今日は、八木重吉の「秋の瞳」その39を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
峻険な感性を描きだした八木重吉が「あめの 日」という詩では、なんということもない静けさを描いていて印象に残りました。
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今日は、富永太郎の「手」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
大正時代の絵描き富永太郎の、一篇の詩を読んでみました。もの悲しい親愛を吐露する詩でした。
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追記
富永太郎が愛読した詩にはシャルル・ボードレールの「通りすがりの女」があります。このような詩です。
通りすがりの女
シャルル・ボードレール
街は轟き 耳をつんざく叫びの中
長く、細く、喪に服した姿
荘厳な悲しみをまといながら
彼女は通りすぎ 華やかな手で
スカートの裾を揺らし 飾りを持ち上げた。
軽やかで気高く 彫像のような足。
私は酔いしれ 狂人のように身を震わせながら
彼女の眼差しのうちに見た 蒼白な空に芽吹く嵐
魅惑の甘美と そして滅びをもたらす快楽。
稲妻……そして闇! はかない美しさよ
そのまなざしは私を突然甦らせた。
永遠の彼方でしか 再びお前を見ることはないのか?
遠く、遠くへ! ああ、遅すぎる! もはや、決して!
あなたはどこへ逃れ 私はどこへ向かうのか。
ああ 私が愛したであろうあなた
ああ それを知っていたあなたよ!
(※ 上記の詩はAI翻訳に修正を加えたものです)
今日は、谷崎潤一郎の「細雪」その87を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
あと十数回でこの長編小説は完結しますので、こんご細雪の全巻を通読する予定の方は、本文の第一章から読むことをお薦めします。
鶴子と幸子が、妹の妙子を案じ、良かれと思って、「妙子と啓坊」という不穏な関係から遠ざけるためにやったことが、逆に妙子と啓坊を追いつめてしまってかえってこの2人が寄り添って生きるしかなくなってしまったようです。その実態が、「婆や」たちによって語られるのでした。
妙子は、元婚約者の米やんを経済的にもしっかり支えるために、裁縫と人形作りを学んでこれを仕事にしたのですが、鶴子が古い考え方でこれを辞めさせるように動き、さらに1930年代後半の時世が、女性の独立心を阻むところもあって、妙子はフラフラしているだけの日々になって、恋人も病で失ってしまい、親の金だけ持っている啓坊と深く関わるようになってしまいました。さらに啓坊はもっと妙子を遊ばせるための金が欲しくて実家の大切なものを盗み出して勘当されてしまい、外部に外部に追いやられてブラブラしている状態の2人が、共に暮らすようになってしまっていたのでした。
放蕩をさんざんやってしまったのも、妙子の元婚約者にさんざん嫌がらせをしたのも、実家の親のものを盗んだのも、すべて妙子にたいして「今も昔に変らない純真な感情を持っている」からこそやってしまったことなんだと啓坊の「婆や」は力説したのでした。次回に続きます。
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当サイトでは『細雪 中巻一』を通し番号で『細雪 三十』と記載しています。下巻の最終章は通し番号で『細雪 百一』と表記しています。
「細雪」の上中下巻、全巻を読む。(原稿用紙換算1683枚)
谷崎潤一郎『卍』を全文読む。 『陰翳礼賛』を読む。
■登場人物
蒔岡4姉妹 鶴子(長女)・幸子(娘は悦ちゃん)・雪子(きやんちゃん)・妙子(こいさん)
今日は、森鴎外の「牛鍋」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
森鴎外の物語は、歴史の記録そのものを目的にしていたり、文体が難解で難読書になっていることが多いのですが、今回の話しはすんなり最後まで読める作品でした……が、やはり読み終えてみて、これはいったいなにを書こうとしたのか分からなくて、3回くらい同じ文章を読み直してしまいました。
明治初期の日本では、牛は食用では無かったので、これがなにか、現代で言うところの愛玩動物かそれ以上の存在であって、それを食う人間の醜悪さというのを自然界や哺乳類と比較しつつ記してありました。
作中に「本能」という言葉が幾度か記してあってこれが印象に残ります。森鴎外は獣の争いについて念入りに描きつつ「本能は存外醜悪でない」と記すのです。森鴎外の軍医時代には、兵士たちが脚気によってあまたに倒れてしまうという惨害が起きていて、森鴎外の憂慮しているのは人間が起こす犠牲の問題で、それがこの短編にも少し記されているように思いました。
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追記 物語の筋としては「七つか八つ位の娘」をやむを得ずあずかって育てることになった「三十前後」の男は、意味も無く、牛鍋の牛肉を「すばしこい箸」で独占している……。「娘はおとなしく箸を持った手を引っ込めて」肉を食べさせてもらえるまで待とうとしている。「もう好い頃だと思って箸を出すと」そのたびごとに「そりゃあ煮えていねえ」と男に言われて、黙って従うしかない。「その目の中には怨も怒もない。ただ驚がある。」
どうしてこんなに奇妙な夕食なのかというと「死んだ友達の一人娘」を貧しい世相の只中にあって、いったいどうやって育てるのか、男としては方針が上手く定まっていないからなのだろうか……というように思いました。
今日は、八木重吉の「秋の瞳」その38を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
神曲の天堂篇のように荘厳で超然とした詩を書いた、八木重吉の果てしない詩の、代表的なものに思う「真珠の空」の一篇でした。
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今日は、夢野久作の「能とは何か」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
これは夢野久作とその若い友人が作った能の芸術論です。
スイス近辺のエスペランティスト(エスペラント語使用者)の外国人青年が夢野久作のところへやって来て、能について議論をし、その対談をもとに原稿にしたものなんです。読んでみると大半が、夢野久作の考察に思えますが、聞き手というのか問いを立てているのは、エスペランティストの青年であるように思います。
夢野久作は、能の魅力について「何だか解からないが幻妙不可思議な」作品で「面白くないところが何ともいえず面白く」感じられてくるのであると書いています。夢野久作によれば、日本人の9割以上が能を嫌っている、と前半に記しています。その理由は「シン気臭い」し「退屈で見ていられない」もので「能というものは要するに封建時代の芸術の名残りである」し「進歩も発達もない空虚なもの」ということなんです。ところが、外国の研究者や、能に関わった日本人は、能の芸術の魅力を大いに見いだしているのでした。
本文こうです。
能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞か、謡か、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。
その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くないところが何ともいえず面白くなる。よくてたまらず、有り難くてたまらないようになる。あの単調な謡の節の一つ一つに云い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞の手ぶりが、非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現慾をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら誰にでも謡って聞かせたくなる。
また熊の一種で「四ツの手足が無い」「能」という獣が居る、手足が無いのに「物の真似がトテモ上手で世界中のありとあらゆるものの真似をする」その能というけだものと、舞台芸術の能は、通底している……という架空の獣の話しが印象にのこりました。
中盤からは、真面目に能の芸術性を論じて、後生への伝承のしかたについて書いています。
能とは要するに、人間の表現慾の極致、芸術的良心の精髄を、色にも型にも残らぬ型というものによって伝えて行くものである。……
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追記 おわりに、蝶の美と、能の美の共通項について論じているのが印象にのこりました。これが夢野久作の芸術論であり美学論なのだろうと思いました。
「蝶のあの美しい姿は開闢以来、あらゆる進化の道程を経て、あの姿にまで洗練されて来たものである。」「蝶の舞いぶり、鳥の唄いぶりが、人間のそれと比べて甚しく無意味であるだけそれだけ、春の日の心と調和し、且つその心を高潮させて行くものである事は皆人の直感するところであろう。」「人間の世界は有意味の世界である。大自然の無意味に対して、人間はする事なす事有意味でなければ承知しない。芸術でも、宗教でも、道徳でも、スポーツでも」「能はこの有意味ずくめの世界から人間を誘い出して、無意味の舞と、謡と、囃子との世界の陶酔へ導くべく一切が出来上っている。」