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'''神道'''(しんとう、しんどう<ref>{{Cite web|和書|author=松村明ほか|date=2018 |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%81%93-82299#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |title=デジタル大辞泉 |publisher=小学館 |accessdate=2019-01-08}}</ref>)は、[[日本]]の[[宗教]]。'''惟神道'''(かんながらのみち)ともいう。[[開祖]]や[[教祖]] |
'''神道'''(しんとう、しんどう<ref>{{Cite web|和書|author=松村明ほか|date=2018 |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%81%93-82299#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |title=デジタル大辞泉 |publisher=小学館 |accessdate=2019-01-08}}</ref>)は、[[日本]]の[[宗教]]。'''惟神道'''(かんながらのみち)ともいう。[[開祖]]や[[教祖]]、[[教典]]を持たず、[[森羅万象]]あらゆるものに[[神]]が宿るという思想に基づく。[[神話]]、[[神 (神道)|八百万の神]]、[[自然]]や[[自然現象]]など、[[アニミズム]]的、[[祖霊崇拝]]的な[[民族宗教]]である<ref name="[[神道国際学会]]">{{Cite web|和書|url= http://www.shinto.org/wordjp/?page_id=2|title=[[神道国際学会]]のホームページ|accessdate =2019-06-30}}</ref>。 |
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[[神]]と[[自然]]は一体と認識され、[[神]]と[[人間]]を結ぶ[[作法|具体的作法]]が[[祭祀 (神道)|祭祀]]であり、その祭祀を行う場所が[[神社]]であり、[[聖域]]とされた<ref>岡田荘司 2010年 p.22-23</ref>。 |
[[神]]と[[自然]]は一体と認識され、[[神]]と[[人間]]を結ぶ[[作法|具体的作法]]が[[祭祀 (神道)|祭祀]]であり、その祭祀を行う場所が[[神社]]であり、[[聖域]]とされた<ref>岡田荘司 2010年 p.22-23</ref>。 |
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神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。伝統的な[[民俗信仰]]・[[自然崇拝|自然信仰]]・[[祖霊信仰]]を基盤に、[[豪族]]層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した<ref name="jiten">『世界大百科事典』 217-218頁。</ref><ref>『神道』 12-13頁。</ref>。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である<ref name="岡田(2010)_ⅲ">岡田荘司 2010年 ⅲページ</ref>。世の中の宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、神道の宗教名だけは「神道教」ではなく、単に「神道」となっている<ref group="注">ただし[[仏教]]を仏道と呼んだり、[[儒教]]を儒学と呼んだりする。また、「キリスト教」は明治以降の語で、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]には「[[切支丹]]」と呼ばれていた。</ref>。 |
神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。伝統的な[[民俗信仰]]・[[自然崇拝|自然信仰]]・[[祖霊信仰]]を基盤に、[[豪族]]層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した<ref name="jiten">『世界大百科事典』 217-218頁。</ref><ref>『神道』 12-13頁。</ref>。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である<ref name="岡田(2010)_ⅲ">岡田荘司 2010年 ⅲページ</ref>。世の中の宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、神道の宗教名だけは「神道教」ではなく、単に「神道」となっている<ref group="注">ただし[[仏教]]を仏道と呼んだり、[[儒教]]を儒学と呼んだりする。また、「キリスト教」は明治以降の語で、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]には「[[切支丹]]」と呼ばれていた。</ref>。 |
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神道には確定した教祖、創始者がおらず{{r|岡田(2010)_ⅲ}}、[[キリスト教]]の[[聖書]]、[[イスラム教]]の[[コーラン]]にあたるような公式に定められた「[[正典]]」も存在しない |
神道には確定した教祖、創始者がおらず{{r|岡田(2010)_ⅲ}}、[[キリスト教]]の[[聖書]]、[[イスラム教]]の[[コーラン]]にあたるような公式に定められた「[[正典]]」も存在しないが<ref name="[[神道国際学会]]" />、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』『[[古語拾遺]]』『[[先代旧事本紀]]』『[[宣命]]』といった「'''[[神典]]'''」と称される古典群が神道の[[聖典]]とされている<ref name="長野県神社庁">{{Cite web|和書|url= http://www.nagano-jinjacho.jp/jinjayougo/7syo.htm|title=長野県神社庁のホームページ|accessdate =2016-03-24}}</ref>。[[森羅万象]]に[[神 (神道)|神]]が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、[[天津神・国津神]]などの[[祖霊]]をまつり、[[祭祀]]を重視する。浄明正直 (じょうみょうせいちょく)(浄く明るく正しく直く)を徳目とする<ref name="zukai">『神道』 18頁。</ref>。他宗教と比べて[[現世]]主義的といった特徴がみられる。 |
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日本人の生活と深い関わりのある神道は、当初から宗教として認識されていたわけではなく、[[仏教]]が大陸から伝来したのち、それまで日本国独自の習慣や信仰が御祖神(みおやがみ)の御心に従う「かむながらの道(神道)」として意識されるようになった<ref>{{Cite book|和書 |title=神道いろは-神社とまつりの基礎知識- |date=2007-01-25 |publisher=[[神社新報社]] |page=14 |editor=神社本庁教学研究所監修}}</ref><ref name="KS">大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』 [[三笠書房]]</ref>。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられおり、『[[五箇条の御誓文]]』や、よく知られている童歌『[[通りゃんせ]]』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる<ref>{{Cite web |url=https://373news.com/_kikaku/meijiishin150/ishinmeidou/06-01.php |title=第6部 流浪する神仏 宗教の変革|明治維新150年「維新鳴動-かごしま再論-」 |access-date=2024-05-28 |publisher=[[南日本新聞]]}}</ref>。 |
日本人の生活と深い関わりのある神道は、当初から宗教として認識されていたわけではなく、[[仏教]]が大陸から伝来したのち、それまで日本国独自の習慣や信仰が御祖神(みおやがみ)の御心に従う「かむながらの道(神道)」として意識されるようになった<ref>{{Cite book|和書 |title=神道いろは-神社とまつりの基礎知識- |date=2007-01-25 |publisher=[[神社新報社]] |page=14 |editor=神社本庁教学研究所監修}}</ref><ref name="KS">大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』 [[三笠書房]]</ref>。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられおり、『[[五箇条の御誓文]]』や、よく知られている童歌『[[通りゃんせ]]』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる<ref>{{Cite web |url=https://373news.com/_kikaku/meijiishin150/ishinmeidou/06-01.php |title=第6部 流浪する神仏 宗教の変革|明治維新150年「維新鳴動-かごしま再論-」 |access-date=2024-05-28 |publisher=[[南日本新聞]]}}</ref>。 |
2024年6月15日 (土) 15:19時点における最新版
神道 | |
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国・地域 |
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信者数 | 8792万4087人[1] |
成立年 | 不明(縄文時代から古墳時代にかけて原型が形成されたとされる) |
創始者 | なし |
信仰対象 | 八百万の神 |
聖典 | 正典なし[2] |
母体 | 民族信仰・自然信仰・祖先信仰 |
宗派 | 下記神道諸派参照 |
主な指導者 | |
聖地 | 神社などの祭祀施設・山、岩、川などの自然物 |
教義 | 具体的な教義なし |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9c/Hokora_in_Takeo_no_Okusu.jpg/250px-Hokora_in_Takeo_no_Okusu.jpg)
概要[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/Kobayashi_Izanami_and_Izanagi.jpg/250px-Kobayashi_Izanami_and_Izanagi.jpg)
分類[編集]
皇室神道 (宮中祭祀︶ 皇居内の宮中三殿を中心とする皇室の神道である[21]。新年の四方拝や歳旦祭、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る新嘗祭︵天皇即位後初の新嘗祭は大嘗祭という︶などが行われる[22]。歴史[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/KasugaTaisha2.jpg/220px-KasugaTaisha2.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cc/Kamidana.jpg/220px-Kamidana.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9b/Association_of_Shinto_Shrines_2010.jpg/220px-Association_of_Shinto_Shrines_2010.jpg)
教義[編集]
もともと、神道にはイエス・キリストや釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しなかった[11]。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致が行われた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より﹁神ながら 事挙げせぬ国[40]﹂だったからであるとも言われている[要出典]。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう[要出典]。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである[要出典]。ただ、実際には、仏教公伝の当初から、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間でひと悶着もあった。 このように神道には明確な教義がないものの、古事記や日本書紀などのいわゆる﹁神典﹂には、神道の基本的な観念をうかがうことのできる記述があり[41]、常世、黄泉などの他界観や、荒魂・和魂、祖霊などの霊魂観、むすひ、惟神︵かんながら︶、浄明正直などの倫理観、禊祓により罪穢れを払う清浄観などが、神道の基本的な観念と考えられる[41]。 中世には、このような神道古典に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた[41]。その最初期の動きは、両部神道や山王神道など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった[42]。それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮神官らにより社家の立場からの神道説である伊勢神道が形成された[43]。伊勢神道の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ[44]、これまで神道祭祀において重んじられてきた祓や禊などの身体的清浄を心の問題として解釈し[45]、﹁正直﹂﹁清浄﹂を神道の徳目とした[46]。中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である吉田神道が形成された[47]。吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった[48]。 近世に入ると、儒教の隆盛に伴い、理当心地神道、吉川神道などの儒家神道が盛んになり、神仏習合が強く批判され、儒教の徳目と神道の一致が説かれた[49]。儒家神道を集大成したのが垂加神道で、垂加神道説では神と人が﹁天人唯一之道﹂という合一状態にあるとし、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に一心不乱の祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が﹁正直﹂でなければならず、その﹁正直﹂の実現には﹁敬︵つつしみ︶﹂が第一だとする教説が説かれた[50]。近世中期には国学が出現し、本居宣長は神道を儒教や仏教の教理によせて解釈することを強く批判した。近世後期には、平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人らが天之御中主神を創造神とする単一神教的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた[要出典]。また、幕末には後期水戸学による神道説も唱えられ、国学と儒教を結びつけることで国体論を説き、尊皇論を唱え、幕末の志士たちの思想に影響を与えた[51]。 近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた[52]。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もあった[要出典]。このような経緯から、近代には神社非宗教論が説かれ、神社神道の神職らが宗教的な教義を説くことは政府により禁じられたが、他方で在野の神道家らによる神道教理が説かれるようになり、国家から公認を受けた教派神道13派が独自の神道の教えを説いて活動し、勢力を広げた[53]。神道における「神」[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/52/Kamiiso_torii_at_Oarai_Isosaki_Jinja.jpg/180px-Kamiiso_torii_at_Oarai_Isosaki_Jinja.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0b/ItsukushimaTorii7396.jpg/180px-ItsukushimaTorii7396.jpg)
神道の研究[編集]
平安時代以前より出雲において日本神話との関わりが議論されていたとされ、﹃出雲風土記﹄には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる[要出典]。 鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[37]。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、本居宣長が江戸期に﹃古事記﹄の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[61]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派の果たしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう[要出典]。 神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された[要出典]。彼は神代史︵神話︶と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、﹃神祇史﹄︵皇典講究所國學院大學出版部︶として1910年︵明治43年︶に出版している[62]。 神道の成立期については諸説出されている。おもな説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄[63]。現代の神道[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4f/Hakone_Shrine_Haiden.jpg/250px-Hakone_Shrine_Haiden.jpg)
皇室と神道[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0b/Oka_Misanzai_Kofun%2C_haisho.jpg/250px-Oka_Misanzai_Kofun%2C_haisho.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/Naiku_001.jpg/250px-Naiku_001.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Emperor_Akihito_Daij%C5%8Dsai%281990%29.jpg/250px-Emperor_Akihito_Daij%C5%8Dsai%281990%29.jpg)
アニミズムと神道[編集]
シャーマニズムと神道[編集]
信仰[編集]
神社信仰の性格は、大きく分類すると氏神型信仰と勧請型信仰︵崇敬祈願型信仰︶の2つに分けられる[98]。古代における信仰は、前者の、地域ごとに氏神・産土神を祀る閉鎖的な共同体祭祀が中心であったが、中世に入ると、霊威のある神々が地域を越えて各地に勧請され、個人の祈願が行われる勧請型の信仰が増加した[98]。中世期の律令制の崩壊と荘園制の成立に伴い、特定神社を国家が支える古代的な律令祭祀制度が崩壊し、荘園領主たちが有力神社を本所として荘園を寄進するようになった結果、その寄進された社領にその分霊社が勧請されるようになったことや、各神社が御師をして地方まで信仰を広げる活動をはじめたことなどが、中世期に入って神社信仰が拡散する要因となった[98]。また、中世期の惣村では、村民たちは日常の農耕生活の中で神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていたり、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り若者衆が神事の奉仕に当たる神事運営のための祭りの編成組織である宮座が結成されるなどしたほか、村の取り決めに際しては起請文を記して神に誓約し、一揆の時には一味神水が行われるなど、神社は、民衆の精神的拠り所となっていった[99]。 近世期に入ると、治安や交通の改善によって人々の神社参詣がさらに活性化し、一層庶民の間での神社信仰が広がった。各村では講が結成され、毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行し、各講は御師や先達と師檀関係を結び、御師は講員の祈祷や参詣における宿泊の便を図った[100]。このようなことから、数百万人が短期間で伊勢神宮に参拝したと記録されるお蔭参りをはじめ、近世期には多数の人々が神社に参詣した。他方で、近世期の神社参詣は、近世社会における輸送組織の発達や道中での宿屋・遊楽施設の充実などにより、道中において様々な名所を見物したり、遊興を行うといった、観光・娯楽的な要素も多く持つものであった[101]。このような観光と寺社参詣の結びつきは、近代を経て現代でも受け継がれており、観光における神社の存在感は大きなものとなっている[102]。この他、現在における神社への信仰は、初詣、お宮参り、七五三、結婚式など、個人や家族の年中行事や人生儀礼において現れている[103]。 以下では、特に全国的に広がった神社信仰について概覧する。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/db/Hachiman_torii.svg/25px-Hachiman_torii.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Shinmei_torii_2.svg/25px-Shinmei_torii_2.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Myoujin_torii.svg/25px-Myoujin_torii.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/96/Inari_-_daiwa_torii.svg/25px-Inari_-_daiwa_torii.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/81/Fushimi_Inari-taisha_%E5%8D%83%E6%9C%AC%E9%B3%A5%E5%B1%85_2012-2.jpg/250px-Fushimi_Inari-taisha_%E5%8D%83%E6%9C%AC%E9%B3%A5%E5%B1%85_2012-2.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Myoujin_torii.svg/25px-Myoujin_torii.svg.png)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Myoujin_torii.svg/25px-Myoujin_torii.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/Ryoubu_Torii.svg/25px-Ryoubu_Torii.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/50/Sannou_torii.svg/25px-Sannou_torii.svg.png)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/Sakura_and_Mt._Fuji_%E6%A1%9C%28%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89%29%E3%81%A8%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%28%E3%81%B5%E3%81%98%E3%81%95%E3%82%93%29.jpg/250px-Sakura_and_Mt._Fuji_%E6%A1%9C%28%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89%29%E3%81%A8%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%28%E3%81%B5%E3%81%98%E3%81%95%E3%82%93%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/Kasuga_torii.svg/25px-Kasuga_torii.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2a/Kashima_Torii.svg/25px-Kashima_Torii.svg.png)
参拝の方法[編集]
簡易な参拝[編集]
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/ItsukushimaBasin7406.jpg/200px-ItsukushimaBasin7406.jpg)