幣原喜重郎
幣󠄁原 喜重郞 | |
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総理在任時の幣原(1945年秋ごろ) | |
生年月日 |
明治5年8月11日 (1872年9月13日) |
出生地 |
日本 堺県茨田郡門真一番下村 (現:大阪府門真市) |
没年月日 | 1951年3月10日(78歳没) |
死没地 | 日本 東京都世田谷区 |
出身校 | 帝国大学法科大学 |
前職 | 外務官僚 |
所属政党 |
(無所属→) (同和会→) (日本進歩党→) (日本民主党→) (無所属/同志クラブ→) (無所属/民主クラブ→) 民主自由党 |
称号 |
従一位 勲一等旭日桐花大綬章 男爵 法学士(帝国大学・1895年) |
配偶者 | 幣原雅子 |
子女 |
長男:幣原道太郎 次男:幣原重雄 三男:幣原平三 |
親族 |
岩崎弥太郎(義父) 幣原坦(兄) 加藤高明(義兄) 木内重四郎(義兄) |
サイン | |
第44代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 幣原内閣 |
在任期間 | 1945年10月9日 - 1946年5月22日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第40代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1949年2月11日 - 1951年3月10日 |
天皇 | 昭和天皇 |
内閣 | 濱口内閣 |
在任期間 | 1930年11月14日 - 1931年3月10日 |
天皇 | 昭和天皇 |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1947年5月24日 |
初代 復員庁総裁 | |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1946年6月15日 - 1947年5月24日 |
その他の職歴 | |
初代 第一復員大臣 初代 第二復員大臣 (幣原内閣) (1945年12月1日 - 1946年5月22日、総理兼任) | |
第38・40代 外務大臣 (加藤高明内閣、第1次若槻内閣) (1924年6月11日 - 1927年4月20日) (濱口内閣、第2次若槻内閣) (1929年7月2日 - 1931年12月13日) | |
衆議院議員 (旧大阪3区、当選回数 2回) (1947年4月26日 - 1951年3月10日) | |
貴族院議員 (1926年1月29日 - 1947年5月2日) |
生涯[編集]
生い立ち[編集]
明治5年8月11日︵1872年9月13日︶、堺県茨田郡門真一番下村[2]︵現・大阪府門真市︶の豪農の家に生まれた[3]。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城西側にあった官立大阪中学校︵のち京都に移転、第三高等中学校となる︶から、第三高等中学校︵首席卒業︶を経て、1895年︵明治28年︶ 東京帝国大学法科大学卒業。濱口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争ったという。 大学卒業後は農商務省に入省したが、翌1896年︵明治29年︶外交官試験に合格し、外務省に転じた[1]。外務省[編集]
外務大臣歴任[編集]
内閣総理大臣[編集]
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
日本国憲法と幣原[編集]
幣原と日本国憲法の制定については様々な研究が行われているが、特に日本国憲法第9条における戦争の放棄については、幣原の発案であるかどうかという論争が行われている。 幣原は当初天皇制の維持のため、憲法改正には消極的であった[10]。 幣原は1951年に公刊した﹃外交五十年﹄において、9条の発案者は自身であると述べている[11]。これによれば、1945年8月15日に玉音放送を聞いた後、電車内で泣き叫ぶ男に出会ったのがきっかけで、﹁戦争を放棄し、軍備を全廃﹂することを発案したという[12]。後にマッカーサーも9条は幣原の提案によると述べている[13]。一方で松本烝治、芦田均といった幣原内閣の閣僚、木内四郎内閣副書記官長、増田甲子七、押谷富三といった政治家、幣原の息子道太郎も幣原の発案であることを否定している[14]。 1946年1月24日、幣原は風邪をひいた際にマッカーサーからペニシリンを贈られたことに対する返礼を名目に会談を行った︵ペニシリン会談︶[15]。マッカーサーの回顧録によれば、この席で幣原が戦力の放棄を含む戦争放棄の新憲法制定の提案を行ったという[13][16]。後に幣原が大平駒槌に語った談話︵羽室メモ[注釈 1]︶によれば、﹁僕はかねて考えていた戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考える﹂﹁世界から信用をなくしてしまつた日本にとつて戦争を放棄すると云ふ様な事をハツキリと世界に声明する事それだけが日本を信用してもらえる唯一のほこりとなる事じやないだろうか﹂と述べ、マッカーサーも大いに感動していたという[18]。 ただしチャールズ・L・ケーディス民政局次長の回想によれば、マッカーサーから告げられた会談のテーマは公職追放についてであったという[18]。また﹁羽室メモ﹂通りのことを幣原が述べたとしても、﹁声明﹂にとどまっており、憲法に戦力の不保持とともに書き込むというものではなかった[18][16][19]。 1月30日、閣議において新憲法の政府案である松本試案について検討が行われた[13]。この席で幣原は軍に関する条項を削除するよう求めたが、﹁大勢カラ云ヘバイツカ軍ハ出来ルト思フガ今、之ニ入レルコトハ刺激ガツヨスギル﹂﹁︵GHQとの交渉に︶一、 二ケ月モ引カツテシマフ﹂と述べたように、単に交渉的な問題であり、将来的な軍の保有を排除したものではなかった[13]。松本試案は新聞によって暴露され、日本政府の憲法案が不十分であると判断したマッカーサーは、2月3日に民政局に対して新憲法草案を作成するよう命じた。この際マッカーサーは自衛権をも含む戦争放棄を含めた新憲法の原則﹁マッカーサー・ノート﹂を示している[20]。 2月13日、コートニー・ホイットニー民政局局長は、松本試案を否定し戦争放棄を含むGHQの憲法草案︵マッカーサー草案︶を幣原と松本烝治国務大臣に手交した[21]。広田弘毅の弁護人を務めた広田洋二は、幣原の秘書である岸倉松の証言から﹁幣原首相もちよつとおどろいたようであり﹂と、幣原が憲法に戦争放棄条項が含まれることを予想していなかったことを述べている[16]。2月18日にはホイットニー民政局局長は48時間以内の回答を要求した[21]。閣議は紛糾し、2月21日にマッカーサーと幣原、芦田均・小林一三の会談が行われた。この席で幣原は主権在民の明文化に難色を示すとともに、﹁︵戦争放棄の条文化は︶世界のどの国の憲法にもない異例な話で﹂と戦争放棄条項についても否定的な意見を述べた[22]。マッカーサーは﹁日本の為に図るに寧ろ第二章︵GHQ草案︶の如く国策遂行の為めにする戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ﹂と述べたが、幣原は﹁leadershipと言はれるが、おそらく誰もfollowerとならない﹂と否定した[23]。しかしマッカーサーは﹁譲ることも変へることも出来ない﹂と受諾を要求した[22]。憲法9条幣原発案説論争[編集]
晩年[編集]
死去[編集]
1951年︵昭和26年︶3月10日、議長在任中に心筋梗塞のため[52]死去[53]。享年80︵満78歳没︶。議長在任中の死去であったことから、葬儀は衆議院葬として行われた[54]。墓所は豊島区駒込の染井霊園。栄典[編集]
位階 ●1896年︵明治29年︶10月30日 - 従七位[55] ●1901年︵明治34年︶4月20日 - 正七位[56] ●1903年︵明治36年︶10月10日 - 従六位[57] ●1905年︵明治38年︶12月27日 - 正六位[58] ●1908年︵明治41年︶3月30日 - 従五位[59] ●1911年︵明治44年︶9月20日 - 正五位[60] ●1915年︵大正4年︶12月10日 - 従四位[61] ●1919年︵大正8年︶10月30日 - 正四位[62] ●1922年︵大正11年︶11月10日 - 従三位[63] ●1925年︵大正14年︶12月1日 - 正三位[64] ●1931年︵昭和6年︶2月16日 - 従二位[65] ●1951年︵昭和26年︶3月10日 - 従一位[66] 勲章など ●1906年︵明治39年︶4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[67] ●1911年︵明治44年︶8月24日 - 勲二等瑞宝章[68] ●1912年︵大正元年︶8月1日 - 韓国併合記念章[69] ●1916年︵大正5年︶8月19日 - 勲一等瑞宝章[70] ●1920年︵大正9年︶9月7日 - 男爵・勲一等旭日大綬章[71] ●1921年︵大正10年︶7月1日 - 第一回国勢調査記念章[72] ●1930年︵昭和5年︶12月5日 - 帝都復興記念章[73] ●1931年︵昭和6年︶12月12日 - 旭日桐花大綬章[74] ●1934年︵昭和9年︶4月29日 - 昭和六年乃至九年事変従軍記章[75] ●1940年︵昭和15年︶ ●4月29日 - 銀杯一組[76] ●8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[77] 外国勲章佩用允許 ●1914年︵大正3年︶6月18日 - イタリア王国‥サンモーリスエラザル第二等勲章[78] ●1915年︵大正4年︶11月12日 - オランダ王国‥オランジュナッソー第一等勲章[79] ●1918年︵大正7年︶7月3日 - イギリス帝国‥ブリティッシュエムパイアー第二等勲章[80] ●1925年︵大正14年︶7月11日 - ベルギー王国‥レオポール勲章グランクロア[81] ●1926年︵大正15年︶8月24日 - ペルー共和国‥ソレイユ勲章グランクロア[82] ●1927年︵昭和2年︶4月1日 - フランス共和国‥レジオンドヌール勲章グランクロア[83] ●1931年︵昭和6年︶ ●9月26日 - シャム王国‥レ・レファンブラン勲章グランクロア[84] ●12月24日 - エチオピア帝国‥メネリック第二世勲章グランクロア[85] ●1934年︵昭和9年︶3月1日 - 満洲帝国‥建国功労章[86]逸話[編集]
家族・親族[編集]
幣原喜重郎は幣原九市郎の婿養子である幣原新治郎の次男として生まれた[89]。新治郎の長男、つまり喜重郎の兄に当たる幣原坦︵幼名・徳治郎︶は東洋史学者で教育行政官[89][90][91][92]。坦の次女・澄江は農芸化学者・古在由直の長男・由正に嫁いだ[90][92][93]。由正・澄江夫妻の長男が﹁コザイの式﹂で知られている天文学者・古在由秀であり[90][92]、由正の弟、すなわち由直の次男がマルクス主義哲学者の古在由重である[90][92]。古在由秀は最後の東京天文台︵国立天文台の前身︶台長および国立天文台の初代台長を務め﹁星の手帖﹂︵既に廃刊︶の編集委員としても知られており、2009年︵平成21年︶には文化功労者に選ばれている。また坦の孫に当たる幣原廣は弁護士で、古在由秀の従弟に当たる。第二東京弁護士会所属であり、副会長経験あり。多数の委員会活動に関与しているため、弁護士会では﹁多重会務者﹂などと呼ばれている。 幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女。したがって喜重郎は加藤高明︵春路夫人が弥太郎の長女︶や岩崎久弥︵弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥︶、木内重四郎︵磯路夫人が弥太郎の次女︶らの義弟に当たる[94]。ただし春路・久弥・磯路の3人は弥太郎の正妻・喜勢が産んだのに対し雅子は妾腹の出である。したがって雅子は春路・久弥・磯路の異母妹に当たる。 喜重郎・雅子夫妻は3人の男子をもうけた。長男・道太郎は元獨協大学英語学科[95]教授[89]で幣原の著書﹁外交50年﹂の解説をした(長男隆太郎(1938年9月16日生[96])と次男章二(1940/9/30生[96]と長女・倶子(1940/9/30生[96])がいて隆太郎には長男・愼一郎(1971/7/30生[96])と二男・幸二(1979生[96])がいる)、次男・重雄は元三菱製紙勤務[89]、三男・平三は夭折。長男は改憲論者であった。なお幣原内閣で大蔵大臣を務めた渋沢敬三も磯路の婿に当たる姻戚である[94]。渋沢敬三は渋沢栄一の孫に当たり、日銀総裁や大蔵大臣を務める傍ら、日本における民俗学の発展に多大な貢献をした学者でもある。また、1947年、岩崎家との縁から、財団法人東洋文庫の理事長に就任し、三菱財閥解体を受けて運営危機に陥った同文庫を翌年に国立国会図書館支部として維持させることに成功した。戦前より続く日本の東洋学研究の中心であった同文庫を解散の危機から救ったその功績は今日少なからず評価されている。系譜[編集]
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| 古在卯之助 |
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古在弥五兵衛 |
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| 良子 |
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| 古在由信 |
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| 古在由直 |
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| 静子 |
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| 柳下景由 |
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| 古在由良 |
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| 清水貞幹 |
| 豊子(清水紫琴) |
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| 古在由重 |
| 古在豊樹 |
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| 古在由正 |
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| 古在由秀 |
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| 熊沢善庵 |
| 妙子 |
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| 澄江 |
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| 幣原顕 |
| 幣原廣 |
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| 幣原新治郎 |
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| 幣原坦 |
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| 幣原幸秀 | ||||||||||||||||||||||||||
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幣原九市郎 |
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| 幣原元 |
| 和子 |
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| 幣原和寿 | |||||||||||||||||||||||||||
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| 静ヅ |
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| 幣原喜重郎 |
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| 幣原匡 | ||||||||||||||||||||||||||
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ナカ |
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| 幣原道太郎 |
| 幣原隆太郎 |
| 幣原慎一郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 岩崎弥太郎 |
| 雅子 |
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| 幣原重雄 |
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| 今西健策 |
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| 幣原幸二 | |||||||||||||||||||||||||||||
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| 幣原平三 |
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| 倶子 |
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| 幣原章二 |
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| 岩崎久弥 |
| 岩崎彦弥太 |
| 岩崎寛弥 |
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| 木内重四郎 |
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| 木内良胤 |
| 木内昭胤 |
| 木内孝胤 | |||||||||||||||||||||||||||
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| 木内信胤 |
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| 磯路 |
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| 渋沢敬三 |
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| 喜勢 |
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| 渋沢雅英 |
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岩崎弥次郎 |
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| 登喜子 |
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| 加藤高明 |
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| 加藤厚太郎 |
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美和 |
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| 春路 |
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| 悦子 |
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| 岡部長忠 | |||||||||||||||||||||||||
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| 岡部長衡 |
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| 岡部長景 |
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| 岡部長義 | ||||||||||||||||||||||||
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| 岡部長発 |
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| 岡部長章 |
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| 櫻井房記 |
| 須美 |
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| 妙子 |
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| 岡部長憲 |
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| 岩崎毅太郎 |
| 岩崎正寛 |
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| 岩崎弥之助 |
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| 岩崎輝弥 |
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| 岩崎英二郎 |
| 岩崎透 |
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| 岩崎俊弥 |
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| 岩崎純 |
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後藤象二郎 |
| 早苗 |
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| 岩崎小弥太 |
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著作[編集]
●﹃外交五十年﹄中公文庫。ISBN 4-122013-91-7。 ●﹃幣原喜重郎 - 外交五十年 人間の記録.64﹄、日本図書センター。ISBN 4-820543-09-1。 ※ただし刊行時期が、占領下︵読売新聞社、1951年︶であるため、戦後についての執筆部分の信頼性には、疑問の声もある、原書房版は長男が解説している。関連作品[編集]
映画 ●﹃小説吉田学校﹄︵1983年、演‥三津田健︶ ●﹃日本独立﹄︵2020年、演‥石橋蓮司︶ テレビドラマ ●﹃日本の戦後﹄第2集﹁サンルームの二時間 憲法GHQ案の衝撃﹂︵1977年、NHK、演‥中村伸郎︶ ●﹃ポーツマスの旗﹄︵1981年、NHK、演‥和田周︶ ●﹃憲法はまだか﹄︵1996年、NHK、演‥神山繁︶ ●﹃白洲次郎﹄︵2009年、NHK、演‥石橋雅史︶ ●﹃負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜﹄︵2012年9月 - 10月、NHK、演‥中村敦夫︶ ●﹃青天を衝け﹄︵2021年、NHK大河ドラマ、演‥近藤芳正︶関連項目[編集]
●田中義一 - 平和協調路線の﹁幣原外交﹂は田中の対外政策と対局に位置づけられる。 ●三島由紀夫 - 幣原について、﹁世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる﹂[99]、﹁不忠の臣﹂と述べ[100]批判している。 ●岩崎家 - 三菱の創業者一族。幣原家と姻戚関係にある。脚注[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
伝記[編集]
●宇治田直義﹃日本宰相列伝17 幣原喜重郎﹄時事通信社 1985年。旧版‥同﹁三代宰相列伝﹂1958年 ●塩田潮﹃最後の御奉公 宰相幣原喜重郎﹄文藝春秋 1992年。ISBN 4-163463-80-1。 ●新版﹃日本国憲法をつくった男 宰相幣原喜重郎﹄文春文庫 1998年、朝日文庫 2017年。ISBN 402-2618930 ●岡崎久彦﹃幣原喜重郎とその時代﹄PHP文庫 2003年。ISBN 456-9579930 ●服部龍二﹃幣原喜重郎 外交と民主主義﹄有斐閣、2006年/増補版‥吉田書店、2017年。ISBN 490-5497523 ●種稲秀司﹃幣原喜重郎﹄吉川弘文館﹁人物叢書﹂2021年。ISBN 464-2053018 ●熊本史雄﹃幣原喜重郎 国際協調の外政家から占領期の首相へ﹄中公新書 2021年。ISBN 412-1026381外部リンク[編集]
議会 | ||
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先代 松岡駒吉 |
衆議院議長 第40代:1949年 - 1951年 |
次代 林譲治 |
公職 | ||
先代 東久邇宮稔彦王 |
内閣総理大臣 第44代:1945年 - 1946年 |
次代 吉田茂 |
先代 - |
国務大臣(副総理) 1947年 |
次代 芦田均 |
先代 創設 |
復員庁総裁 初代:1946年 - 1947年 |
次代 笹森順造 |
先代 下村定(陸軍大臣) |
第一復員大臣 初代:1945年 - 1946年 |
次代 吉田茂 |
先代 米内光政(海軍大臣) |
第二復員大臣 初代:1945年 - 1946年 |
次代 吉田茂 |
先代 松井慶四郎 田中義一 |
外務大臣 第40・41代:1924年 - 1927年 第43・44代:1929年 - 1931年 |
次代 田中義一 犬養毅 |
党職 | ||
先代 町田忠治 |
日本進歩党総裁 第2代:1946年 - 1947年 |
次代 民主党へ |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 幣原(喜重郎)家初代 1920年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |
- 幣原喜重郎
- 日本の内閣総理大臣
- 昭和時代戦前の閣僚
- 大正時代の閣僚
- 日本の外務大臣
- 衆議院議長
- 自由党(日本 1950-1955)の衆議院議員
- 大阪府選出の衆議院議員
- 昭和時代戦後の衆議院議員
- 在職中に死去した衆議院議員
- 貴族院勅選議員
- 大正時代の貴族院議員
- 昭和時代の貴族院議員
- 在アメリカ合衆国日本大使
- 戦前日本の大使
- 大正日本の公使
- シベリア出兵の人物
- 二八会
- 日本の男爵
- 東洋文庫の人物
- 従一位受位者
- 勲一等旭日桐花大綬章受章者
- 勲一等旭日大綬章受章者
- 勲一等瑞宝章受章者
- 勲二等瑞宝章受章者
- レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者
- 法学士取得者
- 証人喚問された人物
- 東京大学出身の人物
- 旧制第三高等学校出身の人物
- 大阪府出身の人物
- 1872年生
- 1951年没
- 加藤高明
- 染井霊園に埋葬されている人物