ベトナム
- ベトナム社会主義共和国
- Cộng hòa xã hội chủ nghĩa Việt Nam
(共和社會主義越南) -
(国旗) (国章) - 国の標語:独立・自由・幸福
(Độc lập - Tự do - Hạnh phúc) - 国歌:進軍歌(Tiến Quân Ca)
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公用語 ベトナム語(越南語) 首都 ハノイ(河内) 最大の都市 ホーチミン市(胡志明市) - 政府
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ベトナム共産党書記長 グエン・フー・チョン 国家主席 トー・ラム 政府首相 ファム・ミン・チン 国会議長 チャン・タイン・マン 国家副主席 ヴォー・ティ・アイン・スアン - 面積
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総計 331,212km2(64位) 水面積率 1.3% - 人口
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総計(2022年) 103,808,319人(16位)[1] 人口密度 313.4人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2019年) 7615兆5675億2600万[2]ドン - GDP(MER)
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合計(2019年) 3278億7300万[2]ドル(36位) 1人あたり 3,398.214[2]ドル - GDP(PPP)
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合計(2019年) 1兆188億600万[2]ドル(35位) 1人あたり 10,559.323[2]ドル - 独立
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独立宣言
(ベトナム民主共和国)1945年9月2日 独立承認
(ジュネーヴ協定)1954年7月21日 南北統一、改称 1976年7月2日
通貨 ドン(VND)(₫ / Đồng; 銅) 時間帯 UTC(+7) (DST:なし) ISO 3166-1 VN / VNM ccTLD .vn 国際電話番号 84
ベトナム (越南) |
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主な出来事 ベトナム共産党 「国家」 人物 言語 | |
共産主義 |
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社会主義 |
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概要[編集]
国名[編集]
正式名称はベトナム語で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam" ( 聞く)。略称は "Việt Nam" (ベトナム語発音: [viət˨ nam˧] ( 音声ファイル))である。ベトナム語の漢字︵チュハン︶では﹁共和社會主義越南﹂﹁越南﹂となる。 1802年に現代とほぼ変わらない領土で統一した人物は、阮朝の創始者の阮福暎︵嘉隆帝︶である。1804年には清の嘉慶帝から越南国王に封ぜられ、﹁越南﹂を正式の国号とした、阮朝は最初清に﹁南越﹂の号を求めたが、嘉慶帝は﹁越南﹂という国号を与えた。﹁南越﹂という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。 ロシア語で﹁Вьетнам﹂と書き、ラテン文字表記法の学術表記で﹁V'etnam﹂になり、日本語表記は﹁ベトナム﹂となる。しかし﹁i﹂があるベトナム語による﹁Việt﹂の正しい発音は﹁ベト﹂ではなく﹁ヴィエッ﹂であることから、一部文献などでは﹁ヴェトナム﹂﹁ヴィエトナム﹂﹁ヴィエットナム﹂などの表記もみられる。漢字文化圏の国家なので漢字で﹁越南﹂︵えつなん︶の表記もあり、越︵えつ︶と略す。﹁越南﹂の表記を用いながら﹁ベトナム﹂と呼ぶこともある。現在の日本国の外務省ではカタカナで﹁ベトナム﹂﹁ベトナム社会主義共和国﹂の表記を用いるが、かつてはベトナム語の発音に近い﹁ヴィェトナム社会主義共和国﹂の表記となっていた。 公式の英語表記は "Socialist Republic of Vietnam" 、略称は "Vietnam"、または "SRV"。1976年6月24日、ベトナム戦争後初の南北統一国会︵第6期国会第1回会議︶が招集され、7月2日の国会決議により現在の国名が決定された[23]。2013年の憲法改正時に、﹁ベトナム社会主義共和国﹂の国名を、1945年のベトナム八月革命によって独立した時の国名﹁ベトナム民主共和国﹂に改める動きが報じられた[24][25] が、改正案から国名変更部分は除外され、変更はされなかった[26]。歴史[編集]
石器文化[編集]
青銅器文化[編集]
北属期[編集]
越人王朝の形成[編集]
●北部 - 唐末五代十国の混乱で中国の支配が後退すると939年の白藤江の戦いで最初の民族王朝呉朝が成立︵北属期の終わり︶。965年に十二使君の乱が起こり、966年に丁朝が成立。980年に黎桓が前黎朝を興し、981年の白藤江の戦いで宋軍を追い返すことに成功。1001年に李朝の成立。宋は﹁安南国﹂を朝貢国として承認した。1054年に国号を﹁大越﹂としたが、19世紀に至るまで中国は﹁安南﹂と呼んだ。国内では﹁大越﹂︵ダイベト、大いなる﹁越﹂︶であった。昇竜︵タンロン、後のハノイ︶に遷都。以後、越人の王朝﹁大越﹂は南のチャンパと抗争を繰り返した。1225年、李朝との婚姻から陳太宗へ譲位させることに成功し、陳朝が成立。 ●中部 - チャンパ王国 ●南部 - クメール王朝モンゴルの侵攻[編集]
第四次北属期[編集]
14世紀に陳朝の都昇龍︵タンロン︶を2度攻略した制蓬峩︵チェーボンガー、Chế Bồng Nga︶の死後、チャンパ王国では羅皚による王位簒奪が起こった。陳朝に代わった胡朝がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子である巴的吏が、元に代わった中国・明の永楽帝に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争︵明・大虞戦争︶が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期︵1407年-1427年︶となり、明よって﹁交阯﹂︵Jiaozhi、Giao Chỉ、交趾︶との地名で呼ばれた。南進時代[編集]
藍山蜂起︵1418年 - 1428年︶で明軍を追い出した黎利︵レ・ロイ︶により後黎朝が起こる︵1428年 - 1788年︶。地方王権の緩やかな連合体という形態だったチャンパ王国[30] にはヴィジャヤとパーンドゥランガの2つの核となる地域があったが、1471年に後黎朝の侵攻︵チャンパ・大越戦争︶によりヴィジャヤが滅亡した。 黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸による簒奪王朝莫朝が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏が支配し、中部には広南阮氏による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。このころ、日本は広南阮氏と交易し、ホイアンに日本人町ができ来遠橋などが建てられた。 広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタへ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世︵在位‥1618年-1628年︶は、プレイノコール︵英: Prey Nokor、現ホーチミン市︶に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタのベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年、ダナン沖に明朝遺臣を名乗る楊彦迪︵ズオン・ガン・ディック、Dương Ngạn Địch︶、陳上川︵チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên︶らの率いる50隻余の艦隊が出現して広南国への亡命を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった[31] 1693年に広南阮氏の武将阮有鏡がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省・カマウ省に勢力を伸ばしていた鄚玖の半独立国﹁港口国﹂がカンボジア王を裏切り、広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流のクメール人居住領域の併合を行う。西山朝[編集]
1771年に西山阮氏による西山党の乱が起こり、1777年に広南阮氏を滅ぼした。1785年にシャムの支援を受けた広南阮氏の残党・阮福暎がメコンデルタ地帯に攻め込んだが︵ラックガム=ソアイムットの戦い︶、阮恵︵グエン・フエ︶率いる西山阮氏はこれを撃退した。阮恵は軍を北に向け鄭氏もまた滅ぼし、西山朝が成立した。1789年には、北部に辛うじて存在していた後黎朝の昭統帝が清の乾隆帝に援軍を求めて始まった干渉戦争のドンダーの戦いでも阮恵が勝利し、後黎朝も滅んだ。阮福暎は、フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌを始めとする外国勢力やチャンパ遺臣の助けを得て西山朝と戦った。阮朝[編集]
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フランス植民地支配[編集]
反仏独立運動[編集]
フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム︵黄花探、通称﹁デ・タム﹂︶などが知られる。 1904年、ファン・ボイ・チャウ︵潘佩珠︶とクォン・デが維新会を結成。1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて来日︵東遊運動︶。1907年、en:Gilbert Trần Chánh ChiếuとFrançois-Henri SchneiderらによってLục Tỉnh Tân Văn︵六省新聞、1907年 - 1908年︶がサイゴンで発行される。1912年、広東でベトナム光復会を結成。 1913年、Nguyễn Văn VĩnhとFrançois-Henri Schneiderらによって初のチュ・クオック・グー新聞の﹃Đông Dương tạp chí﹄︵﹃東洋雑誌﹄、1913年 - 1919年︶がハノイで発行される。1916年、コーチシナ蜂起。1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会︵Association des Patriotes Annamites︶を組織。1923年、Diệp Văn Kỳによってチュ・クオック・グー新聞﹃Ðông Pháp Thời Báo﹄︵﹃東法時報﹄、1923年 - 1928年︶がサイゴンで発行される。1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党︵インドシナ共産党︶を設立。1930年に、イエンバイ省でグエン・タイ・ホックらベトナム国民党によるイエンバイ蜂起、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエト︵ベトナム語: Xô Viết Nghệ Tĩnh、Nghe-Tinh soviet︶の蜂起が起こった。 1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。第二次世界大戦[編集]
アメリカの介入と南北分断時代[編集]
インドシナ戦争[編集]
1946年11月、ハイフォン︵海防︶でのフランス軍との衝突から、フランスに対する独立戦争︵第一次インドシナ戦争、1946年 - 1954年︶が始まる。1949年、フランスはサイゴンにバオ・ダイを復位させ、ベトナム国として独立を認める。国共内戦における中国共産党の勝利で中国大陸に建国された中華人民共和国と、ソビエト連邦は、ベトナム民主共和国を承認。以後、東西冷戦下で北ベトナム及び統一ベトナムは、中ソや朝鮮民主主義人民共和国︵北朝鮮︶、東欧社会主義諸国とともに東側陣営に属することとなった。 北ベトナムの土地改革︵1953年 - 1956年︶。1954年5月のディエンビエンフーの戦いで敗北したフランスは7月にジュネーヴ協定を結んでベトナムから撤退し、独立戦争は終結した。同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国︵北ベトナム︶とベトナム国︵南ベトナム︶に分断される。10月、南ベトナムではアメリカ合衆国を後ろ盾にゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする。1960年12月、南ベトナム解放民族戦線結成。ベトナム戦争[編集]
1962年2月、アメリカ合衆国はサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入によるベトナム戦争︵第二次インドシナ戦争︶が始まる。1963年11月22日にケネディ大統領が暗殺され、ジョンソンが米大統領に就任すると、1964年8月2日と4日のトンキン湾事件以降、米軍は戦争に直接介入するようになる。1965年2月、アメリカが北ベトナムの爆撃︵北爆︶を開始し、本格的な戦争に突入する。1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢により、アメリカは大打撃を受ける。5月、パリ和平会談を開始したが、会議は中断される。同年10月、ジョンソン政権が北爆を中止して会議が再開された。1969年1月20日、ニクソン政権が誕生し、南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が始まる。6月、南ベトナムで解放戦線は、南ベトナム共和国革命臨時政府を建設し、ベトナム共和国と対峙する。9月2日、ホー・チ・ミンが死去し、レ・ズアンが第一書記として党のトップとなる。1972年4月、アメリカ・ニクソン政権は北爆を再開する。1973年1月、南北ベトナム政府および臨時革命政府ならびにアメリカの4者が、パリ和平協定に調印する。1973年、日本との国交が樹立される。1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が春の大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏する。サイゴンは陥落し、ベトナム共和国は崩壊。南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結した[35][36]。南北ベトナム再統一以後[編集]
1976年4月、南ベトナム消滅による南北統一、初の南北統一選挙が行われた。1976年7月2日、ベトナム民主共和国をベトナム社会主義共和国に改名。1976年12月、ベトナム労働党第4回全国代表者大会をハノイで開き、旧名称であるベトナム共産党を再度採用した。カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争[編集]
第二次インドシナ戦争でカンボジアの共産主義勢力クメール・ルージュは、北ベトナムや南ベトナム解放戦線と協力関係にあったが、1975年にカンボジア内戦に勝利して民主カンプチアを建国した後はベトナムとの対立を深めた。民主カンプチアによる多くの国境侵犯やバチュク村の虐殺などにより、1978年12月にカンボジア・ベトナム戦争︵第三次インドシナ戦争、1978年 - 1989年︶でカンボジアへの侵攻を開始。1979年、侵攻を非難する中華人民共和国がベトナムを攻撃し、中越戦争が開始される。世界各国は援助を停止したためベトナムは孤立するが、戦争期に中ソから支援され、またアメリカや南ベトナムから鹵獲・接収した多種多様な近代兵器と実戦経験豊富な古参兵を擁するベトナムは、文化大革命で混乱・疲弊した中国人民解放軍を相手に善戦し、国連五大国の一角である中国を一度は退けた。 戦争が継続される一方、国内の産業は混乱、経済は低迷した。特に、1979年の農業は農地の集団化が進まないなどの理由でコメの生産が計画量に達せず、軽工業も人材不足や原材料の輸入途絶で生産が停滞した。五か年計画は破綻し、コメの配給が行われない地区も発生した[37]。 1986年7月、レ・ズアンが死去。12月、第6回全国代表者大会以降、チュオン・チン国家評議会議長体制は、社会主義型市場経済を目指す﹁ドイモイ︵刷新︶政策﹂を開始し、改革・開放路線に踏み出す。1988年3月14日、ジョンソン南礁が中華人民共和国に占領される︵スプラトリー諸島海戦︶。カンボジア・ベトナム戦争で勝利してヘン・サムリン率いる親ベトナム政権を成立させた代償にソ連圏を除く国際社会から孤立し、国内経済が疲弊しており、1989年9月、カンボジアから完全撤兵し、カンボジア・ベトナム戦争が終結。カンボジアからの撤退を命じたグエン・ヴァン・リンらが1990年に秘密裡に訪中し、1991年に中国を訪れたヴォー・チ・コン国家評議会議長が江沢民総書記と会談、越中関係を正常化させた。関係改善期[編集]
1991年6月27日、ドー・ムオイが共産党書記長︵最高指導者︶に就任。1993年2月、フランスと和解︵当時のフランス共和国大統領はフランソワ・ミッテラン︶。1995年7月、クリントン・アメリカ大統領が、国家の承認と外交関係樹立を発表。1995年8月5日、アメリカと和解した。 7月、東南アジア諸国連合︵ASEAN︶が加盟を認め、周辺諸国との関係も改善した。10月、所有権や契約の考え方を盛り込んだ、初めての民法ができる。1996年1月、ASEAN自由貿易地域︵AFTA︶ に参加。1997年12月29日、レ・カ・フューが共産党書記長に就任。1998年、アジア太平洋経済協力︵APEC︶参加。2003年7月5日 フォンニャーケーバン国立公園がユネスコ世界遺産に登録された。 2001年4月22日、ノン・ドゥック・マインが共産党書記長に就任。2003年、日越投資協定締結。2006年初頭、Bui Tien Dungが拘留される。6月27日、チャン・ドゥック・ルオン国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党のグエン・ミン・チェット政治局員︵ホーチミン市党委員会書記︶を選出した。また、引退するファン・ヴァン・カイ首相の後任にグエン・タン・ズン党政治局員を国会は選出した。6月28日、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を国会は承認した。ダオ・ディン・ビン交通運輸大臣は同省傘下の汚職事件︵PMU 18 scandal︶で指導責任を問われ、事実上更迭された。 2007年1月11日、世界貿易機関︵WTO︶に正式加盟した︵150番目の加盟国︶。2007年10月16日、国連総会で安全保障理事会の非常任理事国に初選出された。 2011年、グエン・フー・チョンが書記長に就任。反腐敗運動を進め権力集中が進む。2021年、コロナウイルスによる社会の混乱から異例の3期目となる[38]。2023年、汚職によりナンバー2であったグエン・スアン・フックが失脚[39]し、2024年3月にはフックの後任となっていたヴォー・ヴァン・トゥオンも﹁党の規律に違反する行為﹂があったとして失脚。同年4月には、ヴオン・ディン・フエ国会議長も﹁党の規則に違反し、党や国家の威信に影響を与えた﹂ことを理由に任期途中の辞任が承認された[40][41]。政治[編集]
統治体制[編集]
政府の運営は極めて官僚的であり、市場経済化しつつ政治の民主化は認めない中国共産党独裁下の中華人民共和国に類似している。近年では行政手続きを簡素化するなど、投資の透明性や効率性を向上させようとしている[47]。
立法[編集]
住民登録[編集]
長らく戸籍で国民を登録していたが2021年7月1日に戸籍簿の発行が終了[51]、2023年1月1日[52]、個人を単位とする住民データベースに移行[53]。国際関係[編集]
中国との関係[編集]
台湾との関係[編集]
台湾には、在台ベトナム人(在台越南人)とベトナム系台湾人(越南裔台灣人)がいる。ベトナム戦争後の難民や出稼ぎ労働者、配偶者としての台湾への移住などによって形成された。2019年時点で在台外国人約76万人のうち、在台ベトナム人は約22万人と29%を占める[注 3]。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多く、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。ベトナム人配偶者は「新移民」とも呼ばれ、台湾の農村地域では配偶者が不足しており、婚姻仲介業者がベトナム人女性を紹介する場合が多く、婚姻により台湾に定住するベトナム人女性が増加しているが、生活環境の違いが問題となる場合もある。
北朝鮮との関係[編集]
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韓国との関係[編集]
アメリカ合衆国との関係[編集]
フランスとの関係[編集]
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日本との関係[編集]
明治時代から昭和前半[編集]
第二次世界大戦[編集]
1940年︵昭和15年︶に日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年︵昭和16年︶には南部にも進駐した。これは、フランスのヴィシー政権との外交協議によるものであり、日本軍は太平洋戦争末期までフランス領インドシナ政府と共存していた。その後、日本軍は、1945年3月の明号作戦によりフランス領インドシナを解体し、阮朝の保大帝の下でベトナム帝国を独立させた。 戦争終結後に生じた権力の空白はベトナム独立同盟︵ベトミン︶に有利に作用し、1945年8月の日本敗戦直後にホー・チ・ミン︵阮愛国︶率いるベトミンは保大帝を退位させてベトナム八月革命を達成した。駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことで、日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないと見做されている[注 5][信頼性要検証]。 第二次世界大戦末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の餓死者が発生した。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、国内ではこの200万人という数字は広く知られている︵﹁ベトナム独立宣言﹂参照︶が、日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万人とされている︵﹃ドキュメントヴェトナム戦争全史﹄岩波現代文庫、2005年︶。戦後の日本は、南ベトナム政府に賠償として140億4000万円︵3900万ドル︶を供与した。北ベトナム政府に対しては1973年の国交樹立により﹁経済協力﹂の形で4500万ドル相当の賠償金を支払った。第二次世界大戦後[編集]
第二次世界大戦後、フランスが再び進駐してくると、フランス軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争︵第一次インドシナ戦争︶が始まった。ベトミンに残留日本兵が多数参加し、独立に対して多大な貢献をした。当時、766人の日本兵が留まっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校を創設して約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵が政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって日本へ帰国した150人以外は、なお留まり続けた模様である。 1951年に日本政府はベトナム国︵南ベトナム︶と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相︵当時︶が国名を変更したベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。 一方、ベトナム民主共和国︵北ベトナム︶は戦争賠償の請求権を留保したが、日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。しかし、ベトナム戦争末期の1973年7月より、フランスの首都パリにおいて国交交渉が開始される。同年9月21日には交換公文が交わされ、大使級の外交関係が樹立された[72][73]。また、国交樹立の合意に伴い﹁経済協力﹂の形で2年間で4500万ドル相当の賠償金を支払うこととなった。 日本共産党と全教は1993年よりフエでストリートチルドレンの保育・教育施設﹁ベトナムの子どもの家﹂︵小山道夫[注 6] 主宰︶を運営している。小山自身は日本共産党員であるが、旧社会党系[注 7] の活動家・政治家と親しく、1994年6月30日から1997年︵平成9年︶11月7日の自社さ連立政権下においては、フエ省知事顧問として複数の日本ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。支援する﹁ベトナムの子どもの家を支える会﹂の活動も盛んであり、日本民主青年同盟、革新自治体の青年・学生組織及びピースボートと交流を行なっている。近年の日越関係[編集]
現在,日越関係は﹁アジアにおける平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップ﹂の下、政治、経済、安全保障、文化・人的交流など幅広い分野で緊密に連携している。日越間の交流の増加を受けて、1997年の在大阪ベトナム総領事館開設に続き、2009年に在福岡ベトナム総領事館、2010年に在釧路ベトナム名誉領事館と在名古屋ベトナム名誉領事館が開設された[74]。 皇太子徳仁親王︵当時︶は2008年︵平成20年︶9月20日に日越国交35周年の記念イベントである﹁ベトナムフェスティバル2008﹂の開会式に臨席し[75]、翌2009年︵平成21年︶2月には、ハノイ、ダナン、ホイアン、ホーチミン市と、各地を縦断して訪問し、明仁上皇が皇太子時代の1976年︵昭和51年︶に南部のカントー川支流で新種のハゼが見つかったことを明らかにした学術論文をハノイ自然科学大学に寄贈した[76]。また、﹁日メコン交流年2009﹂ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している[77]。 査証︵ビザ︶に関しては、2005年5月1日、相互免除に関する口上書を締結し、公用訪日者や短期訪越者は査証が免除されている[78]。2015年1月にベトナム側の入管法改正により一旦再入国や滞在期限延長に関する規制が強化されたが、2016年1月にはある程度の緩和が実施され、良好に査証が免除されている関係である[79]。 在日ベトナム人は増加傾向にあり、2020年末には44万8000人となり、日本の外国人では韓国を抜き、中国に次いで2番目に多い[80]。政府開発援助・価値観外交[編集]
ODAは日本が最大の支援国であり[80]、日本のODAによってタンソンニャット国際空港やカントー橋などの基幹インフラを建設・支援をしている。﹁自由で開かれたインド太平洋﹂構想に基づいた援助も行われている[81]。教育・文化交流事業[編集]
国家安全保障[編集]
外国との軍事協力[編集]
ベトナム人民軍は日本の防衛大学校に本科学生相当の留学生を多数派遣している。 アメリカ合衆国や日本からは巡視船の供与を受け[84][85]、カムラン湾には伝統的友好国のロシア海軍は勿論、アメリカ海軍や海上自衛隊、中国人民解放軍海軍などの艦船が寄港している。 インドとは2022年6月に、相互の軍事基地を補給・補修に使う、外国との初の協定を結んだ[86]。以前からインド海軍はベトナム人民海軍将兵の訓練協力や海軍艦船の供与を行っており、ベトナムはインド海軍艦艇のベトナム常駐を要請したこともある[87]。 2014年には国際連合平和維持活動に初参加した[88]。また2022年12月上旬には国として初の大規模国際防衛展示会を開催し、米露など30カ国が参加した[89]。地理[編集]
概要[編集]
デルタ地帯[編集]
5月から11月にかけて、インド洋を渡ってやってくるモンスーン︵季節風︶が東南アジア大陸に大量の雨を降り注ぎ、山の土が崩れ、川に流れ込み、河川の至る所で堆積し、河口では大きなデルタを形成する。このデルタは比較的低平なので水田耕作などに適し、穀倉地帯となっていることが多い。北部の紅河デルタや南部のメコンデルタが、重要な穀倉地帯になっている。コメ生産は北部の紅河デルタでは二期作、南部のメコンデルタでは三期作である[90]。平野[編集]
ベトナム北部には、紅河、マー川︵タインホア省︶やラム川︵ゲアン・ハティン省︶の下流域などに大きな平野が広がっている。紅河平原の面積は約15,000平方キロメートルで一面が水田であり、人口は6,500,000人︵1931年時点︶を擁し、そのほとんどは農民である[91]。気候[編集]
- ハノイの気候(温帯夏雨気候)
ハノイ (1898-1990年)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 33 (91) |
34 (93) |
37 (99) |
39 (102) |
43 (109) |
40 (104) |
40 (104) |
38 (100) |
37 (99) |
36 (97) |
36 (97) |
37 (99) |
43 (109) |
平均最高気温 °C (°F) | 19.3 (66.7) |
19.9 (67.8) |
22.8 (73) |
27.0 (80.6) |
31.5 (88.7) |
32.6 (90.7) |
32.9 (91.2) |
31.9 (89.4) |
30.9 (87.6) |
28.6 (83.5) |
25.2 (77.4) |
21.8 (71.2) |
27.0 (80.6) |
日平均気温 °C (°F) | 16.5 (61.7) |
17.5 (63.5) |
20.5 (68.9) |
24.2 (75.6) |
27.9 (82.2) |
29.2 (84.6) |
29.5 (85.1) |
28.8 (83.8) |
27.8 (82) |
25.3 (77.5) |
21.9 (71.4) |
18.6 (65.5) |
24.0 (75.2) |
平均最低気温 °C (°F) | 13.7 (56.7) |
15.0 (59) |
18.1 (64.6) |
21.4 (70.5) |
24.3 (75.7) |
25.8 (78.4) |
26.1 (79) |
25.7 (78.3) |
24.7 (76.5) |
21.9 (71.4) |
18.5 (65.3) |
15.3 (59.5) |
20.9 (69.6) |
最低気温記録 °C (°F) | 3 (37) |
5 (41) |
7 (45) |
10 (50) |
16 (61) |
21 (70) |
22 (72) |
21 (70) |
17 (63) |
13 (55) |
6 (43) |
5 (41) |
3 (37) |
雨量 mm (inch) | 18.6 (0.732) |
26.2 (1.031) |
43.8 (1.724) |
90.1 (3.547) |
188.5 (7.421) |
239.9 (9.445) |
288.2 (11.346) |
318.0 (12.52) |
265.4 (10.449) |
130.7 (5.146) |
43.4 (1.709) |
23.4 (0.921) |
1,676.2 (65.991) |
平均降雨日数 | 8.4 | 11.3 | 15.0 | 13.3 | 14.2 | 14.7 | 15.7 | 16.7 | 13.7 | 9.0 | 6.5 | 6.0 | 144.5 |
% 湿度 | 78 | 82 | 83 | 83 | 77 | 78 | 79 | 82 | 79 | 75 | 74 | 75 | 78.8 |
平均月間日照時間 | 93 | 56 | 62 | 120 | 186 | 180 | 186 | 186 | 180 | 155 | 150 | 124 | 1,678 |
出典1:World Meteorological Organisation (UN),[93] BBC Weather (record highs, lows, and humidity) [94] | |||||||||||||
出典2:World Climate Guide [95] |
- ホーチミン市の気候(サバナ気候)
ホーチミンの気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 31.6 (88.9) |
32.9 (91.2) |
33.9 (93) |
34.6 (94.3) |
34.0 (93.2) |
32.4 (90.3) |
32.0 (89.6) |
31.8 (89.2) |
31.3 (88.3) |
31.2 (88.2) |
31.0 (87.8) |
30.8 (87.4) |
32.3 (90.1) |
日平均気温 °C (°F) | 26.4 (79.5) |
27.7 (81.9) |
29.2 (84.6) |
30.2 (86.4) |
29.6 (85.3) |
28.5 (83.3) |
28.2 (82.8) |
28.1 (82.6) |
27.9 (82.2) |
27.6 (81.7) |
26.9 (80.4) |
26.1 (79) |
28.03 (82.48) |
平均最低気温 °C (°F) | 21.1 (70) |
22.5 (72.5) |
24.4 (75.9) |
25.8 (78.4) |
25.2 (77.4) |
24.6 (76.3) |
24.3 (75.7) |
24.3 (75.7) |
24.4 (75.9) |
23.9 (75) |
22.8 (73) |
21.4 (70.5) |
23.7 (74.7) |
雨量 mm (inch) | 13.8 (0.543) |
4.1 (0.161) |
10.5 (0.413) |
50.4 (1.984) |
218.4 (8.598) |
311.7 (12.272) |
293.7 (11.563) |
269.8 (10.622) |
327.1 (12.878) |
266.7 (10.5) |
116.5 (4.587) |
48.3 (1.902) |
1,931 (76.023) |
平均降雨日数 | 2.4 | 1.0 | 1.9 | 5.4 | 17.8 | 19.0 | 22.9 | 22.4 | 23.1 | 20.9 | 12.1 | 6.7 | 155.6 |
% 湿度 | 69 | 68 | 68 | 70 | 76 | 80 | 80 | 81 | 82 | 83 | 78 | 73 | 75.7 |
平均月間日照時間 | 244.9 | 248.6 | 272.8 | 231.0 | 195.3 | 171.0 | 179.8 | 173.6 | 162.0 | 182.9 | 201.0 | 223.2 | 2,486.1 |
出典1:World Meteorological Organization (UN)[96] Weatherbase (humidity)[97] | |||||||||||||
出典2:(sunshine hours only)[98] |
生物多様性[編集]
ベトナムでは15,986種の植物相が確認されており、その内の10%が固有の植物で占められている。動物相には、307種の線虫類、200種の貧毛綱、145種のダニ類、7,750種の昆虫(うち113種はトビムシ目)、260種の爬虫類、120種の両生類が含まれている。また840種の鳥類と310種の哺乳類が生息しており、うち100種の鳥類と78種の哺乳類が広範囲に分布している。他は水生無脊椎動物が794種、海水魚が2,458種を占めている。 淡水に生息する微細藻類も1,438種存在しており、全微細藻類の9.6%がベトナム国内での生息を確認されている。
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環境[編集]
ベトナムでは、先述での戦争時において使用された枯葉剤などの化学物質による影響から、多くの問題を抱えている一面がある。
また、野生動物の密猟が大きな懸念事項となっている。
2004年時点で生物多様性の保全に4,907万ドルを費やしており、30の国立公園を含む126の保全地域を設立している。現在は9つの生物圏保護区が設けられている。
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地方区分[編集]
日本の地域と同様の慣用的な地方の区分として、地方行政区画に沿って西北部、東北部、紅河デルタ、北中部、中南部、中部高原(タイグエン)、東南部、メコンデルタの8つに分けている。
また、より大枠な地方の区分として、西北部・東北部・紅河デルタを北部地方(北ベトナム、ベトナム語:Miền Bắc / 沔北)、中北部・中南部・中部高原を中部地方(中部ベトナム、ベトナム語:Miền Trung / 沔中)、東南部・メコンデルタを南部地方(南ベトナム、ベトナム語:Miền Nam / 沔南)の3つに区分している。これらは、フランス植民地時代のトンキン、アンナン、コーチシナにそれぞれ相当するが、細部に変更がみられる。
端[編集]
- Color Notes
陸上の極地 (2) 海岸線の極地 (2) 海上の極地 (2)
# | 最極端 | 場所 | 行政区 | 接する自治体 | 座標[注 11] | 出典 | 写真 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
最北端 | ドンヴァン県ルンクー社 | ハザン省 | 中国雲南省 | 北緯23度23分33秒 東経105度19分24秒 / 北緯23.392505度 東経105.323240度 | [99] | |||||
最西端 | ムオンネ県シンタウ社アパチャイ | ディエンビエン省[100][101] | ベトナム 中国 ラオス 十層大山 |
北緯22度24分03秒 東経102度08分38秒 / 北緯22.400734度 東経102.143940度 | [102] | |||||
最南端 | ゴクヒエン県カマウ岬 | カマウ省 | 南シナ海 | 北緯8度37分23秒 東経104度42分36秒 / 北緯8.623度 東経104.71度 | [103] | |||||
最南端 | ホンカイ島ヴァンガード堆 | カマウ省 | 南シナ海 |
(おおよそ) |
[104] | |||||
最東端 | ヴァンニン県ヴァンフォン湾ホンゴム半島ドイ岬 | カインホア省 | 南シナ海 | 北緯12度38分54秒 東経109度27分42秒 / 北緯12.6483756度 東経109.4616339度 | [105] | |||||
最東端 | 南沙諸島チュオンサ県仙女礁 | カインホア省 | 南シナ海 | 北緯8度51分18秒 東経114度39分18秒 / 北緯8.855度 東経114.655度 | [106][107] |
地方行政区画[編集]
主要都市[編集]
住所表記[編集]
欧米の多くと同様に、細かい分類から順に表記し、またストリートによって住所を表す。番地は、偶数が左車線側、奇数が右車線側のように分かれ、ストリート名のない細かい路地に入る場合は、7/40︵40番地にある路地内の7番目︶のように表記する。例として、ホーチミン市1区人民委員会の住所を下記に記す。 ●Ủy ban nhân dân Quận 1 - 47, Đường Lê Duẩn, Phường Bến Nghé, Quận 1, Tp Hồ Chí Minh, Việt Nam ︵1区人民委員会 - 47番地、レ・ズアン通り、ベンゲー坊、1区、ホーチミン市、ベトナム︶経済[編集]
農業[編集]
鉱業[編集]
石炭や南シナ海で採掘される石油を中心とした有機鉱物資源、スズを中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン︵ホンゲイ︶から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。石炭技術で釧路コールマインとの繋がりが太く、北海道釧路市に名誉領事館を設置している。2003年時点の採掘量は1,670万トン。原油は1,660万トンのを産出する産油国でもあり、天然ガスの採取量は126千兆ジュールとなっている。 金属鉱物資源は、北部デルタ周囲の丘陵地帯に主に産する。最も重要なのが世界第4位のスズ︵4000トン、世界シェア1.5%、2005年︶。亜鉛、金、クロム、鉄、鉛のほか、リン鉱石を産出する。エネルギー[編集]
ベトナムの電力の大部分は、石炭、石油、ガスなどの火力発電または化石燃料発電によって生産されており、その他にはディーゼル、小さな水力発電所での水力発電、再生可能エネルギーを用いた発電が挙げられる。これらが現在も国の電気を供給している。
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観光産業[編集]
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交通[編集]
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道路[編集]
鉄道[編集]
空港[編集]
科学技術[編集]
ベトナムの科学技術に対する国家支出は、2010年時点でGDPの約0.45%に達している。
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国民[編集]
ベトナム社会主義共和国憲法第5条に「ベトナム社会主義共和国はベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と、多民族国家であることを規定している。ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。ベトナム国民は、身分証明書を一定年齢以上に達すると発給され、身分証明証には民族籍を記入する欄が設けられている[122]。
人口[編集]
ベトナムの総人口は、2022年現在で9,832万人となっている。1988年以降「2人っ子政策」をとってきたが、2017年を以って廃止された[123]。
民族構成[編集]
公式に認められている民族が54あり、そのうちキン族(ベトナム族)が最も多く、全人口の85%から90%を占める。キン族の言語であるベトナム語はムオン族・セダン族などと同じオーストロアジア語族(モン・クメール語派)語族に属する。ムオン族はホアンビン省、タインホア省の山間部に住み、ベトナム語のゲアン方言などとの近似性が指摘されている[124]。
言語[編集]
言語はベトナム語︵越南語︶が公用語である。その他にも華語︵主に広東語、閩南語、北京語︶、クメール語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層や高齢者の間ではフランス語が理解できる人もいる。また、ソビエト連邦など共産主義国とのつながりがあったため、ロシア語を理解できる人もいる。ただし、最近の若年者の教育は英語教育が一般的になり、町の看板などを見渡してもベトナム語以外では、欧米人観光客向け︵観光客相手に生活していく上でも、英語ができないと生活が成り立たないため︶に英語が目立つのが、現在の状況である。文字[編集]
詳細については、各項目を参照のこと。 チュ・クオック・グー︵𡨸國語︶ 声調をもつベトナム語を表記するために発明された声調入りアルファベット︵ラテン文字︶であり、現在唯一の公用文字。17世紀にフランス人のイエズス会宣教師、アレクサンドル・ドゥ・ロードが、カトリック教会布教の為に発明した文字。19世紀末以降のフランス植民地時代に普及し、1945年の独立時に正式に公用文字となった。現在、ベトナム語はもっぱら、この文字により表記される。 チュハン︵𡨸漢︶ ベトナムにおける漢字。上記のチュ・クオック・グーが公用文字となるまで、ベトナム語を表記する公用文字はなく、書き言葉としてはもっぱら漢文︵古中国語︶が用いられた。チュ・クオック・グーの普及により使用頻度が減少したが、ベトナム語の中には漢字語の影響が強く残っている。北ベトナムでは1950年の暫定教育改革により漢文教育を廃止し、1954年には漢字の公的な使用を全廃、南ベトナムでは1975年の崩壊まで中等教育での漢文科が存続していた。2014年現在では、僧侶か日本語や中国語の学習者しか読めなくなっている。 チュノム︵𡨸喃︶ ベトナム語を表記するために13世紀に発明された合成漢字。固有語の表記に用いられ、漢字と混ぜ書きされた。 (一)漢字の音と意味による形成 (二)訓読み (三)当て字 など、複数の造字法があり複雑で、一時期を除いて公用文字に採用されることはなかったが、民族意識の高まりを背景に民間では有識者層を中心に普及し、18世紀から19世紀には多くのチュノム文学が生まれた。20世紀になると、漢字の画数が複雑過ぎる事で、初等教育に支障を来す事や、チュ・クオック・グーの普及により、急速に衰退の道を辿った。人名[編集]
宗教[編集]
また、ベトナム共産党員はホー・チ・ミン元国家主席のみを信仰する傾向がある。無論ホー・チ・ミン信仰は「宗教ではない」が、それに匹敵する影響力を有する(ホー・チ・ミン自身は、自らが個人崇拝の対象になることを、徹底的に嫌っていた程であった)。
教育[編集]
教育行政[編集]
教育行政は、中央に教育訓練省、地方の省レベル[注 12]に教育訓練局、県レベルに教育課がある。学校段階別の管轄関係は基本的には次のようになっている。高等教育は教育訓練省、普通中学は教育訓練局、基礎中学・小学校・幼稚園・保育園は教育課。これら教育行政機関の職員は﹁教育管理幹部﹂と呼ばれ、教育経験者。教員の資格要件は、幼児教育と初等教育で中等師範学校卒、前期中等は師範短期大学卒、後期中等教育は大学卒となっている[129]。保健[編集]
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衛生環境[編集]
ベトナムには豊富な地表水と地下水資源が存在するが衛生設備が整っていない状態が今も続く為、乾季には局地的な水不足が発生する問題点を抱えている。
医療[編集]
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治安[編集]
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法執行機関[編集]
人民公安局が治安維持を担っている。この機関は公安省の指揮下にある。
人権[編集]
人権問題[編集]
ヒューマン・ライツ・ウォッチによると言論、精神、出版、団結、宗教といった基本的人権が制限されている。人権活動家やブロガーは、嫌がらせ、脅迫、暴力、投獄に直面している[131]。 アムネスティ・インターナショナルは、Facebook、Googleがサービスを提供しているが、政府の検閲に協力しているとしている[132]。LGBTの権利[編集]
マスコミ[編集]
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新聞と雑誌[編集]
報道規制[編集]
●1975年までのベトナム共和国︵南ベトナム︶ではゴ・ディン・ジエム政権やグエン・バン・チュー政権などの独裁政治を批判する知識人グループ﹁第三勢力﹂の活動が続いた。しかし、1976年に南北統一によってベトナム社会主義共和国が成立した後、レ・ズアン指導部は硬直化した官僚政治を推し進め、メディアの活動を抑制する路線をとった。1980年代後半に、グエン・ヴァン・リン書記長がドイモイ路線を推し進め、新聞や雑誌にも活況を与えた。1986年3月1日にホーチミン市で新聞﹃タインニエン﹄が創刊された。 ●1989年に、中華人民共和国で六四天安門事件が発生し、東ドイツで﹁ベルリンの壁﹂が崩壊すると、メディアを抑制する路線に切り替えた。同年12月、﹁マス・メディア法﹂が制定され、刑法258条にて報道禁止条項が明記された[143]。通信[編集]
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インターネット[編集]
- 2018年現在、6850万人がインターネットを使用している[144][145]。また、政治的発言をするブロガーが逮捕されるなどの事件を受け、『ウォール・ストリート・ジャーナル』は「スマートフォンやタブレット端末が急速に普及しているものの、世界で最もインターネットを利用するのが危険な国の1つでもある」と、指摘している[146]。
文化[編集]
食文化[編集]
文学[編集]
哲学[編集]
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音楽[編集]
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芸能[編集]
- 水上人形劇
- ハット・チェオ(Chèo) - ベトナム北部で人気の演劇。
- ハット・ボイ(トゥオン、Tuồng) - ベトナム中部、南部の演劇。
- カイ・ルオン - Cải lương - 改良劇の意。国外の物語も含む新しい演劇。
映画[編集]
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衣装[編集]
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建築[編集]
ベトナムの建築は古代中国の文化から影響を受けている面が多く、呉朝以前から仏教建築の影響の濃さが窺える。
近代における建築はフランス植民地時代に西洋文化の影響を強く受けている為、その点から建材にセメントが広く使われるようになり、ハノイ歌劇場を始めとしたコンクリート建築の建物が戦後から設けられている。
世界遺産[編集]
歴史文化遺産[編集]
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 越語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 正月 | Tết Dương Lịch/Tết Tây 節陽曆/節西 |
休日。日本と違い2日より、官公庁や企業は通常営業となる。 |
旧暦1月1日 | テト(旧正月) | Tết Nguyên Đán 節元旦 |
2016年は2月8日。休日。前後一週間程度を官公庁や企業が休日にする。 |
3月8日 | 国際婦人デー | Ngày Quốc tế Phụ nữ 𣈗國際婦女 |
祝日 |
旧暦3月10日 | フンヴオン記念日 | Ngày Giỗ tổ Hùng Vương 𣈗𣋼祖雄王 |
フンヴオン(雄王、紀元前にベトナム北部を初めて統一したとされる文郎国王)を祭る日。2016年は4月16日。休日。 |
4月30日 | 南部解放記念日 | Ngày Giải Phóng miền Nam/Ngày Thống nhất 𣈗解放沔南/𣈗統一 |
サイゴン陥落(1975年)を記念する日。休日。別名:「統一の日」。 |
5月1日 | 国際労働日(メーデー) | Ngày Quốc Tế Lao Động 𣈗國際勞動 |
南部解放記念日と続き休日で、唯一の連休である。 |
旧暦5月5日 | 端午節 | Tết Đoan ngọ/Tết giết sâu bọ 節端午/節𢷄螻蜅 |
2016年は6月9日。別名:「虫封じの日(殺虫節)」。 |
6月1日 | 子供の日 | Ngày Quốc tế Thiếu nhi
𣈗國際少兒 |
祝日 |
旧暦8月15日 | 中秋節 | Tết trung thu
節中秋 |
2016年は9月15日。祝日。 |
9月2日 | 国慶節 | Ngày Quốc Khánh 𣈗國慶 |
ベトナム独立宣言(1945年)発布を記念する日。休日。 |
10月20日 | ベトナム女性の日 | Ngày Phụ Nữ Việt Nam | 祝日 |
11月20日 | 先生の日 | Ngày Nhà giáo Việt Nam 𣈗家教越南 |
1982年制定。先生や教師に対して感謝する日。学校では感謝パーティが催され、生徒などから先生に贈り物が渡される[注 14]。祝日。 |
スポーツ[編集]
サッカー[編集]
著名な出身者[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●川口健一 著﹁ベトナム文学﹂、原, 卓也、西永, 良成 編﹃翻訳百年――外国文学と日本の近代﹄︵初版第一刷︶大修館書店、東京、2000年2月10日、237-254頁。ISBN 4-469-21250-4。 ●白井洋子﹃ベトナム戦争のアメリカ﹄刀水書房、日本、東京、2006年。ISBN 4-88708-352-1。 ●ファン・ゴク・リエン﹃ベトナムの歴史──ベトナム中学校歴史教科書﹄今井昭夫監訳、伊藤悦子・小川有子・坪井未来子訳、明石書店、日本、東京︿世界の教科書シリーズ21﹀、2008年。ISBN 978-4-7503-2843-0。 ●オルタ2007年4月号 ●﹃世界年鑑2017﹄ 一般財団法人共同通信社 2017年3月10日 ISBN 978-4764106956 ●刈安望﹁アジア編﹂﹃世界地方旗図鑑﹄︵初版第一刷︶えにし書房、2015年2月10日。ISBN 978-4908073151。 ●柳澤雅之﹃第11章 山と平野、水と土 : 二大デルタの自然と農業﹄明石書店、2004年6月。hdl:2433/267940。 ●︽所収︾今井昭夫, 岩井美佐紀﹃現代ベトナムを知るための60章﹄明石書店︿エリア・スタディーズ ; 39﹀、2004年。ISBN 4750319007。国立国会図書館書誌ID:000007398140。関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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