渡辺秀央
渡邉 秀央 わたなべ ひでお | |
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生年月日 | 1934年7月5日(89歳) |
出生地 | 新潟県栃尾市(現:長岡市) |
出身校 | 拓殖大学政経学部卒業 |
前職 | 議員秘書 |
所属政党 |
(自由民主党→) (無所属→) (新進党→) (自由党→) (民主党→) (改革クラブ→) 新党改革 |
称号 |
旭日大綬章 経済学士(拓殖大学) |
第54代 郵政大臣 | |
内閣 | 宮澤内閣 |
在任期間 | 1991年11月5日 - 1992年12月12日 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1998年7月26日 - 2010年7月25日 |
選挙区 | 旧新潟3区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1976年12月 - 1993年6月18日 |
渡辺 秀央︵わたなべ ひでお、1934年︿昭和9年﹀7月5日 - ︶は、日本の政治家。渡邉秀央とも表記する。日本ミャンマー協会会長・理事長。
衆議院議員︵6期︶、参議院議員︵2期︶、内閣官房副長官︵第3次中曽根内閣︶、郵政大臣︵第54代︶、自由民主党全国組織委員長、改革クラブ代表、新党改革最高顧問などを歴任。
来歴・人物[編集]
新潟県栃尾市︵現・長岡市︶出身。東京都立目黒高等学校、拓殖大学政経学部卒業。中曽根康弘の秘書を務める。
1976年︵昭和51年︶の第34回衆議院議員総選挙に、旧新潟3区︵定数5︶から自民党公認で立候補し初当選。
1986年︵昭和61年︶7月22日、第3次中曽根内閣において内閣官房副長官に就任。
1987年︵昭和62年︶、ビルマ連邦社会主義共和国︵現・ミャンマー︶の軍事政権の首脳が東京を訪れる。内閣官房副長官としてビルマの要人を迎えたときから渡辺と同国との縁が生まれる。アウンサンスーチーが1989年7月に自宅軟禁された際も中曽根康弘は渡辺に対し、日本とミャンマーの非公式のつながりを強めるよう求めた[1]。
1991年︵平成3年︶11月、郵政大臣に就任。
1993年︵平成5年︶の総選挙で自民党は渡辺、桜井新、村山達雄の3人に公認を出した。星野行男は自民党を離党し新生党公認で立候補した。そのほか田中眞紀子が無所属で初出馬した。7月18日に投票が行われ、田中がトップ当選を果たした。渡辺は次点で落選。5位当選の村山とはわずか276票差であった。
小選挙区制が導入された1996年︵平成8年︶の総選挙には新潟4区から無所属で立候補し次点で落選。その後、自民党を離党し、翌1997年︵平成9年︶に新進党へ入党。
1998年︵平成10年︶、第18回参議院議員通常選挙に自由党公認で出馬し、比例名簿4位で初当選した[要出典]。
新潟県では保守層にも一定の影響力があり、小泉旋風により自民党が圧勝した2005年の第44回衆議院議員総選挙において県内における自民党の躍進を食い止めた︵6選挙区中、小選挙区4・比例1︶。
反小沢の筆頭[編集]
民由合併による自由党の疑惑ともされる資産整理を小沢と幹事長であった藤井裕久が中心で行い、党選挙対策委員長であった渡辺は関与できなかった[要出典] 2007年︵平成19年︶4月、息子の渡邉祐介[2]が新潟県議会議員選挙に見附市選挙区から民主党公認で立候補するも、自民党現職の早川吉秀に僅差で敗れ落選[3]。 同年5月14日の参議院本会議で、国民投票法案の与党案採決︵ボタン投票︶に際し、党議拘束に造反、賛成にまわる。翌日党として郡司彰参院国対委員長から、厳重注意処分が下された。 同年︵平成19年︶7月29日の第21回参議院議員通常選挙で、渡辺は新潟県選挙区において自由党出身の森裕子ではなく黒岩宇洋を支援したが、結果は小沢や田中真紀子の支援を得た森が当選し、黒岩は落選した[要出典]。 2008年︵平成20年︶4月9日の日本銀行副総裁人事でも党方針に反して大江康弘、藤原正司と共に政府提案に賛成票を投じ、厳重注意処分を受けた[4][5]。5月12日にも党方針に反して道路財政特別措置法に賛成し[6]、大江と共に党員資格停止3カ月の処分を受けた[7]。改革クラブから新党改革へ[編集]
2008年︵平成20年︶8月28日に民主党を離党すると発表。改革クラブを結成、代表就任。2010年︵平成22年︶4月23日に改革クラブは党名を新党改革に変更し、自身は最高顧問に就任した。2010年︵平成22年︶7月の第22回参議院議員通常選挙へは出馬せず、政界引退。 2010年︵平成22年︶秋の叙勲において旭日大綬章を受章[8]。日本ミャンマー協会を設立[編集]
2011年︵平成23年︶3月、ミャンマーの大統領にテイン・セインが就任。ミャンマーは半世紀ぶりに民政が敷かれることとなった。同年10月21日、テイン・セインは公邸での晩餐後、渡辺と会談し、﹁ヤンゴン近郊のティラワ経済特区を日本が開発しないか。ただし資金は日本が用意する条件で﹂と提案した。東京に戻った渡辺は玄葉光一郎外務大臣と接触し、﹁年内に外相が正式にミャンマーに行き、ティラワの提案について具体的に検討しますと言うべきだ。そうしなかったら日本のものにならない﹂と伝えた。また、枝野幸男経済産業大臣に対し、仙谷由人元官房長官とともにミャンマーを早いうちに訪問するよう説得した[1]。 同年12月、日本ミャンマー協会を設立し[9]、会長・理事長に就任した[10]。息子の渡邉祐介は同協会の常務理事・事務総長に就いた[10]。 2012年︵平成24年︶4月、日本政府は円借款によるミャンマーへの債権約3千億円を放棄して、新たな円借款を出すことを決定。渡辺は同年7月25日に首都ネピドーで行われたティンナインテイン国家計画経済開発相と日本の経済産業省幹部の会談に同席。続いて7月26日、仙谷由人とテイン・セイン大統領の会談にも同席した[11]。1年弱のあいだに日本は官民で少なくとも180億ドル規模の支援、投資、債権放棄を行うことを決めた。さらにティラワとは別の経済特区ダウェイの開発に対し、官民で最大32億ドルを融資することも決まった[1]。 2021年︵令和3年︶1月18日、ネピドーでアウンサンスーチー国家顧問と会談[12]。1月下旬にはミャンマー国軍総司令官のミン・アウン・フラインと会談し、フラインとは日本の自衛隊とミャンマー国軍の﹁関係促進﹂について話し合った[13]。ところがそれから数日後の2月1日、フライン率いる国軍はウィンミン大統領、アウンサンスーチー国家顧問らの身柄を拘束し、クーデターを起こした[14]。詳細は「2021年ミャンマークーデター」を参照
2022年︵令和4年︶5月、ミャンマーを訪れ、国軍が労働相に任命したミィンチャインと面会し、技能実習生の増加に向けた協会の関与などを話し合った。会合には内閣官房インド太平洋チームの安藤晴彦内閣審議官も同席した。同年6月、日本ミャンマー協会の理事会で ﹁海外でデモをやっている人たちのほうが楽をしている﹂と述べるなど、国軍擁護の発言を繰り返した。7月8日に安倍晋三が射殺されると、ミン・アウン・フラインから弔意文を受け取った。また、民主派活動家らの死刑執行を正当化する親書を受け取り、日本ミャンマー協会の会員に紹介した[15]。
政策・主張[編集]
●選択的夫婦別姓制度の導入に反対[16]。不祥事[編集]
●2001年の衆議院選挙に関連して、渡辺の公設第2秘書が公職選挙法違反で逮捕された[17][18]。議員連盟[編集]
●天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟︵副会長・常任幹事︶ ●パチンコ・チェーンストア協会︵政治分野アドバイザー︶脚注[編集]
(一)^ abc“特別リポート‥急接近する日本とミャンマー、投資加速の舞台裏”. ロイター. (2012年10月5日) 2021年3月29日閲覧。
(二)^ “ミャンマーと日本の結び付き” (PDF). 経済産業省 中国経済産業局. 2021年3月29日閲覧。
(三)^ “新潟県議会議員選挙 - 見附市選挙区候補者一覧 - 2007年04月08日投票”. 選挙ドットコム. 2021年3月29日閲覧。
(四)^ “民主党‥道路特定財源与野党協議﹁歳入法案成立前提﹂の与党を批判 平田参院幹事長”. archive.dpj.or.jp. 2024年6月1日閲覧。
(五)^ “国家公務員等の任命に関する件﹁日本銀行副総裁︵渡辺博史君︶﹂‥本会議投票結果‥参議院”. www.sangiin.go.jp. 2024年6月1日閲覧。
(六)^ “道路整備費の財源等の特例に関する法律の一部を改正する法律案︵内閣提出、衆議院送付︶‥本会議投票結果‥参議院”. www.sangiin.go.jp. 2024年6月1日閲覧。
(七)^ “菅政権、展望なお開けず ﹁16人処分﹂・関連法案など…”. 日本経済新聞 (2011年3月1日). 2024年6月1日閲覧。
(八)^ “秋の叙勲4173人 桐花大綬章に扇元参院議長”. 日本経済新聞 (2010年11月3日). 2023年4月8日閲覧。
(九)^ “日本ミャンマー協会 渡邉秀央会長”. 日本工業経済新聞. (2012年5月15日) 2021年3月29日閲覧。
(十)^ ab役員名簿|協会ごあいさつ|一般社団法人 日本ミャンマー協会
(11)^ 織田一﹁ミャンマー開発、争奪 アジア最後の未開拓地、マネー殺到 日本独占受注に見直しの声﹂ ﹃朝日新聞﹄2012年8月8日付朝刊、2面。
(12)^ “日ミャンマー協の渡辺会長、国家顧問と会談”. アジア経済ニュース. (2021年1月20日) 2021年3月29日閲覧。
(13)^ 笠井哲平 (2021年3月24日). “ミャンマー軍のクーデター発生から2か月。日本政府の﹁様子見外交﹂は負しか生まない (2ページ)”. ハーバー・ビジネス・オンライン 2021年3月29日閲覧。
(14)^ “ミャンマー軍事政権、閣僚ら24人解任 新たに11人任命”. ロイター. (2021年2月2日) 2021年2月2日閲覧。
(15)^ 北川成史 (2022年8月14日). “在日ミャンマー人の間で評判悪い日本の元国会議員は何をしたのか クーデター起こした国軍幹部と…”. 東京新聞. 2023年1月11日閲覧。
(16)^ 第174回国会 法務委員会 請願 1569号
(17)^ 毎日新聞、2001年8月18日
(18)^ 朝日新聞、2004年7月24日
公職 | ||
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先代 関谷勝嗣 |
郵政大臣 第54代 :1991年 - 1992年 |
次代 小泉純一郎 |
先代 唐沢俊二郎 |
内閣官房副長官(政務担当) 1986年 - 1987年 |
次代 小沢一郎 |
議会 | ||
先代 佐藤信二 |
衆議院商工委員長 1987年 - 1998年 |
次代 田原隆 |
先代 伊達忠一 |
参議院経済産業委員長 2007年 - 2008年 |
次代 山根隆治 |
党職 | ||
先代 新設 |
新党改革最高顧問 初代:2010年 |
次代 解散 |
先代 結成 |
改革クラブ代表 初代 : 2008年 - 2010年 |
次代 舛添要一 (新党改革に党名変更) |