「大相撲」の版間の差分
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{{Otheruseslist|日本相撲協会の興行|一般的な相撲|相撲|かつて発行されていた雑誌|大相撲 (雑誌)}} |
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'''大相撲'''(おおずもう) |
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{{出典の明記|date=2018年1月24日 (水) 23:38 (UTC)}} |
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{{ウィキプロジェクトリンク|相撲}}<!--注意 パイプを使用する際の"_"は半角空白を"_"に置換する処理を省くために行っているので「わざわざ半角空白に戻さないでください。」また、章・節に記号は使用しないでください。記号を使用せずとも目次などでレベルは判断できます。--> |
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'''大相撲'''(おおずもう)は、 |
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# [[日本相撲協会]]が主催する[[相撲]][[興行]]。 |
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# 4分を超える取組。また、がっぷりと四つに組んだ[[力士]]同士の力が拮抗し、組み合った状態で3分を超える取組。組み合ったまま4分を超えると﹁[[水入り]]﹂になる場合がある。
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[[公益財団法人]][[日本相撲協会]]が主催する'''大相撲'''︵おおずもう︶は、世界中で行われる[[相撲]][[興行]]の中で、最も有名かつ権威のある競技興行である。[[東京]]での開催場所は'''[[両国国技館|国技館]]'''である︵詳しくは[[両国国技館|国技館]]、[[国技#日本の国技]]を参照︶。<!--相撲の歴史は非常に長く、[[皇室]]との関わりも深いと考えられている。:大相撲ではなく相撲のことであれば、ここでは不必要-->
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[[土俵]]に立つものおよび出場できるものは男性に限られる。 |
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[[ファイル:Kunisada Sumo Triptychon c1860s.jpg|thumb|400px|[[相撲絵]]([[歌川国貞]]、1860年代)]] |
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# [[日本相撲協会]]が主催する[[プロ]]の[[相撲]]興行のこと。(後述) |
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[[ファイル:Dohyo_all.png|200px|thumb|相撲競技場全体図]] |
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# がっぷりと四つに組んだ力士同士の力が拮抗して、なかなか決着がつかない相撲の取組のこと。 |
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[[ファイル:Sumo-Nobori Flag.jpg|200px|thumb|大相撲の[[力士]]を応援する[[幟]]]] |
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==大相撲== |
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プロ[[スポーツ]]としての大相撲では、公式対戦である[[本場所]]は年間6回行われる。本場所のない時期には、地方巡業を行う。海外に巡業を行うこともある。
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== 歴史 == |
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大相撲では、成績などを考慮して大きく三つのクラス分けがされ、このクラス内で対戦をするのが基本である。クラス内の地位は「番付」と呼ばれる。 |
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[[File:Oda_Nobunaga_sumo.jpg|right|thumb|250px|天正六年︵1578年︶、[[織田信長]]が安土城にて[[相撲]]を観戦。両国国技館の﹁織田信長公相撲観覧之図﹂]]
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{{出典の明記|section=1|date=2012年1月}} |
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最上位リーグである﹁幕内﹂︵幕の内︶は、番付上位から[[横綱]]・[[大関]]・[[関脇]]・[[小結]]・[[前頭]]となる。﹁三役﹂とは、小結以上を指し、前頭は﹁平幕﹂ということが多い。中入りの後、[[日本標準時|日本時間]]で16:15頃から最初の取り組みが行われ、千秋楽を除いては大体18:00前後に全取り組みが終わる。1日の最後の取り組みを﹁結び(の一番)﹂、全取り組み終了を﹁打ち出し﹂と呼ぶ。
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現在の[[日本相撲協会]]の前身として、人的・組織的につながる[[相撲]][[興行]]組織は、[[江戸時代]]の[[江戸]]および[[大坂]]における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、[[大坂相撲]]の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の[[歴史]]について記述する。
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[[ファイル:Somagahana Fuchiemon.jpg|right|thumb|220px|大小の[[刀]]を佩刀し[[武士]]と同じ待遇であった力士<ref>[[歌川国貞]]画:大判[[錦絵]]:杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな・ふちえもん)</ref>]] |
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=== 江戸時代 === |
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「幕内」に続く中位リーグが「十両(十枚目とも呼ぶ)」で、いわゆる関取とは幕内と十両の力士を指す。15:00頃から16:00頃(日本時間)に行われる。 |
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興行としての相撲が組織化されたのは、[[江戸時代]]の始め頃︵17世紀︶とされる。これは[[寺社]]が建立や移築のための資金を集める[[興行]]として行うものであり、これを﹁'''勧進相撲'''﹂といった。[[1624年]]、四谷塩町長禅寺︵笹寺︶において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり[[喧嘩]]が絶えず、[[浪人]]集団との結びつきが強いという理由から、[[1648年]]から[[江戸幕府|幕府]]によってたびたび[[禁止令]]が出されていた<ref name="4gumi">大空出版﹃相撲ファン﹄vol.06 p103</ref>。
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ところが、[[1657年]]の[[明暦の大火]]により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が[[生業]]が立たず争い事が収まらなかったため、[[1684年]]、[[寺社奉行]]の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の[[雷 (相撲)|雷権太夫]]がいて、それが[[年寄名跡]]の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の[[富岡八幡宮]]境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社︵富岡や[[本所]][[江島杉山神社]]、[[蔵前神社|蔵前八幡]]、[[芝大神宮|芝神明社]]など︶で不定期に興行していたが、[[1744年]]から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲[[渡世]]が濃くなり、[[1733年]]から[[隅田川花火大会|花火大会]]が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた[[両国橋]]左岸の本所[[回向院]]で[[1768年]]に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは[[1833年]]のことである<ref>{{PDFLink|[https://web.archive.org/web/20160315162208/https://www.kcf.or.jp/fukagawa/pdf/03010090003501.pdf ﹁大相撲の歴史と深川(4)﹂]}}[[深川江戸資料館]] 資料館ノート106号、2014年11月16日発行、2016年1月5日閲覧。</ref>。
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下位リーグが﹁[[幕下]]﹂、﹁[[三段目]]﹂、﹁[[序二段]]﹂、﹁[[序ノ口]]﹂となっており、新規入門力士が多く所属している。上位クラスを目指そうと、10:00頃から始まり、15:00頃まで(日本時間)取り組みが行われている。
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『相撲傳書』によると、この頃は[[土俵]]はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9[[メートル|m]](4 - 5[[間]])の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには[[リング_(格闘技)|格闘技のリング]]のように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に[[四神]]を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13[[尺]])の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。 |
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幕内と十両では一場所で一人15番、幕下以下は一人7番の取り組みを行い勝敗の数で優勝者を決める。本割りで同じ部屋の力士同士の取り組みは組まれない。場所中の取り組みで白星︵勝利︶を重ねると、対戦相手に上位の力士を割り当てられる。
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江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は[[朝廷 (日本)|朝廷]]の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた[[番付]]も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では[[1757年]]のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。<!--各地の相撲集団に所属する力士たちは薄給で酷使され、その実態は男の売春業だったとする説もある︵[[日下公人]]﹁あと三年で、世界は江戸になる﹂ビジネス社、p.74︶。この人は研究者ではないでしょう-->
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大相撲は、力士が髷(まげ)を結って和装をしたり、また土俵上への女性の立ち入りを認めない([[大阪府]]の太田房江知事による知事賞の直接授与が認められない)など、良くも悪くも日本の伝統文化が色濃く残っている。 |
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しかし江戸相撲は、[[1789年]]11月、司家の吉田追風から[[谷風梶之助_(2代)|二代目・谷風梶之助]]、[[小野川喜三郎]]への[[横綱]]免許を実現。さらに[[征夷大将軍]][[徳川家斉]]観戦の[[1791年]]上覧相撲を成功させる<ref>{{Cite journal|和書 | author = 木梨雅子 | title = ﹁寛政の上覧相撲﹂(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって | journal = 体育学研究 | volume = 43 | issue = 5-6 | pages = 234-244 | publisher = [[日本体育学会]] | date = 1998 | doi = 10.5432/jjpehss.KJ00003392098 | naid = 110001919260}}</ref>。[[雷電爲右エ門|雷電爲右衞門]]の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、﹁江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士﹂という風潮が生まれた。
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==本場所一覧== |
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*一月場所(初場所) - [[両国国技館]] |
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*三月場所(春場所、大阪場所) - [[大阪府立体育館]] |
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*五月場所(夏場所) - [[両国国技館]] |
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*七月場所(名古屋場所) - [[愛知県体育館]] |
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*九月場所(秋場所) - [[両国国技館]] |
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*十一月場所(九州場所、福岡場所) - [[福岡国際センター]] |
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各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。 |
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==関連項目== |
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*'''[[相撲用語一覧]]''' |
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*[[大相撲の決まり手一覧]] |
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*[[横綱一覧]] |
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*[[大相撲力士一覧]] |
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*[[相撲界]] |
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*[[横綱審議委員会]] |
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*[[両国国技館]] |
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*[[蔵前国技館]] |
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[[1827年]]、[[江戸幕府]]が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の[[吉田司家]]に認めた。 |
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[[幕末]]に「相撲VS[[レスリング]]」や「相撲VS[[ボクシング]]」の[[異種試合]]が行われた事がある。また、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海軍|海軍]]の[[マシュー・ペリー]]提督が[[黒船]]で来航した[[1853年]]6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。 |
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==外部へのリンク== |
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*[http://www.sumo.or.jp/ 大相撲ホームページ](日本相撲協会による公式サイト) |
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[[1863年]][[6月3日]]、大阪北新地で壬生浪士組(後の[[新選組]])と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の[[熊川熊次郎]]([[肥後国|肥後]]出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の[[志士]]となった者もいた。 |
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*[http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm 大相撲 記録の玉手箱] |
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=== 明治・大正 === |
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[[ファイル:Wrestling at Tokyo 1890s.jpg|thumb|250px|明治中頃]] |
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[[ファイル:Hitachiyama Chicago 1907.jpg|thumb|220px|訪米中の常陸山]] |
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[[明治維新]]と[[文明開化]]に伴い、[[1871年]]東京府のいわゆる﹁[[裸体禁止令]]﹂により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、﹁[[相撲禁止論]]﹂が浮上した事もある。このような事態に対し、自らも相撲をとることの多かった[[明治天皇]] および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、[[1884年]]に[[天覧相撲]]が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この[[天覧相撲]]の力士は58連勝︵史上3位︶を記録した15代横綱[[梅ヶ谷藤太郎_(初代)|初代・梅ヶ谷藤太郎]]であった。
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東京大角力協会︵1889年に[[江戸相撲会所|東京相撲会所]]から改称︶と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。[[1890年]]に入幕から39連勝で大関に駆け上がった[[小錦八十吉 (初代)|初代・小錦八十吉]]と横綱免許を受けた大関[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代・西ノ海嘉治郎]]のねじれ現象の解決のため、番付に初めて︿横綱﹀の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。
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この頃から映像が映され出し、[[小錦八十吉 (初代)|小錦]]や[[大砲万右エ門|大砲]]が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。 |
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20世紀の変わり目の頃には、横綱[[常陸山谷右エ門]]︵1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ︶と[[梅ヶ谷藤太郎_(2代)|二代目・梅ヶ谷藤太郎]]の﹁梅常陸時代﹂による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。
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[[1907年]]、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。 |
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[[1909年]][[6月2日]]、初の常設相撲場となる[[両国国技館]]の落成。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、[[東西制]]の導入などにより相撲の近代スポーツ化がすすめられた。東西制は団体優勝制度であり、優勝旗が授与された。[[毎日新聞社|時事新報社]]の[[優勝額]]贈呈により、現在の優勝制度が始まる。それまでは幕内力士の出場がなかった[[千秋楽]]にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、[[1923年]]5月から11日間に増加した。
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1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの[[裃]]、[[袴]]から[[烏帽子]]、[[直垂]]となった。 |
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[[1913年]]2月、東京と大阪の両角力協会が和解。東西合併大相撲を東京で開催<ref>下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p.385 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。 |
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[[1915年]][[3月12日]]、紛争があり、興行が無期延期となる<ref>{{Cite book |和書 |author=下川耿史 家庭総合研究会 編 |title=明治・大正家庭史年表:1868-1925 |publisher=河出書房新社 |year=2000 |page=401 |isbn=4-309-22361-3}}</ref>。
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[[1917年]]11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期[[靖国神社]]境内で本場所が行われたこともあった。 |
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興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。東京相撲では、[[1923年]]に[[三河島事件]]と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱[[大錦卯一郎]]が廃業する事件が起こる。大阪相撲においても同年[[龍神事件]]と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。1923年9月1日の[[関東大震災]]により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。[[1924年]]1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった<ref>『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p40</ref>。 |
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[[1925年]]、当時の皇太子・裕仁親王︵後の[[昭和天皇]]︶の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の[[天皇賜杯]]が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、[[1926年]]1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。
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=== 昭和戦前から戦後初期 === |
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[[1927年]]、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月︵両国︶、3月︵関西︶、5月︵両国︶、10月︵関西︶の計4回‥11日間で開催︵1929年は10月でなく9月︶されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。
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この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。[[1928年]]から[[ラジオ]]中継が始まったために<ref>{{NHK放送史|D0009060010_00000|大相撲}}</ref>、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]・不戦敗制度の全面施行、[[物言い]]のついた相撲での[[預り (相撲)|預かり]]の廃止と[[取り直し]]制度の導入、二番後取り直しによる[[引分 (相撲)|引き分け]]の縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。
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[[1931年]]4月の[[天覧相撲]]の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた[[勝負審判|勝負検査役]]を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。 |
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[[1932年]]1月に起こった[[春秋園事件]]で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催︵1月、5月︶となった。
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69連勝を記録した[[双葉山定次|双葉山]]の影響で興行日数は[[1937年]]5月場所より13日間となり、[[1939年]]5月場所より15日間と移り変わる。 |
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[[第二次世界大戦]]の影響が次第に相撲界にも及び、[[1944年]]に両国国技館が[[大日本帝国陸軍]]に接収され、5月場所から本場所開催地を[[後楽園球場|小石川後楽園球場]]に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。[[1945年]]5月場所は晴天7日間、[[明治神宮外苑|神宮外苑]]相撲場︵後の[[明治神宮野球場|明治神宮第二球場]]︶で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で[[傷痍軍人|傷痍将兵]]のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は[[春日野部屋]]で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。[[東京大空襲]]で両国国技館や相撲部屋を焼失。
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戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して[[連合国軍最高司令官総司令部]]︵GHQ︶に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に[[土俵]]を16尺︵約4.84m︶と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所︵11月‥10日間︶が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m︵15尺︶に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所︵13日間︶が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、[[1947年]]には[[明治神宮]]外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は[[1948年]]の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所︵10月‥11日間︶には、戦後初の大阪場所が[[大阪市]]福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]や[[三賞]]制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。
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=== 昭和戦後 === |
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[[1949年]]になり[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の浜町公園内に仮設国技館︵木造︶を建設し、ようやく1月場所︵13日間︶を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた[[蔵前]]の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館︵[[蔵前国技館]]︶も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となり、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。
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[[1950年]]から[[1952年]]は、本場所︵1月、5月、9月︶が各15日間実施︵ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催︶。このうち大阪は、1950年9月場所は[[阿倍野橋]]畔に、[[1951年]]9月場所は[[難波]]︵現在の[[大阪府立体育会館]]所在地︶にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館︵1987年から大阪府立体育会館︶が竣工。翌[[1953年]]3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。
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横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる[[横綱審議委員会]]が発足した。全国的に[[テレビ]]が普及するに従い、[[日本放送協会|NHK]]の相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。
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[[栃錦清隆|栃錦]]と[[若乃花幹士 (初代)|初代・若乃花]]の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。[[1957年]]には11月場所︵九州場所、[[福岡スポーツセンター]]︶、[[1958年]]には7月場所︵名古屋場所、[[名古屋市金山体育館]]︶を行うようになり、現在のような6場所︵1月、3月、5月、7月、9月、11月︶、15日間という体系になった。また、[[1965年]]1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。
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[[国会 (日本)|国会]]で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年3月2日の[[衆議院]][[予算委員会]]<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102605261X01119570302¤t=15 第26回国会 衆議院 予算委員会 第11号 昭和32年3月2日]</ref>および4月3日の衆議院[[文部科学委員会|文教委員会]]<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102605077X01519570403¤t=21 第26回国会 衆議院 文教委員会 第15号 昭和32年4月3日]</ref>)を受けて、[[相撲茶屋]]制度の改革、月給制の導入、[[相撲教習所]]の設立などの改革が行われた<ref>[[リー・トンプソン (社会学者)|リー・トンプソン]]著、中久郎編『スポーツの近代化から見た相撲』91頁 現代社会学の諸理論 世界思想社(1990年)</ref>。また理事長に重要事項の建議を行える[[運営審議委員会]]も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。 |
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1961年には[[年寄]]の停年制が実施された︵﹁停年﹂の表記については後述︶。1966年には法人名を日本相撲協会に改称。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定に[[物言い#ビデオ判定|ビデオ映像の使用]]を開始した。
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1965年にはソ連、[[1973年]]には中国、[[1981年]]にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。 |
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1970年頃になると、力士と[[暴力団]]とのかかわり、[[八百長]]が疑われる内容の相撲の横行、力士の健康問題等の諸問題が明らかとなり、[[1971年]]12月には再び国会で協会のあり方が取り上げられた<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=106705077X00319711201¤t=1 第67回国会衆議院文教委員会第3号 昭和46年12月1日]における[[鈴木一 (政治家)|鈴木一]]衆議院議員の発言</ref><ref>朝日新聞1971年12月2日付朝刊スポーツ面</ref>。これを受けた協会理事会において、[[中学校]]在籍中の入門の禁止︵当時在籍していた中学生力士は、中学校卒業まで東京場所の日曜・祝日のみの出場となる︶、[[公傷制度]]の導入︵[[2003年]]11月場所限りで廃止されるまで続く︶、[[相撲競技監察委員会]]の設置、[[行司]]の完全[[年功序列]]を廃し成績考課を導入等の改革を打ち出した<ref>朝日新聞1971年12月5日付朝刊社会面、朝日新聞1971年12月23日付朝刊スポーツ面</ref>︵いずれも[[1972年]]1月場所より施行︶。
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[[1985年]]1月、現在の国技館が[[両国駅]]近くに完成し、再び両国に相撲が戻った。蔵前国技館は旧軍放出資材を用いて建てられたため、新しい国技館の建築が検討されていた。相撲協会など関係者は、相撲と縁の深い[[回向院]]のある両国界隈に建設地を定めた。そして約3年、総工費およそ150億円をかけ両国国技館が落成となった<ref>[https://gendai.media/articles/-/69476 サイエンス365days]ブルーバック編集部 科学今日はこんな日1月9日新国技館の落成式が行われた 20200109</ref>。
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=== 平成 === |
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[[ファイル:Sumo-Japan.jpg|thumb|220px|[[相撲]]、[[立合い]](2010年)]] |
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[[file:Dohyo.png|200px|thumb|土俵と各配置(行司・力士・勝負審判・控え力士・力水・塩)]] |
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平成初期に[[千代の富士貢]]以下横綱が相次いで引退し一時的に横綱が不在になる。この時期は大型の[[ハワイ州|ハワイ]]出身力士が台頭し、6代[[小錦八十吉 (6代)|小錦八十吉]]が横綱昇進目前まで行く。その後、[[曙太郎]]、[[武蔵丸光洋]]がそれぞれ横綱昇進、優勝回数を二ケタに乗せる。また、[[二子山部屋]]が部屋師匠の11代[[二子山 (相撲)|二子山]]︵元大関・初代[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]︶の息子である[[花田虎上|若乃花勝]]・[[貴乃花光司]]を中心に多くの関取を輩出した。若乃花・貴乃花は特に女性ファンの獲得に成功し、'''若貴ブーム'''と呼ばれた。1993年頃から2000年頃にかけては、この4横綱がしのぎを削った。貴乃花は優勝22回に達し、一代年寄の資格を得た。
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2000年代半ばになると二子山部屋の勢いは衰え、ハワイ出身力士は姿を消す。入れ替わって[[朝青龍明徳]]以下、スピード重視のモンゴル出身力士が登場する。朝青龍は2005年に史上初の年間全場所制覇を達成、次いで横綱になった[[白鵬翔]]は2010年に63連勝、2015年に優勝回数記録を更新するなど、ともに一時代を築いた。次いで[[日馬富士公平]]、[[鶴竜力三郎]]が横綱に昇進するなど、モンゴル出身力士が圧倒的に優位な時代が続いている。同時期にヨーロッパ出身力士も登場し、[[ブルガリア]]出身の[[琴欧洲勝紀]]と[[エストニア]]出身の[[把瑠都凱斗]]が大関にまで上った。日本人力士の中では[[稀勢の里寛]]が横綱に昇進している。
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2000年後半から不祥事が相次ぎ、2007年には[[時津風部屋力士暴行死事件]]、2008年には力士による[[大麻取締法]][[大相撲力士大麻問題|違反事件]]の責任を取る形で理事長が辞任、2010年には[[大相撲野球賭博問題|野球賭博問題]]、2011年には[[大相撲八百長問題|八百長問題]]が発覚してそれぞれ本場所に影響を及ぼした。その後も力士間での暴力事件、立行司による[[セクシャルハラスメント]]行為の発覚、[[道路交通法]]違反︵[[無免許運転]]︶行為、﹁[[女人禁制]]﹂の問題などが存在する<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=35aIqDTYOD8 大相撲舞鶴場所、舞鶴市長倒れ、救命女性に﹁女性は土俵から降りて下さい﹂とアナウンス] - YouTube</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180404000146 |title= 救命女性に﹁土俵から降りて﹂ 大相撲巡業、市長倒れ |newspaper= 京都新聞 |date= 2018-04-04 |accessdate= 2020-03-01 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20180404111243/https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180404000146 |archivedate=2018-04-04 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804040000764.html |title= 若手行司が女人禁制の指摘に慌て土俵降下アナウンス |newspaper= 日刊スポーツ |date= 2018-04-04 |accessdate= 2020-03-01 }}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20180404191552/http://www.yomiuri.co.jp/national/20180404-OYT1T50190.html 市長の応急処置で土俵上がった女性に﹁下りて﹂]{{リンク切れ|date=2020年3月}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.sankei.com/article/20180406-UV5TRQQ3RJKEXJA2MQFGUVBVTI/ |title= 女性土俵問題、米でも報道 ﹁日本の差別反映﹂と批判 |newspaper= 産経ニュース |publisher= 産経デジタル |date= 2018-04-06 |accessdate= 2020-03-01 }}</ref>。
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[[2014年]][[1月30日]]、[[財団法人#公益財団法人|公益財団法人]]の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの改組で、引き続き税制の優遇を受ける<ref>{{Cite news|url= http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/01/30/kiji/K20140130007487790.html |title= 新相撲協会スタート 北の湖理事長「公益法人の責務果たす」 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2014-01-30 |accessdate= 2020-03-01 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140218012925/http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/01/30/kiji/K20140130007487790.html |archivedate=2014-02-18 }}</ref>。 |
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=== 令和 === |
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2019年5月場所より、アメリカ大統領杯の授与が始まる。 |
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2020年、[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の感染拡大に際しては、3月場所を無観客開催<ref>[https://www.sankei.com/article/20200307-JNSLABQOJBKT3ASYN2IYPIN7MY/ 史上初の無観客開催 相撲協会は感染阻止に躍起 力士の思いは…] 産経新聞 2020年3月7日</ref>、5月場所を中止、7月場所は会場を名古屋から東京へ移し、観客数を制限したうえで開催した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASN5454K2N54UTQP00B.html 大相撲、夏場所中止に 名古屋場所は国技館に会場を変更] 朝日新聞デジタル 2020年5月4日</ref><ref>[https://www.at-s.com/sports/article/sumo/803333.html秋場所も観客の上限約2500人 相撲協会、7月同様の運営]</ref>。9月場所も観客数を制限して開催し、11月場所も福岡から東京に移して開催された<ref>[https://www.sanspo.com/sports/news/20200714/sum20071405010002-n1.html11月場所は東京開催決定 福岡への移動考慮 ]</ref>。また、協会員から罹患者が発生し、死者も出た<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200513/k00/00m/050/086000c コロナで高田川部屋の28歳三段目力士が死亡] 毎日新聞デジタル 2020年5月13日</ref>。 |
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2021年3月場所13日目、三段目取組において掬い投げを食らった力士が頭から土俵上に転落、病院に搬送されて治療を受けていたが、同年4月に肺血栓による急性呼吸不全のため死亡した<ref>{{Cite news |和書|title=響龍さん死去 28歳 春場所取組で倒れ入院、寝たきり続き急性呼吸不全で |newspaper=日刊スポーツ |date=2021-04-29|url=https://www.nikkansports.com/m/battle/sumo/news/202104290000467_m.html?mode=all |accessdate=2021-04-29}}</ref>。土俵上での取組による事故で死亡した初の事例となった。 |
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== 興行 == |
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大相撲の興行としては、'''本場所'''と'''巡業'''が特に大きなウェイトを占める。 |
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=== 本場所 === |
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{{main|本場所}} |
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'''本場所'''は協会主催で定期的かつ公式な興行で、技量を査定し、待遇︵地位と給与︶を決める性質がある。[[1958年]]以降は隔月で年間6場所行われている。開催場所は2019年現在のもので、呼称は日本相撲協会の表記に準ずる︵メディア等により表記が異なる場合がある。[[本場所#概要]]を参照︶。
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{| class="wikitable" |
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!開催月!!正式名称!!通称!!開催場所 |
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|[[1月]]||一月場所||初場所||[[両国国技館]] |
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|[[3月]]||三月場所||[[春]]場所<br>大阪場所||[[大阪府立体育会館|エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)]] |
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|[[5月]]||五月場所||[[夏]]場所||両国国技館 |
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|[[7月]]||七月場所||[[名古屋市|名古屋]]場所||~2024年:[[愛知県体育館|ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)]]<br>2025年~:[[愛知国際アリーナ]]<ref>{{Cite web|和書|title=◎25年本場所日程を発表=大相撲 |url=https://sp.m.jiji.com/article/show/2955469 |website=時事通信ニュース |access-date=2023-08-30 |language=ja}}</ref> |
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|- |
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|[[9月]]||九月場所||[[秋]]場所||両国国技館 |
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|- |
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|[[11月]]||十一月場所||[[九州]]場所||[[福岡国際センター]] |
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|} |
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<gallery widths="200" style="font-size:90%;"> |
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File:Ryogoku Great Sumo Hall.jpg|両国国技館 |
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File:EDION Arena Osaka.JPG|{{small|エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)}} |
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File:Aichi Prefectural Gymnasium.JPG|{{small|ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)}} |
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File:Fukuoka International Center.jpg|福岡国際センター |
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</gallery> |
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=== 地方巡業 === |
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本場所のない時期には、力士一行が本場所が行われていない地方へ出向き、1日限りの相撲披露を行う。これを'''(相撲・大相撲) 巡業'''という。協会では巡業を本場所と並ぶ最重要事業として位置付けている。
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{{main|巡業#大相撲における巡業}} |
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関取が所属していない部屋の取的は、巡業に参加することができず、部屋によっては合宿を行う部屋もある。 |
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=== 花相撲 === |
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{{main|花相撲}} |
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勝敗が番付や給金に反映されない興行を総称して'''花相撲'''と呼ぶ。トーナメント相撲、親善相撲、奉納相撲、引退相撲などがある。巡業も広く捉えれば花相撲の一つである。 |
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=== 海外公演 === |
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海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は﹁裸の親善大使﹂などと呼ばれ、これまでに13回開催している。
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{| class="wikitable" |
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!回数!!開催年月!!名 称!!都 市!!備 考 |
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|第1回||1965年7月-8月||{{flagicon|URS}}[[ソビエト連邦|ソ連]]公演||[[モスクワ]]、[[ハバロフスク]]||日ソ復交調印10周年記念 |
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|第2回||1973年4月||{{flagicon|CHN}}[[中華人民共和国|中国]]公演||[[北京市|北京]]、[[上海市|上海]]||[[日中国交正常化]]記念 |
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|第3回||1981年6月||{{flagicon|MEX}}[[メキシコ]]公演||[[メキシコシティ]]|| |
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|- |
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|第4回||1985年6月||{{flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国|アメリカ]]公演||[[ニューヨーク]]||東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念 |
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|第5回||1986年10月||{{flagicon|FRA}} [[パリ]]公演||パリ||東京パリ友好都市提携5周年記念 |
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|- |
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|第6回||1990年6月||{{flagicon|BRA}}[[ブラジル]]公演||[[サンパウロ]]|| |
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|第7回||1991年10月||{{flagicon|UK}} [[ロンドン]]公演||ロンドン||[[ロンドン日本協会]]設立100周年記念 |
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|- |
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|第8回||1995年10月||{{flagicon|AUT}} {{flagicon|FRA}} [[ヨーロッパ]]公演||[[ウィーン]]、パリ|| |
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|- |
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|第9回||1997年6月||{{flagicon|AUS}}[[オーストラリア]]公演||[[メルボルン]]、[[シドニー]]||日豪外交100周年記念 |
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|- |
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|第10回||1998年6月||{{flagicon|CAN}}[[カナダ]]公演||[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]|| |
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|- |
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|第11回||2004年2月||{{flagicon|KOR}}[[大韓民国|韓国]]公演||[[ソウル特別市|ソウル]]、[[釜山広域市|釜山]]||日韓共同未来プロジェクト |
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|- |
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|第12回||2004年6月||{{flagicon|CHN}}中国公演||北京、上海||日中定期航空路線開設30周年記念 |
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|- |
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|第13回||2005年10月||{{flagicon|USA}} [[ラスベガス]]公演||ラスベガス||ラスベガス市制100周年記念 |
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|第14回||2009年10月(中止)||{{flagicon|UK}} ロンドン公演||ロンドン||世界的な不況により中止 |
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|第15回||2013年6月(延期)||{{flagicon|RUS}} モスクワ公演||モスクワ|| |
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|} |
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=== 海外巡業 === |
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協会とは別に主催者となる地元の興行主︵勧進元︶がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。
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国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、[[満州]]をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、[[国際連盟]]の[[委任統治]]領であった[[南洋群島]]に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、元関脇・[[高見山大五郎]]もここでスカウトされた。
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飛行機での移動の際は、万が一のことを考えて重量配分のために力士がいくつかの便に分乗する<ref>田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.131</ref>。 |
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{| class="wikitable" |
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!回数!!開催年月!!名称!!都市!!備考 |
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|第1回||1962年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||[[ホノルル]]|| |
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|第2回||1964年2月||{{flagicon|USA}} ハワイ、ロサンゼルス巡業||ホノルル、[[ロサンゼルス]]||[[角界拳銃密輸事件]]が起こる |
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|第3回||1966年||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル|| |
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|第4回||1970年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル|| |
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|- |
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|第5回||1972年2月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル|| |
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|- |
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|第6回||1974年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル|| |
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|- |
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|第7回||1976年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ、ロサンゼルス巡業||ホノルル、ロサンゼルス|| |
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|第8回||1981年6月||{{flagicon|USA}} アメリカ巡業||[[サンノゼ]]、ロサンゼルス|| |
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|- |
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|第9回||1992年6月||{{flagicon|ESP}} [[スペイン]]、{{flagicon|GER}} [[ドイツ]]巡業||[[マドリード]]、[[デュッセルドルフ]]|| |
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|- |
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|第10回||1993年2月||{{flagicon|HKG}} 香港巡業||[[香港]]|| |
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|- |
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|第11回||1993年6月||{{flagicon|USA}} アメリカ巡業||ホノルル、サンノゼ|| |
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|第12回||2006年8月||{{flagicon|Taiwan}} [[台湾]]巡業||[[台北市|台北]]||13年ぶりに海外巡業が復活 |
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|第13回||2007年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||14年ぶりのハワイ巡業 |
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|- |
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|第14回||2008年6月||{{flagicon|USA}} ロサンゼルス巡業||ロサンゼルス|| |
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|第15回||2008年8月||{{flagicon|Mongolia}} [[モンゴル国|モンゴル]]巡業||[[ウランバートル]]|| |
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|第16回||2013年8月||{{Flagicon|Indonesia}} [[ジャカルタ]]巡業||ジャカルタ|| |
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|} |
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== 横綱 == |
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{{main|横綱}} |
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'''横綱'''︵よこづな︶は、大相撲の[[力士]]における最高の[[称号]]であり、現行の[[番付]]制度においては力士の最高位でもある。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の[[注連縄|綱]]の名称に由来する。現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、[[神 (神道)|神]]の[[依り代]]であることの証とされている。それ故、[[横綱土俵入り]]は、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。
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横綱は、天下無双であるという意味を込めて「[[日下開山]]」('''ひのしたかいさん''')と呼ばれることもある。 |
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{{現役横綱}} |
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== 番付== |
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{{main|番付}} |
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大相撲内での力士の地位は「'''番付'''」と呼ばれる順位表で示される。 |
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[[横綱]]・[[大関]]・[[関脇]]・[[小結]]・[[前頭]]・[[十両]]を纏めた総称が﹁[[関取]]﹂と呼ばれ、そのうち十両を除く横綱から前頭を纏めた総称が﹁[[幕内]]﹂と呼ばれる。大相撲では、この﹁幕内﹂を最上位とし、以下、十両・[[幕下]]・[[三段目]]・[[序二段]]・[[序ノ口]] と続く6つの階層から成り立り、幕下以下を纏めた総称は﹁[[取的]]﹂と呼ばれる。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われる。なお、番付上においては序ノ口が最下位であるが、序ノ口で[[負け越し]]が続いたり、休場が続いたりすると序ノ口から陥落し、番付の範疇に含まれない﹁[[番付外]]﹂と呼ばれる立場になる。また、﹁番付外﹂で一定の成績を収め、次の場所で序ノ口として出場する権利を獲得した立場の者を﹁[[新序]]﹂と呼ぶが、これも番付の範疇には含まれない<ref group="注">ただし﹁番付外﹂や﹁新序﹂も力士の経歴を説明する場合は解かり易くするために番付の一種として扱う。</ref>。
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=== 昇進と降格 === |
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番付は基本的に[[勝ち越し|勝ち越せ]]ば上がり、[[負け越し|負け越せ]]ば下がる。 |
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ただし、同じ地位で同じ成績をあげても、場所によって昇進・降格幅が大きく異なる事例がこれまで数多く発生している。これは﹁'''[[番付#番付は生き物|番付は生き物]]'''﹂と称され、他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来るものである。
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それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたりその都度昇進の可否を検討することとなっている<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201311/2013112500795 条件は「13勝以上の優勝」=稀勢の里の綱とり-大相撲横審|2013/11/25-19:41|時事ドットコム]</ref>。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる<ref>[https://web.archive.org/web/20130711221411/http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/sumou/160594/ 稀勢綱取りに外国人力士猛反発|2013年07月08日 16時00分|東スポWeb]</ref>。 |
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== 取組== |
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{{main|取組}} |
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[[本場所]]の対戦の組み合わせを'''取組'''と呼ぶ。[[関取]]は15日間すべて、[[取的]]は隔日のペースで7番とる︵1960年7月場所以降︶。取組は場所中に随時編成されて、原則前日午後に発表される。
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== 優勝制度 == |
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[[幕内最高優勝力士の一覧|幕内最高優勝]]は[[1909年]]6月場所、新聞社による最高成績者への[[優勝額]]贈呈によって事実上始まった。当初は[[物言い]]がついた相撲であえて決着をつけない[[預り (相撲)|預り]]や、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]制度、同点の場合の[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]の導入などがありつつ、白星数の優劣で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。
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{{See also|賜杯}} |
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=== 優勝制度の不公平 === |
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同じ幕内に属して︵2014年現在の定員は42名︶幕内最高優勝を争う立場であっても、上位と下位で15日間の対戦相手がまったく違うことなどへの批判もあり<ref>[http://www.plus-blog.sportsnavi.com/nihiljapk/article/331 幕内は、白鵬ら上位総当たりとそれ以外とで相撲の質が異なる。歪な構造が生み出す、大相撲の魅力|2013年10月07日|Sportsnavi]</ref>、過去に横綱・大関とまったく対戦せずに全勝した[[時津山仁一]]や、十両力士への敗戦があった[[佐田の山晋松]]の優勝が物議を醸した例がある。そのため、現在では幕内下位で優勝争いの先頭または2番手につけている力士を、終盤に横綱・大関と対戦させることで<ref group="注">横綱対大関の対戦カードや大関対大関の対戦カードを減らして下位の優勝争い力士と横綱や大関との対戦カードを組んでいる。</ref>、優勝の価値の公平化を図っている。
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所属部屋ごとの対戦相手の不公平もしばしば問題視される。近年の例では、[[二子山部屋]]や[[武蔵川部屋]]の幕内力士が上位に集中していた<ref group="注">横綱・大関のみ表記するが、二子山部屋の貴乃花,若乃花,貴ノ浪、武蔵川部屋の武蔵丸,出島,武双山,雅山などで、表記した力士は、横綱対横綱や横綱対大関の対戦カードが他の力士に比べて減る事になる。</ref>、1990年代後半から2000年代初頭に、個人別総当たり制の導入が話題になったことがあった。養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりが、個人別総当たり制の実現を妨げる要因となっている。 |
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== 力士の条件 == |
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{{main|[[新弟子検査]]、[[幕下付出]]、[[力士]]}} |
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現行制度では、大相撲の力士を志望する者(男性限定)は、'''新弟子検査'''を受検し、体格検査及び内臓検査に合格しなければならない。国籍は不問だが、﹁外国出身力士は各部屋1人ずつ﹂という規定が存在する。2019年2月に力士︵競技者︶規定の一部が改正となり、[[入れ墨]]の禁止も明文化された<ref>{{Cite web|和書|title=相撲、過度な験担ぎのひげ禁止 協会が力士会で通達 | 共同通信|url=https://web.archive.org/web/20190327085646/https://this.kiji.is/473055246088602721?c=39546741839462401|website=共同通信|date=2019-02-26|accessdate=2019-03-08|language=ja|last=共同通信}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=力士の過度な験担ぎのひげ禁止 清潔な身だしなみの徹底図る、相撲協会|url=https://web.archive.org/web/20190327073955/https://www.sanspo.com/sports/news/20190226/sum19022618040007-n1.html|website=SANSPO.COM︵サンスポ︶|date=2019-02-26|accessdate=2019-03-08|language=ja-JP}}</ref>。
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== 力士の報酬 == |
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=== 関取の報酬 === |
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大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する[[力士褒賞金]](給金)と、いわゆる2階建てになっている。 |
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(2019年1月現在) |
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{| class="wikitable" style="text-align:right" |
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!項目!!横綱!!大関!!三役(関脇・小結)!!平幕(前頭)!!十両 |
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|align=center|月額給与||300万円||250万円||180万円||140万円||110万円 |
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|- |
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|align=center|年額給与||3,600万円||3,000万円||2,160万円||1,680万円||1,320万円 |
|||
|- |
|||
|align=center|年額賞与||600万円||500万円||360万円||280万円||220万円 |
|||
|- |
|||
|align=center|特別手当||120万円||90万円||30万円|| || |
|||
|- |
|||
|align=center|出張手当||115.5万円||99.7万円||85万円||74.5万円||68.2万円 |
|||
|- |
|||
|align=center|力士補助金||7.5万円||7.5万円||7.5万円||7.5万円||7.5万円 |
|||
|- |
|||
|align=center|力士褒賞金(1場所)||60万円||40万円||24万円||24万円||16万円 |
|||
|- bgcolor="yellow" |
|||
|align=center|年額報酬||4,803万円||3,937.2万円||2,786.5万円||2,186万円||1,711.7万円 |
|||
|} |
|||
*力士褒賞金は、本場所ごとの最低支給金額(年額報酬では6場所分で計算)。 |
|||
==== 給与 ==== |
|||
十両以上の力士([[関取]])には、次の通りの金額が'''月額'''[[給与]]として支給される。そのため、11月場所において十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。幕下陥落が確実になり引退の意思を固めた力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、翌場所の番付に名を残すケースも多い。
|
|||
給与額は原則として年1回、理事会において見直すこととなっている。給与額は2001年に現行の金額となって以降2018年まで据え置きだったが、2018年11月の理事会の決定により、2019年1月場所から十両以上の力士の給料が増額されている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20181130/k00/00m/050/026000c 力士給与18年ぶり増額 横綱で月額300万円]毎日新聞</ref>。
|
|||
*[[横綱]]:300万円 |
|||
*[[大関]]:250万円 |
|||
*[[三役]]:180万円 |
|||
*[[平幕]]:140万円 |
|||
*[[十両]]:110万円 |
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==== 賞与 ==== |
|||
[[賞与]]は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。
|
|||
==== 本場所特別手当 ==== |
|||
本場所特別手当は、小結以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日-10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休︵不戦敗も含む︶の場合は支給されない。
|
|||
*横綱:200,000円 |
|||
*大関:150,000円 |
|||
*関脇・小結:50,000円 |
|||
==== 出張手当 ==== |
|||
出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分<ref group="注">番付発表日から本場所初日前日までの13日間、本場所15日間、本場所千秋楽翌日から本場所千秋楽の翌日曜日までの7日間︵この間は休みとなり、休み明けから巡業が始まる︶の合計。</ref>支給される。
|
|||
*横綱:宿泊費8,000円、日当3,000円 |
|||
*大関:宿泊費7,500円、日当2,000円 |
|||
*関脇・小結:宿泊費6,500円、日当1,600円 |
|||
*平幕:宿泊費5,700円、日当1,400円 |
|||
*<!--十枚目(-->十両<!--)-->:宿泊費5,300円、日当1,200円 |
|||
==== 力士補助金 ==== |
|||
力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。
|
|||
*横綱から十枚目(十両)まで:一律25,000円 |
|||
==== 力士褒賞金 ==== |
|||
場所ごとに過去に残した成績に応じて支給される。計算の基礎となる持ち給金︵支給標準額︶の累積は序ノ口から始まり、持ち給金を'''4000倍'''した金額が十両以上の力士([[関取]])に支給される。持ち給金は'''[[勝ち越し]]1点につき50銭'''ずつ累積され<ref group="注">ゆえに、勝ち越しは'''給金直し'''とも言われる。</ref>、[[負け越し]]や[[休場]]などでの減額はない。[[金星 (相撲)|金星]]や[[幕内最高優勝]]では大きな加算︵後述︶があるほか、十両・幕内([[関脇]]と[[小結]]を含む)・大関・横綱と持ち給金の最低額が決まっており、昇進時に累積額がその金額に満たなければ番付に応じた最低額まで引き上げられる。
|
|||
{| class="wikitable" |
|||
|+ 力士褒賞金の最低支給標準額 |
|||
! 番付 !! 持ち給金<br>(最低額) !! 最低支給額<br>(1場所ごと) |
|||
|- |
|||
! [[横綱]] |
|||
|150円 || 60万円 |
|||
|- |
|||
! [[大関]] |
|||
|100円 || 40万円 |
|||
|- |
|||
! [[幕内]] |
|||
|60円 || 24万円 |
|||
|- |
|||
! [[十両]] |
|||
|40円 || 16万円 |
|||
|} |
|||
{{main|力士褒賞金}} |
|||
=== 力士養成員の報酬 === |
|||
幕下以下は「[[力士養成員]]」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されないが、場所手当と本場所の成績による幕下以下奨励金(勝ち星1つごとに支給される勝星奨励金と勝ち越した数に応じて支給される勝越金)が本場所ごとに年6回支給される。 |
|||
*幕下:165,000円 |
|||
*三段目:110,000円 |
|||
*序二段:88,000円 |
|||
*序ノ口:77,000円 |
|||
(2019年1月現在) |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:right" |
|||
!項目!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口 |
|||
|- |
|||
|align=center|場所手当||165,000円||110,000円||88,000円||77,000円 |
|||
|- bgcolor="yellow" |
|||
|align=center|年額報酬||990,000円||660,000円||528,000円||462,000円 |
|||
|- |
|||
|align=center|勝星奨励金(1つあたり)||2,500円||2,000円||1,500円||1,500円 |
|||
|- |
|||
|align=center|勝越金(1つあたり)||6,000円||4,500円||3,500円||3,500円 |
|||
|} |
|||
成績による場所ごとの収入の計算式を示すと次のようになる。 |
|||
*7戦全敗:場所手当のみ |
|||
*1勝6敗:場所手当+勝星奨励金1勝分 |
|||
*2勝5敗:場所手当+勝星奨励金2勝分 |
|||
*3勝4敗:場所手当+勝星奨励金3勝分 |
|||
*4勝3敗:場所手当+勝星奨励金4勝分+勝越金1点分 |
|||
*5勝2敗:場所手当+勝星奨励金5勝分+勝越金3点分 |
|||
*6勝1敗:場所手当+勝星奨励金6勝分+勝越金5点分 |
|||
*7戦全勝:場所手当+勝星奨励金7勝分+勝越金7点分 |
|||
上に示した成績の負け数には休場も含む。幕下上位及び序ノ口下位の[[八番相撲]]の場合は、負け越している場合は勝越金がないため7番取って同じ数の白星を挙げた力士と同じになるが、勝ち越している場合は上の式にそのまま当てはまらず、勝越金が偶数点分になることが起こりうる。また今後出る可能性はほぼないと思われるが、[[引分 (相撲)|引分]]や[[痛み分け]]が絡んだ場合も上の式にそのまま当てはまらないことが起こりうる。
|
|||
このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。 |
|||
力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋でできる︵費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている︶うえに、共同の食事﹁[[ちゃんこ]]﹂もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への上納つまり﹁持ち出し﹂もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を﹁持ち出し﹂せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。
|
|||
== 副業の制約など == |
|||
大相撲の力士がテレビの[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演することを全面禁止していた時代があった。これは[[1985年]]からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという[[栃錦清隆|春日野]]理事長︵当時︶の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、本場所の協会指定懸賞企業および巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。[[パナソニック|ナショナル]]︵後のパナソニック︶[[乾電池]]の[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]、[[日本航空]]の大相撲ブラジル公演PR、[[国民年金]]の[[貴乃花光司|貴乃花]]、[[花田虎上|若乃花]]などがある。[[2002年]]2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は[[日立マクセル]]DVDメディアの[[栃東大裕|栃東]]である。
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|||
== 各種表彰・昇給・賞金 == |
|||
=== 各段優勝 === |
|||
番付の幕内・十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口の各階級内での最高成績者が優勝となる。ただし最高成績者が複数いる場合は、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]が行われ、それを勝ち抜いた1人のみが優勝となる。力士が番付の6階級のいずれかで優勝すると、優勝者に対して表彰が行われ、以下の賞金が授与される。 |
|||
* 幕内最高優勝 - 1000万円 |
|||
* 十両優勝 - 200万円 |
|||
* 幕下優勝 - 50万円 |
|||
* 三段目優勝 - 30万円 |
|||
* 序二段優勝 - 20万円 |
|||
* 序ノ口優勝 - 10万円 |
|||
幕内最高優勝の場合、力士褒賞金の加算による昇給もあり、全勝以外の優勝は30円、全勝優勝なら50円が力士褒賞金に加算される。4000倍という倍率からすると、実質ぞれぞれ12万円、20万円の昇給となる。
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|||
=== 三賞 === |
|||
千秋楽には、勝ち越した関脇以下の幕内力士に対し、相撲内容等により選考を経て殊勲賞・敢闘賞・技能賞の[[三賞]]が贈られ、表彰・賞金の対象となる。三賞の賞金としては1つにつき200万円が授与される。
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|||
{{main|三賞}} |
|||
=== 金星 === |
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平幕︵前頭︶の力士が横綱に勝った場合、[[金星 (相撲)|金星]]と呼ばれ、力士褒賞金に10円が加算される。4000倍という倍率からすると、実質4万円の昇給となる。
|
|||
金星による力士褒賞金の加算(昇給)そのものは当該場所を負け越していても有効であるが、勝ち越している場合はそれとは別に三賞のうちの殊勲賞に選ばれることも多い。 |
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{{main|金星 (相撲)}} |
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=== 懸賞金 === |
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幕内での取組によっては企業が懸賞金を提供するケースがあり、勝利した力士に授与される。企業から提供される懸賞金は2019年9月以降は1本につき7万円となっているが、納税充当金として3万円、協会の事務経費として1万円が天引きされ、力士の手取りは懸賞金1本当たり3万円となる。
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|||
{{main|懸賞 (相撲)}} |
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=== 名誉賞 === |
|||
横綱に昇進した力士は、名誉賞として100万円が授与される。 |
|||
新大関に昇進した力士は、名誉賞として50万円が授与される。ただし大関から陥落した力士が大関に復帰(再昇進)した場合は授与されない。 |
|||
また力士の例ではないが、行司の場合は、[[立行司]]に昇進すると、名誉賞として50万円が授与される。 |
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=== 廃止された各種表彰 === |
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==== 優勝旗手 ==== |
|||
1909年6月場所から1931年10月場所までと、1940年1月場所から1947年6月場所までの期間には、優勝した片屋の関脇以下の最高成績力士が[[優勝旗手]]として表彰されていた。 |
|||
{{main|優勝旗手}} |
|||
==== 雷電賞 ==== |
|||
1955年3月場所から1965年11月場所まで、関脇以下の最高成績者(三賞と異なり機械的に決まる)に与えられる表彰として、[[雷電賞]]が行われていた。 |
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{{main|雷電賞}} |
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==== 二位・三位力士に対する表彰 ==== |
|||
1948年10月場所の1場所のみ、幕内から序ノ口までの各段の優勝︵一位︶力士の他、二位・三位力士に対する表彰が存在した。同場所は優勝が10勝1敗の西関脇[[増位山大志郎]]、二位が優勝決定戦敗者の西大関[[東富士欽壹]]、三位が9勝2敗の東大関[[佐賀ノ花勝巳]]で、佐賀ノ花勝巳は西前頭8枚目[[高津山芳信]]との三位決定戦を行って勝利していた。1949年10月場所では、幕内以外で三位まで表彰されている。
|
|||
== 力士の退職金 == |
|||
{{main|日本相撲協会#解雇|除名#大相撲の除名}}{{see also|日本相撲協会#過去に処分された力士・親方衆・関係者}} |
|||
十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金︵いわゆる一般功労金︶が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。ただし、現役中に協会から除名処分を受けた者には支給されない。解雇処分された者については理事会の付帯決議で一部または全部の支給が見送られることがある。
|
|||
=== 養老金 === |
|||
(2006年1月現在、単位:円) |
|||
{| class="wikitable" |
|||
!!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両 |
|||
|- |
|||
|資格者||15,000,000||10,000,000||7,630,000||7,630,000||4,750,000 |
|||
|- |
|||
|非資格者||--||--||7,630,000||4,750,000+(勤続場所数-1)×120,000||1,150,000+(勤続場所数-1)×150,000 |
|||
|} |
|||
=== 勤続加算金 === |
|||
番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。 |
|||
(2006年1月現在、単位:円) |
|||
{| class="wikitable" |
|||
!!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両 |
|||
|- |
|||
|横綱||500,000||400,000||250,000||200,000||150,000 |
|||
|- |
|||
|大関||--||400,000||250,000||200,000||150,000 |
|||
|- |
|||
|三役||--||--||250,000||200,000 (150,000)||150,000 |
|||
|- |
|||
|平幕||--||--||--||200,000 (150,000)||150,000 |
|||
|- |
|||
|十両||--||--||--||--||150,000 |
|||
|} |
|||
===特別功労金=== |
|||
[[横綱]]・[[大関]]には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。 |
|||
かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から[[個人情報保護法]]が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては'''[[公益法人]]'''たる財団法人[[日本相撲協会]]の方針として不適切であるとの意見もある。
|
|||
== 力士の待遇 == |
|||
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。 |
|||
{| class="wikitable" style="font-size:smaller" |
|||
|- |
|||
!地位!!幕内(横綱 - 前頭)!!十両!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口 |
|||
|- |
|||
! 髷 |
|||
| colspan="2"|[[大銀杏]] |
|||
| colspan="4"|[[丁髷]]<br>(十両との対戦時および[[弓取式]]、巡業中の[[初切]]出演、[[床山]]の練習台、引退時の[[断髪式]]の際は大銀杏容認) |
|||
|- |
|||
! 服 |
|||
| colspan="2"|紋付羽織袴 |
|||
| colspan="2"|着物・羽織(外套・襟巻も着用可) |
|||
| 着物・羽織 |
|||
| 着物(浴衣もしくはウール) |
|||
|- |
|||
! 帯 |
|||
| colspan="3"|[[博多織|博多帯]] |
|||
| colspan="3"|[[銅アンモニアレーヨン|ベンベルグ]] |
|||
|- |
|||
! 傘 |
|||
| colspan="3"|[[番傘]]・[[蛇の目傘]] |
|||
| colspan="3"|[[洋傘]] |
|||
|- |
|||
! 履物 |
|||
| colspan="2"|[[足袋]]に[[雪駄]](畳敷き) |
|||
| 足袋に雪駄(エナメル製) |
|||
| 素足に雪駄(エナメル製) |
|||
| colspan="2"|素足に[[下駄]] |
|||
|- |
|||
! 稽古廻し |
|||
| colspan="2"|白色・木綿 |
|||
| colspan="4"|黒色・木綿 |
|||
|- |
|||
! 取り廻し |
|||
| colspan="2"|[[博多織]]繻子(色は事実上自由) |
|||
| colspan="4"|黒色・木綿 |
|||
|- |
|||
! 下がり |
|||
| colspan="2"|取り廻しの共布 |
|||
| colspan="4"|紐 |
|||
|- |
|||
! 足袋の色 |
|||
| colspan="2"|白 |
|||
| colspan="4"|黒 |
|||
|- |
|||
! <span style="white-space:nowrap;">控えの敷物</span> |
|||
| 私物の座布団(色・デザインは自由) |
|||
| 共用の座布団(紫一色) |
|||
| colspan="4"|畳に直座(幕下上位五番および十両との対戦時は十両と同じ座布団) |
|||
|- |
|||
! 月ごとの収入 |
|||
| colspan="2"|月額給与 |
|||
| colspan="4"|- |
|||
|- |
|||
! 場所ごとの収入 |
|||
| colspan="2"|力士褒賞金 |
|||
| colspan="4"|場所手当・奨励金 |
|||
|- |
|||
|} |
|||
このほかにも以下のような違いがある。 |
|||
;大関以上の力士 |
|||
*国技館の駐車場に直接乗り入れることができる<ref group="注">ただし、現役力士の自動車運転は内規で禁止([[運転免許]]の取得そのものは可)されているため、別に運転手を確保する必要がある。</ref>。 |
|||
*巡業の支度部屋は個室が用意される<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201908130000759.html 鶴竜力士会会長、巡業中支度部屋の空調に“物言い”] - 日刊スポーツ、2019年8月13日</ref>。 |
|||
*協会の公式の移動においては、[[飛行機]]は[[ファーストクラス]]、鉄道([[新幹線]])では[[グリーン車|グリーン席]]に座ることができる。 |
|||
*[[化粧廻し]]の馬簾の色に[[紫]]を使える<ref group="注">ただし、紫馬簾は関脇以下でも、横綱の太刀持ち・露払いを務める者は例外的に使用が可能。また、大関を陥落した者も引き続き使える。</ref>。
|
|||
*師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設できる<ref group="注">引退時に大関から陥落していた場合であってもこの権利は維持される。</ref>。 |
|||
;三役以上の力士 |
|||
*初日と千秋楽に行われる協会挨拶で理事長と共に土俵に上がる。 |
|||
;幕内以上の力士 |
|||
*横綱土俵入りで露払いや太刀持ちを務めることができる<ref group="注">ただし、出世が早いなどの理由で大銀杏が結えない力士は務められない。</ref>。 |
|||
*夏場(5月場所から9月場所)は染め抜きの[[着物]]を着用することができる。 |
|||
;十両以上の力士 |
|||
*一人前の力士として扱われ、敬称である「[[関取]]」「**関」と呼ばれる他、[[力士会]]に参加できる。 |
|||
*幕下以下の力士が付け人として付く<ref group="注">地位が上がるほど人数も増える。</ref>。ちゃんこ作り、掃除、買出しなどの部屋の雑用も原則免除。
|
|||
*相撲部屋において個室が与えられるか、別居が許される<ref group="注">幕下以下の力士は、共同の部屋で寝起きする。</ref>。 |
|||
*起床時間など生活の自由度が飛躍的に増す<ref group="注">幕下以下の力士より遅い時間に稽古場に現れることが多い。</ref>。 |
|||
*結婚が許される。 |
|||
*巡業・本場所などの興行で自分の名前が入った[[幟]]を立てることができる<ref group="注">これらは一般に後援会から寄贈される事が多い。</ref>。 |
|||
*化粧回しを締めて[[土俵入り]]を行う<ref group="注">十両と幕内は別に行われる。</ref>。 |
|||
*支度部屋に[[明荷]]を持ち込むことができる<ref group="注">横綱は3個、横綱以外は1個。陥落した者を含めて幕下以下では使えない。</ref>。
|
|||
*取組では、力水、力紙、塩を使用する<ref group="注">幕下上位の取組の場合で、進行が早い場合は塩を使用することがある。</ref>。
|
|||
*優勝力士に頼まれて優勝旗を持ち、優勝力士と一緒にオープンカーに乗って優勝行進できる。 |
|||
* 本場所や公式の場では髷を[[大銀杏]]に結う<ref group="注">大銀杏はあくまで﹁正装﹂であり、関取でも稽古の時など、普段結う髷は[[丁髷]]である。また、幕下以下の力士養成員でも本場所で十両力士と対する場合や弓取り式を行う者、[[初っ切り]]、断髪式の時は大銀杏が結える他、床山が練習するために大銀杏を結うことはある。</ref>。
|
|||
*個人のサインを書くことが協会から許される<ref group="注">十両経験者であっても現在の番付が幕下以下の場合は不可。</ref><ref>{{Cite web |url=http://sadogatake.net/page010.html |title=佐渡ケ嶽部屋 行事/予定 |website=佐渡ケ嶽部屋 |accessdate=2023-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161112193423/http://sadogatake.net/page010.html |archivedate=2016-11-12 |deadlinkdate=2023-11-18 |url-status=unfit}}</ref>。
|
|||
=== 待遇の歴史 === |
|||
歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。[[江戸時代]]には本場所の興行収入は一部の[[年寄]]たち︵[[江戸相撲会所]]。現在の[[日本相撲協会]]の前身︶によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。
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|||
三役力士ともなれば、大名家から[[抱え (相撲)|お抱え]]とされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主︵勧進元︶から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による﹁手相撲﹂で地方巡業を行い食いつないでいた。但し、いわゆる﹁力人信仰﹂から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。
|
|||
本場所で「星を売る」、いわゆる[[八百長]]行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。但し、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため、事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。これには、そもそも格闘技で年90回(十両以上は1場所15番×年6場所)も[[ガチンコ]]で試合を行うというのはアスリートの肉体的に不可能で、それを行おうともすれば力士の生命に対する危険はより高くなってしまうという意見もある<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/241267?page=4 貴乃花問題で誰も触れない横綱のリアル寿命] 東洋経済ONLINE 2018/10/04 15:00 (2022年1月31日閲覧)</ref>。 |
|||
[[明治]]に入って以降も、大名家が[[藩閥政治]]の有力者に成り代わっただけで、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、[[昭和]]における[[春秋園事件]]はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。[[1958年]]︵昭和33年︶、こうした相撲界の体質は[[国会]]で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、﹁時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手﹂という声があり、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に収入は安い。
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|||
また、金銭面に関しては、後援者︵[[タニマチ]]︶からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に[[千代の富士]]の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。
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=== 力士の労働契約について === |
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一般に力士は日本相撲協会と労働契約を結び雇用される[[給与所得|給与所得者]]とされており、他のプロスポーツ選手の大半が[[個人事業主]]であることに対して[[労働条件]]を異にする部分があるためこういった収入面に関する話題では一律に比較できないとも指摘される。実際に[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]は自身の大関在位時代(1987年7月場所から1993年11月場所)の月給について「100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円」と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に「僕の時代は、どんな幕内力士でも(懸賞は)必ずあった」とも話しており、さらに「僕も200万近く貰っていた。一番いいときに」と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。<ref>『解禁!暴露ナイト』2013年1月24日放送分</ref><ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/7349173/ KONISHIKI、相撲界の驚くべき金銭事情を明かす] Sports Watch 2013年01月25日11時30分</ref>この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。[[2001年]](平成13年)に力士・年寄の給料増額が記録されてから2019年1月に力士の給料増額まで据え置きとなっていた時期があった。[[2008年]]には当時の力士会会長の朝青龍が「せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ」と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、協会の財政状況があまりよくなかったとされる<ref>『相撲』2013年12月号57頁</ref>。ただし2015年の冬季ボーナスは「もし俺に何かあったら、(給料の底上げを)頼むぞ」と北の湖が協会関係者に伝えていたことなどが影響し、2014年と比べて3割ほどアップしたという<ref>週刊女性2017年8月1日号</ref>。 |
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とはいえ、力士が労働者として相撲協会に雇用されているのか、その特別な能力をプロとして提供することを委任しているのか、実は契約上曖昧である。たとえば日馬富士の貴ノ岩への傷害事件の際に白鵬や鶴竜まで減給処分になったのは、弁護士の山口元一によると﹁労働基準法91条が定める制裁制限の幅を超えていました。これは日本相撲協会が力士所属契約について、雇用契約たる性質を否定していることを示しています﹂とのこと<ref>[https://www.jprime.jp/articles/-/21156?page=3 大関・朝乃山の6場所出場停止処分に弁護士は﹁違法﹂、協会の“やりたい放題”に危惧(3/3ページ)] 週刊女性PRIME 2021/6/15 (文・和田靜香、2021年6月15日閲覧)</ref>。なお、2011年の[[大相撲八百長問題]]で解雇された[[蒼国来栄吉#解雇処分から訴訟へ|蒼国来]]が起こした訴訟における[[東京地方裁判所|東京地裁]]の判決は、相撲協会と力士との間で結ばれている契約は﹁[[委任#準委任|準委任]]契約﹂(='''力士は[[個人事業主]]である''')としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/289/084289_hanrei.pdf|title=平成25年3月25日判決言渡 平成23年(ワ)第20049号 地位確認等請求事件|accessdate=2021-06-16|publisher=最高裁判所}}</ref>。
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一方で、[[福利厚生]]や引退時の[[退職金]]制度、税法上の取り扱い等では、他のプロスポーツより充実していて、見方によってはむしろ一般企業に勤める[[労働者]]に近い。例えば、国技館内には力士のみならず一般の[[診療]]も受け付ける[[診療所]]︵公益財団法人日本相撲協会診療所。通称﹁相撲診療所﹂<ref>[http://sumo.or.jp/IrohaKyokai/organization/ 協会の使命・組織]日本相撲協会</ref>︶があること、[[健康保険組合]]︵日本相撲協会健康保険組合<ref>[http://hokeninfolist.main.jp/dt06133409.html 日本相撲協会健康保険組合]全国保険者情報一覧</ref>︶を独自に運営していること、[[厚生年金]]制度を導入していること、また税金面においては[[給与所得]]や[[退職所得]]が適用されることにより、自身の報酬を[[事業所得]]として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には[[国税庁]]が力士等に対する課税について個別通達<ref>[https://www.nta.go.jp/law/tsutatsu/kobetsu/shotoku/shinkoku/590311/01.htm 力士等に対する課税について] 国税庁</ref>を行っていて、これにより後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。<ref group="注">また、幕内力士の場合は納税対策として懸賞金の一部︵2014年5月以降は26,700円︶が納税充当金として天引きされ、力士本人の名義で協会がプールし、納税額に不足が生じた時はここから充当されるようになっている。</ref>収入の無い幕下以下の力士であっても[[社会保険]]に加入することが可能であり、この場合は保険料は全額協会負担となる<ref>日本相撲協会寄附行為施行細則 第85条</ref>。
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一般の[[個人事業主]]の場合のように[[相撲部屋]]が銀行の融資を受けるケースもあるが、新興の部屋の場合は[[両国梶之助|12代中立]]の[[境川部屋|中立部屋]]の例のように難航する場合もある。この例の場合、多くの銀行の担当者から断られた末に最後のつもりで尋ねた銀行の担当者が相撲に理解を持っていたことからようやく融資を受けられるようになった<ref>[https://web.archive.org/web/20140821215602/http://sankei.jp.msn.com/sports/news/140821/mrt14082114010001-n1.htm 男気と大和魂] MSN産経ニュース 2014.8.21 14:01 ︵1/2ページ︶</ref>。
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== 退職 == |
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力士が[[引退]]後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった[[旭道山和泰]]が[[衆議院議員選挙]]に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。 |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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!区分!!改称前!!改称後 |
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|- |
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! rowspan="2"|力士 |
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||廃業||rowspan="2" |引退 |
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|- |
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|引退 |
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|- |
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! rowspan="2"|年寄 |
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||廃業||退職 |
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|- |
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| colspan="2"| 停年、退職 |
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|} |
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満65歳︵誕生日の前日︶を以って年寄は[[定年退職]]となるが、日本相撲協会では'''停年'''の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。なお、2014年11月16日からは停年になった年寄の再雇用制度が発足しており、この制度の適用を受けた年寄は給与が停年前より低くなり、部屋を持つことができないなどの制約はあるものの70歳までは日本相撲協会に残ることができる。
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== 因習的な問題== |
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===閉鎖性=== |
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[[横綱審議委員会]]と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士([[年寄]])によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、[[年寄名跡|年寄株]]もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「[[準年寄]]」制度の導入などで対応したが([[2006年]]末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]、若乃花([[花田虎上]])、[[曙太郎|曙]]といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、[[芸能界]]や[[格闘技]]、[[プロレス]]など他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。 |
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また、その閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では俗に﹁[[かわいがり]]﹂と言われる︵稽古名目での︶[[私刑]]が横行していた。[[2007年]]には[[時津風部屋力士暴行死事件]]が発覚。[[愛知県警察|愛知県警]]が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会[[北の湖敏満]]理事長(第55代横綱)が[[文部科学省]]より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・[[大勇武龍泉]]が12代[[芝田山]]︵第62代横綱・[[大乃国康|大乃国]]︶から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。
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また、[[力士養成員]]への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。 |
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===出身地による参加機会の不均等=== |
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理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者(日本国籍取得者も含む)の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。 |
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==== 年寄の国籍要件 ==== |
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年寄になるためには、[[日本国籍]]が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が[[文部科学省]]所轄の[[財団法人#公益財団法人|公益財団法人]]であることが大きい。外国出身で役力士を務める者もおり、元[[高見山大五郎|高見山]]の12代[[東関]]や第67代横綱・[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]の15代[[武蔵川]]など日本国籍を取得︵[[帰化]]︶して相撲協会に残る者もいる。
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その一方、横綱・大関を務めた力士が引退後に角界を離れる場合もあるが、その事情は様々である。第64代横綱・[[曙太郎|曙]]は日本国籍を取得済みで、引退時に曙親方として東関部屋の部屋付きとなっている。年寄名跡の取得を希望していたが、師匠の12代東関が金銭観念の甘さ<ref>{{Cite web|和書|title=曙﹁懸賞金17本、ホームレスにあげたことある﹂|url=https://www.narinari.com/Nd/20170242455.html|website=ナリナリドットコム(2017年2月22日)|accessdate=2020-06-22|language=ja|publisher=}}</ref>を見て経営者の側面もある部屋継承者として適格と判断しなかったという<ref>﹁[[相撲 (雑誌)|相撲]]﹂2012年2月号</ref>。第68代横綱・[[朝青龍明徳|朝青龍]]は2010年1月16日未明に一般人に対する暴行事件を起こしたため、同年2月4日に相撲協会の引退勧告に従って引責引退をしている。また元大関・[[把瑠都凱斗|把瑠都]]は角界のしきたりや慣習に馴染めず、引退後も角界に残る意向は無かったという<ref>{{Cite web|和書|title=未練なし!把瑠都が角界と“完全決別” – 東京スポーツ新聞社|url=https://web.archive.org/web/20130916145758/https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/sumou/183023/|website=東スポWeb – 東京スポーツ新聞社(2013年9月12日)|accessdate=2020-06-22|language=ja|publisher=}}</ref>。
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=== 女人禁制 === |
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日本相撲協会主催の大相撲は[[土俵]]上への[[女性]]の立ち入りを認めていない。 |
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* [[2000年]]に[[大阪府]][[都道府県知事|知事]]に就任した日本初の女性都道府県知事である[[太田房江]]は春場所の優勝力士に大阪府知事賞を直接授与することを日本相撲協会側に要求したが、認められなかった。 |
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* [[2007年]][[9月19日]]︵秋場所11日目︶には観客の40歳前後の女性が土俵に乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは﹁約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた﹂としている<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804050000234.html 女性乱入ハプニング/過去の女人禁制問題] - 日刊スポーツ、2018年4月5日</ref>。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2285939?pid=2164687 大相撲 土俵に女性乱入で伝統は崩壊か?] - AFPBB、2007年9月20日</ref>。
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* 2018年4月4日、巡業先の[[舞鶴市]]で[[多々見良三]]市長が土俵上であいさつ中に倒れ、救命のため医療従事者の女性が土俵に上がったが、相撲協会はこの女性に対して土俵を降りるよう場内アナウンスで促した<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180404000146 救命女性に﹁土俵から降りて﹂ 大相撲巡業、市長倒れ﹂]京都新聞 2018年04月04日19時59分</ref>。これについて八角理事長は﹁人命にかかわる状況には不適切な対応でした﹂と謝罪している︵[[﹁女性は土俵から降りてください﹂騒動]]︶<ref>[https://hochi.news/articles/20180404-OHT1T50331.html 八角理事長が謝罪 倒れた舞鶴市長へ救命措置の女性に土俵から降りるようアナウンス] - スポーツ報知 2018年4月5日0時2分</ref>。
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この[[女人禁制]]の風習は明治期の﹁[[違式かい違条例|違式詿違条例]]﹂発令と﹁神道の穢れ感﹂を利用し﹁虚構の伝統﹂が創られたとされる<ref name=yoshi>{{Cite journal|和書|author=吉崎祥司 |author2=稲野一彦 |url=http://id.nii.ac.jp/1807/00005765/ |title=相撲における﹁女人禁制の伝統﹂について |journal=北海道教育大学紀要人文科学・社会科学編 |date=2008-08 |volume=59 |issue=1 |pages=71-86 |doi=10.32150/00005765 |ISSN=1344-2562 |publisher=北海道教育大学}}</ref>。
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日本の相撲の歴史においては[[室町時代]]から[[女相撲]]も存在しているが、団体も違い、同一興行も行われていない<ref name="yoshi" />。[[1957年]]に大相撲の四国巡業において女相撲の大関[[若緑]]が勧進元挨拶をしたのは、第39代横綱・[[前田山英五郎|前田山]]と[[第二次世界大戦]]で相撲をやめてしまった若緑が懇意であったことからのはからいであった<ref>[https://hochi.news/articles/20180408-OHT1T50167.html 約60年前に土俵に上がった“女大関”の息子が巡業騒動に言及…﹁バンキシャ!﹂が特集] - 2018年4月8日19時8分 スポーツ報知</ref><ref>遠藤泰夫﹃女大関 若緑﹄朝日新聞社、2004年。ISBN 978-4021000843</ref>。固辞する若緑に対し、前田山は﹁責任はとるから﹂と頼み込み、若緑は土俵上に立ったという<ref>{{Cite web|和書|title=かつて、大相撲の土俵に上がった女性がいた。地方巡業で起きた前代未聞のできごと|url=https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/wakamidori-zeki|website=BuzzFeed(2018年4月9日)| accessdate=2024-02-05 |language=ja |first=Kota|last=Hatachi|publisher=}}</ref>。
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===志願者の減少と意識の変容=== |
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近年の日本では力士を志す人数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査の受検者数は初めてゼロであった(2018年の名古屋場所で二度目の受検者ゼロ)<ref group="注">留意すべき事項として名古屋場所の新弟子検査の受検者数は例年少なく、高校・大学を中退して受検する者が減少していることも一因である。</ref>。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、﹁宗教色を帯びた伝統的な儀式﹂よりも﹁一般スポーツ競技の一種﹂と捉えている力士数が増えている。
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===その他=== |
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;相撲茶屋問題 |
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{{main|相撲茶屋}} |
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本場所の観戦チケットの販売は相撲茶屋を前身とする国技館サービス株式会社が行っているが、一部の常連客への優遇が根強く、一般の観客の枡席券入手は困難な状況が続いている。 |
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;観客席での喫煙 |
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大相撲の公演中、升席では[[喫煙]]が認められていたが、[[健康増進法]]の施行に伴い、[[2005年]](平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えた場所が大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が[[相撲博物館]]に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。 |
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;座布団投げ |
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[[金星 (相撲)|金星]]などの番狂わせがあった時や横綱が負けた時、観客が土俵に向かって座布団を投げる光景が見られることがある。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用︵縦1メートル25、横50センチ︶の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた︵詳細は﹁[[座布団の舞]]﹂の項を参照︶。
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== 外資系企業・他国からの表彰 == |
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=== 外資系企業 === |
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1961年から1991年まで、[[パンアメリカン航空]]賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人の[[デビッド・ジョーンズ (パンアメリカン航空)|デビッド・ジョーンズ]]が、﹁ヒョー、ショー、ジョォー﹂という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され︵パンナム自体その約半年後に倒産︶、ジョーンズも2005年[[2月2日]]に逝去している。
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=== フランス共和国大統領杯・日仏友好杯 === |
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﹁フランス共和国大統領杯﹂は、知日派で大の大相撲ファンと自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・[[ジャック・シラク]]が設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月に[[ニコラ・サルコジ]]が第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、﹁坊主憎けりゃ袈裟まで﹂の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは'''﹁あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません﹂'''と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。
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[[大相撲平成23年7月場所|2011年の名古屋場所]]から﹁日仏友好杯﹂として復活。副賞として[[ピエール・エルメ]]監修の黄金[[マカロン]]︵22個︶が贈呈されるが、生菓子という性質上、後日の受注製造となっているため、本場所での表彰式では巨大マカロンのオブジェが土俵に登場している<ref>{{Cite web|和書|url=https://withnews.jp/article/f0141009001qq000000000000000G0010501qq000010905A|title=大相撲の優勝力士に贈られる﹁巨大マカロン﹂の正体|accessdate=2019年8月21日|publisher=withnews︵2014年10月9日作成︶}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mag.japaaan.com/archives/65228|title=大相撲の表彰式でおなじみ巨大マカロン!なぜ登場するようになったのか?|accessdate=2019年8月21日|publisher=Japaaanマガジン︵2017年11月29日作成︶}}</ref>。
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=== アメリカ合衆国大統領杯 === |
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「アメリカ合衆国大統領杯」は、前々から相撲に興味を持っていた、アメリカ合衆国第四十五代大統領・[[ドナルド・トランプ]]が令和元年(2019年)五月場所観戦時に設けた優勝力士に対する大統領顕彰のこと。[[朝乃山英樹|朝乃山]]が受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/affairs/news/190526/afr1905260026-n1.html|title=トランプ大統領、朝乃山関に米国大統領杯を授与|accessdate=2019年5月27日|publisher=産経新聞(2019年5月26日作成)}}</ref>。なお、翌年以降も五月場所の優勝力士に贈呈する予定となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM5V6D41M5VUTQP03B.html|title=米大統領杯、来年以降も贈呈へ 夏場所の優勝力士に|accessdate=2019年5月27日|publisher=朝日新聞(2019年5月26日作成)}}</ref>。 |
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== 大相撲を主題とした作品 == |
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=== テレビゲーム === |
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*大相撲([[データイースト]]、1984年) |
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*[[出世大相撲]]([[テクノスジャパン]](後の[[アークシステムワークス]](著作権保有および発売))、1984年) |
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*[[つっぱり大相撲]]([[テクモ]](後の[[コーエーテクモゲームス]])、1987年) |
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*[[寺尾のどすこい大相撲]]([[ジャレコ]]、1989年) |
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*SDバトル大相撲 平成ヒーロー場所([[バンプレスト]](後の[[バンダイナムコゲームス]])、1990年) |
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*千代の富士の大銀杏([[フェイス (ゲーム会社)|FACE]]、1990年) |
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*スーパー大相撲熱戦大一番([[ナムコ]](後のバンダイナムコゲームス)、1992年) |
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*大相撲魂([[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]](後の[[タカラトミー]])、1992年) |
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*つっぱり大相撲 平成版([[テクモ]](後の[[コーエーテクモゲームス]])、1992年) |
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*つっぱり大相撲 立身出世編(テクモ(後のコーエーテクモゲームス)、1993年) |
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*若貴大相撲 夢の兄弟対決(イマジニア、1993年) |
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*ああ播磨灘(1993年) |
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*[[横綱物語]]([[ケイエスエス|KSS]](後の[[ソフトガレージ]])、1994年) |
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*[[64大相撲]](ボトムアップ、1997年) |
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*64大相撲2(ボトムアップ、1998年) |
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*どすこい伝説(ケイエスエス、1999年) |
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*日本相撲協會公認 日本大相撲([[コナミ]]、2000年) |
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*日本相撲協會公認 日本大相撲 格闘編(コナミ、2001年) |
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*SIMPLE1500シリーズ Vol.58 THE すもう([[D3パブリッシャー]]、2001年) |
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*日本相撲協會公認 日本大相撲 激闘本場所編(コナミ、2002年) |
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*つっぱり大相撲 Wii部屋(テクモ、2009年) |
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=== モバイルゲーム === |
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*みんなで大相撲(Japan Internet Technologies、2011年) |
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*大相撲カード決戦(HINATA、2013年) |
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*大相撲ごっつぁんバトル(HINATA開発、バンダイナムコエンターテインメント配信、2017年) |
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=== 落語 === |
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*[[花筏]] |
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*[[阿武松 (落語)|阿武松]] |
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*[[大安売り]] |
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*[[佐ノ山]] |
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*[[千早振る]] |
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=== 雑誌 === |
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==== 現在刊行中 ==== |
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*[[相撲 (雑誌)|相撲]]([[ベースボール・マガジン社]]) - 日本相撲協会[[機関誌]]扱い。 |
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*[[NHK G-Media 大相撲中継]]([[毎日新聞出版]]) |
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*スポーツ報知 大相撲ジャーナル([[報知新聞社]]) |
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==== かつて刊行していた雑誌 ==== |
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*[[大相撲 (雑誌)|大相撲]]([[読売新聞|読売新聞社]]) - 2010年9月号をもって休刊。 |
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*VANVAN相撲界(ベースボール・マガジン社) - 1998年終刊。 |
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*別冊グラフNHK大相撲特集号→[[大相撲中継|NHK大相撲中継]]([[NHKサービスセンター]]) |
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*[[NHK G-Media 大相撲ジャーナル]]([[イースト・プレス]]) |
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=== 小説 === |
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*どすこい。([[京極夏彦]]) |
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*[[大相撲殺人事件]]([[小森健太朗]]) |
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*[[雷電本記]]([[飯嶋和一]]) |
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=== 漫画作品 === |
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*[[ああ播磨灘]]([[さだやす圭]]) |
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*[[両国花錦闘士]]([[岡野玲子]]) |
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*[[のたり松太郎]]([[ちばてつや]]) |
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*[[おかみさん 新米内儀相撲部屋奮闘記|おかみさん]]([[一丸]]) |
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*[[やぐら嵐]]([[ビッグ錠]]) |
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*[[やぐら太鼓の詩]]([[琴剣]]) |
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*[[ちゃんこ屋虎太郎]](琴剣) |
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*[[はっけよい]]([[前川たけし]]) |
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*[[巴戦、待ったなし]](岸本景子) |
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*[[おっとと、お相撲くん]]([[コンタロウ]]) |
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*[[どす恋ジゴロ]]([[平松伸二]]) |
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*[[嗚呼どす恋ジゴロ]](平松伸二) |
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*[[よりきり君]](平ひさし) |
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*[[大相撲刑事]]([[ガチョン太朗]]) |
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*[[力人伝説 -鬼を継ぐもの-]](原作:[[宮崎まさる]]、作画:[[小畑健]]) |
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*[[ももたろう]]([[小山ゆう]]) |
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*[[バチバチ]]([[佐藤タカヒロ]]) |
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**[[バチバチ|バチバチBurst]]([[佐藤タカヒロ]]) |
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**[[バチバチ|鮫島、最後の十五日]]([[佐藤タカヒロ]]) |
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*[[達磨 (漫画)|達磨]]([[木村えいじ]]) |
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*[[火ノ丸相撲]]([[川田 (漫画家)|川田]]) |
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*[[さくらのはなみち]](原作:希戸塚一示、作画:西山田 ) |
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*[[りきじょ]](歌麿) |
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*[[ガチンコッ!]]([[山下てつお]]) |
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*[[どすこーい!勝五郎]](柴山みのる) |
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*[[すもう甲子園]]([[貝塚ひろし]]) |
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*[[すまひとらしむ]]([[いおり真]]、取材協力・来未) |
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=== 映画作品 === |
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*[[名寄岩 涙の敢闘賞]]([[小杉勇]]監督、[[1956年]]) |
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*[[若ノ花物語 土俵の鬼]]([[森永健次郎]]監督、1956年) |
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=== テレビドラマ === |
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*[[千代の富士物語]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]、1991年) |
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*[[まったナシ!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1992年) |
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*[[ひらり (テレビドラマ)|ひらり]]([[日本放送協会|NHK]]、1992年) |
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*[[おかみさんドスコイ!!]]([[毎日放送]]、2002年) |
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*[[サンクチュアリ -聖域-]]([[Netflix]]、2023年) |
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=== その他 === |
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*「鬼無双シリーズ」「世界最強の国技 SUMOU」 |
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:[[ニコニコ動画]]における相撲の映像に[[ロボットアニメ]]や[[対戦格闘ゲーム]]のような派手なエフェクトを入れた[[MADムービー]]で、単に「SUMOU」と呼ばれることもある。[[ニコニコ動画]]で再生数の多い人気動画のひとつであり、2015年に開催された[[ニコニコ超会議]]では、相撲協会協力の下現役の力士がリアルタイムでMADムービーを再現する「リアルSUMOU」が開催され<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20150426-a103/ RIKISHIが真の力を解放「ニコニコ超会議」大相撲超会議場所が大盛況] マイナビニュース 2015年4月26日</ref>、同年の[[ACC (社団法人)|ACC]] CM FESTIVALではインタラクティブ部門で”ACCゴールド”を受賞した<ref>[https://web.archive.org/web/20151107070226/http://dwango.co.jp/pi/ns/2015/1028/index2.html ニコニコ超会議2015「リアルSUMOU」55th ACC CM FESTIVAL・インタラクティブ部門で”ACCゴールド”を受賞] 株式会社ドワンゴ 2015年10月28日</ref>。2017年の超会議でも同様のイベントが開催された。 |
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==大相撲ファンの著名人== |
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{{See|好角家}} |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 関連書 == |
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*風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。 |
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== 関連項目 == |
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*用語・名鑑 |
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**[[相撲用語一覧]] |
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**[[大相撲の決まり手一覧]] |
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**[[大相撲隠語一覧]] |
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**[[大相撲力士一覧]] |
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**[[現役中に死亡した力士一覧]] |
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**[[横綱一覧]] |
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**[[大関一覧]] |
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**[[関脇一覧]] |
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**[[小結一覧]] |
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**[[現役年寄一覧]] |
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**[[大相撲優勝力士一覧]] |
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**[[幕内最高優勝の記録]] |
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***[[勝利#大相撲|勝利数]] |
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*概論・制度・伝統 |
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**[[相撲]] |
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**[[相撲界]] |
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**[[年寄]] |
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**[[年寄名跡]] |
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**[[年寄株問題]] |
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**[[行司]] |
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**[[横綱土俵入り]] |
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**[[大相撲中継]] |
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**[[座布団の舞]] |
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**[[水入り]] |
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**[[八百長]] |
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*団体・施設 |
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**[[日本相撲協会]] |
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**[[横綱審議委員会]] |
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**[[相撲部屋]] |
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**[[蔵前国技館]] |
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**[[両国国技館]] |
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**[[大阪府立体育会館]] |
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**[[愛知県体育館]] |
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**[[福岡国際センター]] |
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== 外部リンク == |
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{{Wikinewscat}} |
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{{commons&cat}} |
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* [http://www.sumo.or.jp/ 日本相撲協会公式サイト] |
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* [https://web.archive.org/web/20200804045459/http://tsubotaa.la.coocan.jp/shis/ss00.html 日本相撲史概略] |
|||
* [https://web.archive.org/web/20090220235854/http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm 大相撲 記録の玉手箱](2009年2月20日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) |
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* [https://web.archive.org/web/20120517124509/http://sumo.goo.ne.jp/index.html goo 大相撲] |
|||
* [https://web.archive.org/web/20080120202046/http://www.amy.hi-ho.ne.jp/fukunokami/sumou/sumou.htm 江戸時代のお相撲さん] - 開設者の先祖が「真力鉄蔵」という[[江戸時代]]の力士らしい。(2008年1月20日時点のアーカイブ) |
|||
* [https://web.archive.org/web/20120222225128/http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html スポーツ文化情報館](2012年2月22日時点のアーカイブ) |
|||
* [https://web.archive.org/web/20100206063305/http://beemanet.com/essay/sumo/ 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―](2010年2月5日時点のアーカイブ) |
|||
* [https://web.archive.org/web/20190510215621/http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn086.html 社会的構築物としての相撲―報恩古式大相撲の事例を巡って] |
|||
* [https://sports.mb.softbank.jp/genre/sumo 大相撲 - スポナビライブ] |
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* {{Soundlink|[https://abema.tv/now-on-air/sumo 大相撲(生配信)] - ABEMA 大相撲チャンネル}} |
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* [https://sumo-hositori.com 大相撲星取表] |
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* {{Kotobank}} |
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[[Category:相撲]] |
2024年6月6日 (木) 13:14時点における版
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/97/Kunisada_Sumo_Triptychon_c1860s.jpg/400px-Kunisada_Sumo_Triptychon_c1860s.jpg)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Sumo-Nobori_Flag.jpg/200px-Sumo-Nobori_Flag.jpg)
歴史
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2a/Somagahana_Fuchiemon.jpg/220px-Somagahana_Fuchiemon.jpg)
江戸時代
興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃︵17世紀︶とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを﹁勧進相撲﹂といった。1624年、四谷塩町長禅寺︵笹寺︶において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた[2]。 ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社︵富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など︶で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである[3]。 ﹃相撲傳書﹄によると、この頃は土俵はなく﹁人方屋﹂という見物人が直径7 - 9m︵4 - 5間︶の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m︵13尺︶の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵︵これは﹁蛇の目土俵﹂とも言う︶となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから﹁36俵﹂と呼ばれた。 江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。 しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる[4]。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、﹁江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士﹂という風潮が生まれた。 各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行︵大場所︶も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。 1827年、江戸幕府が﹁江戸相撲方取締﹂という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。 幕末に﹁相撲VSレスリング﹂や﹁相撲VSボクシング﹂の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日︶に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。 1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組︵後の新選組︶と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎︵肥後出身︶であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。明治・大正
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/Wrestling_at_Tokyo_1890s.jpg/250px-Wrestling_at_Tokyo_1890s.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ab/Hitachiyama_Chicago_1907.jpg/220px-Hitachiyama_Chicago_1907.jpg)
昭和戦前から戦後初期
1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月︵両国︶、3月︵関西︶、5月︵両国︶、10月︵関西︶の計4回‥11日間で開催︵1929年は10月でなく9月︶されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。 この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために[8]、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。 1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m︵15尺︶の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。 1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催︵1月、5月︶となった。 69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。 第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場︵後の明治神宮第二球場︶で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。 戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部︵GHQ︶に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺︵約4.84m︶と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所︵11月‥10日間︶が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m︵15尺︶に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所︵13日間︶が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所︵10月‥11日間︶には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。昭和戦後
1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館︵木造︶を建設し、ようやく1月場所︵13日間︶を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館︵蔵前国技館︶も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となり、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。 1950年から1952年は、本場所︵1月、5月、9月︶が各15日間実施︵ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催︶。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波︵現在の大阪府立体育会館所在地︶にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館︵1987年から大阪府立体育会館︶が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。 横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。 栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所︵九州場所、福岡スポーツセンター︶、1958年には7月場所︵名古屋場所、名古屋市金山体育館︶を行うようになり、現在のような6場所︵1月、3月、5月、7月、9月、11月︶、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。 国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと︵1957年3月2日の衆議院予算委員会[9]および4月3日の衆議院文教委員会[10]︶を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革が行われた[11]。また理事長に重要事項の建議を行える運営審議委員会も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。 1961年には年寄の停年制が実施された︵﹁停年﹂の表記については後述︶。1966年には法人名を日本相撲協会に改称。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。 1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。 1970年頃になると、力士と暴力団とのかかわり、八百長が疑われる内容の相撲の横行、力士の健康問題等の諸問題が明らかとなり、1971年12月には再び国会で協会のあり方が取り上げられた[12][13]。これを受けた協会理事会において、中学校在籍中の入門の禁止︵当時在籍していた中学生力士は、中学校卒業まで東京場所の日曜・祝日のみの出場となる︶、公傷制度の導入︵2003年11月場所限りで廃止されるまで続く︶、相撲競技監察委員会の設置、行司の完全年功序列を廃し成績考課を導入等の改革を打ち出した[14]︵いずれも1972年1月場所より施行︶。 1985年1月、現在の国技館が両国駅近くに完成し、再び両国に相撲が戻った。蔵前国技館は旧軍放出資材を用いて建てられたため、新しい国技館の建築が検討されていた。相撲協会など関係者は、相撲と縁の深い回向院のある両国界隈に建設地を定めた。そして約3年、総工費およそ150億円をかけ両国国技館が落成となった[15]。平成
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/Sumo-Japan.jpg/220px-Sumo-Japan.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2f/Dohyo.png/200px-Dohyo.png)
令和
2019年5月場所より、アメリカ大統領杯の授与が始まる。 2020年、新型コロナウイルスの感染拡大に際しては、3月場所を無観客開催[22]、5月場所を中止、7月場所は会場を名古屋から東京へ移し、観客数を制限したうえで開催した[23][24]。9月場所も観客数を制限して開催し、11月場所も福岡から東京に移して開催された[25]。また、協会員から罹患者が発生し、死者も出た[26]。 2021年3月場所13日目、三段目取組において掬い投げを食らった力士が頭から土俵上に転落、病院に搬送されて治療を受けていたが、同年4月に肺血栓による急性呼吸不全のため死亡した[27]。土俵上での取組による事故で死亡した初の事例となった。興行
大相撲の興行としては、本場所と巡業が特に大きなウェイトを占める。本場所
開催月 | 正式名称 | 通称 | 開催場所 |
---|---|---|---|
1月 | 一月場所 | 初場所 | 両国国技館 |
3月 | 三月場所 | 春場所 大阪場所 |
エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館) |
5月 | 五月場所 | 夏場所 | 両国国技館 |
7月 | 七月場所 | 名古屋場所 | ~2024年:ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館) 2025年~:愛知国際アリーナ[28] |
9月 | 九月場所 | 秋場所 | 両国国技館 |
11月 | 十一月場所 | 九州場所 | 福岡国際センター |
-
両国国技館
-
エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)
-
ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)
-
福岡国際センター
地方巡業
関取が所属していない部屋の取的は、巡業に参加することができず、部屋によっては合宿を行う部屋もある。
花相撲
海外公演
海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は﹁裸の親善大使﹂などと呼ばれ、これまでに13回開催している。回数 | 開催年月 | 名 称 | 都 市 | 備 考 |
---|---|---|---|---|
第1回 | 1965年7月-8月 | ![]() |
モスクワ、ハバロフスク | 日ソ復交調印10周年記念 |
第2回 | 1973年4月 | ![]() |
北京、上海 | 日中国交正常化記念 |
第3回 | 1981年6月 | ![]() |
メキシコシティ | |
第4回 | 1985年6月 | ![]() |
ニューヨーク | 東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念 |
第5回 | 1986年10月 | ![]() |
パリ | 東京パリ友好都市提携5周年記念 |
第6回 | 1990年6月 | ![]() |
サンパウロ | |
第7回 | 1991年10月 | ![]() |
ロンドン | ロンドン日本協会設立100周年記念 |
第8回 | 1995年10月 | ![]() ![]() |
ウィーン、パリ | |
第9回 | 1997年6月 | ![]() |
メルボルン、シドニー | 日豪外交100周年記念 |
第10回 | 1998年6月 | ![]() |
バンクーバー | |
第11回 | 2004年2月 | ![]() |
ソウル、釜山 | 日韓共同未来プロジェクト |
第12回 | 2004年6月 | ![]() |
北京、上海 | 日中定期航空路線開設30周年記念 |
第13回 | 2005年10月 | ![]() |
ラスベガス | ラスベガス市制100周年記念 |
第14回 | 2009年10月(中止) | ![]() |
ロンドン | 世界的な不況により中止 |
第15回 | 2013年6月(延期) | ![]() |
モスクワ |
海外巡業
回数 | 開催年月 | 名称 | 都市 | 備考 |
---|---|---|---|---|
第1回 | 1962年6月 | ![]() |
ホノルル | |
第2回 | 1964年2月 | ![]() |
ホノルル、ロサンゼルス | 角界拳銃密輸事件が起こる |
第3回 | 1966年 | ![]() |
ホノルル | |
第4回 | 1970年6月 | ![]() |
ホノルル | |
第5回 | 1972年2月 | ![]() |
ホノルル | |
第6回 | 1974年6月 | ![]() |
ホノルル | |
第7回 | 1976年6月 | ![]() |
ホノルル、ロサンゼルス | |
第8回 | 1981年6月 | ![]() |
サンノゼ、ロサンゼルス | |
第9回 | 1992年6月 | ![]() ![]() |
マドリード、デュッセルドルフ | |
第10回 | 1993年2月 | ![]() |
香港 | |
第11回 | 1993年6月 | ![]() |
ホノルル、サンノゼ | |
第12回 | 2006年8月 | ![]() |
台北 | 13年ぶりに海外巡業が復活 |
第13回 | 2007年6月 | ![]() |
ホノルル | 14年ぶりのハワイ巡業 |
第14回 | 2008年6月 | ![]() |
ロサンゼルス | |
第15回 | 2008年8月 | ![]() |
ウランバートル | |
第16回 | 2013年8月 | ![]() |
ジャカルタ |
横綱
代位 | 四股名 | 生年月日(年齢) | 初土俵 | 横綱昇進 | 優勝 | 所属 | 出身 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
73代 | ![]() |
てるのふじ はるお 照ノ富士春雄 |
1991年11月29日(32歳) | 2011年 5月 | 2021年9月 | 9回 | 伊勢ヶ濱部屋 | モンゴル |
番付
昇進と降格
番付は基本的に勝ち越せば上がり、負け越せば下がる。 ただし、同じ地位で同じ成績をあげても、場所によって昇進・降格幅が大きく異なる事例がこれまで数多く発生している。これは﹁番付は生き物﹂と称され、他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来るものである。 それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたりその都度昇進の可否を検討することとなっている[31]。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる[32]。取組
優勝制度
幕内最高優勝は1909年6月場所、新聞社による最高成績者への優勝額贈呈によって事実上始まった。当初は物言いがついた相撲であえて決着をつけない預りや、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や不戦勝制度、同点の場合の優勝決定戦の導入などがありつつ、白星数の優劣で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。優勝制度の不公平
力士の条件
力士の報酬
関取の報酬
大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金︵給金︶と、いわゆる2階建てになっている。 ︵2019年1月現在︶項目 | 横綱 | 大関 | 三役(関脇・小結) | 平幕(前頭) | 十両 |
---|---|---|---|---|---|
月額給与 | 300万円 | 250万円 | 180万円 | 140万円 | 110万円 |
年額給与 | 3,600万円 | 3,000万円 | 2,160万円 | 1,680万円 | 1,320万円 |
年額賞与 | 600万円 | 500万円 | 360万円 | 280万円 | 220万円 |
特別手当 | 120万円 | 90万円 | 30万円 | ||
出張手当 | 115.5万円 | 99.7万円 | 85万円 | 74.5万円 | 68.2万円 |
力士補助金 | 7.5万円 | 7.5万円 | 7.5万円 | 7.5万円 | 7.5万円 |
力士褒賞金(1場所) | 60万円 | 40万円 | 24万円 | 24万円 | 16万円 |
年額報酬 | 4,803万円 | 3,937.2万円 | 2,786.5万円 | 2,186万円 | 1,711.7万円 |
- 力士褒賞金は、本場所ごとの最低支給金額(年額報酬では6場所分で計算)。
給与
賞与
賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。本場所特別手当
本場所特別手当は、小結以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日-10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休︵不戦敗も含む︶の場合は支給されない。 ●横綱‥200,000円 ●大関‥150,000円 ●関脇・小結‥50,000円出張手当
出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分[注 4]支給される。 ●横綱‥宿泊費8,000円、日当3,000円 ●大関‥宿泊費7,500円、日当2,000円 ●関脇・小結‥宿泊費6,500円、日当1,600円 ●平幕‥宿泊費5,700円、日当1,400円 ●十両‥宿泊費5,300円、日当1,200円力士補助金
力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。 ●横綱から十枚目︵十両︶まで‥一律25,000円力士褒賞金
場所ごとに過去に残した成績に応じて支給される。計算の基礎となる持ち給金︵支給標準額︶の累積は序ノ口から始まり、持ち給金を4000倍した金額が十両以上の力士(関取)に支給される。持ち給金は勝ち越し1点につき50銭ずつ累積され[注 5]、負け越しや休場などでの減額はない。金星や幕内最高優勝では大きな加算︵後述︶があるほか、十両・幕内(関脇と小結を含む)・大関・横綱と持ち給金の最低額が決まっており、昇進時に累積額がその金額に満たなければ番付に応じた最低額まで引き上げられる。番付 | 持ち給金 (最低額) |
最低支給額 (1場所ごと) |
---|---|---|
横綱 | 150円 | 60万円 |
大関 | 100円 | 40万円 |
幕内 | 60円 | 24万円 |
十両 | 40円 | 16万円 |
力士養成員の報酬
幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されないが、場所手当と本場所の成績による幕下以下奨励金(勝ち星1つごとに支給される勝星奨励金と勝ち越した数に応じて支給される勝越金)が本場所ごとに年6回支給される。
- 幕下:165,000円
- 三段目:110,000円
- 序二段:88,000円
- 序ノ口:77,000円
(2019年1月現在)
項目 | 幕下 | 三段目 | 序二段 | 序ノ口 |
---|---|---|---|---|
場所手当 | 165,000円 | 110,000円 | 88,000円 | 77,000円 |
年額報酬 | 990,000円 | 660,000円 | 528,000円 | 462,000円 |
勝星奨励金(1つあたり) | 2,500円 | 2,000円 | 1,500円 | 1,500円 |
勝越金(1つあたり) | 6,000円 | 4,500円 | 3,500円 | 3,500円 |
副業の制約など
大相撲の力士がテレビのCMに出演することを全面禁止していた時代があった。これは1985年からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという春日野理事長︵当時︶の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、本場所の協会指定懸賞企業および巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。ナショナル︵後のパナソニック︶乾電池の小錦、日本航空の大相撲ブラジル公演PR、国民年金の貴乃花、若乃花などがある。2002年2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は日立マクセルDVDメディアの栃東である。各種表彰・昇給・賞金
各段優勝
番付の幕内・十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口の各階級内での最高成績者が優勝となる。ただし最高成績者が複数いる場合は、優勝決定戦が行われ、それを勝ち抜いた1人のみが優勝となる。力士が番付の6階級のいずれかで優勝すると、優勝者に対して表彰が行われ、以下の賞金が授与される。 ●幕内最高優勝 - 1000万円 ●十両優勝 - 200万円 ●幕下優勝 - 50万円 ●三段目優勝 - 30万円 ●序二段優勝 - 20万円 ●序ノ口優勝 - 10万円 幕内最高優勝の場合、力士褒賞金の加算による昇給もあり、全勝以外の優勝は30円、全勝優勝なら50円が力士褒賞金に加算される。4000倍という倍率からすると、実質ぞれぞれ12万円、20万円の昇給となる。三賞
千秋楽には、勝ち越した関脇以下の幕内力士に対し、相撲内容等により選考を経て殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞が贈られ、表彰・賞金の対象となる。三賞の賞金としては1つにつき200万円が授与される。金星
懸賞金
名誉賞
廃止された各種表彰
優勝旗手
1909年6月場所から1931年10月場所までと、1940年1月場所から1947年6月場所までの期間には、優勝した片屋の関脇以下の最高成績力士が優勝旗手として表彰されていた。雷電賞
1955年3月場所から1965年11月場所まで、関脇以下の最高成績者(三賞と異なり機械的に決まる)に与えられる表彰として、雷電賞が行われていた。
二位・三位力士に対する表彰
力士の退職金
養老金
︵2006年1月現在、単位‥円︶横綱 | 大関 | 三役 | 平幕 | 十両 | |
---|---|---|---|---|---|
資格者 | 15,000,000 | 10,000,000 | 7,630,000 | 7,630,000 | 4,750,000 |
非資格者 | -- | -- | 7,630,000 | 4,750,000+(勤続場所数-1)×120,000 | 1,150,000+(勤続場所数-1)×150,000 |
勤続加算金
横綱 | 大関 | 三役 | 平幕 | 十両 | |
---|---|---|---|---|---|
横綱 | 500,000 | 400,000 | 250,000 | 200,000 | 150,000 |
大関 | -- | 400,000 | 250,000 | 200,000 | 150,000 |
三役 | -- | -- | 250,000 | 200,000 (150,000) | 150,000 |
平幕 | -- | -- | -- | 200,000 (150,000) | 150,000 |
十両 | -- | -- | -- | -- | 150,000 |
特別功労金
力士の待遇
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。地位 | 幕内(横綱 - 前頭) | 十両 | 幕下 | 三段目 | 序二段 | 序ノ口 |
---|---|---|---|---|---|---|
髷 | 大銀杏 | 丁髷 (十両との対戦時および弓取式、巡業中の初切出演、床山の練習台、引退時の断髪式の際は大銀杏容認) | ||||
服 | 紋付羽織袴 | 着物・羽織(外套・襟巻も着用可) | 着物・羽織 | 着物(浴衣もしくはウール) | ||
帯 | 博多帯 | ベンベルグ | ||||
傘 | 番傘・蛇の目傘 | 洋傘 | ||||
履物 | 足袋に雪駄(畳敷き) | 足袋に雪駄(エナメル製) | 素足に雪駄(エナメル製) | 素足に下駄 | ||
稽古廻し | 白色・木綿 | 黒色・木綿 | ||||
取り廻し | 博多織繻子(色は事実上自由) | 黒色・木綿 | ||||
下がり | 取り廻しの共布 | 紐 | ||||
足袋の色 | 白 | 黒 | ||||
控えの敷物 | 私物の座布団(色・デザインは自由) | 共用の座布団(紫一色) | 畳に直座(幕下上位五番および十両との対戦時は十両と同じ座布団) | |||
月ごとの収入 | 月額給与 | - | ||||
場所ごとの収入 | 力士褒賞金 | 場所手当・奨励金 |
待遇の歴史
歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち︵江戸相撲会所。現在の日本相撲協会の前身︶によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。 三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主︵勧進元︶から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による﹁手相撲﹂で地方巡業を行い食いつないでいた。但し、いわゆる﹁力人信仰﹂から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。 本場所で﹁星を売る﹂、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。但し、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため、事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。これには、そもそも格闘技で年90回(十両以上は1場所15番×年6場所)もガチンコで試合を行うというのはアスリートの肉体的に不可能で、それを行おうともすれば力士の生命に対する危険はより高くなってしまうという意見もある[39]。 明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者に成り代わっただけで、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。1958年︵昭和33年︶、こうした相撲界の体質は国会で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、﹁時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手﹂という声があり、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に収入は安い。 また、金銭面に関しては、後援者︵タニマチ︶からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に千代の富士の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。力士の労働契約について
一般に力士は日本相撲協会と労働契約を結び雇用される給与所得者とされており、他のプロスポーツ選手の大半が個人事業主であることに対して労働条件を異にする部分があるためこういった収入面に関する話題では一律に比較できないとも指摘される。実際に小錦は自身の大関在位時代︵1987年7月場所から1993年11月場所︶の月給について﹁100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円﹂と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に﹁僕の時代は、どんな幕内力士でも︵懸賞は︶必ずあった﹂とも話しており、さらに﹁僕も200万近く貰っていた。一番いいときに﹂と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。[40][41]この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。2001年︵平成13年︶に力士・年寄の給料増額が記録されてから2019年1月に力士の給料増額まで据え置きとなっていた時期があった。2008年には当時の力士会会長の朝青龍が﹁せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ﹂と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、協会の財政状況があまりよくなかったとされる[42]。ただし2015年の冬季ボーナスは﹁もし俺に何かあったら、︵給料の底上げを︶頼むぞ﹂と北の湖が協会関係者に伝えていたことなどが影響し、2014年と比べて3割ほどアップしたという[43]。 とはいえ、力士が労働者として相撲協会に雇用されているのか、その特別な能力をプロとして提供することを委任しているのか、実は契約上曖昧である。たとえば日馬富士の貴ノ岩への傷害事件の際に白鵬や鶴竜まで減給処分になったのは、弁護士の山口元一によると﹁労働基準法91条が定める制裁制限の幅を超えていました。これは日本相撲協会が力士所属契約について、雇用契約たる性質を否定していることを示しています﹂とのこと[44]。なお、2011年の大相撲八百長問題で解雇された蒼国来が起こした訴訟における東京地裁の判決は、相撲協会と力士との間で結ばれている契約は﹁準委任契約﹂(=力士は個人事業主である)としている[45]。 一方で、福利厚生や引退時の退職金制度、税法上の取り扱い等では、他のプロスポーツより充実していて、見方によってはむしろ一般企業に勤める労働者に近い。例えば、国技館内には力士のみならず一般の診療も受け付ける診療所︵公益財団法人日本相撲協会診療所。通称﹁相撲診療所﹂[46]︶があること、健康保険組合︵日本相撲協会健康保険組合[47]︶を独自に運営していること、厚生年金制度を導入していること、また税金面においては給与所得や退職所得が適用されることにより、自身の報酬を事業所得として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には国税庁が力士等に対する課税について個別通達[48]を行っていて、これにより後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。[注 19]収入の無い幕下以下の力士であっても社会保険に加入することが可能であり、この場合は保険料は全額協会負担となる[49]。 一般の個人事業主の場合のように相撲部屋が銀行の融資を受けるケースもあるが、新興の部屋の場合は12代中立の中立部屋の例のように難航する場合もある。この例の場合、多くの銀行の担当者から断られた末に最後のつもりで尋ねた銀行の担当者が相撲に理解を持っていたことからようやく融資を受けられるようになった[50]。退職
力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった旭道山和泰が衆議院議員選挙に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。区分 | 改称前 | 改称後 |
---|---|---|
力士 | 廃業 | 引退 |
引退 | ||
年寄 | 廃業 | 退職 |
停年、退職 |
因習的な問題
閉鎖性
横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士︵年寄︶によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き︵額面は9桁、億単位に達している︶、1998年5月には﹁準年寄﹂制度の導入などで対応したが︵2006年末廃止︶、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花︵花田虎上︶、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。 また、その閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では俗に﹁かわいがり﹂と言われる︵稽古名目での︶私刑が横行していた。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長(第55代横綱)が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・大勇武龍泉が12代芝田山︵第62代横綱・大乃国︶から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。 また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。出身地による参加機会の不均等
理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者︵日本国籍取得者も含む︶の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。年寄の国籍要件
年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所轄の公益財団法人であることが大きい。外国出身で役力士を務める者もおり、元高見山の12代東関や第67代横綱・武蔵丸の15代武蔵川など日本国籍を取得︵帰化︶して相撲協会に残る者もいる。 その一方、横綱・大関を務めた力士が引退後に角界を離れる場合もあるが、その事情は様々である。第64代横綱・曙は日本国籍を取得済みで、引退時に曙親方として東関部屋の部屋付きとなっている。年寄名跡の取得を希望していたが、師匠の12代東関が金銭観念の甘さ[51]を見て経営者の側面もある部屋継承者として適格と判断しなかったという[52]。第68代横綱・朝青龍は2010年1月16日未明に一般人に対する暴行事件を起こしたため、同年2月4日に相撲協会の引退勧告に従って引責引退をしている。また元大関・把瑠都は角界のしきたりや慣習に馴染めず、引退後も角界に残る意向は無かったという[53]。女人禁制
日本相撲協会主催の大相撲は土俵上への女性の立ち入りを認めていない。 ●2000年に大阪府知事に就任した日本初の女性都道府県知事である太田房江は春場所の優勝力士に大阪府知事賞を直接授与することを日本相撲協会側に要求したが、認められなかった。 ●2007年9月19日︵秋場所11日目︶には観客の40歳前後の女性が土俵に乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは﹁約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた﹂としている[54]。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている[55]。 ●2018年4月4日、巡業先の舞鶴市で多々見良三市長が土俵上であいさつ中に倒れ、救命のため医療従事者の女性が土俵に上がったが、相撲協会はこの女性に対して土俵を降りるよう場内アナウンスで促した[56]。これについて八角理事長は﹁人命にかかわる状況には不適切な対応でした﹂と謝罪している︵﹁女性は土俵から降りてください﹂騒動︶[57]。 この女人禁制の風習は明治期の﹁違式詿違条例﹂発令と﹁神道の穢れ感﹂を利用し﹁虚構の伝統﹂が創られたとされる[58]。 日本の相撲の歴史においては室町時代から女相撲も存在しているが、団体も違い、同一興行も行われていない[58]。1957年に大相撲の四国巡業において女相撲の大関若緑が勧進元挨拶をしたのは、第39代横綱・前田山と第二次世界大戦で相撲をやめてしまった若緑が懇意であったことからのはからいであった[59][60]。固辞する若緑に対し、前田山は﹁責任はとるから﹂と頼み込み、若緑は土俵上に立ったという[61]。志願者の減少と意識の変容
近年の日本では力士を志す人数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査の受検者数は初めてゼロであった(2018年の名古屋場所で二度目の受検者ゼロ)[注 20]。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、﹁宗教色を帯びた伝統的な儀式﹂よりも﹁一般スポーツ競技の一種﹂と捉えている力士数が増えている。その他
- 相撲茶屋問題
外資系企業・他国からの表彰
外資系企業
1961年から1991年まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、﹁ヒョー、ショー、ジョォー﹂という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され︵パンナム自体その約半年後に倒産︶、ジョーンズも2005年2月2日に逝去している。フランス共和国大統領杯・日仏友好杯
﹁フランス共和国大統領杯﹂は、知日派で大の大相撲ファンと自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、﹁坊主憎けりゃ袈裟まで﹂の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは﹁あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません﹂と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。 2011年の名古屋場所から﹁日仏友好杯﹂として復活。副賞としてピエール・エルメ監修の黄金マカロン︵22個︶が贈呈されるが、生菓子という性質上、後日の受注製造となっているため、本場所での表彰式では巨大マカロンのオブジェが土俵に登場している[62][63]。アメリカ合衆国大統領杯
﹁アメリカ合衆国大統領杯﹂は、前々から相撲に興味を持っていた、アメリカ合衆国第四十五代大統領・ドナルド・トランプが令和元年︵2019年︶五月場所観戦時に設けた優勝力士に対する大統領顕彰のこと。朝乃山が受賞した[64]。なお、翌年以降も五月場所の優勝力士に贈呈する予定となっている[65]。大相撲を主題とした作品
テレビゲーム
●大相撲︵データイースト、1984年︶ ●出世大相撲︵テクノスジャパン︵後のアークシステムワークス︵著作権保有および発売︶︶、1984年︶ ●つっぱり大相撲︵テクモ︵後のコーエーテクモゲームス︶、1987年︶ ●寺尾のどすこい大相撲︵ジャレコ、1989年︶ ●SDバトル大相撲 平成ヒーロー場所︵バンプレスト︵後のバンダイナムコゲームス︶、1990年︶ ●千代の富士の大銀杏︵FACE、1990年︶ ●スーパー大相撲熱戦大一番︵ナムコ︵後のバンダイナムコゲームス︶、1992年︶ ●大相撲魂︵タカラ︵後のタカラトミー︶、1992年︶ ●つっぱり大相撲 平成版︵テクモ︵後のコーエーテクモゲームス︶、1992年︶ ●つっぱり大相撲 立身出世編︵テクモ︵後のコーエーテクモゲームス︶、1993年︶ ●若貴大相撲 夢の兄弟対決︵イマジニア、1993年︶ ●ああ播磨灘︵1993年︶ ●横綱物語︵KSS︵後のソフトガレージ︶、1994年︶ ●64大相撲︵ボトムアップ、1997年︶ ●64大相撲2︵ボトムアップ、1998年︶ ●どすこい伝説︵ケイエスエス、1999年︶ ●日本相撲協會公認 日本大相撲︵コナミ、2000年︶ ●日本相撲協會公認 日本大相撲 格闘編︵コナミ、2001年︶ ●SIMPLE1500シリーズ Vol.58 THE すもう︵D3パブリッシャー、2001年︶ ●日本相撲協會公認 日本大相撲 激闘本場所編︵コナミ、2002年︶ ●つっぱり大相撲 Wii部屋︵テクモ、2009年︶モバイルゲーム
●みんなで大相撲︵Japan Internet Technologies、2011年︶ ●大相撲カード決戦︵HINATA、2013年︶ ●大相撲ごっつぁんバトル︵HINATA開発、バンダイナムコエンターテインメント配信、2017年︶落語
●花筏 ●阿武松 ●大安売り ●佐ノ山 ●千早振る雑誌
現在刊行中
●相撲︵ベースボール・マガジン社︶ - 日本相撲協会機関誌扱い。 ●NHK G-Media 大相撲中継︵毎日新聞出版︶ ●スポーツ報知 大相撲ジャーナル︵報知新聞社︶かつて刊行していた雑誌
●大相撲︵読売新聞社︶ - 2010年9月号をもって休刊。 ●VANVAN相撲界︵ベースボール・マガジン社︶ - 1998年終刊。 ●別冊グラフNHK大相撲特集号→NHK大相撲中継︵NHKサービスセンター︶ ●NHK G-Media 大相撲ジャーナル︵イースト・プレス︶小説
●どすこい。︵京極夏彦︶ ●大相撲殺人事件︵小森健太朗︶ ●雷電本記︵飯嶋和一︶漫画作品
●ああ播磨灘︵さだやす圭︶ ●両国花錦闘士︵岡野玲子︶ ●のたり松太郎︵ちばてつや︶ ●おかみさん︵一丸︶ ●やぐら嵐︵ビッグ錠︶ ●やぐら太鼓の詩︵琴剣︶ ●ちゃんこ屋虎太郎︵琴剣︶ ●はっけよい︵前川たけし︶ ●巴戦、待ったなし︵岸本景子︶ ●おっとと、お相撲くん︵コンタロウ︶ ●どす恋ジゴロ︵平松伸二︶ ●嗚呼どす恋ジゴロ︵平松伸二︶ ●よりきり君︵平ひさし︶ ●大相撲刑事︵ガチョン太朗︶ ●力人伝説 -鬼を継ぐもの-︵原作‥宮崎まさる、作画‥小畑健︶ ●ももたろう︵小山ゆう︶ ●バチバチ︵佐藤タカヒロ︶ ●バチバチBurst︵佐藤タカヒロ︶ ●鮫島、最後の十五日︵佐藤タカヒロ︶ ●達磨︵木村えいじ︶ ●火ノ丸相撲︵川田︶ ●さくらのはなみち︵原作‥希戸塚一示、作画‥西山田 ︶ ●りきじょ︵歌麿︶ ●ガチンコッ!︵山下てつお︶ ●どすこーい!勝五郎︵柴山みのる︶ ●すもう甲子園︵貝塚ひろし︶ ●すまひとらしむ︵いおり真、取材協力・来未︶映画作品
●名寄岩 涙の敢闘賞︵小杉勇監督、1956年︶ ●若ノ花物語 土俵の鬼︵森永健次郎監督、1956年︶テレビドラマ
●千代の富士物語︵関西テレビ、1991年︶ ●まったナシ!︵日本テレビ、1992年︶ ●ひらり︵NHK、1992年︶ ●おかみさんドスコイ!!︵毎日放送、2002年︶ ●サンクチュアリ -聖域-︵Netflix、2023年︶その他
●﹁鬼無双シリーズ﹂﹁世界最強の国技 SUMOU﹂ ニコニコ動画における相撲の映像にロボットアニメや対戦格闘ゲームのような派手なエフェクトを入れたMADムービーで、単に﹁SUMOU﹂と呼ばれることもある。ニコニコ動画で再生数の多い人気動画のひとつであり、2015年に開催されたニコニコ超会議では、相撲協会協力の下現役の力士がリアルタイムでMADムービーを再現する﹁リアルSUMOU﹂が開催され[66]、同年のACC CM FESTIVALではインタラクティブ部門で”ACCゴールド”を受賞した[67]。2017年の超会議でも同様のイベントが開催された。大相撲ファンの著名人
脚注
注釈
出典
関連書
- 風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。
関連項目
- 用語・名鑑
- 概論・制度・伝統
- 団体・施設
外部リンク
- 日本相撲協会公式サイト
- 日本相撲史概略
- 大相撲 記録の玉手箱(2009年2月20日時点のアーカイブ)
- goo 大相撲
- 江戸時代のお相撲さん - 開設者の先祖が「真力鉄蔵」という江戸時代の力士らしい。(2008年1月20日時点のアーカイブ)
- スポーツ文化情報館(2012年2月22日時点のアーカイブ)
- 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―(2010年2月5日時点のアーカイブ)
- 社会的構築物としての相撲―報恩古式大相撲の事例を巡って
- 大相撲 - スポナビライブ
- 大相撲(生配信) - ABEMA 大相撲チャンネル
音量注意
- 大相撲星取表
- 『大相撲』 - コトバンク