細雪(15) 谷崎潤一郎

 今日は、谷崎潤一郎の「細雪」その15を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 この作品は大長編作品なんですが、上中下の三巻に別れていて、いまげんざい第一巻の真ん中あたりなんです。
 主人公の雪子の縁談、というのをずっとやっているんです。古き伝統の縁談……なのかと思っていたんですけど、ちょっと調べてみると、日本では縁談というのが生じはじめたのはじつは、鎌倉武将とか戦国時代とかの、武家だけでやっていた政略結婚から始まった、限定された事態なんだそうです。たいていの時代の貴族や大衆は、ほぼ本人同士の恋愛結婚(または本人同士の決定)だったそうです。源氏物語の、婚姻におけるあまたの騒動、というのは、これを3回も繰り返し現代語訳した谷崎潤一郎は、深く意識していたと思うんです。
 こんかい、上巻の中心地点にいるんですが、縁談がついえておしゃかになったことが語られます。この物語が書かれて読まれたころの1944年は、どの主人公というかどの人びとも、自分の生きかたを選べないという時代だったはずで、この1944年の世界観というのを、源氏物語の世界観と一体化させてみると、「細雪」の雪子の人生観になるのでは、とか空想をしました。
 「細雪」の雪子は、豊かな生の中に居るはずなのに、自分で決める機会がどうも生じないんです。発禁を連発する帝国の軍部と、文学者谷崎と、日本の伝統の3つがせめぎ合って、この「細雪」が成立しています。帝国の徒はこの作品を時局に合わないということでふつうに発禁にしているわけですが、黙って谷崎はこの長編を書いています。ところが、戦後の感覚でこれを読みすすめていると、これはもう敗戦寸前の1944年の暗い世相の影響が色濃いとしか思えないんです。そこで描かれるのが、武家のはじめた縁談の1944年版というようなものなのでは、と思いました。
 雪子は幸福に生きるように父に望まれていたけれども、父はもう世話をすることができないので、代わりに雪子の姉が、雪子の未来を用意しようといろいろ工夫をしているところです。書かれて読まれたのは1944年ですが物語の内部では1941年に幕を閉じます。この数年後の戦争の終わりに向かって生きている人の日常生活が描かれています。いま読むと、ウクライナで平和に生きようとしている家族の日々が、連想されるのでした。
 雪子のお見合い相手として上手くゆくはずだった男とは破談になった。これを取りもってくれた井谷という女性は、破談になりそうな理由をいちおうは知っていた。
 蒔岡家の長をやらされている貞之助は、縁談をいろいろ準備してくれている井谷に謝る。なんでもかんでも断るわけではない、やむを得ない事情があるので、今回だけは無かったことになるんですというように、説明します。
 宇宙飛行士になりたいとかワールドカップに出たいとか、そういうのが挫折することはすごく良くあることだと思うんです。第一志望の学校や就職先に行けない、というのは現代人なら99%経験していることと思うんですけど、この時代の、破談というのはほとんどの男が体験してきてない、平和な絶望感というのがあるのでは、と思いました。
 思っていたような幸福に辿りつかない。雪子に直接の原因は無いんです。周囲では、きっと次こそ、幸福になる相手を見つけてきますので、と前向きに検討している。雪子は資産も人間関係も、とても豊かなところに居るのに、どう見積もっても青い顔をせざるを得ない事態に直面するんです……。富者には富者の不幸が、あるんだなあと、想定外の世界をまのあたりにして、知らなかった世界をのぞき見ている気分で読みすすめています。
 亡き父が望んだ幸福を用意する責任が、貞之助や幸子にはあるんです。そうなると雪子には自由恋愛という方針が持てなくなる。自分で未来を決められない事情がある、というのはこういう奇妙な状態を作るのかと、思いました。美容院の女主人の井谷さん、ってお見合いを用意する仕事を0円でやってるんですけど、すごい熱心なんです。こういう人は二十世紀前半中盤には、今と違って、目立って存在していたようです。「必ずこのお埋め合せは致しますから」と言っていて、縁談を上手く成立させるためにいろいろやるんだろうなあ、と思いました。
初婚の雪子には、あまりにも荷が重い、5人もの子どもが居る資産家の男が、いま妻を探しているという話しもあるんですが、自分で決める場合は、こういう婚姻の可能性もあるとは思うんですが、義理の妹の雪子にそんな苦労話を持ちかけるのは、どう考えてもありえない。自分で決めずに縁者が決める、という場合は、違う判断力というのが生じるようです。当時の血縁主義は、現代よりも色濃い。父の遺志とか、母から子へ受け継がれるものとか、いろんなことが気になってくる本なのでした。
 手に職をつけていて、ちょっと自由な暮らしを楽しんでいる4番目の娘の「妙子はここのところ、来年早々第三回目の人形の個展を開くためにずっと製作に熱中していて、もう一箇月も前から毎日の大部分を夙川しゅくがわのアパートで暮していた」妙子は恋愛も仕事も順調で、趣味で、舞を習うことに夢中なんです。姉の幸子にこれをちょっと披露する。なんだか華やかな場面でした。見えざる戦争の死者と、自然な死とが重ね合わせて描かれている場面に思いました。本文こうです。
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  両親達は草葉の蔭からどのようにながめておいでか……と思うと、幸子は妙にたまらなくなって涙が一杯浮かんで来たが、
「こいさん、お正月はいつ帰って来る」
と、強いてその涙を隠そうともしないで云った。
「四日には帰るわ」
「そんならお正月に舞うてもらうさかいに、よう覚えて来なさいや。あたしも三味線稽古しとくよってにな」quomark end - 細雪(15) 谷崎潤一郎
 
 この前後の描写が美しかったです。
 

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「細雪」の上中下巻、全巻を読む。(原稿用紙換算1683枚)
谷崎潤一郎『卍』を全文読む。 『陰翳礼賛』を読む。

■登場人物
蒔岡4姉妹 鶴子(長女)・幸子(娘は悦ちゃん)・雪子(きやんちゃん)・妙子(こいさん)