[15]。1912年には帰一協会の発起人の一人となった[15]。民間外交
教育
明治42年︵1909年︶、栄一は東京商科大学の申酉事件の調停を行い、東京大学への統合から同大学を守り、後援組織としての如水会の名誉会員となる。大正3年︵1914年︶、高千穂高等商業学校︵現‥高千穂大学︶の設立に際して評議員として協力、実業教育発展への思いを持ち続けた。 大正8年︵1919年︶、栄一に﹃論語﹄を講じた三島中洲没後、三島が創立した二松学舎の舎長、理事に就任する。大正10年(1921年︶私塾 国士舘︵現・国士舘大学︶の維持委員に就任した。 女子教育についても、大正13年︵1924年︶に東京女学館館長、昭和6年に︵1931年︶日本女子大学校長と、創立から関わった2校のトップも引き受けている。福祉・医療
明治44年︵1911年︶、済生会の寄附金募集世話人、顧問、評議員となり恩賜財団設立に尽力。大正2年︵1913年︶、北里柴三郎の日本結核予防協会に評議員として協力。大正3年︵1914年︶、聖路加国際病院の評議会副会長、会計監督に就く。大正9年(1920年︶には知的障がい児の保護教育事業を行なう滝乃川学園の理事長に就任した。 大正末から昭和初期にかけて、聖路加国際病院評議会会長を務め、病院の発展のために院長のルドルフ・トイスラーと病院を熱心に支援した[16][17]。その他の活動
震災復興
栄一は大正12年︵1923年︶の関東大震災に際し、政府や東京市に臨時対応を献策しつつ、自ら被災者に供給するための食糧を自費で近県から取り寄せ配給を行った。協調会を通じた罹災者収容、炊き出し、災害情報板設置、臨時病院確保等の対策を実行。また救済事業資金調達のため、大震災善後会を結成して義援金集めにも奔走し、栄一と交流のあったアメリカの実業家からも多くの義援金が寄せられた。政府帝都復興審議会の委員にも就き、議論をリードし復興都市計画をまとめる事にも尽力した。死去 1931年
昭和6年︵1931年︶11月11日、栄一は老衰の為死去した。享年92︵91歳没︶。 栄一は数カ月前より大腸狭窄症を発症しており、10月には自邸で開腹手術を受けていた。栄一の逝去の報に接し、弔問の客がひきもきらなかったと伝えられている。当日午後には昭和天皇の勅使、香淳皇后と貞明皇太后の使者が差し遣わされた。 14日、通夜に際しても勅使、御使が遣わされ、栄一の事績を称えた御沙汰書が下賜された。栄一の葬儀は15日に青山葬儀場にて執り行われ、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を沿道で多くの人が見送った。 法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。名前
幼名は市三郎、栄二郎[18]、栄次郎もしくは栄治郎。のちに美雄、栄一郎、仁栄、篤太夫、篤太郎などと名乗る。栄一の読みが﹁ひでかず﹂とされることもある[19]。尾高惇忠から青淵の号をもらい、生涯用いた。人物と思想
議員活動と政治との関わり
渋沢 栄一 (澁澤 榮一) しぶさわ えいいち | |
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生年月日 | 1840年3月16日 |
出生地 |
日本、武蔵国榛沢郡血洗島村 (現・埼玉県深谷市血洗島) |
没年月日 | 1931年11月11日(91歳没) |
称号 |
正二位 帝都復興記念章 紺綬褒章 従二位 旭日桐花大綬章 正三位 旭日大綬章 大礼記念章 一等嘉禾章 勲一等瑞宝章 従三位 勲三等瑞宝章 正四位 王冠第三等勲章 勲四等瑞宝章 金製黄綬褒章 従四位 正五位 従五位 正六位 従六位 正七位 |
配偶者 |
渋沢千代 渋沢兼子 |
子女 |
長女・穂積歌子 次女・阪谷琴子 次男・渋沢篤二 五男・渋沢武之助 六男・渋沢正雄 七男・渋沢秀雄 養子・渋沢平九郎 |
親族 |
娘婿・穂積陳重(枢密院議長) 娘婿・阪谷芳郎(大蔵大臣) 娘婿・大川平三郎(貴族院議員) 孫・穂積重遠(貴族院議員) 孫・穂積真六郎(参議院議員) 孫・阪谷希一(貴族院議員) 孫・渋沢敬三(大蔵大臣) 孫婿・石黒忠篤(農商大臣) 孫婿・中村貫之(貴族院議員) 孫婿・壬生基泰(貴族院議員) 来孫・橋本岳(衆議院議員) |
在任期間 | 1890年9月29日 - 1891年10月29日 |
深川区会議長 | |
深川区会議員 | |
在任期間 | 1889年 - 1904年 |
龍門社
明治19年︵1886年︶、深川福住町の渋沢邸に寄宿し栄一に私淑する青年達が勉学に努め、成果を発表する場として龍門社が結成されたがやがて栄一の思想に賛同し、栄一を慕う経営者や企業幹部が加入し、昭和初期には数千名の会員組織となった[24]。財閥解体と﹁渋沢財閥﹂
栄一は事業活動においても、広く国民全体が豊かになる事を希求し、一部特定の人々の利益を求める閥を成すことを嫌った。﹁渋沢財閥﹂という語が使われる事があるが、これは、栄一が死後の一族の財産争いを避けるため、渋沢同族会の資産管理会社として、実業界引退後の大正4年︵1915年︶に設立した渋沢同族株式会社を、太平洋戦争後の連合国軍最高司令官総司令部︵GHQ︶による財閥解体施策の中で、財閥の持株会社として誤認指定した事によるもの。その持株比率の実体は、家業として経営していた渋沢倉庫株の26%以外は、第一銀行株でも3%、他も数パーセントの保有に過ぎず、財閥と言われるようなものではなかった。合本主義
公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め事業を推進させるという考え方。広く資本を糾合するという事から、狭義には株式会社制度の意に使われるが、栄一は私益のための資本の集中では無く、公益の追求、より良い社会の実現のために、資本や人材を合わせる事の重要性を説いたものと解される。道徳経済合一説
栄一は大正5年︵1916年︶に﹃論語と算盤﹄を著し、﹁道徳経済合一説﹂という理念を打ち出した。幼少期に学んだ﹃論語﹄を拠り所に倫理と利益︵=算盤︶の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 ﹃論語と算盤﹄にはその理念が端的に次のように述べられている。 富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。[25] そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。 金銭資産は、仕事の滓である。滓をできるだけ多く貯えようとするものはいたずらに現世に糞土の牆を築いているだけである。 事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。[26] 幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者・山田方谷の門人で、﹁義利合一論﹂︵義=倫理・利=利益︶を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。外国排斥論者から親米派へ
英国がアヘン戦争により中国を侵略し、香港を割取したことを書いた﹁清英近世談﹂を壮年期に読み、中国の次に日本を攻めるのでは考え、外国を嫌い、外国を学ぶことをしない攘夷派であった。しかし、28歳の時、主君であった徳川慶喜に命じられて、仏蘭西へ行く事となり、その船中で、同僚からタウンゼンド・ハリス︵初代米国総領事︶の事を詳しく聞く。ハリスは実に武士道的精神により行動していることを知り、アメリカが立派な国であることを覚り、親米派になった。晩年、聖路加国際病院の院長ルドルフ・トイスラー博士と同病院米国評議員のジョン・ウッド博士が栄一の飛鳥山邸である曖依村荘を来訪した際に、栄一はこのことと合わせ親米派になった理由を次にように語っている[27]。 ︵前略︶、中でもハリスの通訳官ヒユースケンが殺された時に、他の公使達が幕府信頼するに足らずと称して、江戸を撤退したにも関らず、タウンゼンド・ハリスは其不可なる旨を主張し、敢て動きませんでした、斯の如きは一国の政府を侮辱するものであるといふのが、ハリスの反対の理由でありました。他の公使達が若し壮士が来てお前を襲ふやうな事があつたら、如何するかと聞くと已むを得ぬ、道に外れぬ為に殺されるなら、甘んじて死につくと揚言したと云ふことであります。此事を聞いて深く感じまして、あゝ米国人は立派なものである、日本の武士道と少しも違はぬ行動であると、深く亜米利加の正義に感服したのです。英吉利は他の国を奪る国である、亜米利加は通訳が殺されてもなほ留まる国であるといふ事を知りました。 — 竜門雑誌 第501号、昭和5年6月 こうして、栄一はハリスのことを知って親米派となり、米国聖公会が設立し運営する聖路加国際病院評議員会長になるなど、米国人への援助を惜しまず、米国と日本の友好のために尽くすこととなった[27]。生前のエピソード
新選組
幕末期に一橋家に仕官し京都にいた頃、新選組の近藤勇、土方歳三らと在京薩摩藩士と内通している疑惑のあった大沢源次郎の捕縛の件で、接点があったことを自ら語っている[28]。シーボルト
幕末期に栄一がパリ万博派遣使節の一員として渡欧した際に、同行して語学を教えた通訳は、長崎出島の商館医で多くの蘭学者を育てたシーボルトの長男であり、当時在日英国公使館通訳をしていたアレクサンダー・フォン・シーボルトであった。栄一が日本に帰国後も交友を続け、弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトと共に日本赤十字社設立を始め、栄一にたびたび協力をする間柄となった。暴漢に資金援助
明治25年︵1892年︶12月11日、伊達宗城の病気見舞いの帰り道で、栄一は馬車で兜橋を渡ろうとするところを2人の暴徒に襲われる。暴徒は刀で馬車の窓ガラスを割ったため、栄一もその破片で左手に軽傷を負った。当時、この襲撃は、東京市水道の鉄管に渋沢が﹁品質や価格においても外国製に利がある﹂と海外製品を導入を主張したことで、国内の保守派の反感を買ったためとされる。栄一は自分を襲った暴漢2人を﹁罪を許したい﹂と語り、1人の暴漢が明治32年︵1899年︶に出獄したとき︵もう1人は獄中にて死亡︶、貧窮し困っていることを聞いて、人を介して資金を援助した[29]。紙幣肖像︵韓国︶
1902年から1904年にかけて、大韓帝国にまだ中央銀行がなかった時代に、第一銀行は在韓支店において第一銀行券を発行していた。その1円、5円、10円券には頭取の栄一の肖像が描かれていた。韓国統監となった伊藤博文は韓国に中央銀行︵後の朝鮮銀行︶を設立して、中央銀行に発券機能を担わせる施策への転換を図るべく栄一に協力を求め、栄一もそれに応じた[30]。日露開戦
栄一は明治37年︵1904年︶の日露戦争開戦に際して、陸軍参謀本部の児玉源太郎から財界としての支援を依頼される。20億円という莫大な戦費の国民経済への影響から当初は難色を示していたが、児玉の話から、ロシア帝国の極東政策の意図を素早く的確に理解し、開戦止む無しとの考えに転換している[31]。関東大震災後の天譴論
関東大震災後の日本の言論界には、世の風潮が利己的で傲慢になったために、天が罰として自然災害を起こして警鐘を鳴らしたと受け止めるべきであるという、﹁天譴論﹂が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった[32]。﹁天譴論﹂は腐敗したブルジョアや近代産業文明への批判と平等主義や自然回帰への賛美の思潮ともつながり、一種の流行語ともなった。皆が口にするに至って、かえって不自然さや偽善性を指摘する者も現れ、最初の主唱者渋沢も﹁天譴だという人は、本当にこれを天譴と思っているのでは無いかも知れませぬ﹂と苦言を呈するほどになった。没後のエピソード
紙幣肖像
深谷市
栄一の出身地の埼玉県深谷市では、栄一の命月の11月が﹁渋沢栄一記念月間﹂に指定され、毎年イベントが催されている。 深谷市内にある煉瓦作りの﹁誠之堂﹂︵せいしどう︶は、渋沢栄一の喜寿祝いにと銀行員らが寄付して建て、東京都世田谷区から移築された[4]。埼玉県
埼玉県教育委員会が製作し、埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行する﹃彩の国21世紀郷土かるた﹄の、﹁に﹂の札は﹁日本の産業育てた渋沢翁﹂となっており、埼玉を代表する歴史上の偉人、畠山重忠、塙保己一を詠んだ札と合わせて、三人札︵役札‥三枚揃えると10点となる札︶とされている。また﹁え﹂の札は﹁栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう﹂となっており、これは深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。渋沢は食生活も質素で、帰省の折には煮ぼうとうや野菜の煮物を食べ、普段の朝食はオートミールだった[4]。 埼玉県では栄一の功績にちなみ、健全な企業活動と社会貢献活動に取り組んでいる、全国の企業経営者に﹁渋沢栄一賞﹂を授与している。小惑星﹁Shibusawaeiichi﹂
2021年9月2日、火星と木星の間にある小惑星に渋沢栄一の名前がつけられた[37]。評価
栄典
位階 ●1870年︵明治3年︶3月20日 - 正七位[39][40] ●1870年︵明治3年︶8月24日 - 従六位[39] ●1871年︵明治4年︶5月9日 - 正六位[39] ●1871年︵明治4年︶12月12日 - 従五位[39] ●1872年︵明治5年︶10月8日 - 正五位[39] ●1888年︵明治21年︶5月15日 - 従四位[39][41] ●1900年︵明治33年︶6月20日 - 正四位[39] ●1909年︵明治42年︶6月30日 - 従三位[42] ●1919年︵大正8年︶7月10日 - 正三位[43] ●1929年︵昭和4年︶7月15日 - 従二位[44] ●1931年︵昭和6年︶11月10日 - 正二位[45] 爵位 ●1900年︵明治33年︶5月9日 - 男爵[39] ●1920年︵大正9年︶9月8日 - 子爵[46] 勲章等 ●1888年︵明治21年︶5月31日 - 金製黄綬褒章[39] ●1892年︵明治25年︶7月19日 - 勲四等瑞宝章︵民間人初の叙勲︶[47] ●1902年︵明治35年︶2月22日 - 勲三等瑞宝章[48] ●1911年︵明治44年︶8月24日 - 勲一等瑞宝章[49] ●1915年︵大正4年︶11月10日 - 大礼記念章[50]、旭日大綬章[51] ●1928年︵昭和3年︶11月10日 - 旭日桐花大綬章[52] ●1930年︵昭和5年︶5月21日 - 紺綬褒章飾版[53]12月5日 - 帝都復興記念章[54] 外国勲章 ●1889年︵明治22年︶6月8日 - ドイツ帝国‥王冠第三等勲章[55] ●1905年︵明治38年︶10月20日 - 大韓帝国‥勲一等太極章[56] ●1907年︵明治40年︶12月19日 - フランス‥レジオンドヌール勲章コマンドゥール[57] ●1915年︵大正4年︶5月3日 - 支那共和国‥一等嘉禾章[58] ●1920年︵大正9年︶2月15日 - ベルギー‥王冠第一等勲章[59] ●1920年︵大正9年︶4月15日 - セルブ・クロアート・スロヴェーヌ国‥サン・サヴァ第一等勲章[60] ●1920年︵大正9年︶7月28日 - ベルギー‥ロワ・アルベール記章[61] ●1923年︵大正12年︶7月3日 - 中華民国‥一等大綬宝光嘉禾章[62] ●1926年︵大正15年︶11月12日 - フランス‥レジオンドヌール勲章グランクロワ[63] 賞杯等 ●1877年︵明治10年︶4月27日 - 銀盃一個[39] ●1878年︵明治11年︶4月30日 - 銀盃一個[39]8月 - 銀盃一個[39] ●1879年︵明治12年︶12月 - 銀盃一個[39] ●1880年︵明治13年︶4月 - 銀盃一個[39]12月 - 木杯一組・銀盃一個[39] ●1881年︵明治14年︶3月 - 銀盃一個[39]9月 - 銀盃一個[39] ●1885年︵明治18年︶10月13日 - 木杯一個[39] ●1886年︵明治19年︶12月7日 - 木杯一組[39]12月24日 - 木杯一組・木杯一個[39] ●1887年︵明治20年︶12月20日 - 木杯一個[39] ●1888年︵明治21年︶5月31日 - 木杯一組・木杯一個[39] ●1890年︵明治23年︶3月27日 - 木杯一個[39]4月3日 - 銀盃一組[39]12月15日 - 木杯一個[39] ●1891年︵明治24年︶7月8日 - 木杯一組[39]11月30日 - 木杯一組[39] ●1892年︵明治25年︶3月11日 - 木杯一組[39]6月15日 - 木杯一個[39] ●1893年︵明治26年︶6月6日 - 木杯一組[39] ●1894年︵明治27年︶4月13日 - 木杯一組[39]4月17日 - 木杯一組[39] ●1895年︵明治28年︶3月1日 - 木杯一個[39] ●1896年︵明治29年︶3月2日 - 銀牌[39] ●1897年︵明治30年︶6月1日 - 銀盃一個[39] ●1899年︵明治32年︶10月24日 - 銀盃一組[39]12月6日 - 銀盃一組[39]12月19日 - 木杯一組[39] ●1910年︵明治43年︶1月21日 - 金杯一組[64]系譜
渋沢家は甲斐源氏の逸見氏︵もしくは下野源氏の足利氏︶の流れを汲み、天正時代に始祖となる渋沢隼人が血洗島村にて帰農したという伝承がある。[65] 江戸末期には、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって﹁中ノ家︵なかんち︶﹂﹁前ノ家﹂﹁東ノ家﹂﹁古新宅﹂﹁新屋敷﹂などと呼んで区別した。∴ 渋沢市郎右衛門 ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 渋沢栄一 渋沢市郎(婿養子) 貞子 ┃ ┃ ┣━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 渋沢篤二 渋沢武之助 渋沢正雄 渋沢秀雄 歌子 琴子 愛子 渋沢元治 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┣━┳━┳━┓ ┣━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 渋沢敬三 渋沢信雄 渋沢智雄 女 正一 純子 女 華子 渋沢和男 ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 渋沢雅英 紀子 黎子 ┃ ┣━━━━┓ ┃ ┃ 雅明 田鶴子
家族・親族
姻族関係系図
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| 後藤猛太郎 |
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| 長與延子 |
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| 長與中庵 |
| 長與專齋 |
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| 長與稱吉 |
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| 犬養道子 |
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| 犬養毅 |
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| 島津斉興 |
| 島津久光 |
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| 後藤正晴 |
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| 岩崎弥之助 |
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| 岩崎毅太郎 |
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| 岩崎英二郎 |
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| 櫻井房記 |
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| 岡部妙子 |
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| 岡部長発 |
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| 岡部長職 |
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| 村山長挙 |
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| 村山美知子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 村山富美子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 村山龍平 |
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| 村山藤於 |
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| 岡部長景 |
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| 加藤春路 |
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| 岡部悦子 |
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| 加藤高明 |
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| 幣原雅子 |
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| 幣原喜重郎 |
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| 昭和天皇 |
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| 島津忠義 |
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| 邦彦王妃俔子 |
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| 香淳皇后 |
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| 貞敬親王 |
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| 朝彦親王 |
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| 久邇宮邦彦王 |
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| 能久親王 |
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| 竹田宮恒久王 |
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| 竹田恒徳 |
| 竹田恒正 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 保科武子 |
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| 竹田恒治 |
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| 竹田恒和 |
| 竹田恒泰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 保科正昭 |
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| 保科正益 |
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| 岩崎寧子 |
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| 岩崎弥太郎 |
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| 岩崎久弥 |
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| 福沢綾子 |
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| 福沢百助 |
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| 福沢諭吉 |
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| 福沢捨次郎 |
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| 福沢堅次 |
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| 志立瀧子 |
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| 木内多代 |
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|
| 志立鉄次郎 |
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| 木内磯路 |
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| 木内信胤 |
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| 大宮以季 |
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| 木内重四郎 |
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| 渋沢登喜子 |
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| 渋沢雅英 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 橋本実梁 |
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| 渋沢敦子 |
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| 紀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 渋沢敬三 |
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| 黎子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 渋沢宗助(4) |
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| 渋沢篤二 |
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 渋沢宗助(3) |
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| 渋沢宗助(5) |
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| 渋沢宗助(6) |
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| 渋沢長康(7) |
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| 田中長兵衛(1) |
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|
| 田中長兵衛(2) |
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| 横山虎雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| きち子 |
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| 横山花子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 金子傳八 |
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| 渋沢武 |
| 澁澤龍彥 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 徳川治済 |
|
| 徳川斉匡 |
|
| 徳川慶頼 |
|
|
| 徳川達孝 |
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|
| 徳川達成 |
| 徳川宗賢 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
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| 松方冬子 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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| 浅尾荘一郎 |
| 陽子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| (長女) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 河田政直 |
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| 児玉忠碩 |
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|
| 児玉源太郎 |
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| 穂積ナカ |
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 穂積重行 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 阪谷朗廬 |
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|
| 阪谷芳郎 |
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| 穂積重遠 |
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| 岩佐美代子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 穂積律之助 |
| 磯野富士子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 阪谷琴子 |
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| 穂積真六郎 |
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| 磯野誠一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 須永惣次郎 |
|
|
| 須永伝蔵 |
|
|
| 芳賀矢一 |
|
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|
| 穂積敏子 |
|
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 渋沢市郎 |
|
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|
| 芳賀檀 |
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||
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| (女子) |
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| 渋沢元治 |
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| 渋沢貞子 |
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| 渋沢孝子 |
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 渋沢市郎右衛門 |
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| 渋沢栄一 |
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| 石黒忠悳 |
|
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| 石黒忠篤 |
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| 穂積歌子 |
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| 石黒孝次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 渋沢千代 |
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|
| 石黒光子 |
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 尾高やへ |
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| 渋沢平九郎 |
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|
| 穂積陳重 |
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| 尾高咲子 |
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|
| 尾高長七郎 |
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|
| 尾高文子 |
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|
| 久留都茂子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 尾高勝五郎 |
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| 尾高朝雄 |
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| 尾高惇忠 |
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| 尾高次郎 |
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| 尾高豊子 |
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| 尾高豊作 |
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 尾高邦雄 |
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 尾高煌之助 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 和辻哲郎 |
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|
| 尾高京子 |
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| 尾高尚忠 |
| 尾高惇忠 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
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| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 大川照子 |
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|
| 尾高忠明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
|
| 大川みち子 |
|
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|
| 大川義雄 |
| 大川慶次郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
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| 大川平三郎 |
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|
| 大川平兵衛 |
|
| 大川修三 |
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|
| 市河晴子 |
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|
| 野上三枝子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 市河寛斎 |
|
| 市河米庵 |
|
|
|
| 市河万庵 |
|
|
|
| 市河三喜 |
|
|
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|
| 長谷川三千子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
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|
| 野上豊一郎 |
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| 野上耀三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 小手川角三郎 |
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| 野上弥生子 |
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| 野上素一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 千葉亀之助 |
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| (女子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 渋沢文平 |
|
| 渋沢成一郎 |
|
|
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|
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|
| (女子) |
|
| 野上茂吉郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
| 高野房太郎 |
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|
| 高野岩三郎 |
|
| 野上正子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| バルバラ・カロリナ |
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| 星野辰雄 |
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| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 穂積重樹 |
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| 穂積重頴 |
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|
| 桜井小太郎 |
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|
| 星野万亀子 |
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|
| 穂積八束 |
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|
| 穂積安芸子 |
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| 板垣退助 |
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| 箕作秋坪 |
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| 箕作佳吉 |
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| 永田アヤ |
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| 諸井恒平 |
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| 諸井三佐保 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 諸井時三郎 |
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| 諸井三郎 |
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| 諸井虔 |
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| 諸井泉衛 |
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| 諸井誠 |
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| 諸井六郎 |
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(参考文献)『財界家系図』、『日本の有名一族』、『御侍中先祖書系圖牒』、『土佐の墓』、『日本人なら知っておきたい名家・名門』、『閨閥』、『板垣精神』、『平成新修旧華族家系大成』
関連作品
主人公 ●テレビドラマ ●雲を翔びこせ︵TBS、1978年、演‥西田敏行︶ ●雄気堂々︵城山三郎原作、NHK、1982年、演‥滝田栄︶ ●青天を衝け︵NHK大河ドラマ、2021年、演‥吉沢亮︶[85] ●歌謡曲 ●雨夜譚〜渋沢伝〜︵雨夜譚〜渋沢栄一伝〜︶︵2015年、作詞‥万城たかし、作曲‥四方章人、歌‥永井裕子︶ その他 ●小説 ●帝都物語︵荒俣宏。1988年に映画化、演‥勝新太郎、なお、この映画は栄一が主人公とは言い難いものの、栄一をトップタイトルで扱った唯一の映画である。︶ ●映画 ●筆子・その愛 -天使のピアノ-︵2007年、演‥平泉成︶ ●さくら、さくら 〜サムライ化学者・高峰譲吉の生涯〜︵2010年、演‥松方弘樹︶ ●紅い襷〜富岡製糸場物語〜 (映画、2017年、演‥豊原功補) ●テレビドラマ ●風雪 第13話﹁富の足音﹂︵NHK、1964年、演‥増田順司︶ ●天皇の世紀︵大佛次郎原作、朝日放送、1971年、演‥山本亘︶ ●獅子の時代︵NHK大河ドラマ、1980年、演‥角野卓造︶ ●あさが来た︵連続テレビ小説、NHK、2015年、演‥三宅裕司︶ ●ミュージカル ●猛き黄金の国 -士魂商才!岩崎彌太郎の青春-︵宝塚歌劇団。本宮ひろ志の漫画﹃猛き黄金の国﹄が原作、演‥飛鳥裕︶関連文献
史料
●﹃渋沢栄一伝記資料﹄︿第1 - 58巻﹀︵渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年 - 1965年︶ ●﹃渋沢栄一伝記資料﹄︿別巻第1 - 10巻﹀︵渋沢青淵記念財団竜門社、1966年 - 1971年︶ ●﹃渋沢栄一滞仏日記﹄︿日本史籍協会叢書﹀︵日本史籍協会、1928年︶主な著書
●述﹃官板 立会略則﹄明治4年9月 - 会社の設立にかんする説明 ●﹃徳川慶喜公伝(全8巻)﹄大正7年︵1918年︶ ●﹃徳川慶喜公伝﹄全4冊︵藤井貞文校訂︶平凡社︵東洋文庫︶1967-68年 ●﹃渋沢栄一全集﹄平凡社︵全6巻︶、1930年 ●﹃青淵百話﹄同文舘、1931年/国書刊行会、1986年 ●﹃渋沢百訓 論語・人生・経営﹄角川ソフィア文庫、2010年 ●﹃渋沢栄一﹁青淵論叢﹂ 道徳経済合一説﹄鹿島茂編訳、講談社学術文庫、2020年 ●﹃渋沢栄一訓言集﹄渋沢青淵記念財団 竜門社編、国書刊行会、1986年 ●﹃雨夜譚 渋沢栄一自伝﹄岩波文庫︵長幸男校注︶、1984年、新版2019年 ●﹃論語と算盤﹄︵梶山彬編︶国書刊行会、1985年/角川ソフィア文庫、2008年 ほか・新版再刊多数 ●﹃論語講義﹄二松学舎大学出版部、1975年/講談社学術文庫︵全7巻︶、1977年 ●﹃渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録︵抄︶﹄角川ソフィア文庫、2020年、井上潤︵渋沢史料館館長︶解説 ●﹃航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳﹄杉浦譲共著︵大江志乃夫訳︶講談社学術文庫、2024年 - 新版再刊伝記・評伝研究
●竜門社編﹃青淵先生六十年史 : 一名近世実業発達史﹄竜門社、1900年 ●渋沢栄一述 小貫修一郎編著﹃青淵回顧録﹄青淵回顧録刊行会、1927年 ●白石喜太郎 ﹃渋沢栄一翁﹄︵刀江書院、1933年︶ - Google ブックス ●新版﹃渋沢栄一92年の生涯﹄国書刊行会︵全4巻︶、2020-21年 ●﹃渋沢翁の面影﹄︵四条書房、1934年︶ ●幸田露伴﹃渋沢栄一伝﹄岩波書店、1939年、復刊1986年ほか/岩波文庫、2020年 ●渋沢秀雄﹃渋沢栄一﹄渋沢青淵記念財団竜門社、1951年 ●﹃渋沢栄一﹄︵時事通信社、1965年︶。新装版﹃澁澤榮一﹄同、2019年 ●﹃父 渋沢栄一﹄︵実業之日本社︵上下︶、1959年︶。新装・実業之日本社、2019年、同文庫、2020年 ●﹃明治を耕した話 父・渋沢栄一﹄︵青蛙房、1977年︶。改訂再刊を含め他にも伝記著作がある。 ●渋沢雅英﹃太平洋にかける橋―渋沢栄一の生涯﹄ 読売新聞社、1970年/不二出版、2017年 ●渋沢華子﹃渋沢栄一、パリ万博へ﹄国書刊行会、1995年 ●鮫島純子﹃祖父・渋沢栄一に学んだこと﹄文藝春秋、2010年 ●土屋喬雄﹃渋沢栄一﹄吉川弘文館︿人物叢書﹀、新装版1989年 ●木村昌人﹃渋沢栄一 民間経済外交の創始者﹄ 中公新書、1991年 ●新訂版﹃渋沢栄一 日本のインフラを創った民間経済の巨人﹄ 筑摩書房︿ちくま新書﹀、2020年 ●山本七平﹃渋沢栄一 近代の創造﹄PHP研究所、1987年/祥伝社、2009年 ●続編﹃渋沢栄一 日本の経営哲学を確立した男﹄さくら舎、2018年 ●鹿島茂﹃渋沢栄一I算盤篇﹄﹃- II 論語篇﹄文藝春秋、2011年/文春文庫︵上下︶、2013年 ﹁サン=シモン主義者 渋沢栄一﹂-﹃諸君!﹄で1999年8月号から長期連載。長らく未刊であった。 ●見城悌治﹃渋沢栄一 ﹁道徳﹂と経済のあいだ 日本経済評論社︿評伝・日本の経済思想﹀、2008年 ISBN 9784818820241 ●東京商工会議所編﹃渋沢栄一 日本を創った実業人﹄講談社+α文庫、2008年、ISBN 9784062812351 ●島田昌和﹃渋沢栄一 社会企業家の先駆者﹄ 岩波新書、2011年 ●編著﹃原典でよむ渋沢栄一のメッセージ﹄岩波現代全書、2014年 ●佐野眞一﹃渋沢家三代﹄文春新書、1998年 ●林田明大﹃渋沢栄一と陽明学﹄ワニブックス、2019年。 ●泉三郎﹃青年・渋沢栄一の欧州体験﹄祥伝社新書、2011年 ●宮本又郎編著﹃渋沢栄一 日本近代の扉を開いた財界リーダー﹄PHP研究所、2016年 ●橘木俊詔﹃渋沢栄一 変わり身の早さと未来を見抜く眼力﹄平凡社新書、2020年 ●武田晴人﹃渋沢栄一 よく集め、よく施された﹄ミネルヴァ書房︿日本評伝選﹀、2021年歴史小説
●大佛次郎﹃激流 渋沢栄一の若き日﹄未知谷︵新版︶、2009年。朝日文庫、2021年 ●城山三郎﹃雄気堂々﹄新潮文庫︵上下︶、改版2003年 ●南條範夫﹃幕府 パリで戦う﹄光文社文庫、1994年、新版2021年 ●童門冬二﹃渋沢栄一 人間の礎﹄新版・集英社文庫、2019年 ●津本陽﹃小説 渋沢栄一﹄新版・幻冬舎文庫︵全2巻︶、2007年 ●山田克郎﹃渋沢栄一 財界のフロンティア﹄新装復刊・春陽堂書店、2019年 ●星亮一﹃天才渋沢栄一 明治日本を創った逆境に強い男と慶喜﹄さくら舎、2020年 ●中村彰彦﹃むさぼらなかった男 渋沢栄一﹁士魂商才﹂の人生秘録﹄文藝春秋、2021年 ●北康利﹃乃公出でずんば 渋沢栄一伝﹄角川書店、2021年漫画
●星野泰視﹁日本を創った男 〜渋沢栄一 青き日々〜﹂全7巻︵秋田書店﹃ヤングチャンピオン﹄連載、2020年14号 - 2023年14号︶ ●町田翠﹁栄一 〜渋沢栄一伝〜﹂全4巻 (小学館﹁月刊!スピリッツ﹂連載、2020年8月号 - 2022年1月号、ビッグコミックス)脚注
注釈
出典
関連項目
渋沢同族関係
政財界など
●本山白雲 - 彫刻家。高村光雲の弟子。渋沢栄一はじめ明治の偉人の銅像作品が多い。 ●五代友厚 - 明治初期に大阪経済を再興。東の渋沢栄一、西の五代友厚、と言われた。 ●東京都健康長寿医療センター - 旧養老院長渋沢栄一銅像、および養老院・渋沢記念コーナーがある。 ●吉田清成 -元薩摩藩士、大蔵省、農商務省役人。書簡等が 吉田清成関係文書として整理されており、栄一との書簡も多く伝わっている。 ●蜂須賀茂韶 - 渋沢の旧三田綱町邸の近くに本邸があった華族︵侯爵︶。徳島藩最後の藩主、貴族院議長も務め、旧大名華族の資産の活用にも意を用い、栄一とは鉄道事業、損害保険事業、国際親善、教育等で幅広い交流があった。 ●瀧川辨三 - 神戸実業界の重鎮。事業活動の他、教育事業等にも取り組んだ。笑山寺に置かれている瀧川辨三の彰功碑は栄一が揮毫。 ●岩本栄之助 ●谷中霊園 - 渋沢栄一墓所。 ●一万円紙幣外部リンク
- 渋沢栄一 - 近代日本人の肖像(国立国会図書館)
- 渋沢 栄一:作家別作品リスト - 青空文庫
- 朝日日本歴史人物事典『渋沢栄一』 - コトバンク
- 渋沢栄一記念財団
- 渋沢栄一ミュージアム(深谷市サイト内)
- 見城悌治「渋沢栄一の宗教観と道徳観 ――「帰一協会」をめぐって――」-プリンストン大学
- 「新1万円札の肖像、精巧なアンドロイドに…手ぶり交えて講義も」『読売新聞』2020年7月1日
- 渋沢栄一と高峰譲吉
公職 | ||
---|---|---|
先代 (新設→欠員) |
紙幣頭 1871年 - 1872年 |
次代 芳川顕正 |
先代 (新設→欠員) |
租税正 1869年 - 1870年 |
次代 (欠員→)伊藤博文 租税頭 |
ビジネス | ||
先代 三井高福 |
第一銀行(旧第一国立銀行)頭取 第3代 1875年 - 1916年 |
次代 佐々木勇之助 |
先代 (新設) |
王子製紙会長 初代 1893年 - 1898年 |
次代 朝吹英二 |
先代 (新設) |
帝国ホテル会長 初代 1907年 - 1909年 |
次代 大倉喜八郎 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
東京市養育院長 1890年 - 1931年 東京養育院長 1885年- 1890年 東京府養育院長 1879年 - 1885年 |
次代 田中太郎 |
先代 (新設) |
中央社会事業協会会長 1924年 - 1931年 社会事業協会会長 1921年 - 1924年 中央慈善協会会長 1908年 - 1921年 |
次代 清浦奎吾 |
先代 三島復 二松學舍長 |
財団法人二松學舍長 1919年 - 1931年 |
次代 金子堅太郎 |
先代 小林彦五郎 |
滝乃川学園理事長 第3代:1921年 - 1931年 |
次代 沢田廉三 |
先代 芳川顕正 |
日本結核予防協会会頭 1921年 - 1931年 |
次代 徳川圀順 |
先代 (新設) |
日仏会館理事長 1924年 - 1931年 |
次代 古市公威 |
先代 神田乃武 東京女学館長 |
財団法人東京女学館長 1930年 - 1931年 東京女学館長事務取扱 1924年 - 1930年 |
次代 桜井錠二 |
先代 (新設) |
修養団後援会会長 初代:1925年 - 1931年 |
次代 小倉正恆 |
先代 (新設) |
中央盲人福祉協会会長 1929年 - 1931年 |
次代 大久保利武 |
先代 麻生正蔵 |
日本女子大学校長 1931年 |
次代 井上秀 |
先代 (新設) |
全日本方面委員連盟会長 1931年 |
次代 清浦奎吾 |
先代 (新設) |
癩予防協会会頭 1931年 |
次代 清浦奎吾 |
先代 小松原英太郎 |
日華学会会長 1919年 |
次代 徳川慶久 |
日本の爵位 | ||
先代 (陞爵) |
子爵 渋沢家初代 1920年 - 1931年 |
次代 渋沢敬三 |
先代 叙爵 |
男爵 渋沢家初代 1900年 - 1920年 |
次代 (陞爵) |
- 渋沢栄一
- 19世紀日本の実業家
- 20世紀日本の実業家
- 19世紀日本の政治家
- 20世紀日本の政治家
- 19世紀日本の教育者
- 20世紀日本の教育者
- 19世紀日本の活動家
- 20世紀日本の活動家
- 19世紀日本のノンフィクション作家
- 20世紀日本のノンフィクション作家
- 日本の自伝作家
- 日本の社会福祉活動家
- 日本の慈善家
- 幕末の旗本
- 幕府陸軍の人物
- 開成所の人物
- 幕府の外交官僚
- 徳川慶喜時代の一橋徳川家家中の人物
- 静岡藩の人物
- 日本の貿易立国論者
- 戦前日本の大蔵官僚
- 日本の銀行家
- 日本のソーシャライト
- 日本の子爵
- 日本の男爵
- 渋沢子爵家
- 渋沢家中の家
- 渋沢財閥
- 貴族院勅選議員
- 明治時代の貴族院議員
- 深川区会議員
- 衆議院議員総選挙の立候補経験者
- 日本の企業創立者
- みずほフィナンシャルグループの人物
- 東京ガスの人物
- 王子製紙の人物
- サッポロホールディングスグループの人物
- 東京海上グループの人物
- 東洋紡の人物
- 日産化学の人物
- 日本の鉄道実業家
- 秩父鉄道
- 京阪電気鉄道の人物
- 日本の海事実業家
- 東京株式取引所の人物
- 日本の赤十字の人物
- 1867年パリ万博に関係した日本の人物
- 東京地学協会の人物
- 東邦協会の人物
- 帝国軍人援護会の幹部
- 日本のアジア研究史の人物
- 南洋協会の人物
- 日印協会の人物
- 東京商工会議所会頭
- 一橋大学の人物
- 二松學舍大学の人物
- 理化学研究所の人物
- アジアの紙幣の人物
- 日本女子大学学長
- 日本女子大学の人物
- 正二位受位者
- 勲一等旭日桐花大綬章受章者
- 勲一等旭日大綬章受章者
- 勲一等瑞宝章受章者
- 勲三等瑞宝章受章者
- 勲四等瑞宝章受章者
- 紺綬褒章受章者
- 金製黄綬褒章受章者
- レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者
- レジオンドヌール勲章コマンドゥール受章者
- 太極章受章者
- 幕末岡部藩の人物
- 武蔵国の人物
- 埼玉県出身の人物
- 1840年生
- 1931年没
- 谷中霊園に埋葬されている人物