ズームイン!!朝!
ズームイン!!朝! | |
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ジャンル | 報道・情報番組(朝の情報番組) |
出演者 |
徳光和夫 福留功男 福澤朗 他 |
オープニング | 作曲:宮川泰 |
エンディング | 同上 |
製作 | |
製作 | 日本テレビ |
放送 | |
音声形式 | モノラル放送 |
放送国・地域 | 日本 |
放送期間 | 1979年3月5日 - 2001年9月28日 |
放送時間 | 平日 7:00 - 8:30 |
放送枠 | 日本テレビ系列朝の情報番組枠 |
放送分 | 90分 |
日本テレビ | |
番組年表 | |
次作 | ズームイン!!SUPER |
関連番組 | 24時間テレビ 「愛は地球を救う」 |
﹃ズームイン!!朝!﹄︵ズームイン あさ︶は、日本テレビ系列で1979年︵昭和54年︶3月5日から2001年︵平成13年︶9月28日まで毎週の月曜日から金曜日に生放送されていた朝の情報番組。
略称は﹁ズーム﹂または﹁ズームイン!!﹂であり、これは後身﹃ズームイン!!SUPER﹄にも引き継がれた。当番組だけを指す場合は﹁ズム朝﹂ともいう。
概要[編集]
東京都千代田区二番町︵麹町︶の日本テレビ本社︵当時︶内に設けられたオープンスタジオ﹁マイスタジオ︵通称‥マイスタ︶﹂を拠点に、国内外からの中継を基に構成。最新のニュースと気象、スポーツ情報から、番組の目玉である日本列島各所の中継、特集を放送した[1]。その一方、芸能情報は番組開始時から番組末期まで歌手やタレントがゲスト出演しない限りほとんど扱うことがなかった。 番組の開始を機に、当時新築された日テレ本社南本館1階に﹁マイスタジオ﹂を新設した。マイスタジオは本番組以外にも﹃ルンルンあさ6生情報﹄︵1983年5月放送開始︶や﹃タウン5[注 1]﹄、﹃日本テレビハイライト﹄などで使用されたほか、スタジオ特性[注 2]を生かし、外部からの中継番組を処理する﹁受けサブ︵リモートサブ︶﹂としても使用された。 日本テレビでの放送時間は7:00 - 8:30︵JST︶で開始以来不変だった。ただし、一部ネット局では放送時間が異なっていた事例もあった。 番組マスコットは﹁ズームくん﹂という人工衛星を擬人化したキャラクターで、テロップや番組ノベルティグッズ等に使用され、開始当初から1985年頃までのオープニングアニメーションや﹁プロ野球いれコミ情報﹂のオープニングCG、1995年から1998年までのオープニングCGにもその姿を確認することができる。しかし番組終了と共に姿を消し、﹃ズームイン!!SUPER﹄ではしばらくの間マスコットは使用されなかった。 2001年10月1日より、本番組をリニューアルする形で﹃ズームイン!!SUPER﹄がスタートした。番組の歴史[編集]
前史[編集]
この番組がスタートする直前の頃は、日本テレビの平日朝7 - 8時台の時間帯の視聴率は苦戦を強いられており、キー局では最下位の視聴率であった[2][注 3]。制作局長になっていた井原高忠が、平日朝の新番組の企画のために﹁お前だったらどうする?﹂とプロデューサーの仁科俊介の元を訪れ、そこで﹁活動的な朝の空気に合ったものを作りたい﹂と考えてこの番組が出来上がることになる。仁科としては、朝はどこの家庭も忙しいので﹁ながら視聴﹂が出来るようになれば視聴者に支持される番組になると考え、5分以内のコーナーが細かく積み重なっていくという番組構成のイメージが出来上がっていったという[2]。仁科は﹁﹃巨泉×前武ゲバゲバ90分!﹄からイメージが出来ていった[注 4]ので、ズームインの元となったのは実はゲバゲバ90分﹂とも話している[2]。 仁科の他に齋藤太朗、澤田隆治もこの番組の最初から参画していた[2]。斎藤によれば、1978年7月頃から数回社内で朝番組の企画公募があったもののいずれも採用に至らず、9月頃に突然井原から仁科・斎藤の2名にお呼びがかかり﹁朝番組をやれ﹂と言われたため、澤田を含めた3名で企画を考えたという[3]。当初は実際の制作は他のスタッフがやると思っていたが、企画が採用になった直後に井原から﹁お前たちが考えた企画の意味は、お前たちにしかわからないんだから、とりあえず3年我慢しろ﹂と言われ、しぶしぶ制作もやることになった。また企画段階では1時間番組のつもりだったが﹁どうせやるならまだ誰もやったことのないものを﹂ということで、いつのまにか90分番組になっていたという[4]。斎藤は番組が90分になることが確定した段階で、番組を30分ごとに3つのゾーンに分け、最初の30分は出勤前のサラリーマン向けにとにかくテンポを早く、次の30分は中学生・高校生向けに少しテンポを落とし、ラスト30分は主婦向けに大きくテンポを落とすというスタイルにすることを決めた。また前述の﹁短いコーナーを細かく積み重ねる﹂スタイルについては、澤田が持ってきたNHKの﹃国民生活時間調査﹄の影響も大きかったとしている[5]。 番組の企画段階での仮タイトルは﹃今日、あなたは﹄。その後視聴者に公募をかけ﹃ズームイン!!全国的に朝!﹄と変更された[注 5]。このことを当時日本テレビ社長の小林與三次に伺いを立てたところ﹁人の真似は良くない﹂とされた決裁により﹁全国的に﹂の部分だけが取れて﹃ズームイン!!朝!﹄︵後身﹃ズームイン!!SUPER﹄も含め、一部の記事を除き以下﹃ズームイン!!﹄と記す︶に落ち着いた[6][注 6][7]。 1977年にスタートした45分のニュース番組﹃NNNおはよう!ニュースワイド﹄はそれまでの﹃NNN朝のニュース﹄で伝えられた全国ニュースに加え、特集や地方の話題などを加えて放送するという、当番組の原型となるような内容で放送されていた。その後、﹃おはよう!こどもショー﹄との枠統合、ならびにネット局との調整を経て当番組がスタートする。 後述通り、当番組には報道部が関与しないため、報道部制作のニュース枠として﹃NNN朝のニュース﹄を放送再開した。徳光時代[編集]
●1979年3月5日放送開始。初代総合司会は徳光和夫。番組冒頭、徳光は南本館の玄関前に立って、﹁皆さんおはようございます。徳光和夫、37歳、顔も背丈も標準よりちょっと下回っているようでございますが、そんな私が司会を致します﹃ズームイン!!朝!﹄が今からスタートいたします。﹂と視聴者に挨拶。さらに決め台詞として﹁1億1865万人の健康に···ズームイン!!﹂。その後はマイスタジオに入ってスタジオの紹介をした。初日最初のニュースは前日に起きた日本中央競馬会騎手福永洋一の落馬事故であった[注 7]。3月初頭という改編期前の中途半端な時期に放送を開始したのは﹁4月開始だと改編期で広報が多忙なので、PRに力を入れてくれない。3月開始なら広報も暇だから、全体がPRに協力してくれる﹂というディレクター︵初代総合演出︶の齋藤太朗の思惑がある[8]。なお、同年4月、日本テレビは平日午前から午後まで生放送情報番組強化による改編を行っているが、同じ日に大阪の読売テレビのワイドショー﹃2時のワイドショー﹄が立ち上がり、同局もネットを開始している。 ●ちなみにこの年11月29日の朝の生放送中、福岡放送担当レポーターの安田栗之助が移動たこ焼き屋のマイクロバスのドアノブを触った瞬間、︵漏電していた事により︶感電して失神するハプニングが発生するも、直後に置き上がりレポートを続行する一幕があった。 ●開始当初からの企画としては、全国ニュースでは取り上げにくいローカル色の強いニュースを各局のアナウンサーが直接伝える﹁NSヘッドライン﹂、各局が地元球団を応援しながら伝える﹁プロ野球イレコミ情報﹂、街角からの中継で通りかかった一般の人と英会話を行う﹁ウィッキーさんのワンポイント英会話﹂、﹁朝の詩︵ポエム︶﹂などがあり、これらは長寿企画となった。 ●﹃ズームイン﹄開始前の徳光はバラエティやスポーツ中継を通じて中堅アナウンサーとして視聴者から一定の支持を得ていたものの、奔放かつ特殊な勤務態度と報道に不向き[注 8]なのが災いし社内の評価は芳しいものではなかった。徳光の起用を決めた齋藤太朗によると、﹁プロレスやバラエティで活躍している奴を真ん中に置いて朝の︵情報︶番組で使って、何を考えているんだ﹂と上層部から猛反対されたという。しかし斎藤は徳光の才能を高く買っており、﹁﹃ズームイン﹄の総合司会には渡された原稿を読むだけでなく、自分の言葉、自分の感性で喋ってもらいたい。そう考えたら︵当時の日本テレビアナウンス部の中で適任なのは︶徳光しかいないじゃないか﹂と押し切った[9]。徳光は﹁もしこの番組が一年以内にコケたら、自分のアナウンサー生命自体が終わる﹂として相当悩んだものの、当時日テレでもエース格とされた仁科・齋藤の2人に口説かれ、最終的に司会の話を承諾[10]。結果徳光は番組の成功と共に朝の顔としてお茶の間に定着。アナウンサーとしても徐々に再評価され、﹃ズームイン﹄以外の番組にも多数起用されるなど、活躍の場を広げていくことになる。 ●前番組である﹃おはよう!-﹄からジャーナリストの秋元秀雄がコメンテーターとして続投。ニュースコーナーでは秋元が中心になって仕切っていた。 ●1980年に第17回ギャラクシー賞・選奨を受賞[11]。 ●1980年10月21日、長嶋茂雄が巨人軍監督を﹁解任﹂される。長嶋ファンの徳光はこの解任劇に激怒し翌日の10月22日、関係者への怒りを露わにしながら番組を開始した。巨人球団や川上哲治を容赦なく批判し、読売新聞・報知新聞︵スポーツ報知︶の購読をやめると表明し、怒りの番組進行の締めには﹁ジャイアンツは、不滅から破滅への道を辿る﹂と発言した。この一連の抗議は放送開始から26分に亘って行われた。 ●1980年12月31日、日本テレビが制作担当であったこの年の﹃ゆく年くる年﹄は、本番組のスタッフが実働部隊となり、本番組のシステムで﹃ゆく年くる年﹄を制作・放送した。これには本番組並びにキャスターとしての徳光を全国的に売り出す狙いがあったとされ[12]、そのために渡辺謙太郎︵当時TBSアナウンサー︶、露木茂︵当時フジテレビアナウンサー︶、溝口泰男︵当時テレビ朝日専属キャスター︶、金子勝彦︵当時東京12チャンネルアナウンサー︶といった各局の看板キャスターを集め、中心に徳光を置くといった演出も行われた。この年は当番組と同様にマイスタからの生放送となり、各地からの中継リポートも当番組の各局キャスターが担当。中継を呼び出すときの音も当番組の効果音が使われた。ネット局関連[編集]
開始当時のネット局は日本テレビ、札幌テレビ、青森放送、テレビ岩手、ミヤギテレビ、福島中央テレビ、山梨放送、福井放送、中京テレビ、よみうりテレビ、日本海テレビ︵鳥取・島根︶、広島テレビ、山口放送、西日本放送︵香川︶、高知放送、福岡放送の16局ネット。 このうち、福井放送では1984年3月まで﹃ポーラテレビ小説﹄を放送していたため、8時10分飛び降りとなっていた。 秋田放送は本番組スタートと同じ日に本番組ではなくTBSの﹁おはよう700﹂のネットを開始。 南海放送はすでにネットのおはよう700を引き続きネット。 1979年4月2日から、北日本放送でのネットが開始された。開始当初は福井放送と同様﹃ポーラテレビ小説﹄を放送していたため、8時10分飛び降りとなっていた他、ローカル番組﹃ズームイン!!朝! • おはようKNBです﹄に内包する形をとり、番組後半︵7:50すぎ︶はローカル編成を組んでいだ[13]。このため番組欄では両番組名が併記となったほか、ローカル部分がのちにステレオ放送化︵本番組のパートはモノステレオ放送︶されたため、新聞等の番組欄のタイトルにはステレオ放送のマークがついた。この体制は1992年3月頃まで続いた。8月6日も同じ編成であったことから広島平和祈念式典はネットされなかった。また、西日本放送の岡山・香川相互乗り入れにより岡山県での放送を開始︵17局ネット︶。 同年7月2日︵実質は6月25日のサービス放送から︶、前日に開局した静岡第一テレビにて静岡県での放送を開始。それまで日本テレビとテレビ朝日とのクロスネット局であった静岡県民放送︵静岡けんみんテレビ︶は前番組﹃NNNおはよう!ニュースワイド﹄はネットしていたものの、終了後はテレビ朝日系列の﹃オリンピックニュース﹄とアニメの再放送枠に充てていた︵18局ネット︶。 同年10月1日、当時日本テレビ(NNSは非加盟) • フジテレビのクロスネット局であったテレビ長崎、当時日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日とのトリプルクロスネット局であったテレビ大分がネットを開始した[14]。ただし、後者は開始当初はフジテレビの﹃ひらけ!ポンキッキ﹄も放送していたため、1980年3月31日までは8時飛び降りとなっていた︵20局ネット︶。 1980年10月1日、この日に開局したテレビ信州にて長野県での放送を開始。それ以前は長野県に日本テレビ系列局が無かった︵21局ネット︶。 1981年4月1日︵実質は3月25日のサービス放送から︶、この日に開局したテレビ新潟にて新潟県での放送を開始[15]。開局当日は徳光が新潟に赴き、生放送を行った。同年4月6日、上記の﹃ゆく年くる年﹄の効果により[16]、それまでフジテレビ系列の番組をネットしていた鹿児島テレビにて鹿児島県での放送を開始︵23局ネット︶。 1982年4月1日︵実質は3月29日のサービス放送から︶、この日に開局した熊本県民テレビにて熊本県での放送を開始。前年の新潟の時と同様に、徳光は熊本に赴き、生放送を行った︵24局ネット︶。 1983年4月1日、この日より山形放送にて山形県での放送を開始。ただし1987年9月までANN系列朝枠ニュース番組かつ﹃YBC社説放送・けさの主張﹄、1984年3月30日まで﹃ポーラテレビ小説﹄を放送していたため7時30分から8時10分︵1984年4月2日からは8時30分︶までの放送となっていた︵25局ネット︶。詳細は「YBC社説放送#概要」および「YBCジパングあさ6#朝6時!YBCニュース」を参照
福留時代[編集]
●1988年3月、徳光は同年4月から開始される夕方の報道番組﹃NNNニュースプラス1﹄のメインキャスターに就任することになり、10年目に突入した同年3月7日が最後の担当となった。この日から後任に福留功男が起用され、この日の放送はバトンタッチを兼ねて二人で進行した。なお、福留は当時﹃全国高等学校クイズ選手権﹄︵1983年 - ︶・﹃アメリカ横断ウルトラクイズ﹄︵1977年 - 1990年︶の総合司会を務めており、﹃高校生クイズ﹄ロケ期間︵7月下旬から8月上旬にかけて︶は収録先から福留が中継で出演して番組が進行され、﹃ウルトラクイズ﹄ロケ期間︵8月下旬、9月から10月上旬までの間の1ヶ月間程︶は主に自局および系列基幹局の代理キャスターが担当していた[注 9]。 ●徳光から﹃ズームイン﹄の総合司会を引き継いだことについて福留は後年、﹁当時の高木盛久社長が日テレ系列局の役員会で﹃徳光さんの後任総合司会は誰なんですか﹄と系列局の社長に突っ込まれて、高木社長が日テレの局アナの中で私と徳光さん[注 10]しか分からなかったのでやむなく私が抜擢された﹂と語っている[注 11]。なお、﹃ズームイン﹄総合司会就任に当たり福留は﹃ウルトラクイズ﹄﹃高校生クイズ﹄はどうするのかを上層部に問いただしたが、双方とも続投と聞いてあ然となった[注 12]。 ●当初は福留ではなく当時読売テレビアナウンサーで、関西地区のキャスターも担当した辛坊治郎が2代目総合司会の最有力候補に挙がっていた。これは、徳光が1985年の夏季休暇取得時の代理総合司会を辛坊が担当[注 13]する1985年8月13日の前日に発生した日本航空123便墜落事故の続報を伝える﹃NNN報道特別番組﹄に徳光が休暇を切り上げて戻らず、辛坊がキャスターを担当[注 14]したことなどがきっかけでプロデューサー、ディレクター、徳光の総意で辛坊を後任にしたいと申し出をしていたことによる。しかし、高木と当時の読売テレビ社長の青山行雄はかなりの不仲であり、﹁なんで読売テレビのアナウンサーにやらせんだ、うち︵の日テレ︶には福留がいるだろ!﹂と高木が一喝。辛坊後任案は却下されて福留になり、プロデューサー、ディレクター、徳光は無言状態になったと後年に徳光は述べている。辛坊も﹁いや~、正直︵自分では︶ないな﹂と後年に現場サイドのプランのまま﹃ズームイン!﹄に起用されていたら、プレッシャーで潰れていたと開陳している[17][注 15]。 ●福留は﹁最初の1年間は味噌汁の味は変えない[注 16]が、1年経ったらその後は自分の色でやる﹂として、実際に1年後にはスタッフを総入れ替えして報道・情報番組色を強めたという。最初の1年間は、福留が中心となって、視聴者の朝の生活習慣を調査した。この調査によると、トイレ・歯磨きなどほとんどの行動が3分以内で完結していることが判明し、1回の中継時間を可能な限り3分以内とするリニューアルを実施した。同時に、それまで持ち回り制だった中継スケジュールを廃止。毎月全国の系列局のディレクターを集めて企画会議を行い、それを基に中継を実施した。また﹁情報トレイン﹂に至っては会議であらかじめテーマを決め、各局が企画したテーマを持ち帰って取材を進め、中継を放送した。 ●1990年7月には8時台の﹁NSヘッドライン︵2回目のニュースコーナー︶﹂を﹁情報トレイン﹂に変更。さらには﹁31分31秒﹂を﹁朝生リポート﹂に変更し、31分31秒に代わる企画﹁ズームインズーム﹂を登場させ、﹁ワンポイント英会話﹂の開始時間を7時20分から7時45分にする、﹁プロ野球いれコミ情報﹂の最後に時間切れの爆弾とGAME OVERの文字を表示させて﹁朝の詩﹂へ強制的に移行するなどの大幅なリニューアルを行った。また情報番組としてスピーディーな進行を志向した福留の意向により、オープニングだけではあるものの、徳光時代以来長らく続いてきたマイスタ前の一般開放を取りやめた[注 17]。 ●1991年3月に福留は日本テレビを退社しフリーアナウンサーに転身したが、本番組の総合司会は続投した。福留はこの半年後、TBSの情報番組﹃ブロードキャスター﹄のメインキャスターに就任し、以降はTBS側の方針により、﹃ブロードキャスター﹄が休止される場合同時に本番組の放送週を休む形をとっていた[注 18]。﹃ウルトラクイズ﹄﹃高校生クイズ﹄の総合司会[注 19]はこの年から福澤朗に交代したため、前年までのように﹃高校生クイズ﹄収録のため福留が地方から出演したり、﹃ウルトラクイズ﹄収録のため福留が番組を1ヶ月離れたりするという事はなくなった[注 20]。 ●1991年8月21日 - 23日には、福留が海外で体調が悪化した娘の看病のため滞在先の国に渡航した関係で、急遽初代総合司会の徳光が3日限りの復帰を果たし、代理総合司会を務めた。この3日間に限り、当時既に廃止されていたオープニングでのマイスタ一般開放が実施され、見物客と共に﹃ズームイン‼︎﹄を行うかつての光景が復活した。 ●1992年3月30日、直前の時間帯にマイスタジオを使った情報番組﹃ジパングあさ6﹄がスタート︵一部地域を除く[注 21]︶。本番組との合同PRスポットも制作された。 ●1993年3月5日、放送開始から15周年を迎える。この日は福留の代打出演以来2年ぶりに徳光も出演し、全編に渡り福留とのダブル総合司会で放送した。オープニングでは第1回放送での上記の徳光の第一声のVTRを放送した後、同じ場所に立つ徳光が挨拶を行った。4月9日には放送開始15周年記念と日本テレビ開局40周年記念を兼ねた特別番組﹃ズームイン!!夜!﹄をゴールデンタイムの夜7時から4時間にわたって放送。こちらも徳光と福留のダブル総合司会により朝と同じスタイルの番組を夜に展開する企画で、好評につき同年秋にも2回目︵この時は夜7時からの2時間30分︶の放送がなされた。 ●1993年6月9日、﹃NNN皇太子さま・雅子さんご成婚スペシャル 麗しのプリンセス誕生! 14時間テレビ﹄の第一部として、ジパングあさ6と合同特番を放送[18]。 ●1993年から1994年に掛けて、長寿企画である﹁朝の詩﹂や﹁ワンポイント英会話﹂のコーナーを終了させた。ニュース量・地方中継の量と質の向上などの第2のリニューアルを進め、スピーディーな番組進行の色合いが強まった。﹁朝の詩﹂は花王の一社提供コーナーであり、花王に了承を得てから終了となった。以後、花王は提供クレジットから降りてPT︵パーティシペーション︶扱いとしてCMを流した。 ●重大な事件・事故が起きた際、その翌朝にはマイスタでの司会を別の者︵堀敏彦など︶に任せた上で、メインキャスターである福留自ら現場から生放送・リポートを行う手法を多用した。1993年7月12日の北海道南西沖地震発生の際には、被災した奥尻島を翌朝の番組でヘリコプターからリポートした。最も有名なのは1995年1月17日の阪神・淡路大震災発生から2日後の同月19日、神戸から番組を生放送し、現地キャスターと被災地や被災者のリポートを行っている[注 22][注 23][注 24]。その中継の中では読売テレビの報道フロアからの中継を打ち切る形で、福留が目撃した被災者が火災のあった家屋のがれきの中から救出されようとしている様子もそのまま生中継されていた[注 25]。 ●1996年4月6日、土曜日の朝に姉妹番組として﹃ズームイン!!サタデー﹄を開始した。初代総合司会は後に本番組の3代目総合司会となる福澤朗。 ●1998年4月1日、前半ネット部分のスポンサー体制が、それまでの隔日提供から曜日毎の提供に変更された。また、それ以前には提供クレジットの方式が度々変更されており、番組開始当初からはオープニングの天気リレー→全国の天気の後に前提供をテロップとコメントで紹介し、後提供もテロップとコメントで紹介していたが、94年の﹃朝の詩﹄終了後から95年3月までは前提供をテロップとコメントで紹介することは継続も後提供はテロップで済ませる形になり[注 26]、95年4月以降はネットスポンサー枠をNSヘッドライン前から中盤に、前提供もCM明け後にテロップで済ませる形にそれぞれ変更した︶。ネット局関連[編集]
1990年4月2日︵実質的にはサービス放送開始の3月26日から︶、前日に開局したテレビ金沢にて石川県での放送を開始。それ以前は石川県に日本テレビ系列局が無かったため、北日本放送︵金沢市、月曜の﹁金沢情報﹂・能登地方︶と福井放送︵小松市・加賀市など︶が取材を行っていた︵26局ネット︶。
1991年4月1日、長崎県での放送がこの日に開局した長崎国際テレビに変更。テレビ長崎での放送はその半年前に打ち切りになっている︵1990年10月から1991年3月までは25局ネット、同年4月より再度26局ネット︶。
1992年10月1日、愛媛県での伊予テレビ︵現‥あいテレビ︶開局[注 27]を期にTBS系列の番組ネットの見直しが行われ、これまでTBSの平日朝7時の番組︵最末期の番組は﹃ビッグモーニング﹄︶を放送していた南海放送︵愛媛︶と秋田放送が番組ネットを開始[19]。最大の28局ネットになる。
1994年4月1日、鹿児島県での放送がこの日に開局した鹿児島読売テレビに変更。なお、それまで鹿児島県でのネット局であった鹿児島テレビは同日フジテレビが開始した﹃めざましテレビ﹄を本番組の後継番組扱いでネット開始した。開局当日は福留とNNNの九州地区基幹局である、福岡放送の中継キャスターの古賀ゆきひとが鹿児島に出向いて番組が放送された。︵28局ネットは維持︶
1996年7月6日と1997年7月5日、静岡第一テレビで福留がメインパーソナリティを担当した﹃第一テレビの日﹄の一環で﹃ズームイン!!静岡!﹄︵8時 - 9時30分︶をウェークアップ!︵読売テレビ制作︶から差し替えて放送︵1997年は﹃ズームイン!!サタデー﹄を静岡第一テレビの独自制作に差し替えている。︶[20][21]。
福澤時代[編集]
●1998年8月31日の放送を最後に福留が勇退。代わって翌9月1日放送から﹃ズムサタ﹄の初代総合司会を務めていた福澤朗が3代目総合司会として登板。同日の番組冒頭、福澤は﹁今日からですね、福留さんに替わりまして、新しい朝、とれたての朝をお届けしてまいります。アナウンサーの福澤朗でございます。学校においては今日から新学期、2学期ですね。私もアナウンサー人生において新しい節目を迎えました。精進させていただきます﹂と登板の挨拶をした。ちなみに、福澤はそれ以前にも﹃アメリカ横断ウルトラクイズ﹄︵1991年 - 1992年︶と﹃全国高等学校クイズ選手権﹄︵1991年 - 2000年︶において、福留に代わって総合司会を担当していた。福留は、1ヶ月後の10月1日から8年ぶりに﹃アメリカ横断ウルトラクイズ﹄︵“今世紀最後”と題した復活版︶のロケに出かけている。福留は同年4月に﹁﹃ズームイン!!朝!﹄をそろそろ若い人に譲りたい﹂として日本テレビの氏家齊一郎社長︵当時︶に勇退を申し出ており、それ以降﹁後釜は誰か﹂という声は上がっていたが結局﹃ズムサタ﹄初代総合司会の福澤が横滑りすることになった。 ●2000年1月5日、﹁ズバリ!!橋本五郎﹂放送中に当時内閣総理大臣の小渕恵三から突然電話がかかり、スタジオと数分間談話した。この日の前後にも複数の番組に電話をかけ、話題になった[注 28]。 ●2000年12月16日には﹃スーパースペシャル2000﹄で本番組のスペシャル ﹁衝撃・時代の目撃者実録ズームイン!!朝!20世紀これが日本だ﹂が放送され、歴代の総合司会である徳光・福留の両名も福澤とともにマイスタから出演した[22]。 ●2001年9月28日、最終回を迎えた。同年10月以降﹃ズームイン!!SUPER﹄にリニューアルされる。福澤は﹃SUPER﹄でも新たに加わった大桃美代子、11年半ぶりに復帰した辛坊治郎と共に初代メインキャスターの1人として続投。終了後[編集]
毎年8月下旬に放送される﹃24時間テレビ ﹁愛は地球を救う﹂﹄では日曜の5・6時台をこの番組をベースとしたお天気リレーなどを行っていたが、第34回︵2011年︶の放送で徳光がマラソンにチャレンジした際に、7時をきっかけに休憩所に応援に来たアントン・ウィッキーと﹁ズームイン!!﹂ポーズをとり、中京テレビでリポートを担当したきくち教児、読売テレビでリポートを担当した森たけし・辛坊治郎[注 29]と回線をつないだ。その後、﹃朝!﹄や﹃SUPER﹄の復刻企画が増え、2016年には早朝企画の放送箇所を汐留日本テレビ・マイスタジオに移し、実質﹃ズームイン!!﹄の復刻版に近い形で行ったのち、2017年 - 2019年は徳光・福留・福澤に後番組﹃SUPER﹄の司会羽鳥慎一と後々番組﹃ZIP!﹄の司会である桝太一を加え、﹃復活ズームイン!!﹄として﹃ズームイン!!朝!﹄の流れで放送された。朝番組をベースにしながら早朝企画を展開する演出は2020年・2021年は﹃ZIP!﹄に引き継がれた。2022年は早朝企画が一新して﹁日テレキャスター大集合!24時間テレビ的ニュースショー﹂にリニューアルした。2023年は6時55分から﹃復活ズームイン﹄のタイトルで放送された7時のタイミングでズームインポーズを披露し当時のオープニング映像を流して天気リレーに入った[23]。視聴率[編集]
●関東地区における初回視聴率は2.4%︵最低視聴率は開始年のゴールデンウィーク期間中に記録した1.5%︶。 ●開始当初はNHK総合テレビの報道番組︵当初は﹃NHKニュース﹄と﹃スタジオ102﹄、後に﹃NHKニュースワイド﹄︶と﹃連続テレビ小説﹄が強く1%台も記録し苦戦続きだったが、それは当時ほとんどの県で地元民放テレビ局が2〜3局しかなかったために、他系列の番組を放送していたためである[注 30]。ところが1979年7月に静岡県で静岡第一テレビが開局したのを機に、基幹地域以外にも民放地方局第3局・第4局が開局。番組確保の必要性から日本テレビ系︵即ち本番組︶を選択する局が相次ぎネット局が飛躍的に増加したことがまずあり、その上で﹁幅広い世代が一緒に見ることができる内容﹂、﹁時計代わりに使える番組構成﹂、当時としては画期的な﹁言葉で時間を告知すること﹂などの要因により徐々に向上し、1年後には8%を記録する日も現れた。 ●1987年4月には当時、視聴率で民放1位だったTBS﹃朝のホットライン﹄を追い抜いた。 ●1992年4月には1日だけではあるが、NHK総合テレビ﹃NHKモーニングワイド﹄の視聴率を民放史上初めて上回り、1994年4月には平均視聴率でもNHK総合テレビ﹃NHKニュースおはよう日本﹄︵上記﹃モーニングワイド﹄の後継番組︶を上回った。さらに2年後の1996年6月には平均視聴率20%を記録し、放送開始17年目にして完全に日本の朝番組の頂点に立った。同年7月には番組最高視聴率である22.8%を記録した。 ●1990年代中盤の勢いは福留時代末期から、﹃おはよう日本﹄の復調やフジテレビ﹃めざましテレビ﹄の躍進により、視聴率が頭打ちとなった。そのため、司会者の若返り・天気リレーの短縮・芸能情報の導入などを入れたものの、2000年までは16%前後と他番組とは圧倒的な差をつけていた︵﹃めざましテレビ﹄は関東地区ではまだ10%に達していなかった︶。3代目の司会者である福澤はこの点を振り返り﹁一番大変だった﹂とも語っている。 ●2001年になると﹃おはよう日本﹄の視聴率上昇の影響を受けて、月平均視聴率が13 - 15%前後となる。同年6月に﹃進め!電波少年﹄のプロデューサーであった土屋敏男が編成部長に就任した際、最初に着手したのが早朝時間帯の大改革の断行であり、本番組・﹃ジパングあさ6﹄・﹃あさ天5﹄の3番組を統合する形で、﹃ズームイン!!SUPER﹄が始まることとなる。最終回の視聴率は13%であった。番組テーマ曲[編集]
サンバ調で流れるテーマ曲は宮川泰の作曲による番組オリジナルで、オープニング、エンディングとも同じ曲である。原曲は3分00秒の曲だが、番組オープニング部分が長時間のため番組では原曲を継ぎ接ぎして長くし、使用しており︵スポーツ行進曲のように、何度でも繰り返しできるように構成されていた︶、エンディングでは応用として、元日などネット局の飛び降りが発生する際に、飛び降りポイントで曲が終わるかのように、かつ引き続きネットする局では続けて流されたこともあった。なお、司会が福澤になってからは宮川が改めてアレンジしステレオで再録音したものを使用した[24]。 オリジナル音源は長らくCD化されなかったが、番組の終了および宮川の没後である2018年8月29日発売の﹃宮川泰 テレビテーマ・ワールド﹄にアレンジ版も含めて収録された。同CDには、﹃SUPER﹄と﹃ジパングあさ6﹄のテーマ曲も収録されている[25]。ネットしていた局[編集]
- 系列はネット終了時のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
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関東広域圏 | 日本テレビ(NTV) | 日本テレビ系列 | 制作局 |
北海道 | 札幌テレビ(STV) | ||
青森県 | 青森放送(RAB) | 1991年9月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
岩手県 | テレビ岩手(TVI) | 1980年3月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
宮城県 | ミヤギテレビ(MMT) | ||
秋田県 | 秋田放送(ABS) | 1992年10月1日からネット開始 | |
山形県 | 山形放送(YBC) | 1983年4月4日よりネット開始[26] 1979年7月から1993年3月まではテレビ朝日系とのクロスネット局[注 31] | |
福島県 | 福島中央テレビ(FCT) | 1981年9月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
山梨県 | 山梨放送(YBS) | ||
新潟県 | テレビ新潟(TeNY)[注 32] | 1981年3月25日のサービス放送開始から[27] | |
長野県 | テレビ信州(TSB) | 1980年10月1日開局から 1991年3月まではテレビ朝日系とのクロスネット局(NNS非加盟) | |
静岡県 | 静岡第一テレビ(SDT) | 1979年7月2日からネット開始 | |
富山県 | 北日本放送(KNB) | 1979年4月2日から[13] | |
石川県 | テレビ金沢(KTK) | 1990年4月2日から | |
福井県 | 福井放送(FBC)[注 33] | ||
中京広域圏 | 中京テレビ(CTV) | ||
近畿広域圏 | 読売テレビ(YTV) | ||
鳥取県・島根県 | 日本海テレビ(NKT) | ||
広島県 | 広島テレビ(HTV) | ||
山口県 | 山口放送(KRY) | 1993年9月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
香川県・岡山県 | 西日本放送(RNC) | 1979年までの放送エリアは香川県のみ 1979年4月から電波相互乗り入れに伴い岡山県でも放送 | |
愛媛県 | 南海放送(RNB) | 1992年10月1日からネット開始 | |
高知県 | 高知放送(RKC) | ||
福岡県 | 福岡放送(FBS) | ||
長崎県 | テレビ長崎(KTN)[注 34] | 日本テレビ系列 フジテレビ系列 |
1990年9月28日打ち切り |
長崎国際テレビ(NIB) | 日本テレビ系列 | 1991年4月1日開局から | |
熊本県 | くまもと県民テレビ(KKT)[注 35] | 1982年4月1日開局から | |
大分県 | テレビ大分(TOS) | 日本テレビ系列 フジテレビ系列 |
1979年10月1日から[14] 1993年9月まではテレビ朝日系とのトリプルネット局 |
鹿児島県 | 鹿児島テレビ(KTS) | 1981年4月6日から1994年3月31日まで 1982年9月まではテレビ朝日系とのトリプルネット局[28] | |
鹿児島読売テレビ(KYT) | 日本テレビ系列 | 1994年4月1日開局から |
なお、四国放送︵JRT︶は自社制作のローカル情報番組﹃おはようとくしま﹄の放送などを優先していたため、日本テレビ系列フルネット局の中で唯一﹃朝!﹄時代は一貫して非ネットだった。﹃ズームイン!!SUPER﹄への改題・枠大リニューアル後は四国放送でもネット開始したものの、第1部のみのネットに留まり、第2部の時間帯は自社制作番組に差し替えネットしない体制が2011年3月の番組終了まで続いた。その後、四国放送は2011年3月をもって平日朝の情報番組の自社制作を取りやめ、同年4月から開始された後継番組﹃ZIP!﹄はフルネットで放送している。
出演者[編集]
総合司会[編集]
●初代 徳光和夫︵1979年3月5日 - 1988年3月7日︶ ●2代目 福留功男︵1988年3月7日 - 1998年8月31日︶ ●3代目 福澤朗︵1998年9月1日 - 2001年9月28日︶ 徳光時代にオープニングのフォーマットが変わってからは名前テロップ上部に必ず﹁おはようございます﹂︵元日は﹁おめでとうございます﹂︶の表記が入る[注 36]。﹁ズムサタ﹂でも共通だったが、﹃SUPER﹄になってからは表記を廃止し﹃ズムサタ﹄も途中からやめている。歴代の総合司会はその当時の日テレの看板アナウンサーが務めていたが、いずれも後にフリーに転身しており[注 37]、﹁ズームイン!!朝!︵SUPER︶の総合司会は“フリーへの道”である﹂とも言われた[注 38]。 また、総合司会の3人はそれぞれ﹃アメリカ横断ウルトラクイズ﹄と﹃全国高等学校クイズ選手権﹄に関係しており、さらに後身番組である﹃ズームイン!!SUPER﹄の第2代総合司会を務めた羽鳥慎一、﹃ZIP!﹄の初代総合司会の桝太一も共に﹃全国高等学校クイズ選手権﹄に関与している[注 39]。 総合司会が休暇・取材の場合は日テレのアナウンサーやネット局のアナウンサーが東京に派遣されての代理総合司会を務めた。徳光の休養時は福留など、福留の休養時は堀敏彦、福澤朗、羽鳥慎一など、そして福澤の休養時は羽鳥慎一、藤井貴彦などが総合司会を務めたことがある[注 40]。さらに、福澤時代はほとんど札幌テレビの森中慎也が東京での代理総合司会に定着していた。なお、極めて珍しい例として、福留時代にイギリス留学中の福留の娘が体調を崩した為、福留が渡英して番組を休んだ1991年8月21日から23日の3日間、前任の徳光が急遽再登板したケースがあった[注 41]。また、上述の通り福留は総合司会就任の1988年から1990年までは﹃ウルトラクイズ﹄海外ロケ参加の為毎年9月上旬辺りからの約1ヶ月は当番組からは離れていた為、この場合も総合司会休暇の時と同様のケースが取られていた。 マイスタを基点とせず、日本各地の中継先[注 42]から司会を行う場合もあった。フィールドキャスター︵福澤時代︶[編集]
●鈴木君枝 ●松本志のぶ報道キャスター︵徳光時代︶[編集]
●秋元秀雄︵コメンテーター兼任︶お天気キャスター[編集]
●和田より子 ●深堀恵美子︵1985年 - 1986年︶ ●萩原正子︵1986年 - 1987年︶ ●永井美奈子︵1988年︶ ●小池由紀子︵1988年 - 1992年︶ ●秋山沙織 ︵1992年 - 1993年︶ ●山王丸和恵︵1993年 - 1996年︶ ●古市幸子︵1996年 - 1998年︶ ●延友陽子︵1998年 - 2000年︶ ●斉藤まりあ︵2000年 - 番組終了まで︶中継キャスター・アナウンサー[編集]
中継時︵コーナーの担当時︶、画面右上に中継地と放送局名が常に表示され、中継地には必ず振り仮名を振っていた。 番組開始当初はバラエティ豊かなキャスターを揃えたいという斎藤の意向で、ローカルタレントや一般人からも起用していた。やがて報道番組としての役割も求められるようになり、徐々にアナウンサーへ交代していった。 当初は中継地にあたる箇所には、中継先を問わず局舎所在地が入っていたが、後に﹁東京・日本テレビ﹂・﹁北海道・札幌テレビ﹂・﹁静岡・静岡第一テレビ﹂・﹁愛知・中京テレビ﹂・﹁大阪・よみうりテレビ﹂・﹁福岡・福岡放送﹂というように、中継地の都道府県名と放送局名へと変更された[注 43]。さらに地名には﹁千ち代よ田だ区く二にば番んち町ょう﹂︵日本テレビ本社中継の例︶などとルビがふられていた。このような表示は、全国各地の中継を目玉とするこの番組の大きな特徴であった。この方式は、24時間テレビ ﹁愛は地球を救う﹂初期の各局リレー中継でも踏襲された。 通常は中継地と放送局のエリアは一致するのだが、ごくまれに放送局のエリア外を担当することもあった[注 44]。なお、当番組の中継キャスターのなかには、同じ日本テレビ制作の、﹃ザ・トップテン→歌のトップテン﹄の中継リポーターも兼任していたキャスターもいた︵例:青森放送・大友寿郎、広島テレビ・脇田義信、西日本放送・植松おさみ等︶。初期は﹁〇〇ちゃん﹂やニックネームなどフレンドリーな呼び方が多かった。 ﹃ズームイン!!SUPER﹄に出演のキャスターについては当該項目を参照。 ※印のキャスターは﹃ズムサタ﹄にも出演。名前の横に特記のないものは現役もしくは退職してアナウンス職から離れたキャスター。⇒はネット局移動の境界。 ●札幌テレビ︵STV︶[注 45] ●︵男性アナ︶笹原嘉弘[29]→吉住秀和→春日和彦[30]→木村洋二︵現:STVラジオ︶[31]→※森中慎也︵現:日本大学教授︶、萩原隆雄︵現:同局社員︶ ●︵女性アナ︶権田裕子→石田久美子→橋本登代子︵現:フリー︶→今中麻貴︵現:フリー︶[30][31]→※内山佳子 ●青森放送︵RAB︶ ●鈴木伸夫→米澤章子→浜舘明→大友寿郎︵現:同局特別顧問︶→窪寺美穂子︵元:中京テレビ︶→青山良平︵現:同局ラジオパーソナリティ︶→秋山博子︵現:同局営業局︶ ●テレビ岩手︵TVI︶ ●高橋佳代子︵現:フリー︶→柴柳二郎︵現:東京支社︶→桜田順子→平井直子︵現:同局社員︶→藤村恵一︵現:編成局︶ ●ミヤギテレビ︵MMT︶ ●賈穆琳→加賀谷牧子[32][33]︵現:フリー、秋田放送のラジオパーソナリティ︶→日高充[34]︵後にテレビ東京︶→小松久美恵→盛朋子[注 46]→水本豊︵現:ミヤギテレビサービス社長︶ ●秋田放送︵ABS︶ ●井関裕貴→原志保→村野涼子→柳本雪絵︵現:フリー︶ ●山形放送︵YBC︶ ●芳賀道也︵現:政治家︶→佐伯敏光→門田和弘 ●福島中央テレビ︵FCT︶ ●佐貫洋一︵現‥テレビ埼玉︶→上野孝志→佐貫・遠藤美智恵→宗方和子→菅佐原隆幸→小柳たまゆ→三富健也︵現:同局社員︶→中川久美︵現:同局社員︶→徳光雅英 ●日本テレビ︵NTV︶ ●※魁三太郎︵イレコミ情報では横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ担当︶、戸澤真帆︵元:テレビ宮崎︶、※伊藤奈穂子︵元‥テレビ新潟︶、堀敏彦︵現:テレビ新潟︶、伊藤克信︵イレコミ情報ではヤクルトスワローズ担当︶、藤井恒久︵現:同局編成局︶、戸川健司、高野美緒、小林美樹︵元:テレビ新潟、退社後上京︶、和田より子︵現:山岡依子、フリー︶[注 47] ●山梨放送︵YBS︶[注 48] ●伊藤英敏︵現:フリー、﹃news every.﹄ナレーター︶→小田切めぐみ→平賀正友︵後にラジオパーソナリティ、2017年ごろ死去︶→大柴堅志[注 49]→細野俊晴︵後に静岡第一テレビ、2016年死去︶→佐藤和子→櫻井和明→村瀬寛美︵現‥フリー︶ ●テレビ新潟︵TeNY、1997年12月まではTNN︶ ●小林美樹→小幡章︵現:関連会社社員︶→峰剛一︵現‥フリー︶→須山司→小紫真由美︵現‥フリー︶→鈴木えーもん︵現:東京支社︶ ●テレビ信州︵TSB︶ ●今村正大→新見宏司→今村満里→伊東かなえ︵現:フリー︶→伊東陽司→杉江奏子︵現:フリー︶ ●静岡第一テレビ︵SDT︶[注 50][注 51] ●若月雄介︵現:同局社員︶→北嶋興︵現:フリー︶→※森きく子︵現:フリー︶・山本貴久子→橋本恵子→竹内朱実→秋元啓二 ●北日本放送︵KNB︶ ●鞍田朝夫→川崎光子→相本芳彦︵現:フリー︶・小野原里佳→数家直樹・湊晃︵金沢情報︶→金田亜由美→村上由美︵現:フリー︶→陸田陽子︵現:編成部︶→小林淳子︵現:同局社員︶ ●テレビ金沢︵KTK︶ ●塚田誉︵元‥テレビ宮崎︶→平体好孝︵現:同局事業部︶ ●福井放送︵FBC︶ ●小林逸雄→清田精二︵現:同局ラジオパーソナリティ︶→森本茂樹→伊藤裕樹 ●中京テレビ︵CTV︶[注 52][注 53] ●西山幸子︵一般の主婦︶→きくち教児[35]→きくち・肥後まゆみ→きくち・田中千寿江[注 54]→きくち・佐藤啓→佐藤・※大藤晋司︵現‥テレビ北海道︶→佐藤・大藤・※本田恵美→佐藤・本田・板谷学︵現‥同局制作部︶→佐藤・本田 ●よみうりテレビ︵YTV︶[注 55] ●小林大作→小林・辛坊治郎︵解説委員→解説委員長として﹃SUPER﹄に復帰後、ニュースキャスターを経て現在はシンクタンク社員・Youtuber︶→辛坊・森武史︵現:フリー︶→森・萩原章嘉→森・脇浜紀子︵現:京都産業大学教授︶・三浦隆志→脇浜・三浦・野村明大→脇浜・野村→※村上順子・※国木田かっぱ・中元綾子︵現:フリー︶・鳥羽美音子︵イレコミ情報︶→三浦・村上・国木田 ●日本海テレビ︵NKT︶[注 56] ●宮川敬学︵天徳寺住職︶→尾崎真美→福浜隆宏︵現:政治家︶→朝倉浩之︵現:TOKYO MX社員︶ ●広島テレビ︵HTV︶[注 57] ●脇田義信︵2005年死去︶・長藤光成→脇田・安井万美子︵現‥フリー︶→脇田・田坂るり・藤村直己→田坂・藤村→田坂・長野正実・※井ノ口あさ子︵現:同局企画開発部︶→田坂・井ノ口 ●山口放送︵KRY︶ ●勝津正男︵現:フリー︶→藤井達也→水田薫︵現:フリー︶→瀬川嘉︵現:同局ラジオパーソナリティ︶→高島由美→高橋裕 ●四国放送︵JRT︶ ●保岡栄二[注 58] ●西日本放送︵RNC︶[注 59] ●植松おさみ︵香川担当、現‥フリー︶・広田恭子→植松・佐々井栄子︵岡山担当︶→山崎達也︵現‥同局岡山本社報道部記者︶→日野真→山崎︵香川担当︶・岸猛︵岡山担当︶→山崎・山口喜久一郎︵現‥テレビ西日本︵こちらはフジテレビ系︶︶ ●南海放送︵RNB︶ ●山下泰則[注 60]→寺尾英子 ●高知放送︵RKC︶ ●浜田容助→石田佳世 ●福岡放送︵FBS︶[注 61] ●安田栗之助→古賀ゆきひと[注 62]︵現:国会議員︶→古賀・堤信子︵現・フリー︶→※舘恭子︵現:同局報道局記者︶・今泉清保︵フリーを経て現‥青森テレビ︶→舘・今泉・加茂川里美︵現‥フリー︶→舘・今泉・中村明美→舘・今泉・浜崎正樹→舘・浜崎・※奥田美香子→浜崎・奥田 ●テレビ長崎︵KTN︶ ⇒ 長崎国際テレビ︵NIB︶[注 63] ●橋口泰介→浦里和弘→松永友幸[注 64] ⇒ 藤村幸司︵現‥フリー、﹃情報ライブ ミヤネ屋﹄︵ytv︶リポーター︶→島田啓子︵現:同局報道局︶ ●くまもと県民テレビ︵KKT︶[注 65] ●中村真弓︵現:フリー︶→中村・沼川浩子︵1988年死去[注 66]︶→本橋馨→高橋久美子→佐藤良諭︵テレビ北海道を経て現‥北海道テレビ︶→久保里美︵現:同局編成局︶→吉永真樹 ●テレビ大分︵TOS︶ ●柴田岸雄→後藤真弓→川面絵莉子→茶園かずえ→畠山のりえ→小笠原正典 ●鹿児島テレビ︵KTS︶ ⇒ 鹿児島読売テレビ︵KYT︶ ●小澤一彦︵現‥テレビ静岡︶→加茂川里美[注 67]→崎島誠 ⇒ 長島崇彦→糸永直美︵現‥広島テレビ︶→今井智久︵現:テレビ愛知報道記者︶→近藤久美子︵現:同局社員︶ ●沖縄[注 68] ●※川満聡 ●ニューヨーク ●イエーガー︵杉山︶由美子→山本智寿子→上地ゆり子→松尾直子→今井晶子 ●ロサンゼルス ●浜田ふみ子 ●香港 ●田野中陽子→佐保暢子 ●台湾 ●石田麻美お天気コーナー[編集]
天気予報のコーナーは当初、徳光の歌う﹁天気予報の歌﹂に合わせて天気予報を放送していたが、放送開始から2〜3年した頃、アメリカでは天気予報がショウアップしてきている事に着眼した仁科プロデューサーと斉藤ディレクターがコーナーを一新し、以下の項目に重点を絞った天気予報コーナーを作った。 (一)視覚的にわかりやすい巨大な温度計を使用︵視聴者が一番知りたい寒暖などの情報を一瞬で伝える︶し、全国各地の中継先から天気予報の概要を伝え、それをリレー形式でつなげる。 (二)東京においてもマイスタから外に出る︵天気予報をスタジオの外から送る︶。 番組内で説明はされなかったが、使用していた大型温度計は計測機能のない﹁温度表示板﹂で、別途計測した気温に合わせて赤いテープを手動で上下させる単純な仕組みだった[36]。構造上、強風に煽られると倒れやすく、荒天の際はキャスターが温度計を支えたりしがみついたりしながらリポートする光景もしばしば見られた。また、倒れた衝撃でずれたテープを福留が放送中に堂々と直している様子が映されることもあった。この温度計は各系列局でも読売テレビ以外は日本テレビと同一のものを使用し、局ロゴを付けたり、中京テレビならシャチホコ・山口放送はふく・鹿児島讀賣テレビは霧島のように各地の特産を付けたものもある。この温度計はズムサタでも使用されたが、日テレでは球体にズムサタのロゴが張り作られたものと風速計がついたものを付けていた。読売テレビはデザインは違うものの似た系統の表示板を使用。 従来の天気予報は、各地の気象観測所を中心とした予報であったが、気象協会から送られてくる情報に加工を施しアバウトな形で伝えることに特化した。日本列島を極めて簡略的に表示した上で主要地のみに天気マークを配置した﹁きょうの天気﹂テロップを番組冒頭で用いたり、日本列島上の晴れや雨の場所を大雑把に色分けする形でCGで表示し、それを日中と夕方以降の2パターン用意することで予報推移の概況を伝えた。関東ローカルの天気でも大雑把な天気予報は同じで、関東地方の場合は関東7都県の地図の上に大雑把な色分けの天気分布と同時に関東7都県の降水確率と東京の最高気温が表示される。 7時20分前後と8時前に前半はマイスタ前から全国の天気予報、後半は各ネット局からローカルの天気予報︵日本テレビは引き続きマイスタ前から︶を放送していた。ただし、読売テレビなど全国の天気予報も差し替えてすべてローカルで放送していた地域︵その地域でも全国の天気はローカルで放送していたり、局によってはコマーシャル︶もある。主なコーナー[編集]
オープニング・天気リレー ●番組開始当初は天気リレーがなく、7時の時報とともに番組テーマ曲とオープニング映像のアニメーション[37]を流し、アニメーションの終了とともにマイスタ前に映像が切り替わり、総合司会が朝の挨拶及び話題を話した後、最初の提供クレジットの直前に﹁ズームイン!!﹂の掛け声を行っていた。なおOPには右下に日付が10秒間表示されていた。表示字幕は変わらず使用され、司会者が﹁おはようございます!﹂と挨拶をしたところで挿入されるようになる。時折、番宣で出演したタレントも加わって掛け声を行う場合もあった。 ●番組開始から数ヵ月後に﹁ズームイン!!﹂の掛け声の前に﹁全国の朝﹂と題した全国リレーを行っていた︵ただし中継局キャスターへ呼びかけは総合司会の徳光だった︶。 ●その後、前述したようにオープニングのスタイルを変更。いわゆるアバンタイトルを取り入れて、7時の時報とともにマイスタ前の映像を映し、総合司会の﹁おはようございます、〇月×日△曜日の朝です。﹂などという朝の挨拶及び話題の後、カメラに向かって﹁朝一番は○○︵最初の中継地︶に向かってズーム、イン!!﹂とカメラに向かって人差し指をさし、同時にカメラが総合司会に向けてズームされつつ最初の中継地に画面が切り替わり、最初の中継地の映像とともに番組のタイトルロゴ及びテーマ曲が流れて番組がスタートする形式となった。各中継局は番組テーマ曲に乗せて中継地の様子、天気、番組オリジナル温度計で気温を伝え、次の中継局キャスターへ呼びかけて順次中継をつなぎ、最後は東京︵マイスタ前︶に戻りお天気キャスターが全国の天気を伝える。その後は再び総合司会にカメラが切り替わり、改めて﹁ズームイン!!﹂の掛け声を行い、最初の提供クレジットが入る。総合司会が福留・福澤に代わってもこのスタイルを踏襲、番組の看板コーナーのひとつとなったが、福留時代の途中からは最後に総合司会へ戻さなくなり、全国の天気の最後にお天気キャスターが次のコーナー名を読み上げたあと、そのまま最初の提供クレジットに入るようになった。1995年からは前述通りアナウンサーの提供読み上げが廃止された関係で番組中盤にCM明けのコーナー開始時にテロップで表示される形式に変更された為、全国の天気の後そのままCM入りするようになった。 ●徳光時代から福留時代初期まで、水曜日に必ずオープニングに駆けつける高齢男性がおり、細目に四角い顔の愛嬌ある風貌から﹁水曜おじさん﹂と呼ばれ、番組の名物となった。スタッフやキャスターにも認知されていたようで、徳光の勇退セレモニーにも福留に就任祝いの花束を手渡す役目で加わっている。水曜おじさんのエピソードは﹃ズームイン!!SUPER﹄の﹁ありがとう30周年ウィーク﹂で徳光が出演した際に語られた。 ●福留時代末期の1998年4月からは、冒頭その日の主なニュースをヘッドライン形式で3項目伝えてからマイスタ前に映像を切り替えていた。これは、前座番組﹃ジパングあさ6﹄からの接続がステーションブレイクレスとなり[注 69]、マイスタジオのセットを﹃ジパング - ﹄仕様から本番組仕様に入れ替えるための時間が必要となったためで、その時間をヘッドラインニュースに充てていた[注 70]。 タイトルアニメーション・CG ●1979年3月(番組開始) - 1985年3月 アニメーション。夜から朝への移り変わりをイメージしたものとなっている[注 71]。まず夜空を模した幕が開いて青空が現れ、ズームくんが日の出のように現れた後、卵、扉の順で現れ、鳩が飛び去った後朝日が昇り、その朝日が﹁朝﹂︵黒色︶に変化し地平線に立つ。続いて、﹁ズームイン!!﹂︵虹色︶が太陽光線を伴って左下から右上に向かって表示され、それと同時に﹁朝﹂の右側に付帯する﹁!﹂︵青色︶が表示される︵この時点で﹁朝﹂は地平線から切り離される︶。 ●1985年4月 - 1987年3月 ここからアバンタイトルとなり、最初の中継先の映像を背景に﹁朝﹂の青文字がズームアップし、次に右下にズームダウン。それと同時に右上から﹁ズームイン!!﹂︵赤色︶と﹁朝﹂︵紫色︶の右側に﹁!﹂︵黄色︶が表示され、最後にロゴ全体がズームアップされ見切れる。 ●1987年4月 - 1990年3月 画面左下から﹁朝﹂︵紫色︶の文字が跳ねるように登場し、次に﹁ズームイン!!﹂︵赤色︶と﹁!﹂︵黄色︶が1文字ずつ右上から表示され、最後にロゴ全体がズームアップされ見切れる。 ●1990年4月 - 1991年3月 ﹁ズームイン!!﹂︵青色︶の文字が1字ずつバラバラに表示され集結していき、続いて画面中央右下からズームアップして﹁朝﹂︵赤色︶が表示されたのちに﹁!﹂︵黄色︶が表示、ロゴの色がテーマ曲のメロディに合わせ変化し、最後にロゴ全体がズームアップされ見切れる。 ●1991年4月 - 1995年3月 画面内にシャボン玉のグラフィックが表示され、それらが1字ずつタイトルロゴに変化する。最後にそれらが1つの大きなシャボン玉となり割れる。ロゴマークとなった際に縁どりがされた時期もある。初期はシャボン玉の色彩が薄かったが、のちに濃くされている。 ●1995年4月 - 1998年8月27日[注 72] 四角形、円形、三角形、太陽、カモメ、波、蜃気楼をイメージしたグラフィックを順に写したのち、タイトルロゴ[注 73]が赤色のグラデーションで集結されるように表示、直後に﹁ズームイン!!﹂の部分が横方向に1回転し画面外左側へに飛び出し、右側から元の位置に戻る[注 74]。最後にロゴを形成していた赤色がそのまま四散し消える。 ●1998年9月1日[注 75] - 2001年9月28日(番組最終回) 虹をイメージしたグラフィックが画面左右から表示され、それらが輪を形成し右下へ回転しながら泡を表示させつつ消え、その泡がさらに左下から表示された山並みをイメージしたグラフィックと合わさる形で朝焼けとなり、太陽が表示される、その太陽が﹁朝﹂のロゴの一部になる午前7時を示すアナログ時計に分針を動かしながら変化し、さらにそれが反転して﹁朝﹂のロゴとなり、そして画面左下から﹁ズームイン!!﹂、右上から﹁!﹂が表示︵いずれもオレンジがかった赤色︶、最後はロゴの赤色が中央に集結し泡状に四散して消える。 大型事件や大災害があった場合はアバンタイトルでの司会者挨拶や天気リレーも行われなく、被害地の映像に白抜きで番組タイトルのみ流れて、すぐに司会者に映像が変わり本題に入る。なお、福留の最終出演回も1998年台風4号による豪雨が直近にあったため同様の流れとなり、番組の最後に福留の降板の挨拶と後任司会の福澤の紹介が行われた以外は全編豪雨被害関連のニュースで持ち切りだった[注 76]。 NSヘッドライン 開始当初は報道番組との区切りがあったので﹃ニュース﹄という言葉が使えず、その結果このタイトルにした。放送開始当初は報道局の理解と協力が得られず、ニュース映像を使用できなかったため、新聞記事を紹介していたこともある。 全国各地のローカルニュースを繋ぎあわせて報道した。それらはマイスタでは全く読まず[注 77]、放送局名または地方名を東京で告げた直後に中継先︵事件・事故現場とは限らない︶から各放送局のアナウンサーが直接伝える点[注 78]が番組で最も特徴的な部分であった。外電については徳光が日本テレビの報道フロアに振り、夜勤担当のアナウンサー︵前夜に﹃きょうの出来事﹄を担当した小林完吾が当番になることもあった︶が伝えていた。 徳光時代はコーナー中、服部セイコー製の﹁ピラミッドトーク﹂という電波時計を適宜押して、時計から流れる音声合成による時報をオンエアにも流していた。これはニュース1本分を50~55秒程度に収めるためにタイムキーパー代わりに導入されたものと見られる。 報道局取材のニュース映像の使用が可能になったこと、ネット局の中継技術が向上したこともあり、福留時代にはよりスピーディーな進行になった。ニュース1本あたりの情報量を可能な限り圧縮し、アタック音からの読み出しは1秒のタイムロスすら許さないほどになった。また、福留はフロアディレクターとの連携を強化し、裏でNHKのニュース︵﹃NHKモーニングワイド﹄→﹃NHKニュースおはよう日本﹄︶を見ながら項目を入れ替えたり削除したりするなど、視聴者が見たいニュースを先回りして届けるため、臨機応変にディレクションした。こうした結果、番組の中でも取り分け情報量が濃密なコーナーとなり、平均視聴率の飛躍的な向上につながった。また、福留時代からは外電も総合司会がまとめて伝える形になった。 ニュース映像は当初映像素材に番組で使うテロップを付けて流していた。末期になると前夜の﹃きょうの出来事﹄や﹃ニュースプラス1﹄、約1時間前に放送された﹃ニュースジパング﹄からのニュース映像を使い回して放送していたため音声・BGM部分はカットしてキャスター読みにしていた。 ズバリ!!橋本五郎 読売新聞編集委員︵当時︶の橋本五郎が主に一般紙朝刊紙面を紹介、解説するコーナー。福澤が司会となって登場。 橋本が2001年2月に健康面の理由で休業︵復帰したのは次番組の為、実質降板となった︶後は、日本テレビ報道局の呉文彦が引き継いだ。 プロ野球いれコミ情報 放送開始当初から行われていたプロ野球コーナーで、主に巨人を中心に後述するように各局のリレーを交えながらフランチャイズ球団の悲喜こもごもを伝える。﹁スポーツいれコミ情報﹂とタイトルを差し替えて放送した事もある。 1985年、タカラ︵現・タカラトミー︶から発売されていた人形型玩具﹁球団別マスコット人形﹂を浅草の玩具店でスタッフが発見し、徳光に紹介。その後それを使用しながら伝えることとなった。当時は巨人のものしかなかったが、ヘルメットを手動で下げることで、人形の表情が変化する仕掛けで、巨人の試合に合わせて顔を変えていた[注 79]。翌年、このコーナーに合わせて﹁プロ野球人形イレコミ君﹂に変えたところ、爆発的に売れ行きが上がったため、当時の12球団すべての人形が作られ、各局でもチーム応援用の小道具として必ず使われるようになった。 各局の中継キャスターがそれぞれ応援している地元球団のハッピやジャンパーを着て、試合結果や選手情報を伝えていた。総合司会が巨人、よみうりテレビが阪神、中京テレビが中日、広島テレビが広島を担当し、関東エリア担当のリポーターである伊藤克信がヤクルトを、魁三太郎が横浜︵大洋︶の応援役として登場した。回によっては福岡放送がパ・リーグ代表としてダイエー[注 80]、札幌テレビが巨人︵札幌シリーズ時︶の結果を伝えることもあった。変わったところでは、山口放送の勝津正男リポーターが下関発祥の大洋︵横浜︶の応援役となったこともあった。 リポーターと共に各局のプロ野球解説者も参加しており、日本テレビからは青田昇、須藤豊、宮田征典、平田翼、吉村禎章、デーブ大久保、読売テレビからは辻佳紀、川藤幸三、掛布雅之、長崎慶一、中京テレビからは板東英二、富田勝、三沢淳、高橋三千丈、川又米利、広島テレビからは池谷公二郎、小林誠二、福岡放送からは今井雄太郎などが出演していた。 胸にはその放送日時点のチームの順位が書かれた名札をつけており、Aクラスのチームは赤色[注 81]、Bクラスのチームは黒色と分けられていた。 各局が情報を伝える時は中継がその局に切り替わっていた。切り替わる際に﹁○○!︵チーム名[注 82]︶ワリコミ情報!﹂と声が上げつつワイプで登場し、大きくしながら切り替え。切り替わるとその応援球団に因んだBGM[注 83]が流れ、試合結果や喜びの声、ぼやき︵敗者の主張︶などが繰り広げられた。 伊藤や魁が乱入し、またネット局からの応援合戦が白熱したところで画面右上に15秒からのカウンターが表示され、0になると﹁GAME OVER﹂と表示されコーナーは終了[注 84]喧騒の後は一転しておだやかな﹁朝の詩﹂が始まる︵1994年まで︶。 東京の総合司会が巨人を応援することもあって巨人の情報に偏りがちになっていた。なお、総合司会の休養時には日テレの金子茂アナ[注 85]が巨人を担当していたことが多かったほか、札幌テレビアナ︵当時︶の森中︵愛媛県出身で阪神ファン︶が代理の場合、読売テレビと共に阪神ニュースを読んでいた。 阪神が低迷していた1987年には、負け試合を伝える場合に﹁なんぎやなぁ﹂[注 86]というフレーズを言うのが恒例となり、1987年の流行語大賞銀賞を獲得した[38][注 87]。視聴者プレゼントのための﹁なんぎやなぁステッカー﹂も作られた。また辛坊治郎・森武史の両アナウンサーは阪神の応援ソング﹁負ける気せんね﹂をCD出版し、阪神のコーナー中は森が当番でかつ前日の試合で阪神が勝利した場合にBGMに﹁負ける気せんね﹂[注 88][注 89]を、阪神が負けた場合はカップリングの﹁ハイハイ敗!!﹂を流し、引き分けや移動日および中止などで前日に試合がなかった場合は﹁六甲おろし︵立川清登歌唱バージョン︶﹂のインストゥメンタルを流していた。また、現在﹃朝生ワイド す・またん!﹄で使用している﹁ハタハタマシーン﹂の原型というべきものが当コーナー内で使用され、﹃す・またん!﹄内の演出である﹁画面分割﹂や画面が回転する﹁スーパー大回転﹂の演出も本番組が源流となっている。これらの演出や楽曲は森が降板した段階で使用されなくなった。 巨人以外の球団を担当するリポーター︵と解説者︶が試合の開催地まで出張することもある。対巨人戦︵巨人のホームゲーム︶の際に東京のマイスタジオに出張した場合、前日の試合で巨人に勝った場合は巨人担当の総合司会︵と巨人担当解説者︶をスタジオの隅に追いやって︵または追い出して︶進行した。ただし、前日に巨人に負けた場合は逆に隅に追いやられるか追い出される[注 90]。 福岡放送のホークス情報、ならびにパ・リーグ球団はもともと放送時間・曜日がほとんど確保されていなかった。また、セ・リーグの情報に時間を割いた[注 91]ため、パ・リーグの結果は字幕のみで終了する日が大部分になっていた[注 92]。 魁は大洋時代、﹁ヒゲクジラ﹂と称してマスクマン姿でこのコーナーに登場していた[注 93]が、ヒゲクジラになる前には福留と一緒に巨人のハッピを着て応援していた時期も存在した[注 94]。 コーナー最後のカウントダウン表示は﹃ズームイン!!サタデー﹄の﹁プロ野球熱ケツ情報﹂にも引き継がれていた︵現在は廃止︶。この方法は他局にも影響を与えた。[注 95] 時には野球と関係ないことでも﹁ワリコミ○○情報﹂として乱入することもあった。その例として1997年10月1日の放送ではこの日、長野まで先行開業した北陸新幹線の特集にちなみ、イレコミ情報の最中に堀敏彦が、下り始発が軽井沢駅に到着するシーンを﹁ワリコミ新幹線情報﹂と叫んで割り込んだことがあった[注 96]。被害を受けたのは阪神の情報を途中で切られた読売テレビであったほか、その後の中京テレビでは佐藤が﹁新幹線はあさま、ドラゴンズは山本昌﹂と便乗しながら叫んで割り込んだ。 1993年ごろから﹁いれコミ感動大賞!﹂と称して、番組独自の月間MVPをチームごとに選出し、受賞選手にトロフィーを贈呈していた。選考基準は記録よりも目に見えない活躍をするなど、ファンに感動を与えたかどうかが重要視された。当時﹁感動大賞﹂のフレーズは斬新だったため、他のスペシャル番組などがタイトルに﹁○○感動大賞﹂と銘打つなど影響を与えた。 番宣などで芸能人らがマイスタから出演するときは、ひいきチームの応援役として登場することもあった。 福留時代途中までは、冒頭に司会者が前日の結果について触れた後にカメラ前にいるスタッフが投げたボールをキャッチしてスタートしていた。ただし、総合司会者の担当する巨人が不調で、別チームが好調な場合は伊藤や魁、中継先のネット局のリポーターがこのパートを奪うこともあった。その直後に出てくるイレコミ君のかぶっているキャップが一つ目の対戦で勝利したチーム、ないしは中継先が応援しているチームのキャップの色であった。コーナー開始時のテーマ曲で最も長く使われたのは、テレビアニメ﹁マシンロボ クロノスの大逆襲﹂の挿入歌﹁戦え!バイカンフー!﹂である︵前奏〜曲の最後の部分につなぐアレンジが施されていた︶。 Jリーグおまかせ情報 プロ野球イレコミ情報とは異なり中継は結ばず、東京のマイスタから試合結果を伝えた。[注 97] 集英社の雑誌です 前半のネットスポンサーから後半のローカルスポンサーへの提供交換が終わった後の7時31分00秒から30秒間放送。当日もしくはその週に発売される集英社の雑誌を告知する生コマーシャル。あくまでもコマーシャルなので、番組のコーナーではない。 集英社の提供エリアが全国ではなく基幹地域やそれに準ずる一部地域のみだったことから、この枠は︵集英社が提供していたエリア以外では︶PT枠扱いとされ、該当するエリアではローカルなど別スポンサーのコマーシャルに差し替えられていた。読売テレビや高知放送のように、生コマーシャルは流す一方で、提供クレジットの表記をしなかった例もある[注 98]。なお、﹃新春・ズームイン!!朝!﹄では年によって花王と共にネットセールスの筆頭スポンサーを務めた回がある。その元日放送分の同コーナーは特別CMが放送された事もある[注 99]。徳光時代末期から福留時代には冒頭に﹁おはよう、今日の一冊﹂というタイトルCGも表示されていた。 基本的には女性タレント・リポーターが担当していたが、扱う雑誌によってはお笑いタレント︵井出ひろし︵現‥井手らっきょ︶、大川興業︶、声優︵小粥よう子︵現‥日比野朱里︶、矢尾一樹、関俊彦︶、モデル︵メンズノンノ時代の阿部寛︶、グラビアアイドル、フリーアナウンサー︵小野裕士‥当時は小野裕史の名で活動︶などが出演していた。 末期の﹁りぼん﹂のコマーシャルでは、同誌連載作品で他系列局でアニメ化されたもの︵﹃神風怪盗ジャンヌ﹄﹃GALS!﹄︶がそのまま流れていた。 当初はスタジオ内やスタジオ前での生コマーシャルであったが、後に生コマーシャルの形態を用いつつも事前収録されたものや、通常のコマーシャル形態で放送されるものも増えていた。 後番組の﹃ズームイン!!SUPER﹄でも2001年12月まで集英社は同じ時間帯のスポンサーを継続していた[注 100]。 ウィッキーさんのワンポイント英会話 ウィッキーさん︵アントン・ウィッキー︶が街角で、通りかかった一般の人と英会話を行うコーナー。通勤途中で時間がなかったり、テレビに映るのを嫌う人が多いため、通りがかりの人を追いかけながら英会話を行うことが多かった。﹁いれコミ情報﹂がカウントダウン表示を始めるまではこのコーナーの後が﹁朝の詩﹂だったため、コーナー終わりに﹁朝の詩﹂のテーマBGMが流れていた。﹃天才・たけしの元気が出るテレビ!!﹄の企画にて、ビートたけしが高田純次と一緒に乱入︵1988年7月22日放送分︶した際は、終始ウィッキーさんの邪魔をしたまま、コーナーの時間切れで﹁朝の詩﹂に移ってしまったこともある[注 101]。 番組のコーナー内でも屈指の知名度を誇っており、放送当時他局でパロディが多数作られたほか、日テレ自らも特別番組︵﹃24時間テレビ ﹁愛は地球を救う﹂﹄等︶で復刻版を度々制作している。 冒頭で流れるテーマジングルは森園勝敏﹃Out Of Blue﹄の冒頭部と終わりの部分を編集で繋ぎ合わせたもの。 当初は池田まさる・ラビット関根︵のちの関根勤[注 102]︶が同行し、ウィッキーさんのコーナーのあと、街角でチャリティーとして不用品となったおもちゃを集める﹁オモチャリティー﹂というコーナーがセットで放送されたが、こちらは3ヶ月で終了している。 朝の詩︵ポエム︶︵1979年3月 - 1994年9月︶ 花王が提供[注 103]。最初は著名人がポエムを読むだけのコーナーだったが、途中から紀行番組の要素が加わり冒頭にマイスタから総合司会の生ナレーションも入るようになった。番組開始当時は朝の番組に固定スポンサーがつくことは珍しかったため、ネット局開拓の際にはこのコーナーの存在が大きなセールスポイントになり、特にクロスネット局の引き込みに大きな影響力を持ったという[39]。なおこのコーナーは後に﹁詩の樹﹂と言うタイトルに名前を変えて放送番組センター供給の番組となった[注 104]。テーマ音楽は、廣瀬量平が作曲を担当した。 花王自体は当時の前半30分の全国スポンサー枠の筆頭扱いとなっていたが[注 105]、花王のCMは全てこのコーナーの後に集中させていた。 おはよう新婚さん 初期の人気コーナー。毎回笑福亭仁鶴が京王プラザホテル︵地方収録の時もあり︶の一室に赴き、その部屋に泊まる新婚夫婦とトークを交わしていた。日テレアナウンサーだった松永二三男が夫人と共に出演したこともある。番組開始時の新宿副都心は京王プラザ以外に高層ビルが無く、東京の全景や朝日が昇る様子をいつでも撮影でき﹁見栄えのする画が撮れる﹂場所だったため﹁時間を埋めるのに最適﹂として企画された[40]。 31分31秒︵1985年4月3日 - [41][注 106]/ズームインズーム/おもしろ発見 各局が持ち回りで担当する特集枠。読売テレビのみ地元ローカル枠差し替えの関係上、金曜日しかコーナーを担当できなかった時期がある[注 107]。 ニュースチェック⇒ズームイン!!チェック 8時前後に放送していたニュースコーナー。末期にはバンヅケと併せて放送。北日本放送で﹃おはようKNBです﹄を放送していた頃は、ここで、ローカル枠に飛び降りていた。 情報トレイン 数ある中継の中心企画。共通のテーマで各局から中継を行う。企画を考えた放送局がホスト局を務め、進行を担当する。当初は8時ジャストにスタートしていたが、時々前後した。天気リレーとともに番組の看板コーナーとなった。31分31秒以降の特集枠とこのコーナーでは企画タイトルの表示時、下に企画を考えた放送局の名前がクレジットされていた。 ﹃ポーラテレビ小説﹄をネットしていた系列局は、1984年3月まで8時10分で飛び降りていた。 エンディング 天気リレーのあと、日本テレビの正面玄関前から総合司会が締めくくる。観客とともにその日の放送が終了する。 観客は一般人に限らず、学園祭やイベント・本など告知や、演歌歌手やバンドなどの新人アーティストや赤ちゃん筆センターなどの企業がPRをしたり、当日夜に放送する日本テレビの番組の宣伝など多岐に渡り、時には番宣などでゲストが現れる事もあった。 福澤時代の途中からは天気リレーを廃止かつ観客を原則として入れなくなり、総合司会とお天気キャスターのみで締めることが多くなった。 日テレでは、放送終了後に徳光時代途中まではCMを挟んでマイスタ前で徳光が観覧者にインタビューをしていて、その後福留時代途中まではそのフリートークと統合してCMを挟んで次番組の﹃ルックルックこんにちは﹄のスタジオにいる岸部四郎とのクロストークが、福留時代後期から終了まではエンディングの後すぐに﹃ルックルック﹄→﹃レッツ!﹄のクロスプログラムが放送されていたが、それ以外の局では﹃ルックルック﹄の放送がある無し関係無く自社送信で提供とエンドカードが流されるか、エンドカード自体を設定せずにステーションブレイク枠の一部に充てる処理がされた︵福留時代末期以降はネット局でも﹃ルックルック﹄→﹃レッツ!﹄のクロスプログラムはそのまま流れていた[注 108]︶。福留時代の読売テレビではその日の中継先からキャスターが挨拶するローカル向けのエンディングをエンドカードとしていた。また、次の番組が﹃朝の連続ドラマ﹄だった時代には天気リレーの前に予告テロップをローカルで出していた。 この他のコーナー ●今朝のキーワード ●朝生リポート⇒きょうの現場[注 109] ●なるほどエブリデイ ●見て聞いてホント! ●こだわりの逸品 ●名物・日本の味 ●衛星中継世界は今![注 110] ●あどべんちゃあレディ[注 111] ●日本一 ●細川隆一郎の健康一番!⇒千秋実の健康第一 ●花とおじさん[注 112] ●日本列島・聞いたら答えて![注 113] ●紳助・竜介のOSAKAあっちゃこっちゃ[注 114] ●藤井・羽鳥 深夜の出来事[注 115]シリーズ企画[編集]
●毎年1月1日の元旦は時間を拡大して﹃新春・ズームイン!!朝!﹄として放送し、全国の名産品をお年玉として視聴者へプレゼントしていた。徳光時代の途中から福留時代初期まではマイスタジオを飛び出して各地からの中継で放送していた。また、1990年代からは放送開始時刻が7時よりも前になると共に、報道ヘリから富士山の初日の出を中継する企画が毎年行われるようになった。この初日の出中継は﹃SUPER﹄時代を経て、現在の﹃新春シューイチ ネンイチ﹄でも継続されている。なお、﹃モーニングショー﹄︵テレビ朝日︶、﹃初詣!爆笑ヒットパレード﹄︵フジテレビ︶などをネットするクロスネット局など一部の局では途中︵大方は8時30分︶で飛び降りていた。 ●フルネット局でも広島テレビが飛び降りを行う場合があったが、ネット枠の後のCM終了とともに自社の中継地点に切り替えて独自のエンディングの挨拶を行う形を取っていた。 ●基本的には7時スタートで終了時間を10時ごろまで延長していたが、末期は開始時間も早めて放送していた。 ●1月2日・3日は新春スポーツスペシャル箱根駅伝放送のため休止し、曜日配列によって異なるものの、4日以降から年始の放送を本格開始していた。この体制は、現在の﹁ZIP!﹂にも引き継がれている。 ●1989年から1994年まで毎年1月下旬は年によっては異なるものの、スーパーボウル放送のため休止または8時まで短縮版を放送したことがある。 ●毎年7月1日には富士山の山開きに合わせ、富士山頂からの生中継を特集にして放送した。これは﹃ズームイン!!SUPER﹄においても数年間は引き継がれた。 ●毎年8月6日には﹁8・6特集﹂として、広島テレビとの二元中継で放送時間すべてを原爆についての特集にあてていた。なお8時からは﹁NNN報道特別番組﹂として広島平和記念式典を生中継していたので、厳密には本番組としての放送時間は1時間である。 ●小学生チャレンジランキング大会︵通称‥チャレラン︶ ●年数回、祝日︵特に体育の日︶などに行われた全国各地の小学校対抗の運動大会。空き缶積み・背中渡り競争・靴とばし・ぞうきんがけリレー・9人10脚等の競技で順位を争い、優勝校を決定した。その日は90分間の放送がまるまる利用され、通常のコーナーを休止して︵﹁NSヘッドライン﹂と場合によっては﹁プロ野球イレコミ情報﹂だけは放送︶大々的に開催された。ネット局同士の連携が高技術の同番組ならではの企画だった。後年、この企画は他局の企画︵フジテレビ﹃FNSの日﹄や、テレビ朝日﹃小学生クラス対抗30人31脚﹄︶にも影響を与えたとされる。 ●投稿ビデオ大賞 ●﹁チャレラン﹂に代わる企画として登場。視聴者から面白いビデオを募集して、大賞や個人賞等を決定した。審査委員長は鈴木清順︵鈴木の代役として村川透が出演したこともある︶が務め、﹃ジパングあさ6﹄放送終了後居残っていた永井美奈子などが審査員として加わっていた。この企画は﹃SUPER﹄やゴールデンタイム枠のスペシャル番組として﹃SUPER﹄が終了するまで年数回放送されていた。 ●全国妙なモノ図鑑 ●中京テレビの企画制作で不定期に放送されていた。街で見かける妙な道路標識・看板・建造物などをノンストップで紹介していくもので、テレビ版のVOWのような企画だった。一部の局の担当では事前に収録したものを放送した。 ●路線別・鉄道唱歌の旅 ●﹁情報トレイン﹂の中で特に人気が高く、2000年3月15日にCD化されたシリーズであった。初登場は1997年10月14日︵鉄道の日︶放送の﹁鉄道唱歌 東海道線﹂であり、その後各主要路線ごとに放送された。各放送局のアナウンサーが受け持ちエリア別︵一例として﹁東海道線﹂ではJR東日本の東京駅ではなく新橋駅[注 116]からスタートし熱海駅で日テレから静岡第一テレビ、豊橋駅で中京テレビ、米原駅で読売テレビと沿線の系列各局でリレーされた︶に電車に乗って鉄道唱歌にちなんだ場所を巡る。歴代スタッフ[編集]
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制作[編集]
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総監督[編集]
チーフプロデューサー[編集]
演出[編集]
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- 横山正悟
テレビドラマ[編集]
1988年11月15日に、火曜サスペンス劇場でこの番組を舞台とした﹁ズームイン!!朝!殺人事件﹂が放送された。キャストは渡辺典子︵主演︶、金田賢一、高木美保、高松英郎、立枝歩ほか。当時のネット局であるテレビ長崎が舞台で、福留も出演し、エンディングには﹁31分31秒﹂が行われる流れだった。
特別番組[編集]
- ズームイン!!名物アナ生ナマクイズ
- 日時:1991年12月22日 日曜15:30 - 16:55
- 司会:福留功男
- 木曜スペシャル20周年企画 ズームイン!ザ・ワールド
- 日時:1992年 3月19日 木曜19:00 - 20:54
- 司会:徳光和夫、木村優子
- 日本テレビ開局40年 ズームイン!!夜!
- 日時:1993年 4月 9日 金曜19:00 - 22:48
- 司会:徳光和夫、福留功男、楠田枝里子
- ズームイン!!夜!
- 日時:1993年10月 8日 金曜19:00 - 21:24
- 司会:徳光和夫、福留功男
- スーパースペシャル'97 ズームイン!!朝!特選 神技・早技・達人技!みごと日本の達人たち
- 日時:1997年 3月 1日 土曜19:00 - 20:54
- 司会:福留功男、永井美奈子
- ズームイン!!朝!特選 爆笑投稿おもしろ人間
- 日時:1997年12月28日 日曜19:00 - 20:54
- スーパースペシャル'98 ズームイン!!朝!
- 日時:1998年 3月21日 土曜19:00 - 20:54
- 世帯視聴率:関東18.4% / 関西18.7%
- ズームイン!!朝!20年 NG投稿㊙映像150発 衝撃&爆笑スペシャル
- 日時:1998年12月23日 水曜19:00 - 20:54
- 司会:福澤朗
- ズームイン!!春まつり 投稿NG㊙爆笑ビデオ 今夜も超ド迫力生放送
- 日時:1999年 3月28日 日曜19:00 - 20:54
- 司会:福澤朗
- ズームイン!!朝! NG投稿㊙映像150発 衝撃!!爆笑スペシャル
- 日時:1999年12月23日 木曜19:00 - 21:24
- 司会:福澤朗
- ズームイン!!朝! NG投稿㊙映像150発 衝撃!!爆笑スペシャル
- 日時:2000年12月24日 日曜19:00 - 20:54
- 司会:福澤朗
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 後に本番組の2代総合司会となる福留功男が担当
(二)^ 外部からの中継回線を通常のスタジオより多く受け入れられる設計であった。
(三)^ 当時は子供向け番組の﹃おはよう!こどもショー﹄を放送していたが、同番組は裏番組の﹃ママとあそぼう!ピンポンパン﹄と﹃ひらけ!ポンキッキ﹄に視聴者が急速に移行したことで視聴率が激減し、その結果キー局民放の視聴率が最下位にまで転落した。
(四)^ 同番組では、毎回150本とも言われたショートコントを86分の放送時間内に繋いで放送していた。
(五)^ 1970年代初頭の谷岡ヤスジの漫画が元の流行語﹁全国的にアサー!﹂が元ネタ。
(六)^ 小林社長が番組タイトルの名付け親というのは、初代司会者の徳光和夫は当初から知っていたが、2代目司会者の福留功男は番組開始時も司会在任時もこの事実は知らなかった模様で、番組勇退後に徳光のラジオ番組である﹃徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー﹄にゲスト出演して徳光と対談した際に徳光から初めてこの事実を知らされた。
(七)^ 福永と徳光は遠縁の親戚である。
(八)^ 日テレ社内では、﹁国家予算は、5円﹂と読んでしまって以降﹁徳光にはニュース読ますな﹂と言われるほどであった。徳光和夫#日テレアナウンサー時代も参照。
(九)^ 福留が本番組と﹃ウルトラクイズ﹄が重複していた期間の﹃ウルトラクイズ﹄は、歴代で相当過酷な旅の行程になっており、本番組と重複した初年度の第12回は北極圏から南極圏まで行き、13回はオセアニアからアメリカ大陸に上陸、福留が本番組と重複していた最後の年の14回はアメリカ大陸上陸からバスツアーでニューヨークまで行くという内容であり、スケールが大きくなっていた為、初期は9月初め前後からロケがスタートして中旬には収録が終わっていたが、この時期は10月まで食い込んだりしていた。
(十)^ 高木と同じく1953年開局入社の徳光寿雄は徳光和夫の実父。
(11)^ 福留の著書﹃葬らん!﹄にも同様の記述がある。
(12)^ 徳光が﹃プラス1﹄キャスター就任が先に決まり、その為に﹃ズームイン﹄から徳光は勇退するという流れで、その後に﹃ズームイン﹄は福留と決まった。また、徳光は﹃ズームイン﹄勇退と﹃プラス1﹄就任は自分の意志で決めた事ではなかった事と、この時期からフリー転身を考え始めた事を後年話しており、実際に﹃ズームイン﹄勇退から1年半後の1989年9月に日本テレビを退社しフリーとなった︵﹃プラス1﹄はフリーの立場で1991年9月まで継続した︶。
(13)^ 当時はネット局アナウンサーの持ち回り担当
(14)^ この時、徳光は辛坊のニュース感覚に驚かされたという。
(15)^ 辛坊は1990年まで﹃ズームイン!!﹄の大阪キャスターを担当後、﹃ニューススクランブル﹄に出演し、德光と同様に夕方のニュースを担当。その辛坊は後番組の﹃ズームイン!!SUPER﹄において開始から9年間コメンテーターという形ではあるもののメイン格で出演していた。
(16)^ ﹁徳光時代の番組カラーをそのまま引き継ぐ﹂という意味である。
(17)^ 企画自体は好評だったが、不確実性が高くアクシデントの主要因となっていたため。番組中及びエンディングは継続したが、来訪者にインタビューするなど絡むことはなくなった。
(18)^ TBSでは1991年の10月期改編から期首特番として﹃オールスター感謝祭﹄の放送を開始。3月・9月の第4・5土曜日もしくは4月・10月の第1土曜日に﹃感謝祭﹄の放送がある場合﹃ブロードキャスター﹄は休止となるため、その時期を利用して休みを取っていた。﹃ズームイン﹄勇退後に福留はTBSで昼の帯番組である﹃ベストタイム﹄の司会を担当していたが、同番組を担当していた時も﹃ズームイン﹄担当当時と同じ形の休暇の取り方をしていた。
(19)^ ﹃ウルトラクイズ﹄での福留の肩書きは出題・海外リポーターという肩書きで、厳密な総合司会はスタジオパートを担当していた高島忠夫、石川牧子だったが福留が当番組と重複になった2年目︵1989年、第13回︶からはスタジオパートは廃止されたため、実際は福留が総合司会の形だった。また福留から福澤に交代した第15回︵1991年︶は小倉淳、永井美奈子がスタジオパートを担当したが、第16回︵1992年︶は再びスタジオパートは廃止となり以降番組が中断して、福留が復活した“今世紀最後”︵1998年︶は伊東四朗、松本明子がスタジオパートを担当した。
(20)^ この年の﹃ウルトラクイズ﹄に関しては東京ドーム1次予選での第1問までを福留が担当して、第2問以降からを福澤にバトンタッチしている。
(21)^ ただし、﹁NNNニュースジパング﹂のコーナーのみ全国完全ネットで放送されていた。
(22)^ 発生当日の17日は冒頭から随時、日本テレビ報道フロアや被災地域の地元局・読売テレビと中継を結びながら地震の第一報を伝えたが、番組放送中の時点ではまだ神戸市内の被害状況の甚大さが明らかになっておらず、一部地震関連以外のニュースも伝えたほか、﹁プロ野球いれコミ情報﹂︵当時の福岡ダイエーホークスが前年のドラフト1位で獲得した城島健司がゲスト出演︶など一部の通常コーナーも放送した。しかし、読売テレビローカルで放送された天気予報やこの日の番組エンディングで映された読売テレビが設置している神戸市内のお天気カメラには遠方で火災が発生している様子が映されていた。
(23)^ なお、読売テレビの中継やローカル枠はこの日、大阪府堺市のある寺から中継を行う予定で、この日の当番キャスターだった三浦隆志や全国ネットの時間には出演しないローカルの天気コーナー担当の名村美千代、この日担当の中継スタッフは中継先の寺へ車で移動中に地震に遭遇している。また、この日当番ではなかった脇浜紀子も兵庫県尼崎市の自宅マンションで遭遇し、冒頭で自宅からマイスタへ電話リポートを送った。この他、当日中継があったきくち教児・山下泰則・古賀ゆきひと、当日中継のなかった田坂るりも岐阜・愛媛・福岡・広島でそれぞれ地震に遭遇している。
(24)^ 翌18日から20日は福留が神戸入りした19日も含めて全編地震報道となり、神戸市内など被害の大きかった各地や読売テレビ報道フロアと何度も中継を結びながら番組を進行。これにより﹁NSヘッドライン﹂や天気予報を除く全ての通常コーナーを休止した。また、20日放送分は読売テレビとの共同制作という形が取られた︵内容や番組送出は通常通り日テレから︶。福留は18・20日は通常通り東京のマイスタジオから出演したが、普段のラフな格好では無くスーツ姿で出演した。
(25)^ しかし、当該の被災者は数分後に白骨まで燃え切った状態の遺体で発見されている。
(26)^ この際の提供テロップは24時間テレビ 愛は地球を救うで92年から採用していた﹁ここまでは ︵スポンサー名︶の提供でお送りしました ﹂
(27)^ 秋田県では同日にテレビ朝日系列の秋田朝日放送が開局
(28)^ 前年の流行語大賞にも選ばれた﹁ブッチホン﹂の有名な一例であり、日本テレビの番組でブッチホンを扱うときには必ずと言っていいほど流される。
(29)^ 辛坊は福澤・羽鳥慎一が司会を務めた後番組の﹃ズームイン!!SUPER﹄で新聞解説を担当していたが、2011年当時は大阪に戻って﹃朝生ワイド す・またん!﹄の司会。
(30)^ 中には四国放送のように自社制作のワイド番組を放送していた局もあった。
(31)^ 但し、ANNに加盟したのは1980年4月1日。
(32)^ 1981年3月31日迄NNNに加盟していたNSTでは未放送。
(33)^ 1989年4月以降はテレビ朝日系列︵サブ︶とのクロスネット局でもあるが、テレビ朝日系列の一般番組供給部門には非加盟で、日本テレビの公式ウェブサイト上でも単独ネット扱い[1]。
(34)^ 正式にはニュース系列︵NNN︶のみ︵NNSは非加盟︶
(35)^ 1982年3月31日迄NNNにオブザーバー加盟していたTKUでは未放送。
(36)^ 福留が司会就任当初は﹁ふくとめのりお﹂と司会者のテロップにふりがなも記載されていた
(37)^ 後身の﹃ズームイン!!SUPER﹄の第2代総合司会の羽鳥慎一、﹃ZIP!﹄の初代総合司会の桝太一、﹃ズムサタ﹄の第4代目総合司会の藤井貴彦も同様。
(38)^ ただし、福留は総合司会在任中にフリーに転身、羽鳥は﹃SUPER﹄最終回と同日に日テレを円満退職してフリーに転身、それ以外︵徳光、福澤、桝、藤井︶は番組を離れて程なくしてフリーに転身した。
(39)^ 羽鳥は第20回のコーナー司会を、桝は第31 - 40回の総合司会を務めている。
(40)^ 福留時代には後述の通り、代理で徳光の総合司会が復活したこともあった。
(41)^ この福留の娘が、後に日テレに入社した娘だと思われる︵福留には他に娘がもう一人いる︶。その福留の娘は1998年に復活した﹃ウルトラクイズ﹄海外ロケのスタッフとして父親と共に参加している。
(42)^ 系列局の開局時や福留時代における﹃高校生クイズ﹄の収録、マイスタが機材の更新工事などで使えない場合。
(43)^ 当初中京テレビは﹁名古屋・中京テレビ﹂だったり、ネット開始直後のくまもと県民テレビは﹁熊本・県民テレビ﹂と表記されていた。
(44)^ 末期にはあったネット局も開始当時〜中期にかけて非ネットだった場合は隣接するネット局が担当していた。石川県における北日本放送や愛媛における西日本放送がそれにあたる。特集企画などで特別に裏送りで中継参加した非ネット局も同様に局名表示があった︵例‥宮崎・テレビ宮崎︶。また、1995年1月17日に発生した阪神大震災の時は、兵庫県淡路島から、本来は放送エリア外である四国放送が中継を担当した例もある︵画面右上のクレジットは﹁淡路島・四国放送﹂と表示︶。一方、福岡放送や静岡第一テレビのように局全体の不祥事により日本テレビ系列を一旦除名︵番組供給関係のNNSのみ除名され、報道関係のNNNには残留︶された局は中継担当も外され、福岡の場合は近隣ネット局︵熊本県民テレビなど︶が、静岡の場合は日本テレビが中継を担当した。報道関連の中継はこれまで通りだがその際の右上のテロップは﹁福岡﹂﹁静岡﹂となっていた。
(45)^ プロデューサーを工藤浩などが務めた。
(46)^ ミヤギテレビ公式プロフィールの左側にある﹃Q.アナウンサーを目指した理由﹄に本番組の件が書かれており、︵青森放送の地元・青森県内に居た頃から同局を通じて︶毎日見ていたと挙げている。
(47)^ 堀は福留司会時代初期に福留が﹃ウルトラクイズ﹄海外ロケで不在の時期に代理司会を務めていたり、魁も福留が同様の理由で不在の時期に福留の代理で﹁イレコミ情報﹂の巨人を応援リポーターを務めていた。福留が﹃ウルトラクイズ﹄から離れて当番組を長期間離れなくなってからは魁は大洋→横浜リポーターになった。
(48)^ 日本テレビが中継を担当したこともあり、その時の発局スーパーは﹁山梨・日本テレビ﹂
(49)^ 後に参議院選挙に出馬したが落選
(50)^ 1999年 - 2001年4月は、CM間引き問題によりNNS除名処分を受け、日本テレビが中継を担当
(51)^ 発局スーパーは﹁静岡・日本テレビ﹂。ニュース中継に関してはSDTが担当したが、発局スーパーは﹁静岡﹂のみ
(52)^ 番組開始のころは発局スーパーは﹁名古屋・中京テレビ﹂、その後は﹁︵中継地の県名︶・中京テレビ﹂となる。
(53)^ 番組初期に板東英二が毎週月曜日に出演し、きくち教児と共に中日ドラゴンズの情報を全国に伝えた。
(54)^ 1990年4月から1991年3月まで1年間出演。後にテレビ西日本のアナウンサーとして﹃めざましテレビ﹄の中継コーナー担当を歴任。
(55)^ 番組開始のころは発局スーパーは﹁大阪・よみうりテレビ﹂だったが、後に大阪府以外の近畿地方各府県から中継の場合は﹁︵中継地の府県名︶・よみうりテレビ﹂と表示される。
(56)^ 番組開始のころは発局スーパーは﹁山陰・日本海テレビ﹂、その後は﹁︵中継地の県名︶・日本海テレビ﹂となる。
(57)^ 2月に広島東洋カープがキャンプを行う期間に限り宮崎県の取材も担当。
(58)^ 番組は終始ネットせず、番組中期より裏送りにて参加。詳しくは﹃おはようとくしま﹄参照
(59)^ 初期は番組をネットしていない徳島・愛媛地区の取材も担当。
(60)^ 1992年9月30日︵最後の担当は1992年9月17日︶まではTBS系﹃ビッグモーニング﹄の中継リポーターを務めていた。
(61)^ 佐賀県の取材も担当。
(62)^ NIB開局初日とKYT開局初日の中継リポーターとしても出演。
(63)^ 1990年10月から1991年3月まではFBSが取材を担当。
(64)^ ネット移動後の1998年10月から2001年10月11日まで、フジテレビ系﹃めざましテレビ﹄の中継リポーターを担当。
(65)^ フジテレビの同時間帯の番組をネットしているテレビ宮崎に代わって、宮崎県の取材も担当︵野球関連を除く︶。
(66)^ KKT退職3日前、実家の火災が原因で死亡。訃報は番組の当日ラストと翌日のオープニングで福留が伝えた
(67)^ のちにFBSに移籍、東京でフリーアナウンサーとして活動、現在は、KTSに復帰。
(68)^ 日本テレビ那覇支局が中継担当のため当初の発局スーパーは﹁沖縄・日本テレビ﹂だったが、後に﹁沖縄﹂のみとなる
(69)^ 一部地域を除く。﹃ジパング - ﹄開始当初はステーションブレイクが入っていた。
(70)^ ちなみに、﹃ジパング - ﹄側もエンディングはメインキャスターとニュース解説者がマイスタ前に出ていた。
(71)^ ﹃24時間テレビ﹄の﹁復活ズームイン!!﹂のコーナーでも使用されている。
(72)^ この年の8月31日で福留が総合司会を勇退、8月28日と31日の2回は後述の台風被害による特別編成の為、本来の形のオープニングでは放送されなかった
(73)^ ﹁朝﹂の時計の部分がズームくんの顔となっている
(74)^ 飛び出す際にロゴが反転するケースとしないケースの2種類あった。またその際に﹁朝﹂が元の時計を模したものに戻る。
(75)^ この回から福澤が総合司会に就任
(76)^ ちなみに、福留の最終出演日の1998年8月31日は月曜日で、本来は﹁福留ラストウイーク﹂として、その前週からは福留が地方から生中継を行い、福留の故郷の高知県でも中継が行われる予定だったが、この台風4号のために福留の最終出演2回は当初の予定が中止となった。
(77)^ ただし経済ニュースや海外ニュース、また著名人の訃報など東京発信となるものが加わる場合があり、それらはマイスタから総合司会が読み上げた。
(78)^ 全て当日中継がある系列局のみで、その日の天気リレーやズームインズーム・朝生リポートなどの特集で中継する場所から伝えていた。これはイレコミ情報も同様。2県に跨るニュースの場合は別々に中継を振る場合と中心となった地域に一括する場合とあった。ただし、重大事件・事故の場合はアナウンサーではなく報道記者が現場から中継したり、その地域のニュースがあっても中継がない場合は東京のキャスターが読む形をとった。
(79)^ 勝利チームのものは喜び顔、敗戦チームのものは泣き顔、連敗の場合は怒り顔、優勝の場合は胴上げの形で置かれる。
(80)^ 1989年以降。パ・リーグの優勝争いが佳境に入るころや日本シリーズ開催時には出演機会が多かった
(81)^ 途中から首位のみ金色
(82)^ 原則的に阪神⇒タイガース、中日⇒ドラゴンズ、といった具合に英語名を使用。
(83)^ ヤクルト⇒東京音頭、阪神⇒六甲おろし、など
(84)^ ﹁GAME OVER﹂の表記と効果音が挿入されたのは福留時代以降。ののしり合いになった場合は、福留がかならず﹁おにぎやかで恐縮でございました﹂というフレーズでコーナーをしめていた。総合司会が不在で代理司会が担当の時は﹁イレコミ情報﹂のみ代理司会が不参加というパターンがあったが、︵堀敏彦が代理司会の時が該当、当時、北海道にプロ野球チームがなかったために普段は﹁イレコミ情報﹂に参加していなかった札幌テレビアナの森中慎也が代理司会の時は当人が阪神ファンのため参加していた︶﹁GAME OVER﹂の告知だけ代理司会が担当というパターンがあった。徳光時代〜福留時代初期は﹁NSヘッドライン﹂の後にCMに入らず﹁イレコミ情報﹂だった為、﹁イレコミ情報﹂の後に即CMだった。
(85)^ 代理司会に代わってニュースのみ担当
(86)^ ﹁困ったことだ﹂﹁やっかいだ﹂﹁むずかしいな﹂などの意味合いを持つ大阪弁。右手を頭部の後ろに回して左耳をつまむという、財津一郎の﹁キビシーッ!﹂と同じポーズを取って言っていた。2011年8月21日の﹃24時間テレビ﹄︵徳光和夫がマラソンランナーを務めた︶で7時過ぎの列島リレーでは久々に森と辛坊が、24年ぶりに﹁なんぎやなぁ﹂と言った。
(87)^ 2020年10月24日、辛坊がニッポン放送﹃徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー﹄に出演した際、このフレーズは偶然出たのではなく、狙ってやったものである、と述懐した。コーナーの特性上、巨人に時間や情報が割かれがちなうえ、チームに負けが込んで低迷するとどんどんと中継時間が削られることが多々あり、折しも阪神が低迷期に当たるこの頃はこのコーナーにおける読売テレビの中継時間が少なかった。そのため当時のキャスターである辛坊と森や読売テレビのスタッフが集まって﹁なんとか読売テレビの放送時間を確保する術はないか﹂と考えして編み出していきついたのがこのフレーズなのだという。
(88)^ 同曲を歌った森と辛坊は2010年春改編より読売テレビの朝ワイド番組﹃朝生ワイド す・またん!﹄の進行をしていて番組は現在も放送されているが、辛坊は2019年3月限り、森も2022年3月限りで番組を降板している。
(89)^ 同曲がリリースされた1989年度は辛坊と森が読売テレビ担当キャスターだったので、辛坊が当番の日も森の当番の日と同様に流されていた。1990年度以降は辛坊が﹃ニューススクランブル﹄キャスター就任に伴い当番組は降板したため、以降は森の当番の日のみ流されていた。辛坊降板後に森以外のキャスターが当番の日は勝敗関係無しに﹁六甲おろし︵立川清登歌唱バージョン︶﹂のインストゥメンタルを流していた。
(90)^ 読売テレビの場合は関西ローカルパートとのからみから、担当曜日でない方のリポーターが東京出張していた︵辛坊治郎や森たけしは担当でない日にマイスタ出張がよくあった︶。中京テレビの場合はきくち教児がタレントのため佐藤啓が東京から出演がほとんどで、日本シリーズの時には西武がパ・リーグ出場チームで関東のチームであるにもかかわらず、ホークス担当アナの古賀ゆきひとがパ・リーグ代表としてマイスタから出演という事もあった︵当時のホークスは1978年からBクラスが続いており、1997年まで暗黒時代が続いた︶
(91)^ 当時のパ・リーグ球団は関東・関西両圏に集中しており福岡以外の地方局は出番がなかったため。札幌や仙台へのチーム移転は本番組が終了した後である。
(92)^ 西武と日本ハムが優勝を争った1993年には週1回の割合で﹁イレコミ情報﹂のラストに﹁セクシーパ・リーグ﹂というコーナーがあり、福岡放送発信で古賀ゆきひとがパ・リーグの順位や状況を伝えていた。前述の通り古賀はホークスだけではなく、パ・リーグ情報の全てを請け負っていて、日本シリーズでは当時は西武が黄金時代だったが、パ・リーグから西武が日本シリーズに出場すればパ・リーグ代表として日本シリーズ期間中﹁イレコミ情報﹂に出演している。なお、古賀と同時期に福岡の担当だった堤信子は本コーナーには出演していない。
(93)^ 1993年からチーム名が﹁横浜ベイスターズ﹂に変わった際にもとの名義に戻った。
(94)^ 徳光時代から徳光と一緒に巨人応援リポーターでよく登場していたが、福留司会時代初期には、﹃ウルトラクイズ﹄収録で福留が﹃ズームイン﹄不在の時は巨人応援リポーターとして登場していた。福留が司会就任初年度︵1988年︶に﹃ウルトラクイズ﹄収録で番組を離れる直前回の﹁イレコミ情報﹂では、福留が魁に﹁私がいない間頼むよ﹂といったやり取りをしている。これに関しては、総合司会の代行は辛坊治郎や脇田義信といった他球団応援のリポーターが代行しているパターンが多いための処置だと思われる。魁が大洋→横浜応援リポーターになったのは福留が﹃ウルトラクイズ﹄を勇退して長期間番組を離れることがなくなった1991年以降である。
(95)^ カウントダウン表示は1990年のリニューアル以降からで、それ以前は﹁NSヘッドライン﹂の後CMに入らず﹁イレコミ情報﹂だったため﹁イレコミ情報﹂の後にカウントダウン無しでCMに入り、その後、天気予報→ウィッキーさん→朝の詩の順だった。1990年のリニューアル以降は﹁NSヘッドライン﹂の後にCMが入り、天気予報︵全国・ローカル枠の順︶→イレコミ情報→朝の詩の順になり、︵ここから、カウントダウン表示が入り﹁GAME OVER﹂と流れて﹁朝の詩﹂にそのまま入る。﹁朝の詩﹂が無くなってからはCM後の予告を福留が告知してCMに入っていた︶﹁ウィッキーさん﹂は後半パートに移動している。カウントダウンが無くなった後は福留が﹁以上、イレコミ情報でした。﹂と言うだけに留まった。
(96)^ この日の放送は福留が夏休みであったため、堀をメイン司会に長野駅から生放送した
(97)^ ただし、Jリーグ発足当初には中京テレビから佐藤啓が名古屋グランパスエイトの話題を、読売テレビから森たけしがガンバ大阪の話題をそれぞれ中継で伝えていて、どちらも応援チームのシャツを着て話題を伝えている。
(98)^ あくまで後半のローカルスポンサー枠の一部であるため、提供クレジットを行う場合は各局で送出する。なお、読売テレビと高知放送は﹃新春・ズームイン!!朝!﹄などの例外を除き、原則として後半部を表向きオールスポット扱いとしていた︵読売テレビは提供クレジットの代わりに番組への投書先を告知していたことがあった︶。
(99)^ 一例として1988年1月1日は徳光が出演し、ナレーションも担当した特別CMが放送された。
(100)^ 全国ではなく、基幹地域やそれに準ずる一部地域のみ
(101)^ この時はウィッキーさんの中継を見ていた福留が﹁あれ、たけしさんじゃないかな﹂とウィッキーさんに指摘して、それでウィッキーさんも気付いてたけしに絡み始めてコーナー終了となった。それまでは﹁変な人が歩いている﹂とウィッキーさんも言ってるだけでたけしとは気付いていなかった。
(102)^ ﹁ZIP!﹂のレギュラーに就任した際、35年ぶりの復帰と語っている。
(103)^ 1985年9月までは花王石鹸。社名変更に伴い、同年7月からの3か月間は月のマーク+漢字の花王ロゴがアップで写されていた
(104)^ 後述。コーナー制作はベテランナレーターの羽佐間道夫などが所属しているムーブマンが担当していた
(105)^ 以降の時間はローカルセールスあるいはオールスポット枠
(106)^ 全国を結び、ひとつのテーマに関して掘り下げて特集するコーナー。毎回、1秒前の7時31分30秒にマイスタの副調整室の時計がアップになり、1秒後の﹁7時31分31秒﹂になったと同時にコーナータイトルを読んで始まっていた。
(107)^ ﹁ズームインズーム﹂時代、読売テレビは金曜を除いてこのタイトルをそのまま流用したローカルパートを放送していたことがあった。このため、﹁ズームインズーム﹂の前にCMを挟む場合、読売テレビに配慮してコーナーの細かい内容には触れなかった。
(108)^ ただし、テレビ朝日の﹃スーパーモーニング﹄をネットしていた山梨放送・北日本放送・福井放送・高知放送やフジテレビの﹃おはよう!ナイスデイ﹄→﹃ナイスデイ﹄→﹃情報プレゼンター とくダネ!﹄をネットしていたテレビ大分では、自社送信のフィラー映像などに差し替えられるか、終了後のステーションブレイクをその分長くする処理がされた。
(109)^ 福留時代に31分31秒からズームインズームへと変わった際、放送時間が後ろにずれたため新たに新設されたコーナー。その日中継がある各放送局からローカルの話題をリレーで伝える。
(110)^ オープニングでは徳光が、飛んできた地球儀の球をキャッチし、中継地点を指し示していた
(111)^ 一般主婦による海外旅行記
(112)^ キャスターの定位置の横に置いてある、花瓶に飾られた花の特徴を紹介するミニコーナー。もちろん紹介される花は日替わりである
(113)^ 時事問題に関して各地の街頭で、一般の人に直接マイクを向けて意見を聞くコーナー。生放送だった
(114)^ 紳助・竜介が大阪の名所や話題のスポットを紹介。他に﹁TOKYOあっちゃこっちゃ﹂﹁KYOTOあっちゃこっちゃ﹂もあった
(115)^ 1994年に日本テレビに入社したアナウンサーである藤井貴彦と羽鳥慎一が﹁ナイトライダー﹂としてクルーと共に夜間に発生した首都圏の事件事故を取材するコーナー。東京都内で夜回りしているタクシードライバーに電話番号が書かれたカードを配布し、情報提供を呼び掛けていた。取材が空振りに終わった時は視聴者提供の映像を紹介したり、コーナーそのものが飛ばされたりすることもあった。尚、コーナー自体は1代限りであることから、藤井・羽鳥を将来的にニュースキャスターにするための研修を兼ねていたコーナーと思われる。
(116)^ ﹃鉄道唱歌﹄では、﹁汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり﹂から始まることと、開業当初は新橋駅︵後の汐留駅︶が東京側起点であったことに準じている。鉄道唱歌は1900年に発表されているが、東京駅は発表後の1914年に開業している。製作局の日テレは2003年に初代新橋駅であった汐留駅跡地の汐留シオサイト内に本社を移転している。
出典[編集]
(一)^ ﹁FTV﹂﹃婦人生活﹄第40巻第8号、婦人生活社、1986年8月1日、79頁、NDLJP:2324864/79。
(二)^ abcdザ・タイムマシン︵昭和40年男 2021年4月号増刊、クレタパブリッシング︶p.98 - 101
(三)^ 齋藤太朗 2000, pp. 14–16.
(四)^ 齋藤太朗 2000, pp. 20–22.
(五)^ 齋藤太朗 2000, pp. 22–24.
(六)^ ﹃テレビ夢50年﹄番組編・3︵1971 - 1980 日本テレビ50年史編集室 編︶p.62
(七)^ 齋藤太朗 2000, pp. 32–33.
(八)^ 齋藤太朗 2000, p. 25.
(九)^ 齋藤太朗 2000, pp. 34–37.
(十)^ 齋藤太朗 2000, pp. 72–73.
(11)^ “第17回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
(12)^ 齋藤太朗 2000, pp. 46–48.
(13)^ ab﹃北日本新聞﹄1979年4月2日付朝刊、テレビ欄。
(14)^ abテレビ大分25周年記念誌編集委員会編集﹃TOSテレビ大分25年のあゆみ﹄テレビ大分、1996年、77頁。
(15)^ 1981年3月迄NNSに加盟していた新潟総合テレビは本番組は未ネット。
(16)^ 齋藤太朗 2000, p. 48.
(17)^ ﹁ズームイン﹂2代目は福留ではなかった…徳光が明かす,デイリースポーツ,2017年3月19日…同日、関西ローカルで放送された﹃八方・陣内・方正の黄金列伝﹄︵ゲスト‥辛坊、森たけし︶より、証言ゲストとしてVTR出演した徳光談。
(18)^ 日本民間放送連盟︵編︶﹁大枠編成で“特別な日”を伝える 日本テレビ / 伊藤和明﹂﹃月刊民放﹄第23巻第9号、日本民間放送連盟、1993年9月1日、6 - 8頁、NDLJP:3471093/4。
(19)^ ﹃夢にはじまる : 南海放送五十年史﹄南海放送株式会社 編、2005年9月、195 - 196頁。
(20)^ ﹃農業技術研究﹄第50巻第7号、静岡県農業協同組合中央会、1996年7月1日、3頁、NDLJP:2355189/2。
(21)^ ﹃農業技術研究﹄第51巻第7号、静岡県農業協同組合中央会、1997年7月1日、3頁、NDLJP:2355201/2。
(22)^ 福澤朗 - オリコンTV出演情報
(23)^ 24時間テレビ46‥タイムテーブル公開 マラソンランナーは当日発表 SPドラマは道枝駿佑主演 チャリティー笑点には芦田愛菜が参加,2023年8月26日,まんたんウェブ
(24)^ ﹃宮川泰 テレビテーマ・ワールド﹄︵Booklet︶宮川泰、日本コロムビア、2018年。COCX-40353。
(25)^ 宮川泰 テレビテーマ・ワールド 商品情報 日本コロムビアオフィシャルサイト日本コロムビア、2018年8月27日閲覧。
(26)^ ﹃山形新聞﹄1983年4月4日付朝刊テレビ欄より。
(27)^ (株)テレビ新潟放送網﹃写真でつづる テレビ新潟10年のあゆみ﹄(株)テレビ新潟放送網、1991年11月、29頁。
(28)^ 出典、1981年4月6日付南日本新聞。
(29)^ ﹃Hoppoken = 北方圏 北の今・人・明日﹄第27号、北方圏センター、1979年4月1日、83頁、NDLJP:2832843/42。
(30)^ ab﹃Hoppoken = 北方圏 北の今・人・明日﹄第64号、北方圏センター、1988年7月15日、115頁、NDLJP:2832880/58。
(31)^ ab﹃Hoppoken = 北方圏 北の今・人・明日﹄第74号、北方圏センター、1991年1月1日、127頁、NDLJP:2832890/66。
(32)^ 河北新報社編集局 編﹃河北年鑑 昭和58年版﹄河北新報社、1982年11月1日、33頁。NDLJP:9539015/33。
(33)^ 河北新報社編集局 編﹃河北年鑑 昭和59年版﹄河北新報社、1983年11月1日、34頁。NDLJP:9571088/19。
(34)^ 河北新報社編集局 編﹃河北年鑑 昭和61年版﹄河北新報社、1985年11月1日、40頁。NDLJP:9539956/22。
(35)^ ﹃伊勢年鑑 昭和55年版﹄伊勢新聞社、1979年11月15日、418頁。NDLJP:9570174/228。
(36)^ “佐藤啓の﹁ご歓談ください﹂‥中京テレビ アナウンスルーム » さよなら、ズームイン!!その2”. www2.ctv.co.jp. 2020年3月17日閲覧。
(37)^ アニメーションは﹃巨泉×前武ゲバゲバ90分!﹄﹃カリキュラマシーン﹄のキャラクターデザインを担当した木下蓮三が手がけた。
(38)^ “新語・流行語大賞 1987年”. ユーキャン. 2015年3月13日閲覧。
(39)^ 齋藤太朗 2000, p. 30.
(40)^ 齋藤太朗 2000, p. 44.
(41)^ 1985年4月3日付け東奥日報・RAB、TVI、STVテレビ欄から。同欄に﹁新企画31分31秒﹂と記載ある。
参考文献[編集]
●齋藤太朗﹃ディレクターにズームイン!!﹄日本テレビ、2000年2月11日。ISBN 9784820397373。関連項目[編集]
●アメリカ横断ウルトラクイズ - ﹃ズームイン!!朝!﹄の歴代司会者である徳光、福留、福澤が出演︵徳光はリポーター、福留と福澤は司会を担当︶。 ●全国高等学校クイズ選手権 - ﹃ズームイン!!﹄の歴代司会者である福留、福澤、桝が司会として出演。﹃ズームイン!!﹄担当前の羽鳥も福澤のアシスタントとして番組に携わった。 ●スーパークイズスペシャル - 福留を除く﹃ズームイン!!朝!﹄の歴代司会者である徳光、福澤が出演︵徳光は解答者、福澤は司会者の一人として出演︶。 ●素人ばかうけビデオ祭り - 素人投稿ビデオ番組で、﹁投稿ビデオ大賞﹂審査委員長の鈴木清順も審査員の一人として出演。 ●オジサンズ11 - 福澤、大桃、西尾を除く﹃ズームイン!!(ZIP!を除く)﹄の歴代司会者である徳光、福留、羽鳥が出演︵徳光、福留は出演者、羽鳥は司会を担当︶。 ●未来創造堂 - 福留、大桃を除く﹃ズームイン!!(ZIP!を除く)﹄の歴代司会者である徳光、福澤、羽鳥、西尾が出演︵徳光、福澤、羽鳥はゲストとして出演、西尾は司会を担当︶。 ●人生が変わる1分間の深イイ話 - 2011年12月19日の放送で平日の歴代﹃ズームイン!!﹄の歴代男性司会者が出演︵徳光、福留、福澤、桝はゲストとして出演、羽鳥は司会を担当︶。 ●横山由依 - 本番組の特集を映画作品にした﹃夢は牛のお医者さん﹄︵2014年公開︶でナレーションを担当。 ●24時間テレビ ﹁愛は地球を救う﹂ - ﹃ズームイン!!(ZIP!も含む)﹄の歴代司会者である徳光、福留、西尾、羽鳥、水卜麻美が総合司会を担当。桝も番組に出演しているほか、﹃ズームイン!!﹄をベースにした全国リレーなどを日曜の朝に行うのが恒例となっている。第40回︵2017年︶以降は歴代男性司会者が生放送でそろって出演している。 ●正力亨 - 番組名付け親の小林與三次の義兄で、﹃ズームイン!!朝!﹄放送開始当時の日テレ取締役。徳光、福留の後ろ盾でもあった。 ●笑点 - 1984年11月25日放送分の﹃ズームイン!!朝!アナウンサー大喜利﹄に、当時の司会者だった徳光と、各地の中継キャスター︵福井放送・読売テレビ・西日本放送・広島テレビ・山口放送・くまもと県民テレビ・鹿児島テレビ︶が参加した︵アナウンサー大喜利自体は日テレのアナウンサーを迎えて定期的に行われているが、日テレ以外の系列局から参加するのはこのときが唯一だった︶。外部リンク[編集]
●ズームイン!!朝!公式サイト - ウェイバックマシン︵2000年6月22日アーカイブ分︶日本テレビ系列 平日朝7時台の情報番組枠 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
ズームイン!!朝! |
ズームイン!!SUPER |
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日本テレビ系列 平日朝7:00 - 8:30枠 | ||
NNNおはよう!ニュースワイド おはよう!こどもショー ※7:30 - 8:30 【平日放送廃止、土・日は継続】 |
ズームイン!!朝! |
ズームイン!!SUPER |
関連項目 |
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