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|出身校 = [[法政大学]]第一部法学部政治学科卒業{{Refnest|group="注"|name="name"|週刊誌などの一部マスメディアで第二部︵夜間︶卒業と報じられることがあるが<ref>{{cite web|url=https://access-journal.jp/39341|title=﹁カジノは許さんと菅官房長官を叱る横浜のドン﹂|author=週刊新潮2019年9月5日号|accessdate=2019-9-28}}</ref><ref>{{cite web|url=https://bunshun.jp/articles/-/11144?page=4|title=﹁新﹁元号おじさん﹂は菅官房長官か﹂|author=文春オンライン2019年3月29日|accessdate=2019-9-28}}</ref>、[[2016年]]に菅本人がそれらの報道を否定しており、第一部︵昼間︶卒業であること述べている<ref>松田賢弥(2016)﹃影の権力者 内閣官房長官菅義偉﹄講談社文庫. p.97.</ref>。}}
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2020年9月9日 (水) 07:52時点における版
この記事は最新の出来事を扱っています。 |
菅 義偉 すが よしひで | |
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![]() 近影 | |
生年月日 | 1948年12月6日(75歳) |
出生地 |
![]() (後の雄勝町、現湯沢市) |
出身校 | 法政大学第一部法学部政治学科卒業[注 1] |
前職 |
段ボール工場作業員 建電設備株式会社社員 衆議院議員小此木彦三郎秘書 横浜市会議員 |
現職 |
衆議院議員 内閣官房長官 沖縄基地負担軽減担当大臣 拉致問題担当大臣 |
所属政党 |
自由民主党 (小渕派→古賀派→無派閥) |
称号 | 法学士(法政大学・1973年) |
配偶者 | 一般女性 |
公式サイト | すが義偉 |
| |
内閣 |
第2次安倍内閣 第2次安倍改造内閣 第3次安倍内閣 第3次安倍第1次改造内閣 第3次安倍第2次改造内閣 第3次安倍第3次改造内閣 第4次安倍内閣 第4次安倍第1次改造内閣 第4次安倍第2次改造内閣 |
在任期間 | 2012年12月26日 - 現職 |
内閣 | 第1次安倍内閣 |
在任期間 | 2006年9月26日 - 2007年8月27日 |
内閣 |
第4次安倍第1次改造内閣 第4次安倍第2次改造内閣 |
在任期間 | 2018年10月2日 - 現職 |
内閣 | 第1次安倍内閣 |
在任期間 | 2006年12月15日 - 2007年8月27日 |
選挙区 | 神奈川2区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1996年10月21日 - 現職 |
来歴
生い立ち
秋田県雄勝郡秋ノ宮村︵後の雄勝町、現、湯沢市秋ノ宮︶中央部旧国道沿いに家があったイチゴ農家に長男として生まれる[5]。現住所は神奈川県横浜市神奈川区金港町1丁目[6]。家族は父、母、姉2人、弟1人。父、菅和三郎は第二次世界大戦末期、満鉄職員として当時満州国の首都だった通化市で日本の降伏を迎えた。引き揚げ後、郷里の秋ノ宮で農耕に従事。﹁秋の宮いちご﹂のブランド化に成功して、秋の宮いちご生産出荷組合組合長や、雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを歴任し、2010年に93歳で死去した。母や叔父、叔母は元教員であり、2人の姉も高校教諭となった[7][8][9][10][11]。 雄勝町立秋ノ宮小学校︵現、湯沢市立雄勝小学校︶卒業後、雄勝町立秋ノ宮中学校︵現、湯沢市立雄勝中学校︶に進学する。中学卒業後は、自宅から最も近い秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学し、第3学年では進学組に所属した。後に、﹁フライデー﹂から﹁特に目立った成績ではなく、姉が進学した北海道教育大学を受験したが不合格となった﹂と報道されたが、森功の取材では菅本人は当時教員にだけはなりたくないと考えており、北海道教育大の受験はしていないと述べている。父から農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後、集団就職で上京する。﹁東京へ行けば何かが変わる﹂と夢を持ち上京したが、秋田時代と変わらぬ日々を板橋区の段ボール工場で過ごし、現実の厳しさを痛感する。上京から2年後、築地市場でアルバイトをしながら、当時、私立大学の中で一番学費が安かったという理由で法政大学第二部法学部政治学科へ進学する[12][13]。1973年、大学を卒業し、建電設備株式会社︵現、株式会社ケーネス︶に入社した。横浜市会議員へ
1975年、政治家を志して相談した法政大学就職課の伝で、OB会事務局長から法政大学出身の第57代衆議院議長中村梅吉の秘書を紹介され、自由民主党で同じ派閥だった衆議院議員小此木彦三郎の秘書となる。以後11年にわたり秘書を務めた[7][要出典]。1983年、小此木の通商産業大臣就任に伴い大臣秘書官を務める[14]。 1987年、神奈川県の横浜市会議員選挙に西区選挙区から出馬し、初当選。その後市議を2期務めた。横浜市政に大きな影響力を持っていた小此木の死後、当選回数わずか2回にも関わらず、小此木の事実上の代役として、秘書時代に培った政財官の人脈を活かして辣腕を振るい、高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、﹁影の横浜市長﹂と呼ばれた[7]。衆議院議員へ
![]() |
総務副大臣へ
竹中平蔵総務大臣の下、総務副大臣︵情報通信、郵政担当[17]︶として総務省内部統制のトップを任され、事実上人事権なども行使した[18]。総務大臣へ
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/09/Yudhoyono_Suga.jpg/220px-Yudhoyono_Suga.jpg)
官房長官へ
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6d/VOA_interviews_Yoshihide_Suga.jpg/220px-VOA_interviews_Yoshihide_Suga.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/USTR_Froman_with_Japan%E2%80%99s_Chief_Cabinet_Secretary_Suga_%289543625447%29.jpg/220px-USTR_Froman_with_Japan%E2%80%99s_Chief_Cabinet_Secretary_Suga_%289543625447%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/Yoshihide_Suga_announcing_new_imperial_era_Reiwa_2_%28cropped%29.jpg/220px-Yoshihide_Suga_announcing_new_imperial_era_Reiwa_2_%28cropped%29.jpg)
政策
●憲法改正に賛成[40]。 ●集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直すことに賛成[40]。 ●日本の核武装について検討すべきでないとしている[40]。 ●原子力規制委員会の新基準を満たした原発は再開すべきとしている[40]。 ●女性宮家の創設に反対[40]。 ●2002年に選択的夫婦別姓制度の導入を求める請願を出している[41]。一方、2014年のアンケートでは、選択的夫婦別姓制度導入に反対、としている[42]。経済
●﹁私は農家の長男だが地方では農業が衰退しており集約化が必要だ。都市農業は相続税など税制で支援すべき。日本は資源のない島国。雇用をつくるのが政治家の仕事だ﹂として日本のTPP参加に賛成[43]。 ●リーマンショックが発生した際は、﹁100年に1度の危機には、100年に1度の対応が必要だ﹂として、無利子国債の発行に賛成していた[44]。同時に、政府紙幣の発行も求めていた[45]。 ●東日本大震災からの復興に向けた財源について、増税ではなく、日本銀行による復興国債の全額買い切りオペで調達することを求める声明文の署名に参加した[46]。 ●民主党、自由民主党、公明党の三党間において取り決められた、社会保障と税の一体改革に関する合意︵三党合意︶の破棄を求める強硬派に分類されていた[47]。人物
評価
●2014年の産経新聞社とFNNの合同世論調査によると、﹁第2次安倍晋三内閣で最も評価する閣僚﹂の1位となった[48]︵2位は安倍晋三[注 2]︶。エピソード
●好物はパンケーキで、大の甘党である[49]。 ●酒は飲まず︵いわゆる下戸︶、タバコも吸わない[49]。朝に身体を動かしたり、情報収集したり、様々な人を会ったりする﹁朝活﹂を日課としている。平日は午前5時頃に起床し、柔軟運動や100回の腹筋運動の後、新聞朝刊各紙や﹃NHKニュースおはよう日本﹄で見たニュースを整理しながら、東京・赤坂の議員宿舎から40分ほど散歩をしつつ、総理大臣官邸近くのホテルに向かう。ここで野菜、果物、ヨーグルトドリンクなど一汁一菜の軽い朝食をとりつつ、政治家や官僚、企業人らと話して世間の動きなどを情報収集する。外国人材の受け入れ拡大を図る出入国管理及び難民認定法改正に向け動いたのも、この場で介護業界の深刻な人手不足を聞いたことがきっかけであった[50]。 ●﹁安倍が最も信頼する側近の1人﹂とされ[51]、第1次安倍内閣が閣僚のスキャンダルや問題発言などで混乱する中、存在感を増していった[52]。地方分権改革推進法など19本の法案を成立させるとともに、ふるさと納税の提唱や、年金記録問題における省内委員会の設置を行うなど、閣僚のスキャンダルが続出した第1次安倍内閣にあって安定した存在感を発揮した。2012年︵平成24年︶の自由民主党総裁選挙に際しては早くから安倍擁立に動き、第2次安倍内閣では念願だった内閣官房長官に抜擢された[53][54]。 ●菅の先輩に当たる平沼赳夫が自民党に復党した際に、平沼の安保法案に関する賛同について評価した上で﹁自民党としてさまざまな問題の中で判断され、復党が認められたと思う﹂と述べた[55]。 ●地元の事務所の車のナンバーは﹁548﹂。これは、自民党に大逆風が吹いた2009年の総選挙の際に2位に548票差まで迫られ辛勝したことから、選挙の厳しさを忘れないため[56]。 ●問題とされた閣僚へ高まる批判に対して、落ち着いた様子での対応から﹁安定のガースー﹂、鉄壁の危機管理から﹁鉄壁のガースー﹂という俗称もある[57]。ただし、学校法人﹁加計学園﹂︵岡山市︶の獣医学部新設計画をめぐる問題では﹁異常なほどに熱くなり、冷静さを欠いた﹂と﹃産経新聞﹄に批判された[58][59]。 ●元号﹁令和﹂を発表したため、1989年に元号﹁平成﹂を発表した小渕恵三になぞらえ、ネット上で﹁令和おじさん﹂と呼ばれて人気となり、イベント﹁ニコニコ超会議2019﹂にも参加した[60]。 ●自著﹁政治家の覚悟﹂には“政府があらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録は最も基本的な資料です。その作成を怠ったことは国民への背信行為”と記しているが、2017年8月8日の記者会見で朝日新聞の南彰にこれを﹁誰の何という本の内容か知っているか﹂と質された際、﹁知らない﹂と答えた[61]。 ●2019年にアメリカを訪問した際にも、米国側の警護員を牽き連れる形でニューヨーク市内で日課の散歩を行った[62]。 ●2019年11月27日の記者会見では反社会的勢力について﹁一義的定義は定まっていない﹂と答えた[63][64]。交友関係
●師と仰いだ梶山静六から﹁官僚は自分たちの考えがあり、政治家に説明するとき、必ずそれを入れてくる。おまえなんかすぐに騙される﹂と言われたことから、幅広い分野の有識者と交友関係を持って情報を収集するように務めているとされる[65]。第2次安倍内閣で内閣官房長官に就任した際には、梶山の墓前にも就任を報告した[53]。 ●公明党の支持母体の創価学会幹部と太いパイプがある。軽減税率の導入を巡り自民党が公明党と一時対立した際は、﹁これで参院選に責任が持てますか﹂とまくし立て、安倍首相に公明党の主張を受け入れるよう求め、軽減税率の導入を主導した[66][67]。 ●総務副大臣時代に総務大臣だった竹中平蔵と頻繁に意見交換を行う。竹中が株価を上げるため年金積立金管理運用独立行政法人を利用することを提案すると、菅は厚生労働省の反対を押し切って即座に有識者会議を設置した。竹中によると、2020年東京オリンピック構想なども菅の主導によるものではないかという[8]。 ●サントリーホールディングス社長の新浪剛史と交友があり、沖縄政策のため、沖縄でのテーマパーク展開を検討していたユニバーサル・スタジオ・ジャパン運営会社社長グレン・ガンペルを、新浪から紹介された[65]。 ●農業協同組合改革の際は、フューチャーアーキテクト会長兼社長の金丸恭文から意見を聞いた[65]。 ●ヘッジファンドであるサード・ポイントの最高経営責任者ダニエル・ローブと面会し、アベノミクスに関して意見交換を行った[65]。 ●駐日アメリカ合衆国大使を2013年から4年間務めたキャロライン・ケネディとは毎月会食を行っていた[65]。 ●大韓民国大統領府秘書室長李丙琪とは、李が駐日大韓民国大使を務めていた時代から関係を作り、大使離任後も電話で会談を行う[65]。性格
●平沢勝栄によると、菅は自ら表に出ることは少なく、人と話すときもあまり喋らずに聞き役に徹するタイプであるという。高校の同級生だった十文字町︵現・秋田県横手市︶元町長の小川健吉も、父・菅和三郎とは異なり、菅はあまり目立たない生徒で、自分の殻に閉じこもっているような印象を持っていたとする。また菅自身、自らを地味で真面目な性格で、特にパフォーマンスが苦手だという[9][8]。 ●2016年4月1日の定例記者会見において、エイプリルフールに因んだ冗談はあったのかと記者に問われた際、﹁私は非常に堅物で、ユーモアのない、一つ一つ着実な発言ばかり﹂であるとした上で、官房長官の立場もあり嘘や冗談は控えていると答えている[68][69]。 ●趣味は渓流釣り、ゴルフ、海外旅行である[49]。 ●座右の銘は﹁意志あれば道あり﹂[49]。政治資金
所有ビルの事務所費
菅が代表を務める自民党支部と後援会が、いずれも菅本人の所有ビルに﹁主たる事務所﹂を置き、2005年分の政治資金収支報告書に計約1956万円の事務所費を計上していたことが、2007年に報じられている[70][71]。塩田潮によると、この報道により、第1次安倍内閣での官房長官就任が見送られたとされている[8]。総務大臣在任時の政治資金パーティー
第1次安倍内閣の総務大臣任期中に開催したパーティによる収入約3180万円が、政治資金収支報告書に記載されていることが報じられている[72][注 3]。 菅が代表を務める政党支部が、農林水産省の補助金の交付決定を受けた横浜市南区の造園会社から2011年~2013年に計29万円の献金を受けていたことが明らかになったことが報じられている[73][注 4]。 また、同支部は2014年の衆院選公示直前、国の公共工事を受注していた横浜市の業者から15万円の献金を受けていたと報じられた[74]。白紙領収書への後日金額記入
他の国会議員の政治資金パーティーに参加した際の費用の領収書を白紙でもらい、事務所で金額を記入していた。その理由について、﹁パーティー主催者の了解のもと、実際の日付、宛先、金額を正確に記載した﹂とし、﹁数百人規模の出席者全員の宛先と金額を書いてもらうと、受け付けが混乱する﹂と述べている。 政治資金規正法を所管する高市早苗総務相は﹁領収書作成方法の規定はない。主催者から了解を得ていれば法律上の問題は生じない﹂との見解を示している[75]。総務省の手引では受領者側が領収書に追記するのは不適当とされている[76]。 2016年10月11日、自民党は党所属の全ての国会議員に対し、領収書を出す際には金額など必要事項を事前に記載するよう、通達を行った[77][78]。所属団体、議員連盟
- 創生「日本」(副会長)
- 日本会議国会議員懇談会(副会長)
- 再チャレンジ支援議員連盟(幹事長)
- 平和を願い真の国益を考え靖国神社参拝を支持する若手国会議員の会
- 神道政治連盟国会議員懇談会
- 日韓議員連盟
- 対北朝鮮外交カードを考える会
- NASAの会
- きさらぎ会(顧問)
著書
- 政治家の覚悟 ―官僚を動かせ―(文藝春秋企画出版部、2012年3月12日、ISBN 978-4160087422)
論文
脚注
注釈
出典
外部リンク
- すが義偉
- すが義偉の「意志あれば道あり」 - Ameba Blog
- 菅義偉 公式ブログ
- 菅 義偉 (@sugawitter) - X(旧Twitter)
- 菅 義偉 (yoshihide.suga) - Facebook
- 菅 義偉 (@suga.yoshihide) - Instagram
- 2002/11/14衆議院決算委員会議事録(NHKスペシャル「奇跡の詩人」が放送法違反なのではないかという、菅によるNHK専務理事・板谷駿一への質問)
公職 | ||
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先代 藤村修 |
![]() 第81・82・83代:2012年 - |
次代 現職 |
先代 竹中平蔵 |
![]() 第7代:2006年 - 2007年 |
次代 増田寛也 |
先代 創設 |
![]() 初代:2006年 - 2007年 |
次代 増田寛也 |
先代 今井宏 山本公一 |
![]() 山崎力と共同 2005年 - 2006年 |
次代 大野松茂 田村憲久 |
先代 木村隆秀 田中和徳 木村仁 |
![]() 高木陽介 森下博之と共同 2002年 - 2003年 |
次代 鶴保庸介 岩城光英 高木陽介 |
党職 | ||
先代 田野瀬良太郎 |
自由民主党幹事長代行 第2代:2012年 |
次代 細田博之 |
先代 谷津義男 |
自由民主党選挙対策総局長 第2代:2007年 |
次代 選挙対策委員長 |
![]() |
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![]() |
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