芭蕉について 宮本百合子

 今日は、宮本百合子の「芭蕉について」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」といった芭蕉の代表作をいくつか並べ「旅にやんで夢は枯野をかけ廻る」という句をつくるところまでの芭蕉の人生を、はじめのほうから考察する、文芸論のエッセーでした。
 芭蕉の同時代の、談林派や西鶴や近松門左衛門の芸術性について論じつつ、芭蕉の創作の変化について書いた作品です。
 芭蕉ははじめ「松尾宗房」という名前で「若殿の近侍であった」のですが、ある時期に一人で出奔して京大阪で暮らすようになります。そこでは、談林派と混じりあって、ことば遊びのような作風で俳句を作るようになったのですが、のちに考え方を変えて、李白の詩心に唸ったり、「十七世紀日本の寂しさ」を描きだすような俳句を作るようになってゆきました。以下の文章が印象に残りました。
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  西鶴も近松門左衛門も最もありあわせた仏教的なものに納まっている。しかし、芭蕉の芭蕉たるところは、哲学的にそういう支柱のある境地さえも自身の寂しさ一徹の直感でうちぬけて、飽くまでもその直感に立って眼目にふれる万象を詩的象徴と見たところにあるのだと思われる。quomark end - 芭蕉について 宮本百合子

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追記  芭蕉の諸作には「芸術にとりくんだ魂魄の烈しさによって、今日と明日の芸術の建設のための鼓舞を感じる」と宮本百合子は記します。
「完成された芸術に屈服するな、今日の現実感覚に立て」「芭蕉こそ真の芸術家として、古典というものが再びそこにそのままの姿で住むことは出来ない民族芸術の故郷だからこそ価値の深いものであることを知りつくしていたと思う」という一文で終わる文芸論でした。

散華 太宰治

 今日は、太宰治の「散華」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これはまだ敗戦に至らない激戦の1944年のころの作品です。病で眠るようにすっと亡くなる人というのがどうも居るらしいという話しは聞いたことがあるのですが、友人の「三井君」は、太宰治によれば美しいとしか言いようが無い臨終をした人なのだそうです。本文はこうです。
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  病勢がよほどすすんでからでも、三井君は、御母堂の眼をぬすんで、病床から抜け出し、巷を歩き、おしるこなど食べて、夜おそく帰宅する事がしばしばあったようである。御母堂は、はらはらしながらも、また心の片隅では、そんなに平然と外出する三井君の元気に頼って、まだまだ大丈夫と思っていらっしゃったようでもある。三井君は、死ぬる二、三日前まで、そのように気軽な散歩を試みていたらしい。三井君の臨終の美しさは比類が無い。美しさ、などという無責任なお座なりめいた巧言は、あまり使いたくないのだが、でも、それは実際、美しいのだから仕様がない。三井君は寝ながら、枕頭のお針仕事をしていらっしゃる御母堂を相手に、しずかに世間話をしていた。ふと口を噤んだ。それきりだったのである。quomark end - 散華 太宰治
 
 20世紀最大の資源不足と食糧難に陥ってゆく環境下で、治る病も治らなくなる時世が書き記されてありました。
  

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追記  戦争の怖ろしい被害について記されている作品でした。ほかにも友人との思い出のことについて様々に記しています。以下の、太宰治の思いが込められた一文が印象に残りました。「私は、年少年長の区別なく、ことごとくの友人を尊敬したかった。尊敬の念を以て交際したかった。だから私は、年少の友人に対しても、手加減せずに何かと不満を言ったものだ。」くわしくは本文をご覧ください。「純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力している」詩人や作家の思いが記されている、敗戦間近のころに書かれた小説でした。平和のなかにあって読むこの作品と、戦争の只中に置かれた人が読むこの本とでは、意味内容がまるで異なってしまうのでは、と思う生々しい描写の作品でした。

能とは何か 夢野久作

 今日は、夢野久作の「能とは何か」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは夢野久作とその若い友人が作った能の芸術論です。
 スイス近辺のエスペランティスト(エスペラント語使用者)の外国人青年が夢野久作のところへやって来て、能について議論をし、その対談をもとに原稿にしたものなんです。読んでみると大半が、夢野久作の考察に思えますが、聞き手というのか問いを立てているのは、エスペランティストの青年であるように思います。
 夢野久作は、能の魅力について「何だか解からないが幻妙不可思議な」作品で「面白くないところが何ともいえず面白く」感じられてくるのであると書いています。夢野久作によれば、日本人の9割以上が能を嫌っている、と前半に記しています。その理由は「シン気臭い」し「退屈で見ていられない」もので「能というものは要するに封建時代の芸術の名残りである」し「進歩も発達もない空虚なもの」ということなんです。ところが、外国の研究者や、能に関わった日本人は、能の芸術の魅力を大いに見いだしているのでした。
 本文こうです。
quomark03 - 能とは何か 夢野久作
  能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞か、謡か、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。
 その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くないところが何ともいえず面白くなる。よくてたまらず、有り難くてたまらないようになる。あの単調な謡の節の一つ一つに云い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞の手ぶりが、非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現慾をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら誰にでも謡って聞かせたくなる。quomark end - 能とは何か 夢野久作
 
 また熊の一種で「四ツの手足が無い」「能」という獣が居る、手足が無いのに「物の真似がトテモ上手で世界中のありとあらゆるものの真似をする」その能というけだものと、舞台芸術の能は、通底している……という架空の獣の話しが印象にのこりました。
 中盤からは、真面目に能の芸術性を論じて、後生への伝承のしかたについて書いています。
quomark03 - 能とは何か 夢野久作
 能とは要するに、人間の表現慾の極致、芸術的良心の精髄を、色にも型にも残らぬ型というものによって伝えて行くものである。……quomark end - 能とは何か 夢野久作
 

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追記  おわりに、蝶の美と、能の美の共通項について論じているのが印象にのこりました。これが夢野久作の芸術論であり美学論なのだろうと思いました。
「蝶のあの美しい姿は開闢かいびゃく以来、あらゆる進化の道程を経て、あの姿にまで洗練されて来たものである。」「蝶の舞いぶり、鳥の唄いぶりが、人間のそれと比べて甚しく無意味であるだけそれだけ、春の日の心と調和し、且つその心を高潮させて行くものである事は皆人の直感するところであろう。」「人間の世界は有意味の世界である。大自然の無意味に対して、人間はする事なす事有意味でなければ承知しない。芸術でも、宗教でも、道徳でも、スポーツでも」「能はこの有意味ずくめの世界から人間を誘い出して、無意味の舞と、謡と、囃子との世界の陶酔へ導くべく一切が出来上っている。」

瀧 今井邦子

 今日は、今井邦子の「瀧」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 瀧の魅力について短く記した随筆で、とくに華嚴の瀧のみごとさについて書いたものです。ちょっと「華嚴の瀧」についてGoogleで検索してみると、この写真がずらっと表示されて、なんとも迫力のある瀧に思いました。いちどは行ってみたい瀧、と思ったんですが、百年前の今井邦子さんはおそらく、汽車を降りてから歩いてじっくりこの瀧を見にいったわけで、それはもう「この感動は一寸筆に表現出來ません」と書くくらいの迫力があったのでは、と、思いました。
 

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道は次第に狭し 北大路魯山人

 今日は、北大路魯山人の「道は次第に狭し」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 魯山人が、美味い飯についてさんざん論じている随筆です。魯山人はこう書きます。
「夏場の刺身として、例えばすずきやかれいの洗いがある。」「私はふつうの刺身ほど厚くは切らぬが、極端に薄くしないで、よく洗う」「こうすることによって中身はエキス抜きにならないから、噛むと魚の好味が出て、歯ごたえもあり、至極美味い。」
「しかし、このごろ、別の考えが起こって来ている。」「極薄な味のないところが、却ってよいのではないか。中から味が出るとか出ないとか言うには及ばない。ただ、さらっとした涼味だけでよいのではないか。そういう考えが起こって来ている。 長年やってみての上で、ようやくそんな気もしてきたというわけだ。こんなことが体験数十年もたった今ようやく分ってきた。むずかしいものである。」
 今回、魯山人は料理の話しや芸術論について記しつつ、孔子の中庸について論じていました。原文ではこの箇所なんです。
 
子曰、
道之不行也、我知之矣。
知者過之、愚者不及也。
道之不明也、我知之矣。
賢者過之、不肖者不及也。
人莫不飲食也。鮮能知味也。
 
孔子はこう述べた。
「道が実践されない理由は、私にはわかっている。
知者はそれを越えすぎ、愚者はそれに達しないからである。
道が明らかにされない理由も、私にはわかっている。
賢者はそれを越えすぎ、不肖者はそれに達しないからである。
(このように中庸の道は難しい。)人はだれしも飲食する(というごく日常的な行為ではあるが)、その(中庸という)真味を知る者はまれなのである。」
(※ 上記はdeepseek翻訳に修正を加えたものです)
 

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倫敦塔 夏目漱石

 今日は、夏目漱石の「倫敦塔」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 漱石のいちばんはじめの作品の代表的なのは「吾輩は猫である」と「倫敦塔」の2つなんです。漱石がじっさいに訪れたロンドンでの幻視を描いたもので、作中にあるように「兎が」突然ロンドンの都会のまんなかに「ほうり出されたような心もち」で、大都心の喧噪におびえる小動物のような心情を描くことから、この小説を書きはじめています。
 作中で「鬼」それから薔薇戦争の時代の「血の塔」と、聖書に記された幼子たちの哀れな覚悟のことと、奇妙なカラスのことが記されているのが印象に残りました。
 

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追記 「ボーシャン塔」の悲惨な歴史を描きだした箇所がありました。「壁上に」「冷やかなる鉄筆に無情の壁を彫って」囚人となった事実を呪った言葉がいくつも記されているのだそうです。本文こうです。
quomark03 - 倫敦塔 夏目漱石
 右の端に十字架を描いて心臓を飾りつけ、その脇に骸骨と紋章を彫り込んである。少し行くと盾の中に下のような句をかき入れたのが目につく。「運命は空しく我をして心なき風に訴えしむ。時も摧けよ。わが星は悲かれ、われにつれなかれ」。次には「すべての人を尊べ。衆生をいつくしめ。神を恐れよ。王を敬え」とある。
 こんなものを書く人の心の中はどのようであったろうと想像して見る。およそ世の中に何が苦しいと云って所在のないほどの苦しみはない。意識の内容に変化のないほどの苦しみはない。使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬほどの苦しみはない。生きるというは活動しているという事であるに、生きながらこの活動を抑えらるるのは生という意味を奪われたると同じ事で、その奪われたを自覚するだけが死よりも一層の苦痛である。この壁の周囲をかくまでに塗抹した人々は皆この死よりも辛い苦痛を甞めたのである。忍ばるる限り堪えらるる限りはこの苦痛と戦った末、いても起ってもたまらなくなった時、始めて釘の折や鋭どき爪を利用して無事の内に仕事を求め、太平の裏に不平を洩らし、平地の上に波瀾を画いたものであろう。彼らが題せる一字一画は……
…………
……quomark end - 倫敦塔 夏目漱石
 まさにこれを漱石がロンドン塔で目撃していた当時に、漱石の親友の正岡子規は病床から抜け出せなくなり身罷ります。漱石文学のいちばんはじめの文学的苦悩は、この前後の箇所に凝縮されているというように思いました。子規に読んでほしかったことは、子規の没後、子規の文芸誌ホトトギスに掲載された「吾輩は猫である」と「倫敦塔」に書きあらわされているように思うのですが、とくにこの囚人を描いたところと、孔子とキリストを論じた箇所こそが、子規に手紙で書いて送りたかったのに手遅れで送れなかったものの内実であると、思いました。
 「倫敦塔」では、はじめに「兎」の比喩を記していて、最後に漱石が引用しているアン王妃を描きだした奇妙な英文の詩は、なんだかルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」の終盤に現れる王女の奇怪さと、どこか不思議に通底しているように思いました。
 
 
追記その弐  十数年間どうも最後まで読めなかった漱石の名作『倫敦塔』を、ついに通読できた! と思いました……。