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{{政治家

{{政治家

| 人名 = 高橋 是清

| 人名 = {{big|{{ruby-ja|高橋|たかはし}} {{ruby-ja|是清|これきよ}}}}

| 各国語表記 = たかはし これきよ

| 各国語表記 = <small>{{kyujitai|'''高橋 是淸'''}}</small>

| 画像 = Korekiyo Takahashi 2.jpg

| 画像 = Korekiyo Takahashi 2.jpg

| 画像サイズ = 220px

| 画像サイズ = 230px

| 画像説明 = 肖像

| 画像説明 = 肖像

| 国略称 = {{JPN}}

| 国略称 = {{JPN}}

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| 親族(政治家) = [[高橋賢一]](孫)

| 親族(政治家) = [[高橋賢一]](孫)

| 配偶者 = 高橋里ゆう(先妻)<br>[[高橋品子]](後妻)

| 配偶者 = 高橋里ゆう(先妻)<br>[[高橋品子]](後妻)

| 子女 = [[高橋是賢]](長男)<br>[[高橋是福]](次男)<br>大久保和喜子(二女)

| 子女 = [[高橋是賢]](長男)<br>高橋是福(次男)<br>大久保和喜子(二女)

| サイン = TakahashiK kao.png

| サイン = TakahashiK kao.png

| 国旗 = JPN

| 国旗 = JPN

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| 元首 = [[大正天皇]]

| 元首 = [[大正天皇]]

| 国旗2 = JPN

| 国旗2 = JPN

| 職名2 = 第33代 [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]

| 職名2 = 第16・21・28・31・33代 [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]

| 内閣2 = [[第1次山本内閣]]<hr />[[原内閣]]<br>高橋内閣(総理兼任)<hr />[[田中義一内閣]]<hr />[[犬養内閣]]<br>[[齋藤内閣]]<hr />[[岡田内閣]]

| 内閣2 = [[岡田内閣]]

| 就任日2 = [[1934年]][[1127日]]

| 就任日2 = [[1913年]][[220日]]

| 退任日2 = [[1914年]][[4月16日]]<hr />[[1918年]][[9月29日]] - [[1922年]][[6月12日]]<hr />[[1927年]][[4月20日]] - 1927年[[6月2日]]<hr />[[1931年]][[12月13日]] - [[1934年]][[7月8日]]<hr />1934年[[11月27日]] - 1936年2月26日

| 退任日2 = 1936年2月26日

| 国旗3 = JPN

| 国旗3 = JPN

| 職名3 = [[内閣総理大臣臨時代理|内閣総理大臣臨時兼任]]

| 職名3 = [[内閣総理大臣臨時代理|内閣総理大臣臨時兼任]]

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| 元首3 = [[昭和天皇]]

| 元首3 = [[昭和天皇]]

| 国旗4 = JPN

| 国旗4 = JPN

| 職名4 = 第31代 大大臣

| 職名4 = [[農林水産臣|農林大臣]]<br>初代 [[商工省|商工大臣]]

| 内閣4 = 犬養内閣<br>[[藤内閣]]

| 内閣4 = [[高明内閣]]

| 就任日4 = [[1931年]][[1213日]]

| 就任日4 = [[1925年]][[41日]]

| 退任日4 = 1934年[[78日]]

| 退任日4 = 1925年[[417日]]

| 国旗5 = JPN

| 国旗5 = JPN

| 職名5 = 第28代 大蔵大臣

| 職名5 = [[衆議院|衆議院議員]]

| 内閣5 = [[田中義一内閣]]

| 内閣5 =

| 就任日5 = [[1927年]][[420日]]

| 就任日5 = [[1924年]][[510日]]

| 退任日5 = 1927年[[62日]]

| 退任日5 = [[1928]][[121日]]

| 国旗6 = JPN

| 国旗6 = JPN

| その他職歴1 = 初代 [[農林水産大臣|農林大臣]]

| その他職歴1 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]

| 就任日6 = [[1925年]][[4月1日]]

| 就任日6 = [[1905年]][[1月29日]]

| 退任日6 = 1925年[[417日]]

| 退任日6 = 1924年[[324日]]

| その他職歴2 = 第24代[[ (日本)|大臣]]

| 国旗7 = JPN

| 国旗7 = JPN

| 就任日7 = [[加藤高明内閣]])<br/>[[1924年]][[611日]]

| その他職歴2 = [[商省|商大臣]](農相兼任)

| 任日7 = 1925年4月1日

| 退任日7 = [[1925年]][[4月1日]]

| 退任日7 = 1925年4月17日

| 国旗8 = JPN

| その他職歴3 = 第21代 大蔵大臣

| 就任日8 = [[1918年]][[9月29日]]

| 退任日8 = [[1922年]][[6月12日]]

| 国旗9 = JPN

| その他職歴4 = 第16代 大蔵大臣

| 就任日9 = [[1913年]][[2月20日]]

| 退任日9 = [[1914年]][[4月16日]]

| 国旗10 = JPN

| その他職歴5 = [[衆議院|衆議院議員]]

| 就任日10 = [[1924年]][[510日]]

| 退任日10 = [[1928年]][[1月21日]]

| 国旗11 = JPN

| その他職歴6 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]

| 就任日11 = [[1905年]][[1月29日]]

| 退任日11 = 1924年[[3月24日]]

}}

}}

'''高橋 是清'''(たかはし これきよ、[[1854年]][[9月19日]]〈[[嘉永]]7/[[安政]]元年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<ref>国立公文書館「特許局長兼東京農林学校長高橋是清臨時叙勲ノ件」明治22年10月25日の添付履歴書の記載「東京府士族旧仙臺藩 旧名和喜次/安政元年甲寅閏七月廿七日生」に依る。安政への改元は嘉永7年11月であるが、凶事を避ける災異改元として当該年の元日に遡って元年とみなされたため、嘉永7年=安政元年とされた。</ref>〉 - [[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[2月26日]])は、[[日本]]の[[政治家]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85-18871 日本大百科全書(ニッポニカ)「高橋是清」]</ref>。[[日本銀行]][[総裁]]。

'''高橋 是清'''(たかはし これきよ、{{旧字体|'''高橋 是淸'''}}、[[1854年]][[9月19日]]〈[[嘉永]]7/[[安政]]元年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<ref>国立公文書館「特許局長兼東京農林学校長高橋是清臨時叙勲ノ件」明治22年10月25日の添付履歴書の記載「東京府士族旧仙臺藩 旧名和喜次/安政元年甲寅閏七月廿七日生」に依る。安政への改元は嘉永7年11月であるが、凶事を避ける災異改元として当該年の元日に遡って元年とみなされたため、嘉永7年=安政元年とされた。</ref>〉 - [[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[2月26日]])は、[[日本]]の[[政治家]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85-18871 日本大百科全書(ニッポニカ)「高橋是清」]</ref>。[[日本銀行]][[総裁]]。



[[立憲政友会]]第4代総裁。第20代[[内閣総理大臣]](在任: [[1921年]]〈[[大正]]10年〉[[11月13日]] - [[1922年]]〈大正11年〉[[6月12日]])。[[栄典]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]][[子爵]]。[[幼名]]は{{読み仮名|和喜次|わきじ}}。

[[立憲政友会]]第4代総裁。第20代[[内閣総理大臣]](在任: [[1921年]]〈[[大正]]10年〉[[11月13日]] - [[1922年]]〈大正11年〉[[6月12日]])。[[栄典]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]][[子爵]]。[[幼名]]は{{読み仮名|和喜次|わきじ}}。



日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する[[財政家]]として知られることから、[[総理大臣]]としてよりも、[[大蔵大臣]]としての評価の方が高い。愛称は『'''ダルマさん'''』。[[二・二六事件]]で暗殺されたことでも知られる

日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する[[財政家]]として知られることから、[[総理大臣]]としてよりも、[[大蔵大臣]]としての評価の方が高い。愛称は『'''ダルマさん'''』。[[二・二六事件]]で暗殺された。



== 生涯 ==

== 生涯 ==

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その後、横浜のアメリカ人[[医師]][[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]の私塾である[[ヘボン塾]](後の[[学校法人明治学院|明治学院]])にて学び、[[1867年]]([[慶応]]3年)に藩命により、[[勝海舟]]の息子・[[勝小鹿|小鹿]]と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、[[ユージン・ヴァン・リード]]<ref>(Eugene M. Van Reed)</ref>によって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され[[年季奉公]]<ref>([[:en:Indentured servant|Indentured servant]])</ref>の契約書にサインし、[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]のブラウン家に売られる。牧童や葡萄園での[[奴隷]]として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた<ref group="注釈">英語のIndentured servantはslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳されることが多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳されることも多い。高橋是清のことを記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。</ref>。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗して[[ストライキ]]を試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。

その後、横浜のアメリカ人[[医師]][[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]の私塾である[[ヘボン塾]](後の[[学校法人明治学院|明治学院]])にて学び、[[1867年]]([[慶応]]3年)に藩命により、[[勝海舟]]の息子・[[勝小鹿|小鹿]]と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、[[ユージン・ヴァン・リード]]<ref>(Eugene M. Van Reed)</ref>によって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され[[年季奉公]]<ref>([[:en:Indentured servant|Indentured servant]])</ref>の契約書にサインし、[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]のブラウン家に売られる。牧童や葡萄園での[[奴隷]]として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた<ref group="注釈">英語のIndentured servantはslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳されることが多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳されることも多い。高橋是清のことを記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。</ref>。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗して[[ストライキ]]を試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。




[[1868]][[]][[1873]]6[[]][[]][[]][[|]][[#|]][[|]]()[[]][[]][[]][[ ()|]][[1884]]17[[|]][[|]][[]][[1889]]22[[]][[]][[]][[1892]]25[[]][[]]

[[1868年]]([[明治]]元年)、帰国する。帰国後の[[1873年]](明治6年)、[[サンフランシスコ]]で知遇を得た[[森有礼]]に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、[[大学予備門]]で教える傍ら[[佐賀県|佐賀]]の耐恒寮や須田学舎など当時の[[予備校#進学予備校|進学予備校]]の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現:[[開成中学校・高等学校]]初代校長務めた。共立学校の教え子には俳人の[[正岡子規]]やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・[[秋山真之]]がいる。その間、[[文部省]]、[[農商務省 (日本)|農商務省]]の官僚としても活躍、[[1884年]](明治17年)には農商務省の外局として設置された[[特許庁|特許局]]の初代[[特許庁長官|局長]]に就任し、日本の[[特許]]制度を整えた。[[1889年]](明治22年)、[[官僚]]としてのキャリアを中断して赴いた[[ペルー]]で銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗し、英語教師時代からの友、[[山口慎]]と苦労を分かつ。[[1892年]](明治25年)、帰国した後にホームレスとなるが、[[川田小一郎]]に声をかけられ、[[日本銀行]]に入行。



[[日露戦争]]が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役[[深井英五]]を伴い、戦費調達のために戦時[[外債]]の公募で同盟国の[[イギリス]]に向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が[[中立]]違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、

[[日露戦争]]が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役[[深井英五]]を伴い、戦費調達のために戦時[[外債]]の公募で同盟国の[[イギリス]]に向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が[[中立]]違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、

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*支払い能力は関税収入である。

*支払い能力は関税収入である。

*中立問題については米国の[[南北戦争]]中に中立国が公債を引き受けた事例がある。

*中立問題については米国の[[南北戦争]]中に中立国が公債を引き受けた事例がある。


[[]][[]]{{||en|Ewen Cameron (banker)}}[[]]<ref>{{cite web|url=https://www.sankei.com/article/20160613-4VI67DULYJMMJM7VMA6YKFVSII/ |title=調  |agency=[[]]|date=2016-06-13 |accessdate=2019-10-06}}</ref>[[]][[]]調[[1905]]38[[ ()|]][[1911]]44

[[]][[]]{{||en|Ewen Cameron (banker)}}[[]]<ref>{{Cite web||url=https://www.sankei.com/article/20160613-4VI67DULYJMMJM7VMA6YKFVSII/ |title=調  |agency=[[]]|date=2016-06-13 |accessdate=2019-10-06}}</ref>[[]][[]]調[[1905]]38[[ ()|]][[1911]]44


[[画像:Korekiyo Takahashi 5.jpg|thumb|left|高橋是清(1934年)]]

[[画像:Korekiyo Takahashi 5.jpg|thumb|left|高橋是清(1934年)]]

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[[1913]][[]]2[[1]][[ ()|]][[]][[]]20[[]]4[[]]

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政友会はその後も迷走し、[[清浦奎吾]]の[[超然内閣]]が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した[[床次竹二郎]]らは[[政友本党]]を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、[[憲政会]]および[[革新倶楽部]]と[[護憲三派]]を結成し、[[第二次護憲運動]]を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出たが、これにより告示された[[第15回衆議院議員総選挙|第15回総選挙]]に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは[[華族|有爵者]]には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党[[政友本党]]の対立候補[[田子一民]]に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り<ref>望月和彦「大正デモクラシー期における政界再編」2010年3月(『桃山法学 15』)</ref><ref>衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年、20頁。</ref>、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。


[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[15|15]][[]]1[[|]][[]][[]]49<ref>2010315</ref><ref> 15192620</ref>


新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の[[加藤高明]]は、高橋を農商務相に任命。

新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の[[加藤高明]]は、高橋を農商務相に任命。

[[画像:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together.jpg|thumb|right|200px|高橋と内府(右)

[[画像:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together.jpg|thumb|right|200px|高橋と[[斎実]](右)

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{{small|ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「[[二・二六事件]]」を参照)。}}]]

{{small|ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「[[二・二六事件]]」を参照)。}}]]

その後、高橋は政友会総裁を[[田中義一]]に譲り政界を引退するが、[[1927年]](昭和2年)に[[昭和金融恐慌]]が発生し、瓦解した[[第1次若槻内閣]]に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった[[井上準之助]]と協力し、支払猶予措置([[モラトリアム]])を行うと共に、片面だけ印刷した急造の[[二百円紙幣|200円札]]を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。

その後、高橋は政友会総裁を[[田中義一]]に譲り政界を引退するが、[[1927年]](昭和2年)に[[昭和金融恐慌]]が発生し、瓦解した[[第1次若槻内閣]]に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった[[井上準之助]]と協力し、支払猶予措置([[モラトリアム]])を行うと共に、片面だけ印刷した急造の[[二百円紙幣|200円札]]を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。



[[1931年]](昭和6年)、政友会総裁・[[犬養毅]]が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、[[金解禁|金輸出再禁止]]、史上初の国債の日銀引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、[[時局匡救事業]]で、[[世界恐慌]]により混乱する日本経済を[[デフレーション|デフレ]]から世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論』刊行の4年前であった。髙橋がケインズから直接影響を受けた可能性はないが、石橋湛山や深井英五という高度に訓練された革新的な相談相手を通し、間接的に影響を受けた可能性は高い。

[[1931年]](昭和6年)、政友会総裁・[[犬養毅]]が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、[[金解禁|金輸出再禁止]]、史上初の国債の日銀直接引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、[[時局匡救事業]]で、[[世界恐慌]]により混乱する日本経済を[[デフレーション|デフレ]]から世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論』刊行の4年前であった。髙橋がケインズから直接影響を受けた可能性はないが、石橋湛山や深井英五という高度に訓練された革新的な相談相手を通し、間接的に影響を受けた可能性は高い。

[[五・一五事件]]で犬養が暗殺された際に総理大臣を[[内閣総理大臣臨時代理|臨時兼任]]している。続いて親友である[[斎藤実]]が組閣した際も留任。また[[1934年]](昭和9年)に、共立学校出身に当たる[[岡田啓介]]首班の[[岡田内閣|内閣]]にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率の[[インフレーション]]の発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた<ref>{{Cite book|和書|author=大谷健|year=1986|title=大蔵大臣の昭和史|publisher=ビジネス社|page=195|isbn=4828402667}}</ref>。軍事予算を抑制しようとしたことが[[軍部]]の恨みを買い、[[二・二六事件]]において、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、[[暗殺]]された。[[享年]]83。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に[[築地本願寺]]で営まれた。

[[五・一五事件]]で犬養が暗殺された際に総理大臣を[[内閣総理大臣臨時代理|臨時兼任]]している。続いて親友である[[斎藤実]]が組閣した際も留任。また[[1934年]](昭和9年)に、共立学校出身に当たる[[岡田啓介]]首班の[[岡田内閣|内閣]]にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率の[[インフレーション]]の発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた<ref>{{Cite book|和書|author=大谷健|year=1986|title=大蔵大臣の昭和史|publisher=ビジネス社|page=195|isbn=4828402667}}</ref>。軍事予算を抑制しようとしたことが[[軍部]]の恨みを買い、[[二・二六事件]]において、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、[[暗殺]]された。[[享年]]81。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に[[築地本願寺]]で営まれた。



== 年譜 ==

== 年譜 ==

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*1876年(明治9年)5月:[[外国語学校 (明治初期)#東京英語学校|官立東京英語学校]]教員に雇われる。

*1876年(明治9年)5月:[[外国語学校 (明治初期)#東京英語学校|官立東京英語学校]]教員に雇われる。

*1877年(明治10年)3月:東京英語学校教員を辞める。翻訳・予備校(共立学校)教師などをする。

*1877年(明治10年)3月:東京英語学校教員を辞める。翻訳・予備校(共立学校)教師などをする。

*1878年(明治11年)9月:[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|東京大学予備門]]英語教員として雇われる。

*1878年(明治11年)9月:

*[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|大学予備門]]英語教員として雇われる。

*1881年(明治14年)

*1881年(明治14年)

**4月:文部省御用掛に転じ東京大学予備門教員を兼務。

**4月:文部省御用掛に転じ大学予備門教員を兼務。

**5月:[[農商務省 (日本)|農商務省]]御用掛に転じる。

**5月:[[農商務省 (日本)|農商務省]]御用掛に転じる。

*1884年(明治17年)

*1884年(明治17年)

176行目: 161行目:

** 11月:藤井が肺気腫で倒れ辞任、その後任として大蔵大臣に就任(6度目)。

** 11月:藤井が肺気腫で倒れ辞任、その後任として大蔵大臣に就任(6度目)。

[[File:The old house of TAKAHASHI Korekiyo at Edo-Tokyo Open Air Architectural Museum, Koganei City.jpg|thumb|[[江戸東京たてもの園]]に移築復元された高橋是清邸の母屋。この2階の寝室で暗殺された。]]

[[File:The old house of TAKAHASHI Korekiyo at Edo-Tokyo Open Air Architectural Museum, Koganei City.jpg|thumb|[[江戸東京たてもの園]]に移築復元された高橋是清邸の母屋。この2階の寝室で暗殺された。]]

*1936年(昭和11年)2月26日:赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺される([[二・二六事件]])。享年83(満81歳没)。

*1936年(昭和11年)2月26日:赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺される([[二・二六事件]])。享年83(満81歳没)。墓所は[[多磨霊園]]



== 栄典・授章・授賞 ==

== 栄典・授章・授賞 ==

243行目: 228行目:

*後妻:[[高橋品子|しな]](品子) - 原田金左衛門の長女。

*後妻:[[高橋品子|しな]](品子) - 原田金左衛門の長女。

*長男:[[高橋是賢]] - 実業家・貴族院子爵議員

*長男:[[高橋是賢]] - 実業家・貴族院子爵議員

*次男:'''高橋是福''' - [[横浜商業学校]]卒業後渡米、[[三井物産]]を経て[[大連]]で貿易業を始めるも閉鎖、帰国後[[日本酸素]]役員、[[帝都座]]社長。岳父に貿易商の[[守安瀧三郎]]。妻の甥に[[守安祥太郎]]。相婿に[[岡崎久次郎]]。岡崎の弟に外務大臣[[岡崎勝男]]。<ref>[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-13292 高橋是福]『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/907399/38 高橋是福氏]『時と人』渡部静江 著 (新声社, 1920)</ref>

*次男:高橋是福 - [[横浜商業学校]]卒業後渡米、[[三井物産]]を経て[[大連]]で貿易業を始めるも閉鎖、帰国後[[日本酸素]]役員、[[帝都座]]社長。岳父に貿易商の[[守安瀧三郎]]。妻の甥に[[守安祥太郎]]。相婿に[[岡崎久次郎]]。岡崎の弟に外務大臣[[岡崎勝男]]。<ref>[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-13292 高橋是福]『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/907399/38 高橋是福氏]『時と人』渡部静江 著 (新声社, 1920)</ref>

*二女:和喜子 - [[明治時代|明治]]の元勲[[大久保利通]]の八男・利賢に嫁ぐ。和喜子の息子が[[ロッキード事件]]で有罪判決を受けた[[丸紅]]専務の[[大久保利春]]である。

*二女:和喜子 - [[明治時代|明治]]の元勲[[大久保利通]]の八男・利賢に嫁ぐ。和喜子の息子が[[ロッキード事件]]で有罪判決を受けた[[丸紅]]専務の[[大久保利春]]である。


*[[]] - [[ ()|]][[]][[]][[]][[ ()|]][[ ()|]]3[[]][[]][[1977]]52[[駿|駿]][[]]

*[[]] - [[ ()|]][[]][[]][[]][[ ()|]][[ ()|]]3[[]][[]][[1977]]52[[駿|駿]][[]]

*孫:[[高橋豊二]] - 是賢の次男。[[東京大学運動会ア式蹴球部|東京帝国大学ア式蹴球部(サッカー部)]]に所属し、[[1936年]](昭和11年)の[[1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技|ベルリンオリンピック・サッカー競技]]に出場した[[サッカー日本代表|日本代表]]に名を連ねた。

*孫:[[高橋豊二]] - 是賢の次男。[[東京大学運動会ア式蹴球部|東京帝国大学ア式蹴球部(サッカー部)]]に所属し、[[1936年]](昭和11年)の[[1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技|ベルリンオリンピック・サッカー競技]]に出場した[[サッカー日本代表|日本代表]]に名を連ねた。

*孫:伊藤福子 - 次男・是福の次女。初代内閣総理大臣[[伊藤博文]]の孫・[[伊藤博精|博精]]に嫁いでいる。

*孫:伊藤福子 - 次男・是福の次女。初代内閣総理大臣[[伊藤博文]]の孫・[[伊藤博精|博精]]に嫁いでいる。

*曾孫:千家文子 - 孫・福子の娘。[[出雲国造|出雲国造家]]の千家達彦に嫁いでいる。

*曾孫:千家文子 - 孫・福子の娘。[[出雲国造|出雲国造家]]の千家達彦に嫁いでいる。



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*[[三橋貴明]]『コレキヨの恋文』[[小学館]]、2012年、ISBN 978-4093863261

*[[三橋貴明]]『コレキヨの恋文』[[小学館]]、2012年、ISBN 978-4093863261

*[[幸田真音]]『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債』(上下)。[[角川書店]]、2013年/角川文庫、2015年。2011年から『[[中日新聞]]』・『[[東京新聞]]』系列で連載

*[[幸田真音]]『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債』(上下)。[[角川書店]]、2013年/角川文庫、2015年。2011年から『[[中日新聞]]』・『[[東京新聞]]』系列で連載


; 評伝

*大石亨『大蔵大臣高橋是清 不況乗り切りの達人』 マネジメント社、1992年

*松元崇『高橋是清 暗殺後の日本:「持たざる国」への道』 大蔵財務協会、2010年

*板谷敏彦『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』 新潮社(上下)、2024年

*鈴木俊夫『高橋是清:尽人事而後楽天』ミネルヴァ書房「[[ミネルヴァ日本評伝選]]」、2024年


;映画

;映画

*『高橋是清自伝』(1936年)演:[[岡譲司]](青年・壮年期)、[[山本嘉一]](老年期)

*『高橋是清自伝』(1936年)演:[[岡譲司]](青年・壮年期)、[[山本嘉一]](老年期)

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*『[[226 (映画)|226]]』(1989年)演:[[小田部通麿]]

*『[[226 (映画)|226]]』(1989年)演:[[小田部通麿]]

*『[[スパイ・ゾルゲ]]』(2003年)演:[[金子達]]

*『[[スパイ・ゾルゲ]]』(2003年)演:[[金子達]]

*『[[TAKAMINE アメリカに桜を咲かせた男]]』(2011年)演:[[井村英俊]]

*『TAKAMINE アメリカに桜を咲かせた男』(2011年)演:[[井村英俊]]

;テレビドラマ

;テレビドラマ

*『燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝』(1976年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]ドラマ)演:[[嵯峨善兵]]

*『燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝』(1976年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]ドラマ)演:[[嵯峨善兵]]

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*『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』(2015年、NHK放送90年ドラマ)演:[[オダギリジョー]]

*『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』(2015年、NHK放送90年ドラマ)演:[[オダギリジョー]]

*『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』(2019年、NHK大河ドラマ)演:[[萩原健一]]

*『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』(2019年、NHK大河ドラマ)演:[[萩原健一]]

*『[[前田正名 龍馬が託した男]]』(2019年、[[鹿児島テレビ]])演:[[河相我聞]]

*『[[前田正名]] 龍馬が託した男』(2019年、[[鹿児島テレビ]])演:[[河相我聞]]

*『[[倫敦ノ山本五十六]]』(2021年、NHK)演:[[山本學]]

*『[[倫敦ノ山本五十六]]』(2021年、NHK)演:[[山本學]]



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* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html 高橋是清の墓]

* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html 高橋是清の墓]

* {{青空文庫著作者|867}}

* {{青空文庫著作者|867}}

* [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/takahashikorekiyo1.html 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(所蔵)]

* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/takahashikorekiyo1 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(所蔵)]

* [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/takahashikorekiyo2.html 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(MF:首都大学東京図書情報センター蔵)]

* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/takahashikorekiyo2 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(MF:首都大学東京図書情報センター蔵)]

* {{NHK放送史|D0009060034_00000|「朝礼訓話」高橋是清蔵相}}

* {{NHK放送史|D0009060034_00000|「朝礼訓話」高橋是清蔵相}}

* {{Kotobank}}

* {{Kotobank}}

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[[Category:高橋是清|*]]

[[Category:高橋是清|*]]

[[Category:日本の財政家]]

[[Category:日本の財政家]]

[[Category:大正時代の内閣総理大臣]]

[[Category:日本の内閣総理大臣]]

[[Category:大正時代の閣僚]]

[[Category:大正時代の閣僚]]

[[Category:昭和時代戦前の閣僚]]

[[Category:昭和時代戦前の閣僚]]

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[[Category:日露戦争の人物]]

[[Category:日露戦争の人物]]

[[Category:ヘボン塾の塾生]]

[[Category:ヘボン塾の塾生]]

[[Category:明治学院高等学校出身の人物]]

[[Category:英語通訳]]

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[[Category:暗殺された政治家]]

[[Category:暗殺された政治家]]

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[[Category:1854年生]]

[[Category:1854年生]]

[[Category:1936年没]]

[[Category:1936年没]]

[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]


2024年6月16日 (日) 07:16時点における版

日本の旗 日本政治家

高橋たかはし 是清これきよ

高橋 是淸

肖像

生年月日 1854年9月19日
嘉永7/安政元年7月27日
出生地 日本の旗 日本武蔵国江戸芝中門前町
(現:東京都港区芝大門
没年月日 (1936-02-26) 1936年2月26日(81歳没)
死没地 日本の旗 日本東京府東京市赤坂区
(現:東京都港区赤坂
出身校 ヘボン塾
(現:明治学院
前職 武士仙台藩士
官僚
所属政党 立憲政友会
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
勲一等旭日大綬章
子爵(1924年隠居)
配偶者 高橋里ゆう(先妻)
高橋品子(後妻)
子女 高橋是賢(長男)
高橋是福(次男)
大久保和喜子(二女)
親族 高橋賢一(孫)
サイン

日本の旗 第20代 内閣総理大臣

内閣 高橋内閣
在任期間 1921年11月13日 - 1922年6月12日
天皇 大正天皇

日本の旗 第16・21・28・31・33代 大蔵大臣

内閣 第1次山本内閣
原内閣
高橋内閣(総理兼任)
田中義一内閣
犬養内閣
齋藤内閣
岡田内閣
在任期間 1913年2月20日 - 1914年4月16日
1918年9月29日 - 1922年6月12日
1927年4月20日 - 1927年6月2日
1931年12月13日 - 1934年7月8日
1934年11月27日 - 1936年2月26日

日本の旗 内閣総理大臣臨時兼任

内閣 犬養内閣
在任期間 1932年5月16日 - 1932年5月26日
天皇 昭和天皇

日本の旗 初代 農林大臣
初代 商工大臣

内閣 加藤高明内閣
在任期間 1925年4月1日 - 1925年4月17日

日本の旗 衆議院議員

在任期間 1924年5月10日 - 1928年1月21日

その他の職歴

日本の旗 貴族院議員
1905年1月29日 - 1924年3月24日
日本の旗 第24代農商務大臣
加藤高明内閣
1924年6月11日 - 1925年4月1日
テンプレートを表示

   1854919︿7/727[1] - 1936︿11226[2]

420: 1921︿101113 - 1922︿11612

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18549197727[3]

18673鹿貿[4][5][ 1]

186818736188417188922189225

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191321204

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1936220 

退1927213200

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1924

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188518
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11

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11

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1

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3

4

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1895288

1897303

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1904372 

190538
129[11]

2

1906393

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1922116

192413
3

5

6 

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19272
3

433

6

19316124

193275105

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7

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2

19361122668381




188417830 - [12]

1885181216 - [13]

19003366 - [14]

19053827 - [15]

19132228 - [16]

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1924131015 - [18]

1934951 - [19]

193611226 - [20]



188922
1025 - [21]

1129 - [22]

1902351228 - [23]

19063941 - 

190740923 - [24]

191144824 - [25]

191541110 - [26]

1920997 - [27]

19211071 - 調[28]

1927263 - [29]

19305125 - [30]

193611226 - [20]


受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1908年(明治41年)4月1日 大韓帝国 勲一等太極章[31]
1922年(大正11年)2月7日 フランスの旗 フランス共和国 レジオンドヌール勲章グランクロワ[32]
1924年(大正13年)7月3日 フランスの旗 フランス共和国 レジオンドヌール勲章グランクロワ[33] 2回目
1923年(大正12年)8月24日 ポーランドの旗 ポーランド グランクロアオドロゼニアポルスキー勲章[34]


[35]

 19358

 - 西2188417

 - 

 - 

 - 貿貿婿[36][37]

 - 

 - 3197752駿

 - 193611

 - 

 - 


  
 19111936

1912
<>1999ISBN 978-4820543275

 1936

 1936

1936
 1999ISBN 978-4938965150

寿︿20101120184

1936
197620183

  ISBN 978-4122065659 ISBN 978-4122065666

1997

 1936
︿201312ISBN 978-4121601452

1936


1998ISBN 978-4413031240

 

193619381938




 1967PHP1989  

 1979TBS

  1979

   19982002
 PHP2017

2005

  2009

2012ISBN 978-4093863261

 201320152011



  1992

  2010

  2024

2024



1936

 1970

1980

2261989麿

2003

TAKAMINE 2011



! 1976

1978TBS

1979TBS -  - [1][2]

 1981TBS

1984NHK

200950

2009-2011NHK西

 2015NHK90

2019NHK

 2019鹿

2021NHK


195126B

注釈

  1. ^ 英語のIndentured servantはslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳されることが多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳されることも多い。高橋是清のことを記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。

出典



(一)^ 221025 廿7117

(二)^ ()

(三)^ 7

(四)^ (Eugene M. Van Reed)

(五)^ (Indentured servant)

(六)^ 調  (2016613). 2019106

(七)^ 2010315

(八)^  15192620

(九)^ 1986195ISBN 4828402667 

(十)^ 17121889318

(11)^ 64743821

(12)^ 354188491

(13)^ 74018851217

(14)^ 5077190067

(15)^ 6480190528

(16)^ 174191331

(17)^ 21481919101

(18)^ 364619241016

(19)^ 22051934511

(20)^ ab2747193632

(21)^ 190118891029

(22)^ 19351889129

(23)^ 584819021229

(24)^ 72731907925

(25)^ 84541911825

(26)^ 131019161213

(27)^ 2431192098

(28)^ 28581922214

(29)^ 128192764

(30)^ 149919311228

(31)^ 74371908415

(32)^ 2854192228

(33)^ 3560192475

(34)^ 33251923829

(35)^ 7-9

(36)^ 8 [3(1928)7]

(37)^   (, 1920)

参考文献

  • 大島清 『高橋是清 ― 財政家の数奇な生涯中央公論社中公新書]、1969年、復刊1999年
  • 北脇洋子『棺を蓋いて事定まる―高橋是清とその時代』東洋経済新報社、1999年
  • 松元崇『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』中央公論新社、2009年/中公文庫、2012年
  • リチャード・J・スメサースト『高橋是清―日本のケインズ その生涯と思想』
     鎮目雅人・早川大介・大貫摩里訳、東洋経済新報社、2010年

関連項目


  



 - 

 - 

 - 

 - 退

 - 

 - 


7 - 







 - 

  

  

 - NHK

 - 

公職
先代
原敬
日本の旗 内閣総理大臣
第20代:1921年 - 1922年
次代
加藤友三郎
先代
若槻禮次郎
勝田主計
片岡直温
井上準之助
藤井真信
日本の旗 大蔵大臣
第16代:1913年 - 1914年
第21代:1918年 - 1922年
第28代:1927年
第31代:1931年 - 1934年
第33代:1934年 - 1936年
次代
若槻禮次郎
市来乙彦
三土忠造
藤井真信
町田忠治
先代
創設
日本の旗 農林大臣
初代:1925年
次代
岡崎邦輔
先代
創設
日本の旗 商工大臣
初代:1925年
次代
野田卯太郎
先代
前田利定
日本の旗 農商務大臣
第35代:1924年 - 1925年
次代
廃止
党職
先代
原敬
立憲政友会総裁
第4代 : 1921年 - 1925年
次代
田中義一
ビジネス
先代
相馬永胤
横浜正金銀行頭取
第7代:1906年 - 1911年
次代
三島彌太郎
その他の役職
先代
松尾臣善
日本銀行総裁
第7代:1911年 - 1913年
次代
三島彌太郎
日本の爵位
先代
陞爵
子爵
高橋(是清)家初代
1920年 - 1924年
次代
高橋是賢
先代
叙爵
男爵
高橋(是清)家初代
1907年 - 1920年
次代
陞爵