学問のすすめ(3)福沢諭吉

 今日は、福沢諭吉の「学問のすすめ」その3を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 第三篇では、国家のことを論じています。文明開化によって国際化したり西洋化する日本において、国家がどういう意味を持っているのかを説いています。国家間の戦争についても説いていて、人数や戦力も重大だけれども、独立していて国家に関わる人民がどのていど居るのかのほうが重要だと説くんです。戦争をする理由が不透明である場合は、人々は参加しがたくなるわけで、大国であっても小国を攻め滅ぼすことは出来ない、というんですが、これは20世紀以降の戦争の問題でも言えることで、福沢諭吉は、現代にも通じる普遍的な論考をしているように思いました。
 福沢諭吉は、人々の独立心がしっかりしているほうが、国の力も増すんだということを告げていました。「独立の気力なき者」は、じつは集団に対して依存しているばかりで、肝心なところで集団に対して「不親切」となる、と書いていました。
「独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり」という段では、旧幕府における不正について論じつつ、近い将来の日本の権力における悪性のしくみも説かれていました……。
 一人一人が独立してゆくことによって、集団や国家の独立性も保たれてゆく、というのがこんかいの主要な指摘でした。福沢諭吉は、上手くいっていない人に対して厳しいことをいろいろ記しているんですが、学びを改めて始めることによって愚かさから脱出できるということを説いているところが魅力のように思いました。
 次回に続きます。
  

0000 - 学問のすすめ(3)福沢諭吉

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 他人の権威をつかって悪いことをしてしまう人は、独立心がとぼしくて、いろんな災いを引きおこす、という指摘がありました。なんども名作を紹介している自分としてはなんだか恐ろしい話に思いました。
 なにものにも寄りかからずに独立して生きる人が活躍できる社会のほうが、社会全体は強い、といういっけん矛盾しているような話しがありました。そういえば哲学者のウィトゲンシュタインの個人史や主戦論を読み解くと、たしかに独立心の深い人のほうが、集団に対して盛んに参画するところがあるんだなあと、納得がゆきました。ゲーテは、ギリシャ古典文化の魅力を独自に研究して創作に活かして文学の業績をつくったあとに、なぜか政治に深く関わったわけで、独立心が旺盛だと、かえって集団に対して貢献しようとすることがあるんだなと思いました。
 国内で独立できなかった人は、海外に行っても独立できない、とかいうことも述べていました。まあそうなんだろう……というように思いました。福沢諭吉は学びが薄くなってしまっている人に対して、すごい厳しいことを書くんです。本文こうです。「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛へつらうものなり。常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ」……ホラー映画の登場人物は、たいていこうなっちゃうよなあとか、思いました。「柔順なること家に飼いたる痩せ犬のごとし」とか、ひどいことを書いていました。これを読んでいると、どうもウィトゲンシュタインの日記のことを思いだして、たしかにウィトゲンシュタインの考え方は、福沢諭吉の主張と重複しているところが多いんです。数学を深く学んでゆけば数の問題で驚くことは無くなってゆく、というウィトゲンシュタインの指摘があったんですが、福沢も肝心なところで驚き怖れていては、恥辱や損亡に至ってしまうので「臆病神の手下」のようになってはいけない、と告げていました。なんにでも驚いていたら恥をかくぞ、みたいな指摘があるんです。ホラー映画を見ていろいろ驚いてる人生のほうが楽しいような気もするのでした……。