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皇位継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
皇位継承者から転送)
第126代天皇 今上天皇
即位礼正殿の儀
2019年令和元年)10月22日
即位の礼に臨む昭和天皇
1928年(昭和3年)11月

1




[]















江戸時代中期の光格天皇閑院宮出身、第119代)以後は、徳仁(第126代)まで、全て皇統直系の男系男子により(皇太子が次代天皇に即位する)皇位継承が行われて現在に至っている。

近代に入り、明治天皇治世の1889年明治22年)に「退位禁止(譲位禁止)」と「養子禁止」と「直系男子への皇位継承優先」について定めた旧皇室典範が制定された。

昭和時代、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法の下で皇室典範は再度制定されたが、「退位禁止(譲位禁止)」と「養子禁止」と「直系男子への皇位継承優先」とする基本性格は変更されず、更に「非嫡出子を皇族としない」規定が追加された。

皇位継承順位[編集]

皇位を継承する皇族の順位(順序)は皇室典範第2条に定められている。

現在の順位[編集]

日本の皇位継承順位令和元年(2019年5月1日 -
順位 皇位継承資格者 読み 性別 生年月日 現年齢 今の天皇から見た続柄 摂政就任順位
   
第1位 秋篠宮文仁親王 あきしののみや ふみひと 男性 1965年11月30日
(昭和40年)
58歳 親等2/弟 / 上皇明仁第2皇男子 第1位
第2位 悠仁親王 ひさひと 男性 2006年09月06日
(平成18年)
17歳 親等3/甥 / 秋篠宮文仁親王第1男子
第3位 常陸宮正仁親王 ひたちのみや まさひと 男性 1935年11月28日
(昭和10年)
88歳 親等3/叔父 / 昭和天皇第2皇男子 第2位

皇位継承儀式[編集]

皇位継承の儀式の法制については、1909年制定の登極令(明治42年皇室令第1号)に基づいている。厳密には、同法例は占領期間中に廃止されており、成文法としての根拠はこの時になくなっているが、別途規定のないものは1947年の宮内省以命通牒(昭和22年5月3日宮内府長官官房文書課発第45号)により、以降も従前の例をほぼ踏襲する形で執り行っている。

以下の皇位継承儀式は、昭和天皇(第124代天皇)から皇太子明仁親王(第125代天皇→上皇明仁)の皇位継承に際する事跡である。

剣璽等承継の儀[編集]

1989年(昭和64年)、剣璽等承継の儀

42122 



19896417101殿

皇霊殿神殿に奉告の儀[編集]

皇霊殿神殿に奉告の儀(こうれいでんしんでんにほうこくのぎ)とは、先祖代々の皇霊を奉る皇霊殿、及び天神地祇を奉る神殿において、「新天皇の践祚」を奉告する儀式である。「剣璽等承継の儀」が執り行われているほぼ同時刻に、宮中三殿に於いて掌典長が「新天皇の践祚」を奉告する。

賢所の儀[編集]


1989192殿




即位後朝見の儀[編集]

2019年(令和元年)、即位後朝見の儀

即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)とは、即位(践祚)した新天皇が初めて首相らに言葉を述べる国事行為たる儀式である。平成元年(1989年)1月9日に、皇居正殿松の間で365人の参列者のもと執り行われた。

大嘗祭・大嘗宮の儀[編集]

1990年(平成2年)、大嘗祭
令和の大嘗宮

11144

199021123

[][]

皇位継承儀礼の変遷[編集]

第121代孝明天皇の即位礼
弘化4年、於 平安宮(京都御所

[1] 

殿殿[2]

[3]

11[4]

4689

1寿2

5112425寿28

寿[5]

退

大日本帝国憲法下の皇位継承[編集]

皇位の継承について大日本帝国憲法第2条で「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス」とあり、旧皇室典範第一章に皇位継承順位、第二章に践祚即位について規定されていた。皇室典範第1条では「大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」と記されている。

皇位継承の儀式については、皇室典範を根拠とし、皇室典範に属する法体系、いわゆる「宮務法」として公布された皇室令のひとつ、登極令(明治42年皇室令第1号)及び同附式によって細かく定められていた。なお、日本国憲法の施行に伴い、旧皇室典範及び皇室令は、1947年(昭和22年)5月2日大日本帝国憲法の失効に伴い廃止されている。

歴史[編集]

弥生期 - 飛鳥期[編集]


2婿[6] [7]

5[8] 6555

6 - 730

672225

奈良期 - 平安中期[編集]


236810

2 -  -  - 

 -  - 調退退

 -  - 

院政期 - 鎌倉中期[編集]


3退



西2

21婿婿

皇統分裂の時代[編集]




調222200213527

13923141219

21428

足利義満[編集]

1990年代前期頃から、足利義満は皇位簒奪を企図していたとする説が注目されるようになった。武家としてだけでなく、公家としても官位を極めた義満は、治天の君としての行動を徐々に始め、自身の子である足利義嗣を皇位に就けることを計画していたが、計画成就の寸前に死去したため皇位簒奪がならなかったとしている。義満も清和天皇(又は陽成天皇)に始まる源氏ではあるが、代数が当時の天皇から十数代も離れていたため、皇族としての資格はないものと見做されていた。日本の歴史上、5代以上天皇位に就いていない家系に属する皇裔が即位した例はない。しかし、上記説の論者は、当時の状況(後光厳系統断絶の危機など)を詳細に観察してみると、義満による皇位簒奪はかなりの可能性で成功したはずであり、もし成功していればその後の天皇(皇位)のあり方が劇的に変化していただろうと考えている。実際、義満の死後、太上天皇号が朝廷から贈られようとしている(義満の後継者・足利義持がこれを辞退した)。

戦国期 - 明治初頭[編集]


17調

2162968591779860



6[9]


課題[編集]

皇室典範の「皇統に屬(属)する男系の男子」という条文について、敬宮愛子内親王の誕生など、天皇直系の皇位継承者の終端に女性皇族しか存在していない問題が生じていた。2006年(平成18年)の悠仁親王誕生により、一応は今の第126代天皇の次世代の皇位継承者を確保できたが、依然として皇位継承者不足に変わりはない。そのため、女性天皇及び女系天皇、および旧宮家皇籍復帰などの可能性も含めた議論が起こっている。

また、河野太郎衆議院議員や一部研究家は現時点で皇統と血縁が近い男系子孫を指す皇別摂家の検討の必要性を訴えている。

考察[編集]


2023

[10]

皇位継承一覧[編集]


126125

6659退退
回数 被継承者 継承者 続柄 世数 践祚 備考
1 神武天皇 皇太子神渟名川耳尊 第三皇子 一世親王 綏靖天皇元年(紀元前581年)1月8日 神武天皇76年(紀元前585年)3月11日に初代天皇の神武天皇が崩御。これを受けて第2代天皇に即位。諒闇中にタギシミミの反逆が起こる。
2 綏靖天皇 皇太子磯城津彦玉手看尊 第一皇子 一世親王 安寧天皇元年(紀元前548年)7月15日 綏靖天皇35年(紀元前549年)5月10日に綏靖天皇が崩御。これを受けて即位。
3 安寧天皇 皇太子大日本彦耜友尊 第二皇子 一世親王 懿徳天皇元年(紀元前510年)2月4日 安寧天皇38年(紀元前511年)12月6日に安寧天皇が崩御。これを受けて即位。
4 懿徳天皇 皇太子観松彦香殖稲尊 第一皇子 一世親王 孝昭天皇元年(紀元前475年)1月9日 懿徳天皇34年(紀元前477年)9月8日に懿徳天皇が崩御。これを受けて即位。
5 孝昭天皇 皇太子日本足彦国押人尊 第二皇子 一世親王 孝安天皇元年(紀元前392年)1月7日 孝昭天皇83年(紀元前393年)8月5日に孝昭天皇が崩御。これを受けて即位。
6 孝安天皇 皇太子大日本根子彦太瓊尊 第一皇子 一世親王 孝霊天皇元年(紀元前290年)1月12日 孝安天皇102年(紀元前291年)1月9日に孝安天皇が崩御。これを受けて即位。
7 孝霊天皇 皇太子大日本根子彦国牽尊 第一皇子 一世親王 孝元天皇元年(紀元前214年)1月14日 孝霊天皇76年(紀元前215年)2月8日に孝霊天皇が崩御。これを受けて即位。
8 孝元天皇 皇太子稚日本根子彦大日日尊 第二皇子 一世親王 孝元天皇57年(紀元前158年)11月12日 孝元天皇57年(紀元前158年)9月2日に孝元天皇が崩御。これを受けて即位。
9 開化天皇 皇太子御間城入彦五十瓊殖尊 第二皇子 一世親王 崇神天皇元年(紀元前97年)1月13日 開化天皇60年(紀元前98年)4月9日に開化天皇が崩御。これを受けて即位。
10 崇神天皇 皇太子活目入彦五十狭茅尊 第三皇子 一世親王 垂仁天皇元年(紀元前29年)1月2日 崇神天皇68年(紀元前30年)12月5日に崇神天皇が崩御。これを受けて即位。
11 垂仁天皇 皇太子大足彦忍代別尊 第三皇子 一世親王 景行天皇元年(71年)7月11日 垂仁天皇99年(70年)7月14日に垂仁天皇が崩御。これを受けて即位。
12 景行天皇 皇太子稚足彦尊 第四皇子 一世親王 成務天皇元年(131年)1月5日 景行天皇60年(130年)11月7日に景行天皇が崩御。これを受けて即位。
13 成務天皇 皇太子足仲彦尊 二世王 仲哀天皇元年(192年)1月11日 成務天皇60年(190年)6月11日に成務天皇が崩御。これを受けて即位。
14 仲哀天皇 摂政皇太后息長帯比売命 皇后 五世女王 神功皇后元年(201年)10月2日 仲哀天皇9年(200年)2月6日、仲哀天皇が三韓征伐の最中に崩御。皇后が三韓征伐および天皇崩御に伴う皇位継承の争いを指揮し、年少の皇太子誉田別尊に代わり摂政として政務を代行する。長年にわたり即位説があったが、大正14年(1925年)の皇統譜令発布に伴い、即位の事実は公式に否定された。
14 仲哀天皇
神功皇后
皇太子誉田別尊 第三皇子 一世親王 応神天皇元年(270年)1月1日 神功皇后69年(269年)4月17日に神功皇后が崩御。これを受けて即位。
15 応神天皇 大鷦鷯尊 第四皇子 一世親王 仁徳天皇元年(313年)1月3日 応神天皇41年(310年)2月15日に応神天皇が崩御。皇太子に指名されていた菟道稚郎子と大鷦鷯尊との間で皇位を譲り合い続け、皇太子が自殺したため、大鷦鷯尊が即位した。
16 仁徳天皇 大兄去来穂別尊 第一皇子 一世親王 履中天皇元年(400年)2月1日 仁徳天皇87年(399年)1月16日に仁徳天皇が崩御。これを受けて即位。諒闇中に住吉仲皇子が謀反を起こし、討伐される。
17 履中天皇 皇太子多遅比瑞歯別尊 一世親王 反正天皇元年(406年)1月2日 履中天皇6年(405年)3月15日に履中天皇が崩御。これを受けて即位。
18 反正天皇 雄朝津間稚子宿禰尊 一世親王 允恭天皇元年(411年)12月 反正天皇5年(410年)1月23日に反正天皇が皇太子を定めないまま崩御。群臣の協議の上で推戴される。
19 允恭天皇 穴穂皇子 第二皇子 一世親王 允恭天皇42年(452年)12月14日 允恭天皇42年(452年)1月14日に允恭天皇が崩御。皇太子に指名されていた木梨軽皇子は素行不良により群臣の支持を得られず、皇太子を討伐した穴穂皇子が即位した。
20 安康天皇 大泊瀬稚武皇子 一世親王 安康天皇3年(454年)11月13日 安康天皇3年(454年)8月9日に安康天皇が暗殺される。大泊瀬稚武皇子は混乱に乗じて他の皇位継承権者を排除し、即位した。
21 雄略天皇 皇太子白髪皇子 第三皇子 一世親王 清寧天皇元年(480年)1月15日 雄略天皇23年(479年)8月7日に雄略天皇が崩御。これを受けて即位。諒闇中に星川皇子の乱が起こる。
22 清寧天皇 弘計王 6親等 二世王 顕宗天皇元年(485年)1月1日 清寧天皇5年(484年)1月16日に清寧天皇が崩御。兄の皇太子億計王の即位辞退を受けて即位した。
23 顕宗天皇 皇太子億計王 二世王 仁賢天皇元年(488年)1月5日 顕宗天皇3年(487年)4月25日に顕宗天皇が崩御。これを受けて即位。
24 仁賢天皇 皇太子小泊瀬稚鷦鷯尊 第一皇子 一世親王 仁賢天皇11年(498年)12月 仁賢天皇11年(498年)8月8日に仁賢天皇が崩御。これを受けて即位。
25 武烈天皇 男大迹王 10親等
義兄
五世王 継体天皇元年2月4日(507年3月3日) 武烈天皇8年(506年)12月8日に武烈天皇が崩御。越前国の豪族であった男大迹王が中央の有力豪族に推戴された。
26 継体天皇 皇太子勾大兄皇子 第一皇子 一世親王 継体天皇25年2月7日(531年3月10日) 継体天皇25年2月7日(531年3月10日)に継体天皇が勾大兄皇子に譲位、即日崩御した。記録上最初に見える譲位である。後世、この時期に皇位継承の争いが起こっていた可能性が指摘されている(辛亥の変)。
27 安閑天皇 檜隈高田皇子 一世親王 宣化天皇元年12月(536年1月) 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日)に安閑天皇が崩御。これを受けて即位。後世、この時期に皇位継承の争いが起こっていた可能性が指摘されている(辛亥の変)。
28 宣化天皇 天国排開広庭尊 一世親王 宣化天皇4年12月5日(539年12月30日) 宣化天皇4年2月10日(539年3月15日)に宣化天皇が崩御。これを受けて即位。後世、この時期に皇位継承の争いが起こっていた可能性が指摘されている(辛亥の変)。
29 欽明天皇 皇太子渟中倉太珠敷尊 第二皇子 一世親王 敏達天皇元年4月3日(572年4月30日) 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日)に欽明天皇が崩御。これを受けて即位。
30 敏達天皇 大兄皇子 一世親王 敏達天皇14年9月5日(585年10月3日) 敏達天皇14年8月15日(585年9月14日)に敏達天皇が崩御。これを受けて即位。
31 用明天皇 泊瀬部皇子 一世親王 用明天皇2年8月2日(587年9月9日) 用明天皇2年4月9日(587年5月21日)に用明天皇が崩御。これを受けて即位。諒闇中、大連物部守屋の支援を受けて穴穂部皇子と皇位を争うが、泊瀬部皇子を後援する大臣蘇我馬子に暗殺される。
32 崇峻天皇 皇太后額田部皇女 一世内親王 崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) 崇峻5年11月3日(592年12月12日)に崇峻天皇が崩御。大臣蘇我馬子の推挙を受けて即位。
33 推古天皇 田村王 大甥 二世王 舒明天皇元年正月4日(629年2月2日) 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)に推古天皇が崩御。後継を巡って田村王と山背大兄王との間で群臣の意見が分かれ、大臣蘇我蝦夷の裁定で田村王が即位する。
34 舒明天皇 皇太后寶女王
皇后
三世女王 皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)に舒明天皇が崩御。継嗣となる皇子が決まらなかったため、皇太后が後を継いで即位した。
35 皇極天皇 軽王 三世王 皇極天皇4年6月14日(645年7月12日) 皇極天皇が乙巳の変を受けて譲位。中大兄皇子の辞退を受けて、軽王が即位した。皇極天皇には「皇祖母尊」の尊号を受けた。
36 孝徳天皇 皇祖母尊 上皇 斉明天皇元年正月3日(655年2月14日) 孝徳天皇10年12月8日(655年1月20日)に孝徳天皇が崩御。これを受けて皇祖母尊が重祚
37 斉明天皇 皇太子葛城皇子 第二皇子 一世親王 天智天皇7年正月3日(668年2月20日) 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)に斉明天皇が崩御。丁度百済復興のための半島出兵中であったため葛城皇子が即位せずに称制のままで指揮を執る。白村江の戦いに敗北後、敗戦処理を経て即位する。
38 天智天皇 皇太子太政大臣大友皇子 第一皇子 一世親王 天智天皇10年12月5日(672年1月9日) 天智天皇10年12月3日(672年1月7日)に天智天皇が崩御。これを受けて即位。皇太后倭姫王が即位したとの説、即位せずに称制したとの説がある。仮に即位したとしてもその直後に壬申の乱で敗死したため即位に関わる儀礼が完了しなかった可能性もあり、大友皇子の即位の有無については学説が分かれている(大友皇子即位説を参照)。現在の政府見解では、明治3年(1870年)に即位の事実を認定している。
39 弘文天皇 大海人皇子 叔父 一世親王 天武天皇2年2月27日(673年3月20日) 天武天皇元年7月23日(672年6月21日)に弘文天皇が壬申の乱で敗死。勝利した大海人皇子が即位。弘文天皇の即位は疑いがあり、大海人皇子にとって都合が悪いので即位の事実が抹消された疑いがある(大友皇子即位説を参照)。
40 天武天皇 皇太后鸕野讚良皇女
皇后
二世内親王 持統天皇4年1月1日(690年2月14日) 朱鳥元年9月9日(686年10月1日)に天武天皇が崩御。諒闇中に大津皇子の反乱、皇太子草壁皇子の病死が起き、皇太后が即位する。
41 持統天皇 皇太子軽皇子 二世親王 文武天皇元年8月1日(697年8月22日) 譲位による皇位継承。
42 文武天皇 阿閇皇女 一世内親王 慶雲4年7月17日(707年8月18日) 慶雲4年6月15日(707年7月18日)に文武天皇が崩御。皇子の首皇子が幼かったため、天皇の母が即位した。
43 元明天皇 氷高皇女 皇女 二世内親王 霊亀元年9月2日(715年10月3日) 天皇が高齢により譲位。皇太子首皇子が幼かったため、皇子の伯母が即位した。
44 元正天皇 皇太子首皇子 一世親王 神亀元年2月4日(724年3月3日) 譲位による皇位継承。
45 聖武天皇 皇太子阿倍内親王 第二皇女 一世内親王 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) 譲位による皇位継承。
46 孝謙天皇 皇太子大炊王 6親等 二世王 天平宝字2年8月1日(758年9月7日) 譲位による皇位継承。大納言藤原仲麻呂の推挙を受けて大炊王が即位した。
47 淳仁天皇 孝謙上皇 6親等 上皇 天平宝字8年10月9日(764年11月6日) 天皇が藤原仲麻呂の乱に連座して廃位、孝謙上皇が重祚する。新帝の意向により即位の事実が無効にされて「淡路廃帝」と呼ばれていたが、明治3年(1870年)に明治天皇より諡号が贈られた。
48 称徳天皇 皇太子白壁王 義兄 二世王 宝亀元年10月1日(770年10月23日) 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)に称徳天皇が崩御。群臣の協議および遺宣によって白壁王が立太子、次いで即位する。
49 光仁天皇 皇太子山部親王 第一皇子 一世親王 天応元年4月3日(781年4月30日) 天皇が病により譲位。これを受けて即位。
50 桓武天皇 皇太子安殿親王 第一皇子 一世親王 延暦25年3月17日(806年4月9日) 天皇による皇位継承。従来、先帝の崩御に伴う皇位継承は諒闇明けに行っていたが、これ以降は践祚と即位に区別し、先帝が退いた時には直ちに皇嗣が践祚し、皇位の空白が生じないようになった。
51 平城天皇 皇太子神野親王 一世親王 大同4年4月1日(809年5月18日) 天皇発病により譲位。
52 嵯峨天皇 皇太子大伴親王 一世親王 弘仁14年4月16日(823年5月29日) 譲位による皇位継承。
53 淳和天皇 皇太子正良親王 一世親王 天長10年2月28日(833年3月22日) 譲位による皇位継承。
54 仁明天皇 皇太子道康親王 第一皇子 一世親王 嘉祥3年3月19日(850年5月4日) 譲位による皇位継承。
55 文徳天皇 皇太子惟仁親王 第四皇子 一世親王 天安2年8月27日(858年10月7日) 天安2年8月27日(858年10月7日)に文徳天皇が崩御。皇太子が幼少であったため天皇は惟喬親王の即位を望んでいたが、外祖父の太政大臣藤原良房の強い勧めで皇太子が即位する。良房が摂政となり、のちの摂関政治の端緒となった。
56 清和天皇 皇太子貞明親王 第一皇子 一世親王 貞観18年11月29日(876年12月18日) 譲位による皇位継承。
57 陽成天皇 時康親王 大叔父 一世親王 元慶8年3月5日(884年2月5日) 譲位(実際には宮中でおこった殺人事件の嫌疑をかけられての廃位ともされる)による皇位継承。
58 光孝天皇 皇太子定省親王 第十五皇子 一世親王 仁和3年8月26日(887年9月17日) 天皇崩御による皇位継承。陽成天皇の近親者が皇位に就くことを防ぐため、臣籍降下していた源定省が皇籍に復帰して立太子、即位した。
59 宇多天皇 皇太子敦仁親王 第一皇子 一世親王 寛平9年7月3日(897年8月4日) 譲位による皇位継承。
60 醍醐天皇 皇太子寛明親王 第十一皇子 一世親王 延長8年9月22日(930年10月16日) 天皇重篤につき譲位。
61 朱雀天皇 皇太子成明親王 一世親王 天慶9年4月20日(946年5月23日) 譲位による皇位継承。
62 村上天皇 皇太子憲平親王 第二皇子 一世親王 康保4年5月25日(967年7月5日) 崩御による皇位継承。
63 冷泉天皇 皇太子守平親王 一世親王 安和2年8月13日(969年9月27日) 天皇が気の病によって譲位。あとを弟の守平親王が受けて即位する。東宮には師貞親王(冷泉天皇の第一皇子)が立ち、以降半世紀、両者の皇統の間で両統迭立の状態となる。
64 円融天皇 皇太子師貞親王 一世親王 永観2年8月27日(984年9月24日) 譲位による皇位継承。東宮には懐仁親王(円融天皇の第一皇子)が立つ。
65 花山天皇 皇太子懐仁親王 従弟 一世親王 寛和2年6月23日(986年8月1日) 譲位による皇位継承(寛和の変)。東宮には居貞親王(冷泉天皇の第二皇子)が立つ。
66 一条天皇 皇太子居貞親王 従兄 一世親王 寛弘8年6月13日(1011年7月16日) 天皇重篤により譲位(9日後に崩御)。東宮には敦成親王(一条天皇の第二皇子)が立つ。
67 三条天皇 皇太子敦成親王 5親等 一世親王 長和5年1月29日(1016年3月10日) 天皇が眼病により譲位。東宮には敦明親王(三条天皇の第一皇子)が立つが、藤原道長の圧力により辞退、両統迭立は終了する。
68 後一条天皇 皇太子敦良親王 一世親王 長元9年4月17日(1036年5月15日) 崩御による皇位継承。急死であったため譲位の儀式が間に合わず、発喪前に遺詔により譲位の儀を行った。
69 後朱雀天皇 皇太子親仁親王 第一皇子 一世親王 寛徳2年1月16日(1045年2月5日) 天皇が病(肩の悪性腫瘍)により譲位(2日後に崩御)。
70 後冷泉天皇 皇太子尊仁親王 一世親王 治暦4年4月19日(1068年5月22日) 崩御による皇位継承。
71 後三条天皇 皇太子貞仁親王 第一皇子 一世親王 延久4年12月8日(1073年1月18日) 譲位による皇位継承。
72 白河天皇 皇太子善仁親王 第三皇子 一世親王 応徳3年11月26日(1087年1月3日) 天皇が善仁親王を立太子させ、即日譲位する。白河上皇は幼少の堀河天皇にかわり政治を取り仕切り、院政治天の君)の嚆矢とされる。
73 堀河天皇 皇太子宗仁親王 第一皇子 一世親王 嘉承2年7月19日(1107年8月9日) 崩御による皇位継承。
74 鳥羽天皇 皇太子顕仁親王 第一皇子 一世親王 保安4年正月28日(1123年2月25日) 譲位による皇位継承。
75 崇徳天皇 皇太子体仁親王 一世親王 永治元年12月7日(1142年1月5日) 鳥羽上皇(治天の君)の圧力により、皇太子(上皇寵妃の藤原得子所生)に譲位。
76 近衛天皇 雅仁親王 一世親王 久寿2年7月23日(1155年8月22日) 久寿2年7月22日(1155年8月21日)に近衛天皇が崩御。議定により雅仁親王が践祚する。
77 後白河天皇 皇太子守仁親王 第一皇子 一世親王 保元3年8月11日(1158年9月5日) 譲位による皇位継承。
78 二条天皇 皇太子順仁親王 第二皇子 一世親王 永万元年6月25日(1165年8月3日) 天皇発病により譲位(翌月崩御)。
79 六条天皇 皇太子憲仁親王 叔父 一世親王 仁安3年2月19日(1168年4月9日) 二条天皇崩御後、後白河上皇や平清盛らによる巻き返しにより憲仁親王が立太子、皇位が継承された。
80 高倉天皇 皇太子言仁親王 第一皇子 一世親王 治承4年2月21日(1180年3月18日) 治承三年の政変による後白河法皇の失脚後、高倉天皇自身が院政を行うべく皇太子に譲位する。
81 安徳天皇 尊成親王 一世親王 寿永2年8月20日(1183年9月8日) 治承・寿永の乱において、安徳天皇平家に奉じられて西国へ落ちのび、替わって入京した源義仲の主導で尊成親王が新帝に立てられた。この時、皇位に付随する三種の神器は安徳天皇とともにあったため、代替措置として復権した後白河法皇による院宣により皇位を継承した。安徳天皇は寿永4年3月24日(1185年4月25日)に壇ノ浦の戦いで敗死するまで皇位にとどまっていたため、史上初めて二帝が並び立つ事態となった。
82 後鳥羽天皇 為仁親王 第一皇子 一世親王 建久9年1月11日(1198年2月18日) 譲位による皇位継承。
83 土御門天皇 皇太子守成親王 一世親王 承元4年11月25日(1210年12月12日) 天皇の温和な性格を嫌った後鳥羽上皇(治天の君)の圧力により譲位。
84 順徳天皇 皇太子懐成親王 第四皇子 一世親王 承久3年4月20日(1221年5月13日) 後鳥羽上皇による鎌倉幕府打倒に備え、皇太子に譲位。
85 仲恭天皇 茂仁王 5親等 二世王 承久3年7月9日(1221年7月29日) 承久の乱で朝廷が敗北。北条泰時により天皇は廃され、土御門上皇の非直系から茂仁王が擁立される。仲恭天皇は即位式大嘗祭も経ないまま廃位されたため、明治3年(1870年)に諡号が贈られるまで「九条廃帝」と呼称されていた。
86 後堀河天皇 皇太子秀仁親王 第一皇子 一世親王 貞永元年10月4日(1232年11月17日) 譲位による皇位継承。
87 四条天皇 邦仁王 又従兄 一世王 仁治3年正月20日(1242年2月21日) 仁治3年正月9日(1242年2月10日)に天皇が急死。後継を巡って公家間の対立や幕府の反対があったため、11日間の空位が生じる。
88 後嵯峨天皇 久仁親王 第二皇子 一世親王 寛元4年1月29日(1246年2月16日) 譲位による皇位継承。
89 後深草天皇 皇太子恒仁親王 一世親王 正元元年11月26日(1260年1月9日) 後嵯峨上皇(治天の君)の意向により譲位。以降、先帝の系統(持明院統)と新帝の系統(大覚寺統)の間で両統迭立に入る。
90 亀山天皇 皇太子世仁親王 第二皇子 一世親王 文永11年1月26日(1274年3月6日) 譲位による皇位継承。後深草上皇の働きかけにより、熈仁親王(後深草上皇の第二皇子)が立太子する。
91 後宇多天皇 皇太子熈仁親王 従兄 一世親王 弘安10年10月21日(1287年11月27日) 譲位による皇位継承。皇統が持明院統へ移る。
92 伏見天皇 皇太子胤仁親王 第一皇子 一世親王 永仁6年7月22日(1298年8月30日) 譲位による皇位継承。東宮には大覚寺統の邦治親王(後宇多上皇の第一皇子)が立つ。
93 後伏見天皇 皇太子邦治親王 又従兄 一世親王 正安3年正月21日(1301年3月2日) 譲位による皇位継承。皇統が大覚寺統へ移る。東宮には持明院統の富仁親王(後伏見上皇の弟)が立つ。
94 後二条天皇 皇太子富仁親王 又従弟 一世親王 延慶元年8月26日(1308年9月11日) 天皇崩御による皇位継承。皇統が持明院統へ移る。東宮には大覚寺統の尊治親王(後二条天皇の弟)が立つ。
95 花園天皇 皇太子尊治親王 又従兄 一世親王 文保2年2月26日(1318年3月29日) 譲位による皇位継承。皇統が大覚寺統へ移る。
96 後醍醐天皇 皇太子量仁親王 7親等 一世親王 元弘元年9月20日(1331年10月22日) 後醍醐天皇による討幕の挙兵が鎮圧され、幕府によって廃立される(元弘の変)。あとを皇太子が継承し、皇統が持明院統へ移る。
(北1) 光厳天皇 後醍醐天皇 7親等 一世親王 元弘3年5月25日(1333年7月7日) 鎌倉幕府の滅亡により後醍醐天皇が配流先の隠岐から帰還。建武の親政を始めるにあたり、自身の廃位と光厳天皇の即位を無効化。光厳天皇は「特別に」上皇の待遇とされた。
- 後醍醐天皇 皇太子恒良親王 第三皇子 一世親王 建武3年(1336年)? 足利尊氏の反乱(延元の乱)により比叡山へ避難していた後醍醐天皇が皇太子へ三種の神器を譲渡して北陸へ落ちのびさせる。恒良親王は天皇としてふるまうが、のちに後醍醐天皇が新たに南朝を開くと恒良親王の即位の意義がなくなり、歴代天皇とはみなされていない(恒良親王が保持していた三種の神器の行方も不明)。
(北1) 光厳天皇 豊仁親王 一世親王 延元元年8月15日(1336年9月20日) 京を出奔した後醍醐天皇に代わり、光厳上皇の院宣により豊仁親王が即位。
96 後醍醐天皇 光明天皇 7親等 一世親王 延元元年11月2日(1336年12月5日) 後醍醐天皇が足利尊氏と和睦し京へ帰還、三種の神器を光明天皇へ引き渡す。しかしのちに京都を脱出して吉野へのがれ、「光明天皇へ譲った三種の神器は偽物であり本物の神器は自らが吉野に持ってきた物である」と主張し、自身が主宰する朝廷を開く(南北朝時代の開始)。
96 後醍醐天皇 憲良親王 第七皇子 一世親王 延元4年8月15日(1339年9月18日) 南朝。天皇危篤につき譲位(翌日崩御)。
(北2) 光明天皇 皇太子興仁親王 一世親王 貞和4年10月27日(1348年11月18日) 北朝。譲位による皇位継承。
(北3) 崇光天皇 後村上天皇 9親等 一世親王 正平6年11月7日(1351年11月26日) 観応の擾乱により、北朝方の足利尊氏が南朝に降伏。北朝方は皇位・元号ともに廃止され、短期間の南北朝統一が達成される(正平一統)。
(北3) 崇光天皇 弥仁 一世 観応3年8月17日(1352年9月25日) 南朝方が北朝の上皇・皇太子を全員吉野地方へ拉致したため、正平一統は破綻する。北朝は南朝の追跡を逃れた弥仁を践祚される。この時、三種の神器が奪われ、院宣を出しうる上皇も不在であったため、広義門院(新帝の祖母)が緊急措置として治天の君となった。
97 後村上天皇 皇太子寛成親王 第一皇子 一世親王 正平23年3月11日(1368年3月29日) 南朝。史料の散逸によりこの時期の南朝史については不明点が多く、天皇崩御の日付は明らかであるが皇太子の践祚日は不明で、生前の譲位の可能性もある(立太子の有無についても諸説ある)。新帝の即位辞退についても長年疑義があり、大正14年(1925年)に政府見解で即位が認定された。
(北4) 後光厳天皇 皇太子緒仁親王 第一皇子 一世親王 応安4年3月23日(1371年4月9日) 北朝。譲位による皇位継承。
(北5) 後円融天皇 幹仁親王 第一皇子 一世親王 弘和2年4月11日(1382年5月24日) 北朝。譲位による皇位継承。
98 長慶天皇 皇太子熙成親王 一世親王 弘和3年冬(1383年) 南朝。譲位による皇位継承。正確な日時は不明。
99 後亀山天皇 後小松天皇 12親等 一世親王 明徳3年閏10月5日(1392年11月19日) 南朝内部で後亀山天皇の即位を機に和平派が大勢を占め、足利義満の仲介によって南北朝合一が実現(明徳の和約)。両者の間で「譲国の儀」を行い、後亀山天皇が後小松天皇に譲位する。
100 後小松天皇 実仁親王 第一皇子 一世親王 応永19年8月29日(1412年10月5日) 譲位による皇位継承。明徳の和約による「両統迭立の復活」が反故にされたことにより反発した旧南朝勢力の一部は離反し、後南朝として武装反抗を行ってゆく(後南朝は勢力を盛り返すに至らず、自然消滅する)。
101 称光天皇 彦仁王 8親等 三世王 正長元年7月28日(1428年9月7日) 正長元年7月20日(1428年8月30日)に称光天皇が後継を定めないまま崩御。伏見宮家の彦仁王が後小松上皇の猶子となり、践祚した。
102 後花園天皇 成仁親王 第一皇子 一世親王 寛正5年7月19日(1464年8月21日) 譲位による皇位継承。
103 後土御門天皇 勝仁親王 第一皇子 一世親王 明応9年10月25日(1500年11月16日) 明応9年9月28日(1500年10月21日)に天皇崩御。
104 後柏原天皇 知仁親王 第二皇子 一世親王 大永6年4月29日(1526年6月9日) 崩御による皇位継承。
105 後奈良天皇 方仁親王 第一皇子 一世親王 弘治3年10月27日(1557年11月17日) 崩御による皇位継承。
106 正親町天皇 和仁親王 二世親王 天正14年11月7日(1586年12月17日) 譲位による皇位継承。
107 後陽成天皇 政仁親王 第三皇子 一世親王 慶長16年3月27日(1611年5月9日) 譲位による皇位継承。
108 後水尾天皇 興子内親王 第二皇女 一世内親王 寛永6年11月8日(1629年12月22日) 徳川幕府の朝廷への干渉に反発した天皇が興子内親王へ譲位。
109 明正天皇 紹仁親王 一世親王 寛永20年10月3日(1643年11月14日) 譲位による皇位継承。
110 後光明天皇 良仁親王 一世親王 承応3年11月28日(1655年1月5日) 承応3年9月20日(1654年10月30日)に天皇が崩御。皇位継承予定者の識仁親王が幼少であったため、繋ぎとして良仁親王が即位した。
111 後西天皇 識仁親王 一世親王 寛文3年1月26日(1663年3月5日) 譲位による皇位継承。
112 霊元天皇 皇太子朝仁親王 第五皇子 一世親王 貞享4年3月25日(1687年5月6日) 譲位による皇位継承。
113 東山天皇 皇太子慶仁親王 第五皇子 一世親王 宝永6年6月21日(1709年7月27日) 譲位による皇位継承。
114 中御門天皇 皇太子昭仁親王 第一皇子 一世親王 享保20年3月21日(1735年4月13日) 譲位による皇位継承。
115 桜町天皇 皇太子遐仁親王 第一皇子 一世親王 延享4年5月2日(1747年6月9日) 譲位による皇位継承。
116 桃園天皇 智子内親王 一世内親王 宝暦12年7月27日(1762年9月15日) 宝暦12年7月12日(1762年8月31日)に天皇が崩御。皇位継承予定者の英仁親王が幼少のため、智子内親王が代わって即位。
117 後桜町天皇 皇太子英仁親王 一世親王 明和7年4月28日(1770年5月23日) 譲位による皇位継承。
118 後桃園天皇 兼仁王 7親等 三世王 安永8年11月25日(1780年1月1日) 安永8年11月9日(1779年12月16日)に天皇が崩御。継嗣がいなかったため、閑院宮家より兼仁王が後を継いだ。
119 光格天皇 恵仁親王 第四皇子 一世親王 文化14年9月21日(1817年10月31日) 譲位による皇位継承。
120 仁孝天皇 皇太子統仁親王 第四皇子 一世親王 弘化3年2月13日(1846年3月10日) 崩御による皇位継承。
121 孝明天皇 睦仁親王 第二皇子 一世親王 慶応3年正月9日(1867年2月13日) 崩御による皇位継承。
122 明治天皇 皇太子嘉仁親王 第三皇子 一世親王 明治45年/大正元年(1912年)7月30日 崩御による皇位継承。
旧皇室典範第10条及び大日本帝国憲法第2条に基づく。)
123 大正天皇 摂政宮皇太子裕仁親王 第一皇子 一世親王 大正15年/昭和元年(1926年)12月25日 崩御による皇位継承。
(旧皇室典範第10条及び大日本帝国憲法第2条に基づく。)
124 昭和天皇 皇太子明仁親王 第一皇子 一世親王 昭和64年(1989年)1月7日 崩御による皇位継承。
皇室典範第4条及び日本国憲法第2条に基づく。)
125 上皇明仁 皇太子徳仁親王
今上天皇
第一皇子 一世親王 令和元年(2019年)5月1日 平成31年(2019年)4月30日、第125代天皇が務めを果たすことが高齢につき困難になったこと(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の表明)を理由に退位。これを受けて第126代天皇即位。
譲位による皇位継承。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法及び日本国憲法第2条に基づく。)

各回の皇位継承の儀式一覧、異同など[編集]

昭和皇位継承時[編集]

儀式名 日時 場所 備考
劍璽渡御ノ儀
賢所ノ儀
皇靈殿、神殿ニ奉吿ノ儀
踐祚後朝見ノ儀
大正15年(1926年)12月25日3時15分 葉山御用邸
宮中三殿
1時25分、大正天皇が療養中の葉山御用邸にて崩御。直ちに皇太子裕仁親王が践祚し、御用邸内の謁見室において践祚礼が行われた。同時刻、賢所にて掌典らによって八咫鏡への奉告が行われた[11]
賢所ニ期日奉吿ノ儀
皇靈殿、神殿ニ期日奉吿ノ儀
昭和3年(1928年)1月17日 宮中三殿 大正天皇の大喪が明けた後、即位礼の日時を決定、奉告した[12]
神宮、神武天皇山陵竝前帝󠄁四代山陵ニ勅使發遣ノ儀
神宮ニ奉幣ノ儀
神武天皇山陵竝前帝󠄁四代山陵ニ奉幣ノ儀
1月17日
1月19日
同じく即位礼の日時決定を、伊勢神宮、神武天皇陵、仁孝天皇陵、孝明天皇陵、明治天皇陵、大正天皇陵にそれぞれ奉告するため、勅使を発遣した。その後、19日に各所で勅使による奉告が行われた[12]
齋田點定ノ儀 1月17日 神殿 亀卜により、この時の悠紀は滋賀県、主基は福岡県と定められた。
京都ニ行幸ノ儀
賢所春興殿ニ渡御ノ儀
11月6日 八咫鏡が即位礼に合わせて京都へ移動するにあたり、御羽車に載せられて出御。この時天皇・皇后は内庭に出て拝礼した(庭上下御)。その後、天皇、皇后は天叢雲剣、八尺瓊勾玉とともにお召し列車に乗車、鏡も賢所乗御車に納められて東京駅を出発、名古屋で一泊したのち7日14時に京都駅へ到着。鏡は15時30分に京都御所内の春興殿に渡御した。渡御に際して改めて祭典が行われた[13]
卽位禮當日、賢所大前ノ儀
卽位禮當日、皇靈殿、神殿ニ奉吿ノ儀
11月10日9時 春興殿 天皇自ら、同日の即位を八咫鏡に奉告した[14]
卽位禮當日、紫宸殿ノ儀 午後 紫宸殿 天皇が即位を宣言した[14]
卽位禮後一日、賢所御神樂ノ儀 11月11日午後 紫宸殿 春興殿にて神楽が奉納された[15]
御禊、大祓 11月12日 大嘗祭2日前にあたり、天皇、奉仕の職員、供進物を祓い清めた[15]
神宮、皇靈殿、神殿竝官國幣社ニ勅使發遣ノ儀 11月12日
大嘗祭前一日、鎭魂ノ儀 11月13日
大嘗祭(大嘗宮ノ儀) 11月14日-15日 仙洞御所 [16]
卽位禮及大嘗祭後大饗第一日ノ儀
卽位禮及大嘗祭後大饗第二日ノ儀
卽位禮及大嘗祭後大饗夜宴ノ儀
卽位禮及大嘗祭後神宮ニ親謁ノ儀
卽位禮及大嘗祭後神武天皇山陵竝前帝󠄁四代山陵ニ親謁ノ儀
天皇自ら、即位を奉告した[17]
  • 伊勢神宮 - 20日(外宮)、21日(内宮)
  • 神武天皇陵 - 23日
  • 仁孝天皇 - 24日
  • 孝明天皇 - 24日
  • 明治天皇 - 25日
  • 大正天皇 - 29日(東京還幸後)
東京ニ還御ノ儀
賢所溫明殿ニ還御ノ儀
東京還幸後、賢所御神樂ノ儀
還幸後、皇靈殿、神殿ニ親謁ノ儀
天皇、皇后、神器は26日に京都府発、名古屋市で1泊の後27日に東京都に還御。ただちに賢所において八咫鏡の還御の儀が行われ、天皇の拝礼後、御神楽が深夜まで奉納された[18]

平成皇位継承時[編集]

儀式名 日時 場所 備考
剣璽等承継の儀 昭和64年(1989年)
1月7日10時
皇居正殿松の間 昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御。これを受けて、皇太子明仁親王が践祚した[19]
賢所の儀 10時 皇居宮中三殿 掌典長が八咫鏡に代拝、御告文を奏した[20]。なお、前例により、翌8日、9日にもそれぞれ同儀が繰り返された(御告文はなし)[21]
皇霊殿神殿に奉告の儀 10時 皇居宮中三殿 賢所に準じて行われた[21]。なお、前例により、翌8日、9日にもそれぞれ同儀が繰り返された(御告文はなし)[21]
即位後朝見の儀 平成元年(1989年)
1月9日11時
皇居正殿松の間 [22]
賢所に期日奉告の儀
皇霊殿神殿に期日奉告の儀
平成2年(1990年)
1月23日11時
皇居宮中三殿 天皇自ら御告文で即位礼および大嘗祭の期日を奉告した[23]
神宮神武天皇山陵及び前四代の天皇山陵に勅使発遣の儀 14時 皇居正殿竹の間 [24]
神宮に奉幣の儀 1月25日7時
14時
神宮外宮
神宮内宮
[25]
神武天皇山陵に奉幣の儀 1月25日9時45分 神武天皇陵 [26]
昭和天皇山陵に奉幣の儀 9時45分 昭和天皇陵 [27]
孝明天皇山陵に奉幣の儀 9時45分 孝明天皇陵 [27]
明治天皇山陵に奉幣の儀 13時45分 明治天皇陵 [28]
大正天皇山陵に奉幣の儀 13時45分 大正天皇陵 [28]
斎田点定の儀 2月8日10時 神殿前斎庭 今回、大嘗祭を前回までの京都から東京に変更されたため、東日本と西日本の境界線も変更、新潟、長野、静岡の3県を含む東側18都道県を東日本、それより西29府県を西日本として扱った。また、祭具の入手が困難であったため方法の変更も検討されたが、最終的に先例にのっとった方法で行われた。亀卜の結果、悠紀国は秋田県、主基国は大分県となった[29]
大嘗宮地鎮祭 8月2日10時 皇居東御苑 大嘗祭を新たに東京都で行うにあたり、大嘗宮造営地を皇居東御苑(江戸城本丸御殿跡地)に決定。造営に先立ち、樹木数本を移植、整地を行った[30]
斎田抜穂前一日大祓 9月27日15時(悠紀)
10月9日15時(主基)
斎田付近の河川敷 [31]
斎田抜穂の儀 9月28日10時(悠紀)
10月10日10時(主基)
斎田 今回は斎田の決定が遅れたため、一部の施設は天幕張りとせざるを得なかった。また、大分県の稲の収穫は通常10月下旬であったが、この年は大嘗祭に供する都合上、時期を繰り上げて耕作を行った[32]
悠紀主基両地方新穀供納 10月25日9時20分 大嘗宮斎庫 斎庫は他の施設よりも先に完成させた[33]
即位礼当日賢所大前の儀 11月12日9時 皇居宮中三殿 場所が先例(京都御所)と異なることを勘案し、庭上奉仕者を省いた[34]
即位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀 9時 皇居宮中三殿 先例では天皇は京都にいるため、勅使が御祭文を奏上していたが、今回は天皇自らこれを行った[35]
即位礼正殿の儀 13時 皇居正殿松の間[36] 先例の京都御所紫宸殿とは構造が異なるため、以下の変更等が行われた。
  • 天皇・皇族の出御および還御の動線が変更された[37]
  • 高御座および御帳台を近接させたため、左右の階段が外された[38]
  • 正殿前庭に装飾及び参列者が入りきらないため、前庭に面する春秋の間、豊明殿の中に座席を増設した[39]
祝賀御列の儀 皇居-赤坂御所 新たに設けられた儀式。この時期、天皇・皇后は即位前の東宮御所(赤坂御用地内、即位後は「赤坂御所」)に引き続き居住しており、執務などのたびに皇居との間を往復していた。この即位礼以降も一旦赤坂御所へ戻ることになっており、多くの国民が奉祝・見送りに道中に現れることが想定されたため、単なる移動でなく、パレード形式での移動とすることとした。このため、経路を通常の往復時と変更させたうえで、皇太子や内閣総理大臣などを含む大規模な車列を組み、通常の車列よりも低速度で移動した。結果、奉祝者は約12万人に上った。また、東京都は沿道および中央分離帯に菊花1万株を植えた[40]
即位礼後一日賢所御神楽の儀
→ 実施せず
即位による臨時の御神楽であったが、先例を検討した結果、八咫鏡が東京から京都へ渡御したことに伴う儀式であったため、今回は渡御は行われていないことにより、本儀は行われないこととなった[41]
饗宴の儀 11月12日より 皇居正殿 従来、即位礼に伴う宴は大嘗祭の後に「大饗の儀」行われていたが、今回は即位礼から大嘗祭までの期間が10日と長く、即位礼に列席した各国要人は大嘗祭前に帰国してしまうため(昭和大礼時は即位礼から大嘗祭まで4日で、外国要人はその間、京都滋賀周辺で政府のもてなしを受けていた)、引き続き行われる大饗の儀とは別に、新たに設けられた。計7回[42]
外国国王王族との会見 11月13日10時 赤坂御用地内 天皇・皇后および一部皇族が赤坂御所鶴の間において、国王およびその配偶者と挨拶、次いで桧の間で歓談した[43]。同時刻、皇太子徳仁親王および一部皇族が東宮仮御所西の間において、その他の王族と挨拶、歓談した[43]
園遊会 14時30分 赤坂御苑 祝賀使節を招いて行われた[44]
内閣総理大臣夫妻主催晩餐会 18時 都内ホテル 海部俊樹内閣総理大臣夫妻の主催による晩餐会が行われた(天皇・皇后ほか皇族は出席せず)[45]
神宮に勅使発遣の儀 11月16日10時 皇居宮殿竹の間 [46]
一般参賀 11月18日 宮殿東庭 午前3回、午後5回。参賀者は、皇宮警察発表で10万9800人[47]
大嘗祭前二日御禊 11月20日14時 宮殿竹の間 [48]
大嘗祭前二日大祓 15時 皇居二重橋鉄橋付近 通常の大祓は神嘉殿前庭で6月30日と12月31日に行われているが、先例を考慮の上で場所が選ばれた[49]
大嘗祭前一日大嘗宮地鎮祭 11月21日14時 大嘗宮 [50]
大嘗祭前一日鎮魂の儀 17時 綾綺殿(宮中三殿構内) [51]
大嘗祭当日神宮に奉幣の儀 11月22日7時30分
14時
神宮外宮
神宮内宮
大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀
大嘗祭当日皇霊殿神殿に奉告の儀
9時45分 宮中三殿 [52]
大嘗宮の儀 22日夕-23日未明 大嘗宮
大嘗祭後一日大嘗宮鎮祭 11月24日8時30分 大嘗宮 [53]
大饗の儀 11月24日、25日 皇居豊明殿 [54]
即位礼及び大嘗祭後神宮に親謁の儀 11月27日10時30日
28日10時
神宮外宮
神宮内宮
天皇、皇后は11月26日に伊勢へ行幸した。
即位礼及び大嘗祭後神武天皇山陵に親謁の儀 12月2日10時50分 神武天皇陵
即位礼及び大嘗祭後孝明天皇山陵に親謁の儀 14時10分 孝明天皇陵
即位礼及び大嘗祭後明治天皇山陵に親謁の儀 12月3日10時30分 明治天皇陵
茶会 14時 京都御所 京都での即位礼斎行への要望が多かったことから、天皇・皇后の京都滞在中にあわせて行われた。
即位礼及び大嘗祭後昭和天皇山陵に親謁の儀 12月5日11時 昭和天皇陵
即位礼及び大嘗祭後大正天皇山陵に親謁の儀 11時40分 大正天皇陵
即位礼及び大嘗祭後賢所に親謁の儀
即位礼及び大嘗祭後皇霊殿神殿に親謁の儀
12月6日10時 皇居宮中三殿
即位礼及び大嘗祭後賢所御神楽の儀 16時30分 皇居宮中三殿
大嘗祭後大嘗宮地鎮祭 平成3年(1991年)
2月14日10時
大嘗祭址 なお、大嘗宮は1990年11月29日から12月16日まで一般の参観を許可したのち、壊却、古材は適宜処理された(先例では鴨川河原にすべて運んで奉焼していたが、現行法規ではできないため一部の主要部分の材木を選び、2月4日に奉焼した)。

令和皇位継承時[編集]

今次の125回目にあたる皇位継承は、光格天皇から仁孝天皇への皇位継承以来約200年ぶりに、譲位によって行われたものである。

儀式名 日時 場所 備考
退位礼正殿の儀 平成31年(2019年)
4月30日17時
皇居正殿松の間 第125代天皇 明仁 による象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことばの表明及び天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行により、天皇が生前に皇位を退く(譲位)にあたり行われた。
剣璽等承継の儀 令和元年(2019年)
5月1日10時30分
皇居正殿松の間 同日の午前0時をもって皇太子徳仁親王が践祚して第126代天皇に即位、元号法に基づき「平成」から「令和」への改元がなされた。
退位(譲位)した前天皇明仁は上皇となった。
賢所の儀
皇霊殿神殿に奉告の儀
10時30分 皇居宮中三殿
即位後朝見の儀 11時10分 皇居正殿松の間
一般参賀 5月4日 宮殿東庭 午前2回、午後4回。当初は先例に遵い即位礼の後に行われる予定であったが、今回は諒闇がなかったことから、時期を繰り上げて皇位継承の直後に行われた。
賢所に期日奉告の儀
皇霊殿神殿に期日奉告の儀
5月8日 皇居宮中三殿
神宮神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に勅使発遣の儀 5月8日 皇居宮殿竹の間
神宮に奉幣の儀
神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に奉幣の儀
5月10日
斎田点定の儀 5月13日 神殿前斎庭 亀卜の結果、悠紀国は栃木県、主基国は京都府となった[29]
大嘗宮地鎮祭 7月26日 皇居東御苑
即位礼当日賢所大前の儀
即位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀
10月22日9時 皇居宮中三殿
即位礼正殿の儀 13時 皇居正殿松の間
祝賀御列の儀→ 延期 15時30分 皇居-赤坂御所 令和元年東日本台風(台風19号)による災害に伴い、被災地での対応を優先するため、11月10日に延期された。
饗宴の儀 10月22日、25日、29日、31日 皇居 立食形式を取り入れる等により、計4回に減じた。
外国国王王族との会見 10月23日 赤坂御所 前回と比べて皇族の人数が減少したため、国王夫妻の接遇とその他王族の接遇を分離せず、まとめて接遇した。
内閣総理大臣夫妻主催晩餐会 10月23日18時 都内ホテル 安倍晋三内閣総理大臣夫妻の主催による晩餐会が行われた(天皇・皇后ほか皇族は出席せず)。
神宮に勅使発遣の儀 11月8日 皇居宮殿竹の間
国民祭典 11月9日 皇居前広場 民間行事。天皇・皇后が皇居正門より出御した。
祝賀御列の儀 11月10日15時 皇居-赤坂御所
大嘗祭前二日御禊 11月12日14時 宮殿竹の間
大嘗祭前二日大祓 15時 皇居二重橋鉄橋付近 皇族を代表して正仁親王が列席した。
大嘗祭前一日大嘗宮地鎮祭 11月13日14時 大嘗宮
大嘗祭前一日鎮魂の儀 17時 綾綺殿(宮中三殿構内)
大嘗祭当日神宮に奉幣の儀 11月14日7時30分
14時
神宮外宮
神宮内宮
大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀
大嘗祭当日皇霊殿神殿に奉告の儀
9時45分 宮中三殿
大嘗宮の儀 14日夕-15日未明 大嘗宮
大嘗祭後一日大嘗宮鎮祭 11月16日8時30分 大嘗宮
大饗の儀 11月16日、18日 皇居豊明殿
即位礼及び大嘗祭後神宮に親謁の儀 11月22日10時30分
23日10時
神宮外宮
神宮内宮
即位礼及び大嘗祭後神武天皇山陵に親謁の儀 11月27日10時50分 神武天皇陵
即位礼及び大嘗祭後孝明天皇山陵に親謁の儀 14時10分 孝明天皇陵
即位礼及び大嘗祭後明治天皇山陵に親謁の儀 11月28日10時30分 明治天皇陵
茶会 14時 京都御所
即位礼及び大嘗祭後昭和天皇山陵に親謁の儀 12月3日 昭和天皇陵
即位礼及び大嘗祭後大正天皇山陵に親謁の儀 12月3日 大正天皇陵
即位礼及び大嘗祭後賢所に親謁の儀
即位礼及び大嘗祭後皇霊殿神殿に親謁の儀
12月4日 皇居宮中三殿
即位礼及び大嘗祭後賢所御神楽の儀 12月4日 皇居宮中三殿
大嘗祭後大嘗宮地鎮祭 令和2年(2020年)

2月28日

大嘗宮址

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ 「卑弥呼とヤマト王権」中央公論新社 2023‐3‐10 255‐264頁
  2. ^ 真弓, pp. 169–171.
  3. ^ 真弓, p. 170.
  4. ^ 真弓, p. 171.
  5. ^ 真弓, pp. 170–172.
  6. ^ 「卑弥呼とヤマト王権」中央公論新社 342頁
  7. ^ 「卑弥呼とヤマト王権」中央公論新社 272頁
  8. ^ 「ヤマト王権」岩波新書2010 44-46
  9. ^ 『天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議』に関する有識者会議 ヒアリング説明資料 松本久史(國學院大學教授) 資料5(松本氏説明資料) 3頁
  10. ^ 「卑弥呼とヤマト王権」中央公論新社 2023‐3‐10 255‐264頁
  11. ^ 真弓, pp. 12–13.
  12. ^ a b 真弓, p. 14.
  13. ^ 真弓, p. 15-18.
  14. ^ a b 真弓, p. 18.
  15. ^ a b 真弓, p. 19.
  16. ^ 真弓, pp. 20–22.
  17. ^ 真弓, pp. 22–23.
  18. ^ 真弓, p. 23.
  19. ^ 鎌田, p. 22.
  20. ^ 鎌田, p. 27.
  21. ^ a b c 鎌田, p. 30.
  22. ^ 鎌田, p. 35.
  23. ^ 鎌田, p. 56.
  24. ^ 鎌田, p. 62.
  25. ^ 鎌田, p. 68.
  26. ^ 鎌田, p. 70.
  27. ^ a b 鎌田, p. 71.
  28. ^ a b 鎌田, p. 72.
  29. ^ a b 鎌田, pp. 73–74.
  30. ^ 鎌田, p. 83.
  31. ^ 鎌田, p. 87.
  32. ^ 鎌田, pp. 90–95.
  33. ^ 鎌田, p. 96.
  34. ^ 鎌田, p. 100.
  35. ^ 鎌田, p. 106.
  36. ^ 鎌田, p. 108.
  37. ^ 鎌田, p. 114.
  38. ^ 鎌田, pp. 114–115.
  39. ^ 鎌田, pp. 116–117.
  40. ^ 鎌田, pp. 128–132.
  41. ^ 鎌田, pp. 132–133.
  42. ^ 鎌田, p. 134.
  43. ^ a b 鎌田, p. 150.
  44. ^ 鎌田, p. 152.
  45. ^ 鎌田, p. 155.
  46. ^ 鎌田, p. 156.
  47. ^ 鎌田, p. 160.
  48. ^ 鎌田, p. 161.
  49. ^ 鎌田, p. 163.
  50. ^ 鎌田, p. 165.
  51. ^ 鎌田, p. 168.
  52. ^ 鎌田, pp. 174, 177.
  53. ^ 鎌田, p. 240.
  54. ^ 鎌田, p. 243.

[]


2003730ISBN 4-7646-0262-8 

使2010 ISBN 9784404038173

2019ISBN 978-4-480-09919-8 

 2023310

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退

 (退)



 (1889)











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 - 201911