旧題字の看板を掲示する販売店も存在する
産経新聞︵さんけいしんぶん、題字: 產經新聞、英: THE SANKEI SHIMBUN︶は、産業経済新聞社︵産経新聞社︶が発行する日本の新聞︵一般紙︶。正式名称は産業経済新聞︵さんぎょうけいざいしんぶん︶で、1933年に創刊[3]された。日本の5大紙の一つで[4]、現在は中央紙的な紙面を保ちつつ、近畿地方・関東地方を中心に販売している。
朝日新聞社、大阪毎日新聞社とともに大阪発祥の新聞社であるが、現在は登記上の本部・本店を東京に置く。
一方で、他紙が紙に拘る中でインターネットでの報道事業・デジタルに早くから力を入れ、2005年11月からウェブサイト版(ニュースサイト)として産経デジタル運営の「産経ニュース」開設や検索サイトとのニュース提携などしてきた[9]。Smart Flashは、2022年12月の仕様変更によってTwitterの投稿閲覧回数が第三者からも可視化された際に、4大紙[注釈 2]の中で最もフォロワー数で劣るものの、閲覧回数が読売・朝日・毎日に比べても多いことから、他紙のTwitterアカウントの被ミュート数がフォロワー数に比して多いのではないかという関係者の考察を紹介し、2022年12月末時点で約133万がフォローする「朝日新聞」、約98万のフォロワーを擁する「毎日新聞」、約83万のフォロワーが存在する「読売新聞オンライン」のツイート閲覧回数が数千回であり、多くとも1万回程度の一方で、約70万がフォローする「産経ニュース」のニュース配信ツイートは、表示回数が1万回を超えるものが多く、なかには5万回以上の表示回数を記録するツイートがあると報じた[10]。
旧題字︵1969年︶
●1933年︵昭和8年︶6月20日 - 前田久吉の経営する夕刊大阪新聞社によって、﹃日本工業新聞﹄として大阪市で創刊される。会社側は、この日を産経新聞の創刊日としている[3]。
●1942年︵昭和17年︶ 国家総動員法に付属した勅令新聞事業令に基づき、﹃大阪中外商業新報﹄など名古屋以西を拠点としていた経済各紙と強制統合。11月1日から題号を﹃産業經済新聞﹄[3]、商号を産業経済新聞社︵さんぎょうけいざいしんぶんしゃ︶にそれぞれ変更した。現在の﹃産経新聞﹄の題号に直接つながるという意味では、この日が実質的な創刊日である。
なお東日本の経済紙は東京で中外商業新報社が発行していた﹁中外商業新報﹂を中心に統合、﹃日本産業経済﹄︵にほんさんぎょうけいざい、現・日本経済新聞︶となった。これ以後、産経が東京に進出するまで日本産業経済と産業経済新聞は取材・販売地域の棲み分けをさせられたため、日本経済新聞と本紙はこの時点で同じ歴史の流れに組み込まれた。
●1946年︵昭和21年︶ - 前田久吉が新聞による戦意高揚に関与したとして公職追放される。
●1950年︵昭和25年︶ - 前田久吉が追放解除により社長に復帰する。3月から東京でも印刷・発行を開始。紙面を経済紙から一般紙に変更し、全国紙としての基礎を固める。
●1951年︵昭和26年︶1月1日 - 世界経済新聞社が1946年に東京で﹃世界日報﹄として創刊した﹃夕刊世界経済﹄を東京発行の﹃産業経済新聞﹄に合併︵﹃世界日報﹄はのちに統一教会︵世界平和統一家庭連合︶の機関紙として復刊︶。﹁世界経済合同﹂を題字下に追加した。
論調の根幹は右派的で親米保守・反共主義かつ旧体制への復古主義的傾向もみられる。また、右寄りといわれる読売新聞よりもタカ派的であり、統一協会系の世界日報と並び称されることもある。
電子版では「皇室」のコーナーを設けて動静を報じる[24][注釈 6]。
| この記事の 出典や参考文献は、 一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。 信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。 出典検索?: "産経新聞" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2023年12月) |
日本維新の会に対しては、反共・憲法改正・親米保守などといった基本理念では本紙と共通し、さらに行政改革に対しても自民党以上に積極的なため、好意的な論調が多い[37][38]。
少数政党では、幸福の科学傘下で保守強硬色の強い幸福実現党関連の記事、連載、広告を本紙および僚紙で多く受け入れる傾向がある。2009年︵平成21年︶6月24日の夕刊フジに開祖大川隆法の妻で当時党首だった大川きょう子のインタビュー記事を掲載[45]、2009年8月2日、大川きょう子︵当時宣伝局長︶と田母神俊雄の対談記事が全面広告として掲載された。2010年1月28日から夕刊フジに初代党首の饗庭直道︵当時広報本部長代理︶の連載コラム﹁いざ!幸福維新﹂がスタートし[46]、これは竜の口法子︵当時党女性局長︶[47]ら歴代党首に引き継がれて、現在は、釈量子党首による連載が続いている。また﹃ビジネスアイ﹄およびその電子版﹃SankeiBiz﹄にも石川悦男︵当時党首︶のコラムが2010年︵平成22年︶2月から毎週掲載︵もしくは隔週掲載︶されていた。その後、ついき秀学︵当時党首︶をはじめ歴代党首に引き継がれて、2021年の紙版休刊まで掲載された[48]。
中国共産党を﹁北京﹂と呼称する事がある点が特徴である。文化大革命期に共同通信社を皮きりに他紙が次々と国外追放される中、朝日新聞のみが中国国内に残り、以降、産経を除く他社は中華人民共和国国務院︵中国当局︶の台湾支局閉鎖の要求を呑んで中国に支局を開局した。これとは対照的に、産経新聞は中国当局の要求を一貫して拒否し、結果として1967年︵昭和42年︶に特派員柴田穂が国外追放されて以降は、北京への特派員常駐を認められなかった[注釈 8]状態で、日本の新聞で最も早く林彪の死亡推測記事を伝える[注釈 9]など、むしろ政治的には中国を詳しく報道することとなった。以後、1998年︵平成10年︶までの31年間、北京に支局を置くことがなかった。
1998年(平成10年)に、北京に再び開局した支局を「中国総局」とし、組織上「台湾支局」をその下に配置することで中国支局を再開した。産経新聞がこうして中国の支局を再設置した結果、マスコミ他社もそれに倣って同じ条件で台湾に支局を開局することとなった。
信隆社長時代に2年にわたって掲載された『蔣介石秘録』には、南京大虐殺について死者数を30万〜40万とする主張を載せた記事やコラムを掲載していた[63]。
2022年ロシアのウクライナ侵攻に関しては、他の主要メディアと比較しても特に﹁侵略﹂と言う言葉を用いて批判的な報道を多く行っている[64][65]。
2022年5月4日に﹁反ロマスコミ﹂だとして、63人の日本人についてロシア連邦への入国を恒久的に禁止する措置が発表された[66]が,その中でも、読売は経営者のみ︵渡邉恒雄︶、日経は経営者と編集局長の二人だけであるところ、産経新聞は代表取締役社長飯塚浩彦︵現・会長︶、専務取締役近藤哲司︵現・社長︶だけでなく、論説顧問の斎藤勉と、東京本社外信部次長兼論説委員遠藤良介も入国禁止措置リストに入れられた。﹁メディア関係者﹂で最多かつ論説委員クラスからは唯一対象者を出しており、自民党(在任中は党籍離脱する衆参両院議長含む25人)に次ぐ入国禁止措置対象となっている[67][66]。
冷戦時代、日本のメディアの朝鮮半島報道は、北朝鮮肯定・韓国否定が主流だったが、産経新聞はほぼ唯一、韓国支持・北朝鮮批判の論陣を張った。
韓国が第3代大統領朴正煕による第三共和政だった当時、日本メディアの多くは、朴政権をクーデターで政権を奪った独裁政権と否定的にとらえ、野党や知識人に対する弾圧に注目する一方、近代化や経済発展に関心を示さなかったが、産経新聞は、朴の近代化政策や経済建設を高く評価した。韓国国内でも、産経新聞は親韓メディアとみなされていた。朴は1976年の産経新聞による単独取材に﹁産経新聞が公正な態度で偏見のない報道を貫き、日本国民の正しい認識を深めるのに尽くされていることに対し感謝したい﹂と述べている[68]。
第13期大統領選挙を前に、後の第6代韓国大統領盧泰愚による民主化宣言が出された後の1990年代以降は、徐々に立場が逆転。産経は南北双方に対して批判的になり、朝日の方が韓国の立場を支持するという意味で良心的と讃えられるようになった。背景には、民主化宣言以後の金泳三、金大中、盧武鉉政権など北朝鮮に対する融和的なムードが韓国国内で広がったこと、冷戦終結で相互に遠慮が無くなったこと、また慰安婦問題など植民地時代の歴史認識をめぐって産経が日本政府の立場を前面に押し出す姿勢を見せたことなど、様々な理由がある[69]。
2014年には、朴正煕の長女で第11代大統領だった朴槿恵に関する報道が外交問題化している。元ソウル支局長黒田勝弘は、﹁娘・槿恵時代の韓国に産経新聞の記者が名誉毀損で裁判にかけられていることを父は草葉の陰でどう思っているだろうか。お互い残念なことだが、これは時代および日韓関係の変化の象徴である﹂と述べている[69]。
2006年(平成18年)4月には常務取締役加藤雅己が共同通信加盟社の旅行団メンバーとして北朝鮮へ渡った。
1996年に“北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)”というような正式呼称の併置を廃止し、日本メディアで最初に「北朝鮮」と単独表記することにした。このことで朝鮮総聯から抗議を受けたが、その後2002年(平成14年)〜2003年(平成15年)にかけて他の全国紙やNHKを含む日本のテレビ・ラジオ各局からも正式呼称が消え単に「北朝鮮」と呼称されるようになった。最近では「北」という表記も使用している。
中東問題では、社説などでイスラエル寄りの主張を行っている。パレスチナ自治区のイスラム原理主義組織「ハマース」に「イスラエルの存在を認めるべきだ」という旨を主張したり、パレスチナの国連加盟申請を「中東和平の阻害になる恐れがあり、イスラエルとの直接交渉こそすべきである」という主張をしたりしている[71]。
注目を集めた報道・スクープ/疑義が持たれた報道・捏造報道・スキャンダル
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東京本社版では2001年︵平成13年︶11月7日に夕刊を廃止することを発表し、翌年の2002年︵平成14年︶3月30日付で発行を終了した︵大阪本社版=近畿地方のみでは夕刊を発行している。これは東西別対応というよりも、近畿地方では元来朝刊紙と夕刊紙とで住み分けされた文化があることに加え、同日付で夕刊専門紙として大阪で長年発行してきた僚紙の大阪新聞を廃刊し、その内容を産経新聞大阪本社夕刊に事実上継承させた経緯によるもので、主に大阪新聞時代からの連載・特集と、関西圏の地場ニュースに特化したものとなった︶。夕刊廃止についてフリーライターの山口俊明が“産経新聞の東京圏での夕刊セット率は3割程度でコスト割れを起こしていた”とし、更に“売れ残った夕刊を販売店に引き取らせ、代金も徴収するいわゆる押し紙を行っていた。これに販売店も反発し、本社の前でトラックに山と積まれた押し紙を投げ捨てたこともあり、一方で大阪圏のセット率は6割前後を維持していた”としている[86]。
産経新聞は夕刊廃止の理由について﹁﹃一日の出来事が、丸ごと一紙でわかる﹄24時間編集の新聞をめざす。世界の一流紙はみな朝刊専門紙である。夕刊が無くなっても犬は困らない﹂︵当時の産経新聞夕刊廃止広告のキャッチフレーズ︶と述べている。また﹁ワンコイン作戦﹂と称して、一部売り朝刊を2001年9月1日付より一部110円から100円に値下げ。これ以降﹁新朝刊﹂という表現を用いている。
以来、東京本社で廃止された全国紙・産経新聞としての夕刊の機能は夕刊フジが担っている︵夕刊フジの論評がそのまま本紙電子版に載る︶。しかし産経新聞の夕刊が廃止されたことに伴い宅配自体は原則、翌朝配達︵広義の一回配達に同じ。鉄道駅・コンビニエンスストアなどにおける即売のみ[注釈 10]発行当日の夕刊での販売は継続されている︶へ切り替えられている。
2002年︵平成14年︶2月より駅売り即売版のみ新聞休刊日の発行を行ったが、日本新聞協会加盟各社の反発を招き、清原武彦社長が日本新聞協会副会長を辞任する騒動となった。さらに2002年ソルトレークシティオリンピック開催期間中だったため、読売新聞が﹃オリンピック特別号外﹄と称して、定期購読の宅配分も含め新聞休刊日にも発行してこれに対抗、朝日新聞など他紙もこれに倣って宅配分も含めての新聞休刊日発行を行った。その結果、3ヶ月で産経新聞は新聞休刊日の発行を中止し、各社も同じく発行を中止した。
デジタル事業部を﹁産経デジタル﹂として2005年11月に阿部雅美を初代社長とする分社をし、2006年2月から本格的な事業展開を始めている。他社が紙媒体にフォーカスしていた2007年時点でネット報道に力を入れている[9]。2007年10月1日から開始されたマイクロソフト社と提携・運営する﹁MSN産経ニュース﹂の利用者数は、産経新聞で単独運営していた﹁Sankei Web﹂の9月の利用者数の約2.4倍の414万2000人に増加した[87]。2014年9月時点で﹁MSN産経ニュース﹂は新聞社系ニュースサイトの最大規模利用者数となり、同年10月1日に単独運営の﹁産経ニュース﹂とオピニオンサイト﹁iRONNA﹂︵いろんな︶をオープンした[88]。
●1950年代に一時、中日新聞社の最高幹部が産経新聞社に役員として迎えられていたという歴史的経緯により、中日新聞・東京新聞に対する批判は抑えられている。
●同様に毎日新聞についても、九州・山口特別版の発行で提携関係にあるという理由により、批判はトーンダウンしている。
●沖縄県石垣市で発行されている八重山日報と業務提携を結んでおり、編集長の仲新城誠の著書を系列の産経新聞出版から刊行しているほか、記事の相互交換を行っている。
●中国共産党中央機関紙人民日報からは﹁保守派のプロパガンダ機関﹂、﹁右翼の安倍晋三首相の支持陣営﹂[91]と評された。人民日報傘下の﹁環球時報﹂からは頻繁に﹁日本の右翼メディアの報道﹂として記事内容を採り上げられている[92][93][94]。
●韓国の大手紙東亜日報は産経新聞ソウル支局長名誉毀損起訴事件に関連して、日本のメディア、特に産経新聞には菊タブーがあり天皇批判を行わないが、他国の国家元首に対しては無礼な報道を憚らない極右新聞、チンピラメディアと評している[95]。また金玄基・中央日報編集局長は、東京支局長として日本に赴任する直前、東京特派員だった先輩に﹁産経は絶対に引用するな、記事の内容は全部嘘だ﹂と忠告されたという。産経新聞がソウルの日本大使館前で行われている慰安婦問題の抗議集会について﹁慰安婦は、死してなお対日歴史戦の戦士と祭り上げられ、反日の道具と…﹂と記事にしたことや﹁歴史戦﹂の企画について、金玄基は﹁産経が極右の先鋒として、安倍政権の﹃提灯持ち﹄を自負しようがしまいがそれは産経の自由だ。しかしいくら産経が逆立ちしたまま歴史をひっくり返して解釈しようとしても変わらない真実がある。日本は加害者で韓国は被害者だったという不変の史実だ。今でもそれを知って記事を書くならば﹁産経記事も引用するべきことはしろ﹂という話を後輩に聞かせようと思う。大きな期待はしないが。﹂と述べている[96]。
●1955年以後、全国紙で唯一書籍版の新聞縮刷版を定期刊行していない︵﹃産業経済新聞﹄時代の1951年~1954年に大阪本社版の縮刷版が定期刊行されていた︶。またスポーツ新聞だけでなく夕刊紙や産業専門紙も持つ唯一の全国紙でもある︵創刊の経緯にちなむ︶。
●2001年末から交ぜ書きを止めている[97]。
●全国紙に分類されているが、北海道などでは発行されていない︵北海道へは東京本社版︵地域面差し替え無し︶を空輸し、主に北海道新聞の販売店が配達していたが、2020年3月で北海道内での宅配配達を終了した。[要出典]購読部数は極めて少なかった[81]︶。北海道新聞社は産業経済新聞社と提携して道新スポーツを発行していたが、2022年11月30日で休刊となり、実質産經新聞グループは北海道から撤退となった。また、本紙では制作していない北海道版︵地域面︶については、2016年12月1日から運用を開始した﹁産経電子版﹂で閲覧することが可能であったが、2021年現在では廃止されている。[要出典]
1942年(昭和17年)に戦時統合で『産業経済新聞』となった発足当初の題字は波の地紋に楷書体で「産業經済新聞」と書かれていた[98]。戦後も暫くは楷書体の題字が続いたが、1950年(昭和25年)3月1日、東京本社版の発行が始まるのと同時に楷書体から隷書体に変わり、地紋にも手が加えられる。東京本社版では下部に「東京」の文字が追加された。
1955年(昭和30年)11月、東京で発行されていた『時事新報』を産業経済新聞本体に吸収して『産経時事』としたが、このときの題字は『産業経済新聞』と同様に波の地紋に隷書体の縦書きで「産經時事」と書かれ、上にカタカナで「サンケイ」とゴシック体の活字で明記されていた。なお産経時事の題字は東京本社版のみで、大阪本社版は従来通り『産業経済新聞』の題字で発行されていた。また現在も時事新報社は休眠状態だが子会社として存続している。
『産経新聞』となった後も同様に波の地紋に縦書きで「産經新聞」と隷書体で書かれ、下部に「産業経済新聞」、更に東京本社発行分はその下に「時事新報合同」とゴシック体の活字で明記されていた。これが従来と同様、1面右端に配置されていた。
この頃、産経新聞が出資・報道協定を結んでいるフジテレビジョンが1959年に開局したが、鹿内信隆はそれにちなみ、﹁フジ新聞﹂としたい構想があったが、それはのちに創刊する夕刊フジに由来するようになる。
1969年︵昭和44年︶5月、﹃サンケイ﹄に改題後は亀倉雄策作のロゴをそのまま使用することになり、当初は従来からの波の地紋の中央に富士山が登場し、その上に縦書きでカタカナ四文字が配され、下部にゴシック体の活字で﹁産業経済新聞﹂﹁産経新聞﹂と明記された︵亀倉ロゴの﹁サンケイ新聞﹂の文字は1962年︵昭和37年︶2月1日付から欄外に配されていた︶。同年9月1日より横型に変更して富士山を象った模様の上にカタカナ四文字が配され、左隣に﹁産業経済新聞・産経新聞﹂と小さなゴシック体の活字で書かれるようになった。どちらも東京本社版にあった﹁時事新報合同﹂の文字は表記されなくなった。
横書きになってからは右側︵ごく初期は左端。右側に全国の発行日付け天気︶に広告が書かれていたが、1982年︵昭和57年︶8月1日︵※東京本社版︶から﹁新川和江選・朝の詩﹂が左端に載せられるようになったため、日付は題字右側に移動︵夕刊は変わらず︶。
1986年︵昭和61年︶4月1日から、フジサンケイグループのCI導入により、題字右端下に吉田カツ作による“目玉マーク”が添付され、その右側に馬場雄二作の﹁FUJISANKEI COMMUNICATIONS GROUP﹂のロゴが付けられた。
1988年︵昭和63年︶5月29日﹃産経新聞﹄に復題後、青の正方形の無地に白抜きの毛筆篆書体で右から縦書きで﹁產經﹂﹁新聞﹂と揮毫された現在の題字が登場。1頁中央上部に正方形の縦書き2行で書かれた題字を中心に、左右に淡いグレーのボックスを配したレイアウトを採用。左側ボックスは朝刊が﹁朝の詩﹂、夕刊がコラム記事。右側ボックスは、当初は朝刊がその日の主な予定や各国の祝日など行事の紹介、後に主要記事目次、夕刊は別のコラム記事が載っていた。また日付のところの新聞名の表示が﹁産業経済新聞︵サンケイ︶﹂と変更された。
現在は東京、九州・山口版と大阪版では若干レイアウトが異なっているが、大阪版は1988年の紙面刷新以後のスタイルをほぼ踏襲する形を取り、右端は宅配申し込み・記事内容の問い合わせの電話番号等を掲載している。一方東京本社版は2008年︵平成20年︶3月20日︵※九州・山口版は2009年︵平成21年︶10月1日創刊︶以後、左端のところに日替わりコラムを掲載しており、題字・﹁朝の詩﹂は右寄りに配置された。なお﹁産業経済新聞︵サンケイ︶﹂の文言は削除されており、九州・山口版には日付のところに﹁九州・山口特別版﹂という表示がある。目次については、東京、九州・山口版は左端の日替わりコラム・南ひろこ﹁ひなちゃんの日常﹂の中間、大阪版は右下にある。2013年︵平成25年︶4月1日に、東京、九州・山口版で紙面刷新を行ない、﹁産業経済新聞︵サンケイ︶英称・THE SANKEI SHIMBUN﹂の文言を再び入れるなどとして、大阪版同様の刷新となった。︵※東京版は、2008年3月20日の紙面刷新以来5年ぶり。九州・山口版は、2009年10月1日の創刊以来初だという。︶
なお産経新聞社の正式な社旗は初代が赤地︵紺地説あり︶に左上から三本の白い斜線が左下に降りる上の中央に丸で﹁産経﹂と縦書きで書かれた文字を囲むマークを配した物。水野成夫経営後は赤地に中央よりやや上部に白く横一線がひかれ、その中に亀倉ロゴのカタカナ四文字﹁サンケイ﹂が青文字で配された物。三代目の現行は赤地に白く目玉マークを染め抜き、下部に﹁産經新聞﹂と馬場雄二作のフジサンケイグループ統一ロゴが白く染め抜かれた物となっている。
水野が退陣すると鹿内信隆が社長に就任し、1969年︵昭和44年︶4月1日、社説を﹁主張﹂に改題。7月には﹁新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢がなっているでしょうか﹂﹁敢然と守ろう﹃自由﹄、警戒せよ、左翼的商業主義!﹂と宣言し﹁正論﹂路線を打ち出した[99]。1970年︵昭和45年︶1月1日付では﹁年頭の主張﹂を鹿内が自ら執筆し、死去直前の1990年︵平成2年︶まで20年間続けた。1973年︵昭和48年︶6月には産経新聞朝刊紙上で﹃主張﹄とは別にオピニオン記事としての﹃正論﹄欄を常設。保守系の学者や評論家にその主張を公表する場を与えた[注釈 14]。同年11月には、これを基に月刊総合雑誌﹃正論﹄も立ち上げた。
元社長で相談役の住田良能が論説委員に昇格した1989年(平成元年)から、東京本社編集局長、主筆へと駆け上がった1990年代には、この傾向がさらに強まった[100]。
月刊『正論』の販売部数が伸びた2007年(平成19年)からは産経新聞本紙での『正論』欄掲載が平日の5日間のみに縮小されるなど、時代の変化に合わせた改革も行われている。
﹁“ナンバーワン”よりも“オンリーワン”﹂﹁新聞はみな同じではありません﹂﹁群れない、逃げない。モノを言う新聞﹂とのキャッチフレーズの下に独自路線を進むことを宣言した。
年越し派遣村等の生活困窮者支援施策やその関係者についての報道[101][102]・論調に見られるように、2009年9月から2012年12月までの民主党連立政権による社会民主主義的・左派的政策や、およびそれらを肯定的に伝える他紙︵朝日新聞、毎日新聞、中日新聞︶に対しては批判的であった。
1面コラムは前田社長時代、﹁点心﹂を掲載していた。前田に代わって水野が社長に就任すると、朝刊のコラムを﹁サンケイ抄﹂として室伏高信に、夕刊のコラムを﹁笛﹂として渡辺一夫に外部委託して連載していた。しかし朝日新聞より引き抜かれた土屋清が編集総長兼論説委員長に就任した際に、編集各部の部会を回って紙面改革の意見を徴したとき、政治部記者の俵孝太郎が﹁コラム執筆者は内部起用すべきだ、機会を与えられればわれわれも他社並のことはできる﹂と発言した。その結果、土屋は東西の編集各部長に60人の候補者を推薦させて社内コンペを行い10人を選び、内6人に﹁サンケイ抄﹂と﹁笛﹂の分担執筆を命じた。
﹁サンケイ抄﹂は当初、編集総長室の古屋奎二と山本雄二郎が隔日で、日曜日は選外入選組が書いた。古屋が﹃蔣介石秘録﹄執筆の為に抜けた後は、政治部の俵がそれに替わり、日曜日を社会部部長の青木彰が担当した。その後、水野の社長退陣に土屋が殉じて退社した後に、青木が編集局長に就任すると、石井英夫を専門の執筆者として指名し、以後は石井が独りで︵月曜掲載分は石井が日曜休暇の為別人の執筆︶35年間に渡り書き続けることとなった[103]。2004年︵平成16年︶12月28日をもって筆者が交代した。メディア批評誌﹃創﹄は、30歳代から40歳代の数人の若手記者による輪番執筆に変わったと指摘。会社側も2008年︵平成20年︶6月20日付紙面で、委員長皿木喜久ら3人の論説委員が交代で執筆するようになったと認めた。
2012年7月、産経抄は坂本龍一本人が産経新聞本紙に月に1度の連載﹁いま、僕が思うこと﹂を持つにもかかわらず、反原発運動に参加した坂本を名指しで批判した[104]。坂本は9月23日に同エッセイで反論し[105]、連載を終了した。
基本的に毎月第一月曜日、産経新聞の朝刊1面に掲載される。
●反貞女大学 三島由紀夫 1965年︵昭和40年︶2月7日 - 同年12月19日
﹁奥さま日曜日です﹂のコーナーに計45回連載された。
●風塵抄 司馬遼太郎 1986年︵昭和61年︶5月 - 1996年︵平成8年︶2月
●のどもと過ぎれば・・・西城秀樹 1995年4月8日〜1997年4月5日、毎週土曜日
●月に一度 江藤淳 1996年︵平成8年︶ - 1999年︵平成11年︶
●日本よ 石原慎太郎 1999年︵平成11年︶11月 - 2012年︵平成24年︶12月
●2008年︵平成20年︶3月20日の︵※東京本社版︶紙面刷新により、30日日替わりエッセイと称して二面に毎日日替わりでエッセイが掲載されることとなった。日替わりエッセイの一回目は石原慎太郎の﹁日本よ﹂がそのまま掲載された。そして2015年︵平成27年︶10月19日︵※原則第3月曜日︶より、﹃日本よ、ふたたび﹄が掲載されるが2017年の小池百合子ブームによる小池劇場と豊洲への築地市場移転問題時に産経側がコラムを当面の間、休止してくれと石原に要求し、﹁君がそうなら結構だ、書かない﹂となり止まった。
月1回エッセイ
●東京本社版・九州・山口特別版は1面、大阪本社版はオピニオン面に掲載。
●**︵福田・麻生・鳩山・菅・野田・安倍︶首相に申す 櫻井よしこ︵2008年︵平成20年︶4月 - 2013年︵平成25年︶3月︶毎月第2木曜日
●塩爺のよく聞いてください 塩川正十郎︵2008年︵平成20年︶4月 - 2009年︵平成21年︶11月︶毎月第3木曜日 他
金美齢・日垣隆・山崎行太郎などが土曜日から月曜日まで交代で執筆するコラム『斜断機』を2002年(平成14年)3月31日まで連載していた。最終回は日垣の「さらば斜断機」[注釈 15]。
2002年4月から2009年2月まで、著者を入れ替え、反論コーナー『斜断機へ』を廃止して新コラム『断』。
2009年3月より一部執筆者を変更して『断層』となり、現在に至る。
年金問題や介護、医療といった社会保障制度、医学博士などの専門家による「ゆうゆうLife」というコラムや「イチ押し!レシピ」という日本の全国紙で初だったカラー写真付の献立コーナーを連載している。天皇・皇族の動静や「おことば」を専門に報じる「皇室」コーナーがある。
「暮らしと経済」と題して、月曜から金曜まで「女性と仕事」「生活とマネー」「いま、はやりもの」「リフレッシュ」についての記事を連載している。
朝刊一面下部に,一日一題掲載される「朝晴れエッセー」(※元は,大阪本社発行の夕刊一面下部の「夕焼けエッセー」が,「朝晴れエッセー」と改題され,東京本社版及び大阪本社版の共通掲載となった。),同じく夕刊一面下部に掲載される,本にまつわる「ビブリオエッセー」,「朝の詩」、投書面「談話室」、著名人や公職者の論評が掲載される「アピール」がある。
全国紙の中で唯一、平成開始以降も西暦ではなく和暦を中心に使っている。昭和の時代においては、民間レベルでも和暦の使用が主流であったが、新聞業界では、朝日新聞が1976年︵昭和51年︶に日付欄の表記を﹁西暦︵元号︶﹂の順に変更したのを皮切りに、1978年︵昭和53年︶に毎日新聞が、1988年︵昭和63年︶に読売新聞と日本経済新聞が追随した。そのため、2022年時点で﹁元号︵西暦︶﹂を続けているのは、全国紙では産経新聞のみとなっている。地方新聞も含めて産経新聞以外のほとんどの新聞は平成以降に和暦表記から西暦表記にシフトしており、日付も西暦︵和暦︶という表記の仕方がされているが、産経新聞は和暦︵西暦︶という表記方法を採っており、和暦をメインにしている[106]。地方新聞では、伊勢新聞が2023年現在でもこの表記方法を採っている。
●日付欄は“平成23年︵2011年︶1月1日”と元号を先頭に表記している[注釈 16]。祝日には1面日付欄に日の丸を表示し、記事中でも国内関連記事は明治期以降の事柄であれば基本的に和暦表記をしている︵相撲以外のスポーツを除く︶。ただし、海外の記事や河野談話など対外関係記事、一部解説委員の執筆記事(主にオピニオン面)などでは西暦表記を使用している。日本国外に関する記事および日本国内でも江戸時代以前については西暦が用いられる。
なお、産経新聞の記事をインターネットで配信しているウェブサイト﹁産経ニュース﹂では、トップページの今日の日付を“2011︵平成23︶年01月01日”のように西暦を先頭に表記し、記事内では新聞と同様に原則的に元号を使用する一方で記事の配信日時における年表記、経済関連(主にSankei Bizと共通の記事にて)などの一部記事は西暦となっている。
2017年12月に明仁天皇の退位が2019年︵平成31年︶4月30日に行われると閣議決定されたため、2019年5月以降は平成ではない別の元号になることが確定していたが、2019年4月1日に新元号が﹁令和﹂と発表されるまで、2019年5月以降に予定される事柄の日付について、平成で表記されていた[注釈 17]。
番組表においては、関東・近畿︵四国地方の徳島県を含む︶両地方について、産経と最もつながりのある放送局にはアクセントを付けて目立たせる。
●フジテレビの番組表には黄色のスクリーントーン︵関東版。地デジ完全移行に伴う番組表刷新まで︶
●BSフジの番組表には水色のスクリーントーン︵関東版︶
●ニッポン放送の番組表にはタイトル部分に太めのゴシック文字を掲載︵関東版︶
●ラジオ大阪には灰色・網目のスクリーントーン︵関西版︶
※以前は﹁フジテレビのニュースはサンケイニュース﹂、﹁文化放送・ニッポン放送のニュースはサンケイニュース﹂と欄外に明記していたり︵関東版︶、ニュースの記号をフジテレビ︵一部︶、文化放送、ニッポン放送、関西テレビ︵一部︶、ラジオ大阪については黒四角に﹁N﹂の白抜き文字から黒四角に﹁サンケイニュース﹂の白抜き文字に代えていた。
※2011年︵平成23年︶7月24日の地上デジタルテレビ放送完全移行に伴う番組表刷新までは、東京本社版︵※関東1都6県︶のテレビ欄がアナログ放送のチャンネル順での収録であった︵なお、これは他の新聞も同じであったが、朝日新聞東京本社版や日本経済新聞や聖教新聞の東京都内版や読売新聞東京本社の首都圏︵東京都内︶版は既に先駆けてアナログのチャンネル順から地デジのリモコンキーID順に変更されていた︶。このため、フジテレビの番組表掲載位置が変更された。
それ以外の東京・大阪両本社で発行される関東・近畿両地方以外ではテレビ番組表は原則としてFNS系列局を民放の第1番手として掲載しているが、西部本部版に於いては、現状は県別編集をせず﹁準広域版︵九州版と北九州・大分・山口版の2つのみ︶﹂としていることから、フルサイズ掲載の番組表ではJNN系列局・毎日新聞系列のRKB毎日放送を最初に掲載し、次にFNS系列局のテレビ西日本を掲載しており、その他のFNS系列局は紙面構成などからハーフサイズ以下での収録となっている。
また、1970年代のごく一時期︵1970年9月1日-1973年12月1日まで[注釈 18]︶、本編と、テレビ面・婦人面を一体化させた﹁ホームニュース﹂の二部紙の仕立てをしたことがあった。この時は当時NHKからフジテレビジョンの嘱託アナウンサーに移籍した小川宏夫妻を起用したことがある[108]。
まれに、本編の前後に﹁ラッピング新聞﹂と題した抜き取り可能な4ページ立ての全面広告紙面を作る場合がある︵日刊スポーツでも同様に行う場合あり︶。その場合、1面に﹁本日は特別紙面です。通常紙面︵本編︶は2枚目からになります﹂と書かれる場合もある。
更に、番組表︵最終テレビ面︶で、フジテレビの番組︵地域によっては他系列︶が掲載されるスペースの左隣にドラマやバラエティーの宣伝スペースをこしらえたり、ニコニコ動画の宣伝を一般番組表並みに載せたりしたこともあった。
他社と異なり社会面相当コーナーがなく「事件」になっている。
紙の新聞と同じレイアウトの紙面を、iPhone/iPadおよびAndroidアプリ向けに配信している︵朝刊は東京最終版、夕刊は大阪最終版。一部広告等は差し替え︶。日本国内3キャリアで販売された画面サイズ7インチ未満のスマートフォンであれば、当日の朝刊を無料で閲覧可能である[109][110]。無料化の狙いについて、産経デジタル取締役︵2008年当時︶の近藤哲司はITmediaの取材に対し、﹁小出しにせず、どーんと出して使ってもらおうと思い切った﹂﹁新聞の無料試読制度のようなもの﹂と述べている[111]。Android版は1,575円、iPhone/iPad版は1,600円︵いずれも月額・税込︶を支払うことで、過去3カ月分のバックナンバーと大阪版夕刊も閲覧可能[110][112]。
2014年︵平成26年︶3月31日、その日に放送されたフジテレビの番組﹁笑っていいとも!﹂の最終回を伝える﹁産経新聞特報﹂が配信された[113]。
重大事件・事故等の発生時には、号外が配信されることもある。
- ひなちゃんの日常 南ひろこ
- 連載当初から生活面で掲載されていたが、東京本社版は2008年3月20日付から1面に移動。大阪本社版は従来通り生活面に掲載(当初週1回。後毎日)していたが2009年7月より社会面に掲載するようになった。SANKEI EXPRESSにも同じものを転載。サラリ君連載終了後は火曜〜日曜の変則連載に変更。
- おやこ新聞 とみまつしろう
- 1コマ漫画 市原すぐる,山田紳
- 各発行本社の詳細な移転履歴はそれぞれのページを参照
●福岡県福岡市中央区渡辺通五丁目23番8号 サンライトビル4階 〒810-0004
●対象地域 九州全県︵沖縄県除く︶、山口県
●2009年︵平成21年︶10月1日付から、これまで大阪本社発行版︵午後6時︵18時︶締め切りの早版=6版︶を空輸で発送していた九州全県の発行を大阪本社から引継ぎ、1997年︵平成9年︶から発行を休止していた山口県での発行を再開された。九州・山口版は毎日新聞西部本社の﹁毎日新聞九州センター鳥栖印刷工場﹂︵佐賀県鳥栖市︶で委託印刷を行う。なお、沖縄県については従来どおり大阪から空輸︵最終版︶されているが那覇の取材拠点は九州総局管轄。
●北海道、中京、北陸、沖縄県及び2009年︵平成21年︶9月までの九州については、事実上、販売エリア外であり、このため全国紙ではなく準全国紙とみなされることも多い。なお、九州では2009年︵平成21年︶10月1日から﹁九州・山口特別版﹂の発行を開始し、九州・山口での販売網を強化する。
●九州・山口地区発行分の紙面は東京本社版がベースとなるが、地方版及び番組表は大阪本社で制作される。
東京本社管内【総局】
東京本社管内【支局】
大阪本社管内【総局】
大阪本社管内【支局】
西部本部管内【総局】
- 九州(福岡) - 2009年(平成21年)9月30日までは大阪本社管轄だったが、九州・山口特別版創刊のため移管した。
西部本部管内【支局】
大阪本社管内
西部本部管内
●芝浦工場︵東京都港区︶ - 産経新聞印刷江東センターへ統合のため、2010年︵平成22年︶に閉鎖、跡地は複合商業施設﹃TABLOID﹄になる。
●仙台新聞印刷仙台工場︵仙台市若林区︶ - 先述のように2015年︵平成27年︶4月の仙台高速オフセット社への委託印刷開始により閉鎖。
●産経新聞印刷浦安センター︵千葉県浦安市︶ - 千鳥センターのオープンに伴い、2010年︵平成22年︶4月に閉鎖[118]。
●産経新聞印刷松原センター︵大阪府松原市︶ - 美原センターの操業開始に伴い、2009年︵平成21年︶6月に休止[118]。
●サンケイ瀬戸内印刷岡山工場︵岡山市南区︶ - 前述の通り2016年︵平成28年︶10月の山陽新聞社新聞製作センターへの委託印刷開始により閉鎖。
●産経新聞印刷所沢センター︵埼玉県所沢市︶ - 読売新聞東京本社を通じた光村印刷川越工場および群馬高速オフセットへの委託印刷に切り替えのため、2019年︵平成31年︶3月に閉鎖。
●産経新聞印刷北摂センター︵大阪府摂津市︶ - 2019年︵令和元年︶11月に閉鎖[119]。
オックスフォード大学のロイター・ジャーナリズム研究所(英語版)の「デジタルレポート2020」によれば、読者の信頼度はHuffPost Japanが28%、 BuzzFeed Japanが25%がニュースサイトで最下位層であり、週刊誌の週刊新潮が27%、週刊文春26%であった。新聞における信頼度一位は日本経済新聞の51%であり、産経新聞は朝日新聞と同率の44%だった[120]。
(一)^ 大阪本社版の夕刊は、かつて発行していた系列夕刊紙・大阪新聞の後継という位置づけもあるためで、主に関西の地場記事・連載記事を中心に掲載している。産経系における時事的な夕刊は、スピンオフタブロイド紙の夕刊フジに事実上一任されている。
(二)^ 日本経済新聞を除いた。
(三)^ ab但し、欄外の題字や、一般的な呼称はこの当時から1988年5月に漢字の題字に戻すまで﹁サンケイ﹂︵片仮名︶を既に使用していた。また、1969年5月まで﹁時事新報合同﹂を題字下に明記していた。
(四)^ それまで九州総局は報道提携を結んでいた西日本新聞社の本社︵福岡市中央区天神︶にあった。
(五)^ ただし、当初の連載企画時に協力していた地元の有名店﹁カドヤ食堂﹂は、カップ麺の発売に先だって一切無関係であることを言明。また、それまでの協力関係も全て解消したとしている[13]。
(六)^ 朝日新聞デジタルが2013年10月に﹁皇室とっておき﹂を新設してこれに続いた。
(七)^ 冷戦時代はソ連を強く批判していた。
(八)^ 親会社であるフジテレビはFNN北京支局を東海テレビが設置。
(九)^ 当時、日本の全国紙としては、最後まで中国内に残留していた朝日新聞北京特派員秋岡家栄は、林彪が死亡したのではないかとの報道を北京に変化なしとして否定していた。
(十)^ ただし、茨城県や東北地方・信越・静岡県などは即売も朝刊と一緒に販売されている。
(11)^ 日経は系列にスポーツ新聞もない。
(12)^ 一時期、分社化してそれぞれ﹁フジ新聞社﹂、﹁サンケイスポーツ新聞社﹂から発行していたが、1987年11月に再統合された。ブロック紙系列のスポーツ紙<道新スポーツ、中日スポーツ・東京中日スポーツ、デイリースポーツ、西日本スポーツ>も同様にそれぞれの各発行元の新聞社<北海道新聞社、中日新聞社・中日新聞東京本社︵東京新聞︶、神戸新聞社、西日本新聞社>の発行である。スポーツニッポンは、毎日新聞グループホールディングスに経営統合されたが、現在もその傘下にある﹁スポーツニッポン新聞社﹂が発行している。またスポーツ報知発行元の報知新聞社は読売新聞グループ本社系列であるが、グループ本社の直営ではない。
(13)^ 水野はこの時点で既に文化放送社長でもあったため、新聞・テレビ・ラジオ全てを握ったことになり﹁マスコミ三冠王﹂と評される。
(14)^ 紙面﹃正論﹄欄の第1回は当時防衛大学校校長だった猪木正道が執筆した。
(15)^ 日垣の執筆分はのちに﹃敢闘言 さらば偽善者たち﹄にまとめられ、文春文庫から出版された。
(16)^ ほとんどの新聞は“2011年︵平成23年︶1月1日”のように西暦を先頭に表記している。系列のサンケイスポーツ及び東京スポーツ、静岡新聞、熊本日日新聞は産経新聞と同様、平成23年︵2011年︶の表記となっている。
(17)^ 一例として、INC, SANKEI DIGITAL (2018年8月6日). “︻東京五輪︼酷暑対策でサマータイム導入へ 秋の臨時国会で議員立法31、32年限定”. 産経ニュース. 2022年5月18日閲覧。
(18)^ オイルショックの発生による製紙事情により、日本政府から日本新聞協会加盟の各新聞社に頁数の削減の要請を行ったことにより、それまでの二分冊をやめて、﹁ホームニュース﹂で別々に掲載していたテレビとラジオの番組表を一体化して最終頁の掲載にした[107]。
(19)^ 2015年︵平成27年︶4月より宮城県黒川郡大和町の仙台高速オフセット社︵読売新聞仙台工場︶にて印刷。
(20)^ 川越は読売新聞東京本社が委託している光村印刷の工場。藤岡は光村の関連会社群馬高速オフセットの工場。どちらも産経新聞印刷所沢センターの閉鎖に伴い、2019年︵平成31年︶3月下旬より委託印刷を始めた[116]。
(21)^ 2016年︵平成28年︶10月より﹁山陽新聞社新聞製作センター﹂への委託印刷に切り替え[117]。2020年12月からは産経新聞九州・山口版の印刷提携を結んでいる毎日新聞系・スポーツニッポンの山陰地区・山口県を除く中四国地方の新聞の委託印刷も実施。
(22)^ メディアプレス瀬戸内坂出工場にて印刷。産経の岡山工場では岡山・広島県向けの読売新聞も印刷していたが、メディアプレス瀬戸内尾道工場︵広島県尾道市︶の稼動開始により2008年︵平成20年︶10月で委託契約を解消した。
(23)^ 2009年︵平成21年︶10月1日付より毎日新聞九州センターの工場︵鳥栖と北九州のいずれかで調整していたが、最終的に鳥栖に決定︶に委託しての現地印刷を開始。2012年︵平成24年︶9月1日付から毎日新聞九州センター北九州工場でも委託印刷が開始された。
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