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=== 普通選挙法改正に対する姿勢 === |
=== 普通選挙法改正に対する姿勢 === |
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原は普通選挙法の改正︵直接国税の納税義務を廃止し、満25歳以上の全ての男子に選挙権を与える︶に否定的であったとされているが、原自身は普通選挙法には反対しておらず、後述の﹃原敬日記﹄でも︵改正を︶徐々に進めていく旨を綴っている。原が問題にしていたのは国民の政治的成熟度であり、他者の言説に流されるだけの主体性のない国民が選挙権を持つことを危惧していた。特に、日記中で﹁[[民権派]]や[[社会主義者]]などの権利ばかり求める思想家は極めて軽薄﹂と酷評し、危機感を持っていた。原は、自ら学習し意見を発信できる国民の増加に合わせ、普通選挙法の改正を構想していたとされる。こうした原の政治姿勢について原敬記念館学芸員の田崎農巳は、﹁原は目先の利益や甘い言葉を操る﹁大衆迎合﹂とは異なる現実主義者、リアリストで、﹁公利﹂を追求していた﹂と推測している<ref>{{Cite web |
原は普通選挙法の改正︵直接国税の納税義務を廃止し、満25歳以上の全ての男子に選挙権を与える︶に否定的であったとされているが、原自身は普通選挙法には反対しておらず、後述の﹃原敬日記﹄でも︵改正を︶徐々に進めていく旨を綴っている。原が問題にしていたのは国民の政治的成熟度であり、他者の言説に流されるだけの主体性のない国民が選挙権を持つことを危惧していた。特に、日記中で﹁[[民権派]]や[[社会主義者]]などの権利ばかり求める思想家は極めて軽薄﹂と酷評し、危機感を持っていた。原は、自ら学習し意見を発信できる国民の増加に合わせ、普通選挙法の改正を構想していたとされる。こうした原の政治姿勢について原敬記念館学芸員の田崎農巳は、﹁原は目先の利益や甘い言葉を操る﹁大衆迎合﹂とは異なる現実主義者、リアリストで、﹁公利﹂を追求していた﹂と推測している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/amp/articles/ASPC46SJHPC4ULUC011.html |title=没後100年、原敬ってどんなひと? |publisher=[[朝日新聞]] |date=2021-11-05 |accessdate=2022-01-09}}</ref>。
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== 逸話 == |
== 逸話 == |
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* [[お汁粉]]が好物であり、園遊会で食べている姿が新聞に掲載されたこともある。また養子の貢や書生を連れて銀座の名店「十二ヵ月」に連れて行ったこともあった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=285}}。 |
* [[お汁粉]]が好物であり、園遊会で食べている姿が新聞に掲載されたこともある。また養子の貢や書生を連れて銀座の名店「十二ヵ月」に連れて行ったこともあった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=285}}。 |
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* 原は当時の政治家に珍しく、ほとんど[[揮毫]]をしなかった。まれに求められた際には「無私」、晩年には「宝積」と書いた。「宝積」は仏教用語で素晴らしいものを積み上げるという意味だが、原は奉仕して見返りを求めない意味だと語っていたという{{sfn|清水唯一朗|2021|p=300}}。盛岡市内の2つの小学校では「宝積」を校訓とし、児童による奉仕活動「宝積活動」が行なわれている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=300}}。現在原敬記念館前にも原自筆をもとにした石碑があり、原版は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]本部[[自由民主党幹事長|幹事長]]室に飾られている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=300}}。 |
* 原は当時の政治家に珍しく、ほとんど[[揮毫]]をしなかった。まれに求められた際には「無私」、晩年には「宝積」と書いた。「宝積」は仏教用語で素晴らしいものを積み上げるという意味だが、原は奉仕して見返りを求めない意味だと語っていたという{{sfn|清水唯一朗|2021|p=300}}。盛岡市内の2つの小学校では「宝積」を校訓とし、児童による奉仕活動「宝積活動」が行なわれている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=300}}。現在原敬記念館前にも原自筆をもとにした石碑があり、原版は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]本部[[自由民主党幹事長|幹事長]]室に飾られている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=300}}。 |
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* 原は1873年(明治6年)4月に[[洗礼|受洗]]したカトリック教徒であり、戦前期の歴代首相の中では唯一の[[キリスト教徒]]であった{{efn|戦後の首相でキリスト教徒には、[[吉田茂]]、[[片山哲]]、[[鳩山一郎]]、[[大平正芳]]、[[細川護熙]]、[[麻生太郎]]、[[鳩山由紀夫]]がいる<ref>{{Cite web |
* 原は1873年(明治6年)4月に[[洗礼|受洗]]したカトリック教徒であり、戦前期の歴代首相の中では唯一の[[キリスト教徒]]であった{{efn|戦後の首相でキリスト教徒には、[[吉田茂]]、[[片山哲]]、[[鳩山一郎]]、[[大平正芳]]、[[細川護熙]]、[[麻生太郎]]、[[鳩山由紀夫]]がいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20120604_113430.html?DETAIL |title=日本のキリスト教徒率は1% 首相経験者の13%はキリスト教徒 |publisher=NEWSポストセブン|date=2012-06-04 |accessdate=2022-06-13}}</ref>。}}。ただし、生前の原は自身の信仰について語ることはほとんどなかった。2005年には遺品の一つに刃を閉じると柄の部分に十字架が浮かび上がるハサミがあったことが確認されている<ref>{{Cite web|和書|title=故・原敬首相の十字架の遺品見つかる |url=http://www.christiantoday.co.jp/articles/6740/20050602/news.htm |website=クリスチャントゥデイ |date=2022-06-19 |accessdate=2022-06-19 |ref=クリスチャントゥデイ2022619}}</ref>。 |
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*原は自身の[[俳号]]として『一山』と自称した。これについて、後世の[[評論家]]の[[佐高信]]は、当時の[[戊辰戦争]]に破れた[[東北地方]]を蔑視する言葉「白河以北一山百文」("東北地方には山1つにつき100[[文 (通貨単位)|文]]の価値しかない")を念頭に起き、「(原は)いわゆる[[官軍]]の輩が白河以北一山百文と嘲笑したのに抵抗してである。」と論じた<ref name=":1">{{Cite news |title=なぜ東北人は仙台育英V「白河越え」に熱くなるのか? 戊辰戦争からの鬱屈が・・・!? |newspaper=[[TBC東北放送]] |date=2022-08-26 |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tbc/135412?page=2 |accessdate=2022-08-27}}</ref>。 |
*原は自身の[[俳号]]として『一山』と自称した。これについて、後世の[[評論家]]の[[佐高信]]は、当時の[[戊辰戦争]]に破れた[[東北地方]]を蔑視する言葉「白河以北一山百文」("東北地方には山1つにつき100[[文 (通貨単位)|文]]の価値しかない")を念頭に起き、「(原は)いわゆる[[官軍]]の輩が白河以北一山百文と嘲笑したのに抵抗してである。」と論じた<ref name=":1">{{Cite news |title=なぜ東北人は仙台育英V「白河越え」に熱くなるのか? 戊辰戦争からの鬱屈が・・・!? |newspaper=[[TBC東北放送]] |date=2022-08-26 |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tbc/135412?page=2 |accessdate=2022-08-27}}</ref>。 |
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2023年11月15日 (水) 13:55時点における版
原 敬 はら たかし | |
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![]() | |
生年月日 |
1856年3月15日 (安政3年2月9日) |
出生地 |
![]() (現:岩手県盛岡市) |
没年月日 | 1921年11月4日(65歳没) |
死没地 |
![]() (現:東京都千代田区) |
出身校 | 司法省法学校中途退学 |
前職 | 大阪毎日新聞社長 |
所属政党 |
(立憲帝政党→) 立憲政友会 |
称号 |
正二位![]() |
配偶者 |
原貞子(先妻) 原浅(後妻) |
親族 |
中井弘(岳父) 原貢(養子) |
サイン |
![]() |
| |
内閣 | 原内閣 |
在任期間 | 1918年9月29日 - 1921年11月4日 |
天皇 | 大正天皇 |
| |
内閣 | 原内閣 |
在任期間 | 1918年9月29日 - 1920年5月15日 |
| |
内閣 | 第1次山本内閣 |
在任期間 | 1913年2月20日 - 1914年4月16日 |
内閣 | 第2次西園寺内閣 |
在任期間 | 1911年8月30日 - 1912年12月21日 |
内閣 | 第1次西園寺内閣 |
在任期間 | 1906年1月7日 - 1908年7月14日 |
その他の職歴 | |
![]() (1908年1月14日 - 1908年3月25日) | |
![]() (1900年12月22日 - 1901年6月2日) | |
![]() (1902年 - 1921年11月4日) |
生涯
生い立ち
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Birthhouse_of_Hara_Kei_%28Prime_Minister_Takashi_Hara%29.jpg/220px-Birthhouse_of_Hara_Kei_%28Prime_Minister_Takashi_Hara%29.jpg)
メディアの記者に
再度上京した原は箕作秋坪の英学塾三叉学舎で学び、1876年︵明治9年︶、司法省法学校を受験し、受験者中2番の成績で合格した。在学中も101名中10位と成績は良かったが、1879年︵明治12年︶2月に放校処分に遭っている。寄宿舎の待遇改善を求めた行動に対する処分に抗議したこと︵賄征伐︶が理由とされている[15][16]。同時に放校されたメンバーの陸羯南・福本日南らとともしばらくは自堕落な生活を送っていたものの、中江兆民の仏学塾でフランス語を学びつつ、民権派の新聞﹃峡中新報﹄に﹁鷲山樵夫﹂の筆名で寄稿することで生計を立てるようになった[17]。 11月、原は郵便報知新聞社に入社した。入社当初は翻訳を担当していたが、1880年︵明治13年︶ごろからは論説記事も手掛けるようになった[18]。原の主張は漸進的な民権拡張を求める官民調和論であり、急進的な民権論には批判的な、福沢諭吉系の言論人であった[18]。1881年︵明治14年︶5月には官僚の渡辺洪基が全国周遊旅行に出ることなり、原は同行を強く要望して随行することになった[19]。この133日間の遊説旅行の中で原は地方の政治・産業の実態を観察することとなり、その模様を新聞に連載した[19]。しかし明治十四年の政変で大隈重信派が政府を離脱し、福沢の政府への影響力も大きく減退したことで、原の主張も次第に変化を見せ始めることとなった[19]。そんな中で大隈派が郵便報知新聞社を買収、矢野文雄を社長に据え、犬養毅・尾崎行雄らが社に乗り込んできた。原の上司であった栗本鋤雲も退社し、居場所をなくした原は、1882年︵明治15年︶1月26日に退社を紙上で宣言し、会社を去った[20][21]。 退社後の原に目をつけたのは井上馨であった。井上は大阪で政府系の広報を強めるべきと考えており、そのための人材として適任と思われたのが原であった。原は4月24日に発刊された大阪の政府系紙﹃大東日報﹄の主筆に就任して一躍高給を得ることとなり、大阪財界とも強いパイプを持つようになった[22]。またこの直前に発足した立憲帝政党にも入党している[23]。しかし10月には路線を巡って原と幹部が対立し、7か月で﹃大東日報﹄を離れることになった[24][25]。外交官・官僚
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ec/Hara_Takashi_while_working_in_Paris_from_1885_to_1889.jpg/220px-Hara_Takashi_while_working_in_Paris_from_1885_to_1889.jpg)
伊藤総裁下の政友会
1898年︵明治31年︶6月、伊藤は首相を辞任し、政府与党となる政党結成に向けて準備を進めていた。原は伊藤とは疎遠になっており、むしろ山縣有朋とよく会っていた。しかし官界・財界関係の両者にパイプを持つ原を井上馨が重視し、また西園寺公望とも親しかったことで、原は伊藤の新党結成の事務作業をほとんど手掛けるようになった[45]。 1900年︵明治33年︶5月、立憲政友会が成立したが、原の名前は公表された創立委員の名前になかった。これは大阪毎日新聞の社長を辞任するにあたって、後継とされた大隈系の矢野文雄に原が不満を示し、その案を撤回させるまで社長の座にとどまったためである[46]。10月には第4次伊藤内閣が成立したが、入閣を期待していた原は閣僚に選ばれず、伊藤を﹁意志薄弱﹂と非難している[45]。原は大阪毎日新聞の社長辞任と同時に政友会の総務委員に任じるよう要求し、受け入れられなければこれを公表すると西園寺に迫り、12月19日に総務委員兼幹事長に任じられた[47]。 12月21日、原は星亨の辞職に伴い逓信大臣に任じられた。原は鉄道敷設法の改正に取り組んだが、貴族院の抵抗により法案提出を断念した。また財政健全化を主張する渡辺国武大蔵大臣と対立し、1901年︵明治34年︶5月には伊藤首相と渡辺蔵相が辞職した[48]。内閣は崩壊したが、渡辺と正面から衝突したことは、原の名声を高めることにつながっている[49]。 1901年︵明治34年︶6月、桂太郎が政権を握って組閣し︵第1次桂内閣︶、政友会は野党となった[50]。原は政友会立て直しのために奔走し、伊藤を説得して総裁の座にとどめた[50]。また総務委員のうち5名を常務員とするなどの改革を行い、自らもそのメンバーとなった[50]。しかし6月21日に星亨が暗殺され、さらに伊藤が洋行するなど、大きな柱を失った政友会は動揺していた。その状況で松田正久・尾崎行雄が桂との取引に失敗して威信を失うなど危機を迎えた[51]。 1902年︵明治35年︶の第7回衆議院議員総選挙では、盛岡市から出馬し、前市長の清岡等を抑えて初当選した[52]。原が盛岡で支持を広げた要因として、しばしば盛岡につながる鉄道線の問題があると指摘される[53]。一方で、原自身は選挙戦の中で地元への利益誘導に言及することには消極的であった[53]。明治36年︵1903年︶の第8回衆議院議員総選挙では全市が一致して原を支援する決定が行われ、以降7回の総選挙でほぼ無投票当選を続けることとなる[54]。しかし政友会内部では伊藤と党人派の対立が激化し、原と松田は伊藤を支えつつ党の分裂を防ぐために苦慮していたが、逆に疑心暗鬼となった伊藤から辞職勧告を突きつけられる有様であった[55]。7月に伊藤は枢密院議長に任ぜられ、西園寺を後継総裁に指名して党を去った[56]。第1次西園寺内閣
第2次西園寺内閣
大正政変と山本権兵衛内閣
大隈内閣との対決
寺内内閣
首相就任
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Takashi_Hara_posing.jpg/200px-Takashi_Hara_posing.jpg)
内閣初期の政策
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8f/Hara%2C_Head_of_Seiyukai_Party%2C_Japan_LCCN2014700984.tif/lossy-page1-200px-Hara%2C_Head_of_Seiyukai_Party%2C_Japan_LCCN2014700984.tif.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d1/Adm._Kato%2C_Hara%2C_T._Tokonami%2C_Count_Uchida_LCCN2014712914.jpg/200px-Adm._Kato%2C_Hara%2C_T._Tokonami%2C_Count_Uchida_LCCN2014712914.jpg)
教育政策
第41議会前に大学令と高等学校令を発し、公立・私立大学の設置が認められた。これにより1919年︵大正8年︶2月には慶應義塾大学、早稲田大学、4月には明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、國學院大學、同志社大学が専門学校から旧制大学への昇格が認可された[125]。また議会では﹁高等諸学校創設及拡張計画﹂を発表し、4,450万円の莫大な追加予算を伴って可決された。その計画で高等学校10校、実業専門学校17校︵高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校︶、専門学校2校︵外国語学校、薬学専門学校︶が新設され、5万人の進学の道が開かれた[125]。また大戦で莫大な利益を得ていた実業界からの拠出も求め、イメージの改善を狙った財閥や企業はこれに応じている[126]。また浪費が多いと非難されていた皇室からの拠出も求めている[127]。交通政策
交通政策の中心は鉄道であった。原内閣の鉄道政策は、しばしば﹁我田引鉄﹂と呼ばれ、政友会による地方への利益誘導政策とされていたが、伊藤之雄などの近年の研究によれば、要望自体は多数寄せられていたものの、路線の選定にあたっては比較的公正で事務的に行われていたと指摘されている[127]。また道路の維持管理を体系的に行うように定めた道路法の成立は物流の改善・地方の発展をもたらした[127]。選挙制度の改正
1900年に大選挙区制が採用されて以降、政党は候補者が立てづらく、選挙費用がかさむため、原はかねてから小選挙区制への復帰を主張していた[128]。予算案成立後、原内閣は小選挙区制への復帰と、選挙資格を直接税10円納税から、3円へと改正する選挙制度改正案を提出した[129]。これに対して憲政会と国民党は納税資格を2円とする一方で、大選挙区については維持を求めた[129]。無所属議員や貴族院が小選挙区制を求めたことにより、政府案通りに成立した[130]。一方で議員に直接関わってくるのが選挙区の区割りである。原は内務省案を基に床次内相・横田千之助法制局長官といった限られたメンバーで区割り作業に取り組み、政友会の介入を許さなかった[130]。講和問題
1919年︵大正8年︶1月から開始されたパリ講和会議では、西園寺を首席全権、牧野伸顕を全権とする全権団を送った[131]。実質的な団長である牧野はウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の新外交を支持し、対米協調路線をとるなど原と意見を同じくしていた[132]。代表団には直接の利害関係がない問題には極力関わらないこと、連合国と共同歩調を取ることを求める訓令が発せられた。このため日本代表はほとんど発言しない﹁サイレント・パートナー﹂であると批判された[132]。外交調査会では枢密院の伊東巳代治らが強硬な意見を発していたが、原は代表団の裁量を認め、代表団が行った決定を曲げなかった[133]。また日本側が提案した人種的差別撤廃提案が欧米の反発を受けた際にも、国際協調を優先して実現に固執することはなかった[134]。その他の政策
国防の充実を掲げた原政権であったが、第一次世界大戦の終結を前に、ひとまず抑制が必要であった。大正8年度予算では軍事費の増額要求は全て削られた。陸相田中義一と山縣も総力戦のためには国民の支持が不可欠であると判断していたため、この局面での軍備費増額は得策ではないと判断しており、原の方針に協力した[135]。またシベリア出兵中の兵力も縮小された[136]。 また当時中華民国は北京政府と南の唐紹儀らの南方政府勢力に分裂しており、原は表面上両者に和解を求める立場を取っていた。一方で財政が悪化する北京政府に支援も行っており、また陸軍が北京政府を単独で支援することがないよう気を配っていた[136]。さらに当時日本はインドを通じて上海へと流れるルートをもつ、アヘンの密売で国際的非難を受けていた。この問題は軍や各種機関の利害が複雑に絡んだものであったが、原政権はアヘン密売の禁止に踏切っている[137]。 1919年2月には関東州租借地に関東庁を設置経営、軍政から民政に移管した[138]、また台湾でも軍人総督に代えて官僚の田健治郎が総督となった[139]。朝鮮においても民政移管を進めようとしたが、3月に三・一運動が発生したため断念された。5月には斉藤実予備役海軍大将を総督、元内相の水野錬太郎を行政総監とする体制となり、朝鮮の統治を植民地型から内地と同様の状態に近づけるという﹁内地延長主義﹂の政策を進めていくこととなった[139]。野党との対決
内閣後期の政策
選挙で大勝を収めた原内閣は、法務大臣に貴族院から大木遠吉、新設された鉄道大臣に元田肇を迎える小規模な改造を行った[146]。また文官任用令の改正に再び取り組んだ。局長の資格撤廃はまたしても実現しなかったが、参事官の一人を政党から送り込むことを可能とした[147]。 一方3月15日からは株価が暴落を始め、戦後恐慌が起こっていた。7月1日の第43回帝国議会の招集日には議事堂玄関で爆弾騒ぎが起こるなど、絶対多数を締めた政友会にとって楽な国会とはならなかった。浜口雄幸は政友会の財政政策が放任主義に過ぎたと批判し、永井柳太郎は﹁西にレーニン、東に原敬﹂と独裁的であることを批判した[148]。一方で野党側も国民支持を広く受けていたわけではなく、予算案は7月28日に成立した[149]。 8月5日、田中義一陸軍大臣が尼港事件の責任を取るとして辞意を伝えてきた。すでに2年近く首相を務めてきた原はこの辺りが引き時であると感じており、田中の辞職とともに総辞職し、後継首相には清浦奎吾を迎えることを考えていた[150]。田中の辞職は山縣をはじめとする参謀本部︵軍令︶による陸軍省︵軍政︶への圧迫を断ち切るため、山縣を揺さぶる目的であった。原はこれに乗り、山縣に軍政の優越を認めさせた[150]。しかし山縣にとって原の後任は存在しない状態であり、辞職を思いとどまるよう要請した。西園寺からも慰留があったため、原は内閣を継続することとした[151]。 1921年︵大正10年︶の第44回帝国議会では、借地法・借家法・住宅組合法・職業安定所法などの社会政策関連法が多く成立した[152]。一方で閣僚のスキャンダルや野党による攻撃で、議事はたびたび紛糾し、政治不信が進んでいった[153]。また原自身にも宮中某重大事件で傍観的であったことや、女性書家に家を提供して住まわせ、そこに通っていたことなどが批判された[154]。2月には遺書を作成している[155]。 一方で大正天皇の病状が悪化し、宮中問題にも原は関与を深めざるを得なかった。宮中某重大事件には距離を取ったもの、皇太子裕仁親王の欧州訪問については積極的な推進者となり、危惧する貞明皇后を説得して実現させた[156]。また裕仁親王の摂政就任についても力を注ぎ、その実現までは内閣を継続する腹を決めた[157]。 7月にワシントン海軍軍縮会議が開催されることになると、原は﹁神がハーディング︵アメリカ大統領︶の頭に宿ってこのことを企てしめた﹂と歓迎した[158]。原は軍縮を考えていたが、国内世論的には弱腰と見られて不人気であり、また統帥権の絡みもあって政府が口出しにくい事項でもあったため、海外と協調した軍縮の呼びかけは渡りに船であった[159]。全権のひとりに加藤友三郎海軍大臣が選ばれた。内閣官制第2条﹁内閣總理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣﹂の規定から内閣総理大臣は軍部大臣を含めたどの大臣の役目も代行できるという解釈から、内閣総理大臣としての原が海軍大臣の事務管理を行った[159]。陸軍は反対するも、原は陸軍大臣代行はしないという約束を陸軍と交わした。暗殺
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/The_scene_of_Hara_Takashi_assassination.jpg/200px-The_scene_of_Hara_Takashi_assassination.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d4/Grave_of_Kei_Hara_%28Prime_Minister_Takashi_Hara%29_%282%29.jpg/200px-Grave_of_Kei_Hara_%28Prime_Minister_Takashi_Hara%29_%282%29.jpg)
政治手法
反対派に対する手法
原は第1次西園寺内閣の内相時代、全国の知事に向けて、地方行政刷新のための意見書を求めた。地方からは多くの要望書が寄せられたが、原は知事が集まった会議で内容について一つ一つ質問していった。書類の作成を部下に任せていた知事はこれに答えることができず、醜態を晒した知事は罷免された[59]。華族と爵位
原は政友会設立前夜には、議会に基盤を持たないことを憂い、井上馨に対して貴族院議員でもないと十分に活躍できないという書簡を送り、伊藤に対しても貴族院入りを依頼している[166]。しかしこれらは実現せず、総選挙で盛岡に地盤を確立したことでその必要もなくなった[166]。 原は生前に3度爵位を受ける話があったが、すべて表沙汰になる前に回避したとしている[166]。また没後に伯爵の爵位を与える動きも会ったが、妻の浅が固辞して受けなかった[166]。養子の貢は、子孫を優遇することはかえって害になるとして華族制度自体に批判的であったことと、衆議院議員としての地盤を大切にしていたこと、元老から恩を受ける形になる爵位授与を嫌ったためであるとしている[167]。 原は大阪毎日新聞時代の社説で、経済的に体面を保てないものは華族になるべきではないとしており、また資格も識見もないものが華族であるべきではないとして、華族制度が必要ならば、本人一代限りの﹁一代華族制﹂をとるべきであるとしている[168]。原の姿勢は爵位を持つ立憲同志会総理加藤高明への攻撃材料となり、政党の指導者は爵位を持たないことがふさわしいという認識を広めることとなった。原没後でも高橋是清が隠居して爵位を譲ったことや、浜口雄幸・犬養毅ら無爵の党首が歓迎された[102]。 一方で原は旧主君の家系である南部氏諸華族の家政にも助言を行った。分家である遠野南部家が破産の危機を迎えた際には、その解決のために奔走している[169]。普通選挙法改正に対する姿勢
原は普通選挙法の改正︵直接国税の納税義務を廃止し、満25歳以上の全ての男子に選挙権を与える︶に否定的であったとされているが、原自身は普通選挙法には反対しておらず、後述の﹃原敬日記﹄でも︵改正を︶徐々に進めていく旨を綴っている。原が問題にしていたのは国民の政治的成熟度であり、他者の言説に流されるだけの主体性のない国民が選挙権を持つことを危惧していた。特に、日記中で﹁民権派や社会主義者などの権利ばかり求める思想家は極めて軽薄﹂と酷評し、危機感を持っていた。原は、自ら学習し意見を発信できる国民の増加に合わせ、普通選挙法の改正を構想していたとされる。こうした原の政治姿勢について原敬記念館学芸員の田崎農巳は、﹁原は目先の利益や甘い言葉を操る﹁大衆迎合﹂とは異なる現実主義者、リアリストで、﹁公利﹂を追求していた﹂と推測している[170]。逸話
●原は30歳になったばかりのパリ駐在時代から前髪が白髪になり、本人も大いに気にしていた。しかし骨相学を得意とするフランスの陸軍大臣から、白髪は多数の者の頭となり、異様な出世をするということの表れであると言われたことに大いに喜んだという[171]。 ●原は身長168cmと当時の日本人にしては大柄であり、またファッションにもこだわりを見せた。美貌で知られた貞子とともにパリ社交界では知られた存在であった[33]。 ●手話で﹁岩手県﹂を表す際には、髪をかきあげるような動作をする場合がある。これは原の癖を用いたものである[53]。 ●最初の妻貞子は原自身の記録によれば、浪費癖が激しく、不貞問題を起こした。原自身も浅などの愛人を作っており、円満とは言えないものであった。貞子とは一時別居したが、周囲の説得もあり3年後には同居し、関連する日記は全て処分したという。しかし貞子の行状が以前のようになり、他人の子を宿したため明治37年︵1905年︶末に離縁となったとしている[172]。原はその後も貞子との関係について後悔する記述を残している[172]。 ●後妻の浅との中は睦まじく、週末に腰越で過ごしていたときは、浅を人力車に乗せて自分はそれを押していたという[162]。原の埋葬の際に浅は、参列者に墓穴の深さを覚えていてほしいと告げている。それは自分の墓穴も同じにしてもらい、墓の中から﹁あなた﹂と呼びかけるのに困らないためであるという[162]。 ●甥の達は中学生のころから原の家で暮らしており、原も後継者として期待をかけていたが、肺結核で若くして没した。達は正岡子規の門人として抱琴の号を持ち、﹁ホトトギス﹂にも投稿する俳人でもあった。原は内務大臣在職の議会会期中であるにもかかわらず達の追悼句会に訪れ、﹁俳句などつまらないものはやめなさいと叱られるから、自分には隠れて詠んでいた﹂と語っている[173]。達の死後に養子となった貢には生きたいように生きるように告げ、また一山という号で俳句を始めている[173]。 ●岩手県の名物である﹁わんこそば﹂の発祥は原に由来するものであるという説がある。原は母リツが米寿を迎えたころから毎年夏には盛岡に帰郷し、母が住む別邸﹁介寿荘﹂に市民を招き、さんさ踊りや蕎麦でもてなした。このときに出された蕎麦が中蓋に薬味を載せた﹁椀コそば﹂であり、原夫妻がもてなしのために考案したものであるとされる[174]。 ●お汁粉が好物であり、園遊会で食べている姿が新聞に掲載されたこともある。また養子の貢や書生を連れて銀座の名店﹁十二ヵ月﹂に連れて行ったこともあった[155]。 ●原は当時の政治家に珍しく、ほとんど揮毫をしなかった。まれに求められた際には﹁無私﹂、晩年には﹁宝積﹂と書いた。﹁宝積﹂は仏教用語で素晴らしいものを積み上げるという意味だが、原は奉仕して見返りを求めない意味だと語っていたという[175]。盛岡市内の2つの小学校では﹁宝積﹂を校訓とし、児童による奉仕活動﹁宝積活動﹂が行なわれている[175]。現在原敬記念館前にも原自筆をもとにした石碑があり、原版は自由民主党本部幹事長室に飾られている[175]。 ●原は1873年︵明治6年︶4月に受洗したカトリック教徒であり、戦前期の歴代首相の中では唯一のキリスト教徒であった[注釈 3]。ただし、生前の原は自身の信仰について語ることはほとんどなかった。2005年には遺品の一つに刃を閉じると柄の部分に十字架が浮かび上がるハサミがあったことが確認されている[177]。 ●原は自身の俳号として﹃一山﹄と自称した。これについて、後世の評論家の佐高信は、当時の戊辰戦争に破れた東北地方を蔑視する言葉﹁白河以北一山百文﹂︵"東北地方には山1つにつき100文の価値しかない"︶を念頭に起き、﹁︵原は︶いわゆる官軍の輩が白河以北一山百文と嘲笑したのに抵抗してである。﹂と論じた[178]。人物評
●雑誌﹃中央公論﹄1914年4月号では、理想主義者であった加藤高明と対比し、﹁原は融通を悪と見ず、臨機応変を愛し、成功をおさめることを第一とする﹂と評している[179]。 ●雑誌﹃太陽﹄1921年12月号では、政友会の総務であったころは相手を屈服させるような議論をおこなっていたが、総裁となってからは円満となり、清濁併せ呑む包容力をもっていたと評している[180]。 ●政友会の前総裁で、原との間にも確執があった西園寺公望は、原の死の一報を聞いて﹁原は人のためにはどうだったか知らぬが、自己のために私欲を考える男ではなかった﹂と述べている[181]。 ●山縣有朋は原の死に衝撃を受けたあまり発熱し、夢で原暗殺の現場を見るほどであった。その後﹁原という男は実に偉い男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない﹂と嘆いている[182]。 ●平田東助内大臣は後年﹁元老は西園寺公を限りとし、将来は置かぬが宜し。原が居れば別だが、種切れなり﹂と評しており[183]、もし原が生存していれば元老となっていたと見られている[184]。著作
●﹃露西亜国勢論﹄アナトール・ラングロア訳編、原敬重訳、桜水舎、1879年7月。 NCID BA76362410。全国書誌番号:40010735。 ●﹃埃及混合裁判﹄金港堂、1889年11月。 NCID BN15874443。全国書誌番号:40028098。 ●﹃現行条約論﹄阪上汎愛堂、1892年10月。 NCID BN08907892。全国書誌番号:40030941。 ●万国公法会 編﹃陸戦公法﹄原敬訳註、報行社、1894年8月。 NCID BA35301459。全国書誌番号:40031164。 ●﹃外交官領事官制度﹄警醒社、1899年6月。 NCID BA50474485。全国書誌番号:40030919。 ●大阪毎日新聞社 編﹃でたらめ﹄東枝律書房、1899年8月。 NCID BB13775843。全国書誌番号:41018444。 ●﹃でたらめ﹄︵復刻版︶盛岡市原敬記念館、2004年3月。 NCID BB14519882。全国書誌番号:22117146。 ●﹃漢字減少論﹄大阪毎日新聞社、1900年5月。 NCID BN14664853。全国書誌番号:40077165。 ●﹃原敬演説速記﹄羽田浪之紹、1902年6月。全国書誌番号:40020172。 ●﹃懇親会席上演説﹄羽田浪之紹、1902年8月。全国書誌番号:40019713。 ●﹃第十七議会の顛末﹄1903年。全国書誌番号:40020568。 ●﹃原敬の句帖﹄大慈会、1997年4月。全国書誌番号:20030789。全集
原敬全集刊行会︵1929年︶
●﹃原敬全集﹄ 上巻、原敬全集刊行会、1929年7月。 NCID BN03886376。全国書誌番号:47017232。 ●﹃原敬全集﹄ 下巻、原敬全集刊行会、1929年7月。 NCID BN03886376。全国書誌番号:47017232。原書房︵1969年︶
●﹃原敬全集﹄ 上巻、原書房︿明治百年史叢書 第93巻﹀、1969年4月。 NCID BN05722391。全国書誌番号:74000160。 ●﹃原敬全集﹄ 下巻、原書房︿明治百年史叢書 第94巻﹀、1969年4月。 NCID BN05722391。全国書誌番号:74000160。原敬日記
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ca/Takashi_Hara_Family.jpg/200px-Takashi_Hara_Family.jpg)
家族・親族
●先妻・貞子︵旧薩摩藩士・中井弘長女。原が天津領事赴任直前の明治16年に15歳で結婚。子はなく、明治29年より別居。その後、貞子が不倫の子を宿したため明治38年離婚。[185]︶ ●後妻・浅︵あさ、岩手県江刺郡岩谷堂町・菅野弥太郎の娘、東京新橋﹁紅葉館﹂の芸者[186]。浅草生まれ。15年間は妾であったが、離婚成立後の明治41年に入籍。[185]︶ ●養子︵姪の子︶・ 貢︵作家︶系譜
原家 原家の始祖三田村平兵衛は浅井新左衛門忠政︵近江の浅井氏︶の二男三田村左衛門太夫定元の末流と伝える三田村太郎右衛門の二男として筑後で誕生した [注釈 4]。 三田村平兵衛政澄︵後に原氏に改める︶━平兵衛政舫━十蔵政直━茂平政親━平兵衛政芳━直記芳忠━平兵衛芳武━直記芳隆━直治政中━敬━貢栄典
位階 ●1890年︵明治23年︶12月28日 - 従六位[187] ●1891年︵明治24年︶12月11日 - 正六位[188] ●1892年︵明治25年︶9月26日 - 従五位[189] ●1897年︵明治30年︶10月30日 - 正四位[190] ●1907年︵明治40年︶10月11日 - 従三位[191] ●1914年︵大正3年︶1月30日 - 正三位[192] ●1921年︵大正10年︶11月4日 - 正二位[193] 勲章 ●1893年︵明治26年︶12月28日 - 勲五等瑞宝章[194] ●1896年︵明治29年︶6月16日 - 勲三等旭日中綬章[195] ●1914年︵大正3年︶4月4日 - 勲一等旭日大綬章[196] ●1915年︵大正4年︶11月10日 - 大礼記念章[197] ●1920年︵大正9年︶9月7日 - 旭日桐花大綬章[198] ●1921年︵大正10年︶ ●7月1日 - 第一回国勢調査記念章[199] ●11月4日 - 大勲位菊花大綬章[193] 外国勲章佩用允許 ●1888年︵明治21年︶7月7日 - ベルギー王国‥レオポール勲章コマンドール[200] ●1889年︵明治22年︶5月14日 - フランス共和国‥レジオンドヌール勲章オフィシエ[201] ●1896年︵明治29年︶ ●3月17日 - ロシア帝国‥神聖アンナ第一等勲章[202] ●10月26日 - スペイン王国‥イザベルラカトリック第一等勲章[203] ●1911年︵明治44年︶[月26日 - 大清帝国‥頭等第三双竜宝星[204]郷里での顕彰
盛岡市には実家が保存されており、隣には原敬記念館が開設されている。敬は母親のために盛岡市街に別邸を建て、支援者を招いての園遊会の場としても使った。岩手県の名物わんこそばは、原邸で振る舞われた小分けされた蕎麦が元となったという説もある[11]。 岩手県庁が、地元出身の偉人を登場させて岩手県を宣伝する動画にも登場している︵演‥村上弘明︶[205]。関連作品
- テレビドラマ
- 『平民宰相 原敬』(1965年・NHK、演:柳永二郎)
- 『熱い嵐』(1979年・TBS、演:岡田英次)
- 『足尾から来た女』(2014年1月18日、1月25日・NHK、演:國村隼)
- 『経世済民の男 高橋是清』(2015年・NHK、演:堀内正美)
- 『青天を衝け』(2021年・NHK大河ドラマ、演:石丸謙二郎)
脚注
注釈
出典
参考文献
●千葉勝﹁原敬と華族 : 南部家との関係を中心に﹂﹃弘前大学國史研究﹄115号 p5.3-71 2003年, 弘前大学國史研究会, ISSN 0287-4318 ●楠精一郎﹃列伝・日本近代史 伊達宗城から岸信介まで﹄朝日新聞社︿朝日選書﹀、2000年。 ●伊藤之雄﹃元老 西園寺公望﹄文春新書、2007年 ●伊藤之雄﹃元老―近代日本の真の指導者たち﹄中央公論新社︿中公新書﹀、2016年 ●清水唯一朗﹃原敬-﹁平民宰相﹂の虚像と実像﹄中央公論新社︿中公新書, 2660﹀、2021年9月17日。ISBN 978-4121026606。関連文献
●原奎一郎﹃ふだん着の原敬﹄毎日新聞社、1971年/中公文庫、2011年 甥で養子︵本名は原貢、原圭一郎とも表記︶の回想録、一個人としての原敬の実像を知る最適の文献。原敬とその妻浅子と生活した青少年期の思い出を中心に綴られている。 ●原敬遺徳顕彰会﹃原敬 歿後五十年 その生涯﹄ 毎日新聞社、1970年 ●﹃原敬﹄(上・下)、原奎一郎編著、盛岡大慈会・原敬遺徳顕彰会、1998-99年、新編抄版・1巻、2002年 ●原敬文書研究会編﹃原敬関係文書﹄︵全10巻・別巻1︶、日本放送出版協会 1984-89年 ●前田蓮山﹃日本宰相列伝7原敬﹄ 時事通信社、新版1985年。元版1958年 ●テツオ・ナジタ﹃原敬 政治技術の巨匠﹄安田志郎訳、読売新聞社︿読売選書﹀、1974年 ●原奎一郎、山本四郎編﹃原敬をめぐる人びと﹄日本放送出版協会︿NHKブックス﹀、1981年 ●原奎一郎、山本四郎編﹃続 原敬をめぐる人びと﹄NHKブックス、1982年 ●高橋文彦﹃原敬 颯爽と清廉に﹄(上・下) 、原書房、1992年 ●山本四郎﹃評伝 原敬﹄︵上・下︶、東京創元社、1997年 ●川田稔﹃原敬と山県有朋 国家構想をめぐる外交と内政﹄中公新書、1998年 ●玉井清﹃原敬と立憲政友会﹄慶應義塾大学出版会、1999年 ●松本健一﹃原敬の大正﹄毎日新聞社、2013年 ●福田和也﹃大宰相 原敬﹄PHP研究所、2013年 ●伊藤之雄﹃原敬 外交と政治の理想﹄︵上・下︶、講談社選書メチエ、2014年 ●伊藤之雄﹃真実の原敬 維新を超えた宰相﹄講談社現代新書、2020年8月関連項目
- 大正デモクラシー
- 三浦梧楼
- 平岡定太郎 三島由紀夫の祖父
- 中村弥六、中岡艮一の親族
- 楢山佐渡 - 戊辰戦争の責で刑死した盛岡藩家老。大正時代の追悼式典で原敬が祭文を読んだ。
- 浅井氏
- 鉄道と政治 - 原のとった積極政策は「我田引鉄」と揶揄された。
- 日本の改軌論争
外部リンク
- 『原敬』 - コトバンク
- 『原敬(はらたかし)』 - コトバンク
- 『原敬内閣』 - コトバンク
- 原敬 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
- 歴代内閣ホームページ情報:原敬 内閣総理大臣(第19代)
- 第27回:原敬(はらたかし)|盛岡市公式ホームページ
- 原敬記念館 - 盛岡市文化振興事業団
- 原敬事典 - ウェイバックマシン(2016年9月14日アーカイブ分)
- 原敬 遺徳顕彰事業団 財団法人大慈会 - ウェイバックマシン(2011年11月18日アーカイブ分)
公職 | ||
---|---|---|
先代 寺内正毅 |
![]() 第19代:1918年 - 1921年 |
次代 高橋是清 |
先代 松室致 |
![]() 第22代:1918年 - 1920年(兼任) |
次代 大木遠吉 |
先代 清浦奎吾 平田東助 大浦兼武 |
![]() 第25代:1906年 - 1908年 第27代:1911年 - 1912年 第29代:1913年 - 1914年 |
次代 平田東助 大浦兼武 大隈重信 |
先代 星亨 山縣伊三郎 |
![]() 第11代:1900年 - 1901年 第16代:1908年 |
次代 芳川顕正 堀田正養 |
党職 | ||
先代 西園寺公望 |
立憲政友会総裁 第3代:1914年 - 1921年 |
次代 高橋是清 |
官職 | ||
先代 安藤太郎 |
![]() 第5代:1892年 - 1895年 |
次代 藤井三郎 |
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- 1921年没