「関東大震災」の版間の差分
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[[File:Gigantic cumulonimbus in the sky over Tokyo right after the Great Kanto Eartquake.jpg|thumb|right|220px|震災直後の火災により東京で発生した巨大な[[積乱雲]]。]]
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地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。{{信頼性要検証範囲|一部の火災については[[工藤美代子]]が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、[[火薬]]類は保管していない)など発火原因が不明なところがあり、2日の午後に新しい火災が発生するなど不審な点も多い」と主張している<ref name="kudoh">工藤「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」[[産経新聞出版]]</ref>|date=2023年9月}}。加えて[[能登半島]]付近に位置していた[[台風]]により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の[[天気図]]で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、[[本所区]]本所横網町(現在の[[墨田区]][[横網]])の陸軍本所被服廠跡地(現在の[[横網町公園]]。ほか、現在の[[墨田区立両国中学校]]や[[日本大学第一中学校・高等学校]]などもこの場所に含まれる<ref group="注釈">陸軍本所被服廠跡地の面積が[[東京ドーム]]の1.5倍であるため。</ref>)で起こった[[火災旋風]]を引き起こしながら<ref>{{cite journal|和書|url=https://doi.org/10.5026/jgeography.84.4_204 |author=相馬清二 |title=被服廠跡に生じた火災旋風の研究 |journal=地學雜誌 |volume=84 |issue=4 |year=1975 |pages=204-217 |DOI=10.5026/jgeography.84.4_204}}</ref>広まり、旧東京市の約43%の34.7km2と横浜市では10km2が焼失し<ref>[https://doi.org/10.11188/seisankenkyu.55.577 目黒公郎、柳田充康、高橋健文、関東大震災の延焼火災に与えた建物被害の影響について] 生産研究 Vol.55 (2003) No.6 P577-580, {{DOI|10.11188/seisankenkyu.55.577}}</ref>鎮火したのは40時間以上経過した2日後の[[9月3日]]10時ごろとみられる。火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5,385人のうち、火災が9万1,781人を占めた)ともいわれている<ref>[http://www.asahi.com/special/saigaishi/1923shinsai/ 関東大震災 学ぶべき教訓] 朝日新聞DIGITAL</ref>。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた[[市川市|市川]]まで吹き飛ばされた人もあった<ref>{{Cite book|和書|author1=竹久夢二|authorlink1=竹久夢二|author2=川村花菱|authorlink2=川村花菱|author3=山村耕花|authorlink3=山村耕花|title=夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ|origdate=1923|date=2003-9-1|publisher=クレス出版|id={{全国書誌番号|20469876}}|isbn=4877331956|page=66}}</ref>。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は、[[東京都復興記念館]]に収蔵・展示されている。 |
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。{{信頼性要検証範囲|一部の火災については[[工藤美代子]]が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、[[火薬]]類は保管していない)など発火原因が不明なところがあり、2日の午後に新しい火災が発生するなど不審な点も多い」と主張している<ref name="kudoh">工藤「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」[[産経新聞出版]]</ref>|date=2023年9月}}。加えて[[能登半島]]付近に位置していた[[台風]]により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の[[天気図]]で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、[[本所区]]本所横網町(現在の[[墨田区]][[横網]])の陸軍本所被服廠跡地(現在の[[横網町公園]]。ほか、現在の[[墨田区立両国中学校]]や[[日本大学第一中学校・高等学校]]などもこの場所に含まれる<ref group="注釈">陸軍本所被服廠跡地の面積が[[東京ドーム]]の1.5倍であるため。</ref>)で起こった[[火災旋風]]を引き起こしながら<ref>{{cite journal|和書|url=https://doi.org/10.5026/jgeography.84.4_204 |author=相馬清二 |title=被服廠跡に生じた火災旋風の研究 |journal=地學雜誌 |volume=84 |issue=4 |year=1975 |pages=204-217 |DOI=10.5026/jgeography.84.4_204}}</ref>広まり、旧東京市の約43%の34.7km2と横浜市では10km2が焼失し<ref>[https://doi.org/10.11188/seisankenkyu.55.577 目黒公郎、柳田充康、高橋健文、関東大震災の延焼火災に与えた建物被害の影響について] 生産研究 Vol.55 (2003) No.6 P577-580, {{DOI|10.11188/seisankenkyu.55.577}}</ref>鎮火したのは40時間以上経過した2日後の[[9月3日]]10時ごろとみられる。火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5,385人のうち、火災が9万1,781人を占めた)ともいわれている<ref>[http://www.asahi.com/special/saigaishi/1923shinsai/ 関東大震災 学ぶべき教訓] 朝日新聞DIGITAL</ref>。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた[[市川市|市川]]まで吹き飛ばされた人もあった<ref>{{Cite book|和書|author1=竹久夢二|authorlink1=竹久夢二|author2=川村花菱|authorlink2=川村花菱|author3=山村耕花|authorlink3=山村耕花|title=夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ|origdate=1923|date=2003-9-1|publisher=クレス出版|id={{全国書誌番号|20469876}}|isbn=4877331956|page=66}}</ref>。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は、[[東京都復興記念館]]に収蔵・展示されている。 |
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本所石原方面大旋風之真景,帝都大震災画報.jpg|本所被服廠跡地の避難民を襲う火災旋風を描いた図 |
本所石原方面大旋風之真景,帝都大震災画報.jpg|本所被服廠跡地の避難民を襲う火災旋風を描いた図 |
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Great Kanto Earthquake9.jpg.JPG|大日本麦酒吾妻橋工場(現・[[リバーピア吾妻橋]])内鉄柱 |
Great Kanto Earthquake9.jpg.JPG|大日本麦酒吾妻橋工場(現・[[リバーピア吾妻橋]])内鉄柱 |
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====自警団による暴行==== |
====自警団による暴行==== |
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[[File:Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-4.jpg|thumb|220px|横浜市で組織された[[自警団]]。銃や竹槍で武装している。]] |
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[[File:Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-5.jpg|thumb|220px|虐殺された朝鮮人の遺体]] |
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[[File:Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-7.jpg|thumb|220px|{{small|震災発生後、政府は﹁保護﹂の名目で朝鮮人を集め各地の収容所に送った。写真は千葉県[[幕張町]]︵現・[[習志野市]]︶の[[習志野俘虜収容所]]。しかし収容所内とて安全ではなく、虐殺は続いた{{Sfn|﹃画報日本近代の歴史9﹄|p=16}}{{Sfn|田原洋|2014}}。}}]]
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軍・警察の主導で関東地方に4,000もの[[自警団]]が組織され、集団暴行事件が発生した<ref name="morooka2013"/><ref>{{cite |
軍・警察の主導で関東地方に4,000もの[[自警団]]が組織され、集団暴行事件が発生した<ref name="morooka2013"/><ref>{{cite |
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|title = 関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件調査報告書 |
|title = 関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件調査報告書 |
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9月27日、[[帝都復興院]]が設置され、総裁の[[後藤新平]]により[[震災復興再開発事業#関東大震災|帝都復興計画]]が提案された。それは、被災地を一旦すべて国が買い取る提案や、[[自動車]]時代を見越した[[100m道路]]の計画(道路の計画には震災前の事業計画だった低速車と高速車の分離も含まれていた)、[[ライフライン]]の[[共同溝]]化など、現在から見ても理想的な近代都市計画だったが、当時の経済状況や当時の[[政党]]間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強にまで削られて議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては[[神田駿河台]]の住民が猛反発した。この復興計画を縮小したことにより、図らずも[[東京大空襲]]時の火災の広がり方や、戦後の[[高度経済成長期]]以降の自動車社会になって、計画を縮小した影響が出てしまった。たとえば道路については[[首都高速]]などを建設するにあたって、防災のために造られた広域避難のための復興公園([[隅田公園]])の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を利用などして建設する必要があった。 |
9月27日、[[帝都復興院]]が設置され、総裁の[[後藤新平]]により[[震災復興再開発事業#関東大震災|帝都復興計画]]が提案された。それは、被災地を一旦すべて国が買い取る提案や、[[自動車]]時代を見越した[[100m道路]]の計画(道路の計画には震災前の事業計画だった低速車と高速車の分離も含まれていた)、[[ライフライン]]の[[共同溝]]化など、現在から見ても理想的な近代都市計画だったが、当時の経済状況や当時の[[政党]]間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強にまで削られて議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては[[神田駿河台]]の住民が猛反発した。この復興計画を縮小したことにより、図らずも[[東京大空襲]]時の火災の広がり方や、戦後の[[高度経済成長期]]以降の自動車社会になって、計画を縮小した影響が出てしまった。たとえば道路については[[首都高速]]などを建設するにあたって、防災のために造られた広域避難のための復興公園([[隅田公園]])の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を利用などして建設する必要があった。 |
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HIM Empress Tenmei's personal visit.jpg|赤十字病院を慰問する[[貞明皇后]](1923年9月15日) |
HIM Empress Tenmei's personal visit.jpg|赤十字病院を慰問する[[貞明皇后]](1923年9月15日) |
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HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama-restored.jpg|摂政宮(後の[[昭和天皇]])による横浜視察(1923年9月15日) |
HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama-restored.jpg|摂政宮(後の[[昭和天皇]])による横浜視察(1923年9月15日) |
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=== 歴史認識問題 === |
=== 歴史認識問題 === |
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[[File:Tragedy at New Yoshiwara Park.jpg| |
[[File:Tragedy at New Yoshiwara Park.jpg|220px|thumb|[[岡田紅陽]]撮影による[[吉原遊郭|吉原]]遊女犠牲者の写真。2013年︵平成25年︶に韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルが、関東大震災時における朝鮮人虐殺の犠牲者であるとの解説とともにこの写真を公開した<ref name=gazet20130203/>が、岡田紅陽写真美術館は不明な情報とした<ref name=okadakoike201302/>。]]
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関東大震災時における朝鮮人殺害事件は、現在、[[歴史認識]]問題ともなっている。 |
関東大震災時における朝鮮人殺害事件は、現在、[[歴史認識]]問題ともなっている。 |
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* {{Cite book|和書|author=川端俊英|date=2015-01-08|url=https://books.google.co.jp/books?id=yEgYBgAAQBAJ&redir_esc=y&hl=ja|title=人権からみた文学の世界【大正篇】|publisher=[[ゴマブックス]]|asin=B00RXHZ4M2|ref={{sfnref|川端俊英|2015}}}} |
* {{Cite book|和書|author=川端俊英|date=2015-01-08|url=https://books.google.co.jp/books?id=yEgYBgAAQBAJ&redir_esc=y&hl=ja|title=人権からみた文学の世界【大正篇】|publisher=[[ゴマブックス]]|asin=B00RXHZ4M2|ref={{sfnref|川端俊英|2015}}}} |
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* {{Citation|和書|date=1970-10|title=[[川端康成]]全集第14巻 独影自命・続落花流水|publisher=新潮社|id={{NCID|BN04731783}}|ref={{Harvid|独影自命|1970}}}} |
* {{Citation|和書|date=1970-10|title=[[川端康成]]全集第14巻 独影自命・続落花流水|publisher=新潮社|id={{NCID|BN04731783}}|ref={{Harvid|独影自命|1970}}}} |
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* {{Citation|和書|date=1982-04|title=川端康成全集第26巻 随筆1|publisher=新潮社|isbn=978-4106438264|ref={{Harvid|随筆1|1982}}}} |
* {{Citation|和書|date=1982-04|title=川端康成全集第26巻 随筆1|publisher=新潮社|isbn=978-4106438264|ref={{Harvid|随筆1|1982}}}}* {{Citation|和書|date=1982-09|title=川端康成全集第29巻 評論1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643829-5|ref={{Harvid|評論1|1982}}}} |
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* {{Citation|和書|date=1982-09|title=川端康成全集第29巻 評論1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643829-5|ref={{Harvid|評論1|1982}}}} |
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* {{Citation|和書|editor=[[井上謙 (日本文学者)|井上謙]]|date=1994-08|title=新潮日本文学アルバム43 [[横光利一]]|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620647-4|ref={{Harvid|アルバム横光|1994}}}} |
* {{Citation|和書|editor=[[井上謙 (日本文学者)|井上謙]]|date=1994-08|title=新潮日本文学アルバム43 [[横光利一]]|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620647-4|ref={{Harvid|アルバム横光|1994}}}} |
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* {{Citation|和書|editor=[[小久保実]]|date=1984-01|title=新潮日本文学アルバム17 [[堀辰雄]]|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620617-7|ref={{Harvid|アルバム堀|1984}}}} |
* {{Citation|和書|editor=[[小久保実]]|date=1984-01|title=新潮日本文学アルバム17 [[堀辰雄]]|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620617-7|ref={{Harvid|アルバム堀|1984}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=植村峻|authorlink=植村峻| translator=| title=紙幣肖像の近現代史| publisher=[[吉川弘文館]]| location =| year=2015| isbn=4642038450| ref=harv}} |
* {{Cite book|和書|author=植村峻|authorlink=植村峻| translator=| title=紙幣肖像の近現代史| publisher=[[吉川弘文館]]| location =| year=2015| isbn=4642038450| ref=harv}} |
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* {{Cite book|和書 |editor=日本近代史研究会 |title=画報日本近代の歴史 9 |publisher=三省堂 |date=1980年2月25日 |ref= {{SfnRef|『画報日本近代の歴史 9』}} }} |
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* 田原洋『関東大震災と中国人』岩波書店、2014年8月19日。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2024年6月11日 (火) 09:10時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3a/Kanto-daishinsai.jpg/280px-Kanto-daishinsai.jpg)
状況
東京帝国大学理科大学教授の寺田寅彦も、上野で開催されていた二科会の招待展示会に出向き、喫茶店で知人の画家津田青楓と歓談中に被災している。その時の状況を以下の通り詳細に記録している。 T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画﹁I崎の女﹂に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし〳〵みし〳〵と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。 — 寺田寅彦、﹃震災日記﹄ − 駐日フランス大使だったポール・クローデルは、罹災しながら、 被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。 — ポール・クローデル、﹃孤独な帝国 日本の1920年代―ポール・クローデル外交書簡1921‐27﹄ と当時の日本人の様子を書いている[20]。避難
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/54/Kanto_Great_Earth_Quake_Nippori_Station_another_version.jpg/260px-Kanto_Great_Earth_Quake_Nippori_Station_another_version.jpg)
救護活動
軍で組織的な震災救護を行った[26]。﹁軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう﹂という評価は、町にも、マスコミにも溢れた[27]。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた[28]。各地の在郷軍人会から8400人以上が集結し救護活動を行った[26]。被害
190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている︵犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている︶。建物被害においては全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには﹁東京全市火の海に化す﹂﹁日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万﹂﹁電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶﹂といった凄惨なものがみられた。同3日付では﹁横浜市は全滅 死傷数万﹂﹁避難民餓死に迫る﹂、4日付では﹁江東方面死体累々﹂﹁火ぜめの深川 生存者は餓死﹂、﹁横浜灰となる 東京﹂ などという見出しが続いた。中でも殺到した数万の避難者を火災旋風が襲った本所被服廠跡地の状況は凄惨をきわめ、9日付大阪朝日新聞で﹁一万五千坪に三万五千の死体﹂と報じられた[29]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/Desolation_of_Nihonbashi_and_Kanda_after_Kanto_Earthquake.jpg/700px-Desolation_of_Nihonbashi_and_Kanda_after_Kanto_Earthquake.jpg)
住宅被害棟数 | 死者行方不明者数 | ||||||||||||
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地域 | 全潰 | 非焼失 | 半潰 | 非焼失 | 焼失 | 流失埋没 | 合計 | 住宅全潰 | 火災 | 流出埋没 | 工場等 | 合計 | |
神奈川県 | 6万3577 | 4万6621 | 5万4035 | 4万3047 | 3万5412 | 497 | 12万5577 | 5795 | 2万5201 | 836 | 1006 | 3万2838 | |
東京都 | 2万4469 | 1万1842 | 2万9525 | 1万7231 | 17万6505 | 2 | 20万5580 | 3546 | 6万6521 | 6 | 314 | 7万0387 | |
千葉県 | 1万3767 | 1万3444 | 6093 | 6030 | 431 | 71 | 1万9976 | 1255 | 59 | 0 | 32 | 1346 | |
埼玉県 | 4759 | 4759 | 4086 | 4086 | 0 | 0 | 8845 | 315 | 0 | 0 | 28 | 343 | |
山梨県 | 577 | 577 | 2225 | 2225 | 0 | 0 | 2802 | 20 | 0 | 0 | 2 | 22 | |
静岡県 | 2383 | 2309 | 6370 | 6214 | 5 | 731 | 9259 | 150 | 0 | 171 | 123 | 444 | |
茨城県 | 141 | 141 | 342 | 342 | 0 | 0 | 483 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | |
長野県 | 13 | 13 | 75 | 75 | 0 | 0 | 88 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
栃木県 | 3 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
群馬県 | 24 | 24 | 21 | 21 | 0 | 0 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
合計 | 10万9713 | 7万9733 | 10万2773 | 7万9272 | 21万2353 | 1301 | 37万2659 | 1万1086 | 9万1781 | 1013 | 1505 | 10万5385 |
人的被害
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a8/Tokyo_Station_police_box_The_Great_Kanto_Earthquake_of_1923.jpg/220px-Tokyo_Station_police_box_The_Great_Kanto_Earthquake_of_1923.jpg)
関東大震災により死去した著名人
●寛子女王︵閑院宮載仁親王第4女子︶- 小田原市の閑院宮御別邸へ避暑のところ、別邸が倒壊。 ●師正王︵東久邇宮稔彦王第2王男子︶- 避暑先の藤沢市にある別荘が倒壊。 ●佐紀子女王︵山階宮武彦王妃︶- 鎌倉市の山階宮別邸へ静養のところ、別邸が倒壊。 ●近衛秀俊︵近衛秀麿子爵長男︶ - 父の訪欧のため鎌倉の公爵邸滞在のところ、津波に巻き込まれる。 ●松岡康毅︵枢密顧問官、日本大学総長︶- 葉山の別邸が倒壊。 ●園田孝吉︵実業家、男爵︶- 二宮にある別荘が倒壊。 ●磯部四郎︵政治家、法学者、弁護士︶- 避難先の被服廠跡で焼死。 ●厨川白村︵英文学者、評論家︶- 鎌倉で津波に巻き込まれ、翌2日に死去。 ●辻村伊助︵園芸家、登山家︶- 小田原の自宅裏のがけ崩れに巻き込まれ、妻子とともに犠牲となる。 ●富田木歩︵俳人︶- 向島の自宅で被災し、避難の途中で退路を断たれ焼死。 ●五代目麗々亭柳橋︵落語家︶- 避難先の被服廠跡で焼死。 ●ウィリアム・ヘーグ︵イギリス外交官、草創期のサッカー振興に関与︶- 勤務先の横浜の領事館が倒壊。 ●ジェニー・カイパー︵フェリス和英女学校校長︶ - 卒業生の相談に乗っていたところ、倒壊した校舎の下敷きに。生徒や教職員の安否を気掛かりにしながら、讃美歌を歌いつつ焼死。 ●村岡斎︵日本の印刷業者、村岡花子の夫・村岡儆三の実弟︶- 横浜工場の社屋が倒壊し、社員約70名とともに犠牲となる。 ●當り矢信太郎︵元力士︶ - 死没地は不明。 ●梅垣直治郎︵元力士︶- 死没地は不明、妻子とともに死亡したという。 ●三遊亭花遊︵落語家、音曲師︶- 死没地は不明。 ●安田善雄︵実業家︶ - 本所横網の安田家本邸で妻子ともに火災に巻き込まれ、陸軍軍医学校で死亡が確認された。 ●五明楼国輔︵落語家︶- 諸説あり。関東大震災犠牲者の慰霊施設
●東京都慰霊堂︵旧震災記念堂︶- 身元不明の遺骨を納め死者の霊を祀る。1948年︵昭和23年︶からは東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、その死者の霊も合祀している。 ●大正拾二年九月帝都震災殃死︵おうし︶者之霊供養碑 - 東京大田区の池上本門寺境内。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/66/Nebukawa_Station_earthquake_passenger_car_left.jpg/220px-Nebukawa_Station_earthquake_passenger_car_left.jpg)
鉄道事故
火災
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/Robert_L._Capp_Great_Kant%C5%8D_earthquake_7.jpg/220px-Robert_L._Capp_Great_Kant%C5%8D_earthquake_7.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e0/Gigantic_cumulonimbus_in_the_sky_over_Tokyo_right_after_the_Great_Kanto_Eartquake.jpg/220px-Gigantic_cumulonimbus_in_the_sky_over_Tokyo_right_after_the_Great_Kanto_Eartquake.jpg)
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本所被服廠跡地の避難民を襲う火災旋風を描いた図
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大日本麦酒吾妻橋工場(現・リバーピア吾妻橋)内鉄柱
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丸善ビル
建物の倒壊
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Ryounkaku.jpg/180px-Ryounkaku.jpg)
首都機能の麻痺
震災当時、通信・報道手段としては電報と新聞が主なものだった︵ラジオ放送は実用化前で[注釈 6]、電話も一般家庭に普及していなかった︶が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに大火によって13社を焼失、報道機能は麻痺した。東京日日新聞︵現在の毎日新聞の前身︶・報知新聞・都新聞は焼け残り、もっとも早く復旧した東京日日は9月5日付夕刊を発行した。 郵便制度も同様だった。普通切手やはがき、そして印紙も焼け、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、糊や目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社︵精版印刷・大阪、秀英舎・東京︶に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。 11月に発行を予定していた、皇太子裕仁親王︵のちの昭和天皇︶と良子女王︵のちの香淳皇后︶との結婚式の記念切手﹁東宮御婚儀﹂4種類のほとんどが逓信省の倉庫で原版もろとも焼け、切手や記念絵葉書は発行中止︵不発行︶となった[44]。その後、当時日本の委任統治領だった南洋庁︵パラオ︶へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年︵大正13年︶の1月に延期して挙行された。 関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では﹁東京︵関東︶全域が壊滅・水没﹂﹁津波、赤城山麓にまで達する﹂﹁政府首脳の全滅﹂﹁伊豆諸島の大噴火による消滅﹂﹁三浦半島の陥没﹂などといった噂やデマの情報が取り上げられた[45]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2f/960SL_buried_at_Sainome_tunnel.jpg/220px-960SL_buried_at_Sainome_tunnel.jpg)
土砂災害
丹沢山地では多くの表層崩壊を生じた[47]。特筆する災害の例として、神奈川県小田原市白糸川では地震発生当日に主震動によって斜面の崩落や崩壊が生じ山津波︵岩屑流︶となり、小田原市根府川沿い集落の123戸中64戸を埋没させ300人を超える犠牲者があった[48]。この山津波は約6kmを5分程度で流下した。なお、この山津波と根府川駅列車転落事故を生じた地滑りとは別のものである[48]。 更に、9月12日から9月15日の大雨によって 166箇所の土砂災害、12箇所の河道閉塞が発生し、土砂災害による死者は1,053人以上、建物約500戸に被害が及んだ[49]。 現在の秦野市では地震動によって市木沢︵いちきさわ︶最上部付近の丘陵が200mにわたって崩落し、下校途中の女児2名が行方不明となった。崩落土の河道閉塞で、新たな湖が生まれた[50]。この湖は﹁震生湖﹂と命名され、令和の現在では市民の憩いの場となっている。地震の混乱で発生した事件
司法・法制の動き
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3e/Japan_LAJ_%281923_Great_Kant%C5%8D_earthquake_report%29.pdf/page1-255px-Japan_LAJ_%281923_Great_Kant%C5%8D_earthquake_report%29.pdf.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/94/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E4%B8%80%E5%B8%AF%E3%82%92%E9%A8%92%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C_%E6%94%BE%E7%81%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E6%8E%A0%E5%A5%AA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%8E%E6%A9%8B%E6%A2%81%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%82%82%E4%BC%81%E3%81%A6%E3%81%9F%E4%B8%8D%E9%80%9E%E5%9B%A32.jpg/255px-%E9%96%A2%E6%9D%B1%E4%B8%80%E5%B8%AF%E3%82%92%E9%A8%92%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C_%E6%94%BE%E7%81%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E6%8E%A0%E5%A5%AA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%8E%E6%A9%8B%E6%A2%81%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%82%82%E4%BC%81%E3%81%A6%E3%81%9F%E4%B8%8D%E9%80%9E%E5%9B%A32.jpg)
●9月3日 亀戸事件︵当事者は警察署と自警団︶、東京地方裁判所管 ●9月6日 福田村事件︵当事者は自警団︶、千葉地方裁判所管 ●9月7日 ﹃治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件﹄︵勅令第403号︶が発布。 ●9月16日 甘粕事件︵大杉事件、当事者は憲兵隊︶、東京地方裁判所管
軍活動
陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きもみられた。 甘粕事件︵大杉事件︶では、大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが憲兵隊の甘粕正彦らに殺害され[52]、亀戸事件では、労働運動の指導者である平澤計七ら13人が亀戸警察署で近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤は斬首された。震災後の殺傷事件
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/47/Osaka-AsahiShinbun_%28September3-1923%29.jpg/150px-Osaka-AsahiShinbun_%28September3-1923%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1d/Caution1923_NeverSpreadFalseRumors.jpg/150px-Caution1923_NeverSpreadFalseRumors.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E4%B8%80%E5%B8%AF%E3%82%92%E9%A8%92%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C_%E6%94%BE%E7%81%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E6%8E%A0%E5%A5%AA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%8E%E6%A9%8B%E6%A2%81%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%82%82%E4%BC%81%E3%81%A6%E3%81%9F%E4%B8%8D%E9%80%9E%E5%9B%A31.jpg/150px-%E9%96%A2%E6%9D%B1%E4%B8%80%E5%B8%AF%E3%82%92%E9%A8%92%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C_%E6%94%BE%E7%81%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E6%8E%A0%E5%A5%AA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%8E%E6%A9%8B%E6%A2%81%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%82%82%E4%BC%81%E3%81%A6%E3%81%9F%E4%B8%8D%E9%80%9E%E5%9B%A31.jpg)
流言の拡散と検証、収束
一方で震災発生後、内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた[59]。具体的には、戒厳令を受けて警保局︵局長・後藤文夫︶が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。「 | 東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし | 」 |
「 | 鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし | 」 |
「 | 不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう | 」 |
治安維持緊急勅令の発布
こうした流言の存在をきっかけとして、前内閣では廃案となった司法省作成の﹁過激社会運動取締法案﹂の代わりに、7日には緊急勅令﹁治安維持の為にする罰則に関する件﹂︵勅令403号︶が出された︵この時の司法大臣は、前日まで大審院長だった思想検事系の平沼騏一郎、枢密院議長は司法官僚の清浦奎吾だった︶。これがのちの治安維持法の前身である。8日には東京地方裁判所検事正南谷智悌が﹁鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる﹂と、流言と否定する見解を公表した[65]。 震災後1か月以上が経過した10月20日、日本政府は﹁朝鮮人による暴動﹂についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実だったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が﹁でっち上げた﹂ものとの説もある[53]。 当時、警視庁官房主事だった正力松太郎は、﹁朝鮮人来襲騒ぎ﹂について、来襲は虚報だったとし、警視庁も失敗したと述べている[66][67]。緊急勅令による戒厳令の一部規定の適用
警視総監の赤池濃が﹁警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持﹂するために、﹁衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して﹂内務大臣・水野錬太郎に﹁戒厳令による戒厳の布告を建言した。水野も朝鮮総督府政務総監時代の1919年9月2日︵地震の4年前︶、独立党党員に爆弾を投げられ重傷を負ったことがある[68]。これを受け、9月2日には、東京府下5郡に緊急勅令により戒厳令の一部規定適用を布告し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた[57]。この戒厳令規定一部適用の勅令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は後藤新平に引き継がれた[69]。一方で戒厳令のほか、経済的には非常徴発令・暴利取締法・臨時物資供給令・モラトリアムが施行された[70]。陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し、軍隊の到着を人々に知らせたがこのことは人々に安心感を与えつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植えつけたとも考えられる[57]。この戒厳令により、警官の態度が高圧化したとの評価もある[57]。自警団による暴行
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5b/Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-4.jpg/220px-Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-4.jpg)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-7.jpg/220px-Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-7.jpg)
被害者数
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ca/Internment_Camp_for_protected_Koreans%2C_13_September_1923.jpg/200px-Internment_Camp_for_protected_Koreans%2C_13_September_1923.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Retained_weapons_of_vigilantes_at_Ushigome-Kagurazaka_Police_Station.jpg/200px-Retained_weapons_of_vigilantes_at_Ushigome-Kagurazaka_Police_Station.jpg)
岸田内閣・松野官房長官の発言
岸田文雄内閣の官房長官・松野博一は、震災発生100年を2日後に控えた2023年8月30日、首相官邸での記者会見において、共同通信の記者から、関東大震災の記録について﹁当時、被災地ではデマが広がり、多くの朝鮮人が、軍、警察、自警団によって虐殺されたと伝えられています。政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか﹂などの質問を受けた[89][90][91]。 これに対して、松野は﹁政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります﹂などと述べた[89][90][91]。 なお、安倍晋三内閣においても、2019年3月8日、参議院議員有田芳生に対する質問主意書に対する答弁書において、﹁御指摘の﹁関東大震災時に軍隊が朝鮮人等を虐殺したこと﹂については、調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することのできる記録が見当たらない﹂と答弁している。また、2017年にも、衆議院議員初鹿明博に対する質問主意書に対する答弁書において、お尋ねの﹁関東大震災に際し、流言蜚語による殺傷事件が発生し、朝鮮人が虐殺されたという事実﹂、﹁中国人、朝鮮人と間違えられた日本人も犠牲になっているという認識﹂、﹁関東大震災に当たって発生した殺傷事件による犠牲者の総数﹂、﹁政府として把握している犠牲者の数﹂及び﹁関東大震災時のような流言蜚語を原因とする殺傷事件﹂については、調査した限りでは、政府内にそれらの事実関係を把握することのできる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である。としている。紙幣の焼失
日本銀行本店は火災の被害を受けたが、銀行券は8.5%が損傷したのみに留まった[92]。ただ、当時の唯一の紙幣印刷工場であった東京市大手町の印刷局︵当時は内閣の外局︶は、証券印刷部や工場、約730台の機械設備、銀行券原版、製造中や製造完了の銀行券をほぼ焼失し、東京市王子の印刷局抄紙部も建物が全面倒壊した。9月下旬の大阪時事新報によれば、印刷局の焼け跡では奇跡的に1円、5円、10円、20円、100円の原版が無傷で発見され、日本銀行の金庫に保管された。 当初は緊急紙幣の発行は行われなかったが、10月中旬に一部の銀行で預金の払出しが相次いだため、日本銀行は11月6日に大蔵大臣に対し、未発行の高額紙幣﹁甲200円券﹂の発行申請を行い、大阪の証券印刷会社である昌栄堂印刷所が下請工場として製造を開始した。しかし年末にはそれほど需要がないことが判明し、甲200円券は発行が中止となった︵1926年にすべて焼却処分された︶。 1924年には朝鮮総督府の印刷局が東京の印刷局へ、アメリカ製の凹版速刷機やパンタグラフを搬送し、その後に新たに発注されたアメリカ製の凸版・平版印刷機も次第に到着して、印刷局の業務は1926年3月には復旧した。復興
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Theosakamainichi-earthquakepictorialedition-1923-page30.jpg/220px-Theosakamainichi-earthquakepictorialedition-1923-page30.jpg)
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赤十字病院を慰問する貞明皇后(1923年9月15日)
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摂政宮(後の昭和天皇)による横浜視察(1923年9月15日)
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関東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している。
1930年(昭和5年)3月24日、昭和天皇が復興した東京を巡幸した[99]。26日には二重橋前広場で帝都復興祭が挙行された[100]。
帝都復興完成に就き賜はりたる勅語(昭和5年3月26日)[101]
帝都復興ノ事業ハ官民協同ノ努力ニ賴リ歲月ノ短キ克ク此ノ偉績ヲ效セリ 朕深ク之ヲ懌フ 朕今親シク市容ノ完備大ニ舊觀ヲ改ムルヲ覽テ專ラ衆心ヲ一ニシ更ニ市政ノ伸展ヲ致サムコトヲ望ム
同年8月には帝都復興記念章が制定され(昭和5年8月13日勅令第148号「帝都復興記念章令」第1条)、帝都復興事業に直接または伴う要務に関与した者(同第3条1号2号)に授与された(同第3条)。
国外の反応と支援
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Japan_Relief_Movement_in_US.jpg/220px-Japan_Relief_Movement_in_US.jpg)
影響
諸国住民からの援助
9月3日、ジェノバにおいて第4回国際連盟総会が開催された。総会では大震災に同情する決議や、各国が帝国図書館に書籍寄贈を行うための決議が行われ、また日本国は各国代表から個人的に集められた救援金の提供も受けた[117]。 世界中の個人や企業、都市・機関・国から提供された援助は、10月の時点の内容や経緯が﹃我震災に対する諸外国の同情及救援の記録﹄としてまとめられた[118]。この目録を掲載した冊子には日本政府関係者も次のような謝意の言葉を寄せた。支那(中国)は恰も排日運動を行っていた最中にも拘らず、震災の報一度伝わるや、南北を通じ、昨日の排日論者は直ちに今日の義捐者となった。…又米国は大統領クーリッジ氏が9月3日早くも教書を発して日本震災に対する同情を表明し、米国民に日本救済寄付金の応募を宣伝するや、全米の同情として集まり、1000万円の予定額は既に1600万円を算するに至った。其他同国赤十字社及各種団体の活動に至っては自身の災厄のような真面目と努力とを以って行われた。寄付金以外の衣服、食料品建築材料等…其他の諸国、英、仏、伊、白、印度等の遠隔の地にあるものも、電報その他の慰問又は応分の資を送って、我が国民の不幸を援助せられた- 渋沢栄一『国際共助精神の顯現』
耐震建築と不燃化
上述の通り、大震災ではレンガ造りの建物が倒壊した。また鉄筋コンクリート造りの建物も大震災の少し前から建てられていたものの、建設中の内外ビルディングが倒壊したのをはじめ日本工業倶楽部や丸ノ内ビルヂングなども半壊するなど被害が目立った。そんな中、内藤多仲が設計し震災の3か月前には完成していた日本興業銀行本店は無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。 すでに1919年︵大正8年︶には市街地建築物法が公布され1920年︵大正9年︶に施行されていたが、1924年︵大正13年︶に法改正が行われ日本で初めての耐震基準が規定された。同法は、のちの建築基準法の基となった。1925年︵大正14年︶には耐震耐火建築のさきがけとなったW・M・ヴォーリズ建築事務所設計の主婦之友社本社建物︵現お茶の水スクエア︶が竣工し、ほかに初の洋風アパートとなった御茶ノ水文化アパートも完成した[120]。 一方で震災では火災による犠牲者が多かったことから、燃えやすい木造建築が密集し狭い路地が入り組んでいた街並みを区画整理し、燃えにくい建物を要所要所に配置し、広い道路や公園で延焼を防ぐ﹁不燃化﹂が叫ばれるようになった。内藤と対立していた佐野利器らが主張し、のちに後藤新平によって帝都復興計画として具体化する。 鉄道省でもこの震災で多くの木造客車が焼けた教訓から、より安全な鋼製車への切り替えを研究するようになった。1926年9月に発生した山陽本線特急列車脱線事故で木造客車が脱線大破し多数の犠牲者を出したこともあって、電車・客車ともに1927年度発注の新車からは鋼製車体への全面切替が実施されている。遷都論議
震災直後には、このような大地震が周期的に発生するおそれがある東京からの首都の移転︵遷都︶が日本国内で検討された[121][122][123][124]。 政府内や各所で遷都の是非について議論され[121][122]、また陸軍の参謀本部は3つの遷都候補地を報告した[121][122][123][124]。 しかし、震災11日後の9月12日には天皇の詔書により﹁東京を引き続き首都として復興を行う﹂旨が宣言され[125]、遷都は立ち消えとなった[122]。遷都への賛成意見
内務省による紹介
内務省の復興事務局による﹃帝都復興事業誌﹄︵1932年︶では、当局の調査による﹃遷都ニ関スル論議﹄を引用する形で、主たる遷都すべき理由および遷都せざるべき理由を紹介している。東京から遷都すべき理由としては、以下のものがあげられた[121]。 (一)百年毎に大地震を免れない、 (二)国防上不適当︵東京は太平洋に近すぎる︶、 (三)帝国の版図全体より見て不適当︵当時の大日本帝国は朝鮮を併合し、満州や南方までも拡大していたため、東京よりも南西の場所が好ましい︶、 (四)大都市発展の将来に鑑み不適当︵東京市内の下町は地盤が弱く建築物の高層化が難しい。山手は水利運輸の便が悪い︶陸軍による意見書
陸軍の参謀本部では、震災5日後の9月6日に、参謀次長の武藤信義の命令により参謀本部員で少佐の今村均が遷都先についての意見書案を作成した。今村は文献を参考にして震災対応や防空、また大陸進出について考慮した[122]。 今村は﹁東京は震災や防空対策の上で首都として不適格﹂とした上で、具体的な移転先候補を次のように報告した[121][122][123][124]。 ●朝鮮の京城︵現在の大韓民国の首都ソウル。当時は日本領であった︶近郊の龍山 ●兵庫県南部の加古川 ●東京府西部︵多摩︶の八王子マスメディアによる論説
大阪朝日新聞︵現在の朝日新聞︶も、震災8日後の9月9日の朝刊で﹁論説 帝都復興と遷都論 国民多数の希望を容れよ﹂と報じた。内容は次のようなものであった[122]。 ●近畿地方は関東地方に比べて大きな天災が少ない。 ●︵当時の日本では︶台湾と朝鮮半島が支配下にあることから、︵東側の関東よりも西側の近畿のほうが︶地理的に日本の中心といえる。 ●再び京都への遷都を求める声が出ている。大阪や神戸にも近く、物資も安定供給できる。 ●引き続き首都は東京にすると速断せず、広く国民の意見をいれて決めてほしい。遷都への反対意見
内務大臣による基本方針
しかし、内務大臣の後藤新平は﹃帝都復興根本策﹄により﹁遷都をせずに東京を復興する﹂という基本方針を次のように発表した[121]。 (一)遷都すべからず (二)復興費に30億円を要すべし (三)欧米最新の都市計画を採用して、我が国に相応しき新都を造営せざるべからず (四)新都市計画実施の為めには、地主に対し断固たる態度を取らざるべからず天皇による命令
さらに、震災11日後の9月12日には大正天皇の詔書によって﹁︵東京は︶国都たるの地位を失わず﹂と発表された。この詔書の内容は次の通りであった[121]。 ●﹁東京は帝国の首都にして政治経済の枢軸となり国民文化の源泉となりて民衆一般の瞻仰する所なり﹂ ●﹁一朝不慮の災害に罹りて今や其の舊形を留めずと雖我が国都たる地位を失わず﹂ ●﹁以て其の善後策は独り舊態を回復するに止まらず進んで将来の発展を圖り以て巷衢の面目を新たにせざるべからず﹂ この天皇の命令により、遷都しないことが正式に決定された。以後、遷都に関する議論は下火となった[121]。人口動態
震災による被害の大きかった東京市・横浜市の市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだ。前年の1922年︵大正11年︶から田園都市会社によって洗足田園都市住宅地の分譲が始まり、同じ年には箱根土地による目白文化村の分譲が始まったが、いずれも被害が限定的だったことから震災後は人口が増加する。さらには常盤台や国立学園都市など郊外での住宅開発が相次ぎ、郊外に居住して都心部の職場へ通うことが一種のステータスとなった。震災をきっかけに東京府多摩地域・埼玉県南部・千葉県西部・神奈川県東部では急速に都市化し、首都圏が形成されていくようになる。 その一方で、大阪市は東京・横浜からの移住者も加わって人口が急増し、一時的に大阪市が東京市を抜き国内でもっとも人口の多い市となった[注釈 13]。名古屋市・京都市・神戸市・福岡市も関東からの移住者によって人口が一時的に急増した。この状況は1932年︵昭和7年︶に東京市が近隣町村を大規模編入するまで続いた。歴史認識問題
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Tragedy_at_New_Yoshiwara_Park.jpg/220px-Tragedy_at_New_Yoshiwara_Park.jpg)
文化
震災は文化面でも様々な影響を与えた。 谷崎潤一郎やプラトン社の面々など関東の文化人が関西に大勢移住して阪神間モダニズムに影響を与えるなど大大阪時代に拍車をかけた。 食文化においては、震災によって職を失った東京の天ぷら職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが広まった。反面、関西の割烹料亭が東京へ進出するなど、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風のおでん種が関東に伝わった[132]。また関東は客は席に座ってから店が注文を取るやり方が主流だったが、関西で主流の客に相対するカウンター文化が広まった。 囲碁界では明治維新以降、近代的な専門棋士が集まった方円社と家元制度を維持する本因坊家が併存していたが、震災を機に団結機運が高まり1924年に日本棋院が設立された。関東大震災に関するフィクション一覧
●帝都物語︵荒俣宏︶ - 帝都・東京の滅亡を目論む魔人、加藤保憲が大地を巡る龍脈を操作して関東大震災を起こした。 ●復活の地︵小川一水、ハヤカワ文庫、全三巻︶ - SF小説。架空の惑星の大都市を襲った巨大地震とその後の復興を描く。後藤新平と帝都復興院をモデルにした人物・機関が登場する。 ●地震憲兵火事巡査︵山崎今朝弥︶ - 地震雷火事親父をもじって関東大震災直後に最も恐ろしいと思ったものを並べ、当時の世論を地震流言火事暴徒と論じた。 ●大虐殺 - 1960年の日本映画。新東宝。関東大震災後の亀戸事件や甘粕事件、朝鮮人虐殺事件が描かれるギロチン社を題材とした作品。後に﹃暴圧 〜関東大震災と軍部〜﹄のタイトルでVHSが販売されるも現在は廃盤。2021年6月に公開時と同じ﹃大虐殺﹄のタイトルでDVD化された。 ●実録飛車角 狼どもの仁義 - 1974年の日本映画。関東大震災から1年後の横浜が舞台。 ●道〜白磁の人〜 - 2012年の日本映画。植民地朝鮮にいる主人公の浅川巧が日本にいた妻の弟から関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件について聞くシーンがある。 ●金子文子と朴烈︵パクヨル︶ - 2017年の韓国映画。主人公の朴烈と金子文子が遭遇した関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件が描かれている。 ●菊とギロチン - 2018年の日本映画。関東大震災後の大正時代末期が舞台。朝鮮人虐殺を生き延びた朝鮮出身の遊女も登場する。 ●福田村事件 - 2023年の日本映画。関東大震災後の福田村事件を描く。また事件に至るまでの朝鮮人・社会主義者に対する流言が言及されており、亀戸事件や別件の朝鮮人犠牲者も描写されている。 ●連続テレビ小説 ●おはなはん︵1966年放映︶ - 大震災により一家と親戚付き合いをしていた細倉を亡くす。 ●おしん︵1983年放映︶ - 大震災によって事業財産を全て失うことになり、夫の故郷の佐賀県に家族共々身を寄せることになる。 ●凛凛と︵1990年度前期放映︶ - 同年9月1日放送分に大震災のエピソードとなった。 ●あぐり︵1997年度前期放映︶ - 岡山であぐりの﹁おめでた﹂が明らかになった頃に、大震災が起こる︵夫のエイスケは東京で大震災に見舞われ消息不明になるが、森潤の計らいであぐりと再会した︶。 ●ごちそうさん︵2013年度後期放映︶ - 主人公・西門め以子︵杏︶の﹁おめでた﹂が明らかになり様子を見に行けないため、め以子の夫の大阪市職員・西門悠太郎︵東出昌大︶が救援のため上京する。その後め以子の親友・室井桜子がめ以子の高等女学校の恩師・宮本先生が火事に巻き込まれて亡くなったことを知らせる。 ●花子とアン︵2014年度前期放映︶ - 大震災により大森に居を構える村岡宅が半壊。近所の被災者に炊き出しを行い、被災した子供たちには童話の読み聞かせをする場面が描かれている。また親戚付き合いをしていた郁弥︵夫の弟︶を亡くす。 ●わろてんか︵2017年度後期放映︶ - 大震災の描写は描かれていないが、東京にいる、藤吉の芸人仲間のキースの安否を確かめるため、主人公・北村てんの従兄・風太が被災地の派遣のため上京する。 ●らんまん︵2023年度前期放映︶ - 大震災によって槙野邸が倒壊し、妻の勤め先である渋谷に家族共々身を寄せることになる。 ●天皇の料理番︵杉森久英︶- 同著者の小説を原作としたテレビドラマ。 ●2015年版 - 6月28日放送分の第10話の劇中で関東大震災が起こり、皇居前広場に避難した人々に炊き出しを行う。 ●大河ドラマ ●いだてん〜東京オリムピック噺〜︵2019年︶ - 第23話﹁大地﹂で関東大震災が発生、地震発生時の美濃部孝蔵︵後の古今亭志ん生 (5代目)、森山未來︶・りん︵夏帆︶夫妻の様子、孝蔵の語りによる焼け野原になっていく東京の描写、焼け野原になった浅草で増野シマ︵杉咲花︶を探す金栗四三︵中村勘九郎︶の姿、金栗に﹁日本人か?﹂と詰め寄る自警団などが描かれている。 ●青天を衝け (2021年) - 最終回の第41話、中盤以降に関東大震災が起き、渋沢栄一︵吉沢亮︶が内外の実業家に寄付を呼びかけ、救援の最前線に立つ場面が描かれている。 ●不思議な少年︵山下和美︶ - 6巻 ムメキクと周平 ●はいからさんが通る︵大和和紀︶ - 物語のクライマックスで関東大震災が起こる。2018年公開の劇場アニメ後編でも描写されている。 ●RIM︵アレクサンダー・ベッシャー︶ - 西暦2026年に起こった関東大震災で行方不明になったソニーのモリタアキオ会長を東京大学バークレイ校の教授が探すSF小説。 ●風立ちぬ (宮崎駿の漫画)、風立ちぬ (2013年の映画)︵宮崎駿︶ - 物語序盤で主人公が関東大震災に遭遇し、ヒロインと最初に出会う。 ●ふしぎ遊戯 白虎仙記︵渡瀬悠宇︶ - 漫画。主人公︵大杉鈴乃︶の父・大杉高雄が四神天地書を封印する紐で本を縛って触れさせないようにしていたが、四神天地書の力を抑えきれず、封印が解けたときに関東大震災が発生する。 ●タイムスリップ1923-守のミラクル地震体験-︵1994年、日本シネセル︶ - 防災アニメ。小学5年生の主人公が突如、関東大震災当日の東京へタイムスリップしてしまう。 ●MAO︵高橋留美子︶ - 漫画。タイムスリップしたヒロインが関東大震災に巻き込まれ、タイムスリップしてきた幼い頃の自分と邂逅し、幼い頃に巻き込まれた事故の真相が判明する。 ●MARS RED - 音楽朗読劇を原作とするTVアニメ。関東大震災の混乱の中、伝染病のワクチンとして吸血鬼の血が人々に投与され、多数の市民が吸血鬼となる。当時の帝国ホテルや東京駅、遊郭等が舞台として描かれる。 ●すずめの戸締まり - 新海誠のアニメーション映画。本作では戸締まりと地震が関連付けられており、2023年の100年前に関東で起こった震災について語られるシーンが在る。 ●紡ぐ乙女と大正の月︵ちうね︶- 現代から大正時代へタイムスリップした少女と華族令嬢のエスを描いた漫画。現代に戻った主人公・藤川紡は、恋仲であった末延唯月が大震災により落命したのを知り、彼女を救うべく再び大正時代へのタイムスリップを試みる。 ●大正処女御伽話 上記以外に現代もしくは近未来の関東における大震災を描いた作品も多い。それらについては南関東直下地震の関連作品を参照。関連文献
●東京震災録 前輯︵東京市役所、昭和2(1927)年︶ - Google ブックス ●東京震災録 中輯︵東京市役所、昭和2(1927)年︶ - Google ブックス ●東京震災録 後輯︵東京市役所、昭和2(1927)年︶ - Google ブックス ●東京震災録 別輯︵東京市役所、昭和2(1927)年︶ - Google ブックス ●竹久夢二 ﹁東京災難画信﹂﹃都新聞﹄︵9月14日?10月4日︶[133]論文
●印藤和寛﹁関東大震災時の朝鮮人虐殺はなぜ起こったか : 朝鮮独立戦争と日本帝国﹂﹃教育科学セミナリー﹄第44号、関西大学教育学会、2013年6月3日、15-28頁、hdl:10112/7771。![オープンアクセス](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/77/Open_Access_logo_PLoS_transparent.svg/8px-Open_Access_logo_PLoS_transparent.svg.png)
脚注
注釈
出典
参考文献
●大曲駒村﹃東京灰燼記﹄︵東北印刷株式会社出版部、1923年︶NDLJP:981826 ︵中公文庫、2006年︶ISBN 4-12-204733-1 ●宮武外骨﹃震災画報﹄︵半狂堂、1923-1924年︶NDLJP:981867,NDLJP:981868,NDLJP:981869,NDLJP:981870,NDLJP:981871,NDLJP:981872 ︵ちくま学芸文庫、2013年︶ISBN 978-4-480-09567-1 ●田山花袋﹃東京震災記﹄︵博文館、1924年︶NDLJP:1183855 ︵河出文庫、2011年︶ISBN 978-4-309-41100-2 ●夢野久作︵杉山萠圓名義︶﹃街頭から見た新東京の裏面﹄﹃東京人の堕落時代﹄︵九州日報連載︶ ●加藤直樹﹃九月、東京の路上で―1923年関東大震災ジェノサイドの残響﹄︵ころから、2014年︶ISBN 9784907239053 ●寺田寅彦 ﹃震災日記より﹄‥新字新仮名 - 青空文庫 ●西崎雅夫編著﹃関東大震災朝鮮人虐殺の記録‥東京地区別1100の証言﹄︵現代書館、2016年)ISBN 978-4768457900 ●諸井孝文, 武村雅之﹁関東地震 (1923年9月1日) による被害要因別死者数の推定﹂﹃日本地震工学会論文集﹄第4巻第4号、2004年、21-45頁、doi:10.5610/jaee.4.4_21。 ●西崎雅夫 編﹃証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人﹄筑摩書房︿ちくま文庫︵に-19-1︶﹀、2018年8月10日。ISBN 978-4-480-43536-1。公的資料
参照文献
●国立国会図書館︵2002年︶﹃日本の集合住宅 - アパート、マンションに見る20世紀﹄。﹃119回常設展示﹄。 ●吉村昭﹃関東大震災﹄︵文藝春秋、1973年︶NCID BN02582117 ●上山明博﹃関東大震災を予知した二人の男 ─大森房吉と今村明恒﹄︵産経新聞出版、2013年︶ISBN 978-4-8191-1224-6 ●上山明博﹃地震学をつくった男・大森房吉 ─幻の地震予知と関東大震災の真実﹄︵青土社、2018年︶ISBN 978-4-7917-7081-6 ●姜徳相編﹃現代史資料6関東大震災と朝鮮人﹄︵みすず書房、1963年︶NDLJP:2990288 ●高木隆史﹃大震災 1923年東京﹄︵原書房、1983年︶978-4562013722 ●姜徳相﹃関東大震災﹄︵中央公論社、1975年︶NCID BN00851670 ●姜徳相﹃関東大震災・虐殺の記憶﹄︵青丘文化社、2003年︶ISBN 4-87924-088-5 ●草鹿龍之介﹃一海軍士官の半生記﹄︵光和堂、1973年︶NCID BN03239335 ●ノエル・F・ブッシュ、向後英一訳﹃正午二分前 外国人記者の見た関東大震災﹄早川書房、2005年8月︵原著1967年10月︶。ISBN 4-15-208659-9。 ●工藤美代子﹃関東大震災﹁朝鮮人虐殺﹂の真実﹄︵産経新聞出版、2009年︶ISBN 978-4-8191-1083-9 ●加藤康男﹃関東大震災﹁朝鮮人虐殺﹂はなかった!﹄︵ワック 新書判、2014年。改版に際し改題 加藤は工藤の夫︶ISBN 978-4898317037 ●﹃外国車ガイドブック1980﹄日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行 ●﹃輸入車ガイドブック1991﹄日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行 ●内田宗治﹃関東大震災と鉄道﹄︵新潮社、2012年︶ISBN 978-4-10-332561-1 ●金富子﹁︻特集︼関東大震災90年 : 朝鮮人虐殺をめぐる研究・運動の歴史と現在(2) 関東大震災時の﹁レイピスト神話﹂と朝鮮人虐殺 : 官憲史料と新聞報道を中心に﹂﹃大原社会問題研究所雑誌﹄第669号、法政大学大原社会問題研究所、2014年7月、1-19頁、NAID 120005524575。 ●関口安義﹁恒藤恭と芥川龍之介 —蘆花﹃謀叛論﹄を介在として—﹂﹃大阪市立大学史紀要﹄第3号、大阪市立大学、2010年10月30日、40-55頁、NAID 120005266439。 ●児玉千尋﹁関東大震災と文豪 : 成蹊大学図書館の展示から﹂﹃成蹊國文﹄第47号、成蹊大学文学部日本文学科、2014年3月15日、56-86頁、NAID 120005436758。 ●川端俊英﹃人権からみた文学の世界︻大正篇︼﹄ゴマブックス、2015年1月8日。ASIN B00RXHZ4M2。 ●﹃川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水﹄新潮社、1970年10月。NCID BN04731783。 ●﹃川端康成全集第26巻 随筆1﹄新潮社、1982年4月。ISBN 978-4106438264。* ﹃川端康成全集第29巻 評論1﹄新潮社、1982年9月。ISBN 978-4-10-643829-5。 ●井上謙 編﹃新潮日本文学アルバム43横光利一﹄新潮社、1994年8月。ISBN 978-4-10-620647-4。 ●小久保実 編﹃新潮日本文学アルバム17堀辰雄﹄新潮社、1984年1月。ISBN 978-4-10-620617-7。 ●植村峻﹃紙幣肖像の近現代史﹄吉川弘文館、2015年。ISBN 4642038450。 ●日本近代史研究会 編﹃画報日本近代の歴史9﹄三省堂、1980年2月25日。 ●田原洋﹃関東大震災と中国人﹄岩波書店、2014年8月19日。関連項目
関連項目が多すぎます。 |
- 震災内閣
- 地震
- 日本の地震年表
- 関東地震
- 元禄地震
- 南関東直下地震
- 復興局疑獄事件
- 東京大空襲 - アメリカ軍は関東大震災の被害実態を検証し、爆弾・焼夷弾の選定や攻撃目標の決定に反映させた。
- 将門塚
- 防災の日
- 歴史教科書問題
- シャープ - 当時筆記用具を製造していたが関東大震災で工場を焼失、拠点を大阪へ移し家電メーカーとして再出発する。
- パニック
- 仙山線 - 関東大震災によって着工延期になった。
- 大森房吉
- 今村明恒
- 寺田寅彦
- 後藤新平
- 添田唖蝉坊 - 「この際」という言葉が飛び交う後藤新平指揮下の復興政策を風刺した演歌「コノサイソング」を歌った社会主義の風刺演歌師。
- 佐野利器
- 内田祥三
- 乞食谷戸
- 上原敬二
- 熊本地震 (2016年) - 地震直後に本震災の出来事を模して「熊本の朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」旨のデマがインターネット上に投稿され問題となった。
外部リンク
- 「関東大震災100年」特設ページ - 内閣府
- 「関東大震災から100年」特設サイト - 気象庁
- 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災 第1編(第2編・第3編) - 中央防災会議(事務局 内閣府)
- 特集:関東大震災を知る - KAJIMAダイジェスト(鹿島建設)
- 資料が語る関東大震災 - リサーチ・ナビ|国立国会図書館
- 世界各紙・誌「世界は日本の震災をいかに見たか」(1923年。世界思潮研究会調査部編訳) - ARCHIVE。震災当時の世界各紙・誌による論説・報道
映像資料
- 関東大震災映像デジタルアーカイブ / Films of the Great Kanto Earthquake of 1923 < 国立映画アーカイブ
- 関東大地震写真
- 1923年関東大震災写真集 - ハワイ大学マノア校図書館アジアコレクション
- 関東大震災・写真と地図のデータベース
- 東京関東地方大震災惨害実況 - 動画データベース 兵庫県篠山市
- 武部正「関東大震災」写真資料 京都府立京都学・歴彩館
- 実写 関東地方大震災,1923.35mmフィルム 京都帝国大学工学部建築学教室
その他
- Largest Earthquakes in the World Since 1900(1900年以降の大地震上位10位) - ウェイバックマシン(2009年11月1日アーカイブ分) アメリカ合衆国地質調査所 USGS