文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎 夏目漱石

 今日は、夏目漱石の「文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 文芸とは漱石にとってどういうものか、を書いている随筆です。序盤に結論があって「世間に存在して居る如何いかなる立派なる職業を持って来て比較して見ても、それに劣るとは言えない。まさるとは言えないかも知れないが、劣るとは言えない。」と書いています。
 つづけて「職業と云うことは、それを手段として生活の目的を得ると云うことである」「食って行かれないものなら、それは職業として存在し得られない」と書いて、漱石は職業ごとの優劣は無いと述べ、ある基準をたてた場合は、財産でいうなら資本家がいちばんだったり、人気の優劣で決めるのなら相撲とりがいちばんだったりということになる。儲かるか、あるいは健康か、という基準をたてた場合は近代文芸は劣りがちではあるが、もっと大きな基準で「文学とライフとの交渉を研究し」た場合はどうなるか、ますます定義が難しくなるので今回は記さないが、と漱石はこう書きます。「結論だけを言うならば、それはく簡単で、ただ、吾々が生涯しょうがい従事し得る立派な職業であると私は考えて居るのだ。」
それから蟻が象を論じるような事態において、漱石はこう書いています。
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 例えば一方ははしの先端を見て箸は細いと云い、一方は箸の真中を見て箸は太いと云って居るのと同じことで、矛盾のようで実は矛盾でない。どちらにも根拠はある。ずそれを争う前に、二人共箸の真中を見て、太い細いを論ずるのが本当の議論である。quomark end - 文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎 夏目漱石
  
 アウトサイダーアートや限界芸術と、歴史的名画とされるモナリザの、この二者のあいだに位置するものを論じてみると、どういう美術家の様相が見えるんだろうかと思いました。
 

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学問のすすめ(15)福沢諭吉

 今日は、福沢諭吉の「学問のすすめ」その15を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 今回は、決断することや判断することを論じています。「信の世界に偽詐多し」ということを書いていて、きちんと疑って判断するということを説いています。「人民は事物を信ずといえども、その信は偽を信ずる者なり」と書いて、疑問をもつことによって「西洋諸国の人民が今日の文明に達したるその源を尋ぬれば、疑いの一点より」はじまっている。「ガリレオが天文の旧説を疑いて地動を発明」するといった、学問の発展には、疑問を持つという一点がとかく重大である、ということを説いています。「売奴法の当否を疑いて天下後世に惨毒の源を絶えたる者は、トマス・クラークソンなり」と福沢諭吉は書きます。
 ここで「学問のすすめ」の冒頭の、人間には生まれながらの上下の差は無く、ただ学ぶか学ばないかによって、人生の良し悪しが決まってしまうという福沢の論旨が纏まってきたように思いました。
 不動明王を信じて断食に励めば落命してしまう、というように信じることで不幸になる可能性を今回さまざまに例示していました。みずから疑ってみて判断をする、ということが学ぶということだ、と書いています。本や言葉を信じるな、とも書いているんです。本文にあるように「占いを信じてしまって良縁を失った」というように言われてしまうのは、なんだか酷なのではというようにも思いました。
「フランスの人民は貴族の跋扈に疑いを起こして騒乱の端を開き、アメリカの州民は英国の成法に疑いを容れて独立の功を成したり」という一文も印象に残りました。
 古人の妄説に個人的な疑問を抱く、批評的に読むことの重要性を説いていました。
「数千百年以来の習慣に疑いを容れ、これを変革」するようにすすめています。
 福沢諭吉は疑問を持つ時の方法論も説いていて、「軽々しく信じたり、軽々しく疑ってはならない」というように論じています。真偽を考察するには「取捨の明」が必要で、学問の要はこの真贋をみきわめる知を明らかにするところにあると書いています。自発的な問いを重要視し、信じすぎるとか疑いすぎるという極端なことにならないように、と福沢はすすめています。文明開化の時代の、早急な模倣の危険性を論じていました。とくに西洋文明の悪しき箇所を、分別なく模倣することがとかく危険であると説いていました。とくに貧富の差が極端すぎるところなどを真似ることは危険だと書いています。
 簡単に信じてはいけない、簡単に疑ってはいけない、疑問を持つことが学問の要だ、と繰り返し書いていました。
 文明が急に進展して風俗が激変する時代には、人々は真偽の取捨選択ができずに狂いがちであって、そういう時代にこそ学者は勤めなければならない、と書いていました。
 それから今回は、伝統的な宗教のことも少し論じていました。マルティンルターと仏教と、非暴力のことを書いていました。あと2回で完結します。 
 

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★ 『学問のすすめ』第一編(初編)から第一七編まで全文を通読する
 
追記   すごいどうでもいい雑学も、福沢諭吉は書いていて、150年前の日本人は、風呂は20日に1回くらいで、トイレのあとに手を洗わない、ティッシュペーパーも持ってない、ということを、この本に書いていました。日本人は清潔だ、というのは良く言われることなんですが、150年前はどうもそうじゃなかった。慶應義塾をつくった福沢諭吉は清潔が好きだったんだなと、思いました。慶應を作った人がもし仮に不潔だったとしたら、やはり新しい学問をするという長年の商売は、成り立たなかっただろうなと思いました。汚れた絵画を見るのがとかく好きな自分としては、妙な事実を発見したように、思いました。

猫性 豊島与志雄

 今日は、豊島与志雄の「猫性」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
「自由に戸外をもかけ廻る野性的な」「純白か漆黒かの尾の長い猫」ならもう、何匹でも飼いたい、という記載からはじまる豊島与志雄の随筆です。漱石は学校教師を長らくやって新聞社との契約があってお金持ちだったと思うんですが、豊島与志雄も豊かな暮らしをしていたのかなあと、思いながら読みました。豊島の飼い猫のように、百年前の猫も、人間の家族として豊かで素敵な暮らしをしていた例があったようです。
 自由な性格を愛で、猫には「肉食獣の野性の夢がある」と記しています。この猫の自由さから学ぼうと考えて、猫の性格を考察しています。猫は権力に従わない、文学的な芸術性というのがある、と豊島与志雄は指摘します。本文こうです。
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  猫の持つ野性の夢は、柔軟温順な外観から離れた、内心的なものである。その内心的なものに対する驚異と恐怖とから、猫に関する怪談が生れる。猫に関する怪談は、道徳美の埒外に、あるものが多く、たとい報恩とか復讐とかいうことから発したものにあってさえ、たちまち独自の発展をなして、精神的な怪異力を発揮する。quomark end - 猫性 豊島与志雄
 
 猫の抱く夢想について論じていました。ポーの「黒猫」や、漱石の第一作を連想させる随筆でした。
 

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追記  数日間ほど離席していて、ついさっき帰着しました。

ヴェリト・ヴェリタス 辻潤

 今日は、辻潤の「え゛りと・え゛りたす」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 伊藤野枝と結婚し、子を育てた辻潤が、子どもと一緒に洋行することについて記しているエッセーです。文学生活や美術創作や海外生活を行う人にとっては励まされる随筆に思いました。伊藤野枝は、二つの家族と共に生きたんですが、彼女の家族のことが、辻潤の眼差しによって描かれています。
  

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清心庵 泉鏡花

 今日は、泉鏡花の「清心庵」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 格調高い日本文学と言えばこの泉鏡花の名作群だと思うんですが、今回はとくに序盤の数頁が難読で、事情もなにもよく分からず、謎めいたまま、山奥の尼寺である清心庵でのできごとが描きだされます。松茸、しめじやまいたけや、あるいは赤赤とした毒蕈があたまにとれる、苔と露におおわれ尽くした山深いところにある尼寺に、謎めいている「うつくしい女衆」がひっそりとやって来ます。彼女たちは貴い人をのせるための空籠をかかえている。いったいなぜまた、こんな山奥に、空っぽの大きな籠をかついで、やって来たのか。その籠にはいったい誰が乗るのか……。
 尼寺にはおもに四人が暮らしています。山番をしているおじいさん。それから「摩耶」という名前の三十いくつの美女で「御新造さん」とも言われている富豪の奥さん。ほぼ未成年の十八歳くらいでまだ幼い少年である「お千ちゃん」。ご高齢の「尼様の、清心様」。この四人が登場人物で、「摩耶」を迎えに来た女衆がここに高貴な空籠を抱えてやって来ます。
 清心様のお寺での出来事なんですが、この尼様が、物語中はずっと不在なんです。どうして肝心なときに、ふっと出かけてしまったのか……。
 神秘的な山の物語で、茸の毒と、水の清涼さの対比が印象に残る物語でした。作家の中島敦が、泉鏡花の作品を絶賛するのも得心がゆく、文学作品でした。
 

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追記  ここからはネタバレなので、近日中に読み終える予定の方はご注意ください。じつは尼寺に、十歳なのか十八歳なのかよくわからないようなお千ちゃんという男がいる。尼寺にお邪魔していた「摩耶」という奥様をたぶらかして、このお千ちゃんと摩耶の男女が二人で、尼寺に長らく暮らしてしまっている、のではないかという妙な噂があることが中盤になって明らかになります。
 清心様はいったいなにを思って、この二人の男女を尼寺で二人きりで暮らさせてしまったのか。これには理由があって、お千ちゃんはじつは、九歳くらいの幼いころに、亡き母に連れられて、この清心庵を訪れているんです。とうじ母はたいそう困っていて、清心庵の尼様に悩みごとを相談しに来ていた。清心さまも心を込めてこの相談に乗っていたのですが、あまりに暗い打ち明け話につい怖気だってしまったのか、この母子の帰り際に、大きな声で「おお、寒寒しい」と言ってしまった。これを聞いて山路を帰っていった千ちゃんの母は、運悪く山奥で行き倒れとなってしまった。
 千ちゃんは、母の面影を求めて、十年経ってこの清心庵を再び訪れたのです。すると清心様は、こんどこそ無碍に追いはらうわけにもゆかない、この子の母を殺してしまったのは自分だろうということで、このかわいそうな千ちゃんを、母に似た「摩耶」という婦人と一緒に、尼寺に居させてあげて、そのまま尼様は尼寺からお出かけ遊ばされてしまったので、ありました。
 摩耶は、慈悲かあるいは母性によって、この千ちゃんを可愛がってしまって、食べさせてあげている。尼さんになるつもりもないのに、尼寺に住みついてしまった……。さいごの、高貴な空籠に人が居ないところと、女の美しい笑顔の描写、草叢、月明かり、夢のような女人の姿の美しさに戦慄をおぼえる、みごとな明治の文学でした。動画サイトに本作のAI音声朗読があって、これは読みすすめやすかったです。
ところで、摩耶というのは、ブッダの生母のことで、泉鏡花はこの摩耶夫人像をずっとたいせつにして信仰しつづけたそうです。

  

細雪(42)谷崎潤一郎

 今日は、谷崎潤一郎の「細雪」その42を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは戦争の被害が大きいころに書かれたものなんですが、ほとんどそのことは記されてきませんでした。こんかい、隣家のドイツ人一家が日本での仕事を辞める場面が描かれています。第29話で、大阪にある実家の蒔岡家の暖簾を畳んで東京に引っ越すという場面も描かれていたので、これと共通したことを記しています。戦争に対する批判が日本の軍部によって全面的に禁止されていた時世に、あらゆる恋愛の場面や危険な事態を描いてきた谷崎潤一郎が、この戦争のことを単簡に記しているのでした。本文では、日本が「戦争を始めてからさっぱり商売がありません」お店も「ほとんど休んでいるようなものです」戦争が「いつ終るか分りません」これで店を畳むことにした、というように書いています。蒔岡家の子どもたちも、この仕事を失ったドイツ人一家を見送るのでした。次回に続きます。
 

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当サイトでは『細雪 中巻一』を通し番号で『細雪 三十』と記載しています。『中巻三十五』は通し番号で『六十四』と表記しています。
 
「細雪」の上中下巻、全巻を読む。(原稿用紙換算1683枚)
谷崎潤一郎『卍』を全文読む。 『陰翳礼賛』を読む。
  
■登場人物
蒔岡4姉妹 鶴子(長女)・幸子(娘は悦ちゃん)・雪子(きやんちゃん)・妙子(こいさん)
 
追記  谷崎潤一郎は1944年の5月ごろまでに中巻(第30話から50話あたり)を数百枚ほど書いています。ミッドウェー海戦の敗北、アッツ島の玉砕、学徒出陣、大敗に至ったインパール作戦、これが終わったあたりに谷崎は中巻の中盤を書いています。
 この本の時代背景なんですが、描かれているのは5年ほど前の世界なんです。1936年の冬から物語が始まって、1937年の夏に大阪は船場の本家を引き払って長女鶴子の家族と雪子が東京に引っ越します。1938年の春に二女の幸子が流産するという不幸があって、第29話で上巻が完結します、中巻はそのすぐあとの晩春が描かれて、夏に洪水があり、今回、隣家のドイツ人一家が日本を去ったという展開になっています。この物語はこの3年後の1941年の春に幕を閉じることになります。あと60回あって第101話で完結します。