山城国
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山城国 | |
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■-山城国 ■-畿内 | |
別称 |
城州(じょうしゅう) 山州(さんしゅう) 雍州(ようしゅう)[1] |
所属 | 畿内 |
相当領域 | 京都府南部 |
諸元 | |
国力 | 上国 |
郡・郷数 | 8郡78郷 |
国内主要施設 | |
山城国府 |
1.(推定)京都府木津川市 2.(推定)京都府京都市 3.(推定)京都府長岡京市 4.(推定)京都府乙訓郡大山崎町 |
山城国分寺 | 京都府木津川市(恭仁宮跡) |
山城国分尼寺 | (推定)京都府木津川市 |
一宮 |
賀茂別雷神社(京都府京都市) 賀茂御祖神社(京都府京都市) |
山城国 ︵やましろのくに︶ は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。
﹁山城﹂の名称と由来
﹁やましろ﹂は、古くは﹁山代﹂と記され、7世紀に﹁山背国﹂という表記で国が建てられた。 この名称は、平城京から見て﹁奈良山のうしろ﹂にあたる地域であることから来ていると云われている[2]。 延暦13年11月8日︵794年12月4日︶の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から﹁山城国﹂に改称した。これが﹁城︵ジョウ、き︶﹂という字を﹁しろ﹂と読む原因となった︵詳細は日本の城を参照︶。 平城京時代の木簡を見る限り﹁山代国﹂・﹁山背国﹂の表記は並存していたと見られている。国内の施設
宮
山城国内に設けられた天皇の宮殿︵宮・京︶は、次の通り。
●筒城宮 ︵京都府京田辺市︶ - 第26代継体天皇
●弟国宮 ︵京都府長岡京市︶ - 第26代継体天皇
●恭仁京 ︵京都府木津川市︶ - 第45代聖武天皇
●長岡京 ︵京都府向日市・長岡京市・京都市︶ - 第50代桓武天皇
●平安京 ︵京都府京都市︶ - 第50代桓武天皇から第122代明治天皇
山城国分尼寺推定地に建つ碑
●山城国分寺跡 ︵京都府木津川市加茂町例幣・河原ほか、北緯34度45分56.21秒 東経135度51分46.25秒︶
﹁恭仁宮跡︵山城国分寺跡︶﹂として国の史跡。国分寺は、僧寺と尼寺ともに相楽郡にあった。国分寺金堂は恭仁宮大極殿を転用したもので、天平18年︵746年︶9月に国分僧寺に施入された。元慶6年︵882年︶に焼失し、昌泰年間に再建されたと伝えるが、寺勢は次第に衰退し、鎌倉時代には宇治平等院の末寺、室町時代には奈良興福寺の末寺となった。場所は現在の木津川市加茂町例幣の恭仁宮跡で、巨大な金堂跡と塔跡が残る。
●山城国分尼寺跡︵京都府木津川市加茂町法花寺野、北緯34度45分25.1秒 東経135度50分39.6秒︶
国分寺からは木津川を挟み、南西約2kmの法花寺野地区に推定される。1925年︵大正14年︶の府道敷設工事の際に大量の古瓦を出土したため、1927年︵昭和2年︶に京都府史蹟勝地調査会が発掘調査を実施し、瓦積みの土壁遺構を検出した。これは当時、建物基壇の一部と判断されたが、瓦窯のロストルと見る説もある。なお、国分寺が恭仁宮から転用されたのと同様、国分尼寺も甕原離宮から転用された可能性が指摘されている。
国府
国府所在地を記した文献は次の通り。 ●﹃和名抄﹄︵平安時代中期成立︶では、﹁河陽離宮﹂[3] ●﹃拾芥抄﹄︵鎌倉時代中期から南北朝時代成立︶では、﹁乙訓郡﹂[4] ●﹃節用集﹄︵室町時代中期成立︶では、﹁乙訓郡﹂[5] 国府は数度変遷したと見られており、現在では次のように推定されている。 ●1. 相楽郡 8世紀前半まで。京都府木津川市山城町上狛︵かみこま︶と推定。当地には山城国分寺も所在。 ●2. 葛野郡 8世紀前半から延暦16年︵797年︶まで。京都府京都市右京区太秦と推定。 ●3. 乙訓郡 延暦16年︵797年︶から貞観3年︵861年︶まで。京都府長岡京市神足または久貝︵南栗ヶ塚遺跡︶と推定。長岡京南。 ●4. 乙訓郡 貞観3年︵861年︶以後[6]。京都府乙訓郡大山崎町大山崎の河陽離宮︵離宮八幡宮︶と推定。 これらの度重なる移転は、遷都の影響とみられる[7]。国分寺・国分尼寺
神社
延喜式内社 ﹃延喜式神名帳﹄には、大社53座37社︵うち名神大社23座16社︶・小社69座59社の計122座96社が記載されている︵山城国の式内社一覧参照︶。 また、他に宮中の36座︵大30座・小6座︶、京中の大3座が記載されている︵宮中・京中の式内社一覧参照︶。 総社・一宮 ●総社‥不詳 ●一宮‥賀茂神社︵賀茂上下社︶[8] - 以下2社の総称。 ●賀茂別雷神社︵上賀茂神社、京都府京都市北区︶ ●賀茂御祖神社︵下鴨神社、京都府京都市左京区︶ 山城国の一宮指定には地方諸国と異なって神祇官が関わっているとされている。11世紀末から諸国でそれぞれに一宮が成立していく中で、畿内ではそれに対応して12世紀になってから決められたと考えられる。 二宮以下は存在しない。守護所
守護所は、当初、山城国守護を京都守護が兼任していたため、京都守護の御家人の館が当てられた。その後、六波羅探題が兼務するようになり、守護所も六波羅となった。室町時代に山城国を宇治川を境に上三郡と下五郡に分割して、それぞれに守護代を任ずるようになってからは、上三郡の守護所が宇治槙島に置かれ、下五郡の守護所が淀など数ヶ所に置かれた。安国寺利生塔
●安国寺 - 京都府京都市中京区四条大宮に所在した ●利生塔 - 法観寺 ︵京都府京都市東山区八坂河原東八坂上町︶地域
郡
●乙訓郡 ●葛野郡 ●愛宕郡 ●紀伊郡 ●宇治郡 ●久世郡 ●綴喜郡 ●相楽郡 ※郡名は﹃延喜式﹄による。江戸時代の藩
藩名 | 居城 | 藩主 |
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淀藩 | 淀城 | 松平(久松)家(3万5千石、1623年~1633年) 永井家(10万石→7万3600石、1633年~1669年) 石川家(6万石、1669年~1711年) 松平(戸田)家(6万石、1711年~1717年) 松平(大給)家(6万石、1717年~1723年) 稲葉家(10万2千石、1723年~1871年) |
山城長岡藩 | 長岡陣屋 | 永井家(1万2千石、1633年~1649年) 永井家は高槻藩に転封・山城長岡藩は廃藩 |
伏見藩 | 伏見城 | 松平(久松)家(5万石、1607年~1616年) 内藤(信成系)家(5万石、1617年~1619年) 内藤家は大坂城代に移動(1626年に陸奥棚倉藩に転封)・伏見藩は廃藩 |
御牧藩 | 津田家(1万3千石、1600年~1607年) 藩主素行不良により改易・廃藩 |
人物
国司
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