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[[郵便報知新聞]]記者を経て[[外務省]]に入省<ref>[http://www.haratakashi.jp/hara/index.html#nenpu 【原 敬 略年譜】]財団法人 大慈会 原敬遺徳顕彰事業団公式サイト参照</ref>。後に[[農商務省 (日本)|農商務省]]に移って[[陸奥宗光]]や[[井上馨]]からの信頼を得た。[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]時代には外務官僚として重用されたが退官。[[立憲政友会]]の発足に参加して政界に進出。[[1918年]](大正7年)に総理大臣に就任。[[平民]]であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E6%95%AC-14698 朝日日本歴史人物事典「原敬」の解説 コトバンク]</ref>、[[爵位]]をもたなかったことから「'''平民[[宰相]]'''(へいみんさいしょう)」と渾名された<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E6%95%AC-14698#E6.97.BA.E6.96.87.E7.A4.BE.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.8F.B2.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E4.B8.89.E8.A8.82.E7.89.88 旺文社日本史事典 三訂版「原敬」の解説 コトバンク]</ref>。[[1921年]](大正10年)[[11月4日]]、[[東京駅]]で[[暗殺]]された([[原敬暗殺事件]])。

[[郵便報知新聞]]記者を経て[[外務省]]に入省<ref>[http://www.haratakashi.jp/hara/index.html#nenpu 【原 敬 略年譜】]財団法人 大慈会 原敬遺徳顕彰事業団公式サイト参照</ref>。後に[[農商務省 (日本)|農商務省]]に移って[[陸奥宗光]]や[[井上馨]]からの信頼を得た。[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]時代には外務官僚として重用されたが退官。[[立憲政友会]]の発足に参加して政界に進出。[[1918年]](大正7年)に総理大臣に就任。[[平民]]であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E6%95%AC-14698 朝日日本歴史人物事典「原敬」の解説 コトバンク]</ref>、[[爵位]]をもたなかったことから「'''平民[[宰相]]'''(へいみんさいしょう)」と渾名された<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E6%95%AC-14698#E6.97.BA.E6.96.87.E7.A4.BE.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.8F.B2.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E4.B8.89.E8.A8.82.E7.89.88 旺文社日本史事典 三訂版「原敬」の解説 コトバンク]</ref>。[[1921年]](大正10年)[[11月4日]]、[[東京駅]]で[[暗殺]]された([[原敬暗殺事件]])。



== 生涯 ==

== 生涯 ==

=== 生い立ち ===

=== 生い立ち ===

[[ファイル:Birthhouse of Hara Kei (Prime Minister Takashi Hara).jpg|thumb|生家(岩手県盛岡市)]]

[[ファイル:Birthhouse of Hara Kei (Prime Minister Takashi Hara).jpg|thumb|生家(岩手県盛岡市)]]


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1875年(明治8年)5月、エヴラールと別れて原は盛岡に戻った。当時原家は家禄を奉還し、その際に受けた一時金をもとに養蚕を手掛け、再び原を遊学させる余裕が生まれていた。再度の上京に伴い、原は分家して戸主となり、平民籍に編入された。原は「分家帰商」{{efn|分籍した際の[[戸籍謄本]]が記念館に保存されており、そこには([[士族]]ではなく)[[士農工商]]の「商」と記載されている<ref name="asahi20181205">山下剛「【わがまちお宝館】原敬記念館(盛岡市)わんこそば「原さん」が?」『朝日新聞』朝刊 2018年12月5日(第2東京面)。</ref>。}}と手記に残し、後年にも宿帳に「岩手県平民」と大書して悦に入っていたというが{{sfn|清水唯一朗|2021|p=13}}、分家の理由は明確にされておらず、原の嗣子原貢は養子縁組を断るため、[[前田蓮山]]は戸主となれば徴兵を逃れられるからではないかとしている{{Sfn|楠|2000|pp=135-136}}。なお、分家するにしても、あえて平民を選んだ理由が明確ではないとの研究もあるが{{sfn|清水唯一朗|2021|p=13}}、原の分家の前年に、華族・士族の家から分家した者は平民籍に編入されるルールが確立していたと指摘されている<ref>古川亮平「近代日本における旧身分意識と族称 -士族・平民の廃止について-」(駿台史學174号139頁)・142頁.</ref>。


[[1875]]85[[|]]{{efn|[[]][[]][[]]<ref name="asahi20181205">? 20181252</ref>}}宿{{sfn||2021|p=13}}[[]]{{Sfn||2000|pp=135-136}}{{sfn||2021|p=13}}<ref> --駿174139142</ref>


=== メディアの記者に ===

=== メディアの記者に ===


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=== 外交官・官僚 ===

=== 外交官・官僚 ===

[[ファイル:Hara Takashi while working in Paris from 1885 to 1889.jpg|thumb|パリ時代の原]]

[[ファイル:Hara Takashi while working in Paris from 1885 to 1889.jpg|thumb|パリ時代の原]]


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[[1892年]](明治25年)3月、陸奥の大臣辞職に伴い、原も依願辞職する<ref>『官報』1892年3月15日「叙任及辞令」。</ref>。外務省や農商務省による慰留も固辞した理由は、当時伊藤が政党結成のために動いており、原は陸奥がその中心人物となると見ていたためである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=62-63}}。果たして7月に[[第2次伊藤内閣]]が成立、陸奥が外務大臣に就任すると原は通商局長として外務省に復帰する<ref>『官報』1892年8月16日「叙任及辞令」。</ref>。大臣官房移民課長兼勤・省令審査委員<ref>『官報』1892年8月17日「叙任及辞令」。</ref>、さらに外務省取調局長を兼任し<ref>『官報』1892年9月8日「叙任及辞令」。</ref>、[[領事裁判権]]の撤廃や外務省改革に従事、同省機構改革と[[外交官試験]]の導入を達成した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=64-70}}。


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=== 伊藤総裁下の政友会 ===

=== 伊藤総裁下の政友会 ===


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=== 第1次西園寺内閣 ===

=== 第1次西園寺内閣 ===

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=== 大正政変と山本権兵衛内閣 ===

=== 大正政変と山本権兵衛内閣 ===

{{See also|大正政変|第1次山本内閣}}

{{See also|大正政変|第1次山本内閣}}

1912年(大正元年)12月21日、[[第3次桂内閣]]が成立した。しかし桂の思惑とは違い、桂を「閥族」山縣の手先と見ていた世論の大きな反発を受けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=172}}。桂は自分を支持する政党が必要であると考え、新党設立の準備と政友会の切り崩しを図った。しかし新党[[立憲同志会|同志会]]には100名に満たない議員しか集まらず、政友会を始めとする[[護憲運動]]に対抗するため、桂は大正天皇に頼った。1913年(大正2年)2月9日、大正天皇は西園寺に対し、事態の収拾を求める[[勅語]]を発した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=174}}。西園寺は勅語には従わざるを得ないとしたものの、党員に対しては行動の自由を与えた。原と松田は勅語に従う方針を立てていたが、尾崎行雄を中心とする桂内閣打倒の動きは止められなかった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=174-175}}。2月11日に内乱を恐れた桂は総辞職を決断したが、西園寺が勅語に違背したとして謹慎したため、政友会内閣の成立は困難であった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=175}}。西園寺と薩摩閥は[[薩摩藩]]出身の大物[[海軍大将]][[山本権兵衛]]の擁立を提案し、山縣もそれを受け入れた。山本は原と松田を入閣させて政友会の支持をとりつけようとしたが、原は首相・外相・陸海相以外の閣僚を政友会に入党させるという条件を出した。これにより[[高橋是清]]・[[奥田義人]]・山本達雄といった閣僚が入党し、党人からは原が内務大臣、松田が[[司法大臣]]、[[元田肇]]が逓信大臣として入閣する[[第1次山本内閣]]が成立した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=176-177}}。しかしこれを薩摩閥との妥協と見た尾崎らは離党し、原に対する批判も高まった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=178}}。原の自宅には100人近い群衆が集まり、政友会の[[壮士]]とにらみ合いとなる事件も起きた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=178}}。


19121221[[3]]{{sfn||2021|p=172}}[[|]]100[[]][[1913]]229西[[]]{{sfn||2021|p=174}}西{{sfn||2021|p=174-175}}211西{{sfn||2021|p=175}}西[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[1]]{{sfn||2021|p=176-177}}{{sfn||2021|p=178}}100[[]]{{sfn||2021|p=178}}


山本内閣は「閥族」の影響力を削ぐ政策を実行することで、世論からの支持を回復しようとした。6月には[[軍部大臣現役武官制]]を改正し、予備役でも軍部大臣に任用できるようにした{{sfn|清水唯一朗|2021|p=179}}。また8月1日には[[文官任用令]]を改正し、大卒者の[[文官高等試験]]免除、次官の資格制限免除を達成した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。原は当初次官のほか局長・知事の資格制限も免除するよう求めていたが、枢密院の反対のため、次官のみに絞った。しかし枢密院の[[伊東巳代治]]はこれをも撤回させようとしたため、原が新聞にリークし、また山本首相が強く要請したため枢密院側が折れたものである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。山本首相の政治力によって、懸案であった行政改革が進んだことで山本内閣は世論の支持を回復した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=183-185}}。また官僚界からも政友会に対する支持が高まり、[[床次竹二郎]]・[[水野錬太郎]]・[[安楽兼道]]・[[岡喜七郎]]といった高級官僚が現職のまま政友会に入党し、官界にも政党の影響力が強まっていった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=184}}。

山本内閣は「閥族」の影響力を削ぐ政策を実行することで、世論からの支持を回復しようとした。6月には[[軍部大臣現役武官制]]を改正し、予備役でも軍部大臣に任用できるようにした{{sfn|清水唯一朗|2021|p=179}}。また8月1日には[[文官任用令]]を改正し、大卒者の[[文官高等試験]]免除、次官の資格制限免除を達成した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。原は当初次官のほか局長・知事の資格制限も免除するよう求めていたが、枢密院の反対のため、次官のみに絞った。しかし枢密院の[[伊東巳代治]]はこれをも撤回させようとしたため、原が新聞にリークし、また山本首相が強く要請したため枢密院側が折れたものである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。山本首相の政治力によって、懸案であった行政改革が進んだことで山本内閣は世論の支持を回復した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=183-185}}。また官僚界からも政友会に対する支持が高まり、[[床次竹二郎]]・[[水野錬太郎]]・[[安楽兼道]]・[[岡喜七郎]]といった高級官僚が現職のまま政友会に入党し、官界にも政党の影響力が強まっていった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=184}}。



一方で西園寺は政友会の後継総裁を原にするべく準備を進めていたが、大正政変で人気を落とした原は、一旦松田に総裁を務めさせるよう進言していた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=185}}。原と松田は閣僚を辞して党務に専念したい意向を山本首相に伝えていたが、山本は強く慰留した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。また原は松田と同時に辞職することを望んでいたが、松田が胃がんとなり、松田夫人が現職のまま死なせたいと望んでいたこともあり、二人は内閣にとどまり続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。しかし1914年(大正3年)に海軍軍人の贈収賄が発覚([[シーメンス事件]])、内閣は厳しい攻撃を受けることとなった。また新聞記者が政友会の壮士や警官に暴行を受けたと訴え出たが、原はこれらの事実関係を完全に否定し、謝罪を拒んだ{{sfn|清水唯一朗|2021|p=187-188}}。こうした原のはねつけるような答弁は野党の攻撃対象となり、自動車が群衆に襲撃されるなど、厳しい批判が起こるようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=187-188}}。原は事態を収拾するため、山本首相を退陣させ、自ら組閣する計画を立てた。しかし元老山縣は山本首相の意見を聞かず、非政友会内閣の樹立を目指した。[[徳川家達]]・[[清浦奎吾]]といった候補者の内閣は成立せず、山縣と井上馨は大隈重信を奏薦した。大隈の与党は立憲同志会・[[中正会]]であり、政友会は野党としてこれに対峙することとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=192}}。

一方で西園寺は政友会の後継総裁を原にするべく準備を進めていたが、大正政変で人気を落とした原は、一旦松田に総裁を務めさせるよう進言していた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=185}}。原と松田は閣僚を辞して党務に専念したい意向を山本首相に伝えていたが、山本は強く慰留した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。また原は松田と同時に辞職することを望んでいたが、松田が胃がんとなり、松田夫人が現職のまま死なせたいと望んでいたこともあり、二人は内閣にとどまり続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。しかし[[1914年]](大正3年)に海軍軍人の贈収賄が発覚([[シーメンス事件]])、内閣は厳しい攻撃を受けることとなった。また新聞記者が政友会の壮士や警官に暴行を受けたと訴え出たが、原はこれらの事実関係を完全に否定し、謝罪を拒んだ{{sfn|清水唯一朗|2021|p=187-188}}。こうした原のはねつけるような答弁は野党の攻撃対象となり、自動車が群衆に襲撃されるなど、厳しい批判が起こるようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=187-188}}。原は事態を収拾するため、山本首相を退陣させ、自ら組閣する計画を立てた。しかし元老山縣は山本首相の意見を聞かず、非政友会内閣の樹立を目指した。[[徳川家達]]・[[清浦奎吾]]といった候補者の内閣は成立せず、山縣と井上馨は大隈重信を奏薦した。大隈の与党は立憲同志会・[[中正会]]であり、政友会は野党としてこれに対峙することとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=192}}。



総裁不在の中、原は衆目の一致する政友会の第一人者であったが、なおも強い反発が残っていた。原は西園寺からの後継指名も一旦断り、党幹部からの一致した支持を取り付け、十分に正当性を確保できる形で後継者としての立場を確保した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=196-197}}。6月18日、本部で開かれた臨時大会において、正式に第3代立憲政友会総裁に就任した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=197}}。

総裁不在の中、原は衆目の一致する政友会の第一人者であったが、なおも強い反発が残っていた。原は西園寺からの後継指名も一旦断り、党幹部からの一致した支持を取り付け、十分に正当性を確保できる形で後継者としての立場を確保した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=196-197}}。6月18日、本部で開かれた臨時大会において、正式に第3代立憲政友会総裁に就任した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=197}}。

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大隈は新聞を利用し、元老との対決色を全面に押し出して人気を集めた。一方で原は元老側にも接近し、松方正義とは連携を取れたもの、井上馨は反政友会の立場であり、また山縣も政党嫌いであった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=198-199}}。しかし大隈が[[営業税]]廃止などの人気取り策に出たことと、元老に無断で[[第一次世界大戦]]への参戦を決めたことで、山縣・松方は大隈内閣批判の姿勢を鮮明にした。これを受けて原は山縣のもとに足繁く通うようになり、信頼関係の醸成に努めたが、大隈が二個師団増設の方針を決めたため、山縣と連携を取ることもできなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=200}}。

大隈は新聞を利用し、元老との対決色を全面に押し出して人気を集めた。一方で原は元老側にも接近し、松方正義とは連携を取れたもの、井上馨は反政友会の立場であり、また山縣も政党嫌いであった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=198-199}}。しかし大隈が[[営業税]]廃止などの人気取り策に出たことと、元老に無断で[[第一次世界大戦]]への参戦を決めたことで、山縣・松方は大隈内閣批判の姿勢を鮮明にした。これを受けて原は山縣のもとに足繁く通うようになり、信頼関係の醸成に努めたが、大隈が二個師団増設の方針を決めたため、山縣と連携を取ることもできなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=200}}。



1915年(大正4年)3月25日、[[第12回衆議院議員総選挙]]が行われた。大正政変以来政友会は地方で不人気であり、また井上が大隈支持を働きかけたことで地方財界も政府支持となったため、政友会は候補者擁立にも支障を来すようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=203}}。大隈は自ら全国に遊説旅行にでかけ、閣員も総動員した大規模な選挙活動を行った。これに対して原は本部にこもりきりであり、対抗できる政策も打ち出せなかったため、十分な支持拡大ができなかった。これに加えて[[大浦兼武]]内務大臣による強力な選挙干渉が行われた。選挙で政友会は選挙前の184議席から106議席と大きく議席を減らし、大物幹部も落選するという大敗を迎えた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=205}}。政友会内部では選挙の敗因は大浦内相による選挙干渉であるという認識が強く、原の責任問題とはならなかった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206}}。原は若手の議員を幹事に登用し、また官僚出身の議員を政務調査会に入れ、[[シンクタンク]]である政務調査室を設置することで政策提言能力を高めた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206-208}}。また6月の議会では[[立憲自由党]]系の政党総裁として初めて演壇に立ち、立憲同志会総理である[[加藤高明]]外相と激しい論戦を繰り広げた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=209}}。

[[1915年]](大正4年)3月25日、[[第12回衆議院議員総選挙]]が行われた。大正政変以来政友会は地方で不人気であり、また井上が大隈支持を働きかけたことで地方財界も政府支持となったため、政友会は候補者擁立にも支障を来すようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=203}}。大隈は自ら全国に遊説旅行にでかけ、閣員も総動員した大規模な選挙活動を行った。これに対して原は本部にこもりきりであり、対抗できる政策も打ち出せなかったため、十分な支持拡大ができなかった。これに加えて[[大浦兼武]]内務大臣による強力な選挙干渉が行われた。選挙で政友会は選挙前の184議席から106議席と大きく議席を減らし、大物幹部も落選するという大敗を迎えた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=205}}。政友会内部では選挙の敗因は大浦内相による選挙干渉であるという認識が強く、原の責任問題とはならなかった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206}}。原は若手の議員を幹事に登用し、また官僚出身の議員を政務調査会に入れ、[[シンクタンク]]である政務調査室を設置することで政策提言能力を高めた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206-208}}。また6月の議会では[[立憲自由党]]系の政党総裁として初めて演壇に立ち、立憲同志会総理である[[加藤高明]]外相と激しい論戦を繰り広げた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=209}}。



大隈内閣は大正天皇の即位礼が終わった後に退陣するという合意を元老側と行っていたが、世界大戦と中国情勢を理由に存続を続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=213}}。1916年(大正5年)になると後継首相の座を巡って暗闘が続いた。原は内閣が存続すればするほど大隈らの人気が下がることを見越し、待ちの姿勢を続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206-208}}。

大隈内閣は大正天皇の即位礼が終わった後に退陣するという合意を元老側と行っていたが、世界大戦と中国情勢を理由に存続を続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=213}}。[[1916年]](大正5年)になると後継首相の座を巡って暗闘が続いた。原は内閣が存続すればするほど大隈らの人気が下がることを見越し、待ちの姿勢を続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206-208}}。



=== 寺内内閣 ===

=== 寺内内閣 ===

{{See also|寺内内閣}}

{{See also|寺内内閣}}


19165109[[]]{{sfn||2021|p=215}}[[]]{{sfn||2021|p=217-218}}[[]][[]]{{sfn||2021|p=219}}[[]]{{sfn||2021|p=222-223}}19187420[[13]]163{{sfn||2021|p=223}}

19165109[[]]{{sfn||2021|p=215}}[[]]{{sfn||2021|p=217-218}}[[]][[]]{{sfn||2021|p=219}}[[]]{{sfn||2021|p=222-223}}[[1918]]7420[[13]]163{{sfn||2021|p=223}}


原は議会でも是々非々の対応を取り、義務教育費の国庫補助など政友会の政策を実現していった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226}}。また7月16日には[[外交調査会]]が設置され、政党指導者である原と国民党の[[犬養毅]]もメンバーとなった。原は大陸に対する積極関与や[[シベリア出兵]]には反対であったが、独断で英仏に出兵を約束した[[本野一郎]]外相には辞任を求めず、米英仏との関係を維持するよう求めた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226-227}}。

原は議会でも是々非々の対応を取り、義務教育費の国庫補助など政友会の政策を実現していった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226}}。また7月16日には[[外交調査会]]が設置され、政党指導者である原と国民党の[[犬養毅]]もメンバーとなった。原は大陸に対する積極関与や[[シベリア出兵]]には反対であったが、独断で英仏に出兵を約束した[[本野一郎]]外相には辞任を求めず、米英仏との関係を維持するよう求めた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226-227}}。

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==== 教育政策 ====

==== 教育政策 ====

第41議会前に[[大学令]]と[[高等学校令]]を発し、公立・私立大学の設置が認められた。これにより1919年(大正8年)2月には[[慶應義塾大学]]、[[早稲田大学]]、4月には[[明治大学]]、[[法政大学]]、[[中央大学]]、[[日本大学]]、[[國學院大學]]、[[同志社大学]]が専門学校から[[旧制大学]]への昇格が認可された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247}}。また議会では「高等諸学校創設及拡張計画」を発表し、4,450万円の莫大な追加予算を伴って可決された。その計画で[[旧制高等学校|高等学校]]10校、実業専門学校17校([[高等工業学校]]6校、官立[[高等農業学校]]4校、官立[[高等商業学校]]7校)、専門学校2校([[外国語学校 (旧制)|外国語学校]]、[[旧制薬学専門学校|薬学専門学校]])が新設され、5万人の進学の道が開かれた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247}}。また大戦で莫大な利益を得ていた実業界からの拠出も求め、イメージの改善を狙った財閥や企業はこれに応じている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247-248}}。また浪費が多いと非難されていた皇室からの拠出も求めている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=248}}。

第41議会前に[[大学令]]と[[高等学校令]]を発し、公立・私立大学の設置が認められた。これにより[[1919年]](大正8年)2月には[[慶應義塾大学]]、[[早稲田大学]]、4月には[[明治大学]]、[[法政大学]]、[[中央大学]]、[[日本大学]]、[[國學院大學]]、[[同志社大学]]が専門学校から[[旧制大学]]への昇格が認可された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247}}。また議会では「高等諸学校創設及拡張計画」を発表し、4,450万円の莫大な追加予算を伴って可決された。その計画で[[旧制高等学校|高等学校]]10校、実業専門学校17校([[高等工業学校]]6校、官立[[高等農業学校]]4校、官立[[高等商業学校]]7校)、専門学校2校([[外国語学校 (旧制)|外国語学校]]、[[旧制薬学専門学校|薬学専門学校]])が新設され、5万人の進学の道が開かれた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247}}。また大戦で莫大な利益を得ていた実業界からの拠出も求め、イメージの改善を狙った財閥や企業はこれに応じている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247-248}}。また浪費が多いと非難されていた皇室からの拠出も求めている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=248}}。



==== 交通政策 ====

==== 交通政策 ====

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10月19日、養子としていた貢がイギリス留学のために出国、原夫妻はこれを見送った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。原はワシントン会議の成功と裕仁親王の摂政就任までは内閣を継続するつもりであり、各地の党大会に出向いて党内の引き締めにあたっていた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。

10月19日、養子としていた貢がイギリス留学のために出国、原夫妻はこれを見送った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。原はワシントン会議の成功と裕仁親王の摂政就任までは内閣を継続するつもりであり、各地の党大会に出向いて党内の引き締めにあたっていた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。




[[1921]]10114{{sfn||2021|p=294}}7西[[]][[]]{{sfn||2021|p=294}}[[ ()|]][[]]{{sfn||2021|p=294}}[[]]66{{|1856|3|15|1921|11|4}}{{sfn||2021|p=295}}

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原の死を知ったワシントン会議代表団は帰国も検討したが、加藤友三郎が押し留めた。また[[横田千之助]]は「この会議が失敗すれば世界は再び鉄火の洗礼を受ける」という原の言葉を伝えている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=297}}。元老山縣も大きく力を落とし、まもなくこの世を去った。一方強力な指導者であった原を失った政友会はまとまりを欠き、2年後に分裂した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=298}}。

原の死を知ったワシントン会議代表団は帰国も検討したが、加藤友三郎が押し留めた。また[[横田千之助]]は「この会議が失敗すれば世界は再び鉄火の洗礼を受ける」という原の言葉を伝えている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=297}}。元老山縣も大きく力を落とし、まもなくこの世を去った。一方強力な指導者であった原を失った政友会はまとまりを欠き、2年後に分裂した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=298}}。

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* {{Cite book|和書 |title=現行条約論 |date=1892-10 |publisher=阪上汎愛堂 |id={{全国書誌番号|40030941}} |ncid=BN08907892}}

* {{Cite book|和書 |title=現行条約論 |date=1892-10 |publisher=阪上汎愛堂 |id={{全国書誌番号|40030941}} |ncid=BN08907892}}

* {{Cite book|和書 |editor=万国公法会 |others=原敬訳註 |title=陸戦公法 |date=1894-08 |publisher=報行社 |id={{全国書誌番号|40031164}} |ncid=BA35301459}}

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* 『新条約実施準備』本編・補遺、[[大阪毎日新聞社]]、1898–1899年。

* {{Cite book|和書 |title=外交官領事官制度 |date=1899-06 |publisher=[[警醒社]] |id={{全国書誌番号|40030919}} |ncid=BA50474485}}

* {{Cite book|和書 |title=外交官領事官制度 |date=1899-06 |publisher=[[警醒社]] |id={{全国書誌番号|40030919}} |ncid=BA50474485}}

* {{Cite book|和書 |editor=大阪毎日新聞社 |title=でたらめ |date=1899-08 |publisher=東枝律書房 |id={{全国書誌番号|41018444}} |ncid=BB13775843}}

* {{Cite book|和書 |editor=大阪毎日新聞社 |title=でたらめ |date=1899-08 |publisher=東枝律書房 |id={{全国書誌番号|41018444}} |ncid=BB13775843}}

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『[[原敬日記]]』(はらけいにっき)は、明治・大正期の政治動向に関する重要な史料である。

『[[原敬日記]]』(はらけいにっき)は、明治・大正期の政治動向に関する重要な史料である。



『原敬日記』は、一般には明治8年([[1875年]])に帰省した際の日記から、暗殺直前の大正10年([[1921年]])[[10月25日]]までに書かれた日記の総称であるが、原が暗殺を予期し認めた遺書の中で「当分世間に出すべからず」と厳命([[宮中某重大事件]]や[[大正天皇]]の病状問題の記述考慮されると考えられる)した。

『原敬日記』は、一般には[[1875年]](明治8年)に帰省した際の日記から、暗殺直前の[[1921年]](大正10年)[[10月25日]]までに書かれた日記の総称であるが、原が暗殺を予期し認めた遺書の中で「当分世間に出すべからず」と厳命([[宮中某重大事件]]や[[大正天皇]]の病状問題の記述考慮したと考えられる)した。



実際に、初刊は没後30年近くを経た[[1950年]]-51年に乾元社(全9巻)。近年は原が[[大正天皇]]と近かったことから、大正天皇と『原敬日記』の関係についても研究されている。

実際に、初刊は没後30年近くを経た1950-51年に乾元社が刊行(全9巻)。近年は原が[[大正天皇]]と近かったことから、大正天皇と『原敬日記』の関係についても研究されている。

* 『原敬日記』全6巻、[[林茂]]・原奎一郎編、[[福村出版]]、新版2000年

* 『原敬日記』全6巻、[[林茂]]・原奎一郎編、[[福村出版]]、新版2000年

* 『原敬日記』全17巻、岩壁義光・[[広瀬順晧|廣瀬順晧]]編、北泉社、1998年

* 『原敬日記』全17巻、岩壁義光・[[広瀬順晧|廣瀬順晧]]編、北泉社、1998年

* 栗田直樹『原敬日記を読む』[[成文堂]]、2018年解説本

* 栗田直樹『原敬日記を読む』[[成文堂]]、2018年解説本



== 家族・親族 ==

== 家族・親族 ==

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== 栄典 ==

== 栄典 ==

; 位階

; 位階

* [[1890年]](明治23)1228日 - [[従六位]]<ref>『[[官報]]』[[号]]「任及辞令18901228</ref>

* [[1883年]](明治16)1125日 - [[正七位]]<ref>国立公文書館所蔵「従五位原敬務省通商局長ニ任ノ件18931110(添付履歴書)</ref>

* [[1890年]](明治23)12月26日 - [[従六位]]<ref>『[[官報]][[外]]「叙任及辞令」18901228日。</ref>

* [[1891年]](明治24年)12月11日 - [[正六位]]<ref>『官報』第2538号「叙任及辞令」1891年12月14日。</ref>

* [[1891年]](明治24年)12月11日 - [[正六位]]<ref>『官報』第2538号「叙任及辞令」1891年12月14日。</ref>

* [[1892年]](明治25年)9月26日 - [[従五位]]<ref>『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。</ref>

* [[1892年]](明治25年)9月26日 - [[従五位]]<ref>『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。</ref>

* [[1893年]](明治26年)12月16日 - [[正五位]]<ref>『官報』1893年12月18日「叙任及辞令」。</ref>

* [[1895年]](明治28年)6月29日 - [[従四位]]<ref>『官報』1895年7月1日「叙任及辞令」。</ref>

* [[1897年]](明治30年)10月30日 - [[正四位]]<ref>『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。</ref>

* [[1897年]](明治30年)10月30日 - [[正四位]]<ref>『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。</ref>

* [[1907年]](明治40年)10月11日 - [[従三位]]<ref>『官報』第7288号「叙任及辞令」1907年10月12日。</ref>

* [[1907年]](明治40年)10月11日 - [[従三位]]<ref>『官報』第7288号「叙任及辞令」1907年10月12日。</ref>

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* [[1921年]](大正10年)11月4日 - [[正二位]]<ref name="asert">『官報』号外「叙任及辞令」1921年11月4日。</ref>

* [[1921年]](大正10年)11月4日 - [[正二位]]<ref name="asert">『官報』号外「叙任及辞令」1921年11月4日。</ref>



; 勲章

; 勲章

* [[1893年]](明治26)1228日 - 勲五等[[瑞宝章]]<ref>『官報』第3152号「叙任及辞令1893年12月29日。</ref>

* [[1885年]](明治18)730日 - [[勲六等単光旭日章]]<ref>『官報』1885年8月19日賞勲叙任」。</ref>

* [[1893年]](明治26年)12月28日 - [[勲五等瑞宝章]]<ref>『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。</ref>

* [[1895年]](明治28年)6月21日 - [[勲四等瑞宝章]]<ref>『官報』1895年6月22日「叙任及辞令」。</ref>

* [[1896年]](明治29年)6月16日 - [[旭日章|勲三等旭日中綬章]]<ref>『官報』第3889号「叙任及辞令」1896年6月17日。</ref>

* [[1896年]](明治29年)6月16日 - [[旭日章|勲三等旭日中綬章]]<ref>『官報』第3889号「叙任及辞令」1896年6月17日。</ref>

* [[1906年]](明治39年)4月1日 - [[勲二等瑞宝章]]<ref>『官報』1907年9月23日「叙任及辞令」。</ref>

* [[1914年]](大正3年)4月4日 - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第503号「叙任及辞令」1914年4月6日。</ref>

* [[1914年]](大正3年)4月4日 - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第503号「叙任及辞令」1914年4月6日。</ref>

* [[1915年]](大正4年)11月10日 - 大礼[[記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref>

* [[1915年]](大正4年)11月10日 - 大礼[[記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref>

* [[1920年]](大正9年)9月7日 - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。</ref>

* [[1920年]](大正9年)9月7日 - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。</ref>

* [[1921年]](大正10年)

* [[1921年]](大正10年)

** [[7月1日]] - 第一回国勢調査[[記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref>

** 7月1日 - 第一回国勢調査[[記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref>

** [[11月4日]] - [[大勲位菊花大綬章]]<ref name="asert"/>

** 11月4日 - [[大勲位菊花大綬章]]<ref name="asert"/>



; 外国勲章佩用允許

; 外国勲章佩用允許

* [[1888年]](明治21年)7月7日 - [[ベルギー]]王国:レオポール勲章コマンドール<ref>『官報』第1508号「叙任及辞令」1888年7月10日。</ref>

* [[1888年]](明治21年)7月7日 - [[ベルギー|ベルギー王国]][[レオポルド1世 (ベルギ王)|レオポド]]勲章コマンドール<ref>『官報』第1508号「叙任及辞令」1888年7月10日。</ref>

* [[1889年]](明治22年)5月14日 - [[フランス]]共和国:[[レジオンドヌール勲章]]オフィシエ<ref>『官報』第1764号「叙任及辞令」1889年5月20日。</ref>

* [[1889年]](明治22年)5月14日 - [[フランス第三共和政|フランス共和国]]:[[レジオンドヌール勲章]]オフィシエ<ref>『官報』第1764号「叙任及辞令」1889年5月20日。</ref>

* [[1896年]](明治29年)

* [[1896年]](明治29年)

** 3月6日  - [[イタリア王国]]:王冠第一等勲章<ref>『官報』1896年3月7日「叙任及辞令」。</ref>

** 3月17日 - [[ロシア帝国]]:神聖アンナ第一等勲章<ref>『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。</ref>

** 3月17日 - [[ロシア帝国]]:神聖アンナ第一等勲章<ref>『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。</ref>

** 10月26日 - [[スペイン]]王国:イベルラカトリック第一等勲章<ref>『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。</ref>

** 10月26日 - [[スペイン王国]][[ベルカトリカ]]第一等勲章<ref>『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。</ref>

* [[1897年]](明治30年)

* [[1911年]](明治44)[月26日 - [[清|大清帝国]]:頭等第三双竜宝星<ref>『官報』第8490号「叙任及辞令」1911106日。</ref>

** 4月27日 - [[デンマーク王国]]:[[ダンネブロ勲章]]一級コンマンドール<ref>『官報』1897年5月3日「叙任及辞令」。</ref>

** 5月20日 - [[ドイツ帝国]]:王冠第一等勲章<ref>『官報』1897年5月25日「叙任及辞令」。</ref>

* [[1908年]](明治41年)2月26日 - [[大韓帝国]]:李花大勲章<ref>『官報』1908年2月29日「叙任及辞令」。</ref>

* [[1911年]](明治44年)6月26日 - [[清|大清帝国]]:頭等第三双龍宝星<ref>『官報』第8490号「叙任及辞令」1911年10月6日。</ref>

* [[1919年]](大正8年)10月18日 - [[ギリシャ王国]]:救世主第一等勲章<small>([[:en:Order_of_the_Redeemer|英語]])</small><ref>『官報』1919年10月21日「叙任及辞令」。</ref>

* [[1920年]](大正9年)10月20日 - [[ルーマニア王国]]:ルーマニア星第一等勲章<small>([[:fr:Ordre_de_l'Étoile_de_Roumanie|仏語]])</small><ref>『官報』1920年10月25日「叙任及辞令」。</ref>



== 郷里での顕彰 ==

== 郷里での顕彰 ==

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== 関連作品 ==

== 関連作品 ==

;テレビドラマ

;テレビドラマ

* 『[[平民宰相 原敬]]』(1965NHK、演:[[柳永二郎]])

* 『[[平民宰相 原敬]]』1965([[日本放送協会|NHK]]、演:[[柳永二郎]])

* 『[[熱い嵐]]』(1979TBS、演:[[岡田英次]])

* 『[[熱い嵐]]』1979([[TBSテレビ|TBS]]、演:[[岡田英次]])

* 『[[足尾から来た女]]』(2014年1月18日、1月25日・NHK、演:[[國村隼]])

* 『[[足尾から来た女]]』2014年1月18日、1月25日(NHK、演:[[國村隼]])

* 『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』(2015・NHK、演:[[堀内正美]])

* 『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』2015(NHK、演:[[堀内正美]])

* 『[[青天を衝け]]』(2021[[NHK大河ドラマ]]、演:[[石丸謙二郎]])

* 『[[青天を衝け]]』2021[[NHK大河ドラマ]]、演:[[石丸謙二郎]])

;漫画

;漫画

* 『[[昭和天皇物語]]』(2017 - 、[[小学館]]『[[ビッグコミックオリジナル]]』連載)

* [[能條純一]]作画『[[昭和天皇物語]]』2017より([[小学館]]『[[ビッグコミックオリジナル]]』連載)

;小説


* [[平谷美樹]]『[[国萌ゆる 小説 原敬]]』2021年(ISBN 978-4408537955)


== 脚注 ==

== 脚注 ==

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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

* 千葉勝「[https://hdl.handle.net/10129/3302 原敬と華族 : 南部家との関係を中心に]」『弘前大学國史研究』115号 p5.3-71 2003年, 弘前大学國史研究会, {{issn|0287-4318}}

* 千葉勝「[https://hdl.handle.net/10129/3302 原敬と華族 : 南部家との関係を中心に]」『弘前大学國史研究』115号 p5.3-71 2003年, [[弘前大学]]國史研究会, {{issn|0287-4318}}

* {{Cite book|和書|author=楠精一郎|authorlink=楠精一郎|title=列伝・日本近代史 伊達宗城から岸信介まで|publisher=朝日新聞社|series=朝日選書|year=2000|ref={{SfnRef|楠|2000}}}}

* {{Cite book|和書|author=楠精一郎|authorlink=楠精一郎|title=列伝・日本近代史 伊達宗城から岸信介まで|publisher=[[朝日新聞]]社|series=[[朝日選書]]|year=2000|ref={{SfnRef|楠|2000}}}}

* [[伊藤之雄]]『元老 西園寺公望』[[文春新書]]、2007年

* [[伊藤之雄]]『元老 西園寺公望』[[文藝春秋]]〈[[文春新書]]、2007年

* 伊藤之雄『元老―近代日本の真の指導者たち』[[中央公論新社]]〈中公新書〉、2016年

* 伊藤之雄『元老―近代日本の真の指導者たち』[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2016年

* {{Cite book|和書|title=原敬-「平民宰相」の虚像と実像|series=中公新書, 2660|publisher=中央公論新社|date=2021-09-17|isbn=978-4121026606|author=清水唯一朗|authorlink=清水唯一朗|ref=harv}}

* {{Cite book|和書 |title=原敬 -「平民宰相」の虚像と実像 |series=中公新書 |publisher=中央公論新社 |date=2021-09 |isbn=978-4121026606 |author=清水唯一朗 |authorlink=清水唯一朗 |ref=harv}}



=== 関連文献 ===

=== 関連文献 ===


* [[]][[]]1971[[]]2011<br /> [[|]]

* [[原奎一郎]]『ふだん着の原敬』[[毎日新聞社]]、1971年/[[中公文庫]]、2011年

::甥で[[養子縁組|養子]](本名は原貢、原圭一郎とも表記)の回想録、一個人としての原敬の実像を知る最適の文献。原敬とその妻浅子と生活した青少年期の思い出を中心に綴られている。

* 原敬遺徳顕彰会『原敬 歿後五十年 その生涯』 [[毎日新聞]]社、1970年

* 原敬遺徳顕彰会『原敬 歿後五十年 その生涯』[[毎日新聞]]社、1970年

* 『原敬』(上・下)、原奎一郎編著、盛岡大慈会・原敬遺徳顕彰会、1998-99年新編抄版・1巻、2002年

* 原奎一郎編著『原敬』(上・下)、盛岡大慈会・原敬遺徳顕彰会、1998-99年新編抄版・1巻、2002年

* 原敬文書研究会編『原敬関係文書』(全10巻・別巻1)、日本放送出版協会 1984-89年

* 原敬文書研究会編『原敬関係文書』(全10巻・別巻1)、[[NHK出版|日本放送出版協会]]、1984-89年

* [[前田蓮山]]『日本宰相列伝7 原敬』 [[時事通信社]]、新版1985年。元版1958年

* [[前田蓮山]]『日本宰相列伝7 原敬』 [[時事通信社]]、新版1985年。元版1958年

* [[テツオ・ナジタ]]『原敬 政治技術の巨匠』安田志郎訳、[[読売新聞]]社〈読売選書〉、1974年

* [[テツオ・ナジタ]]『原敬 政治技術の巨匠』安田志郎訳、[[読売新聞]]社〈読売選書〉、1974年

* 原奎一郎山本四郎編『原敬をめぐる人びと』[[NHK出版|日本放送出版協会]]〈[[NHKブックス]]〉、1981年

* 原奎一郎山本四郎編『原敬をめぐる人びと』日本放送出版協会〈[[NHKブックス]]〉、1981年

* 原奎一郎山本四郎編『続 原敬をめぐる人びと』NHKブックス、1982年

* 原奎一郎山本四郎編『続 原敬をめぐる人びと』日本放送出版協会〈NHKブックス、1982年

* [[高橋文彦]]『原敬 颯爽と清廉に』(上・下) 、[[原書房]]、1992年

* [[高橋文彦]]『原敬 颯爽と清廉に』(上・下) 、[[原書房]]、1992年

* [[山本四郎]]『評伝 原敬(上・下)、[[東京創元社]]、1997年

* [[山本四郎]]『評伝 原敬(上・下)、[[東京創元社]]、1997年

* [[川田稔]]『原敬と[[山縣有朋|山県有朋]] 国家構想をめぐる外交と内政』[[中公新書]]、1998年

* [[川田稔]]『原敬と[[山縣有朋|山県有朋]] 国家構想をめぐる外交と内政』中公新書、1998年

* [[玉井清]]『原敬と[[立憲政友会]]』[[慶應義塾大学出版会]]、1999年

* [[玉井清]]『原敬と[[立憲政友会]]』[[慶應義塾大学出版会]]、1999年

* [[松本健一]]『原敬の大正』[[毎日新聞]]社、2013年

* [[松本健一]]『原敬の大正』毎日新聞社、2013年

* [[福田和也]]『大宰相 原敬』[[PHP研究所]]、2013年

* [[福田和也]]『大宰相 原敬』[[PHP研究所]]、2013年

* 伊藤之雄『原敬 外交と政治の理想』(上・下)、[[講談社]]選書メチエ、2014年

* 伊藤之雄『原敬 外交と政治の理想』(上・下)、[[講談社選書メチエ]]、2014年

* 伊藤之雄『真実の原敬 維新を超えた宰相』[[講談社現代新書]]、2020年8月

* 伊藤之雄『真実の原敬 維新を超えた宰相』[[講談社現代新書]]、2020年8月



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[[Category:三叉学舎の塾生]]

[[Category:三叉学舎の塾生]]

[[Category:日本のカトリック教会の信者]]

[[Category:日本のカトリック教会の信者]]

[[Category:幕末盛岡藩の人物]]

[[Category:岩手県出身の人物]]

[[Category:正二位受位者]]

[[Category:正二位受位者]]

[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]]

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[[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]]

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[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]

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[[Category:勲三等旭日中綬章受章者]]

[[Category:レジオンドヌール勲章オフィシエ受章者]]

[[Category:レジオンドヌール勲章オフィシエ受章者]]

[[Category:イタリア王冠勲章受章者]]

[[Category:聖アンナ勲章受章者]]

[[Category:聖アンナ勲章受章者]]

[[Category:幕末盛岡藩の人物]]

[[Category:ダンネブロ勲章受章者]]

[[Category:岩手県出身の人物]]

[[Category:大勲位李花大綬章受章者]]

[[Category:1856年生]]

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[[Category:1921年没]]

[[Category:1921年没]]


2024年6月5日 (水) 21:41時点における最新版

日本の旗 日本政治家

原 敬

はら たかし

正装に当たる大礼服を着用した原

生年月日 1856年3月15日
安政3年2月9日
出生地 日本の旗 日本陸奥国岩手郡本宮村
(現:岩手県盛岡市
没年月日 (1921-11-04) 1921年11月4日(65歳没)
死没地 日本の旗 日本東京府東京市麹町区
(現:東京都千代田区
出身校 司法省法学校中途退学
前職 大阪毎日新聞社長
所属政党立憲帝政党→)
立憲政友会
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
配偶者 原貞子(先妻)
原浅(後妻)
親族 中井弘岳父)
原貢(養子)
サイン

日本の旗 第19代 内閣総理大臣

内閣 原内閣
在任期間 1918年9月29日 - 1921年11月4日
天皇 大正天皇

日本の旗 第22代 司法大臣(総理兼任)

内閣 原内閣
在任期間 1918年9月29日 - 1920年5月15日

日本の旗 第21・23・25代 内務大臣

内閣 第1次西園寺内閣
第2次西園寺内閣
第1次山本内閣
在任期間 1906年1月7日 - 1908年7月14日
1911年8月30日 - 1912年12月21日
1913年2月20日 - 1914年4月16日

日本の旗 第11・16代 逓信大臣

内閣 第4次伊藤内閣
第1次西園寺内閣
在任期間 1900年12月22日 - 1901年6月2日
1908年1月14日 - 1908年3月25日

日本の旗 衆議院議員

在任期間 1902年 - 1921年11月4日
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第1次西園寺内閣[編集]


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第2次西園寺内閣[編集]


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大正政変と山本権兵衛内閣[編集]


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大隈内閣との対決[編集]


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寺内内閣[編集]


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内閣初期の政策[編集]

1920年の原
原首相と閣僚。左から加藤友三郎海軍大臣、原、床次竹二郎内務大臣、内田康哉外務大臣

GNP191419182.51.66[133]50[134]1227414貿[135][136]使使[137][138]

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野党との対決[編集]


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暗殺[編集]

事件直後の原遭難現場
墓所 (岩手県盛岡市にある大慈寺境内)

1019[174][174]

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姿[]


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20043 NCID BB14519882:22117146 

19005 NCID BN14664853:40077165 

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1907401011 - [208]

19143130 - [209]

192110114 - [210]



188518730 - [211]

1893261228 - [212]

189528621 - [213]

189629616 - [214]

19063941 - [215]

1914344 - [216]

191541110 - [217]

1920997 - [218]

192110
71 - 調[219]

114 - [210]



18882177 - [220]

188922514 - [221]

189629
36  - [222]

317 - [223]

1026 - [224]

189730
427 - [225]

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190841226 - [227]

191144626 - [228]

191981018 - [229]

192091020 - [230]

[]


使[11]

[231]

関連作品[編集]

テレビドラマ
漫画
小説

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 7

(二)^ [11]

(三)^ [190]

(四)^ 

出典[編集]



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(二)^  

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(205)^ 18931218

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(207)^ 43021897111

(208)^ 728819071012

(209)^ 4511914131

(210)^ ab1921114

(211)^ 1885819

(212)^ 315218931229

(213)^ 1895622

(214)^ 38891896617

(215)^ 1907923

(216)^ 503191446

(217)^ 131019161213

(218)^ 2431192098

(219)^ 28581922214

(220)^ 15081888710

(221)^ 17641889520

(222)^ 189637

(223)^ 38151896321

(224)^ 40051896112

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 歿 1970

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1011984-89

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︿NHK1981

 ︿NHK1982

 () 1992

 1997

 1998

1999

2013

 PHP2013

 2014

 20208

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外部リンク[編集]

公職
先代
寺内正毅
日本の旗 内閣総理大臣
第19代:1918年 - 1921年
次代
高橋是清
先代
松室致
日本の旗 司法大臣
第22代:1918年 - 1920年(兼任)
次代
大木遠吉
先代
清浦奎吾
平田東助
大浦兼武
日本の旗 内務大臣
第25代:1906年 - 1908年
第27代:1911年 - 1912年
第29代:1913年 - 1914年
次代
平田東助
大浦兼武
大隈重信
先代
星亨
山縣伊三郎
日本の旗 逓信大臣
第11代:1900年 - 1901年
第16代:1908年
次代
芳川顕正
堀田正養
党職
先代
西園寺公望
立憲政友会総裁
第3代:1914年 - 1921年
次代
高橋是清
官職
先代
安藤太郎
日本の旗 外務省通商局長
第5代:1892年 - 1895年
次代
藤井三郎