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昭和の即位の礼と上奏について |
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'''田中 義一'''(たなか ぎいち、[[1864年]][[7月25日]]〈[[元治]]元年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]〉 - [[1929年]]〈[[昭和]]4年〉[[9月29日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。階級は[[陸軍大将]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。[[金鵄勲章|功級]]は[[金鵄勲章|功三級]]。[[爵位]]は[[男爵]]。 |
'''田中 義一'''(たなか ぎいち、[[1864年]][[7月25日]]〈[[元治]]元年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]〉 - [[1929年]]〈[[昭和]]4年〉[[9月29日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。階級は[[陸軍大将]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。[[金鵄勲章|功級]]は[[金鵄勲章|功三級]]。[[爵位]]は[[男爵]]。 |
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以上のように田中は軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたが、天皇に対してもその旨を奏上していた。にもかかわらず、事件から一年もかけたのちの1929年(昭和4年)6月27日に田中は最終報告として「関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった」旨を[[昭和天皇]](以下「天皇」)に奏上した。真相追及や厳正な処分に陸軍の反発や日本の恥をさらすとして反対する閣僚がいたためと思われる<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=昭和史の謎を追う |date=1999-12-10 |publisher=文藝春秋 |pages=50-57 |author=秦郁彦 |volume=上}}</ref><ref name=gotou/>。この報告に天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」<ref name=harada/>と田中を直接詰問した。なお、田中は自分の行為を「奏聞」「上聞」(天皇に経緯を報告する)と捉えていたようだが、天皇は「上奏」(天皇に処理を進言し裁可を求める)と捉えていたようである<ref name=gotou>後藤致人『内奏』、109-114</ref>。このあと奥に入った天皇は、同年に就任したばかりの[[鈴木貫太郎]][[侍従]]長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」<ref name=harada>原田熊雄著『西園寺公と政局 第一巻』岩波書店、1950年。</ref>{{要ページ番号|date=2023年7月17日 (月) 03:01 (UTC)}}との旨を述べた。これを鈴木が田中に伝えたところ、田中は諦め、その足で元老を訪れ、[[内閣総辞職]]の決意を伝えた<ref>{{Cite book|和書 |title=昭和史の謎を追う |year=1999-12-10 |publisher=文藝春秋 |pages=56-57 |volume=上4 |author=秦郁彦}}</ref>。7月2日に[[内閣総辞職]]。 |
以上のように田中は軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたが、天皇に対してもその旨を奏上していた。にもかかわらず、事件から一年もかけたのちの1929年(昭和4年)6月27日に田中は最終報告として「関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった」旨を[[昭和天皇]](以下「天皇」)に奏上した。真相追及や厳正な処分に陸軍の反発や日本の恥をさらすとして反対する閣僚がいたためと思われる<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=昭和史の謎を追う |date=1999-12-10 |publisher=文藝春秋 |pages=50-57 |author=秦郁彦 |volume=上}}</ref><ref name=gotou/>。この報告に天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」<ref name=harada/>と田中を直接詰問した。なお、田中は自分の行為を「奏聞」「上聞」(天皇に経緯を報告する)と捉えていたようだが、天皇は「[[上奏]]」(天皇に処理を進言し裁可を求める)と捉えていたようである<ref name=gotou>後藤致人『内奏』、109-114</ref>。このあと奥に入った天皇は、同年に就任したばかりの[[鈴木貫太郎]][[侍従]]長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」<ref name=harada>原田熊雄著『西園寺公と政局 第一巻』岩波書店、1950年。</ref>{{要ページ番号|date=2023年7月17日 (月) 03:01 (UTC)}}との旨を述べた。これを鈴木が田中に伝えたところ、田中は諦め、その足で元老を訪れ、[[内閣総辞職]]の決意を伝えた<ref>{{Cite book|和書 |title=昭和史の謎を追う |year=1999-12-10 |publisher=文藝春秋 |pages=56-57 |volume=上4 |author=秦郁彦}}</ref>。7月2日に[[内閣総辞職]]。 |
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通説では天皇が怒ったため、田中は辞職を決意したとされている<ref name=":0" />。なぜ、これほど天皇が怒ったかについて釈然としない印象を持つ者も多く、秦郁彦は、日本軍人の関与の証拠はなく、他の犯人の証拠もないとしながら、河本を適当な理由で行政処分に付するといった、田中の上奏文の訳の分からなさを取り上げて、天皇の怒りを買ったのだろうとしている<ref name=":0" />。その上で、通説が定着したのは、[[鈴木貫太郎]]から子息の鈴木一がまた聞きして『天皇さまのサイン』に話を紹介し、それが天皇があの時は自分も若かったからと自ら反省したと、俗っぽく解釈されるようになったからとしている<ref name=":0" />。一方で、秦は、国会での政敵からの追及の他、関係者の厳正な処分の断念に至るまでに田中が陸軍で孤立していったことも紹介している<ref name=":0" />。通説が語るような内閣総辞職の経緯は、例えば『昭和天皇独白録』にも述べられているが、この著述は天皇の開戦責任が問題になりかねない終戦直後の時期に天皇の自己弁護のために纏められた性質を多分に持ち、この事件を「このとき内閣が総辞職したため、以降、天皇は立憲君主制の枠組みに従い、不本意であっても内閣の上奏をそのまま裁可することにした」という結論につなげる理由にしており、しばしば、そのおおもとが、天皇の戦争責任を否定しようとする側の者からの主張である点に注意を要する<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/af5af6a925e9ef8df5283addd05ef526f3aa3440 |title=『拝謁記』の張作霖爆殺事件における昭和天皇発言と定説との違い(坂東太郎) |access-date=2023-11-27 |publisher=Yahoo! |website=Yahoo!ニュース}}</ref>。 |
通説では天皇が怒ったため、田中は辞職を決意したとされている<ref name=":0" />。なぜ、これほど天皇が怒ったかについて釈然としない印象を持つ者も多く、秦郁彦は、日本軍人の関与の証拠はなく、他の犯人の証拠もないとしながら、河本を適当な理由で行政処分に付するといった、田中の上奏文の訳の分からなさを取り上げて、天皇の怒りを買ったのだろうとしている<ref name=":0" />。その上で、通説が定着したのは、[[鈴木貫太郎]]から子息の鈴木一がまた聞きして『天皇さまのサイン』に話を紹介し、それが天皇があの時は自分も若かったからと自ら反省したと、俗っぽく解釈されるようになったからとしている<ref name=":0" />。一方で、秦は、国会での政敵からの追及の他、関係者の厳正な処分の断念に至るまでに田中が陸軍で孤立していったことも紹介している<ref name=":0" />。通説が語るような内閣総辞職の経緯は、例えば『昭和天皇独白録』にも述べられているが、この著述は天皇の開戦責任が問題になりかねない終戦直後の時期に天皇の自己弁護のために纏められた性質を多分に持ち、この事件を「このとき内閣が総辞職したため、以降、天皇は立憲君主制の枠組みに従い、不本意であっても内閣の上奏をそのまま裁可することにした」という結論につなげる理由にしており、しばしば、そのおおもとが、天皇の戦争責任を否定しようとする側の者からの主張である点に注意を要する<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/af5af6a925e9ef8df5283addd05ef526f3aa3440 |title=『拝謁記』の張作霖爆殺事件における昭和天皇発言と定説との違い(坂東太郎) |access-date=2023-11-27 |publisher=Yahoo! |website=Yahoo!ニュース}}</ref>。 |
2024年5月15日 (水) 10:25時点における版
田中 義一 たなか ぎいち | |
---|---|
勅任式で大礼服を着る田中 | |
生年月日 |
元治元年6月22日 (1864年7月25日) |
出生地 |
日本 長門国阿武郡萩 (現:山口県萩市) |
没年月日 | 1929年9月29日(65歳没) |
死没地 | 日本 東京府 |
出身校 | 陸軍大学校卒業 |
前職 | 軍事参議官 |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 |
陸軍大将 正二位 勲一等旭日桐花大綬章 功三級金鵄勲章 男爵 |
配偶者 | 田中壽天 |
子女 | 田中龍夫(長男) |
親族 |
小澤太郎(娘婿) 小澤克介(孫) |
サイン | |
内閣 | 田中内閣 |
在任期間 | 1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
天皇 | 昭和天皇 |
初代 拓務大臣(総理兼任) | |
内閣 | 田中内閣 |
在任期間 | 1929年6月10日 - 1929年7月2日 |
第39代 内務大臣(総理兼任) | |
内閣 | 田中内閣 |
在任期間 | 1928年5月4日 - 1928年5月23日 |
第14・16代 陸軍大臣 | |
内閣 |
原内閣 第2次山本内閣 |
在任期間 |
1918年9月20日 - 1921年6月9日 1923年9月2日 - 1924年1月7日 |
その他の職歴 | |
貴族院議員 (1926年1月29日 - 1929年9月29日) | |
第5代 立憲政友会総裁 (1925年 - 1929年) |
生涯
生い立ち
元治元年6月22日︵1864年7月25日︶、萩藩士・田中信祐、みよの三男として、長門国阿武郡萩︵現‥山口県萩市︶にうまれた。父は藩主の御六尺︵駕籠かき︶をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという[要出典]。 13歳で萩の乱に参加。若いころは村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入る。軍人として
政党政治家へ
内閣総理大臣就任
積極外交
普通選挙
1928年︵昭和3年︶2月に第1回普通選挙が行われた。田中は主張を全国に知らしめるため、首相ならびに政友会総裁としての抱負をレコードに吹き込み[6]、全国の関係者に配布した。 また、同時期、社会主義的な活動が目だったことから、同年3月に全国の社会主義者、共産主義者を一斉に検挙した︵三・一五事件︶。この選挙後に、人事のもつれから辞意を表明した閣僚を昭和天皇に慰留させ、天皇を政局に利用したと批判され︵水野文相優諚問題︶、貴族院は異例の田中首相問責決議を可決した。張作霖爆殺事件
同年6月4日に起きた張作霖爆殺事件に際して、帝国の国際的な信用を保つためにも容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。 なお、この直後の6月8日、田中は上野駅で暴漢に短刀で襲撃されるも無事[7]。犯人と張作霖爆殺事件との関連性はなかった[8]。 このことを野党に批判され、立憲民政党の中野正剛は﹁尼港事件の際に田中が﹁断じて臣節を全うす﹂と称して陸軍大臣の職を辞したことは国務大臣として責を負うた適例であったが、済南事件の責任を福田司令官に帰し、満洲事件を村岡司令官に帰したことは厚顔無恥である﹂とした[9]。この批判に対して田中は﹁この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ﹂と反論豪語したが[9]、中野は﹁政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の国軍は何百万人居っても足らないこととなる﹂とさらに糾弾した[9]。 以上のように田中は軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたが、天皇に対してもその旨を奏上していた。にもかかわらず、事件から一年もかけたのちの1929年︵昭和4年︶6月27日に田中は最終報告として﹁関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった﹂旨を昭和天皇︵以下﹁天皇﹂︶に奏上した。真相追及や厳正な処分に陸軍の反発や日本の恥をさらすとして反対する閣僚がいたためと思われる[10][11]。この報告に天皇は﹁お前の最初に言ったことと違うじゃないか﹂[12]と田中を直接詰問した。なお、田中は自分の行為を﹁奏聞﹂﹁上聞﹂︵天皇に経緯を報告する︶と捉えていたようだが、天皇は﹁上奏﹂︵天皇に処理を進言し裁可を求める︶と捉えていたようである[11]。このあと奥に入った天皇は、同年に就任したばかりの鈴木貫太郎侍従長に対して、﹁田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ﹂[12][要ページ番号]との旨を述べた。これを鈴木が田中に伝えたところ、田中は諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職の決意を伝えた[13]。7月2日に内閣総辞職。 通説では天皇が怒ったため、田中は辞職を決意したとされている[10]。なぜ、これほど天皇が怒ったかについて釈然としない印象を持つ者も多く、秦郁彦は、日本軍人の関与の証拠はなく、他の犯人の証拠もないとしながら、河本を適当な理由で行政処分に付するといった、田中の上奏文の訳の分からなさを取り上げて、天皇の怒りを買ったのだろうとしている[10]。その上で、通説が定着したのは、鈴木貫太郎から子息の鈴木一がまた聞きして﹃天皇さまのサイン﹄に話を紹介し、それが天皇があの時は自分も若かったからと自ら反省したと、俗っぽく解釈されるようになったからとしている[10]。一方で、秦は、国会での政敵からの追及の他、関係者の厳正な処分の断念に至るまでに田中が陸軍で孤立していったことも紹介している[10]。通説が語るような内閣総辞職の経緯は、例えば﹃昭和天皇独白録﹄にも述べられているが、この著述は天皇の開戦責任が問題になりかねない終戦直後の時期に天皇の自己弁護のために纏められた性質を多分に持ち、この事件を﹁このとき内閣が総辞職したため、以降、天皇は立憲君主制の枠組みに従い、不本意であっても内閣の上奏をそのまま裁可することにした﹂という結論につなげる理由にしており、しばしば、そのおおもとが、天皇の戦争責任を否定しようとする側の者からの主張である点に注意を要する[14]。総辞職後
エピソード
政治家としては厳しい評価の田中であるが、性格は気さくだった。そのことを示すエピソードがある。親族
●田中信祐 - 萩藩士 ●︵婚族︶みよ ●田中義一 - 内閣総理大臣︵1929年︶ ●︵婚族︶大築壽天︵すて︶ - 陸軍軍人大築尚志の六女︵1874-1937︶。1893年に結婚。北青山に約1000坪の本邸があり、隣に中島久万吉邸、向かいに川村景明邸があった[17]。 ●田中龍夫 - 長男。貴族院議員、山口県知事、衆議院議員、第1次岸内閣の官房副長官、第2次佐藤内閣の総理府総務長官、福田赳夫内閣の通産相、鈴木善幸内閣の文相などを歴任。 ●田中政子 - 長女。陸軍中将橋本勝太郎の養女となる[17]。 ●︵婚外︶出口ふみ - 群馬県藤岡町の川魚屋﹁富士川﹂の娘︵1898-?︶ 。五番町の別宅に住み、一男四女をもうける[17]。 ●田中登米子 - 三女 ●︵婚族︶小澤太郎 - 三女の婿。台湾総督府官僚、元山口県知事、衆議院議員、参議院議員 ●小沢俊郎 - 長男 ●小沢克介 - 二男。衆議院議員、弁護士。山口県弁護士会会長、裁判官訴追委員会委員、裁判官弾劾裁判所裁判員 ●小沢順子 - 長女。名古屋高等裁判所判事・宇野栄一郎の妻 ●小沢夏子 - 二女。ワイ・デー・ケー会長・坂本典之の妻 ●小沢明子 - 三女。繊研新聞社・井出重之の妻 ●小沢由己子 - 四女。松竹・山方浩の妻栄典
位階 ●1886年︵明治19年︶11月27日 - 正八位[18][19] ●1892年︵明治25年︶1月27日 - 従七位[18][20] ●1895年︵明治28年︶3月14日 - 正七位[18][21] ●1900年︵明治33年︶4月30日 - 従六位[18][22] ●1904年︵明治37年︶10月24日 - 正六位[18][23] ●1907年︵明治40年︶12月27日 - 従五位[18][24] ●1911年︵明治44年︶2月10日 - 正五位[18][25] ●1915年︵大正4年︶10月20日 - 従四位[18][26] ●1918年︵大正7年︶10月10日 - 正四位[18][27] ●1920年︵大正9年︶10月20日 - 従三位[18][28] ●1924年︵大正13年︶2月15日 - 正三位[18][29] ●1925年︵大正14年︶5月15日 - 従二位[30] ●1929年︵昭和4年︶9月29日 - 正二位[31] 勲章など ●1895年︵明治28年︶11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[32] ●1901年︵明治34年︶11月30日 - 勲五等瑞宝章[33] ●1906年︵明治35年︶4月1日 - 功三級金鵄勲章[34] ●1912年︵大正元年︶8月1日 - 韓国併合記念章[35] ●1915年︵大正4年︶11月10日 - 大礼記念章[36] ●1918年︵大正7年︶9月29日 - 勲一等瑞宝章[37] ●1920年︵大正9年︶9月7日 - 男爵・旭日大綬章[38]・戦捷記章[39] ●1921年︵大正10年︶7月1日 - 第一回国勢調査記念章[40] ●1929年︵昭和4年︶9月29日 - 旭日桐花大綬章[31]・帝都復興記念章[41] 外国勲章佩用允許 ●1914年︵大正3年︶9月18日 - ブルガリア王国‥神聖アレキサンダル第二等勲章[42] ●1918年︵大正7年︶3月28日 - 支那共和国‥二等文虎勲章[43] ●1927年︵昭和2年︶10月5日 - ポーランド共和国‥オドロゼニアポルスキー勲章グランクロア[44] ●1929年︵昭和4年︶7月29日 - デンマーク王国‥ダンネブロ勲章グランクロア[45] ●1929年︵昭和4年︶9月28日 - イギリス帝国‥聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス[31]著作
●﹃地方ト軍隊トノ関係ニ就テ﹄本郷聯隊区、1911年9月。全国書誌番号:40064382。 ●田家秀樹編 編﹃地方ト軍隊トノ関係ニ就テ﹄帝国在郷軍人会本部、1911年10月。全国書誌番号:40064383。 ●中内敏夫編・解説 編﹁地方ト軍隊トノ関係ニ就テ﹂﹃ナショナリズムと教育﹄国土社︿近代日本教育論集1﹀、1969年3月。 NCID BN00389003。全国書誌番号:71010576。 ●﹃社会的国民教育 一名・青年義勇団﹄博文館、1915年5月。 NCID BA35940764。全国書誌番号:43009953。 ●綾部致軒編 編﹃田中中将講演集﹄不二書院、1916年3月。 NCID BA90469797。全国書誌番号:43010710。 ●﹃壮丁読本﹄丁未出版社、1916年4月。 NCID BN11978050。全国書誌番号:20098769。 ●﹃未入営補充兵のしるべ﹄新月社、1917年9月。全国書誌番号:42002814。 ●﹃欧洲大戦の教訓と青年指導﹄新月社、1918年5月。全国書誌番号:43009969。 ●﹃壮丁のために﹄帝国在郷軍人会本部︿壮丁読本 第2編﹀、1918年5月。 NCID BC02538162。全国書誌番号:43010770。 ●若月保治編 編﹃田中中将青年修養談﹄新月社、1918年7月。全国書誌番号:43026244。 ●野中正編 編﹃帝国の使命と青年の覚悟﹄誠文堂書店、1918年11月。 NCID BA4756105X。全国書誌番号:43010786。 ●﹃大処高処より﹄兵書出版社、1925年2月。全国書誌番号:43048784。 ●尚友倶楽部史料調査室・伊藤隆編 編﹃寺内正毅宛田中義一書翰﹄芙蓉書房出版︿尚友ブックレット33﹀、2018年7月。ISBN 9784829507414。 NCID BB26773228。全国書誌番号:23092799。関連作品
テレビドラマ ●海は甦える︵1977年、TBS、演‥山本麟一︶ ●熱い嵐︵1979年、TBS、演‥鈴木瑞穂︶ ●経世済民の男 高橋是清︵2015年、NHK、演‥大友康平︶脚注
注釈
出典
参考文献
史料
●“総動員計画設定処務要綱案”. 田中義一内閣 (1929年6月18日). 2018年8月26日閲覧。 ●“国民精神総動員実施要綱”. 第1次近衛内閣 (1937年8月24日). 2018年8月26日閲覧。 ●“国民精神総動員強化方策”. 平沼内閣 (1939年2月9日). 2018年8月26日閲覧。 ●迪宮裕仁︵1939年︶﹃国民精神総動員委員会官制 御署名原本︵昭和14年勅令第80号︶﹄ - 国立公文書館デジタルアーカイブ文献
●田中義一伝記刊行会﹃田中義一伝記﹄︵同会、1957年 - 1960年︶ 復刻‥ゆまに書房︵上下︶、2006年 ●雨宮昭一﹃近代日本の戦争指導﹄︵吉川弘文館、1997年︶ ISBN 4642036660 ●纐纈厚﹃田中義一―総力戦国家の先導者﹄︵芙蓉書房出版、2009年6月︶ ISBN 978-4829504536 ●﹃寺内正毅宛田中義一書翰﹄︵尚友ブックレット・尚友倶楽部史料調査室編、芙蓉書房出版、2018年︶関連項目
●田中上奏文 ●田中義一内閣 ●オラガビール︵寿屋がかつて発売したビール︶ ●﹁オラが︵俺が︶﹂は田中の口ぐせで﹁おらが総理﹂﹁おらが宰相﹂と呼ばれた。 ●落語家の雷門福助は田中義一が陸軍大臣時代に運転手の助手を務めていた。 ●蜷川新 ●国民精神総動員中央連盟外部リンク
- 『田中義一』 - コトバンク
- 『田中 義一』 - コトバンク
- 田中義一 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
- 田中義一関係文書(所蔵) | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館
- 歴代内閣ホームページ情報:田中義一 内閣総理大臣(第26代) | 首相官邸ホームページ
- 「国民に告ぐ」 田中義一首相 - NHK放送史
公職 | ||
---|---|---|
先代 若槻禮次郎 |
内閣総理大臣 第26代:1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
次代 濱口雄幸 |
先代 大島健一 山梨半造 |
陸軍大臣 第26代:1918年9月20日 - 1921年6月9日 第30代:1923年9月2日 - 1924年1月7日 |
次代 山梨半造 宇垣一成 |
先代 幣原喜重郎 |
外務大臣 第42代:1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
次代 幣原喜重郎 |
先代 鈴木喜三郎 |
内務大臣 第45代:1928年5月4日 - 同年5月23日 |
次代 望月圭介 |
先代 創設 |
拓務大臣 初代:1929年6月10日 - 7月2日 |
次代 松田源治 |
党職 | ||
先代 高橋是清 |
立憲政友会総裁 第5代 : 1925年 - 1929年 |
次代 犬養毅 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 田中(義一)家初代 1920年 - 1929年 |
次代 田中龍夫 |
- 田中義一
- 大正時代の閣僚
- 昭和時代戦前の閣僚
- 日本の内閣総理大臣
- 日本の外務大臣
- 日本の陸軍大臣
- 日本の内務大臣
- 拓務大臣
- 大日本帝国陸軍大将
- 19世紀の軍人
- 20世紀の軍人
- 日本の在郷軍人会の幹部
- 日本の男爵
- 日露戦争の人物
- シベリア出兵の人物
- 貴族院勅選議員
- 大正時代の貴族院議員
- 昭和時代の貴族院議員
- 在職中に死去した日本の貴族院議員
- 日本の初等教育の教員
- 正二位受位者
- 勲一等旭日桐花大綬章受章者
- 勲一等旭日大綬章受章者
- 勲一等瑞宝章受章者
- 功三級金鵄勲章受章者
- 大英帝国勲章ナイト・グランド・クロス
- ダンネブロ勲章受章者
- 陸軍大学校出身の人物
- 陸軍士官学校 (日本)出身の人物
- 長門国の人物
- 山口県出身の人物
- 1864年生
- 1929年没
- 多磨霊園に埋葬されている人物