「高橋是清」の版間の差分
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{{政治家 |
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| 人名 = 高橋 是清 |
| 人名 = {{big|{{ruby-ja|高橋|たかはし}} {{ruby-ja|是清|これきよ}}}} |
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| 各国語表記 = |
| 各国語表記 = <small>{{kyujitai|'''高橋 是淸'''}}</small> |
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| 画像 = Korekiyo Takahashi 2.jpg |
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| 画像説明 = 肖像 |
| 画像説明 = 肖像 |
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| 国略称 = {{JPN}} |
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| 親族(政治家) = [[高橋賢一]](孫) |
| 親族(政治家) = [[高橋賢一]](孫) |
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| 配偶者 = 高橋里ゆう(先妻)<br>[[高橋品子]](後妻) |
| 配偶者 = 高橋里ゆう(先妻)<br>[[高橋品子]](後妻) |
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| 子女 = [[高橋是賢]](長男)<br> |
| 子女 = [[高橋是賢]](長男)<br>高橋是福(次男)<br>大久保和喜子(二女) |
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| サイン = TakahashiK kao.png |
| サイン = TakahashiK kao.png |
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| 国旗 = JPN |
| 国旗 = JPN |
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| 元首 = [[大正天皇]] |
| 元首 = [[大正天皇]] |
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| 国旗2 = JPN |
| 国旗2 = JPN |
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| 職名2 = 第33代 [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]] |
| 職名2 = 第16・21・28・31・33代 [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]] |
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| 内閣2 = [[第1次山本内閣]]<hr />[[原内閣]]<br>高橋内閣(総理兼任)<hr />[[田中義一内閣]]<hr />[[犬養内閣]]<br>[[齋藤内閣]]<hr />[[岡田内閣]] |
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| 内閣2 = [[岡田内閣]] |
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| 就任日2 = [[ |
| 就任日2 = [[1913年]][[2月20日]] |
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| 退任日2 = [[1914年]][[4月16日]]<hr />[[1918年]][[9月29日]] - [[1922年]][[6月12日]]<hr />[[1927年]][[4月20日]] - 1927年[[6月2日]]<hr />[[1931年]][[12月13日]] - [[1934年]][[7月8日]]<hr />1934年[[11月27日]] - 1936年2月26日 |
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| 退任日2 = 1936年2月26日 |
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| 国旗3 = JPN |
| 国旗3 = JPN |
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| 職名3 = [[内閣総理大臣臨時代理|内閣総理大臣臨時兼任]] |
| 職名3 = [[内閣総理大臣臨時代理|内閣総理大臣臨時兼任]] |
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| 元首3 = [[昭和天皇]] |
| 元首3 = [[昭和天皇]] |
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| 国旗4 = JPN |
| 国旗4 = JPN |
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| 職名4 = |
| 職名4 = 初代 [[農林水産大臣|農林大臣]]<br>初代 [[商工省|商工大臣]] |
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| 内閣4 = |
| 内閣4 = [[加藤高明内閣]] |
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| 就任日4 = [[ |
| 就任日4 = [[1925年]][[4月1日]] |
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| 退任日4 = |
| 退任日4 = 1925年[[4月17日]] |
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| 国旗5 = JPN |
| 国旗5 = JPN |
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| 職名5 = |
| 職名5 = [[衆議院|衆議院議員]] |
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| 内閣5 = |
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| 就任日5 = [[ |
| 就任日5 = [[1924年]][[5月10日]] |
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| 退任日5 = |
| 退任日5 = [[1928年]][[1月21日]] |
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| 国旗6 = JPN |
| 国旗6 = JPN |
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| その他職歴1 = |
| その他職歴1 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]] |
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| 就任日6 = [[ |
| 就任日6 = [[1905年]][[1月29日]] |
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| 退任日6 = |
| 退任日6 = 1924年[[3月24日]] |
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| 国旗7 = JPN |
| 国旗7 = JPN |
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| 退任日7 = [[1925年]][[4月1日]] |
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| 退任日7 = 1925年4月17日 |
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| 国旗8 = JPN |
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| その他職歴3 = 第21代 大蔵大臣 |
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| 就任日8 = [[1918年]][[9月29日]] |
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| 退任日8 = [[1922年]][[6月12日]] |
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| 国旗9 = JPN |
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| その他職歴4 = 第16代 大蔵大臣 |
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| 就任日9 = [[1913年]][[2月20日]] |
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| 退任日9 = [[1914年]][[4月16日]] |
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| 国旗10 = JPN |
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| その他職歴5 = [[衆議院|衆議院議員]] |
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| 退任日10 = [[1928年]][[1月21日]] |
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| 国旗11 = JPN |
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| その他職歴6 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]] |
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| 就任日11 = [[1905年]][[1月29日]] |
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| 退任日11 = 1924年[[3月24日]] |
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'''高橋 是清'''(たかはし これきよ、[[1854年]][[9月19日]]〈[[嘉永]]7/[[安政]]元年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<ref>国立公文書館「特許局長兼東京農林学校長高橋是清臨時叙勲ノ件」明治22年10月25日の添付履歴書の記載「東京府士族旧仙臺藩 旧名和喜次/安政元年甲寅閏七月廿七日生」に依る。安政への改元は嘉永7年11月であるが、凶事を避ける災異改元として当該年の元日に遡って元年とみなされたため、嘉永7年=安政元年とされた。</ref>〉 - [[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[2月26日]])は、[[日本]]の[[政治家]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85-18871 日本大百科全書(ニッポニカ)「高橋是清」]</ref>。[[日本銀行]][[総裁]]。 |
'''高橋 是清'''(たかはし これきよ、{{旧字体|'''高橋 是淸'''}}、[[1854年]][[9月19日]]〈[[嘉永]]7/[[安政]]元年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<ref>国立公文書館「特許局長兼東京農林学校長高橋是清臨時叙勲ノ件」明治22年10月25日の添付履歴書の記載「東京府士族旧仙臺藩 旧名和喜次/安政元年甲寅閏七月廿七日生」に依る。安政への改元は嘉永7年11月であるが、凶事を避ける災異改元として当該年の元日に遡って元年とみなされたため、嘉永7年=安政元年とされた。</ref>〉 - [[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[2月26日]])は、[[日本]]の[[政治家]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85-18871 日本大百科全書(ニッポニカ)「高橋是清」]</ref>。[[日本銀行]][[総裁]]。 |
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[[立憲政友会]]第4代総裁。第20代[[内閣総理大臣]](在任: [[1921年]]〈[[大正]]10年〉[[11月13日]] - [[1922年]]〈大正11年〉[[6月12日]])。[[栄典]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]][[子爵]]。[[幼名]]は{{読み仮名|和喜次|わきじ}}。 |
[[立憲政友会]]第4代総裁。第20代[[内閣総理大臣]](在任: [[1921年]]〈[[大正]]10年〉[[11月13日]] - [[1922年]]〈大正11年〉[[6月12日]])。[[栄典]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]][[子爵]]。[[幼名]]は{{読み仮名|和喜次|わきじ}}。 |
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日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する[[財政家]]として知られることから、[[総理大臣]]としてよりも、[[大蔵大臣]]としての評価の方が高い。愛称は『'''ダルマさん'''』。[[二・二六事件]]で暗殺された |
日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する[[財政家]]として知られることから、[[総理大臣]]としてよりも、[[大蔵大臣]]としての評価の方が高い。愛称は『'''ダルマさん'''』。[[二・二六事件]]で暗殺された。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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その後、横浜のアメリカ人[[医師]][[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]の私塾である[[ヘボン塾]](後の[[学校法人明治学院|明治学院]])にて学び、[[1867年]]([[慶応]]3年)に藩命により、[[勝海舟]]の息子・[[勝小鹿|小鹿]]と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、[[ユージン・ヴァン・リード]]<ref>(Eugene M. Van Reed)</ref>によって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され[[年季奉公]]<ref>([[:en:Indentured servant|Indentured servant]])</ref>の契約書にサインし、[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]のブラウン家に売られる。牧童や葡萄園での[[奴隷]]として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた<ref group="注釈">英語のIndentured servantはslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳されることが多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳されることも多い。高橋是清のことを記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。</ref>。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗して[[ストライキ]]を試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。 |
その後、横浜のアメリカ人[[医師]][[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]の私塾である[[ヘボン塾]](後の[[学校法人明治学院|明治学院]])にて学び、[[1867年]]([[慶応]]3年)に藩命により、[[勝海舟]]の息子・[[勝小鹿|小鹿]]と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、[[ユージン・ヴァン・リード]]<ref>(Eugene M. Van Reed)</ref>によって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され[[年季奉公]]<ref>([[:en:Indentured servant|Indentured servant]])</ref>の契約書にサインし、[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]のブラウン家に売られる。牧童や葡萄園での[[奴隷]]として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた<ref group="注釈">英語のIndentured servantはslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳されることが多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳されることも多い。高橋是清のことを記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。</ref>。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗して[[ストライキ]]を試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。 |
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[[1868年]]︵[[明治]]元年︶、帰国する。帰国後の[[1873年]]︵明治6年︶、[[サンフランシスコ]]で知遇を得た[[森有礼]]に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、[[大学予備門]]で教える傍ら[[佐賀県|佐賀]]の耐恒寮や須田学舎など当時の[[予備校#進学予備校|進学予備校]]の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった[[開成中学校・高等 |
[[1868年]]([[明治]]元年)、帰国する。帰国後の[[1873年]](明治6年)、[[サンフランシスコ]]で知遇を得た[[森有礼]]に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、[[大学予備門]]で教える傍ら[[佐賀県|佐賀]]の耐恒寮や須田学舎など当時の[[予備校#進学予備校|進学予備校]]の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現:[[開成中学校・高等学校]])の初代校長を務めた。共立学校の教え子には俳人の[[正岡子規]]やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・[[秋山真之]]がいる。その間、[[文部省]]、[[農商務省 (日本)|農商務省]]の官僚としても活躍、[[1884年]](明治17年)には農商務省の外局として設置された[[特許庁|特許局]]の初代[[特許庁長官|局長]]に就任し、日本の[[特許]]制度を整えた。[[1889年]](明治22年)、[[官僚]]としてのキャリアを中断して赴いた[[ペルー]]で銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗し、英語教師時代からの友、[[山口慎]]と苦労を分かつ。[[1892年]](明治25年)、帰国した後にホームレスとなるが、[[川田小一郎]]に声をかけられ、[[日本銀行]]に入行。 |
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[[日露戦争]]が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役[[深井英五]]を伴い、戦費調達のために戦時[[外債]]の公募で同盟国の[[イギリス]]に向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が[[中立]]違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、 |
[[日露戦争]]が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役[[深井英五]]を伴い、戦費調達のために戦時[[外債]]の公募で同盟国の[[イギリス]]に向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が[[中立]]違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、 |
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*支払い能力は関税収入である。 |
*支払い能力は関税収入である。 |
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*中立問題については米国の[[南北戦争]]中に中立国が公債を引き受けた事例がある。 |
*中立問題については米国の[[南北戦争]]中に中立国が公債を引き受けた事例がある。 |
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と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては﹁日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない﹂と拒絶した。交渉の結果、当時[[香港上海銀行]]の[[ロンドン]]支部長{{仮リンク|ユーウェン・キャメロン|en|Ewen Cameron (banker)}}︵[[デーヴィッド・キャメロン]]の高祖父︶らが公債発行に応じ<ref>{{ |
と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては﹁日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない﹂と拒絶した。交渉の結果、当時[[香港上海銀行]]の[[ロンドン]]支部長{{仮リンク|ユーウェン・キャメロン|en|Ewen Cameron (banker)}}︵[[デーヴィッド・キャメロン]]の高祖父︶らが公債発行に応じ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20160613-4VI67DULYJMMJM7VMA6YKFVSII/ |title=日本の戦費調達を支援したのはキャメロン英首相の高祖父だった! 銀行家として高橋是清から真っ先に外債引き受け… |agency=[[産経ニュース]]|date=2016-06-13 |accessdate=2019-10-06}}</ref>、さらに[[ジェイコブ・シフ]]など[[ニューヨーク]]の人脈も外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。[[1905年]]︵明治38年︶、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に勅選。[[1911年]]︵明治44年︶に日銀総裁に就任。
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[[画像:Korekiyo Takahashi 5.jpg|thumb|left|高橋是清(1934年)]] |
[[画像:Korekiyo Takahashi 5.jpg|thumb|left|高橋是清(1934年)]] |
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[[1913年]]︵[[大正]]2年︶、[[第1次山本内閣]]の[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]に就任、この時[[立憲政友会]]に入党する。政友会の[[原敬]]が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代[[内閣総理大臣]]に就任、同時に立憲政友会の第4代[[総裁]]となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。
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[[1913年]]︵[[大正]]2年︶、[[第1次山本内閣]]の[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]に就任、この時[[立憲政友会]]に入党する。政友会の[[原敬]]が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代[[内閣総理大臣]]に就任、同時に立憲政友会の第4代[[総裁]]となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。
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政友会はその後も迷走し、[[清浦奎吾]]の[[超然内閣]]が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した[[床次竹二郎]]らは[[政友本党]]を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、[[憲政会]]および[[革新倶楽部]]と[[護憲三派]]を結成し、[[第二次護憲運動]]を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出たが、これにより告示された[[第15回衆議院議員総選挙|第15回総選挙]]に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは[[華族|有爵者]]には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党[[政友本党]]の対立候補[[田子一民]]に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り<ref>望月和彦「大正デモクラシー期における政界再編」2010年3月(『桃山法学 15』)</ref><ref>衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年、20頁。</ref>、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。 |
政友会はその後も迷走し、[[清浦奎吾]]の[[超然内閣]]が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した[[床次竹二郎]]らは[[政友本党]]を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、[[憲政会]]および[[革新倶楽部]]と[[護憲三派]]を結成し、[[第二次護憲運動]]を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出たが、これにより告示された[[第15回衆議院議員総選挙|第15回総選挙]]に高橋は隠居して爵位を[[嫡男]]に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは[[華族|有爵者]]には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を﹁貴族院内閣﹂﹁特権内閣﹂などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党[[政友本党]]の対立候補[[田子一民]]に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り<ref>望月和彦﹁大正デモクラシー期における政界再編﹂2010年3月︵﹃桃山法学15﹄︶</ref><ref>衆議院事務局編﹃衆議院議員総選挙一覧 第15回﹄衆議院事務局、1926年、20頁。</ref>、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。
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新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の[[加藤高明]]は、高橋を農商務相に任命。 |
新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の[[加藤高明]]は、高橋を農商務相に任命。 |
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[[画像:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together.jpg|thumb|right|200px|高橋と |
[[画像:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together.jpg|thumb|right|200px|高橋と[[斎藤実]](右) |
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{{small|ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「[[二・二六事件]]」を参照)。}}]] |
{{small|ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「[[二・二六事件]]」を参照)。}}]] |
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その後、高橋は政友会総裁を[[田中義一]]に譲り政界を引退するが、[[1927年]](昭和2年)に[[昭和金融恐慌]]が発生し、瓦解した[[第1次若槻内閣]]に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった[[井上準之助]]と協力し、支払猶予措置([[モラトリアム]])を行うと共に、片面だけ印刷した急造の[[二百円紙幣|200円札]]を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。 |
その後、高橋は政友会総裁を[[田中義一]]に譲り政界を引退するが、[[1927年]](昭和2年)に[[昭和金融恐慌]]が発生し、瓦解した[[第1次若槻内閣]]に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった[[井上準之助]]と協力し、支払猶予措置([[モラトリアム]])を行うと共に、片面だけ印刷した急造の[[二百円紙幣|200円札]]を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。 |
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[[1931年]](昭和6年)、政友会総裁・[[犬養毅]]が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、[[金解禁|金輸出再禁止]]、史上初の国債の日銀引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、[[時局匡救事業]]で、[[世界恐慌]]により混乱する日本経済を[[デフレーション|デフレ]]から世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論 |
[[1931年]](昭和6年)、政友会総裁・[[犬養毅]]が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、[[金解禁|金輸出再禁止]]、史上初の国債の日銀直接引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、[[時局匡救事業]]で、[[世界恐慌]]により混乱する日本経済を[[デフレーション|デフレ]]から世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論』刊行の4年前であった。髙橋がケインズから直接影響を受けた可能性はないが、石橋湛山や深井英五という高度に訓練された革新的な相談相手を通し、間接的に影響を受けた可能性は高い。 |
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[[五・一五事件]]で犬養が暗殺された際に総理大臣を[[内閣総理大臣臨時代理|臨時兼任]]している。続いて親友である[[斎藤実]]が組閣した際も留任。また[[1934年]](昭和9年)に、共立学校出身に当たる[[岡田啓介]]首班の[[岡田内閣|内閣]]にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率の[[インフレーション]]の発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた<ref>{{Cite book|和書|author=大谷健|year=1986|title=大蔵大臣の昭和史|publisher=ビジネス社|page=195|isbn=4828402667}}</ref>。軍事予算を抑制しようとしたことが[[軍部]]の恨みを買い、[[二・二六事件]]において、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、[[暗殺]]された。[[享年]] |
[[五・一五事件]]で犬養が暗殺された際に総理大臣を[[内閣総理大臣臨時代理|臨時兼任]]している。続いて親友である[[斎藤実]]が組閣した際も留任。また[[1934年]](昭和9年)に、共立学校出身に当たる[[岡田啓介]]首班の[[岡田内閣|内閣]]にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率の[[インフレーション]]の発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた<ref>{{Cite book|和書|author=大谷健|year=1986|title=大蔵大臣の昭和史|publisher=ビジネス社|page=195|isbn=4828402667}}</ref>。軍事予算を抑制しようとしたことが[[軍部]]の恨みを買い、[[二・二六事件]]において、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、[[暗殺]]された。[[享年]]81。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に[[築地本願寺]]で営まれた。 |
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== 年譜 == |
== 年譜 == |
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*1876年(明治9年)5月:[[外国語学校 (明治初期)#東京英語学校|官立東京英語学校]]教員に雇われる。 |
*1876年(明治9年)5月:[[外国語学校 (明治初期)#東京英語学校|官立東京英語学校]]教員に雇われる。 |
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*1877年(明治10年)3月:東京英語学校教員を辞める。翻訳・予備校(共立学校)教師などをする。 |
*1877年(明治10年)3月:東京英語学校教員を辞める。翻訳・予備校(共立学校)教師などをする。 |
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*1878年(明治11年)9月:[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門| |
*1878年(明治11年)9月: |
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*[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|大学予備門]]英語教員として雇われる。 |
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*1881年(明治14年) |
*1881年(明治14年) |
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**4月:文部省御用掛に転じ |
**4月:文部省御用掛に転じ大学予備門教員を兼務。 |
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**5月:[[農商務省 (日本)|農商務省]]御用掛に転じる。 |
**5月:[[農商務省 (日本)|農商務省]]御用掛に転じる。 |
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*1884年(明治17年) |
*1884年(明治17年) |
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** 11月:藤井が肺気腫で倒れ辞任、その後任として大蔵大臣に就任(6度目)。 |
** 11月:藤井が肺気腫で倒れ辞任、その後任として大蔵大臣に就任(6度目)。 |
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[[File:The old house of TAKAHASHI Korekiyo at Edo-Tokyo Open Air Architectural Museum, Koganei City.jpg|thumb|[[江戸東京たてもの園]]に移築復元された高橋是清邸の母屋。この2階の寝室で暗殺された。]] |
[[File:The old house of TAKAHASHI Korekiyo at Edo-Tokyo Open Air Architectural Museum, Koganei City.jpg|thumb|[[江戸東京たてもの園]]に移築復元された高橋是清邸の母屋。この2階の寝室で暗殺された。]] |
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*1936年(昭和11年)2月26日:赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺される([[二・二六事件]])。享年83(満81歳没)。 |
*1936年(昭和11年)2月26日:赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺される([[二・二六事件]])。享年83(満81歳没)。墓所は[[多磨霊園]]。 |
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== 栄典・授章・授賞 == |
== 栄典・授章・授賞 == |
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*後妻:[[高橋品子|しな]](品子) - 原田金左衛門の長女。 |
*後妻:[[高橋品子|しな]](品子) - 原田金左衛門の長女。 |
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*長男:[[高橋是賢]] - 実業家・貴族院子爵議員 |
*長男:[[高橋是賢]] - 実業家・貴族院子爵議員 |
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*次男: |
*次男:高橋是福 - [[横浜商業学校]]卒業後渡米、[[三井物産]]を経て[[大連]]で貿易業を始めるも閉鎖、帰国後[[日本酸素]]役員、[[帝都座]]社長。岳父に貿易商の[[守安瀧三郎]]。妻の甥に[[守安祥太郎]]。相婿に[[岡崎久次郎]]。岡崎の弟に外務大臣[[岡崎勝男]]。<ref>[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-13292 高橋是福]『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/907399/38 高橋是福氏]『時と人』渡部静江 著 (新声社, 1920)</ref> |
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*二女:和喜子 - [[明治時代|明治]]の元勲[[大久保利通]]の八男・利賢に嫁ぐ。和喜子の息子が[[ロッキード事件]]で有罪判決を受けた[[丸紅]]専務の[[大久保利春]]である。 |
*二女:和喜子 - [[明治時代|明治]]の元勲[[大久保利通]]の八男・利賢に嫁ぐ。和喜子の息子が[[ロッキード事件]]で有罪判決を受けた[[丸紅]]専務の[[大久保利春]]である。 |
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*孫‥[[高橋賢一]] - 長男・是賢の長男。[[農林省 (日本)|農林省]]で[[官僚]]を務めたのち[[北海道議会]]議員となり、議長も務めた。他方で是清が[[北海道]][[伊達市 (北海道)|伊達市]]に創業した[[高橋農場 (北海道伊達市)|高橋農場]]の3代目場主として農場を[[サラブレッド]][[競走馬]]の牧場に転換し、[[1977年]]︵昭和52年︶の[[東京優駿|東京優駿︵日本ダービー︶]]優勝馬の[[ラッキールーラ]]などを生産した。
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*孫‥[[高橋賢一]] - 長男・是賢の長男。[[農林省 (日本)|農林省]]で[[官僚]]を務めたのち[[北海道議会]]議員となり、議長も務めた。他方で是清が[[北海道]][[伊達市 (北海道)|伊達市]]に創業した[[高橋農場 (北海道伊達市)|高橋農場]]の3代目場主として農場を[[サラブレッド]][[競走馬]]の牧場に転換し、[[1977年]]︵昭和52年︶の[[東京優駿|東京優駿︵日本ダービー︶]]優勝馬の[[ラッキールーラ]]などを生産した。
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*孫:[[高橋豊二]] - 是賢の次男。[[東京大学運動会ア式蹴球部|東京帝国大学ア式蹴球部(サッカー部)]]に所属し、[[1936年]](昭和11年)の[[1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技|ベルリンオリンピック・サッカー競技]]に出場した[[サッカー日本代表|日本代表]]に名を連ねた。 |
*孫:[[高橋豊二]] - 是賢の次男。[[東京大学運動会ア式蹴球部|東京帝国大学ア式蹴球部(サッカー部)]]に所属し、[[1936年]](昭和11年)の[[1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技|ベルリンオリンピック・サッカー競技]]に出場した[[サッカー日本代表|日本代表]]に名を連ねた。 |
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*孫:伊藤福子 - 次男・是福の次女。初代内閣総理大臣[[伊藤博文]]の孫・[[伊藤博精|博精]]に嫁いでいる。 |
*孫:伊藤福子 - 次男・是福の次女。初代内閣総理大臣[[伊藤博文]]の養孫・[[伊藤博精|博精]]に嫁いでいる。 |
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*曾孫:千家文子 - 孫・福子の娘。[[出雲国造|出雲国造家]]の千家達彦に嫁いでいる。 |
*曾孫:千家文子 - 孫・福子の娘。[[出雲国造|出雲国造家]]の千家達彦に嫁いでいる。 |
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*[[三橋貴明]]『コレキヨの恋文』[[小学館]]、2012年、ISBN 978-4093863261 |
*[[三橋貴明]]『コレキヨの恋文』[[小学館]]、2012年、ISBN 978-4093863261 |
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*[[幸田真音]]『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債』(上下)。[[角川書店]]、2013年/角川文庫、2015年。2011年から『[[中日新聞]]』・『[[東京新聞]]』系列で連載 |
*[[幸田真音]]『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債』(上下)。[[角川書店]]、2013年/角川文庫、2015年。2011年から『[[中日新聞]]』・『[[東京新聞]]』系列で連載 |
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; 評伝 |
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*大石亨『大蔵大臣高橋是清 不況乗り切りの達人』 マネジメント社、1992年 |
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*松元崇『高橋是清 暗殺後の日本:「持たざる国」への道』 大蔵財務協会、2010年 |
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*板谷敏彦『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』 新潮社(上下)、2024年 |
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*鈴木俊夫『高橋是清:尽人事而後楽天』ミネルヴァ書房「[[ミネルヴァ日本評伝選]]」、2024年 |
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;映画 |
;映画 |
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*『高橋是清自伝』(1936年)演:[[岡譲司]](青年・壮年期)、[[山本嘉一]](老年期) |
*『高橋是清自伝』(1936年)演:[[岡譲司]](青年・壮年期)、[[山本嘉一]](老年期) |
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*『[[226 (映画)|226]]』(1989年)演:[[小田部通麿]] |
*『[[226 (映画)|226]]』(1989年)演:[[小田部通麿]] |
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*『[[スパイ・ゾルゲ]]』(2003年)演:[[金子達]] |
*『[[スパイ・ゾルゲ]]』(2003年)演:[[金子達]] |
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*『 |
*『TAKAMINE アメリカに桜を咲かせた男』(2011年)演:[[井村英俊]] |
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;テレビドラマ |
;テレビドラマ |
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*『燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝』(1976年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]ドラマ)演:[[嵯峨善兵]] |
*『燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝』(1976年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]ドラマ)演:[[嵯峨善兵]] |
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*『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』(2015年、NHK放送90年ドラマ)演:[[オダギリジョー]] |
*『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』(2015年、NHK放送90年ドラマ)演:[[オダギリジョー]] |
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*『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』(2019年、NHK大河ドラマ)演:[[萩原健一]] |
*『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』(2019年、NHK大河ドラマ)演:[[萩原健一]] |
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*『[[前田正名 龍馬が託した男 |
*『[[前田正名]] 龍馬が託した男』(2019年、[[鹿児島テレビ]])演:[[河相我聞]] |
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*『[[倫敦ノ山本五十六]]』(2021年、NHK)演:[[山本學]] |
*『[[倫敦ノ山本五十六]]』(2021年、NHK)演:[[山本學]] |
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* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html 高橋是清の墓] |
* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html 高橋是清の墓] |
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* {{青空文庫著作者|867}} |
* {{青空文庫著作者|867}} |
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* [https:// |
* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/takahashikorekiyo1 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(所蔵)] |
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* [https:// |
* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/takahashikorekiyo2 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(MF:首都大学東京図書情報センター蔵)] |
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* {{NHK放送史|D0009060034_00000|「朝礼訓話」高橋是清蔵相}} |
* {{NHK放送史|D0009060034_00000|「朝礼訓話」高橋是清蔵相}} |
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* {{Kotobank}} |
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[[Category:昭和時代戦前の閣僚]] |
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[[Category:日露戦争の人物]] |
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[[Category:暗殺された政治家]] |
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[[Category:1854年生]] |
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[[Category:1936年没]] |
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[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]] |
2024年6月16日 (日) 07:16時点における版
高橋 是淸 | |
---|---|
![]() 肖像 | |
生年月日 |
1854年9月19日 (嘉永7/安政元年閏7月27日) |
出生地 |
![]() (現:東京都港区芝大門) |
没年月日 | 1936年2月26日(81歳没) |
死没地 |
![]() (現:東京都港区赤坂) |
出身校 |
ヘボン塾 (現:明治学院) |
前職 |
武士(仙台藩士) 官僚 |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 |
正二位![]() ![]() 子爵(1924年隠居) |
配偶者 |
高橋里ゆう(先妻) 高橋品子(後妻) |
子女 |
高橋是賢(長男) 高橋是福(次男) 大久保和喜子(二女) |
親族 | 高橋賢一(孫) |
サイン |
![]() |
| |
内閣 | 高橋内閣 |
在任期間 | 1921年11月13日 - 1922年6月12日 |
天皇 | 大正天皇 |
| |
内閣 |
第1次山本内閣 原内閣 高橋内閣(総理兼任) 田中義一内閣 犬養内閣 齋藤内閣 岡田内閣 |
在任期間 |
1913年2月20日 - 1914年4月16日 1918年9月29日 - 1922年6月12日 1927年4月20日 - 1927年6月2日 1931年12月13日 - 1934年7月8日 1934年11月27日 - 1936年2月26日 |
内閣 | 犬養内閣 |
在任期間 | 1932年5月16日 - 1932年5月26日 |
天皇 | 昭和天皇 |
内閣 | 加藤高明内閣 |
在任期間 | 1925年4月1日 - 1925年4月17日 |
在任期間 | 1924年5月10日 - 1928年1月21日 |
その他の職歴 | |
![]() (1905年1月29日 - 1924年3月24日) | |
![]() (加藤高明内閣) 1924年6月11日 - 1925年4月1日) |
生涯
1854年9月19日︵嘉永7年閏7月27日︶幕府御用絵師・川村庄右衛門ときんの子として、江戸芝中門前町に生まれた。きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ奉公していた。庄右衛門の妻は庄右衛門の手が付き身重になったきんに同情し、こっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させ、ときどき見舞って世話をしたという[3]。是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。 その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾︵後の明治学院︶にて学び、1867年︵慶応3年︶に藩命により、勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リード[4]によって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公[5]の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園での奴隷として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた[注釈 1]。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。 1868年︵明治元年︶、帰国する。帰国後の1873年︵明治6年︶、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら佐賀の耐恒寮や須田学舎など当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校︵現‥開成中学校・高等学校︶の初代校長を務めた。共立学校の教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省の官僚としても活躍、1884年︵明治17年︶には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889年︵明治22年︶、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗し、英語教師時代からの友、山口慎と苦労を分かつ。1892年︵明治25年︶、帰国した後にホームレスとなるが、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行。 日露戦争が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、 ●この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。 ●支払い能力は関税収入である。 ●中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例がある。 と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては﹁日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない﹂と拒絶した。交渉の結果、当時香港上海銀行のロンドン支部長ユーウェン・キャメロン︵デーヴィッド・キャメロンの高祖父︶らが公債発行に応じ[6]、さらにジェイコブ・シフなどニューヨークの人脈も外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905年︵明治38年︶、貴族院議員に勅選。1911年︵明治44年︶に日銀総裁に就任。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9a/Korekiyo_Takahashi_5.jpg/220px-Korekiyo_Takahashi_5.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/Takahashi_korekiyo_giving_an_address.jpg/175px-Takahashi_korekiyo_giving_an_address.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/Korekiyo_Takahashi_and_Makoto_Saito_last_pic_together.jpg/200px-Korekiyo_Takahashi_and_Makoto_Saito_last_pic_together.jpg)
年譜
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85%E3%81%AE%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%99%82%E4%BB%A3.jpg/200px-%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85%E3%81%AE%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%99%82%E4%BB%A3.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ef/Takahashi_family_photo_op.jpg/300px-Takahashi_family_photo_op.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/41/The_old_house_of_TAKAHASHI_Korekiyo_at_Edo-Tokyo_Open_Air_Architectural_Museum%2C_Koganei_City.jpg/220px-The_old_house_of_TAKAHASHI_Korekiyo_at_Edo-Tokyo_Open_Air_Architectural_Museum%2C_Koganei_City.jpg)
栄典・授章・授賞
位階 ●1884年︵明治17年︶8月30日 - 正七位[12] ●1885年︵明治18年︶12月16日 - 従六位[13] ●1900年︵明治33年︶6月6日 - 従五位[14] ●1905年︵明治38年︶2月7日 - 従四位[15] ●1913年︵大正2年︶2月28日 - 正四位[16] ●1919年︵大正8年︶9月30日 - 従三位[17] ●1924年︵大正13年︶10月15日 - 正三位[18] ●1934年︵昭和9年︶5月1日 - 従二位[19] ●1936年︵昭和11年︶2月26日 - 正二位[20] 勲章など ●1889年︵明治22年︶ ●10月25日 - 勲六等瑞宝章[21] ●11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[22] ●1902年︵明治35年︶12月28日 - 勲五等瑞宝章[23] ●1906年︵明治39年︶4月1日 - 勲一等瑞宝章 ●1907年︵明治40年︶9月23日 - 男爵[24]。 ●1911年︵明治44年︶8月24日 - 金杯一組[25] ●1915年︵大正4年︶11月10日 - 大礼記念章[26] ●1920年︵大正9年︶9月7日 - 子爵・旭日大綬章[27] ●1921年︵大正10年︶7月1日 - 第一回国勢調査記念章[28] ●1927年︵昭和2年︶6月3日 - 旭日桐花大綬章[29] ●1930年︵昭和5年︶12月5日 - 帝都復興記念章[30] ●1936年︵昭和11年︶2月26日 - 大勲位菊花大綬章[20] 外国勲章佩用允許受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1908年(明治41年)4月1日 | ![]() |
勲一等太極章[31] | ||
1922年(大正11年)2月7日 | ![]() |
![]() |
レジオンドヌール勲章グランクロワ[32] | |
1924年(大正13年)7月3日 | ![]() |
![]() |
レジオンドヌール勲章グランクロワ[33] | 2回目 |
1923年(大正12年)8月24日 | ![]() |
グランクロアオドロゼニアポルスキー勲章[34] |
家族・親族
川村家
是清の生家川村家は代々狩野派の絵師で八世庄右衛門守房の代になっては、江戸本丸の御屏風係を務め、芝の露月町︵ろげつちょう︶に屋敷を構えていた。是清の実父庄右衛門はでっぷり太った、性格の明るい、非常に責任感の強い人だったらしく、職務に精励したので、のちに身一代三人扶持にとりあげられている。明治維新後は深川閻魔堂橋側に団子店をだした。是清の生母きんは、やがて浜松町の塩物屋に嫁いで女の子を生んだが、二十四歳で死んだという[35]。高橋家
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9f/Korekiyo_Takahashi_with_his_grandchildren.jpg/200px-Korekiyo_Takahashi_with_his_grandchildren.jpg)
著作
●﹃高橋是清 山県有朋 経済問題論争﹄ ︵口述記録 高橋是清・山縣有朋、千倉書房、1911年、再刊1936年︶ ●﹃立身の径路﹄︵丸山舎書籍部、1912年︶ ●﹃高橋是清―立身の経路﹄︵日本図書センター<人間の記録>、1999年︶、ISBN 978-4820543275 ●﹃処世一家言 半生の体験﹄︵今日の問題社、1936年︶ ●﹃半生の体験 世に処する道﹄︵今日の問題社、1936年︶ ●﹃随想録﹄︵上塚司編、千倉書房、1936年︶ ●﹃高橋是清 随想録﹄︵上塚司編、本の森、1999年︶、ISBN 978-4938965150 ●﹃随想録﹄︵解説井上寿一、中央公論新社︿中公クラシックス﹀、2010年11月/中公文庫、2018年4月︶ ●﹃高橋是清自伝﹄︵上塚司編、千倉書房、1936年︶ ●﹃高橋是清自伝﹄︵上塚司編、中公文庫︵上下︶、1976年、改版2018年3月︶ 上巻 ISBN 978-4122065659、下巻 ISBN 978-4122065666 ●﹃高橋是清伝﹄︵高橋是清口述・上塚司筆録、矢島裕紀彦現代語訳、小学館地球人ライブラリー、1997年︶ ●﹃高橋是清 経済論﹄︵上塚司編、千倉書房、1936年︶ ●﹃経済論﹄︵中央公論新社︿中公クラシックス﹀、2013年12月︶、ISBN 978-4121601452 ●﹃国策運用の書﹄︵山崎源太郎編、斗南書院、1936年︶ ●﹃高橋是清の日本改造論―“デフレ大恐慌”のいま、死中に活路を見い出す﹄ ︵山崎源太郎編、矢島裕紀彦・再々編、青春出版社、1998年︶、ISBN 978-4413031240 ●﹃是清翁遺訓 日本国民への遺言﹄︵大久保康夫編︶ ︵三笠書房、1936年、小冊子版、1938年/皇文社、1938年︶関連作品
小説 ●南條範夫﹃奴隷から宰相へ 高橋是清﹄新人物往来社、1967年。新版﹁達磨宰相・高橋是清﹂PHP文庫、1989 年 ●松浦行真﹃熱い嵐 高橋是清の生涯﹄集英社、1979年。TBSドラマ原作小説 ●長野広生﹃波瀾万丈 高橋是清 その時代﹄東京新聞出版局︵上下︶、1979年 ●津本陽 ﹃生を踏んで恐れず 高橋是清の生涯﹄ 幻冬舎、1998年/幻冬舎文庫、2002年 ●﹃人生を逆転させた男 高橋是清﹄PHP文芸文庫、2017年 ●高橋義夫﹃高橋是清と井上準之助﹄学陽書房・人物文庫、2005年 ●片岡英﹃赤と白 小説高橋是清﹄ 文芸社、2009年 ●三橋貴明﹃コレキヨの恋文﹄小学館、2012年、ISBN 978-4093863261 ●幸田真音﹃天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債﹄︵上下︶。角川書店、2013年/角川文庫、2015年。2011年から﹃中日新聞﹄・﹃東京新聞﹄系列で連載 評伝 ●大石亨﹃大蔵大臣高橋是清 不況乗り切りの達人﹄ マネジメント社、1992年 ●松元崇﹃高橋是清 暗殺後の日本‥﹁持たざる国﹂への道﹄ 大蔵財務協会、2010年 ●板谷敏彦﹃国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯﹄ 新潮社︵上下︶、2024年 ●鈴木俊夫﹃高橋是清‥尽人事而後楽天﹄ミネルヴァ書房﹁ミネルヴァ日本評伝選﹂、2024年 映画 ●﹃高橋是清自伝﹄︵1936年︶演‥岡譲司︵青年・壮年期︶、山本嘉一︵老年期︶ ●﹃激動の昭和史 軍閥﹄︵1970年︶演‥明石潮 ●﹃動乱﹄︵1980年︶演‥野口元夫︵役名は﹁蔵相﹂︶ ●﹃226﹄︵1989年︶演‥小田部通麿 ●﹃スパイ・ゾルゲ﹄︵2003年︶演‥金子達 ●﹃TAKAMINE アメリカに桜を咲かせた男﹄︵2011年︶演‥井村英俊 テレビドラマ ●﹃燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝﹄︵1976年、フジテレビドラマ︶演‥嵯峨善兵 ●﹃風が燃えた﹄︵1978年、TBS︶演‥天田俊明 ●﹃熱い嵐﹄︵1979年、TBS︶国広富之︵青年期 - ペルーでの銀山開発失敗、日銀入りまで︶、森繁久彌︵壮年期 - 日銀総裁以降︶[1][2] ●﹃二百三高地 愛は死にますか﹄︵1981年、TBSドラマ︶演‥長門勇 ●﹃山河燃ゆ﹄︵1984年、NHK大河ドラマ︶演‥入江正夫 ●﹃落日燃ゆ﹄︵2009年、テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル︶演‥神山繁 ●﹃坂の上の雲﹄︵2009年-2011年、NHKスペシャルドラマ︶演‥西田敏行 ●﹃経世済民の男 高橋是清﹄︵2015年、NHK放送90年ドラマ︶演‥オダギリジョー ●﹃いだてん〜東京オリムピック噺〜﹄︵2019年、NHK大河ドラマ︶演‥萩原健一 ●﹃前田正名 龍馬が託した男﹄︵2019年、鹿児島テレビ︶演‥河相我聞 ●﹃倫敦ノ山本五十六﹄︵2021年、NHK︶演‥山本學紙幣の肖像
かつて発行された日本の紙幣︵日本銀行券︶では、戦後の1951年︵昭和26年︶に発行が開始されたB五拾円券に肖像として採用されている︵肖像画は是清の孫が所有していた写真を元にしており、服装を燕尾服から一般的な背広に差し替えたもの︶。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e8/Series_B_50_Yen_Bank_of_Japan_note_-_front.jpg/240px-Series_B_50_Yen_Bank_of_Japan_note_-_front.jpg)
脚注
注釈
- ^ 英語のIndentured servantはslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳されることが多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳されることも多い。高橋是清のことを記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。
出典
参考文献
- 大島清 『高橋是清 ― 財政家の数奇な生涯』 中央公論社[中公新書]、1969年、復刊1999年
- 北脇洋子『棺を蓋いて事定まる―高橋是清とその時代』東洋経済新報社、1999年
- 松元崇『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』中央公論新社、2009年/中公文庫、2012年
- リチャード・J・スメサースト『高橋是清―日本のケインズ その生涯と思想』
鎮目雅人・早川大介・大貫摩里訳、東洋経済新報社、2010年
関連項目
外部リンク
●第7代総裁‥高橋是清 - 日本銀行 ●高橋是清経歴 ●初代特許庁長官高橋是清について ●高橋是清の墓 ●高橋是清‥作家別作品リスト - 青空文庫 ●国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書︵所蔵︶ ●国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書︵MF‥首都大学東京図書情報センター蔵︶ ●﹁朝礼訓話﹂高橋是清蔵相 - NHK放送史 ●﹃高橋是清﹄ - コトバンク公職 | ||
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