「中村喜四郎」の版間の差分
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[[1976年]]、[[第34回衆議院議員総選挙]]に[[茨城県第3区_(中選挙区)|旧茨城県第3区]]から[[無所属]]で出馬し、初当選を果たした︵当選同期に[[愛知和男]]・[[鳩山邦夫]]・[[中島衛]]・[[西田司]]・[[池田行彦]]・[[堀内光雄]]・[[相澤英之]]・[[津島雄二]]・[[塚原俊平]]・[[鹿野道彦]]・[[中西啓介]]・[[与謝野馨]]・[[渡辺秀央]]・[[中川秀直]]・[[甘利正]]など︶。出馬に際し、父である中村喜四郎︵先代︶の遺志を継ぐ意味で、戸籍名を'''喜四郎'''に改める。当選後、[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]の[[三木武夫]]総裁から追加公認を受け、のちに自民党に入党する。自民党入党後、秘書として仕えた[[田中角栄]]が率いる[[木曜クラブ]]に所属した。[[1982年]]、[[第1次中曽根内閣]]で[[建設省|建設]][[政務次官]]に任命された。
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[[1987年]]、田中派分裂に際しては[[竹下登]]に従い、[[平成研究会|経世会]]に参加し同会事務局長に就任。[[1989年]]、[[宇野内閣]]で[[科学技術庁長官]]に就任し、初入閣を果たす。戦後生まれの閣僚は、中村が初めてであった。[[宇野宗佑]]首相の辞任に伴い、退任。後継の[[海部俊樹]][[自由民主党総裁]]の下、党総務局長に就任した。[[1992年]]、[[宮澤内閣]]で[[建設大臣]]に任命される。
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[[1987年]]、田中派分裂に際しては[[竹下登]]に従い、[[平成研究会|経世会]]に参加し同会事務局長に就任。[[1989年]]、[[宇野内閣]]で[[科学技術庁長官]]に就任し、初入閣を果たす。戦後生まれの閣僚は、中村が初めてであった。[[宇野宗佑]]首相の辞任に伴い、退任。後継の[[海部俊樹]][[自由民主党総裁]]の下、党総務局長に就任した。[[1992年]]、[[宮澤内閣]]で[[建設大臣]]に任命される。
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2013年2月19日 (火) 11:21時点における版
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生年月日 | 1949年4月10日(75歳) |
出身地 | 茨城県猿島郡境町 |
出身校 | 日本大学法学部 |
学位・資格 | 法学士 |
所属委員会 | 決算行政監視委員会 |
世襲 |
2世 父・中村喜四郎(参議院議員) 母:中村登美(参議院議員) |
選出選挙区 |
(旧茨城3区→) 茨城7区 |
当選回数 | 12回 |
所属党派 |
(自由民主党→) (無所属→) (改革クラブ→) 無所属(自由民主党・無所属の会) |
ウェブサイト | 中村喜四郎オフィシャルサイト |
中村 喜四郎︵なかむら きしろう、1949年4月10日 - ︶は、日本の政治家。衆議院議員︵12期︶。出生時の名前は中村 伸︵なかむら・しん︶。
建設大臣︵第58代︶、科学技術庁長官︵第43代︶、自由民主党総務局長を歴任した。
父・中村喜四郎︵先代︶、母・中村登美は共に参議院議員を務めた。
来歴・人物
茨城県猿島郡境町生まれ。日本大学法学部卒業。 1976年、第34回衆議院議員総選挙に旧茨城県第3区から無所属で出馬し、初当選を果たした︵当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・塚原俊平・鹿野道彦・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など︶。出馬に際し、父である中村喜四郎︵先代︶の遺志を継ぐ意味で、戸籍名を喜四郎に改める。当選後、自由民主党の三木武夫総裁から追加公認を受け、のちに自民党に入党する。自民党入党後、秘書として仕えた田中角栄が率いる木曜クラブに所属した。1982年、第1次中曽根内閣で建設政務次官に任命された。 1987年、田中派分裂に際しては竹下登に従い、経世会に参加し同会事務局長に就任。1989年、宇野内閣で科学技術庁長官に就任し、初入閣を果たす。戦後生まれの閣僚は、中村が初めてであった。宇野宗佑首相の辞任に伴い、退任。後継の海部俊樹自由民主党総裁の下、党総務局長に就任した。1992年、宮澤内閣で建設大臣に任命される。 しかしゼネコン汚職事件に絡み、自民党独占禁止法に関する特別調査会会長代理時代に鹿島建設からの依頼で公正取引委員会への口利きをした斡旋収賄罪容疑が浮上。検察は任意捜査を求めるも中村がそれを拒否をしたため、検察は逮捕許諾請求を国会に提出して逮捕する方針を取った。国会で逮捕許諾決議が可決され、中村は逮捕された。国会会期中の現職国会議員の逮捕は1967年の関谷勝利以来27年ぶりであった。なお、取調べでは完全黙秘を貫いたため、調書が1通も作成されなかった。7月28日に保釈。拘置日数は140日間となった。 その後も議員辞職はせず、強固な結束力を持つ後援会組織︵喜友会︶をバックにつけ、保守系無所属のまま当選を続ける。1997年10月、東京地方裁判所で懲役1年6ヶ月、追徴金1000万円の実刑判決を受け、控訴したが2001年4月に東京高等裁判所により控訴が棄却された。同年10月、上告中ながら衆議院25年在職の永年表彰を受ける。2003年1月、最高裁判所が中村の上告を棄却し、実刑が確定したため衆議院議員を失職した。2004年2月10日に黒羽刑務所から仮釈放。 2005年の第44回衆議院議員総選挙に再び無所属で茨城県第7区から出馬。小泉純一郎首相が推進する構造改革や郵政民営化を全面的に支持し、返り咲きを果たした。国会議員在職時代の政治事件で実刑を受けた者が国政選挙に当選したのは1969年の福田繁芳︵1961年実刑確定︶以来36年ぶり。1992年12月16日以降は公職政治家が収賄罪で有罪が確定した場合、刑期満了から一定期間は公民権が停止されるが、事件当時の1992年1月にはその制度がなく、憲法の遡及処罰禁止規定︵39条前段︶により収賄罪で実刑が確定しても失職に留まり、刑期満了から一定期間の公民権停止はなされなかった。 2009年の第45回衆議院議員総選挙では﹁日本再建﹂を掲げて構造改革や政界再編を訴え、前回の総選挙に比べて得票数はおよそ1万票減らしたものの、茨城7区で自民党の永岡桂子、民主党の柳田和己を破り、11回目の当選を果たした。同年10月、改革クラブに入党[1]し、これによって改革クラブは政党要件を回復した。10月26日には、改革クラブが統一会派を組む自民党の代議士会に15年ぶりに出席した。しかし長年、茨城で中村を相手に激しい選挙戦を繰り広げてきた自民党茨城県連の関係者からは戸惑いや不満の声も上がり、12月、長谷川大紋参議院議員が自民党を離党した。 2010年4月23日、自民党を離党していた舛添要一らが改革クラブに入党した。同日、舛添は党代表に就任し新党改革と改称した。中村と大江康弘は舛添の入党、党首就任に反発し、それぞれ改革クラブを離党した[2][3]。その後は自民党の院内会派である﹁自由民主党・無所属の会﹂に参加している。 2011年5月12日、自民党伊吹派に﹁客員会員﹂として入会[4]。 2012年の第46回衆議院議員総選挙では、公明党の推薦を得た。また中村本人の依頼で元首相森喜朗が茨城7区を訪れ応援演説を行った。これに対し自民党の永岡桂子が﹁自民党公認候補を支援せず対立候補を支援した﹂として森に抗議するという一幕もあった。公約として﹁党より人﹂を掲げて、比例代表制度廃止、建設国債発行反対、国防軍設置反対などを訴え、自民党の永岡、日本維新の会の筒井洋介らを破り、12回目の当選を果たした。エピソード
- 政界きってのマスコミ嫌いで有名であり、選挙戦中の講演会やミニ集会からは一部を除くマスコミを全てシャットアウトしている。ホームページについても自らの名前のドメインは取得しているものの、ブルーバックにアドレスが表示されるだけである。
- 茨城県坂東市岩井に先代から経営を引き継いだ「岩井自動車学校」があり、専務取締役を務めている。
- 田中元首相の秘書時代に後援会組織越山会の選挙戦術に感銘を受け、参議院議員だった父親から継承した後援会組織(喜友会)を改革した。
論文
脚注
- ^ 中村喜四郎氏、改革クラブに入党News i TBSの動画ニュースサイト 2009年10月19日
- ^ “舛添氏に反発?中村元建設相が改革クに離党届”. 読売新聞. (2010年4月22日) 2010年4月23日閲覧。
- ^ “中村喜四郎氏、改革ク離党 「舛添新党」合流に反発か”. 茨城新聞. (2010年4月23日) 2010年4月23日閲覧。
- ^ 中村元建設相:自民党伊吹派の「客員会員」に 復党はせず毎日新聞 2011年5月12日
関連項目
議会 | ||
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先代 村岡兼造 |
![]() 1987年 - 1988年 |
次代 野呂田芳成 |
公職 | ||
先代 山崎拓 |
![]() 第58代:1992年 - 1993年 |
次代 五十嵐広三 |
先代 宮崎茂一 |
![]() 第43代:1989年 |
次代 斎藤栄三郎 |