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昭和の即位の礼と上奏について
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| 退任日7 = 1929年

| 退任日7 = 1929年

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[[File:Giichi Tanaka wearing Sokutai.jpg|thumb|200px|[[束帯]]を着用した田中]]

[[File:Giichi Tanaka wearing Sokutai.jpg|thumb|200px|[[即位の礼#昭和の即位の礼|昭和の即位の礼]]に際して[[束帯]]を着用した田中]]

'''田中 義一'''(たなか ぎいち、[[1864年]][[7月25日]]〈[[元治]]元年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]〉 - [[1929年]]〈[[昭和]]4年〉[[9月29日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。階級は[[陸軍大将]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。[[金鵄勲章|功級]]は[[金鵄勲章|功三級]]。[[爵位]]は[[男爵]]。

'''田中 義一'''(たなか ぎいち、[[1864年]][[7月25日]]〈[[元治]]元年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]〉 - [[1929年]]〈[[昭和]]4年〉[[9月29日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。階級は[[陸軍大将]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。[[金鵄勲章|功級]]は[[金鵄勲章|功三級]]。[[爵位]]は[[男爵]]。



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以上のように田中は軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたが、天皇に対してもその旨を奏上していた。にもかかわらず、事件から一年もかけたのちの1929年(昭和4年)6月27日に田中は最終報告として「関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった」旨を[[昭和天皇]](以下「天皇」)に奏上した。真相追及や厳正な処分に陸軍の反発や日本の恥をさらすとして反対する閣僚がいたためと思われる<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=昭和史の謎を追う |date=1999-12-10 |publisher=文藝春秋 |pages=50-57 |author=秦郁彦 |volume=上}}</ref><ref name=gotou/>。この報告に天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」<ref name=harada/>と田中を直接詰問した。なお、田中は自分の行為を「奏聞」「上聞」(天皇に経緯を報告する)と捉えていたようだが、天皇は「上奏」(天皇に処理を進言し裁可を求める)と捉えていたようである<ref name=gotou>後藤致人『内奏』、109-114</ref>。このあと奥に入った天皇は、同年に就任したばかりの[[鈴木貫太郎]][[侍従]]長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」<ref name=harada>原田熊雄著『西園寺公と政局 第一巻』岩波書店、1950年。</ref>{{要ページ番号|date=2023年7月17日 (月) 03:01 (UTC)}}との旨を述べた。これを鈴木が田中に伝えたところ、田中は諦め、その足で元老を訪れ、[[内閣総辞職]]の決意を伝えた<ref>{{Cite book|和書 |title=昭和史の謎を追う |year=1999-12-10 |publisher=文藝春秋 |pages=56-57 |volume=上4 |author=秦郁彦}}</ref>。7月2日に[[内閣総辞職]]。

以上のように田中は軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたが、天皇に対してもその旨を奏上していた。にもかかわらず、事件から一年もかけたのちの1929年(昭和4年)6月27日に田中は最終報告として「関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった」旨を[[昭和天皇]](以下「天皇」)に奏上した。真相追及や厳正な処分に陸軍の反発や日本の恥をさらすとして反対する閣僚がいたためと思われる<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=昭和史の謎を追う |date=1999-12-10 |publisher=文藝春秋 |pages=50-57 |author=秦郁彦 |volume=上}}</ref><ref name=gotou/>。この報告に天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」<ref name=harada/>と田中を直接詰問した。なお、田中は自分の行為を「奏聞」「上聞」(天皇に経緯を報告する)と捉えていたようだが、天皇は「[[上奏]]」(天皇に処理を進言し裁可を求める)と捉えていたようである<ref name=gotou>後藤致人『内奏』、109-114</ref>。このあと奥に入った天皇は、同年に就任したばかりの[[鈴木貫太郎]][[侍従]]長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」<ref name=harada>原田熊雄著『西園寺公と政局 第一巻』岩波書店、1950年。</ref>{{要ページ番号|date=2023年7月17日 (月) 03:01 (UTC)}}との旨を述べた。これを鈴木が田中に伝えたところ、田中は諦め、その足で元老を訪れ、[[内閣総辞職]]の決意を伝えた<ref>{{Cite book|和書 |title=昭和史の謎を追う |year=1999-12-10 |publisher=文藝春秋 |pages=56-57 |volume=上4 |author=秦郁彦}}</ref>。7月2日に[[内閣総辞職]]。



通説では天皇が怒ったため、田中は辞職を決意したとされている<ref name=":0" />。なぜ、これほど天皇が怒ったかについて釈然としない印象を持つ者も多く、秦郁彦は、日本軍人の関与の証拠はなく、他の犯人の証拠もないとしながら、河本を適当な理由で行政処分に付するといった、田中の上奏文の訳の分からなさを取り上げて、天皇の怒りを買ったのだろうとしている<ref name=":0" />。その上で、通説が定着したのは、[[鈴木貫太郎]]から子息の鈴木一がまた聞きして『天皇さまのサイン』に話を紹介し、それが天皇があの時は自分も若かったからと自ら反省したと、俗っぽく解釈されるようになったからとしている<ref name=":0" />。一方で、秦は、国会での政敵からの追及の他、関係者の厳正な処分の断念に至るまでに田中が陸軍で孤立していったことも紹介している<ref name=":0" />。通説が語るような内閣総辞職の経緯は、例えば『昭和天皇独白録』にも述べられているが、この著述は天皇の開戦責任が問題になりかねない終戦直後の時期に天皇の自己弁護のために纏められた性質を多分に持ち、この事件を「このとき内閣が総辞職したため、以降、天皇は立憲君主制の枠組みに従い、不本意であっても内閣の上奏をそのまま裁可することにした」という結論につなげる理由にしており、しばしば、そのおおもとが、天皇の戦争責任を否定しようとする側の者からの主張である点に注意を要する<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/af5af6a925e9ef8df5283addd05ef526f3aa3440 |title=『拝謁記』の張作霖爆殺事件における昭和天皇発言と定説との違い(坂東太郎) |access-date=2023-11-27 |publisher=Yahoo! |website=Yahoo!ニュース}}</ref>。

通説では天皇が怒ったため、田中は辞職を決意したとされている<ref name=":0" />。なぜ、これほど天皇が怒ったかについて釈然としない印象を持つ者も多く、秦郁彦は、日本軍人の関与の証拠はなく、他の犯人の証拠もないとしながら、河本を適当な理由で行政処分に付するといった、田中の上奏文の訳の分からなさを取り上げて、天皇の怒りを買ったのだろうとしている<ref name=":0" />。その上で、通説が定着したのは、[[鈴木貫太郎]]から子息の鈴木一がまた聞きして『天皇さまのサイン』に話を紹介し、それが天皇があの時は自分も若かったからと自ら反省したと、俗っぽく解釈されるようになったからとしている<ref name=":0" />。一方で、秦は、国会での政敵からの追及の他、関係者の厳正な処分の断念に至るまでに田中が陸軍で孤立していったことも紹介している<ref name=":0" />。通説が語るような内閣総辞職の経緯は、例えば『昭和天皇独白録』にも述べられているが、この著述は天皇の開戦責任が問題になりかねない終戦直後の時期に天皇の自己弁護のために纏められた性質を多分に持ち、この事件を「このとき内閣が総辞職したため、以降、天皇は立憲君主制の枠組みに従い、不本意であっても内閣の上奏をそのまま裁可することにした」という結論につなげる理由にしており、しばしば、そのおおもとが、天皇の戦争責任を否定しようとする側の者からの主張である点に注意を要する<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/af5af6a925e9ef8df5283addd05ef526f3aa3440 |title=『拝謁記』の張作霖爆殺事件における昭和天皇発言と定説との違い(坂東太郎) |access-date=2023-11-27 |publisher=Yahoo! |website=Yahoo!ニュース}}</ref>。


2024年5月15日 (水) 10:25時点における版

日本における郵船商船規則の旗 日本政治家

田中 義一

たなか ぎいち

勅任式で大礼服を着る田中

生年月日 元治元年6月22日
1864年7月25日
出生地 日本における郵船商船規則の旗 日本 長門国阿武郡
(現:山口県萩市
没年月日 (1929-09-29) 1929年9月29日(65歳没)
死没地 日本における郵船商船規則の旗 日本 東京府
出身校 陸軍大学校卒業
前職 軍事参議官
所属政党 立憲政友会
称号 陸軍大将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
功三級金鵄勲章
男爵
配偶者 田中壽天
子女 田中龍夫(長男)
親族 小澤太郎(娘婿)
小澤克介(孫)
サイン

日本の旗 第26代 内閣総理大臣
第39代 外務大臣(総理兼任)

内閣 田中内閣
在任期間 1927年4月20日 - 1929年7月2日
天皇 昭和天皇

日本の旗 初代 拓務大臣(総理兼任)

内閣 田中内閣
在任期間 1929年6月10日 - 1929年7月2日 

日本の旗 第39代 内務大臣(総理兼任)

内閣 田中内閣
在任期間 1928年5月4日 - 1928年5月23日

日本の旗 第14・16代 陸軍大臣

内閣 原内閣
第2次山本内閣
在任期間 1918年9月20日 - 1921年6月9日
1923年9月2日 - 1924年1月7日

その他の職歴

日本の旗 貴族院議員
1926年1月29日 - 1929年9月29日)
日本の旗 第5代 立憲政友会総裁
1925年 - 1929年)
テンプレートを表示
昭和の即位の礼に際して束帯を着用した田中

  1864725︿622 - 1929︿4929

264245


6221864725[]

1320


88

調

190639[1]

191043

191542調

19187西

19211069


19241321退

退

19251447退[2]5410[3]

300調19261227調[4][ 1]

西退2192615128[5]

3

2

16


内閣総理大臣就任


1927231

417420






  

  

  



  

  

  



  



  

  


3

調調[ 2]


1928321[6] 3


64 68[7][8]

[9][9][9]

19294627[10][11][12][11][12][][13]72

[10][10][10][10][14]
内閣総理大臣の辞職願

総辞職後


退319294928

296[ 3]65

[ 4]




?調



使

[16]


 - 


 - 1929

 - 1874-193718931000[17]
 - 12

 - [17]

 - 1898-? [17]
 - 

 - 婿
 - 

 - 

 - 

 - 

 - 

 - 




1886191127 - [18][19]

189225127 - [18][20]

189528314 - [18][21]

190033430 - [18][22]

1904371024 - [18][23]

1907401227 - [18][24]

191144210 - [18][25]

191541020 - [18][26]

191871010 - [18][27]

192091020 - [18][28]

192413215 - [18][29]

192514515 - [30]

19294929 - [31]



1895281118 - [32]

1901341130 - [33]

19063541 - [34]

191281 - [35]

191541110 - [36]

19187929 - [37]

1920997 - [38][39]

19211071 - 調[40]

19294929 - [31][41]



19143918 - [42]

19187328 - [43]

19272105 - [44]

19294729 - [45]

19294928 - [31]


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 191110:40064383 
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調 ︿3320187ISBN 9784829507414 NCID BB26773228:23092799 




1977TBS

1979TBS

 2015NHK

注釈



(一)^ 300退

(二)^ 

(三)^  1955[15]

(四)^ 19957

出典



(一)^ 20102 67 (3) 

(二)^ 退192548 7 14-15pp.386-387  1994

(三)^ 1925410 7 14-15p.387  1994

(四)^ 12281 -3p380-381   1994

(五)^ 2010315

(六)^ 3211 -3p381   1994

(七)^ 3691 -3p381   1994

(八)^ 36121 -3p381   1994

(九)^ abc 192945201 

(十)^ abcde 1999121050-57 

(11)^ ab109-114

(12)^ ab西 1950

(13)^  41999121056-57 

(14)^ . Yahoo!.  Yahoo!. 20231127

(15)^  3︿197882580-81 

(16)^ . (2018527). 202186

(17)^ abc , 2017/07/25

(18)^ abcdefghijk  Ref.A11113507600 

(19)^ 10341886129

(20)^ 25711892128

(21)^ 35101895315

(22)^ 5046190051

(23)^ 640119041029

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(25)^ 82901911213

(26)^ 96719151021

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(29)^ 34431924218

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(31)^ abc8281929101

(32)^ 38621896516

(33)^ 55251901122

(34)^  

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(36)^ 131019161213

(37)^ 18501918102

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(39)^ 29031922410

(40)^ 28581922214

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(42)^ 6441914922

(43)^ 16951918330

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(45)^ 777192981


.   (1929618). 2018826

.  1 (1937824). 2018826

.   (193929). 2018826

1939 1480 - 


1957 - 1960 2006

1997 ISBN 4642036660

20096 ISBN 978-4829504536

調2018






寿







公職
先代
若槻禮次郎
日本の旗 内閣総理大臣
第26代:1927年4月20日 - 1929年7月2日
次代
濱口雄幸
先代
大島健一
山梨半造
日本の旗 陸軍大臣
第26代:1918年9月20日 - 1921年6月9日
第30代:1923年9月2日 - 1924年1月7日
次代
山梨半造
宇垣一成
先代
幣原喜重郎
日本の旗 外務大臣
第42代:1927年4月20日 - 1929年7月2日
次代
幣原喜重郎
先代
鈴木喜三郎
日本の旗 内務大臣
第45代:1928年5月4日 - 同年5月23日
次代
望月圭介
先代
創設
日本の旗 拓務大臣
初代:1929年6月10日 - 7月2日
次代
松田源治
党職
先代
高橋是清
立憲政友会総裁
第5代 : 1925年 - 1929年
次代
犬養毅
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
田中(義一)家初代
1920年 - 1929年
次代
田中龍夫