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球団本部ゼネラルマネージャーとしては、[[大久保博元]]が「選手の幕引きまで考える人」と評している。これは、[[松坂大輔]]を古巣の西武に戻して西武の選手として引退させた事実を踏まえた上での評価である<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=XaxX1gZWajw 松坂大輔"西武ライオンズ”で引退!感動をありがとう] デーブ大久保チャンネル 2021/07/07 (2021年7月11日閲覧)</ref> |
球団本部ゼネラルマネージャーとしては、[[大久保博元]]が「選手の幕引きまで考える人」と評している。これは、[[松坂大輔]]を古巣の西武に戻して西武の選手として引退させた事実を踏まえた上での評価である<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=XaxX1gZWajw 松坂大輔"西武ライオンズ”で引退!感動をありがとう] デーブ大久保チャンネル 2021/07/07 (2021年7月11日閲覧)</ref> |
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現役時代にブライアントに本塁打を打たれた後で[[森祇晶]]監督に配球を責められた経験から、監督時代は結果だけで選手を責めないよう心掛けていたと語っている<ref>[https://www.sanspo.com/article/20150505-HJCK5C7P4ZPAPBTK4BHK3IIFTQ/2/ 【私の失敗(1)】渡辺久信、忘れられないブライアントへのあの1球(2/2ページ) - サンスポ]</ref>。 |
現役時代にブライアントに本塁打を打たれた後で[[森祇晶]]監督に配球を責められた経験から、監督時代は結果だけで選手を責めないよう心掛けていたと語っている<ref>[https://www.sanspo.com/article/20150505-HJCK5C7P4ZPAPBTK4BHK3IIFTQ/2/ 【私の失敗(1)】渡辺久信、忘れられないブライアントへのあの1球(2/2ページ) - サンスポ]</ref><ref>[https://twitter.com/nikkan_t_hanbai/status/1646810636205297664 Xユーザーの日刊スポーツ東京販売局さん: 「長期連載「野球の国から」西武・渡辺GMの人生②豪快なエピソード満載の人生3回連載🦁2回目は「プロ野球編」⚾“あの試合”を臨場感たっぷりにお届け🏟詳しくは本日の日刊スポーツで📰 #渡辺久信 #西武ライオンズ #西武 #近鉄 #ブライアント #森祇晶 https://t.co/1uhb3sRCot」 / X]</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
2024年4月28日 (日) 02:23時点における版
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基本情報 | |
---|---|
国籍 |
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出身地 | 群馬県勢多郡新里村(現:桐生市) |
生年月日 | 1965年8月2日(58歳) |
身長 体重 |
185 cm 95 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1983年 ドラフト1位 |
初出場 |
NPB / 1984年6月29日 TML / 1999年 |
最終出場 |
NPB / 1998年10月8日 TML / 2001年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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経歴
プロ入り前
前橋工業高校時代から速球派の大型投手と期待された。中学時代から140km/hに近いストレートを投げており、県の高校野球界でも注目の的だったが、自身は桐生高校を志望していた。当時の桐生高校は、阿久沢毅・木暮洋のコンビで甲子園を席巻した直後であり、桐生高校側としても次代のエースとしての期待を込めて、受け入れ態勢を準備しており、専属の家庭教師をつけて受験勉強を開始したが、生来の勉強嫌いもあって3日で受験を断念し、結局前橋工業高校に進学した[2]。 高校3年次の群馬大会では、太田工業高校との決勝で最終回に押し出しフォアボールでサヨナラ負けを喫した。渡辺が甲子園に出場したのは、1年生だった1981年夏の第63回全国高校野球選手権のみで、準優勝した京都商業高校に初戦でサヨナラ負けを喫している。 1983年のドラフト会議で、西武ライオンズは高野光を1位指名するも抽選で外れ、ハズレ1位で指名され入団した[3]。現役時代
西武時代
快速球とフォークを武器に1年目の1984年から一軍に定着し、2年目の1985年は先発とリリーフを兼任してシーズン43試合に登板して11セーブを上げ、1985年の日本シリーズにも登板した。3年目の1986年は先発ローテーションの柱となりチーム最多の16勝を上げて最多勝、を獲得、リーグ最多奪三振にもなったがパ・リーグでのタイトルとなったのは1989年からなのでこの年の最多記録のみとなってる︵86年から90年までに69勝、15勝以上4回という成績をおさめ、ライオンズ黄金期の中盤を支えた。以降、成績は下降線を辿るが、90年以降は工藤が安定し結果長期にわたるライオンズ黄金期が生まれた︶。 1988年、1990年も最多勝を獲得するなど、東尾修・工藤公康・郭泰源・松沼博久らとともに西武黄金時代の柱としてチームを支えた。 1988年、15勝7敗で最多勝を獲得し、3連覇に貢献。中日との日本シリーズ第1戦、第5戦に登板し、セ・リーグ最多勝の小野和幸と投げ合い、第1戦は8回途中を1失点に抑え勝ち投手になり、第5戦は3回途中4失点︵自責点は3︶で勝ち負けつかなかったが、日本一に貢献した。 1989年10月12日、熾烈な優勝争いの天王山となった近鉄とのダブルヘッダー第1試合で途中登板したものの、ラルフ・ブライアントに勝ち越しソロ本塁打を打たれた。結局西武は同日のダブルヘッダーを2試合とも落とし、同年の優勝を逃す要因となった︵10.19の項も参照︶。渡辺は引退の記者会見で、最も心に残る場面として﹁後悔しないように、一番自信があった直球で勝負を挑んで、モノの見事に打たれた﹂と、この場面をとりあげている[4]。 1990年5月9日の日本ハム戦に先発した渡辺は、9回までノーヒットピッチングだったが、西武打線も柴田保光の前に無得点に抑えられ、延長戦となった。10回もノーヒットを続けたが、11回に小川浩一にヒットを許し、ノーヒットノーラン達成はならなかった。試合は12回表に西武が先制、渡辺は11回無失点で勝利投手になった。日本シリーズでも1988年の日本シリーズに続いて開幕投手を務め、チーム4連勝の勢いを付ける完封勝利を記録した。 1991年は、開幕戦を完投勝利で飾った後は打ち込まれる日が続き、5月4日の近鉄戦では1回もたずにKOされ、自ら二軍での再調整を申し出て一軍登録を抹消される[5]。その後も振るわず、自身初の防御率4点台を記録し、勝敗も初めてシーズン負け越しを記録した。日本シリーズでは第3戦に登板し、2年連続初登板完封勝利を記録。チーム日本一に貢献した。 1992年10月10日の日本ハム戦では打席に入り、左前安打を記録した。当時は交流戦がなく、これは日本シリーズを見据えた采配であり、同試合では同僚の潮崎哲也、石井丈裕も打席に立ったが、三振を喫しなかったのは渡辺だけであった。その後パ・リーグでの投手の安打は2001年9月29日でジェレミー・パウエル︵同じく日本シリーズを見据えて送りバントをしたがそれが内野安打となった︶まで、約9年間記録されなかった︵松坂大輔が2000年に安打を記録しているが代打での記録であり、投手として記録したものではない︶。 1993年、シーズンでは自己ワーストの14敗を記録︵この年のリーグワースト2位の敗戦数︶。日本シリーズで第3戦で勝利投手になったが、第7戦で敗戦投手となり日本一を逃した。なお自身のシリーズ敗戦投手は1986年の日本シリーズ以来の11試合ぶりの敗戦投手︵リリーフ登板︶で先発登板での敗戦投手はこれが最初で最後だった。 1994年は、4シーズン振りに勝ち越し、自身最後の規定投球回をクリアしたシーズンとなった。9勝8敗の成績でチームの5年連続リーグ優勝に貢献した[6]。巨人との日本シリーズでは2年ぶりに開幕投手を務め、自身最後のシリーズ勝利投手︵通算7勝目であったが、全ての勝利は相手側球場での勝利で一度も本拠地での勝利は挙げれなかった︶となったが、チームは日本一を逃した。11月5日の契約更改で1億2800万円から65%アップの年俸2億1000万円の提示に満足してサインした[6]。実は、この金額は、“新年俸”1億6000万円に“引き留め料”の5000万円が加算されたものだったが、渡辺自身は記者会見で﹁FA宣言はしていませんよ﹂とコメントし、純粋な大幅年俸アップと思い込んでいたようだ[6]。報道陣から﹁それはFAを行使したことになるんだよ﹂と指摘された渡辺は﹁知らなかった﹂とビックリ仰天したものの、﹁まあ、西武に残るつもりで、ここに来たし、球団の誠意も感じられたからいいです﹂と自らを納得させていた[6]。 1995年、東尾修が監督に就任し、シーズン初登板こそ先発で延長10回途中まで無失点の好投はしたが、それ以降先発で4試合全て負けて4連敗となった。次の登板で先発勝利したが、内容の悪さから中継ぎに降格となり、リリーフ初登板で失点し、シーズンの大半を二軍で過ごすことになった。終盤に一軍に昇格し抑えを経験した。先発では7試合1勝4敗防御率6.43が、復帰後抑えに回ってからは11試合2勝0敗5S防御率1.65の好成績だったが、本人の先発志向が強かったため、翌年も先発投手としてシーズンを迎えた。 1996年6月11日のオリックス戦でノーヒットノーランを達成した[7]。シーズンでは、開幕からローテーションに入り、チームが下位に低迷する中でノーヒットノーランを記録した6月まで、西口文也の9勝に次ぐ6勝︵4敗︶と奮闘していたが、6月末から8月末まで5連敗し、チームが若手主体に切り替えたことにより二軍降格し、そのままシーズンを終える形になった。 1997年は主に谷間の先発を務めたが、プロ入り初の一軍未勝利に終わり、日本シリーズでも第3戦の8回にリリーフ登板したが、伊東勤が出した変化球のサインを見間違えストレートを投げた結果、先頭バッターの古田敦也に勝ち越しホームランを打たれ、さらに投手の高津臣吾に適時打を打たれるなど不本意な結果となった。 同年オフ、チームの若返りを目指す球団方針によって戦力外通告を受け、﹁﹃野村ID野球﹄を学んでみたい﹂との思いから[8]野村克也が監督を務めるヤクルトスワローズへ移籍。その際に、ヤクルトの前に管理部長の根本陸夫からダイエーへの移籍を誘われたが、関東に残りたいという気持ちがあったので、移籍は実現しなかった[9]。ヤクルト時代
1998年は、﹃野村再生工場﹄での復活を期待されたが、速球にこだわるが故に速球を痛打される機会が目立った。5月20日の横浜戦で3年ぶりの完投勝利を挙げた︵自身の連敗は8でストップ︶が、この1勝に終わり、19試合の登板で1勝5敗、防御率4.23の成績で終わった。ただ、本人は後に﹁野村さんの下で1年やってみて、指導することの面白さを感じていました﹂とも語っており、野村の下で自らの野球経験を理論化し整理する良い機会になったとしている[9]。 同年オフ、再び戦力外通告を受けた。台湾時代
ヤクルトにおける戦力外通告をもって現役引退を決断し、テレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送野球解説者として専属契約を交わしたものの[10]、東尾の勧めによって、指導者の勉強のため急遽台湾に渡ることとなり、台湾大聯盟・嘉南勇士の投手コーチに就任した。 しかし、言葉による意思疎通が困難であったことから、当時台湾大聯盟で技術顧問を務めていた郭泰源に通訳を手配してくれるよう要請したところ、﹁言葉が通じないのであれば︵渡辺が︶自ら投げて身をもって教えればよい﹂とアドバイスを受けて急遽選手兼任となり、現役に復帰することになった[11]。中国語の家庭教師を雇って学んだ結果、1年ほどで日常会話程度はこなせるようになり、ヒーローインタビューに中国語で答えることもあった[12]。 指導という名目もあり、日本時代のような速球中心のプライドが邪魔をせず、ヤクルト時代に野村から習得を指示されていた、緩いカーブやシュート等緩急を駆使した投球の結果、入団1年目から18勝で最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得︵三振も1位だったが当時の台湾大聯盟では最多奪三振のタイトルは存在しなかった[13]︶するなど、台湾球界を代表するエースとして活躍した。また、西武在籍当時の同僚であった郭や、台湾に来た石井丈裕らとともに台湾球界の発展に努め、日本で活躍の場に恵まれない選手にも道を開いた。 鶏や豚だと思って食べていた肉料理が、実は田圃に棲む体長40-50cmの野ネズミだと聞かされて、噎せ返りそうになったこともあった[14]。渡辺も台湾の選手やコーチと酒を飲み、料理を頬張りながら、台湾の文化や慣習に馴染もうと努めた。休日には一人でバスや電車に乗り、知らない町を散策し、時には原付バイクで行くこともあった。夕暮れ時には屋台や食堂にふらりと立ち寄り、居合わせたファンと野球談義に花を咲かせたこともあった[15]。 2001年シーズン途中に現役を引退し、コーチ業に専念した。台湾での経験について、渡辺は自著﹃寛容力﹄の冒頭で﹁指導者としての原点は台湾での3年間にある﹂と語っている。引退後
引退後はテレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を経て、2004年に二軍投手コーチとして西武に復帰。2005年から二軍監督兼投手コーチ、2007年からは二軍監督専任となる。在任中は正津英志の復活に尽力した。西武監督時代
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/Saitama_Seibu_Lions_in_Seibu_Dome_November_23-2007-01.jpg/220px-Saitama_Seibu_Lions_in_Seibu_Dome_November_23-2007-01.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Korakuen_Stadium-4.jpg/220px-Korakuen_Stadium-4.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/78/Korakuen_Stadium-5.jpg/220px-Korakuen_Stadium-5.jpg)
監督退任後
2013年10月17日、西武球団シニアディレクターへの就任が発表された[26]。本人は後に、この異動について﹁今度はフロントとしてチームを見ていきたい、という気持ちが出てきた﹂﹁﹃やるからには根本さんを目指す﹄と決めました﹂と語っている[9]。 2017年1月1日、シニアディレクター兼編成部長への異動が発表された[27]。 2018年10月21日、2019年1月1日付で球団本部ゼネラルマネージャーへの就任が発表された[28]。プレースタイル
常時140km/h台の速球︵プロ入り後の最高球速は150km/h︶を軸に、スライダー・カーブ・フォークボールを交える典型的な力投型投手であり、コントロールの緻密さには欠けるものの球のキレと球威で勝負するタイプであった。また、1989年・1990年には2年連続で投球回数が200イニングを突破するなど、体力や回復力にも恵まれた投手であった。なお、その投球スタイル故に奪三振が多かった代償として被安打・被本塁打もまた多く、1989年・1990年には最多被安打を、1989年には最多被本塁打を記録している。 もっとも、力投型投手の多くがそうであったように、渡辺もまた力の衰えが見え始めた現役晩年に至っても全盛期のような力で押す投球スタイルから脱却できず、速球を痛打される機会が目立った。当時の西武監督であった東尾からは速球が通用するうちに投球の組み立てを変えるようアドバイスを受けたが、自身の体に残る全盛期のイメージが邪魔をしてモデルチェンジできなかったという[29][30]。人物
![]() | この元プロ野球選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。(2011年7月) |
現役当時
指導者として
基本的には怒らないことを指導方針としているが、プロ意識を欠いた人間を非常に嫌う。台湾時代には新人ながら素質十分で練習しなくても活躍し、そのため首脳陣も何も口を出さなかった投手を呼びつけて﹁お前がどんなに優れた才能を持っていても、今の態度じゃ俺達のチームはお前なんていらない﹂と叱ったり、失策を犯した後に好プレーをした三塁手がコーチとハイタッチしているのを見て、試合後﹁こんな馴れ合いの環境じゃ、絶対に強くなれないぞ﹂と怒鳴りつけたりしたこともある。 西武二軍監督時代も﹁一人前の野球選手になる前に、まずは一人前の社会人にならなければならない﹂との方針から、若手選手の緊張感を欠いた態度には厳しく接した[40]。 球団本部ゼネラルマネージャーとしては、大久保博元が﹁選手の幕引きまで考える人﹂と評している。これは、松坂大輔を古巣の西武に戻して西武の選手として引退させた事実を踏まえた上での評価である[41] 現役時代にブライアントに本塁打を打たれた後で森祇晶監督に配球を責められた経験から、監督時代は結果だけで選手を責めないよう心掛けていたと語っている[42][43]。詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984 | 西武 | 15 | 7 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 219 | 52.2 | 41 | 7 | 29 | 1 | 2 | 38 | 0 | 0 | 24 | 23 | 3.93 | 1.33 |
1985 | 43 | 15 | 7 | 0 | 0 | 8 | 8 | 11 | -- | .500 | 644 | 152.0 | 132 | 22 | 72 | 2 | 3 | 121 | 0 | 1 | 59 | 54 | 3.20 | 1.34 | |
1986 | 39 | 24 | 13 | 1 | 0 | 16 | 6 | 1 | -- | .727 | 907 | 219.2 | 191 | 22 | 76 | 2 | 6 | 178 | 5 | 0 | 79 | 70 | 2.87 | 1.22 | |
1987 | 30 | 9 | 5 | 1 | 0 | 5 | 3 | 8 | -- | .625 | 434 | 105.2 | 81 | 10 | 42 | 4 | 4 | 74 | 1 | 0 | 43 | 36 | 3.07 | 1.16 | |
1988 | 28 | 25 | 14 | 3 | 0 | 15 | 7 | 0 | -- | .682 | 754 | 185.0 | 163 | 29 | 59 | 2 | 3 | 123 | 4 | 0 | 79 | 74 | 3.60 | 1.20 | |
1989 | 29 | 28 | 17 | 4 | 0 | 15 | 11 | 0 | -- | .577 | 956 | 226.2 | 210 | 34 | 86 | 5 | 4 | 174 | 3 | 0 | 93 | 86 | 3.41 | 1.31 | |
1990 | 30 | 29 | 16 | 2 | 1 | 18 | 10 | 0 | -- | .643 | 944 | 224.1 | 206 | 31 | 84 | 5 | 2 | 172 | 3 | 0 | 77 | 74 | 2.97 | 1.29 | |
1991 | 25 | 23 | 6 | 1 | 0 | 7 | 10 | 0 | -- | .412 | 658 | 151.1 | 142 | 17 | 68 | 3 | 5 | 127 | 7 | 0 | 79 | 74 | 4.40 | 1.39 | |
1992 | 28 | 26 | 8 | 2 | 0 | 12 | 12 | 0 | -- | .500 | 777 | 179.1 | 164 | 17 | 84 | 1 | 4 | 141 | 8 | 0 | 83 | 76 | 3.81 | 1.38 | |
1993 | 26 | 25 | 7 | 1 | 0 | 9 | 14 | 0 | -- | .391 | 692 | 160.0 | 153 | 15 | 70 | 2 | 3 | 143 | 7 | 0 | 72 | 68 | 3.83 | 1.39 | |
1994 | 25 | 24 | 4 | 0 | 0 | 9 | 8 | 0 | -- | .529 | 653 | 146.1 | 149 | 16 | 73 | 2 | 5 | 97 | 14 | 0 | 79 | 71 | 4.37 | 1.52 | |
1995 | 20 | 7 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 6 | -- | .429 | 216 | 49.1 | 42 | 7 | 29 | 0 | 1 | 43 | 3 | 0 | 31 | 31 | 5.66 | 1.44 | |
1996 | 20 | 19 | 5 | 2 | 0 | 6 | 9 | 0 | -- | .400 | 509 | 118.1 | 116 | 19 | 50 | 0 | 3 | 92 | 6 | 0 | 66 | 60 | 4.56 | 1.40 | |
1997 | 12 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 193 | 43.1 | 42 | 4 | 25 | 0 | 2 | 37 | 1 | 0 | 25 | 20 | 4.15 | 1.55 | |
1998 | ヤクルト | 19 | 9 | 1 | 0 | 0 | 1 | 5 | 1 | -- | .167 | 267 | 61.2 | 56 | 9 | 36 | 3 | 2 | 49 | 1 | 0 | 30 | 29 | 4.23 | 1.49 |
1999 | 勇士 | 28 | 27 | 8 | 2 | 1 | 18 | 7 | 0 | -- | .720 | 865 | 207.2 | 195 | 11 | 45 | 4 | 5 | 201 | 9 | 0 | 72 | 54 | 2.34 | 1.16 |
2000 | 27 | 26 | 7 | 1 | 1 | 15 | 8 | 0 | -- | .652 | 816 | 203.2 | 194 | 13 | 38 | 5 | 4 | 169 | 2 | 0 | 74 | 56 | 2.47 | 1.14 | |
2001 | 23 | 4 | 3 | 0 | 2 | 2 | 7 | 4 | -- | .222 | 354 | 86.1 | 81 | 8 | 6 | 0 | 2 | 80 | 6 | 0 | 44 | 35 | 3.65 | 1.01 | |
NPB:15年 | 389 | 277 | 105 | 17 | 1 | 125 | 110 | 27 | -- | .532 | 8823 | 2075.2 | 1888 | 259 | 883 | 32 | 49 | 1609 | 63 | 1 | 919 | 846 | 3.67 | 1.33 | |
TML:3年 | 78 | 57 | 18 | 3 | 4 | 35 | 22 | 4 | -- | .614 | 2035 | 497.2 | 470 | 32 | 89 | 9 | 11 | 450 | 17 | 0 | 190 | 145 | 2.62 | 1.12 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
- レギュラーシーズン
年 度 |
球 団 |
順 位 |
試 合 |
勝 利 |
敗 戦 |
引 分 |
勝 率 |
ゲ | ム 差 |
本 塁 打 |
打 率 |
防 御 率 |
年 齡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2008年 | 西武 | 1位 | 144 | 76 | 64 | 4 | .543 | - | 198 | .270 | 3.86 | 43歳 |
2009年 | 4位 | 144 | 70 | 70 | 4 | .500 | 11.0 | 163 | .261 | 4.01 | 44歳 | |
2010年 | 2位 | 144 | 78 | 65 | 1 | .545 | 0 | 150 | .271 | 4.19 | 45歳 | |
2011年 | 3位 | 144 | 68 | 67 | 9 | .504 | 20.5 | 103 | .253 | 3.15 | 46歳 | |
2012年 | 2位 | 144 | 72 | 63 | 9 | .533 | 3.0 | 78 | .251 | 3.24 | 47歳 | |
2013年 | 2位 | 144 | 74 | 66 | 4 | .529 | 7.5 | 86 | .257 | 3.54 | 48歳 | |
通算:6年 | 864 | 438 | 395 | 31 | .526 | Aクラス5回、Bクラス1回 |
- 順位の太字は日本一
- ポストシーズン
年度 | 球団 | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
2008年 | 西武 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ(※1) |
北海道日本ハムファイターズ (パ・リーグ3位) |
4勝2敗=日本シリーズ進出 (※2) |
日本シリーズ | 読売ジャイアンツ (セ・リーグ1位) |
4勝3敗=日本一 | ||
アジアシリーズ2008予選 | 統一セブンイレブン・ライオンズ SKワイバーンズ 天津ライオンズ |
2勝1敗=決勝戦進出 | ||
アジアシリーズ2008決勝 | 統一セブンイレブン・ライオンズ (予選2位) |
1x-0=アジア王者 | ||
2010年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
千葉ロッテマリーンズ (パ・リーグ3位) |
0勝2敗(敗退) | |
2011年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
北海道日本ハムファイターズ (パ・リーグ2位) |
2勝0敗=ファイナルステージ進出 | |
パ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ(※1) |
福岡ソフトバンクホークス (パ・リーグ1位) |
0勝4敗(敗退) (※3) | ||
2012年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
福岡ソフトバンクホークス (パ・リーグ3位) |
1勝2敗(敗退) | |
2013年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
千葉ロッテマリーンズ (パ・リーグ3位) |
1勝2敗(敗退) |
タイトル
NPB ●最多勝利‥3回 ︵1986年、1988年、1990年︶ ※3回は稲尾和久、野茂英雄、涌井秀章に次ぐパ・リーグ4位タイ ●最多奪三振︵当時連盟表彰なし︶‥1回 ︵1986年︶ ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰 ●最高勝率‥1回 ︵1986年︶ TML ●最多勝利 ︵1999年︶ ●最優秀防御率 ︵1999年︶表彰
NPB ●ベストナイン‥1回 ︵投手部門‥1986年︶ ●ゴールデングラブ賞‥1回 ︵投手部門‥1990年︶ ●日本シリーズ優秀選手賞‥2回 ︵1990年、1991年︶ ●正力松太郎賞‥1回 ︵2008年︶※監督として表彰 その他 ●新語・流行語大賞 流行語部門金賞 ︵1986年、﹁新人類﹂、清原和博・工藤公康と共同で受賞︶ ●日本プロスポーツ大賞 特別賞 ︵2008年︶[44] ●ベスト・ファーザー イエローリボン賞in﹁プロ野球部門﹂ ︵2008年︶ ●桐生市民栄誉賞 ︵2009年1月︶記録
NPB初記録 投手記録 ●初登板‥1984年6月29日、対日本ハムファイターズ14回戦︵西武ライオンズ球場︶、9回表に2番手として救援登板・完了、1回無失点 ●初奪三振‥同上、9回表に五十嵐信一から ●初先発登板‥1984年7月5日、対ロッテオリオンズ14回戦︵西武ライオンズ球場︶、8回2失点 ●初完投‥1984年7月19日、対阪急ブレーブス19回戦︵西武ライオンズ球場︶、6回1失点︵雨天コールド︶ ●初勝利・初先発勝利・初完投勝利‥1984年8月18日、対ロッテオリオンズ18回戦︵西武ライオンズ球場︶、9回2失点 ●初セーブ‥1985年5月17日、対阪急ブレーブス7回戦︵西武ライオンズ球場︶、8回表に4番手として救援登板・完了、2回無失点 ●初完封勝利‥1986年5月26日、対近鉄バファローズ8回戦︵西武ライオンズ球場︶ 打撃記録 ●初安打‥1992年10月10日、対日本ハムファイターズ25回戦︵西武ライオンズ球場︶、3回裏に金石昭人から左前安打 NPB節目の記録 ●1000投球回数‥1990年5月22日、対日本ハムファイターズ5回戦︵東京ドーム︶、1回裏3死目に達成 ●1000奪三振‥1991年10月2日、対ロッテオリオンズ24回戦︵西武ライオンズ球場︶、3回表に佐藤兼伊知から ※史上83人目 ●1500投球回数‥1993年4月10日、対福岡ダイエーホークス1回戦︵西武ライオンズ球場︶、4回表2死目に達成 ●100勝‥1993年5月12日、対オリックス・ブルーウェーブ5回戦︵西武ライオンズ球場︶、9回1失点完投勝利 ※史上106人目 ●1500奪三振‥1996年7月9日、対日本ハムファイターズ15回戦︵東京ドーム︶、6回裏にバーナード・ブリトーから ※史上40人目 ●2000投球回数‥1997年6月14日、対日本ハムファイターズ13回戦︵西武ライオンズ球場︶、4回表1死目に達成 NPBその他の記録 ●ノーヒットノーラン‥1996年6月11日、対オリックス・ブルーウェーブ12回戦︵西武ライオンズ球場︶ ※史上63人目 ●オールスターゲーム出場‥6回 ︵1985年、1986年、1988年 - 1990年、1992年︶ 日本シリーズ ●6連勝 ︵1986年第6戦 - 1993年第3戦︶ ※シリーズ記録 ●2試合連続完封勝利 ︵1990年第1戦、1991年第3戦︶ ※シリーズタイ記録 ●通算6暴投 ※シリーズ記録 ●1シリーズ2暴投 ︵1988年、1993年︶ ※シリーズタイ記録、2度記録したのは渡辺のみ ●1試合2暴投 ︵1988年第1戦︶ ※シリーズタイ記録背番号
●41 ︵1984年 - 1997年、1999年 - 2001年︶ ●21 ︵1998年︶ ●74 ︵2004年 - 2007年︶ ●99 ︵2008年 - 2013年︶関連情報
著書
●﹃寛容力 〜怒らないから選手は伸びる〜﹄︵講談社 2008年11月11日︶ ISBN 978-4062150002DVD
●﹃プロ野球の練習法から ―新しい﹁理論﹂と﹁実践﹂を指導―﹄ ︵ティアンドエイチ株式会社 2003年︶脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 渡辺久信 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
関連項目 |
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