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パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブール(家具修理)、エコール・エティエンヌ(グラフィック・アート。特に装丁)が有名である。2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校、[[パリ市立工業物理化学高等専門大学]]である。園芸に関するものは、[[エコール・デュ・ブルーユ]]である。 |
パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブール(家具修理)、エコール・エティエンヌ(グラフィック・アート。特に装丁)が有名である。2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校、[[パリ市立工業物理化学高等専門大学]]である。園芸に関するものは、[[エコール・デュ・ブルーユ]]である。 |
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===初等・中等教育=== |
===初等・中等教育=== |
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2005年から2006年の学校年度における公立学校の児童・生徒数は、26万3,812人であった。うち13万5,570人が初等教育、12万8,242人が中等教育を受けていた。同年度の私立学校の児童・生徒数は13万8,527人で、うち9万1,818人が契約に基づく就学であった。パリには、優先的教育地域︵ZEP︶または優先的教育組織︵REP︶の施設︵小学校214校、[[コレージュ]]32校。5人に1人の割合︶がある。
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2005年から2006年の学校年度における公立学校の児童・生徒数は、26万3,812人であった。うち13万5,570人が初等教育、12万8,242人が中等教育を受けていた。同年度の私立学校の児童・生徒数は13万8,527人で、うち9万1,818人が契約に基づく就学であった。パリには、優先的教育地域︵ZEP︶または優先的教育組織︵REP︶の施設︵小学校214校、[[コレージュ]]32校。5人に1人の割合︶がある。
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2024年5月22日 (水) 10:09時点における版
パリ | |||
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パリ市 Ville de Paris | |||
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パリの位置 | |||
国 | フランス | ||
地域圏 | イル・ド・フランス地域圏 | ||
自治体間連合 | メトロポール・デュ・グラン・パリ | ||
政府 | |||
• 市長 | アンヌ・イダルゴ | ||
面積 | |||
• 特別自治体 | 105.4 km2 | ||
標高 | 28 - 131 m m | ||
人口 | |||
• 特別自治体 | 2,148,271人 | ||
• 密度 | 20,382人/km2 | ||
• 都市部 | 12,532,901人 | ||
等時帯 | UTC+1 (CET) | ||
• 夏時間 | UTC+2 (CEST) | ||
郵便番号 |
75001 - 75020、75116 | ||
INSEEコード | 75056、75101 - 75116 | ||
ウェブサイト |
www |
概要
市域はティエールの城壁跡に造られた環状高速道路の内側の市街地︵面積は86.99km2。参考‥東京都・山手線の内側は63km2、ニューヨーク市・マンハッタンは59km2︶、および、その外側西部のブローニュの森と外側東部のヴァンセンヌの森を併せた形となっており、面積は105.40km2。ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。市内の地形は比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである[3]。北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい北大西洋海流と偏西風によって1年を通して比較的温暖となっており、西岸海洋性気候の代表的な都市である。 EUを代表する大都市として君臨し、アメリカのシンクタンクが2020年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、ロンドン、ニューヨークに次ぐ世界3位の都市と評価された[4]。日本の民間シンクタンクによる2023年発表の﹁世界の都市総合力ランキング﹂では、ロンドン、ニューヨーク、東京に次ぐ世界4位の都市と評価された[5]。世界500大企業の本社数では、ニューヨークやロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。2021年のイギリスのシンクタンクの調査によると、世界10位の金融センターと評価されており、EU圏内では首位である[6]。 パリは世界屈指の観光都市である。歴史的な建物を観ることができ、ルーヴル美術館、ポンピドゥーセンターなどをはじめとした一流の美術館で膨大な数の一流の美術品を観賞できる。また世界最古のバレエ団や、世界でもっとも古くから存在している劇団などの公演を楽しむこともできる。 パリ出身者・居住者は男性がパリジャン︵仏: Parisien、フランス語発音: [parizjɛ̃] パリズィヤン︶、女性がパリジェンヌ︵仏: Parisienne、フランス語発音: [parizjɛn] パリズィエンヌ︶と呼ばれる。1960年代以降、旧植民地であったアフリカ北部・中西部やインドシナ半島、さらに近年は中近東や東欧、中国などからの移民も増え、パリジャン・パリジェンヌも多民族・多人種化している。 市域人口は1950年代の約290万人を絶頂に減少し続けたが、ここ数年は微増傾向に転じており、2011年現在で約225万人である︵INSEEによる︶。2011年の近郊を含む都市的地域の人口では1,200万人を超えており、EU最大の都市部を形成している[7]。標語
パリ市の標語は﹁たゆたえども沈まず︵ラテン語: Fluctuat nec mergitur, フランス語: il est battu par les flots mais ne sombre pas︶[8]であり、これはパリの紋章の下部に書かれている。もともと水運の中心地だったパリで、水上商人組合の船乗りの言葉だったが、やがて戦乱、革命など歴史の荒波を生き抜いてきたパリ市民の象徴となっていった。この標語は特に2015年のパリ同時多発テロ事件の直後、パリの街角に多数掲げられた[8][9]。地名の語源
語源はParisii︵パリシイ、パリースィイとも。複数形。単数形はParisius﹁田舎者、乱暴者﹂︶で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。 欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι︵パリーズィ︶、イタリア語で Parigi︵パリージ︶と発音される。フィンランド語で Pariisi︵パリースィ︶と発音されるのはこれに由来しているという説がある。ルーテティア︵・パリースィオールム︶Lutetia︵Parisiorum︶、 ﹁パリシイ族の、水の中の居住地﹂︵シテ島のこと︶とも呼ばれていた。地理
-
オペラ・ガルニエ(オペラ座)
気候
パリ (1991–2020)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 16.1 (61) |
21.4 (70.5) |
25.7 (78.3) |
30.2 (86.4) |
34.8 (94.6) |
37.6 (99.7) |
42.6 (108.7) |
39.5 (103.1) |
36.2 (97.2) |
28.9 (84) |
21.6 (70.9) |
17.1 (62.8) |
42.6 (108.7) |
平均最高気温 °C (°F) | 7.9 (46.2) |
9.2 (48.6) |
13.3 (55.9) |
17.3 (63.1) |
20.8 (69.4) |
24.0 (75.2) |
26.4 (79.5) |
26.3 (79.3) |
22.1 (71.8) |
16.9 (62.4) |
11.5 (52.7) |
8.4 (47.1) |
17.0 (62.6) |
日平均気温 °C (°F) | 5.4 (41.7) |
6.0 (42.8) |
9.2 (48.6) |
12.2 (54) |
15.6 (60.1) |
18.8 (65.8) |
20.9 (69.6) |
20.8 (69.4) |
17.1 (62.8) |
13.1 (55.6) |
8.7 (47.7) |
5.9 (42.6) |
12.8 (55) |
平均最低気温 °C (°F) | 3.5 (38.3) |
3.5 (38.3) |
6.0 (42.8) |
8.2 (46.8) |
11.4 (52.5) |
14.4 (57.9) |
16.4 (61.5) |
16.4 (61.5) |
13.2 (55.8) |
10.3 (50.5) |
6.6 (43.9) |
4.0 (39.2) |
9.5 (49.1) |
最低気温記録 °C (°F) | −19.0 (−2.2) |
−6.8 (19.8) |
−9.1 (15.6) |
−3.5 (25.7) |
−0.1 (31.8) |
3.1 (37.6) |
6.0 (42.8) |
6.3 (43.3) |
1.8 (35.2) |
−3.1 (26.4) |
−14.0 (6.8) |
−23.9 (−11) |
−23.9 (−11) |
降水量 mm (inch) | 41.0 (1.614) |
36.1 (1.421) |
38.7 (1.524) |
41.9 (1.65) |
59.7 (2.35) |
44.1 (1.736) |
55.7 (2.193) |
52.1 (2.051) |
39.6 (1.559) |
48.9 (1.925) |
46.0 (1.811) |
51.9 (2.043) |
555.7 (21.877) |
出典:http://www.pogodaiklimat.ru/climate2/07156.htm |
地域
右岸
シャンゼリゼ通り︵8区︶ 凱旋門からテュイルリーまで続く、パリを代表する目抜き通り。パリの歴史軸を構成する。交差するモンテーニュ通りとジョルジュ=サンク通りとに区切られた三角地帯は俗にラグジュアリー関連の﹁ゴールデン・トライアングル﹂と呼ばれている。 サントノレ通り︵1区︶ 同通りからフォーブール=サントノレ通りに至る周辺界隈は、フランスのハイ・ブランドやラグジュアリーの本店が並ぶ、世界屈指の高級ブランド店街。ヴァンドーム広場、コンコルド広場、ルーヴル美術館、テュイルリー庭園に囲まれたパリ中心部の通り。8区内でシャンゼリゼ通りと並走するフォーブール=サントノレ通りに続いていく。 シテ島︵1区、4区︶ パリ発祥の地であり、ノートルダム大聖堂など歴史的建造物も多い。 パッシー︵16区︶ 高級住宅地。サン=ルイ島︵4区︶、アンヴァリッド︵7区︶が手狭なため、高級住宅地はパッシー、ヌイイ=シュル=セーヌとパリ西部に拡大していった歴史を持つ。 オペラ界隈︵2区、9区︶ デパートや高級洋服店、銀行などが立ち並び、日本料理店や日本の生活雑貨店が並ぶ日本人街でもある。実際の在仏日本人が比較的多く住むのは15区や16区など。﹁パリの日本人コミュニティ﹂も参照。 マレ︵3区、4区︶ 貴族の館が集中して残る地域であり、現在は裕福なユダヤ系住民が多く住む。美術館や画廊も多い。お洒落なゲイの集まる地域でもある。 バスティーユ︵4区、11区、12区の各境︶ フランス革命の発端となった場所として有名だが、今では若者が集まる歓楽街となっている。オペラ・バスティーユもある。 オベルカンフ︵11区︶ 同じく歓楽街だが、比較的新しい。テクノ音楽やゲームなど新しい文化を紹介する場として認識され、アニメ店なども複数見られる。 ピガール、ブランシュ︵18区︶ モンマルトルのふもとに位置する。高級キャバレー﹁ムーラン・ルージュ﹂があるが、その他は怪しげなキャバレーやいかがわしいセックス店が多く並ぶ性的歓楽街でもある。昔から猥雑な界隈であり、永井荷風の﹁ふらんす物語﹂にも描かれている。 モンマルトル︵18区︶ パリを見下ろす高台。パリ市に編入されたのは1860年以後だが、現在ではパリを代表する名観光地となっている。2001年のフランス映画﹃アメリ﹄の舞台にもなった。サクレ・クール寺院が一番の高台にそびえ、そこから西側へ行くにつれテルトル広場やムーラン・ド・ラ・ギャレットなど観光名所が多く並ぶ。寺院東側は観光地ではなくアフリカ系移民が多く暮らすシャトー・ルージュ地区。 ベルシー︵12区︶ 昔は倉庫街だったが今は再開発が進み、フランス財務省やベルシー公園、ワイン倉庫街を改造したレストラン街・商店街などが新しい観光地となっている。 ベルヴィル︵19区、20区︶ もともとはパリ郊外のコミューンだったが、1860年にパリに編入された。ピエ・ノワール︵コロン︶、東欧系南欧系ヨーロッパ人から始まり、現在ではアラブ系、アフリカ系、ユダヤ系︵労働者系︶、旧仏印出身者、中国系︵華僑︶に至るまで、おもに労働者系の多くの移民が暮らす地域である。安くて異国的なレストランなどが集中する。名前とは裏腹に雑多で庶民的な界隈であるが、近年ベルヴィル公園が整備され、再開発が進んでいる。エディット・ピアフの生地でもある。トルビヤック地区に次いで、1970年代以降パリ第2の中華街が形成されつつある。 バルベス︵18区︶ ベルヴィル、シャトー・ルージュと同じくアラブ系やアフリカ系の移民が多く暮らす。有名な安物服屋やアフリカ系商店街があり、人口密度も多く、駅前は常に混雑している。10区のパサージュ・ブラディ界隈はインド系・パキスタン系街。左岸
モンパルナス︵14区︶ 異様な雰囲気を残す左岸の地域。 サン=ジェルマン=デ=プレ︵6区︶ 歴史的地区であり、パリ高等美術学校に近いことから画廊も多い。サルトルら哲学者が集まった場所として有名な2軒の喫茶店がある。カルチエ・ラタンに隣接する。 カルチエ・ラタン︵5区、6区︶ ソルボンヌ大学をはじめ大学が集中しており、昔から学生街として有名。カルチエは﹁地区﹂、ラタンとは﹁ラテン語﹂のことであり、﹁ラテン語を話す、教養のある学生が集まる地区﹂という意味が語源。羅典区。 エッフェル塔とシャン・ド・マルス公園︵7区︶ パリを代表する観光名所としてあまりに有名。セーヌ川の観光船のうち有名な2つの船の発着点ともなっており、観光客が集中する。 トルビアック︵13区︶ いわゆる中華街だが実際はベトナム系が多く、中華・ベトナム料理店が並ぶ。昔はゴブラン織りで栄えたが、今は高層ビルが林立する再開発地域である。郊外
地形
河川
セーヌ川 パリ市内を横断する川であり、パリのセーヌ河岸は世界遺産に登録されている。パリではセーヌ川の北部を右岸︵Rive Droite︶、南部を左岸︵Rive Gauche︶という。パリ市中心部にある川中島であるシテ島は、パリ市発祥の地である。シテ島の東にもうひとつサン・ルイ島という島がある。セーヌ川は重要な運路であり、パリ市内では観光船のほか運搬船も多く行き来する。パリ市東部郊外のごく近い場所でセーヌ川とマルヌ川が合流し、ベルシーからパリに入り、途中サン・ルイ島とシテ島を抜け、アンヴァリッドのあたりで南西に折れ曲がり、そのまま15区と16区を抜けていく。パリを抜けたあとは蛇行を繰り返し、ノルマンディー地方を経て大西洋へと流れていく。パリ市内には多くの橋がかかっており、歴史やいわくのある橋も多い。詳細はセーヌ川の項を参照。運河
広場・公園
広場
公園・庭園
森林・緑地
四大墓地
人口
年 | 1801 | 1851 | 1881 | 1926 | 1999 | 2005 |
---|---|---|---|---|---|---|
人口 | 54万7800 | 105万3000 | 224万0000 | 287万1000 | 212万5946 | 215万4000 |
世帯構成
経済格差
移民
18区はマグリブや、最近はサブサハラ地域のアフリカからの移民が多い。フランスの国勢調査では法律上、民族や宗教の属性を問うことができないが、出身地の情報は得ることができる。1999年の国勢調査によると、パリ都市圏はヨーロッパでもっとも多民族化が進んでいる地域のひとつであり、人口の19.4パーセントがフランス本国外の出身である[14]。また、パリ都市圏の人口の4.2パーセントは1990年から1999年の間にフランスにやってきた新しい移民であり、その大半は中国またはアフリカ出身である[15]。さらにパリ都市圏の人口の15パーセントはイスラム教徒である。風景
歴史
古代
フランク王国
5世紀末にフランク族の王クローヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ︵カール大帝︶以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。 885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このとき、フランク王シャルル3世︵カール3世︶は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代わってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。カペー朝
西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁︵フィリップ・オーギュストの城壁︶も築かれ、その西に要塞︵のちにルーヴル宮殿に発展する︶が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心のひとつでもあり、11世紀ごろからパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学は特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場﹁レ・アル︵Les Halles︶﹂が作られたもこのころである。こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。 12世紀にはパリ水運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになる。 13世紀になると、ルイ9世によってサント・シャペルが建築されたほか、ノートルダム大聖堂も一応の完成を見る。パリは成長を続け、セーヌ左岸も再び人口を増やしていた。王たちは次第にヴァンセンヌ城を居城とするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。 14世紀初頭のパリの人口は約20万人と推定され、ヨーロッパ随一の都市であった。ヴァロワ朝
ブルボン朝
フランス革命
19世紀
20世紀以降
政治
行政
行政機構の変遷
行政区
行政的地位の変遷
この街の行政的地位は何度も変更されている。1871年3月26日から5月22日まで、パリには、蜂起勢力である代表制普通選挙による議会をともなうパリ・コミューンによる政府が置かれた。1870年に成立した第三共和政は、この出来事への恐怖心を持つ保守主義者たちによって運営されていた。彼らは、パリの行政権をセーヌ県知事︵préfet de la Seine︶に、パリの警察権を警視総監︵préfet de police︶にそれぞれ与えることを内容とする1884年4月5日法を制定した。他方、市町村選挙で議員が選出されるパリの議会は、毎年、主として代表者としての機能を有する﹁議長﹂を選出していた。すなわち、パリには市長がいなかった。また街の予算は、国の同意を得る必要があった。 1975年12月31日法︵1977年の市町村選挙の際に施行された︶は、109人の議員で構成される市議会かつ県議会であるパリの議会を創設し、議員によってパリ市長を選出することにした。区の委員会は、諮問と推進の役割を有していた。委員会の構成員は、選挙人・パリ市長・パリの議会によって選出された。警視総監は国家により任命され、警察権を行使する。 パリ・リヨン・マルセイユおよびコミューン間の協力による公共機関に関する1982年12月31日法が、パリには1983年の市町村選挙の際に施行され、163人の議員を選出することになったほか、特に予算に関する議会の権限が拡大し、委員会を廃して区議会が創設された。 2002年5月2日の2002-810号デクレ以降、行政警察権がパリ市長と警視総監に共有されることとなり、その実現のために、両者は互いの活動方法を相互に承認することとなった。承認手続に関しては、パリ議会が審議したうえ、毎年その予算および決算を承認する必要がある[26] (この予算は国家によって決められたものである︶。パリ市長はこれ以降、生活安全分野に関する限り、たとえ警視総監の手中にある権限に関するものであっても関与することになった。 パリの議会の活動は、パリ市が資本を保有する会社の仲介人やパリの混合経済会社︵SEM︶によっても実現される。他のコミューンとの連携の不存在
ほかの主要都市とは異なり、パリとその郊外のコミューンとの間、« 大パリ » 内には、固有の予算をともなうコミューン間の連携が存在しない。もっとも、パリとその郊外の県との間では、下水道組合︵SIAAP, Syndicat interdépartemental pour l’assainissement de l’agglomération parisienne︶の再編を行った。また、イル=ド=フランス交通組合︵STIF︶は、イル=ド=フランス地域圏の公共機関であり、パリとその郊外の総合的な交通網整備を行う組織である。 ほかの国際的な大都市と異なり、おおよそ環状のペリフェリックで区切られる中心市街のみを範囲とするパリの街については、その実際的な範囲を明確にする必要がある。上述各城壁の変遷で見るように歴史的かつ政治的な配慮が障害となって、« 大パリ » を管理する行政機関が存在しないことは、パリ都市圏の現在の主要な問題のひとつである[27]。 現在のパリの領域は、上述概要の項で指摘されているように日本の山手線内よりやや広い程度である。その市域の境界線は歴史的で時代錯誤な経緯の産物、あるいは現在はパリ都市圏に取り込まれ、消えてしまった地形に適合していたにすぎないものであるにもかかわらず、市域の内外を問わず、パリ都市圏の人々には共通の行政的需要ならびに経済的・社会的関心がある。ところが、各コミューンは行政的・税制的に独立しており、コミューンや県の枠を超えて存在する集団的需要︵交通や住宅など︶に関する組織については、都市圏規模のまとめ役となる機構が存在しない。イル=ド=フランス地域圏となると、地域の約80パーセントに農村部が残っており、パリ都市圏のための枠としては大き過ぎ、« 大パリ » たるパリ都市圏内の適切な連携に適っていない現状がある。市長
- 歴代市長
- | 氏名 | 就任 | 離任 | 政党 | 補記(他の資格 等) |
---|---|---|---|---|---|
- | ジャック・シラク | 1977年3月20日 | 1995年5月16日 | 共和国連合 | 国民議会議員 |
- | ジャン・チベリ | 1995年5月22日 | 2001年3月24日 | 共和国連合 | 国民議会議員 |
- | ベルトラン・ドラノエ | 2001年3月25日 | 2014年4月5日 | 社会党 | 元元老院議員 |
- | アンヌ・イダルゴ | 2014年4月5日 | 現職 | 社会党 | 初の女性パリ市長 |
財政
- 予算と税収
司法機関
司法裁判所系統
パリ大審裁判所がシテ島のパレ・ド・ジュスティス (パリ)に置かれている。この裁判所は、フランスの大部分の訴訟事件を取り扱う巨大司法機関である[31]。各区には小審裁判所が置かれている。 パリ商事裁判所は、やはりシテ島︵コルス河岸︶に置かれている。パリ違警罪裁判所は19区︵rue de Cambrai︶、パリ労働審判所は10区︵rue Louis-Blanc︶にそれぞれ置かれている。 パリのみを管轄する裁判所以外に、複数の県を管轄するパリ控訴院もパレ・ド・ジュスティスに置かれている。その管轄は、セーヌ=エ=マルヌ県、エソンヌ県、セーヌ=サン=ドニ県、ヴァル=ド=マルヌ県、ヨンヌ県である。パリ控訴院の管轄区域には、フランス全人口の12.6パーセントが暮らしている[32]。なお、ほかのイル=ド=フランス地域圏内の各県およびウール=エ=ロワール県は、ヴェルサイユ控訴院の管轄となる[33]。行政裁判所系統
パリは、4区所在のパリ地方行政裁判所の管轄に属する。控訴は、パリ行政控訴院に対して行うことになる︵ほかに、マタ・ウトゥ、ムラン、ヌーヴェル・カレドニー、フランス領ポリネシアの各地方行政裁判所からの控訴を受ける︶。最高裁判所及び憲法裁判所
パリ︵1区︶には、司法と行政それぞれの最高裁判所である破毀院と国務院︵コンセイユ・デタ︶ に加え、憲法評議会︵憲法院︶も置かれている。行刑施設
パリのいくつかの刑務所は今日でも有名である。 右岸のグラン・シャトレは、王の刑務所を内部に置き、その別館︵左岸のプティ・ポンにあるプティ・シャトレ︶とともに、14世紀から破壊される1782年まで投獄所および拘置場所とされていた。 コンシェルジュリー、バスティーユ牢獄、ヴァンセンヌ城の3つの刑務所は、歴史的なシンボルとなっている。コンシェルジュリーはパリの裁判所固有の刑務所であったが、フランス革命の間にマリー・アントワネットやほかのギロチン犠牲者を迎えたあとも、1914年まで拘置所として機能し続けた。バスティーユ牢獄は1370年から構築され、リシュリューが権力を振るっていたころに国の刑務所となった。 ヴァンセンヌ牢獄は、やはり1784年まで国会の刑務所であったが、その名の通りの投獄の場というよりもむしろ軟禁場所であり、第二帝政下までしばしばそのように使われていた。 1830年から1947年まで11区にロケット刑務所があったが、パリで唯一残存する刑務所︵兼拘置所︶は1867年に開設されたサンテ刑務所のみである。イル=ド=フランス地域圏の主要な刑務所兼拘置所︵Maison d'arrêt、メゾン・ダレ︶は、フレンヌ (ヴァル=ド=マルヌ県)とフルリー=メロジ︵エソンヌ県︶にある。ほかに、ポワシーにある困難受刑者が収容されるメゾン・サントラルがある。施設
警察
セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県と同様にパリ警視庁の管轄下にある。 イル=ド=フランス地域圏で犯される重罪および軽罪は、フランス全土での4分の1を占める。パリ市内、その外側の﹁小さな王冠﹂︵セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県︶、さらにその外側の﹁大きな王冠﹂は、それぞれイル=ド=フランス地域圏内の全認知件犯罪のおおむね3分の1ずつが発生している。パリでみられる犯罪類型としては窃盗が大部分で、全重罪および軽罪の3分の2を占める。2006年には、25万5,238件が認知され、犯罪発生率としては人口1,000人あたり118.58件であった。これは、全国平均61.03‰の約2倍であるが、大都市のみに限ってみれば平均的な数値である︵リヨン109.22件、リール118.93件、ニース119.52件、マルセイユ120.62件︶。女性被告人の割合は15パーセントを下回り︵全国平均をわずかに下回る程度︶、未成年の割合は11.02パーセント︵全国平均18.33パーセントを7ポイント下回る︶である。他方、外国人︵有効な滞在許可証を所持しフランスに住居を有する者︶の割合は、全国平均を上回る20.73パーセントである[34][35]。 パリでは、2008年の強姦事件数1,413件で発生率が0.6‰とフランス国内で2番目の高率であった[36]。身体的暴行に関しては、2万7,857件であった[37][38]。暴行を行うとの脅迫に関しては、2008年において、パリでは5,165件認知された[39]。2008年の財産犯︵窃盗、器物汚損、器物破壊︶に関して、ブーシュ=デュ=ローヌ県に次ぐ件数が認知された[40]。 パリの中央集権主義はまた、この街がテロの犠牲者であることをも物語る。よく知られるナポレオン1世に対するサン・ニケーズ街テロ事件や、最近では、RER B線サン=ミッシェル=ノートルダム駅での爆弾テロがある。パリの歴史はこれらの象徴的価値の高い事件が刻まれたものである。これらは、この街での日常生活にとって取るに足りないというものではない。特に、ヴィジピラート計画︵Plan Vigipirate︶[41]の実施により、観光地や首都の戦略的要衝地の近くに武装した警察、憲兵および兵士が警備しているのを目にすることになる[42]。医療・衛生
宗教施設
放送局
- テレビ局
- フランス・テレビジョン
- TF1
- Canal+(カナルプリュス)
- ラジオ局
娯楽施設
- ディズニーランド・パリ(1992年開業。パリ近郊マルヌ=ラ=ヴァレに立地)
運動施設
- ジャック・アンクティル自転車競技場(「ツール・ド・フランス」のゴール地点だったこともある自転車競技場)
- ローラン・ギャロス(グランドスラム(4大大会)の一つ「全仏オープン」が開催されるテニスコート)
- ベルシー・アレナ(バレーボール・バスケットボール・柔道・卓球・フィギュアスケートなどの屋内競技からライブ会場まで用いられる屋内の多目的アリーナ)
- スタッド・ド・フランス(陸上競技・サッカー・ラグビーからライブ会場まで用いられる多目的スタジアム)
- パルク・デ・プランス(プロサッカークラブ「パリ・サンジェルマン」の本拠地であるサッカースタジアム)
- スタッド・ジャン=ブーアン(プロラグビークラブ「スタッド・フランセ」の本拠地であるラグビースタジアム)
- パリロンシャン競馬場(世界的に著名な「凱旋門賞」が開催される)
- オートゥイユ競馬場
- ヴァンセンヌ競馬場
対外関係
姉妹都市・提携都市
- 姉妹都市
「ローマのみがパリにふさわしく、パリのみがローマにふさわしい」[47][48][49]
自治体名 | 国名 | 地域名 | 提携年月日 |
---|---|---|---|
ローマ | イタリア共和国 | ラツィオ州 ローマ県 | 1956年 |
- 友好都市
パリと呼称される世界の都市
ヨーロッパ的な街並みに対し、「○○のパリ」と異名がつけられている。特に移民や植民地などでフランス色が強い都市に多い。
- モントリオール - 「北米のパリ」(フランス系移民が多い)
- ケベック・シティー - 「北米のパリ」(フランス系移民が多い)
- ブエノスアイレス - 「南米のパリ」
- ホーチミン - 「東洋のパリ」(元フランスの植民地)
- プノンペン - 「東洋のパリ」(元フランスの植民地)
- 上海 - 「東洋のパリ」(フランス租界があった)
- ハルビン - 「東洋のパリ」(ヨーロッパ風の建物が数多く現存)
- 大連 - パリをモデルにした街づくりが為された
- イルクーツク - 「シベリアのパリ」
- ベイルート - 「中東のパリ」(元フランス委任統治領)
- ブカレスト - かつて「東欧の小パリ」と呼ばれた
- トロムソ -「北欧のパリ」
- コペンハーゲン -「北欧のパリ」
- トリノ - 「イタリアの小パリ」
日本との関係
経済
主要企業
各節とも日本語での五十音順。パリ近郊に本社及びそれに類する事業所等を置く企業も含める。
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教育・研究機関
高等教育
教育史
12世紀以降、パリはヨーロッパにおける知識の大集積地のひとつで、特に科学技術と哲学分野に秀でていた。フィリップ2世が大学の構成員に対して特権与えた西暦1200年はパリ大学の設立の年とされ、人々に象徴的に記憶されている。そこでは教育が行われた場所である寄宿舎︵寄宿学校︶が学部を構成した。ソルボンヌ寮の創設は1257年を起源とする。大学は、サント=ジュヌヴィエーヴの丘を中心として、カルチエ・ラタンに発展した。カルチエ・ラタンは、現在でも、パリ大学を含む高等教育機関の重要な中心地である。 18世紀以降、いくつかの専門職のために専門化された高等教育機関が創設され、現在のグランゼコールの起源となった。エコール・ポリテクニークおよび高等師範学校はともにフランス革命期に創設された。近代のパリ大学は、19世紀、法・医・薬・文・神・理の6学部に組織化された。20世紀、五月革命後には多くの学生が強く社会問題を考えたが、ソルボンヌはその震源地となった。その結果、パリ大学は、それぞれ専門分野を相対的に限定された13の個別の大学へと分割再編された。現在の状況
パリ市内は、現在も大学の中心地であり続けている。パリ第1からパリ第7までの各大学は再編されて左岸の3つの区︵5区、6区、13区︶に存在している。カルチエ・ラタンには、パリ・ソルボンヌ︵パリ第4︶大学、高等師範学校、コレージュ・ド・フランスといった歴史的施設が残り、重要な地位を今も保ち続けている。 また、ほかの高等教育機関もこの地区に存在する。パリ政治学院、パリ第1大学、パリ第2大学、ジュシュー・キャンパス︵Campus de Jussieu‥パリ第6大学とパリ地球物理研究所による複合研究施設︶、パリ第3大学、社会科学高等研究院、古文書学校、美術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学︵EPCI︶、応用美術研究所︵LISAA︶、パリ国立高等鉱業学校︵ENSMP︶、パリ高等化学学校︵Chimie ParisTech︶、生活工業・環境科学研究所︵AgroParisTech︶、パリ高等電子工学研究所︵ISEP︶、パリ企業経営学院︵IAE de Paris︶などである。なお、パリ第9大学、エコール・ポリテクニーク、エセック経済商科大学院大学などは、いずれも郊外に移転している。大学街は東部に広がり、かつて5区にあったパリ第7大学は、フランス国立図書館が移転した13区において、複数の大学施設を一般公開している。国立高等工芸学校が1912年からイタリア広場近くに迎え入れられている。 1960年代以降、バンリューに大学が作られ始めたが、その先鞭となったのは1964年にナンテールに作られたパリ第10大学である。同時期には複数のグランゼコールが、特に広大な敷地を求めて、同様にパリの中心部を去っている。パリの南にあるサクレー台地は重要な研究拠点となっている。その広大な大地には、パリ第9大学やグランゼコール︵HEC経営大学院は1964年、高等電子学校は1975年、エコール・ポリテクニークは1976年にそれぞれ移転してきた︶のほか、サクレー研究所などの公的研究所や民間の研究施設が多数存する。 パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブール︵家具修理︶、エコール・エティエンヌ︵グラフィック・アート。特に装丁︶が有名である。2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学である。園芸に関するものは、エコール・デュ・ブルーユである。初等・中等教育
交通
空路
空港
パリ=シャルル・ド・ゴール空港 パリ北部郊外のロワシーに位置し、TGVや在来線の駅とも直結している。エールフランス航空の本拠地かつハブ空港であり、日本へはエールフランス航空が成田空港に1日1便、羽田空港に1日2便、関西空港に1日1便の直行便を、日本航空が羽田空港に1日1便の直行便を運行するほか、他にも直行便や経由便が運航している。 オルリー空港 パリ南部オルリー市にある空港。かつてはもっとも主要な空港だったが、シャルル・ド・ゴール空港にその座を譲った。とはいえ現在も国際空港として機能しており、おもにヨーロッパ近隣諸国のほか、旧植民地のアフリカ・中近東方面の便が発着している。現在は政府専用機、自家用および商用機の発着に使われている。 ボーヴェ空港 パリより北に約80キロのボーヴェ市近くにある空港。ライアンエアーなどが使用している。 ル・ブルジェ空港 1919年開業。オルリー空港開港までの主要空港だった。アメリカ人のチャールズ・リンドバーグが世界初の大西洋無着陸横断飛行を行ったときに着陸したのがこの空港である。偶数年の7月に英国のファーンボロー空港で、奇数年はここで航空ショーが開催される。宇宙航空博物館がある。 ヘリポート 15区南部のセーヌ川沿い、ペリフェリック︵環状道路︶の外側に位置する。ヘリポートはパリ市内の敷地である。パリ市内上空は飛行禁止区域のため、ヘリコプターはパリ市の境界すれすれを飛ぶことが多い。鉄道
主要ターミナル駅
市内交通
道路
主要な一般道
シャンゼリゼ通り 凱旋門のあるエトワール広場とパリ中心部のコンコルド広場を結ぶ、パリでもっとも有名な目抜き通り。フランス一周自転車ロードレース﹁ツール・ド・フランス﹂はここが目的地となる。7月14日の革命記念日にはミリタリーパレードが行われる。 フォブール・サントノレ通り 有名ファッションブランドの洋服店などが並ぶ、パリ8区内をシャンゼリゼ通りと並行して走る通り。ロワイヤル通りを挟んでパリ1区内を走るサントノーレ通りと結ばれていく。 リヴォリ通り ルーヴル宮北側に沿って市内最中心部を横断する道路。 サンタントワーヌ通り リヴォリ通りとバスティーユを結ぶ、パリ中心部を横断する道路のひとつ。 フォブール・サンタントワーヌ通り バスティーユとナシオン広場を結ぶ通り。 クール・ド・ヴァンセンヌ通り ナシオンからパリ最東端ヴァンセンヌ門までを結ぶ目抜き通り。目抜きと言ってもシャンゼリゼ通りのようには栄えておらず市の外れではあるが、決して寂れてはおらずパリの東の玄関の品格を保った通りである。週2回、パリ最大規模の朝市が開かれる。 オペラ通り ガルニエ宮︵オペラ座︶から、コメディ・フランセーズやルーヴル宮に向かって伸びる通り。高級洋服店やホテルなどが立ち並ぶが、付近は日本人街でもある。 グラン・ブールヴァール 1860年のオスマン公によるパリ大改造で生まれたブールバールのうち、メトロ8番と9番が走る9区 - 10区の南部沿いの通り、および3区 - 4区の東部沿いの通りを指す。 サンジェルマン大通り サンジェルマン・デ・プレからカルチエ・ラタンを通る、左岸の代表的な通り。 ムフタール通り パリ5区にある道路であり、多くのレストランや市場などが立ち並んでいる。主な車輛専用道
ヴォワ・エクスプレス セーヌ河岸沿いの一部は、パリを横断する一方通行専用の高速バイパス道路﹁ヴォワ・ジョルジュ=ポンピドゥー﹂︵fr︶となっている。なお、日曜日の昼間時には歩行者・自転車用に開放され、自動車の通行ができなくなる。 ブルヴァール・デ・マレショー パリ市内最外周部を囲んで走る道路のうち、一般道をまとめてこう呼ぶ。ティエールの城壁の後に作られたブルヴァール。ペリフェリックより少し内側に位置する。 ペリフェリック パリ市内最外周部を囲んでいる環状高速道路で、現在はこれがパリ市の境界となっている︵ブローニュの森、ヴァンセンヌの森など一部の区間を除く。これらの区間は地下化されている︶。観光
パリは世界屈指の観光都市である[注 3]。 ﹁芸術の都﹂などのイメージを前面に出す戦略をとっている。 おもな集客装置は、歴史的な建造物の数々︵世界遺産﹁パリのセーヌ河岸﹂に入っている建物など︶、数々の美術館に収められた著名な美術品、有名料理店で提供されるフランス料理、高級銘柄を扱う店舗などである。 建造物は、中世以前のものも残るが、第三共和政期のパリ改造やベル・エポックの建造物、あるいはフランス革命200周年期のグラン・プロジェの建造物など、各時代の世界の最先端のものが多い。美術館には、フランスで活躍した著名な芸術家の美術品の他、戦利品や購買によって収集された世界一級の収蔵物が並ぶ。 →#主な観光名所主な観光名所
- 建造物
- 凱旋門
- エッフェル塔
- エリゼ宮
- ガルニエ宮(オペラ座)
- アンヴァリッド(廃兵院)
- ノートルダム大聖堂
- パレ・ド・ジュスティス
- オペラ・バスティーユ
- ポンピドゥー・センター
- サクレ・クール寺院
- マドレーヌ寺院
- パンテオン
- シャイヨ宮
- 美術館
- その他
- 劇場・劇団・コンサートホール・楽団
- オデオン座
- オペラ=コミック座
- オペラ・ガルニエ(日本で「オペラ座」と呼ぶのはこちら)
- オペラ・バスティーユ
- オランピア劇場
- ゲテ・モンパルナス劇場
- コメディ・フランセーズ
- サル・ガボー
- ヴィユ・コロンビエ劇場
- シテ・ドゥ・ラ・ミュジーク
- シャイヨー国立劇場
- シャトレ座
- シャンゼリゼ劇場
- パリ市立劇場
- ボビノ劇場
- マデレーン座
- モガドール劇場
- ユシット座
- ラ・シガール
- ラ・スプレンディド
- サル・プレイエル
- パリ管弦楽団
文化・名物
「芸術の都」という異名が言い表すように、パリは美術・音楽・演劇・バレエ・食文化・ファッションなど、さまざまな芸術の世界的な中心地として名を馳せている。1989年には欧州文化首都に選ばれた。
美術
演劇
世界で一番歴史の長い劇団、1680年創設のコメディ・フランセーズがあり、同名の劇場でその舞台を観ることができる。バレエ
パリには1661年に王立舞踏アカデミーとして創設された世界最古のバレエ団﹁パリ国立オペラ﹂があり、旧オペラ座のガルニエ宮や新オペラ座のオペラ・バスティーユでその公演を観ることができる。音楽
パリは音楽都市のひとつである。シャンソンを聞かせるライブハウスがいくつもある。 パリには管弦楽団が多数あり、コンサートが頻繁に行われている︵一時期は世界一流のレベルだったが近年はいくらか厳しい評価も聞かれる︶。 毎年夏至の日6月21日にはFête de la musique︵音楽祭︶がフランス全土で開かれ、パリでもさまざまな場所で、ジャズやブルースなども含めてさまざまなジャンルの音楽の演奏が行われる。 パリ国立高等音楽・舞踊学校︵コンセルヴァトワール・ドゥ・パリ︶をはじめ、エコールノルマル音楽院、スコラ・カントルムなどがあり、世界から才能のある若者が一流のバレエや音楽を学びにやってくる。食文化
パリはガストロノミー︵食によるおもてなし、食文化、一流の料理作り︶の中心地でもあり、有名なレストランがいくつもあり︵ギッド・ミシュランでは三ツ星が例年10店前後︶、世界で最高レベルのシェフの料理を堪能することができる。またフランス料理を習得しようと若い料理人たちがそれら有名店で修行に励んでいる。料理競技会も開催されている。文化史
16世紀前半の神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス国王フランソワ1世の生涯の宿敵でありながら、フランス文化を、それ以上にパリの文化をこよなく愛し、18世紀の啓蒙時代には、プロイセン王国中興の祖であるフリードリヒ2世はヴォルテールと交流しパリから招き、また、ロシア帝国女帝エカチェリーナ2世はヴォルテールやドニ・ディドロと交流し、ディドロをパリから呼び寄せた。スポーツ
自転車ロードレース
自転車ロードレースのツール・ド・フランスは毎年7月に開催されている。1975年以来シャンゼリゼ通りがゴール地点に設定されている。10月上旬にはパリ〜ツールも実施されている。サッカー
ラグビー
ラグビーのトップリーグトップ14所属のスタッド・フランセ・パリが本拠地にしている。同様にトップ14所属の強豪ラシン92は、パリ近郊ラ・デファンスを本拠地にしている。オリンピック
パリでは過去に、1900年パリオリンピックと1924年パリオリンピックが行われている。そして2024年パリオリンピックも予定されており、開催されれば100年ぶり3度目の夏季オリンピックとなる。なお、フランスでの五輪開催としては1992年アルベールビルオリンピック以来、32年ぶり6度目のことである。著名な出身者
脚注
注釈
出典
関連項目
催事
出来事
化学
舞台とした作品
外部リンク
- 公式
- パリ市公式サイト (フランス語)(英語):Paris.fr, site officiel de la Ville de Paris
- 日本政府
- 在フランス日本国大使館- Ambassade du Japon en France (日本語)
- 観光
- ウィキトラベルには、パリに関する旅行ガイドがあります。
- パリ観光局 (日本語):Paris tourist office - Official website
- フランス観光開発機構 - パリ:(日本語)フランス旅行のアイディアを発信する公式サイト - France.fr
- その他
- 『パリ』 - コトバンク