「倉石忠雄」の版間の差分
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== 来歴・人物 == |
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[[長野県]][[更級郡]][[稲荷山町]]︵現・[[千曲市]]︶に、製糸用繭問屋を経営していた倉石万平の子として生まれる。少年時代の友人に漫画家の[[近藤日出造]]がいる。長野中学︵現・[[長野県長野高等学校]]︶を経て、[[1925年]]に[[法政大学]]<ref name="kotobank"/>法科を卒業。法大在学中は弁論部で活動。[[森恪]]の知遇を得て、[[立憲政友会]]の院外団にも参加する。この活動で同じく院外団メンバーだった[[大野伴睦]]と知り合った。
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[[長野県]][[更級郡]][[稲荷山町]]︵現・[[千曲市]]︶に、製糸用繭問屋を経営していた[[倉石万平]]の子として生まれる。少年時代の友人に漫画家の[[近藤日出造]]がいる。長野中学︵現・[[長野県長野高等学校]]︶を経て、[[1925年]]に[[法政大学]]<ref name="kotobank"/>法科を卒業。法大在学中は弁論部で活動。[[森恪]]の知遇を得て、[[立憲政友会]]の院外団にも参加する。この活動で同じく院外団メンバーだった[[大野伴睦]]と知り合った。
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大学卒業後は婦人雑誌を発行していた﹁婦女界社﹂に入社する。同社社長の都河竜に目をかけられ二女と結婚、また都河の援助で[[ロンドン大学]]に留学、社会政策を学ぶ。帰国後は婦女界社常務を務める。[[1932年]]の総選挙で長野1区︵当時︶から立憲政友会公認で立候補したが落選した。戦時中は[[台湾]]に渡り、[[日曹コンツェルン]]系の南日本化学工業専務、台湾製塩監査役等を歴任する。
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大学卒業後は婦人雑誌を発行していた﹁婦女界社﹂に入社する。同社社長の[[都河竜]]に目をかけられ二女と結婚、また都河の援助で[[ロンドン大学]]に留学、社会政策を学ぶ。帰国後は婦女界社常務を務める。[[1932年]]の総選挙で長野1区︵当時︶から立憲政友会公認で立候補したが落選した。戦時中は[[台湾]]に渡り、[[日曹コンツェルン]]系の南日本化学工業専務、台湾製塩監査役等を歴任する。
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[[1947年]]、[[第23回衆議院議員総選挙]]に[[日本自由党]]公認で[[長野県第2区 (中選挙区)|旧長野2区]]より立候補し当選(当選同期に[[田中角栄]]・[[鈴木善幸]]・[[中曽根康弘]]・[[増田甲子七]]・[[中山マサ]]・[[荒木万寿夫]]・[[松野頼三]]・[[原田憲]]・[[園田直]]・[[櫻内義雄]]・[[根本龍太郎]]・[[中村寅太]]など)。以後連続当選14回<ref name="kotobank"/>。国会対策畑で頭角を表した。[[1952年]]、[[福永健司]][[幹事長]]指名騒動にあたっては、[[国会対策委員長]]であった倉石は衆院議院運営委員長の[[石田博英]]とともに指名阻止に動き撤回させる。以後石田とともに党内に「民主化同盟」を結成して反[[吉田茂|吉田]]運動を展開する。石田とは労政通という共通点もあり[[保守合同]]後の[[1955年]]、[[第3次鳩山内閣]]で[[労働省|労働大臣]]として初入閣、[[1958年]]の[[第2次岸内閣]]でも労相となり<ref name="kotobank"/>、[[池田勇人]]・[[佐藤栄作]]両政権下では[[自由民主党 (日本)|自民党]]労働問題調査会長として、結社の自由と団結権の擁護を定めた[[国際労働機関|ILO]]87号条約批准と関連国内法の整備に尽力した。また、[[最低賃金法]]の生みの親でもある。 |
[[1947年]]、[[第23回衆議院議員総選挙]]に[[日本自由党]]公認で[[長野県第2区 (中選挙区)|旧長野2区]]より立候補し当選(当選同期に[[田中角栄]]・[[鈴木善幸]]・[[中曽根康弘]]・[[増田甲子七]]・[[中山マサ]]・[[荒木万寿夫]]・[[松野頼三]]・[[原田憲]]・[[園田直]]・[[櫻内義雄]]・[[根本龍太郎]]・[[中村寅太]]など)。以後連続当選14回<ref name="kotobank"/>。国会対策畑で頭角を表した。[[1952年]]、[[福永健司]][[幹事長]]指名騒動にあたっては、[[国会対策委員長]]であった倉石は衆院議院運営委員長の[[石田博英]]とともに指名阻止に動き撤回させる。以後石田とともに党内に「民主化同盟」を結成して反[[吉田茂|吉田]]運動を展開する。石田とは労政通という共通点もあり[[保守合同]]後の[[1955年]]、[[第3次鳩山内閣]]で[[労働省|労働大臣]]として初入閣、[[1958年]]の[[第2次岸内閣]]でも労相となり<ref name="kotobank"/>、[[池田勇人]]・[[佐藤栄作]]両政権下では[[自由民主党 (日本)|自民党]]労働問題調査会長として、結社の自由と団結権の擁護を定めた[[国際労働機関|ILO]]87号条約批准と関連国内法の整備に尽力した。また、[[最低賃金法]]の生みの親でもある。 |
2016年1月24日 (日) 09:11時点における版
倉石忠雄 くらいし ただお | |
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生年月日 | 1900年7月2日 |
出生地 | 長野県千曲市(旧・稲荷山町) |
没年月日 | 1986年11月8日(86歳没) |
出身校 |
法政大学 ロンドン大学 |
前職 |
婦女界社常務取締役 南日本化学工業専務取締役 (現・日本曹達) |
所属政党 |
(日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 法学士 |
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内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1979年11月8日 - 1980年7月17日 |
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内閣 |
第2次田中第1次改造内閣 第2次田中第2次改造内閣 |
在任期間 | 1973年11月25日 - 1974年12月9日 |
内閣 | 第3次佐藤内閣 |
在任期間 | 1970年1月14日 - 1971年7月5日 |
内閣 |
第1次佐藤第3次改造内閣 第2次佐藤内閣 第2次佐藤第1次改造内閣 |
在任期間 | 1966年12月3日 - 1968年2月23日 |
選挙区 | 長野県第1区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 | 1947年4月26日 - 1983年11月28日 |
その他の職歴 | |
![]() (1958年6月12日 - 1959年6月18日) | |
![]() (1955年11月22日 - 1956年12月23日) |
倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年(明治33年)7月2日 - 1986年(昭和61年)11月8日)は、日本の政治家。労働大臣・農林大臣・法務大臣[1]。
来歴・人物
脚注
関連項目
議会 | ||
---|---|---|
先代 尾崎末吉 |
![]() 1953年 - 1954年 |
次代 山口喜久一郎 |
先代 綱島正興 |
![]() 1949年 - 1951年 |
次代 島田末信 |
公職 | ||
先代 古井喜実 |
![]() 第38代:1979年 - 1980年 |
次代 奥野誠亮 |
先代 櫻内義雄 長谷川四郎 松野頼三 |
![]() 第45代:1973年 - 1974年 第41代:1970年 - 1971年 第37・38代:1966年 - 1968年 |
次代 安倍晋太郎 赤城宗徳 西村直己 |
先代 石田博英 西田隆男 |
![]() 第15代:1958年 - 1959年 第11代:1955年 - 1956年 |
次代 松野頼三 松浦周太郎 |
党職 | ||
先代 中曽根康弘 |
自由民主党総務会長 第22代:1978年 - 1979年 |
次代 鈴木善幸 |
先代 櫻内義雄 |
自由民主党政務調査会長 第21代:1972年 - 1973年 |
次代 水田三喜男 |
先代 中村梅吉 |
自由民主党国会対策委員長 第2代:1956年 - 1957年 |
次代 村上勇 |