広島市への原子爆弾投下
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原爆投下側の視点[編集]
この節以下ではアメリカ︵合衆国︶やその同盟国であったイギリスの行動に視点を置く。広島への原爆投下に至る国際的軍事背景[編集]
詳細および日本の対応などは﹁日本への原子爆弾投下﹂を参照。 ●1939年 ●8月2日 - ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れアメリカ合衆国︵以下アメリカ略︶へ亡命したユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタインがフランクリン・ルーズベルト大統領に﹁大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい﹂と進言する内容の手紙︵アインシュタイン=シラードの手紙︶を執筆した。 ●9月1日 - ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した事をきっかけに第二次世界大戦が勃発。 ●10月11日 - 前述のアインシュタインの手紙がルーズベルトの元に届けられる。 ●10月21日 - アメリカがウラン諮問委員会を設置。 ●1940年4月10日 - イギリスが第1回ウラン爆発軍事応用委員会︵MAUD委員会︶の会議を開催。 ●1941年 ●7月15日 - MAUD委員会がウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。 ●10月3日 - MAUD委員会最終報告書が公式にルーズベルト大統領に届けられる。 ●12月8日 - 日本が第二次世界大戦に参戦︵真珠湾攻撃︶。 ●1942年 ●9月26日 - アメリカの軍需生産委員会がマンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づける。 ●10月11日 - アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。 ●1944年9月 - ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相の間でハイドパーク覚書︵ケベック協定︶が交わされ、日本に対して原爆を使用することが決定された。その後1945年4月には第1回目標選定委員会が開催され、原爆投下目標の選定が始まった[6]。 ●1945年7月26日 - 日本への最後通告としてポツダム宣言を発表した。原爆投下命令[編集]
1945年7月25日、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスが投下指令書を作成し、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令に発せられると同時に、グローブスによれば大統領の正式の承認を得るため、ポツダムに送られたという[7]。レスリー・グローブスが起草した原爆投下指令書
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グアム島[編集]
8月2日、グアム島の第20航空軍司令部からテニアン島の第509混成群団に、次のような野戦命令13号が発令された[8]。[9]野戦命令13号
1. b. (2) (a) ここに挙げた以外の味方機は、攻撃時刻の4時間前から6時間後までの間は、この攻撃のために選ばれたどの目標に対しても、50マイル以内に入ってはならない。 2. 第20航空軍は、8月6日に、日本の目標を攻撃する。 3. c. 第313航空団、第509群団‥ (1) 第1目標‥ 広島市街地工業地域。 (a) 照準点‥ 063096。 参照‥XXI爆撃機集団リト・モザイク 広島地域、No.90.30-市街地。 (b) 攻撃始点‥ 北緯34°24′-東経133°05′30″。 ︹広島県三原︺ (c) 離脱点︵目標を攻撃した場合︶‥ 少なくとも150度の右旋回をして、北緯34°00′-東経133°34′。 ︹愛媛県川之江-伊予三島︺ (2) 第2目標‥ 小倉造兵廠および小倉市。 (3) 第3目標‥ 長崎市街地域。 (4) 必要兵力‥ (a) 攻撃兵力‥3機。 (b) 予備機‥1機、失敗の場合に備えて硫黄島に進出させておく。 (c) 気象観測機‥3機、それぞれの目標に1機を派遣する。 (6) 航路‥ 基地 硫黄島 北緯33°37′-東経134°30′︵発進開始点︶ ︹徳島県牟岐沖合の大島︺ 北緯34°15′30″-東経133°33′30″ ︹香川県三崎半島の突端︺ 攻撃始点 目標 離脱点 硫黄島 基地。 (10) 搭載爆弾量と特殊装備‥ 第509群団指揮官により指定された通りとする。 (11) 目視攻撃だけを行うこと。 4. この作戦に対しては、作戦任務番号は付けない。記録の目的には、特殊爆撃任務13番とする。
テニアン島[編集]
作戦命令35号
作戦日: 1945年8月6日
状況説明: 以下を参照せよ
離陸: 気象観測機は0200(頃) / 攻撃機は0300(頃) 〔時刻はすべてマリアナ標準時〕
起床時刻: 気象班は2230 / 攻撃班は2330
食事時刻: 2315から0115
必要携帯食: 気象班は2330に39食 / 攻撃班は0030に52食
トラック: 気象班は0015に3台 / 攻撃班は0115に4台機体番号 ヴィクターナンバー 機長 補助乗員 同乗者
気象任務
298 83 テイラー
303 71 ウィルソン
301 85 エザリー
302 72 予備機
攻撃班
292 82 ティベッツ 指令により
353 89 スウィーニー
291 91 マクォート
354 90 マックナイト
304 88 マクォートのための予備機燃料: 82号機-7000ガロン / その他の全機-7400ガロン
弾薬: 全機が各機1000発
爆弾: 特殊 〔原爆 L11(リトルボーイ)〕
カメラ: 82号機と90号機にはK18、その他の装置は口頭指示による
宗教上の式: カトリックは2200に / プロテスタントは2230に状況説明:
気象観測機 一般状況説明は2300に搭乗員休憩室で
任務別状況説明は2330に以下の通り
機長と操縦士は搭乗員休憩室で / 航法士とレーダー係は図書室で / 無線通信士は通信室で / 航空機関士は作戦室で
2330に食事
0015にトラック攻撃任務
一般状況説明は2400に搭乗員休憩室で
任務別状況説明は0030に以下の通り
機長と操縦士は搭乗員休憩室で / 航法士とレーダー係は図書室で / 無線通信士は通信室で / 航空機関士は作戦室で
0030に食事
0115にトラック
注:マックナイト中尉のクルーは一般状況説明(ブリーフィング)にでなくてよい。
ジェイムス I. ホプキンス, ジュニア (サイン)
陸軍航空隊 少佐、
作戦担当官
(〔〕内は訳注)
四国上空[編集]
6時30分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ海軍大佐、兵器担当補佐モリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らが爆弾倉に入り、リトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。 作業を終えたパーソンズはティベッツ機長に﹁兵器のアクティブ化完了﹂と報告し、機長は﹁了解﹂と答えた。機長は機内放送で﹁諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ﹂と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。 この直後、エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点︵ブリップ︶を発見した。通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度2,000メートル前後の低空飛行から急上昇し、7時30分に8,700メートルまで高度を上げた。広島上空[編集]
帰投[編集]
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原爆被爆側の視点[編集]
︵この節以下では被爆地の状況に視点を置く︶広島市の略史と被爆直前の状況[編集]
中島地区[編集]
現在の広島の地図から名前が消えた中島地区︵中島本町、材木町、天神町、元柳町、木挽町、中島新町︶は、数千人の一般庶民が暮らす街であり、また広島の第一の歓楽街・繁華街であった。この地区は爆心地から500メートル以内にあり壊滅。唯一、RC建築の燃料会館︵旧大正屋呉服店︶だけが耐え残った。 戦後、この地区は広島平和記念公園として整備され、燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園のレストハウスとなり現在も残っている。8月6日の朝[編集]
8月6日月曜日、当時は週末の休みはなく、朝8時が勤務開始時刻であった。徴用工や女子挺身隊を含む大半の労働者、および勤労動員された中学上級生︵1万数千人︶たちは、三菱重工や東洋工業を始めとする数十の軍需工場で作業を行っていた。中学下級生︵数千人︶および一般市民の勤労奉仕隊︵母親たち︶や、病気などの理由により徴兵されなかった男子らは、建物疎開によって発生した瓦礫の処理を行っていた。動員は市内のほか、近隣の農村からも行われた。 尋常小学校の上級生は1945年4月に行われた集団疎開で市を離れていた者が多かったが、下級生は市内に留まっていた。児童は各地区の寺子屋学校での修学となっていた。また、未就学児は自宅に留まっていた。 8月3日から4日にかけて雨が降ったが、5日以降は高気圧に覆われて天候は回復していた。 8月5日は深夜に2回空襲警報が発令され、その度に市民は防空壕に避難したため、寝不足の者も多かった。この日、市街中心部では米の配給が行われ、市民は久しぶりとなる米飯の食卓を囲んだ。 8月6日の朝の気温は26.7℃、湿度80%、気圧1,018ヘクトパスカルであった。北北東の風約1m/秒が吹き、雲量8 - 9であったが、薄雲であり視界は良好だった。7時9分に発令された空襲警報によって市民は防空壕に避難していたものの、7時31分には警報が解除されたため、市民は外に出て活動を再開していた。原爆投下直後[編集]
原爆が炸裂した広島市街は、熱線や爆風などによって壊滅した。この状況について、NHK広島放送局では1998年に日米の科学者などの協力のもと、核分裂爆発直後の放射線の発生、火球の成長、衝撃波や熱線の照射などの状況を再現した番組を制作した。検証に際し、アメリカからはマンハッタン計画に携わったロバート・クリスティ博士[20]や1950年代から核爆発シミュレーションに従事していたハロルド・ブロード博士[21]が参加したほか、被爆者からの新たな聞き取り調査も行われた。爆心地周辺[編集]
全壊全焼圏内[編集]
爆心地1キロメートル地点から見た爆心点は上空31度、2キロメートル地点で17度の角度となる。したがって野外にあっても運良く塀や建物などの遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃は避けられたが、そうでない大多数の者は、熱線を受け重度の火傷を負った。野外で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生・女学生らは隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。勤労奉仕に来ていた生徒が全員死亡した学校もあった。屋内にいた者は熱線こそ免れたものの、爆風で吹き飛んだ大量のガラス片を浴びて重傷を負い、あるいは爆心地付近同様に倒壊家屋に閉じ込められたまま焼死した。被爆救護活動[編集]
広島市の行政機関︵市役所・県庁他︶は爆心から1,500メートル以内であり、家屋は全壊全焼、当時の広島市長だった粟屋仙吉、中国地方総監の大塚惟精は共に被爆死し、職員も多くが死傷、組織的な能力を失った。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も機能を喪失した。 市内の爆心地から4キロメートルにあった宇品港の陸軍船舶司令部隊は被害が軽かったため、この部隊︵通称﹁暁部隊﹂︶が救護活動の中心となった[32]。当日8時50分には最初の命令︵消火・救難・護送など︶が発せられている。 陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。また原爆の被災者は広島湾の似島に所在した似島検疫所に多く送られている。この船舶練習部以外にも市内各所に計11か所の救護所が開設された。船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は53か所まで増加した。 救護所の中でも爆心地から500メートルの近さに在って尚RC構造の外郭を保ち倒壊を免れた広島市立袋町小学校西校舎は、1階に広島県内外からの医療団詰所と救護所、2階には広島県庁の厚生部が臨時に置かれ、3階は赤十字国際委員会駐日首席代表マルセル・ジュノー博士の尽力によりもたらされた15トンの医薬品と医療機材の保管場所となり翌年の小学校再開迄の間、被爆まもない広島の医療行政の拠点となった。原爆による死亡者[編集]
爆心地から500メートル以内での被爆者は、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを超え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していった。 11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年︵昭和20年︶の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人から12万人と推定されている。 1970年に広島大学放射能医学研究所がまとめた調査結果では、爆心地から半径500m以内で生き残った者は10人としている[33]。 2019年11月27日に広島市が発表した調査結果によると1945年年末までの犠牲者で氏名が確認されたのは8万9025人で、これを翌28日に報じた﹃中国新聞﹄では一家全滅や朝鮮人等の外国人が確認できないためではないかと推察している。 原爆が投下された際に広島市内にはアメリカ軍の捕虜十数名が収容されていたが、全員が被爆死している。このアメリカ軍捕虜は7月28日に呉軍港空襲を行って戦艦﹁榛名﹂に撃墜されたアメリカ陸軍航空隊のコンソリデーテッド・エアクラフトB-24爆撃機数機︵タロア号、ロンサムレディ号、その他︶の乗組員である。彼らは憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後の被爆であった︵﹁広島原爆で被爆したアメリカ人﹂参照︶。被爆者を使った人体実験[編集]
東京帝国大学が、広島と長崎の原爆による被爆者を使って、戦後2年以上に亘り日本国憲法施行後も、あらゆる人体実験を実施したことを、NHKが2010年8月6日放送の﹃NHKスペシャル 封印された原爆報告書﹄にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り[34]。 字幕‥昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。 ナレーター‥広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はそのすべてを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。 字幕‥東京大学 ナレーター‥日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師は、どのような思いで被曝者と向き合ったのか。山村秀夫さん90歳、都築教授が率いる東京帝国大学調査団の一員でした。当時、医学部を卒業して2年目の医師だった山村さん。調査はすべてアメリカのためであり、被曝者のために行っている意識は無かったと言います。 山村さん‥もういっさいだって、結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談するということもできませんですから。とにかく自分たちで調べたら全部向うに出すと。 ナレーター‥山村さんが命じられたのは、被曝者を使ったある実験でした。報告書番号23、山村さんの論文です。被曝者にアドレナリンと言う血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。12人の内6人は、わずかな反応しか示さなかった。山村さんたちは、こうした治療とは関係のない検査を毎日行っていました。調べられることはすべて行うのが、調査の方針だったと言います。 山村さん‥生きてる人は生前にどういう変化を起こしているかということを、少しでも何かの手掛かりは見つけて、調べるということだけでしたから、それ以外何にもないですね。あんまり他のことも考えれなかったですね。とにかくそれだけやると。 NHKインタビューアー‥今となってみたらどうお感じになりますか?そのことは。 山村さん‥︵苦笑︶、今となってみたらねぇ。そうですねえ、まあもっと他にいい方法があったのかも知れませんけど、だけど今と全然違いますからねぇ、その時の社会的な状況がね。原爆に対する日米政府の反応と原爆報道[編集]
︵この節以下では被爆地の状況に視点を置く︶第一報8月6日[編集]
広島中央放送局 原放送所[編集]
大本営発表[編集]
6日8時30分頃、呉鎮守府が大本営海軍部に広島が空襲を受けて壊滅した旨を報告した。続いて10時頃には第2総軍が船舶司令部を通じて大本営陸軍部に報告した。加えて、昼過ぎには同盟通信からも特殊爆弾により広島が全滅したとの報を受けた大本営は、政府首脳にも情報を伝え、午後早くには﹁広島に原子爆弾が投下された可能性がある﹂との結論が出された。夕刻には蓮沼蕃侍従武官長が昭和天皇に﹁広島市が全滅﹂と上奏した。大本営は翌7日15時30分に報道発表を出した。 大本営発表︵昭和二十年八月七日十五時三十分︶ 一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり 二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり 8月7日、防衛本部は、各警察署へ﹁八月六日午前八時二十分ごろ、特殊爆弾により広島市は殆んど全滅または全焼し、死傷者九万人に及ぶものと推定せられる﹂と通報した。またこの日、高野源進広島県知事(原爆投下を知り、出張先の福山から戻ってきていた︶は次のように告諭している[38][信頼性要検証]。 ﹁今次ノ災害ハ惨悪極マル空襲ニヨリ吾国民戦意ノ破砕ヲ図ラントスル敵ノ謀略ニ基クモノナリ、広島県民諸君ヨ、被害ハ大ナリト雖モ之戦争ノ常ナリ、断ジテ怯ムコトナク救護復旧ノ措置ハ既ニ着々ト講ゼラレツツアリ、軍モ亦絶大ノ援助ヲ提供セラレツツアリ、速ニ各職場ニ復帰セヨ、戦争ハ一日モ休止スルコトナシ﹂米国政府の声明 8月7日[編集]
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ラジオによる報道[編集]
8月6日、大阪中央放送局が日本時間21時からの報道の最初に、B29が広島市に侵入し、焼夷弾と爆弾によって攻撃、損害は目下調査中という内容を放送し、アメリカの連邦通信委員会(FCC)内の外国放送諜報局︵FBIS︶ポートランド受信所で受信された[注 13][42]。また、報道の後半のローカルニュースで、下り大阪からの列車は山陽線の三原駅で折り返し、三原から海田市駅までは呉経由などの情報が放送された[43]。新聞による報道[編集]
原爆が投下された8月6日には大本営発表がなされなかったため、新聞各紙の扱いは小さかった。しかし、同じ8月7日付﹃朝日新聞﹄であっても、大阪版は東京版よりも記事が詳細で、﹁きのふの来襲図﹂には原爆搭載機の飛行ルートが記されている[44][45]。 ﹃朝日新聞﹄東京版︵昭和20年8月7日付︶ 広島を焼爆 六日七時五十分頃B29二機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもつて同市附近を攻撃、このため同市附近に若干の被害を蒙つた模様である︵大阪︶ ﹃朝日新聞﹄大阪版︵昭和20年8月7日付︶ 天候回復、敵襲にそなへよ / 西宮、広島暴爆 / 今治、前橋等にも来襲 ︵広島︶六日七時五十分ごろB29二機は四国東南端より北進、香川県西部を経て広島市に侵入、焼夷弾、爆弾をもつて同市附近を攻撃の後反転、八時三十分ごろ同一経路を土佐湾南方に脱去した、このため広島市附近に若干の損害を蒙つた模様である、敵米はわが中小都市、重要工場などの爆撃は夜間を選び、専ら自軍の損害をさける隠密行動をとつていたが昼間、偵察をこととしていた敵がわが方が油断したと思つたか、白昼僅か二機を持つて爆弾、焼夷弾を混投したことは今後十分警戒を要する 8月7日の大本営発表を受け、8月8日には各紙とも広島が﹁新型爆弾﹂で攻撃されたことを1面トップで報じた[46]。米軍機によるリーフレット撒布[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Agnew_Leaflet.jpg/250px-Agnew_Leaflet.jpg)
調査8月6日 - 10日[編集]
残留放射線調査[編集]
これとは別に、理化学研究所、京都帝国大学、大阪帝国大学、東京帝国大学、九州帝国大学などのグループも調査を行った[49][50][51]。日本政府の抗議声明[編集]
日本政府は8月10日、スイス政府を通して下記のような抗議文を、アメリカ合衆国連邦政府に提出した[52][53]。 本月六日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり広島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非らず、 本件爆撃に関する声明において米国大統領﹁トルーマン﹂はわれらは船渠工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知してをるところなり、 また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり、 抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三條︵ホ︶号に明定せらるるところなり、 米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の与論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、 米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、 而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す原爆被害報道の本格化[編集]
広島赤十字病院地下室のレントゲンフィルムが全て感光していることを知り、6日に広島を襲った新型爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は、緘口令を諦めて報道統制を解除。11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、原爆のことを読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。科学雑誌などで近未来の架空兵器と紹介されていた原爆が開発され、日本が戦略核攻撃を受けたことを国民はここに初めて知った[注 15]。 この原爆報道により、新潟県は8月11日に新潟市民に対して﹁原爆疎開﹂命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出した。これは新潟も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を﹁原爆搭載機﹂、稲光を﹁原爆の閃光﹂と誤認する一幕もあった。広島原爆の破壊力と被害[編集]
この節では広島に落とされた原爆の破壊力に関する科学的な記述をする。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fa/Hiroshima_-_Extend_Of_Fire_%26_Limits_Of_Blast_Damage.jpg/250px-Hiroshima_-_Extend_Of_Fire_%26_Limits_Of_Blast_Damage.jpg)
広島原爆の破壊力[編集]
爆風[編集]
爆発の瞬間における爆発点の気圧は数十万気圧に達し、これが爆風を発生させた。 爆心地における爆風速は440メートル毎秒以上と推定されている。これは音速349メートル毎秒[注 16]を超える爆風であり、前面に衝撃波を伴いながら爆心地の一般家屋のほとんどを破壊した。 比較するとこの風速は、強い台風の中心風速の10倍である。そして、爆風のエネルギーは風速の3乗に比例する[注 17]。すなわち、原爆の爆風はエネルギー比では台風の暴風エネルギーの1,000倍であった。 また、爆心地における爆風圧は350万パスカルに達した︵1平方メートルあたりの荷重が35トンとなる︶。半径1キロメートル圏でも100万パスカルである。丈夫な鉄筋コンクリート建築以外の建造物は、爆風圧に耐え切れずに全壊した。半径2キロメートル圏で30万パスカルとなり、この圏内の木造家屋は全壊した︵漫画﹃はだしのゲン﹄のアニメ版ではその様子が描かれており、広島城の天守閣が衝撃波によって爆風の引き起こしたあまりの荷重に耐えられずに崩壊するほか、爆風でレンガ造りの建物の一部が吹き飛ぶなどの様子が映像化されている︶。熱線[編集]
核分裂で出現した火球の表面温度は数万度に達した。中心の温度は約1,000キロケルビン︵≒1,000,000℃︶であった。 火球から放出された熱線エネルギーは22兆ジュール︵5.3兆カロリー︶である。熱線は赤外線として、爆発後約3秒間に一挙に放出された。地表に作用した熱線のエネルギー量は距離の2乗に反比例する。地表で受けたエネルギーは、爆心地では平方センチメートルあたり100カロリー、500メートル圏で56カロリー、1キロメートル圏で23カロリーであった。 比較すると、爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当する。 このような極めて大量の熱量が短期間に照射される特徴から、熱が拡散されず、照射を受けた表面は直ちに高温となった。爆心地付近の地表温度は3,000 - 6,000℃に達し、屋根瓦は表面が溶けて泡立ち、また表面が高温となった木造家屋は自然発火した。放射線[編集]
核分裂反応により大量のアルファ線、ベータ線、ガンマ線、中性子線が生成され、地表には透過力の強いガンマ線と中性子線が到達した。地表では中性子線により物質が放射化され、誘導放射能を有する物質が生成された。 爆心地の地表に到達した放射線は、1平方センチメートルあたり高速中性子が1兆2千億個、熱中性子が9兆個と推定されている。広島電機大学︵1999年当時︶の葉佐井博巳教授は、爆心地にいて放射線をあびた人々は、爆風や熱線や閃光に晒されなかったとしてもおそらく全員が亡くなっていたであろうと推定している[54]。黒い雨・二次被爆[編集]
原爆の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲︵原子雲︶が生じた。これは爆発による高熱で発生した上昇気流によって巻き上げられた地上の粉塵が上空で拡散したため、特徴的なキノコ形になったものとされる。キノコ雲の到達高度は従来約8,000メートルだとされてきたが、米軍機が撮影した写真を基に測定したところ、実に2倍の約16,000メートルに達していたことが判明した[55]。 低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能を有する物質をもたらした。熱気は上空で冷やされ雨となった。この雨は大量の粉塵・煙を含んでおり、粘り気のある真っ黒な大粒の雨で、﹁黒い雨﹂と呼ばれる。放射性降下物を含む黒い雨は浴びた人間を被曝させ、土壌や建築物および河川などが放射性物質で汚染された。 当日、広島市上空には南東の風が吹いていたため、キノコ雲は徐々に北北西へ移動し、やがて崩壊し、日本海方面へ流れていった。このため市北西部の南北19キロメートル×東西11キロメートルの楕円形の領域において黒い雨が1時間以上強く降り、この雨に直接当たる、あるいはこの雨に当たったものに触れた者は被曝した。戦後の調査研究で、黒い雨の他、広範囲に放射性の黒い灰状の粉塵が6日15時頃まで降り、郊外にまで広範に放射性物質による汚染をもたらしていたことが判明している。 黒い雨が降ったエリアについて、被曝者や広島県、広島市は、現在の広島市域外にも及んでいたと主張。日本政府に対してより広範囲の認定を求め、訴訟も提起されている。厚生労働省も再検討に着手している[56]。 なお、放射性核分裂生成物、核爆発時に生じた大量の中性子線による誘導放射能を有する物質が発する放射線などにより被曝した者を﹁二次被爆者﹂という。上述の、広島市郊外で降った黒い雨による放射線被曝者も二次被爆者になる。 原爆投下後、被爆者の救援活動などのため、広島市外より広島市に入市し、誘導放射能を有する物質が発する放射線などにより被曝した者を﹁入市被ばく者﹂という。規定では、原爆投下後2週間以内に爆心より約2キロ以内の区域に立ち入った者が入市被ばく者とされている。原爆投下当日、爆心地へ入り数時間滞在した者は約0.2シーベルト、翌日に入った者は約0.1シーベルトの被曝をした。 その他、被災地域より避難してきた被爆者の放射性物質による汚染された衣類や頭髪に触れて被曝した者も多くいた。当時は放射性物質や放射線の性質、その危険性を知る者が、物理学者やごく一部の軍関係者、医療関係者程度であったことが影響した。人体への影響[編集]
︵この節以下では広島に落とされた原爆の人的被害に関する科学的な記述をする︶短期的影響 [編集]
外傷[編集]
原爆の爆風により破壊された建物のガラスや建材などが散弾状となり全身に突き刺さって重傷を負う者が多数出た。戦後何十年も経過した後に体内からこのときのガラス片が見つかるといった例もあった。爆風により人間自体が吹き飛ばされて構造物などに叩きつけられ全身的な打撲傷を負ったり、急激な気圧の変化や体への強い衝撃により眼球や内臓が体外に飛び出すといった状態を呈した者もいた。さらに熱線を浴びた体に爆風を受けたことで、火傷の部位を引き剥がされ致命的な傷につながった。 このような全身的な被害を受けた者は大半が死亡した。放射能症[編集]
爆心地における放射線量は、103シーベルト︵ガンマ線︶、141シーベルト︵中性子線︶、また爆心地500メートル地点では、28シーベルト︵ガンマ線︶、31.5シーベルト︵中性子線︶と推定されている。また、爆心地から1.25~1.5kmの距離で発見された被爆者の顎の骨からは推定で9.46シーベルトの放射線が検出されている[58]。すなわち、この圏内の被爆者は致死量の放射線を浴びており、即死︵即日死︶ないしは1カ月以内に大半が死亡した。建物疎開のために広島市とその近郊の中学校39校から集まっていた中学1年生の学徒約8,000人は、屋外にいたため原爆の熱線や爆風、放射線が直撃し、当日中に約3,200人が死亡、その後も1ヶ月以内に約6,000人が死亡した[59]。また爆心地5キロメートル以内で放射線を浴びた被爆者は急性放射線症を発症した。長期的影響[編集]
肉体的影響[編集]
熱傷・ケロイド[編集]
爆心地から2キロメートル以内で被爆した者は高度から中度の熱傷が生じたが、2キロメートル以遠で被爆した者は軽度の熱傷にとどまり、治癒に要した期間も短かった。しかし、3 - 4カ月経過後、熱傷を受けて一旦平癒した部分に異変が生じ始めた。熱傷部の組織の自己修復が過剰に起こり、不規則に皮膚面が隆起してケロイドを生じた。放射線症[編集]
大量の放射線を浴びた被爆者は、高確率で白血病を発症した。被爆者の発症のピークは1951年、1952年であり、その後は徐々に下がっている。広島の被爆者では慢性骨髄性白血病が多く、白血病発症率は被曝線量にほぼ比例している。また若年被爆者ほど発症時期が早かった。発症すると、白血球が異常に増加し、逆に赤血球などの他の血液細胞が減少して障害を招く。さらに白血球の機能も失っていく。 1950年代、白血病は治療法のない代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。﹃原爆の子の像﹄のモデルとなった佐々木禎子は、12歳で白血病のために亡くなっている。 以降は悪性腫瘍︵癌︶の発症が増加した。転移ではなく、繰り返して多臓器に癌を発症する例がしばしば見られる。これら被爆者の遺伝子には異常が見られることが多い。放射線などにより回復不能にまで損傷を受けたDNAは、翻訳を介して癌の発病を招くこともある。被爆当時、第二次性徴中の女学生だった女性を中心に、乳癌の発症率が高いというデータがある[59]。精神的影響[編集]
心的外傷後ストレス障害など[編集]
原爆の手記を分析した結果によると、被爆者の3人に1人が罪の意識︵自分だけが助かった、他者を助けられなかった、水を求めている人に応えて挙げられなかった、など︶を持っていることが判明している[59]︵一橋大学の石田による調査︶。﹁サバイバーズ・ギルト﹂﹁心的外傷後ストレス障害﹂も参照。 精神的影響は、原爆によって直接もたらされたサバイバーズ・ギルトや心的外傷後ストレス障害だけではない。戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による原爆報道統制が日本国民の間に﹁被爆者差別﹂を生み、被爆者はこれにも長く苦しむことになった。すなわち原爆、放射性物質、放射線に関する情報不足より、日本国民の間に﹁被爆者差別﹂が生まれた。戦後しばらくの間、新聞・雑誌などにおいても被爆者は﹁放射能をうつす存在﹂あるいは重い火傷の痕から﹁奇異の対象﹂などとして扱われることがあり、被爆者に対する偏見・差別は多くあった。これらは被爆者の生活に深刻な影響を与えた。 昭和30年代、例えば他の都道府県で就職の際、﹁広島出身﹂と申告すると﹁ピカ︵原爆︶を受けたのか﹂と聞かれるのは常であり、被爆の事実を申告したら、仕事に就けないことが多くあった。このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らさざるを得なくなり、精神的に永く苦しめられることになった。原爆のことを﹁ピカドン﹂とも言うが、転じて﹁ピカ﹂は被爆者を示す差別語ともなっていた。 こうした被爆者差別の存在やその実態については、長らく一部で問題とされていたのみで、広く公にされることはなかった。2010年に日本放送協会(NHK)は、その原因を﹁戦後のGHQによる言論統制を受けた報道機関が、正しく原爆に関する報道を行わなかったため、当時、日本国民の間で放射性物質・放射線の知識が一般的でなかったことと相まり、国民の間に誤った認識が広く蔓延したためである﹂と分析、過去に存在した被爆者差別とその実態について発表した[60]。 なお、NHKが被爆者差別について発表する1年前の2009年、中国放送の記者であった秋信利彦︵秋信は1975年10月31日、昭和天皇に原爆について質問した記者である︶は、当時の被爆者差別や被爆者の報道機関に対する強い反感と反発の実態について証言している[61]。多くの被爆者個人が公に自身の被爆体験を語り始めたのは、おおむね、被爆者差別の軽減以降である。 2008年から2009年の広島市の大規模調査の結果、2008年現在でもなお、被爆者の1%-3%に被爆によるPTSDの症状があることが判明、部分的な症状があるケースも含めると、4%-8%になることがわかった。その主要因は、放射線による病気への不安と、差別・偏見体験である[62]。次世代への影響[編集]
胎内被爆[編集]
母親の胎内で被爆することを胎内被爆という。胎内被爆により、小頭症を発症する者がいた。小頭症とは同年齢者の標準より頭囲が2倍以上小さい場合を言う。脳の発育遅延を伴う。諸説あるが、被爆時に胎齢3週 - 17週の胎内被爆者に多く発症した。脳のみならず、身体にも発育遅延が認められ、これらが致命的であるものは、成人前に死亡した[61]。被爆二世の白血病高発症率[編集]
﹁公式見解﹂では被爆二世、被爆三世については、永年にわたり健康への影響、すなわち遺伝的影響はないとされてきた。放射線影響研究所は2007年に、被爆二世への遺伝的な影響は、死産や奇形、染色体異常の頻度、生活習慣病を含め認められないと発表した[63][64]。 一方で、日本国政府などの公式見解となる放射線影響研究所などの発表には以前より疑問の声が多くあり、各大学などでの調査・研究が続けられていた。2012年6月3日、長崎原爆資料館で開催された第53回原子爆弾後障害研究会、広島大学の鎌田七男名誉教授らによる研究成果発表﹃広島原爆被爆者の子供における白血病発生について﹄では、広島大学原爆放射線医科学研究所研究グループの長期調査結果報告において、被爆二世の白血病発症率が高く、特に両親共に被爆者の場合に白血病発症率が高いことが、50年に渡る緻密な臨床統計結果より示され、少なくとも被爆二世については遺伝的な影響を否定できないと結論付けた。鎌田は﹁これでようやく端緒についた。﹂と語っている[65]。その後の広島[編集]
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終戦まで[編集]
●8月8日 - 大本営が調査団派遣。原子物理学専門家として仁科芳雄同行[66]。 ●8月9日 - 未明にソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄し、日本へ宣戦布告する前に満州国へ侵略を開始する。11時2分、長崎市に原爆が投下され、数万人が死亡した。これは広島に投下されたウラニウム型とは異なるプルトニウム型︵ファットマン︶であった。またこの日、広島電鉄市内線の一部区間が運行を再開している。 ●8月10日 - 大阪から来たカメラマン宮武甫が被爆の惨状を撮影する。 ●8月14日 - 御前会議においてポツダム宣言受諾が決定され、日本政府はスイス政府を仲介して連合国に受諾を伝える。 ●8月15日 - 終戦の詔勅︵玉音放送︶。国民への終戦の告知。放送の中で原爆について取り上げ、非人道的行為として非難している[注 18]。 ●8月24日 - 仲みどり死去。医学上認定された史上初の原爆症患者。 ●8月27日 - 日系人ジャーナリストのレスリー・ナカシマが8月22日来広、8月27日付UP通信東京発として世界で初めて被爆の惨状を外電報道︵﹁ウィルフレッド・バーチェット﹂も参照︶。 ●8月28日 - アメリカ軍やイギリス軍を中心とする連合国軍の上陸開始。終戦とGHQ-SCAP支配により全軍武装解除、将兵の復員が開始された。広島の被爆者救護を担ってきた暁部隊も解体し、救護活動は自治体に移管された。しかし戦時災害保護法︵1942年制定︶の規定により救護期限は2カ月と定められていたため、10月上旬に救護所は閉鎖されてしまう。 ●9月2日 - 各国政府代表が日本の降伏文書に調印。第二次世界大戦が終了︵対日戦勝記念日︶。戦後[編集]
●9月上旬 - アメリカ軍が広島を含めた中国・四国地方の占領業務を開始。 ●9月8日 - アメリカによる原爆災害調査︵マンハッタン管区調査団及び陸海軍軍医団︶が開始された。活動は1947年発足の原爆傷害調査委員会︵ABCC︶の母体、また後の放射線影響研究所となる。 ●9月14日 - 日本学術研究会議が﹁原子爆弾災害調査研究特別委員会﹂を設置し、物理学、生物学、医学など学術分野ごとに9つの分科会を設けて専門的研究を行う[67]。 ●9月19日 - 朝日新聞社派遣のカメラマン松本榮一が被害の様子を撮影する。 ●9月19日 - GHQ-SCAPよりプレスコード発令。原爆被害に関する報道は禁止される。 ●9月下旬 - 日本映画社により原爆被害の撮影が開始される。撮影は中途からアメリカ軍の管理下となる。映像は1946年︵昭和21年︶4月に"The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki"として完成後、フィルムをアメリカ軍に没収された[注 19][注 20][49][68]。 ●9月17日 - 被爆で壊滅状態の広島を枕崎台風︵昭和の三大台風の一つ︶が襲った。広島県内では各地で土石流が発生し、死者・行方不明者が2,000名を超える大惨事となった。広島近郊の佐伯郡大野村︵現・廿日市市︶では、大野陸軍病院が土石流の直撃を受け、治療中の被爆者や調査研究に従事していた京都帝国大学の真下教授、大久保忠継助教授など10名の調査団[69]、あわせて100名が死亡した。広島原爆をテーマとした作品[編集]
「忘れてはならない日」[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
● 今中哲二﹁原爆直後の残留放射線調査に関する資料収集と分析﹂﹃広島平和記念資料館資料調査研究会 研究報告﹄第10号、広島平和記念資料館資料調査研究会、2014年8月。 ●奥住喜重、工藤洋三 訳﹃原爆投下の経緯 ウェンドーヴァーから広島・長崎まで 米軍資料﹄東方出版、1996年。ISBN 978-4885914980。 ●奥住喜重、工藤洋三、桂哲男 訳﹃米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎﹄東方出版、1993年。ISBN 978-4885913501。 ●奥住喜重、工藤洋三﹃ティニアン・ファイルは語る 原爆投下暗号電文集﹄奥住喜重︵自費出版︶、2002年。ISBN 978-4990031442。 ●北山節郎﹃ピーストーク 日米電波戦争﹄ゆまに書房、1996年。ISBN 4897140579。 ●静間清﹁これまでの黒い雨の測定結果等について﹂。 ●白井久夫﹃幻の声 NHK広島8月6日﹄岩波書店︿岩波新書﹀、1992年。ISBN 4-00-430236-6。 ●中条一雄﹃原爆は本当に8時15分に落ちたのか 歴史をわずかに塗り替えようとする力たち﹄三五館、2001年。ISBN 978-4883202294。 ●淵田美津雄、中田整一︵編・解説︶﹃真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝﹄講談社、2007年。ISBN 978-4062144025。 ●堀川惠子、小笠原信之﹃チンチン電車と女学生﹄日本評論社、2005年。ISBN 4535584257。 ●山極晃、立花誠逸 編﹃資料 マンハッタン計画﹄岡田良之助︵訳︶、大月書店、1993年。ISBN 978-4272520268。 ●NHK広島﹁核平和﹂プロジェクト﹃原爆投下・10秒の衝撃﹄日本放送出版協会︿NHKスペシャルセレクション﹀、1999年7月。ISBN 978-4140804469。関連項目[編集]
- 日本への原子爆弾投下
- 東京大空襲
- ドレスデン爆撃
- 原爆下の対局
- 原爆切手発行問題
- 原爆の子の像(佐々木禎子)
- 原爆の子〜広島の少年少女のうったえ
- 綜合原爆展
- 広島平和記念公園(平和記念資料館・原爆ドーム)
- 二重被爆
- グラウンド・ゼロ
- 2011年のフジテレビ騒動 (2011年8月の抗議デモ 原爆名Tシャツ問題)
- 広島原爆で被爆したアメリカ人
- バラク・オバマの広島訪問
- 平和記念日
外部リンク[編集]
- 広島平和記念資料館
- ヒロシマ・アーカイブ - 広島平和記念資料館の資料,被爆者の証言をGoogle Earth上にマッピング
- 〔再現〕広島被爆状況図 - 広島原爆戦災誌をもとに原爆さく裂時の被害を地図上にプロット
- ヒロシマの心を伝える会
- 公益財団法人 放射線影響研究所 RERF
- 公益財団法人 広島平和文化センター
- 私の被爆体験と平和への思い
- ヒロシマ新聞 - 中国新聞労働組合
- 被爆者の声 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分) 肉声による被爆証言
- 地下壕[1]
- 戦争を語り継ごう リンク集
- President Harry Truman announces the Bombing of Hiroshima(英語) - 広島への原子爆弾投下に対するハリートルーマン大統領の声明
- 国際平和拠点ひろしま