北関東
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北関東のデータ | ||
3県の合計 | ||
面積 | 18,867.12km² | |
総人口 | 6994857人 (2008年8月1日) | |
4県の合計 | ||
面積 | 22,664.37km² | |
総人口 | 14127471人 (2008年8月1日) |
北関東︵きたかんとう︶とは、関東地方の北部または中北部地域を指す一般名称である。同じく南部または中南部地域を指す呼称として南関東がある。
概要
北関東は関東地方北部を指す通称であり、明確な定義は無い。主に以下の地域を指す場合に用いられる。 ●関東地方の中北部地域一帯。1都6県のうち茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県の地域。 ●関東地方の利根川以北の地域。1都6県のうち茨城県、栃木県、群馬県の地域。 このほか、茨城県を含めず栃木県・群馬県・埼玉県の地域に限定して用いる場合や、群馬県を含めず茨城県・栃木県の地域に限定して用いる場合など、多種多様に用いられている。各種用語使用範囲
﹁北関東﹂が含まれる主な用語は以下のとおり。
●北関東工業地域‥茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県に広がる工業地域
●北関東横断自動車道‥茨城県、栃木県、群馬県を横断する自動車専用道路
●北関東選挙区‥茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県の衆議院比例代表選出議員選挙区
●北関東防衛局‥茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、新潟県、長野県の防衛管理業務を管轄する防衛省の組織
範囲の分類
県別の分類
北関東三県︵茨城県+栃木県+群馬県︶ 茨城県・栃木県・群馬県の3県を北関東とする。人口は、3県合計で約702万人。 北関東四県︵茨城県+栃木県+群馬県+埼玉県︶ 国政選挙の選挙区では、首都圏一都七県を東京ブロック︵東京都︶、南関東ブロック︵千葉県+神奈川県+山梨県︶、および、北関東ブロック︵上記4県︶としている。埼玉県は約705万人であるので、埼玉県を含む4県は、上記3県合計の約2倍の約1400万人となる。歴史的分類
毛野川︵鬼怒川︶流域 有史以来江戸時代以前の北関東。 律令制が敷かれる以前、毛野川流域には毛野国が成立し、その勢力はヤマト王権や吉備国や筑紫国に伍するものだったと言われる。下毛野古麻呂は、藤原不比等らとともに大宝律令の編纂にあたった。 律令制が敷かれた奈良時代以降、常陸国は東海道に属し、桓武平氏流大掾氏や平将門が支配した時代があったが、鎌倉時代以降は他の北関東諸地域と同様に藤原北家流小田氏や清和源氏流佐竹氏の治世となったことから同一地域とみなすのが一般的である。 歴史的に藤原北家流諸氏︵宇都宮氏、小田氏、小山氏、結城氏、佐野氏、川野辺氏、比企氏、那須氏等︶や清和源氏流諸氏︵足利氏、新田氏、佐竹氏、武田氏、高氏等︶が支配した地域が北関東であり、桓武平氏流諸氏︵鎌倉氏、三浦氏、千葉氏、北条氏、秩父氏、長尾氏等︶が支配した地域は南関東である。 下毛野古麻呂が建立した下野薬師寺は、大和国の東大寺、筑後国︵筑紫国が筑前国と筑後国に分割︶の観世音寺とともに三戒壇に指定され、当時下野国がこの地域の文化の中心地であったことを客観的に示している。なお、日光山を開山したと謂われる勝道上人はこの寺の修行僧であった人物である。 利根川以北「利根川東遷事業」も参照
江戸時代後期~明治以降の北関東。旧来の藤原北家流諸氏や清和源氏流諸氏が姿を消し、新田氏流徳川家康に近しい親族や旗本、譜代大名が変わって入封し、北関東は事実上徳川幕府の自領となった。家康は利根川東遷事業を号令し、利根川・渡良瀬川の河口を江戸湾から現在の銚子市に変更し、干拓/開拓された入間川~毛野川の流域は旧来の関東八屋形諸氏の一部領土であった地域も含め南関東に組み込まれ、河口干拓地には江戸が設けられ南関東の中心地となった。
家康は東北を見据える地として日光を自らの墓所と指定し、病没後は徳川秀忠や徳川家光によって日光東照宮が造営・改築された。
歴史
現在の関東地方は東西に横断する利根川によって南北に分けられているが、この地形になったのは徳川家康の号令で始まった利根川東遷事業が完了した明治時代以降である。それまでの関東地方は中央部︵現在の荒川~利根川の間の帯状地︶に以下の水系が集まり、大雨の時期には氾濫を繰り返し下流域~河口付近は広大な湿地帯を形成していた。従って江戸時代以前、関東地方はこの低湿地帯を挟んで北部と南部に分かれていたといえる。
●東京湾に注ぐ水系
●住田川・利根川水系 ‥ 入間川︵現在の荒川︶、荒川︵現在の元荒川︶、利根川︵現在の古利根川︶
●渡良瀬川・太日川水系 ‥ 渡良瀬川︵現在の江戸川︶
●香取海︵現在の常陸利根川︶に注ぐ水系
●毛野川・小貝川水系 ‥ 毛野川︵現在の鬼怒川︶、小貝川
古墳時代、関東地方には毛野川︵けぬのかわ=現在の鬼怒川︶流域一体に毛野国︵けぬのくに︶が成立しており、毛野氏はヤマト王権の中でも大きな発言力を有していたと言われる。
毛野国は北関東の中央部に位置し、開祖は第十代天皇・崇神天皇の第一皇子・豊城入彦命で、毛野氏はその後裔と伝えられる。飛鳥時代後期、毛野氏後裔の下毛野古麻呂は藤原不比等らとともにヤマト王権の律令制定︵大宝律令‥大宝元年︶の編纂に関わったと言われる。足柄山の金太郎のモデルは下毛野公時で、足利銀行のマスコットキャラクターは金太郎であった。
戦国時代以前、関東地方は藤原氏流あるいは河内源氏流で毛野氏の流れをくむ諸氏の治世であり、都の文化を基盤とした関東独特の文化が培われてきた。しかし織田信長、豊臣秀吉による武力革命の後、こうした関東地方の文化を築いた諸名家︵足利氏、上杉氏、佐竹氏、武田氏、宇都宮氏、小山氏、結城氏、小田氏等︶は支配的地位から退くことを余儀なくされた。
主を失った関東の地で、これら諸氏の受け皿となったのが清和源氏義家流・新田氏の名を継ぎ江戸幕府の祖となった徳川家康であった。徳川氏は着々と関東各地に親藩や旗本・譜代大名など腹心を配置し、あるいは直轄地︵天領︶化し、戦国期の﹁覇道﹂的支配体制︵武力・苛烈な法をもって治める方法︶に代えて﹁鳴くまで待とう…﹂に象徴される﹁王道﹂的支配体制︵仁徳をもって治める方法︶を敷いた。こうして江戸時代の間、関東はさしたる大変化や大改革も求められず、︵大雑把な意味での︶古来の関東平野に根付いた文化が引き続き培われ、更にそれが領主の定期交代によって関東一円で一様化された。
しかし、欧米列強による帝国主義︵グローバル化︶の波は日本国内に覇道を再起させ、江戸幕府の王道的統治機構を麻痺・崩壊に至らしめた。こうして関東地方は再び大きな主を失うこととなった。倒幕運動・戊辰戦争といった武力闘争の末に誕生した明治政府は国家の近代化・列強化、そして中央集権化を﹁民主的な法﹂をもって急速に推進し、明治政府の本拠地となった江戸は、中央政府の﹁近代国家・日本﹂の象徴・首都東京たるべく急激に改造され、それに見合う﹁東京文化﹂が新たに形成された。しかし、その表舞台となった関東地方に根付く旧来の民衆、都市構造、文化といった要素は、﹁東京文化﹂に相反するものであり、﹁東京﹂との距離が生じる結果となった。
こうした歴史を見ると、関東地方は、﹁日本の首都・東京を抱える地方﹂という実状は元より、﹁古くから関東平野に培われた独自文化が放置され、急激な近代化・列強化した文化に直接曝された地方﹂という意味合いを背後に含んでいるのである。
更に南関東が、将に﹁近代化・列強化﹂の表舞台となって、急激な変化が一次的に起こった地域であるのに対して北関東は、﹁利根川水系と関東北部山系の地理的・気候的影響﹂によって﹁近代化・列強化﹂が二次的に起こった地域であり、これが関東地方内における北関東の大きな特徴とも言える。
地域
都県間流動
- ※交通機関別都道府県間流動表(年間)(全交通機関)
- ※目的地への流動が100万人/年以上のみ記載(2000年)
- ※関東地方以外は「■」
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このように、北関東は関東平野の北部地域であり、自治体の境無く自治体間流動が非常に活発となっている。
地域別特徴
代表的な地域とその特徴を以下に列挙する。宇都宮・日光・鬼怒川及び小貝川流域周辺︵宇都宮都市圏とその周辺︶
栃木県最大の都市であり、北関東随一の商工業都市である宇都宮︵人口約50万人、人口密度1470人/平米︶を中心とする地域。宇都宮市・日光市・塩谷郡・河内郡・芳賀郡・真岡市・鹿沼市・上都賀郡の人口は約100万人。古代・毛野国︵けぬこく︶の時代から鬼怒川︵毛野川‥けぬのかわ︶の上中流域に位置し、肥沃な土地を基盤として安定した地域が形成されてきたが、一方でこの豊穣な土地の領有権を巡る抗争の戦場となり、また天正や幕末の動乱期には政権の180度転換を強いられて来た。宇都宮二荒山神社・日光二荒山神社・輪王寺等を歴史的基盤としている。日光の二社一寺︵輪王寺・東照宮・日光二荒山神社︶は世界遺産に登録されている。 古くは東山道の北側に位置する要害の地であり、遥か京から蝦夷を見据える重要拠点であった。また宇都宮は中道︵なかつみち︶の最北端に位置し、奥州に抜ける際には必ず通らねばならない要衝であり、下野国一之宮・宇都宮二荒山神社が置かれ、平安~鎌倉期には藤原秀郷卿や藤原北家道兼流・宇都宮氏等、蝦夷対策に中央政府から派遣された武人ないし祭祀が支配権を有した。特に宇都宮二荒山神社の神職者であり、下野国司であった宇都宮氏は、京都の中央政府との繋がりを維持しつつ、鎌倉幕府の有力な御家人として、また室町期~戦国期には時の室町幕府︵足利氏︶を援護し関東八屋形として、毛野川流域一帯を統治した。また鬼怒川︵当時は毛野川︶以東は宇都宮氏の郎党・紀清両党が統治し、益子氏の居館があった益子西明寺には宇都宮氏の墓所も現存する。宇都宮氏は終始中央政府に従属し、足利将軍家をはじめ鎌倉府、関東管領上杉氏に従い、戦国時代後期には南関東に台頭した後北条氏を常陸国の佐竹氏とともに牽制し、小田原征伐の後は豊臣秀吉から羽柴姓を授かった。小田原攻めの後、秀吉は時の当主・宇都宮国綱とともに宇都宮城に入城し、この折参陣した東北の大名の処遇を決定した︵宇都宮仕置︶。この地は引き続き宇都宮氏が統治したが、朝鮮の役の後の1597年、宇都宮氏は突然改易となり、蒲生氏や奥平氏が替って領主となった。 その後、清和源氏を称する徳川家康が征夷大将軍に就き江戸の地に徳川幕府を開くと、江戸のお膝元として繁栄を享受した。江戸時代、家康は自分の廟所としてこの地を選び、その子秀忠は家康を祀って東照宮を建立、さらに孫・家光は東照宮を今日の姿に大造替した。これに伴って、江戸・京・仙台方面から家康の廟所・日光東照宮に参詣するための交通路︵日光街道・日光例幣使街道、日光北街道など︶が整備され、徳川家・諸大名・京の勅使など当時の要人達が行き交う要衝となると同時に、地域政治の中心地でもあった宇都宮は江戸から那須を経て陸奥国・白河へ向かう奥州街道の分岐点となり、江戸幕府にとって軍事的最重要拠点の一つとなった。宇都宮城は時の領主・本多正純が近代的平城に大改築し、また宇都宮の町は幾重もの堀と周囲に配置された寺社群に囲まれた要塞都市に生まれ変わった。幕末には新政府軍と旧幕府軍との抗争の場となり、戊辰戦争では新政府軍は宇都宮・六道の辻から宇都宮城・宇都宮二荒山神社︵崇神天皇第一皇子である豊城入彦命を祭祀する︶に向け大砲による攻撃を行い、旧幕府軍を掃討した︵宇都宮戦争︶。この戦闘で二荒山神社社殿は焼失したが、明治年間に政府によって再建された。 廃藩置県では宇都宮県、日光県、茂木県等を経て栃木県に編入され、1884年からは県都として栃木県地域の行政・経済の中心となっている。東北新幹線・宇都宮線・東北自動車道・北関東自動車道をはじめとする数多くの交通網を整備し、南東平野部には内陸工業団地︵清原・芳賀・平出・真岡︶、北西の山地部と各地域自治区には歴史財産︵日光東照宮・輪王寺・日光二荒山神社・宇都宮二荒山神社・益子西明寺など︶および日光国立公園の天然資源︵奥日光・鬼怒川温泉など︶を基盤とする観光施設、また各都市域には文化施設︵栃木県立美術館・宇都宮美術館など︶やレジャー施設︵東武ワールドスクウェア・日光江戸村・ツインリンクもてぎなど︶を配している。大規模商業施設は宇都宮等の都市域に集中している︵東武宇都宮百貨店・パルコ宇都宮店・LaLasquare UTSUNOMIYA・FKDショッピングプラザ・ベルモール・FKDインターパーク店など︶。現在建設中の北関東自動車道は、北関東各県間の物流を強化するため、新4号国道沿線の工業地域と、茨城県と群馬県の三地域を結ぶ形で建設されている。那須・大田原周辺
古くは街道東山道が通り、江戸時代には奥州街道、現在は東北新幹線・東北自動車道・国道4号線などが整備され、中央と陸奥国を結ぶ交通の要衝であり、那須や黒羽、大田原など、那珂川流域を中心に豊かで安定した地域が形成されてきた。奥の細道紀行では松尾芭蕉も長期滞留した。北関東にあっては珍しく、江戸時代にあって中世来の豪族に支配権が認められた地域。藤原北家長家流・那須諸氏が江戸時代以降も黒羽藩や大田原藩としてその基盤を維持した。 大田原市、那須塩原市、矢板市、さくら市、那須烏山市、那須町、那珂川町の人口は約35万人。那須高原を中心として観光業が盛んで、果樹園や牧場も多く見られる。 那須・大田原における商圏は大田原・那須塩原・矢板・さくらの各市の商業施設を中心とし、総人口の約70%にあたる25万人前後の購買活動を吸収している。一方、福島県境に近い那須町や旧黒磯市付近からは、越境して福島県白河市等の商業施設に購買に出る例が見られるが、逆に福島県の住民も食品や日用品の買出し、飲食に那須・大田原圏を訪れるため、黒磯以北の国道4号線には、福島ナンバーの車の往来が多い。水戸以北
古代、常陸国周辺は東国最果ての地であったと言われる。奈良時代に律令制が敷かれると東海道に属した。平安時代に入り、桓武天皇に多くの皇子があったことから大和朝廷は常陸国を親王任国と指定し、以降常陸は桓武平氏一族の任地の一つとなり、水戸周辺は常陸平氏・大掾氏の領地となった。大掾氏は水戸に館を築くが、これがその後の水戸城に継承された。 一方、前九年の役、後三年の役で奥州安倍氏の鎮圧で功を挙げた清和源氏流新羅三郎・源義光の長男・源義業は常陸国久慈郡佐竹郷︵現在の常陸太田市︶を領して佐竹氏を名乗った。また義光の三男・源義清は那賀郡武田郷を領して武田氏を名乗った。武田氏は大掾氏と競合して朝廷から牽制され甲斐国に移ったが、佐竹氏は大掾氏の娘を嫁として土着し戦国時代には戦国大名となって常陸国・下総国を支配したが、関ヶ原の合戦で西軍に就いたため久保田藩に転封された。 江戸時代、この地には水戸徳川家が配され、日本橋からは水戸街道が整備された。 現在は常磐自動車道・常磐線・国道6号線が通り、福島県浜通り地方への経路となっている。中心地は茨城県の県都・水戸市︵人口約26万人、人口密度1,209人/平米︶。水戸市、ひたちなか市、笠間市、那珂市、常陸太田市、常陸大宮市、日立市、高萩市、北茨城市、東茨城郡、那珂郡、久慈郡の人口は約114万人。 また日立市、ひたちなか市および大洗町には北関東随一の重要港湾︵日立港、常陸那珂港、大洗港︶があり、北海道/北米/欧州/極東/中国/韓国定期貨物航路の拠点・北海道定期旅客航路の拠点・北関東の物流拠点等の機能を担い、北関東内のみならず東日本の一大物流基地となっている。日立市は日立港を擁する日立製作所の企業城下町としても有名である。 水戸東部には北関東最大の海水浴場である大洗や阿字ヶ浦、夏に海浜コンサートが開かれる国営ひたち海浜公園が立地する。また北部日立周辺は北関東唯一の海浜リゾート地でもあり、河原子・川尻・伊師浜等の海水浴場を抱え、シーズンには栃木県各地から海水浴客を集め混雑する。久慈川上流は八溝山地の関東北部山系、さらに阿武隈高地に連なり、陸奥国との天然の境界となっていたが、現在はJR水郡線や国道349号が整備され、日本有数の名瀑である袋田の滝があり観光名所となっている。鹿嶋・潮来周辺
国道51号の沿線。鉄道では大洗鹿島線と鹿島線の沿線。水郷筑波国定公園の一角で、東に鹿島灘、西に霞ヶ浦、南に利根川、北に北浦が面する。 古くから関東第一の神社として知られる鹿島神宮︵古代には最果ての地であり、常陸は海路で奥州へ向かう船出の地だったと言われる︶や、菖蒲で有名な水郷地帯の潮来といった観光地を抱える。 高度経済成長期に鹿島臨海工業地帯が建設され、住友金属系の企業などが多い鉄鋼や石油を中心とした工場が置かれており、重化学コンビナートのとしても発展と工業が盛んであり、最近の神栖は商業としても発展している。 メロン農地が多く、農業が盛んである。 スポーツ界では鹿島アントラーズのホームタウン︵鹿嶋、潮来、神栖、鉾田、行方︶として有名である。 他の地域へは、千葉県北東部︵香取、成田、銚子など︶に行く者が多い。土浦・つくば周辺
かつて毛野川・小貝川河口付近であり、南部は香取海や湿地帯であった。江戸時代以降に開墾され、新田となった土地も多い。 古代、毛野川流域には毛野国が立国され下毛野君の領土であったと言われる。平安時代、この一帯は桓武平氏流大掾氏の領地であったが、その後政争に敗れて失脚した。鎌倉時代から室町時代にかけては下野国司・宇都宮氏傍系の八田氏流・小田氏が常陸国守護となって統治し、戦国時代には常陸国守護で戦国大名となった佐竹氏の勢力下にあった。江戸時代になると清和源氏・細川氏が谷田部藩に入封し明治維新まで続いた。廃藩置県の当初は新治県に編入された。 現在は筑波山や霞ヶ浦などの観光地を抱える。 また、下妻のような田園都市と、研究学園都市建設に伴って誕生したつくばのような新興都市が共存することが大きな特徴である。人口20万を数え県内第2の都市となったつくばは、鉄道開業と前後して商業集積も進み、牛久・龍ケ崎等のニュータウン都市とは一線を画した中心性を持つに至り、21世紀初頭には土浦から県南の中心の地位を実質的に奪っている。 常磐線・つくばエクスプレス線沿線には、近年では東京都区部へ通勤する新興住民が増えており、この新興住民は﹁茨城都民﹂とも呼ばれる︵→ニュータウン︶。常磐線及び国道6号が利根川を渡ってすぐの所に位置する取手は、JR電車特定区間の北端であり朝夕は地下鉄千代田線が乗り入れ、長年に渡って茨城の南の玄関口とされてきたが、2005年のつくばエクスプレス線開業以降、都心回帰が叫ばれる今なお着実に人口増加を続ける守谷をはじめとした同線沿線の地域に、その座を奪われつつある。桐生・太田・足利・栃木・小山・古河周辺
古代、毛野国の中心にあった地域で、現在の栃木市付近には下野国の国府が置かれた︵国造は下毛野君︶。また、栃木市の東隣に位置する下野市には下野国分寺跡、下野薬師寺跡といった史跡がある。 平安時代以降、関東に起こった清和源氏義家流新田氏・足利氏、同義光流佐竹氏、藤原秀郷流藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・皆川氏らはこの地域の領有権を巡って抗争した。下野国司で宇都宮二荒山神社座主と日光山検校職を兼務した藤原北家道兼流で下毛野氏ないし中原氏の流れを汲む宇都宮氏は終始中央政権体制として下野国内の政争の鎮静にあたった。 鎌倉時代には鎌倉幕府の有力御家人となった小山氏が治め、南北朝時代には足利尊氏の意向を受けた国司の宇都宮氏が掌握したが、室町幕府が鎌倉府を設置すると関東管領・上杉氏の統治下に入った。鎌倉公方の足利成氏が台頭し古河に移って古河公方を称すると領主たちはこれに従属した。戦国時代に入って後北条氏が台頭すると、この地域は中央政府方︵上杉氏、佐竹氏、宇都宮氏等︶と後北条方︵足利氏、小山氏、結城氏等︶が拮抗する主戦場となり、最終的に後北条氏が勢力下に置いた。豊臣秀吉が後北条氏を破ると結城氏が代わって治めた。その後結城氏は領地換えになり、江戸時代は時の中央勢力から派遣された者が代わる代わる統治した。 ○両毛地域は古くは東山道、江戸時代には日光例幣使街道、現在は国道50号・国道122号・国道293号・両毛線・東武伊勢崎線等が通っている。 現在、国道50号沿線にはR50ベルト地帯と呼ばれる東西方向の商工業ベルト地帯が形成されている。中でも、栃木県と群馬県に跨がる地域︵足利、佐野、桐生、太田、館林など︶は両毛と呼ばれるが、この両毛地域は、日本でモータリゼーションが最も発達した地域圏﹁両毛デルタ地帯﹂を形成している。水戸線や両毛線はR50ベルト地帯を結ぶ生活路線として機能しているほか、2008年3月8日には北関東自動車道の太田藪塚ICと太田桐生ICが開通した。近隣の佐野市の佐野プレミアムアウトレットや太田市︵人口約21.8万人︶のイオン太田ショッピングセンターなど郊外型大店舗には、近隣住民が県境を越えて訪れ、これらの道路には周辺各地域のナンバー車が往来する。 ○また、小山市・古河市を中心とした宇都宮線沿線地域では首都圏のベッドタウン化が見られる。関東地方のほぼ中央ともいうべき地域で、小山市は国道50号、古河市は国道125号・国道354号の沿線であり、共に国道4号・宇都宮線が市内を縦断している。古河市は茨城県であるが、南北軸を見ると宇都宮線︵日光街道︶の沿線である。東京大都市圏の北端部に位置しており、南関東と同一地域と見ることもできる。前橋・高崎および群馬県中北部
前橋・高崎︵両市計約67万人、人口密度約1,040人/平米︶は関東平野の北西端に位置し、群馬県の行政・産業の中心となっている。前橋市・高崎市・伊勢崎市・渋川市・勢多郡・佐波郡・北群馬郡の人口は約105万人。 一方、北部一帯は谷川岳に代表される峻険な山岳地帯となっており、その湧水は当地域の殆どの人口が集中する利根川流域に結集する。この南部平地部と北西部山岳部では気候も全く異なり、前者の冬の平均月最低気温が-1.0度程度で最深積雪も殆ど無いのに対し、後者では気温-8.0度、積雪2m以上に達する気象庁観測点も存在する。 人口密集地域が限られるため、公共交通網整備は比較的効果的に行き届いており、道路では関越自動車道や北関東自動車道、国道17号、国道18号、国道50号、鉄道では高崎線、信越本線、上越線、両毛線、八高線、吾妻線、上毛電気鉄道上毛線などが整備されている。 この地域は古くは毛野国に、また令制国時代にはこれを分かった上野国に属した。国府は車郡︵群馬郡︶に置かれていたとされる。平安時代初頭、上野国は常陸国︵茨城県中北部︶等とともに親王任国とされ、その親王の子孫である平氏が土着したとされる。白井長尾氏や総社長尾氏、沼田氏、安中氏などがその後裔といわれ、同一県内でも藤原北家流諸氏や清和源氏流諸氏の輩出が多い太田市や桐生市周辺とは対照的である。 この地域は北部山岳地帯を中心に関東の北の温泉場として著名であり、観光開発が施されている。温泉場の数は伊香保温泉、四万温泉、草津温泉、水上温泉、猿ヶ京温泉など200を越し、特に草津温泉は日本一の自噴湧出量を誇る名湯とされる。一方、首都東京からの交通の便は決してよいとは言えず、草津温泉の場合、上野駅からJRの在来線特急で約2時間30分の長野原草津口駅からさらに路線バスで20~30分かかり、また直行高速バスでも新宿駅から3時間30分以上かかるし、車利用でも関越自動車道の渋川伊香保ICから約50kmの山道を行かねばならない。同じ北関東の温泉場である鬼怒川温泉︵新宿駅から電車で2時間︶や塩原温泉︵東京駅から新幹線で1時間20分の那須塩原駅から路線バスで1時間︶、那須温泉︵同︶に比較しアクセスしにくい状況もあり、近年では誘客が芳しくない[1][2]。 産業は農業が非常に盛んであり、前橋市の農業産出額は約300億円に達し、次いで嬬恋村も100億円以上を産する。工業は北関東工業地域の一端にあり、年間製造品出荷額は高崎・前橋だけでも1.2兆円を超える。年間商品販売額は高崎・前橋だけでも群馬県内の総販売額の50%以上を占める。秩父・寄居・熊谷周辺
熊谷︵人口約20.5万人、人口密度1,420人/平米︶は国道17号︵旧中山道︶、寄居・秩父は国道140号の沿線であり、秩父鉄道はこれらの地域を結ぶ生活路線となっている。この他、東京へ向かう鉄道路線として八高線・東武東上線・高崎線が走る。 荒川の流域で﹁内陸国﹂の色が濃く、住民のショッピング地や視線は、地元志向の傾向が見られる。南端には国営武蔵丘陵森林公園に代表される台地が広がるが、西端には奥秩父山塊の山々が峙えている。夜祭で有名な秩父市や、長瀞などの観光地を抱える。北関東と南関東の文化や風土が混在している。特に熊谷周辺は太田・小山などと同じようにモータリゼーションが発展しており、同じ埼玉県内にありながら北関東系の店舗が多い。また、秩父地方の車が熊谷ナンバーであったり、北関東系の店舗の比重が大きいことから秩父地方もここでは北関東扱いする。 しかし、歴史的には桓武平氏流諸氏︵秩父氏や熊谷氏など︶にゆかりの地域であり、南関東と同一地域と見なせなくもない。自然地理
気候
茨城県沿岸部︵水戸、鹿嶋など︶では、年間を通して温暖な太平洋側気候が見られる。しかし、茨城県沿岸部を除く地域では、気温の年較差が大きい内陸性気候が共通して見られる。 夏の昼下がり時の雷は上州︵群馬県︶名物として有名であるが、栃木県や埼玉県にも見られる。又、冬のからっ風は、群馬県では﹁赤城おろし﹂、栃木県では﹁二荒おろし﹂﹁男体おろし﹂、茨城県では﹁筑波おろし﹂などと呼ばれており、何れも北部と西部に山岳地帯を抱える北関東に特徴的な気象となっている。 水郷、筑波山、日光、那須高原、草津温泉といった気候温暖な大観光地を抱えており、週末や行楽シーズンには観光客で賑わう。 関東平野に位置する点もあって近郊農業が盛んであり、深谷の葱、岩井のレタス、土浦の蓮根、二宮の苺、板倉のきゅうりなどが代表的な農産物である。地形
●山地‥阿武隈山地、八溝山地、下野山地、足尾山地、三国山脈、関東山地、奥秩父山塊 ●山‥筑波山、加波山、八溝山、那須岳、高原山、男体山、日光白根山、赤城山、榛名山、妙義山、浅間山、三宝山、甲武信ヶ岳 ●海浜‥鹿島灘 ●川‥利根川、渡良瀬川、鬼怒川、那珂川、久慈川、小貝川、荒川、田川、思川、烏川、神流川 ●湖‥霞ヶ浦、北浦、涸沼、千波湖、中禅寺湖、五十里湖、榛名湖、野反湖 ●瀑‥華厳の滝、龍頭ノ滝、湯滝、霧降の滝、袋田の滝、吹割の滝 ●温泉‥草津温泉、伊香保温泉、鬼怒川温泉、川治温泉、塩原温泉郷、那須温泉郷 ●景勝地‥長瀞 ●自然公園‥日光国立公園、尾瀬国立公園、上信越高原国立公園、水郷筑波国定公園、妙義荒船佐久高原国定公園経済
北関東3県には日本の人口の約6%、約700万人が居住し、約27兆円のGDPを生み出している。第一次産業
農業
●東部の茨城県を筆頭として、北関東は農業が盛んである。 ●東京周辺地域には典型的な都市近郊農業として、野菜や花卉の栽培が多い。 ●北関東各市町村における年間農業産出額︵2004年、出展︶は多い順に以下のとおり。 (一)鉾田市︵525億円︶ 茨城県 (二)前橋市︵319億円︶ 群馬県 (三)那須塩原市︵278億円︶ 栃木県 (四)大田原市︵262億円︶ 栃木県 (五)小美玉市︵257億円︶ 茨城県 (六)行方市︵244億円︶ 茨城県 (七)筑西市︵234億円︶ 茨城県 (八)坂東市︵230億円︶ 茨城県 (九)太田市︵204億円︶ 群馬県 (十)石岡市︵184億円︶ 茨城県 (11)伊勢崎市︵177億円︶ 群馬県 (12)茨城町︵159億円︶ 茨城県 (13)宇都宮市︵156億円︶ 栃木県 (14)渋川市︵152億円︶ 群馬県 (15)小山市︵150億円︶ 栃木県畜産業
●大消費地である東京を控え、茨城県や栃木県で養豚、養鶏、酪農が多い。生乳生産量では、北海道に続いて、栃木県が第2位に位置する。第二次産業
鉱業
●昭和半ばまで、日立市や足尾など一部の鉱山が操業していたが、1975年頃に閉鎖された。工業
●宇都宮市や太田市などを中心に、内陸型の北関東工業地域が形成されている。 ●東部‥茨城県の北部︵日立市やひたちなか市︶には、日立製作所の関連工場が多い。 ●北関東における主要工業都市は、各市町村別の年間製造品出荷額等︵2004年、出展︶の多い順に以下のとおり。 (一)太田市︵1.85兆円︶ 群馬県 (二)宇都宮市︵1.53兆円︶ 栃木県 (三)神栖市︵1.36兆円︶ 茨城県 (四)日立市︵1.18兆円︶ 茨城県 (五)伊勢崎市︵0.95兆円︶ 群馬県 (六)大泉町︵0.81兆円︶ 群馬県 (七)ひたちなか市︵0.80兆円︶ 茨城県 (八)高崎市︵0.71兆円︶ 群馬県 (九)大田原市︵0.67兆円︶ 栃木県 (十)前橋市︵0.65兆円︶ 群馬県 (11)小山市︵0.62兆円︶ 栃木県 (12)土浦市︵0.61兆円︶ 茨城県 (13)真岡市︵0.59兆円︶ 栃木県 (14)鹿嶋市︵0.58兆円︶ 茨城県 (15)上三川町︵0.58兆円︶ 栃木県第三次産業
商業
●北関東の各市町村における商業年間商品販売額︵︵2003年、出展︶卸売業を含む︶は、多い順に以下のとおり。 (一)宇都宮市︵2.54兆円︶ 栃木県 (二)前橋市︵2.08兆円︶ 群馬県 (三)高崎市︵1.37兆円︶ 群馬県 (四)水戸市︵1.36兆円︶ 茨城県 (五)つくば市︵0.69兆円︶ 茨城県 (六)太田市︵0.66兆円︶ 群馬県 (七)小山市︵0.56兆円︶ 栃木県 (八)土浦市︵0.55兆円︶ 茨城県 (九)日立市︵0.46兆円︶ 茨城県 (十)伊勢崎市︵0.46兆円︶ 群馬県 (11)ひたちなか市︵0.35兆円︶ 茨城県 (12)足利市︵0.34兆円︶ 栃木県 (13)佐野市︵0.31兆円︶ 栃木県 (14)古河市︵0.27兆円︶ 茨城県 (15)茨城町︵0.26兆円︶ 茨城県交通
交通史
律令時代には、畿内を中心とした行政区分であったため、茨城県︵常陸国︶と東京都・埼玉県︵武蔵国︶は東海道に、栃木県︵下野国︶と群馬県︵上野国︶は東山道にと、畿内を中心とした放射状地方区分になっており、東山道には京から白河に至る街道・﹁東山道﹂が整備された。 江戸時代になると、参勤交代によって東京︵江戸︶を中心とした放射状の街道が整備された。茨城県には水戸街道、埼玉県東部から栃木県北西部にかけては日光街道、栃木県北部には奥州街道、群馬県と埼玉県西部には中山道が整備され、宿場が置かれた。 又、中山道の倉賀野宿︵高崎郊外︶から都賀を経て日光に至るルートとして、東山道に重なる形で日光東照宮への金貨奉納のために京都からの勅使が通る日光例幣使街道が整備された。 江戸時代のそれぞれの街道は、現在の国道6号、国道4号、国道119号、国道17号、国道293号・121号等の源流となった。現在の交通網
江戸時代に五街道が整備されて以来、関東地方の交通網は、基本的に東京を中心とした放射状幹線及び京都からの放射状路線に当る環状︵弧状︶連絡線によって構成されている。 道路網では、東京から北に伸びる放射状道路には、西︵群馬県、埼玉県︶から東︵茨城県︶へ順に、関越自動車道・国道17号・国道122号・東北自動車道・国道4号・新4号国道・国道294号・常磐自動車道・国道6号・国道51号が扇状に列んでいる。 そして、これらの扇を結ぶ弧状道路として、南から北へ順に、東京外環自動車道・国道16号・国道354号・国道125号・国道50号・国道293号+国道123号、国道145号+国道120号+国道461号などが通っており、現在では北関東自動車道や圏央道などを整備中である。 鉄路網も同じく、東京から北に伸びる放射状鉄路には、西から順に東武東上線・高崎線+上越線・上越新幹線・東北新幹線・宇都宮線・東武本線・つくばエクスプレス線・常磐線などが列ぶ。 これらを結ぶ弧状鉄路には、南から北へ順に武蔵野線、川越線+東武野田線、両毛線+水戸線などが列んでいるが、水戸・宇都宮・前橋各相互を結ぶ列車は存在しない。 経済的・地政学的には、この﹁扇﹂の範囲が﹁北関東﹂に当たる。扇の骨に当たる幹線道路沿いには工場が多く立地し前述の北関東工業地域を形成している。代表的な鉄道路線
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