愉快な教室 佐藤春夫

 今日は、佐藤春夫の「愉快な教室」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは現代の日本ではとうてい実現しない話しで、なんとも妙な、教室の中が犬だらけになったという珍事について記した、実話っぽい児童文学でした。もしかすると、たんに口伝の実話をうまくまとめた話しなのでは、と思います。
 愉快な教室というのは、室内に犬がいっぱい入り込んでいる教室で、どうして中学校の中に犬がいっぱい入ってくるようになったかというと、犬好きのM子という娘がいて、それで餌を何度もあげるものだから、これで犬がいっぱい入ってくるようになった。先生も大らかなので、犬を排除しない。さらに餌をもらった犬は意外と従順なので、授業を邪魔したりせずに、M子のそばに集まって座っている。けれどもやっぱり、けものなので教室の中で他の子どもを噛んでしまったりする。犬からするとふざけて噛みついているようである。
 教室で犬を飼うくらいなので、クラスメイトはなんだかずいぶん仲が良い。H子という中学生の親戚が勤める百貨店のツテを頼ってクラスメイトみんなで、ニューヨークのデパートに集団就職するのだ、という計画が出来てしまったりした。
 真相としては、H子にはそういうツテがあるので、英語の勉強さえちゃんとやれば、将来はニューヨークで働ける可能性が高かったのだけれど、この話に尾ひれがついてしまって、クラスメイトみんなでニューヨークで集団就職するのだ、という噂にまで発展し、みんなで英語の勉強に熱心になったというのでした。

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藪の中 芥川龍之介

 今日は、芥川龍之介の「藪の中」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは芥川龍之介の代表作で、平安時代後期のある奇怪な事件を追った小説です。獣道さえ存在しない藪の中での、侍のあらそいの顛末を調べる検非違使と証人たちと、事件に直面した3人の男女の物語です。
 場所について調べてみると、京都の伏見桃山から歩いていって山科に至る寸前の、藪以外はなにもない虚無の空間、そのあたりで起きた怪事件のことが描かれています。
 辞書によれば「検非違使」は平安時代の京都の警察業務をした官職のことで「平安後期には諸国にも置かれたが、武士が勢力を持つようになって衰退した」と書いています。衰退のおおもとである武士にまつわる事件を、検非違使が調べている……時代が変わる要点の、暗部のところを芥川が描いている、というのがなんだか凄いというように思いました。この「藪の中」の映画化作品である黒沢明の「羅生門」は、ヴェネチアで金獅子賞を受賞している名画で、今でも映画の配信サイトで視聴が可能なんです。
 

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追記  今回、再読してみるまで見落としていたことなんですが、盗賊の多襄丸にやられてしまった侍は、日本海側の福井は若狭の侍で、十九歳の妻と2人で、琵琶湖伝いに百キロほど北上する旅をして帰郷しようと、京の桃山を発った、その最中だったんです。気力も体力も漲っているときに、盗人の多襄丸とばったり出くわしてしまって、怪異が起きた、という構成のようです。
 作中に「気を失ってしまった」という証言が繰り返し出てくるのですが、これは記憶が曖昧で、事実か幻かが、判別できません。十九歳の女性である「真砂まさご」は犯人から逃れるために、謎めいた行動をしています。多襄丸が起点となって悪事が現出したのは明らかなんですが、じっさいになにが起きたのかは、誰にどう問うてみても、まったく分からない……。さらに真砂はある日、清水寺に立ち寄っていて、お坊さんに事件の懺悔をしていますが、そのあとどこにでも行けそうですし、どこにゆくつもりなのかがまったく分からないので、ありました。ぼくはこれを3回以上は読んでいるんですが、今回Googleマップで逐一、地名を調べたり、AIとwikipediaを使って官職の名前の意味を調べたりして、やっと全体像が理解できました。とくに「真砂」がどこから来て、当初はどこに行くつもりだったのか、それからのちになぜ清水寺に立ち寄ったのか、というのが初回に読んだ時はよく分かっていなかったように思いました。

書物の倫理 三木清

 今日は、三木清の「書物の倫理」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 三木清は終戦間近に、西洋の伝統的な古典のことと、図書の流通を論じた批評が有名な知識人なんだと思います。
 1940年ごろの本屋では、新刊の本は、薄い包み紙でつつんで、箱入りにして本屋に並べていたそうです。なので薄紙がもげてしまうし、ためし読みがどうも出来ない。1文字も読まずに買うわけにもゆかないので、なんとも扱いにくい、という話しからはじまるエッセーでした。
 じつは戦前の家庭では、本を手に取るときは、神棚にお供え物をするように、丁重に、うやうやしく書物に接したのだそうで、初めて聞いたので、びっくりしました。三木清が嘘を言ったり、三木清が勘違いを書くことはほとんど無いはずなので、たぶんそのくらい100年前は、紙の本が貴重な存在だったんだなと思いました。
 三木清は、良い本をなんどでも再読するように繰り返しすすめています。歴史的に言えば、それこそが古典というものなのだと指摘しています。
 フローベルが言うには、大量の本を読むことよりも、良い本を繰り返して読むことをとにかく重大視しているのでした。本文こうです。「作家の文庫は、彼が毎日繰り返して読まねばならぬ源泉であるところの五冊か六冊までの本から成っているべきである」だから、著名な作家は古典の現代語訳を念入りにやるんだなあと、なんだか得心がゆきました。
 三木清は、多読して良い本を見分けられるようになって、ほんとうの愛読書を見つけようといったことを書いていました。そのためには古本屋や図書館や本の夜店に行って散歩するように本をのぞき見て、感覚的に本の目利きの才覚をみがいてゆこう、ということを提案していました。
 何か言葉を書くのなら「多く読み、多く考え、そして出来るだけ少く書くこと」というように記していました。
 

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追記 作中に記された、ジーベックというのは、ポール・シーベック(Paul Siebeck)のことで、これは19世紀後半に活躍した出版社のことです。トイプネルというのはBibliotheca Teubnerianaのことでこれも古典哲学書をあまたに出版した組織なのです。
 自分の家の本棚を、ひとつの庭園のように整えてみようということを、三木清氏は書いていました。ぼくの家は小さすぎて紙の本を置く場所が無くって、豆本と図書館本と旅カバンに入れるための文庫本しか存在しないんですが、三木清の読書論というか蔵書哲学は読んでいて興味深かったです。

細雪(68)谷崎潤一郎

 今日は、谷崎潤一郎の「細雪」その68を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 十年くらい前に「細雪」と言えば「蛍狩」の場面がもっとも風雅であるというような話しを聞いた気がするんですが、今回はこの、姉妹たちの蛍狩りが描かれた章でした。
 いっけん蛍は居ないように思えたのですが、川の奥のほうへゆくとあまたに現れます。この場面がやはり「陰翳礼賛」と日本の美を描き続けた文豪の、名文だなというように思いました。「細雪」を全文読む時間が無いという場合は、本章だけを読むのも、谷崎文学の魅力が分かる方法かなと、思いました。
 

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当サイトでは『細雪 中巻一』を通し番号で『細雪 三十』と記載しています。下巻の最終章は通し番号で『細雪 百一』と表記しています。
「細雪」の上中下巻、全巻を読む。(原稿用紙換算1683枚)
谷崎潤一郎『卍』を全文読む。 『陰翳礼賛』を読む。
  
■登場人物
蒔岡4姉妹 鶴子(長女)・幸子(娘は悦ちゃん)・雪子(きやんちゃん)・妙子(こいさん)
 
追記 谷崎は近代作家の中ではもっとも都会的で国際的な作家だと思いますし、女性や人間関係を描くことに注力している文学性なので、自然界を観察して記すというのは珍しい事態に思います。夢のように雅な光景でした……。その蛍狩りを終えたあとの、3人の姉妹たちの、深夜の寝姿の描写のほうがなにかこう、日本画を観察するような魅力的な描写にも思いました。あらゆる技法を極め尽くした鏑木清方であっても、暗がりの女性を描くことは不可能だったわけで、日本画では描ききれない陰翳のなかに佇む姉妹の美を描けたのが、この細雪の本章なのでは、と思いました。

全体の一人 陀田勘助

 今日は、陀田勘助の「全体の一人」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これはごく短い詩で、氏が獄中から書き送った作品です。ほんの百年前は言論の自由さえ無いほど厳しい時代だったということが見えてくる、ひとつの詩に思いました。彼は当時禁じられていた共産主義の東京地方委員長だったため投獄されたのですが、氏は芸術のダダイスムを愛する詩人そのものだったように思いました。秩序や常識を打ち壊すトリスタン・ツァラのダダ宣言に連なる芸術へと分け入った陀田勘助の後期の詩でした。ツァラはこういう詩的な宣言を、記しています。
quomark03 - 全体の一人 陀田勘助
 ダダは何も意味しない。
 ルーマニア語では「はいはい」という肯定の重複語。DADA。
 博学な記者たちはこれを「赤ちゃん向けの芸術」と見なし、他の聖人たちは「現代の幼子たち」と呼び、乾いた原始主義へ回帰し、騒々しく単調である。
 あらゆる絵画や造形作品は無用のものである。秩序が無秩序となっていて、私は私ではなく、肯定は否定である世界。これらが絶対的な芸術の至高の輝きである。quomark end - 全体の一人 陀田勘助
 
 ただ政治と芸術をこころざしただけであるのに獄死した陀田勘助にとってトリスタン・ツァラのダダ宣言は、生きる歓びをかたちづくった要の存在だったのでは、と思いました。
 

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世はさながらに 三好達治

 今日は、三好達治の「世はさながらに」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 在原業平がかつて恋人だった藤原高子の住んでいた屋敷を訪れて、時の流れに取りのこされたような感覚をもった。そのような「私」と、世界の変転と、常しえの時間について思いを馳せた和歌「月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」を発句として三好達治が自宅のそばにある自然界を観察し「もののあはれ」を詩に描きだした作品です。「こぞの春」というのは「ちょうど一年前の春に」という意味です。「これやこのこぞの長椅子」という詩の一節が、なんだか印象に残ります。今の最先端の音楽でもこれは歌い直せるのでは、というような日本らしい日本の歌というように思いました。
 

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