「江戸時代」の版間の差分
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== 対外関係・外交 == |
== 対外関係・外交 == |
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: ﹁鎖国﹂︵[[海禁]]︶政策{{efn|江戸幕府の対外関係は﹁鎖国﹂と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、﹁海禁﹂と呼ぶべきだという主張がある<ref>荒野泰典﹃近世日本と東アジア﹄東京大学出版会、1988年</ref><ref>ロナルド・P・ トビ著・ 速水融・ 川勝平太・ 永積洋子翻訳﹃近世日本の国家形成と外交﹄︵創文社、1990年︶</ref>。}}のもとで、[[長崎市|長崎]]の[[唐人屋敷]]における清、長崎[[出島]]におけるオランダとの交易が幕府によって行われた |
: 「鎖国」([[海禁]])政策{{efn|江戸幕府の対外関係は「鎖国」と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、「海禁」と呼ぶべきだという主張がある<ref>荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年</ref><ref>ロナルド・P・ トビ著・ 速水融・ 川勝平太・ 永積洋子翻訳『近世日本の国家形成と外交』(創文社、1990年)</ref>。}}のもとで、[[長崎市|長崎]]の[[唐人屋敷]]における清、長崎[[出島]]におけるオランダとの交易が幕府によって行われた。 |
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: 日清貿易においては、[[1715年]]︵[[正徳 (日本)|正徳]]5年︶に貿易制限令︵[[長崎新令]]︶を出し、入港を認める清船を年間70隻から30隻に削減、先着順に[[信牌]](しんぱい)︵貿易許可証︶を配布し、﹁来年以降、必ず持参するように﹂と申し渡した。受け取れなかった清の商人が﹁日本の年号が入った許可証をもらい、臣従した商人がいる﹂と訴えたので、清朝は信牌を没収したが、翌年、信牌を持たずに入港した清船は幕府に追い払われて、日清貿易は断絶した。しかし清では基軸通貨である銅銭の原料の過半が日本からの輸入銅を用いていたため、交易を再開・継続する必要に迫られ、清朝は信牌を商人たちに返却した<ref>{{Cite web |title=第4回 江戸時代の貿易‥株式会社日立システムズ |url=https://www.hitachi-systems.com/report/specialist/edo/04/ |website=www.hitachi-systems.com |access-date=2024-06-06 |publisher=[[日立システムズ]]}}</ref>。
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: [[オランダ商館長]]が江戸幕府に提出した[[オランダ風説書]]、中国船がもたらし幕府がまとめた唐船風説書は、海外事情を知る手掛かりとなった<ref>{{Cite web |title=オランダ風説書(オランダフウセツガキ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E9%A2%A8%E8%AA%AC%E6%9B%B8-455185 |website=コトバンク |access-date=2024-06-06 |language=ja |first=デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,山川 日本史小辞典 改訂新版,旺文社日本史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref><ref>{{Cite web |title=唐船風説書(とうせんふうせつがき)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E8%88%B9%E9%A2%A8%E8%AA%AC%E6%9B%B8-103813 |website=コトバンク |access-date=2024-06-06 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典}}</ref>。 |
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: また、[[対馬藩]]を仲介した[[李氏朝鮮]]との[[倭館]]での交易も幕府の公認を受けたものだった。幕府による公式の貿易関係ではないが、[[薩摩藩]]の支配下にあった[[琉球王国]]を通じ清国・東南アジアとの仲介貿易、[[松前藩]]の勢力下にあった[[アイヌ]]との交易なども行われていた。
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: 以上四箇所を「[[四つの口]]」と呼ぶこともある。 |
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: 交易とは違うが、天候不順により海外へ難破した者もいた。今に知られている漂流者らは、一様に外国の手厚い保護を受け、外国の知識を得て日本に帰国した。18世紀末にロシアに漂流し、女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]に謁見した[[大黒屋光太夫]]や、アメリカで教育を受けて幕末に活躍する中浜万次郎︵[[ジョン万次郎]]︶などがその例である。
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: 国交については、江戸幕府は唯一、[[李氏朝鮮]]とは正式な国交を持つ状態が長らく続いた<ref>{{Cite web |title=江戸時代に東海道を通ったという朝鮮通信使について教えてください。 |url=https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index5/answer4.htm#:~:text=%E9%8E%96%E5%9B%BD%E6%94%BF%E7%AD%96%E3%81%8C%E3%81%A8%E3%82%89%E3%82%8C,%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 |website=www.ktr.mlit.go.jp |access-date=2024-05-09}}</ref>。
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: [[1854年]]︵嘉永7年︶の[[日米和親条約]]の締結により﹁鎖国﹂は終了した<ref>{{Cite web |title=第1部 4. 日本の開国と日蘭関係 {{!}} 江戸時代の日蘭交流 |url=https://www.ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_4.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2024-06-06 |language=ja |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>。
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=== 外交 === |
=== 外交 === |
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* [[朝鮮通信使]] |
* [[朝鮮通信使]] |
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* [[日朝関係史]] |
* [[日朝関係史]] |
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* [[日蘭関係]] |
* [[日蘭関係]] |
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== 宗教 == |
== 宗教 == |
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=== 儒教 === |
=== 儒教 === |
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'''儒学''' |
'''儒学''' |
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[[論語]]をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、[[室町時代]]には[[五山]]の僧により読まれていた。[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の際、[[姜沆]]らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、[[藤原惺窩]]とその弟子[[林羅山]]を重用したことで[[朱子学]]の研究が本格化した。幕府は[[昌平坂学問所]]を徳川家私設の学問所として設立した。民間では﹁近江聖人﹂と呼ばれた[[中江藤樹]]や、朱子の﹁祖述﹂を旨とした[[山崎闇斎]]の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。[[ヘルマン・オームス]]は朱子学と神道を統合した闇斎学派によって﹁徳川イデオロギー﹂が完成したとする<ref>{{Cite book|和書|title=徳川イデオロギー|year=1990|publisher=ぺりかん社|author=ヘルマン・オームス|translator=黒住真、清水正之、沢一、頼住光子}}</ref>。[[松平定信]]は[[寛政異学の禁]]で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である[[懐徳堂]]を公認した。[[陽明学]]は中江藤樹の弟子である[[熊沢蕃山]]が学んでいたほか、[[大塩平八郎]]や[[吉田松陰]]ら幕末の志士にも学ばれた。
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[[論語]]をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、[[室町時代]]には[[五山]]の僧により読まれていた。[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の際、[[姜沆]]らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、[[藤原惺窩]]とその弟子[[林羅山]]を重用したことで[[朱子学]]の研究が本格化した。幕府は[[昌平坂学問所]]を徳川家私設の学問所として設立した。民間では﹁近江聖人﹂と呼ばれた[[中江藤樹]]や、朱子の﹁祖述﹂を旨とした[[山崎闇斎]]の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。[[ヘルマン・オームス]]は朱子学と神道を統合した闇斎学派によって﹁徳川イデオロギー﹂が完成したとする<ref>{{Cite book|和書|title=徳川イデオロギー|year=1990|publisher=ぺりかん社|author=ヘルマン・オームス|translator=黒住真、清水正之、沢一、頼住光子}}</ref>。[[松平定信]]は[[寛政異学の禁]]で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である[[懐徳堂]]を公認した。[[陽明学]]は中江藤樹の弟子である[[熊沢蕃山]]が学んでいたほか、[[大塩平八郎]]や[[吉田松陰]]ら幕末の[[志士]]にも学ばれた。
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朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。[[山鹿素行]]は聖学と称して[[古学]]派の先駆者となり、[[貝原益軒]]は朱子学教説への懐疑を露にした。[[伊藤仁斎]]と[[伊藤東涯]]は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。[[荻生徂徠]]の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による「物」(事物、儀礼)に対する「名」(概念)の「制作」を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ[[富永仲基]]や[[山片蟠桃]]は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した<ref>{{Cite web |title=儒学者、国学者について|地歴公民|苦手解決Q&A|進研ゼミ高校講座 |url=https://kou.benesse.co.jp/nigate/social/a13n0505.html |website=儒学者、国学者について|地歴公民|苦手解決Q&A|進研ゼミ高校講座 |access-date=2024-04-16}}</ref>。 |
朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。[[山鹿素行]]は聖学と称して[[古学]]派の先駆者となり、[[貝原益軒]]は朱子学教説への懐疑を露にした。[[伊藤仁斎]]と[[伊藤東涯]]は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。[[荻生徂徠]]の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による「物」(事物、儀礼)に対する「名」(概念)の「制作」を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ[[富永仲基]]や[[山片蟠桃]]は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した<ref>{{Cite web |title=儒学者、国学者について|地歴公民|苦手解決Q&A|進研ゼミ高校講座 |url=https://kou.benesse.co.jp/nigate/social/a13n0505.html |website=儒学者、国学者について|地歴公民|苦手解決Q&A|進研ゼミ高校講座 |access-date=2024-04-16}}</ref>。 |
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===江戸時代生まれの最後の生き残り=== |
===江戸時代生まれの最後の生き残り=== |
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1868年︵慶応4年︶生まれが96歳となる[[1960年代]]の時期の[[1964年]]︵昭和39年ごろ︶より江戸時代生まれの男性がゼロになった県が出ていた<ref>1965年9月14日の毎日新聞秋田版﹁あす老人の日﹂によると、秋田県は97歳の男性が最高齢であった。</ref>。市部では1950年代後半ごろで江戸時代生まれの男性がゼロ、女性も1~2人という自治体もみられる<ref>佐賀県[[鳥栖市]]の[https://www.city.tosu.lg.jp/uploaded/attachment/6944.pdf 鳥栖市報︵1958年9月25日発行︶]によると、1958年8月時点で最高齢者は慶応元年生の93歳女性、男性の最高齢者は89歳︵明治元年~2年生︶であった。</ref>。100歳となる[[1968年]]︵[[明治100周年記念式典]]のころ︶より江戸時代生まれの人物が女性を含めてゼロになった県が出ていた。1968年9月時点では1868年9月以前の生まれの人口が山形県、栃木県、群馬県、埼玉県が1人で青森県、富山県、石川県、奈良県が2人であった<ref>明治百年記念関係行事等概況﹁明治百年記念100歳以上の高齢者の慶祝﹂より</ref>。
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{{出典の明記| date = 2024年4月| section = 1}} |
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[[1970年]]時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、[[1975年]]時点では6人であった。 |
[[1970年]]時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、[[1975年]]時点では6人であった。 |
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大政奉還以前生まれ最後の人物は[[1976年]][[11月16日]]に死去した[[河本にわ]]で、うち男性は[[1973年]][[8月1日]]に死去した[[後藤長次郎]]([[1866年]][[7月4日]]生まれ、岐阜県)であった。 |
大政奉還以前生まれ最後の人物は[[1976年]][[11月16日]]に死去した[[河本にわ]]で、うち男性は[[1973年]][[8月1日]]に死去した[[後藤長次郎]]([[1866年]][[7月4日]]生まれ、岐阜県)であった。 |
2024年6月15日 (土) 00:44時点における版
日本の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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Category:日本のテーマ史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時代区分
沿革
初期・前期(1603年 - 1690年ごろ)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/KokyoTowerM1108.jpg/250px-KokyoTowerM1108.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ef/Dutch-Japanese_trading_pass_1609.jpg/250px-Dutch-Japanese_trading_pass_1609.jpg)
中期(1690年ごろ - 1780年ごろ)
元禄期 - 正徳期
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/Hiroshige_le_pont_Nihonbashi_%C3%A0_l%27aube.jpg/250px-Hiroshige_le_pont_Nihonbashi_%C3%A0_l%27aube.jpg)
徳川吉宗の幕政(享保の改革)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/50/Tokugawa_Yoshimune.jpg/250px-Tokugawa_Yoshimune.jpg)
田沼意次の幕政(田沼時代)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Tanuma_Okitsugu2.jpg/250px-Tanuma_Okitsugu2.jpg)
後期(1780年ごろ - 1850年ごろ)
松平定信の幕政(寛政の改革)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/Matsudaira_Sadanobu.jpg/200px-Matsudaira_Sadanobu.jpg)
文化・文政期(大御所時代)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ee/Tokugawa_Ienari.jpg/230px-Tokugawa_Ienari.jpg)
動乱の天保期
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ab/Mizuno_Tadakuni.jpg/250px-Mizuno_Tadakuni.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/Haiguotuzhi.jpg/120px-Haiguotuzhi.jpg)
幕末期(1853年 - 1868年)
開国・日米和親条約
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Commodore_Matthew_Calbraith_Perry.jpg/180px-Commodore_Matthew_Calbraith_Perry.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/Ii_Naosuke_Portrait_by_Ii_Naoyasu.jpg/200px-Ii_Naosuke_Portrait_by_Ii_Naoyasu.jpg)
文久の国内政治
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fb/Tokugawa_Iemochi_by_Kawamura_Kiyoo_%28Tokugawa_Memorial_Foundation%29.jpg/180px-Tokugawa_Iemochi_by_Kawamura_Kiyoo_%28Tokugawa_Memorial_Foundation%29.jpg)
第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題
禁門の変を理由に幕府は、第一次長州征伐︵7月24日︶を決行。同時期に英米仏蘭4か国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された︵四国艦隊下関砲撃事件︶︵8月5日︶。同14日、長州藩は4国艦隊と講和5条件を結ぶ。その後、高杉晋作、木戸孝允らが藩政を掌握した。 禁門の変での長州朝敵化に幕府の権威回復と錯覚し[35]、1864年︵元治元年︶9月1日、参勤交代の制を1862年の改正︵閏8月22日3年に1回出府などに緩和︶以前に戻す。9月11日、大坂の宿舎で、西郷と勝が会合した。西郷は、勝から﹁共和政治﹂︵雄藩諸侯の合議制による連合政権︶について聞き、感心する。 1865年︵元治2年︶5月16日、将軍江戸を出立し、閏5月22日に入京・参内、同25日大坂城に入城した。同年9月15日、将軍は大阪を発ち同月16日入京し、長州追討の勅許を奏請した。 このような情勢下、1866年︵慶応2年︶1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は坂本龍馬、中岡慎太郎の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約︵薩長同盟︶された。1866年︵慶応2年︶6月7日、幕府は第二次長州征伐を決行するが、高杉晋作の組織した奇兵隊などの士庶民混成軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍・徳川家茂が7月20日に大坂城で病没するなどもあり、8月21日、将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日に幕長休戦を協定する。12月25日、天皇が疱瘡のため36歳で没する[36]。諡︵おくりな︶を孝明天皇と定められた。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/24/Tokugawa_yoshinobu.jpg/190px-Tokugawa_yoshinobu.jpg)
大政奉還 、王政復古
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e2/Taisei_H%C5%8Dkan.jpg/210px-Taisei_H%C5%8Dkan.jpg)
政治制度
幕藩体制
江戸時代の統治体制は幕藩体制︵幕藩制︶と呼ばれ、将軍家︵幕府︶のもとに、大名家︵藩︶、旗本・御家人が服属する体制である。直轄地は幕領・天領と呼ばれ、重要地点には城代・所司代・町奉行・遠国奉行などが派遣、その他の幕領にも郡代・代官が置かれ、支配に当たった。 江戸時代は征夷大将軍徳川氏を中心として、武士階級が支配していた封建社会であった。おもな身分制度は、支配階層の武士と被支配階層である百姓・町人の以上3つの身分を基礎としていた。それまで武士と農民は分離していなかったが、豊臣秀吉の刀狩りと武士は城下・町人は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより、武士階級と農民が明確に分離された︵兵農分離︶。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には飢饉などにより地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば帰農令を出している。また、全国の諸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。彼らは城下に住み藩主から俸禄をもらっていた武士である藩士とは明確に区別され、また一段下の身分として差別されることもあった。幕末に活躍した人々には、勤王方、幕府方を問わず、下級藩士・郷士・町人など軽輩階層出身者であった者が多い。 幕府と朝廷の関係については諸説ある[42]。関白・太政大臣を務めた豊臣秀吉と同様、徳川家康も征夷大将軍に就任、外戚関係を結ぶことで朝廷の権威を利用した。戦国時代以来、領国の一円的領域支配を行った公権力を公儀と言い、特に天皇の権威と一体化して全国支配を達成した徳川幕府を指す。幕府は禁中並公家諸法度の制定、紫衣事件などを通じて朝廷支配を強めていった。新井白石は﹃読史余論﹄で江戸幕府成立を朱子学に基づき革命と捉え、幕府の正当性を主張した。本居宣長や松平定信は大政委任論を唱えたが、それは幕府権力を肯定する立場に立ったものだった︵松平定信は尊号一件で朝廷と対立した︶。宝暦事件の竹内式部や、明和事件の山県大弐、霊元天皇など、朝廷の権力を取り戻そうとするものもいた。﹃大日本史﹄編纂の過程で成立した水戸学や吉田松陰などの思想家は天皇による支配の正統性を説き、倒幕運動・明治維新の志士に学ばれた。 幕府は江戸、大坂、京都に町奉行・所司代を置き重視したが、そのほか伊豆・日田・長崎・新潟・飛騨や重要な鉱山に代官を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、京都所司代は山城・丹波・近江など、大坂町奉行は西日本諸国の天領の采配がそれぞれ許されるなど、管轄地の諸大名を監察する役目もあった︵京都所司代は朝廷も監視していた︶。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の長崎奉行は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。 幕府は政治力と経済力を分け隔てている。幕閣となりうる譜代大名には、そのほとんどが5万石から10万石程度の低い石高しか充てられなかったのに対し、幕政に関与することを決して許さなかった外様大名の多くには数十万石の大封と国持大名の格式が与えられた。しかもその幕閣ですら、大老の特例を除き、定員4 - 5名の老中が重要案件は合議で、日常案件は月番制で決裁を行うという権力の分散が比較的早い時期に図られている。これは室町幕府において三管領の一家であり、かつ複数の大国の守護を兼ねた細川氏が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対する反省である[43]。藩
江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が、原則的には一代に限り土地統治を認められた封建体制である。領土の支配体制は各大名の規模によってかなり異なるが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとった。身分制についても同様である。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは大目付が発する監察使にその行政を監視規制されていた。このため武家諸法度違反で相当数の大名が改易・減封処分を受けたが、この処罰は親藩・譜代・外様の別なく行われた[44]。 大名には幕府によりその格式に定められた参勤交代と御手伝いの義務が課せられた。これが大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために藩政改革が18 - 19世紀にかけて各藩で実施される︵早いところでは土佐藩が17世紀半ばに行った︶。初期は倹約と藩札発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の専売制がかなりの藩で実施される。変わったところでは、紀州藩の﹁熊野三山寄付貸付﹂があり、大名自らが金融業者になり利子を取るということまでしている。また、仙台藩が大坂の升屋の番頭である山片蟠桃に藩財政を総覧させたように、財政を商人に任せるような藩も出てきた[45]。 一部の国持大名の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた飛び地を持っていた︵相給︶。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の淀藩は、山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていた。 大名の支配方法としては、戦時の軍役が参勤交代と天下普請への参加義務という形で残されたほか、有力大名には将軍の子女を養子や嫁として送り込むことにより身内化するという、事実上のお家乗っ取りに近い手段までが講じられた。 なお、一部の例外を除いて、各藩は藩士への知行体制を18世紀初頭までに地方知行制︵藩主が領地の一部を藩士に与え、そこから上がる年貢収入はその藩士のものとすることを許す︶から俸禄制︵藩主の領地から上がる年貢収入はいったんすべて藩の蔵に入れ、そこから藩士に蔵米を年俸として支給する︶へと変遷させている。 江戸時代初期、各藩は隣接する藩との間で境界争いが盛んとなった。有名なところでは久保田藩と盛岡藩が干戈を交えるところまで発展した鹿角領争いであるが、これ以外にも仙台藩と相馬中村藩、萩藩と徳山藩などがある。これらは中期ごろまでにおおむね解決し、このとき決定した境界は現在にも引き継がれている。地方支配
幕府・大名の拠点のある城を中心とした町︵城下町︶のほかは基本的に農村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども収入を米に換算していた。大名たちは上納金を貢いでくれる城下町が栄えることは、自らの発展と同義と考え保護政策を行った。 しかし江戸時代中期に入り、港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に資本主義が流入され、また大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部が潰れるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は田畑永代売買禁止令や帰農令などを発布するも効果がなかった。 農村では名主、庄屋が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる[46]︵地方知行制を温存した仙台藩など例外はある︶。この名主、庄屋は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、苗字帯刀あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられる者も多かった。また大きな村では複数名の名主、庄屋が寄合を開いて村を治めた。彼らは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端を担う下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もあった。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなった。 読み書きを中心とした寺子屋や私塾、農村部における郷学︵郷校︶が設置され、日本人の識字率は高かった[47]。また岡山藩の閑谷学校を嚆矢として、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作った。このようなことが最上徳内や間宮林蔵などの農村出身者の活躍に一役買っているといえる。 幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもあった。たとえば、三河の水野氏が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入し、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信濃を統治していた仙石氏が但馬出石に転封した際、信濃の蕎麦を出石に持ち込んだため、出石そばが発祥した[48]。このような物の交流は各地で起こっているが、これが現在の名産物になっている地域も多い。社会
災害
江戸時代もまた数々の大災害に見舞われた時代であった。幕府による災害復旧の御普請はほぼ天領に限られ、各大名領に対する救恤は多くが貸付金という形であった[51]。 中でも18世紀初頭の元禄から宝永期は巨大災害が立て続けに起こり[51]、富士山の宝永噴火後の1708年には高100石に付金2両を徴収する﹁諸国高役金令﹂を出し、幕府始まって以来の全国的課税となった[52]。領地からの収入増を目的として元禄ごろまで盛んに行われてきた新田開発は、宝永津波をきっかけに転換を迫られることとなり、以後の開発面積は激減することになる[53]。慶長期から増加し続けてきた人口はその後停滞期に入り、享保の大飢饉および天明の大飢饉ごろは減少局面も見られ、幕末までほとんど人口は増加しなかった[53]。 大飢饉 死者1万人以上 ●寛永の大飢饉、享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉 大火 死者1万人以上 ●明暦の大火、水戸様火事、明和の大火、 大地震 Mw8.5以上、かつ死者1万人程度以上 ●慶長の大地震、元禄の大地震、宝永の大地震、八重山の大津波、安政の大地震 大噴火、および火山災害 火山爆発指数VEI4以上レベル、あるいは死者1万人以上 ●宝永大噴火、天明大噴火、安永大噴火、島原大変肥後迷惑経済
江戸時代は経済的には目まぐるしい発展を遂げ、その資本の蓄積は、明治維新以降の経済発展の原動力となる。 各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大阪で売ったため、大阪は諸大名の蔵屋敷が置かれ、全国の特産品が並び、活況を呈した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は株仲間を結成させて特定商人の独占を認めることで商業統制を行おうとした。しかし、実際には江戸時代も後期に入ると、都市・地方ともに新興商人の台頭が始まり、活発な展開を見せるようになる。幕府はこうした経済発展の動きに十分な対応が取れず、物価変動による社会的混乱を鎮められずに幕府が動揺する一因となった。 アンガス・マディソンによれば、1820年︵享保年間︶時点のGDPは、アメリカを1とした場合、日本はその1.75倍、オランダは0.3倍、イギリスは2.8倍であり、1850年になり、アメリカが日本の2倍近くに達する[54]。江戸期における1人あたりの生産量は、アメリカの0.15%である[55]。 対外政策としては幕府は海禁︵いわゆる鎖国︶政策を布いていた。しかし、将軍代替りの際に来府した朝鮮通信使によって清国の動向を、またやはりたびたび来府したオランダ商館長によって欧州の動向を、ある程度においては把握していたといわれている︵オランダ風説書︶。たとえば天保の改革を行った老中・水野忠邦は、清国でアヘン戦争が起こると、ただちに異国船打払令を撤回させているが、これも英国をはじめとした西洋列強の清国に対する外交姿勢を把握していたからこその対処だった。なお、長崎鳴滝に西洋医術の塾︵鳴滝塾︶を開いたシーボルトのもとには多数の日本人が修学しており、限られた範囲で西洋人と日本人との交流は行われていた。- 農業・林業
- 農業技術:農業器具の進歩、千歯扱き・備中鍬、金肥料(干鰯、油粕)、勤勉革命
- 農学:二宮尊徳
- 水産業
- 俵物:煎海鼠、(干鮑、フカヒレ…いずれも中華料理の高級食材)
- 鉱業
- 佐渡金山、生野銀山、石見銀山、別子銅山
- 手工業
- 商品作物、マニュファクチュア
- 交通
- 陸上交通:五街道(東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道)
- 水上交通:弁才船、角倉了以、河村瑞賢、東廻海運、西廻海運
- 通信:飛脚制度
- 都市
- 三都:江戸・大坂・京都、城下町、宿場町、門前町(長野、山田など)
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通貨政策
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財政
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対外関係・外交
﹁鎖国﹂︵海禁︶政策[注釈 20]のもとで、長崎の唐人屋敷における清、長崎出島におけるオランダとの交易が幕府によって行われた。 日清貿易においては、1715年︵正徳5年︶に貿易制限令︵長崎新令︶を出し、入港を認める清船を年間70隻から30隻に削減、先着順に信牌(しんぱい)︵貿易許可証︶を配布し、﹁来年以降、必ず持参するように﹂と申し渡した。受け取れなかった清の商人が﹁日本の年号が入った許可証をもらい、臣従した商人がいる﹂と訴えたので、清朝は信牌を没収したが、翌年、信牌を持たずに入港した清船は幕府に追い払われて、日清貿易は断絶した。しかし清では基軸通貨である銅銭の原料の過半が日本からの輸入銅を用いていたため、交易を再開・継続する必要に迫られ、清朝は信牌を商人たちに返却した[69]。 オランダ商館長が江戸幕府に提出したオランダ風説書、中国船がもたらし幕府がまとめた唐船風説書は、海外事情を知る手掛かりとなった[70][71]。 また、対馬藩を仲介した李氏朝鮮との倭館での交易も幕府の公認を受けたものだった。幕府による公式の貿易関係ではないが、薩摩藩の支配下にあった琉球王国を通じ清国・東南アジアとの仲介貿易、松前藩の勢力下にあったアイヌとの交易なども行われていた。 以上四箇所を﹁四つの口﹂と呼ぶこともある。 交易とは違うが、天候不順により海外へ難破した者もいた。今に知られている漂流者らは、一様に外国の手厚い保護を受け、外国の知識を得て日本に帰国した。18世紀末にロシアに漂流し、女帝エカチェリーナ2世に謁見した大黒屋光太夫や、アメリカで教育を受けて幕末に活躍する中浜万次郎︵ジョン万次郎︶などがその例である。 国交については、江戸幕府は唯一、李氏朝鮮とは正式な国交を持つ状態が長らく続いた[72]。 1854年︵嘉永7年︶の日米和親条約の締結により﹁鎖国﹂は終了した[73]。外交
●朝鮮通信使 ●日露関係史 ●日朝関係史 ●日蘭関係宗教
儒教
儒教は日本においてはむしろ儒学として発展し、江戸時代初期から中期にかけて朱子学や陽明学が盛んになった[74]。仏教
仏教は檀家制度により一概に不振だった[75]、仏教内部も腐敗して﹁葬式仏教﹂が成立して堕落したとする戦前の辻善之助に代表される﹁近世仏教堕落論﹂は、戦後になって多くの批判が行われた。一方で近世仏教思想の研究は、未だに道半ばな状況にある。 江戸時代の仏教は、僧侶による教理研究が盛んに行われ、旗本出身である鈴木正三や独力で大蔵経を刊行した鉄眼道光、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した慈雲、臨済宗中興の祖と称される白隠などの僧侶がいた。また大衆による仏教信仰は縁日・開帳・勧進といった祭礼の隆盛に繋がった。更には近世文学には仏教の法話を参考にしたものも多く、江戸文化の根底の一つであった。 織田政権や江戸幕府より邪宗とされた日蓮宗不受不施派は徹底的に弾圧された[76]。神道
神道では、幕府や諸藩の儒教奨励にともなって神道と儒教が習合した神儒一致の垂加神道などの儒教神道が現れた。次いで国学の隆盛にともない儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、垂加神道や復古神道は幕末の尊王思想にも影響を与え[77]、明治期の政策にも影響を与えた。明治維新で朝廷権力が復活したために、各地で勤皇の神社が建立され︵湊川神社もこのころ︶、天皇陵が各地で定められた。耶蘇教︵キリスト教︶
豊臣秀吉によるバテレン追放令の流れを受け、耶蘇教と呼ばれたキリスト教は江戸時代のほとんどを通じて徹底した取り締まりを受けた。 江戸時代初期は交易国であったイギリスやポルトガルなどからもキリスト教が伝えられたため、禁止令も徹底されなかった。しかし鎖国政策を強めるにつれてキリスト教の弾圧が強化された。 ●1622年︵元和8年︶には長崎西坂で元和の大殉教として知られる大量処刑が行われた[78]。この3代将軍徳川家光の時代には、封建制度の確立、貿易・出入国の管理・統制の強化︵﹁鎖国﹂の徹底︶、キリシタンの禁止が三大政策となり、キリスト教徒は殉教か棄教のいずれかを選択せざるを得なくなった。 ●1635年︵寛永12年︶長崎奉行に対する職務規定︵﹁第三次鎖国令﹂︶で、日本人の東南アジア方面との往来を禁止することで、宣教師の密航の手段として利用された朱印船貿易を廃止した。 ●1637年︵寛永14年︶島原の乱が発生。この後は、全国でキリシタン取り締まりが徹底され、寺請制度などの制度によってキリシタンを摘発した。わずかに残った教徒は隠れキリシタンとして幕末まで信仰を持続した[79]。 ●1865年︵慶応元年︶には隠れキリシタンたちがフランス人宣教師に信仰を告白して世界的ニュースとなった。彼らはその後、明治政府に弾圧された︵浦上四番崩れ︶[80]。学問・思想
江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な学問が開花した。また経済の発展による庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的・連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ近代に近い時期として、江戸時代は歴史の上で近世と定義されている[81]。 江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や剣術を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、僧侶ら知識階級が庶民らの子どもを集めて基本的な読み書きを教えた。この寺子屋が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎が古義堂を開くなど、私塾を構えるところもあったが、江戸中期から郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。 和辻哲郎は、﹁慶長から元禄へかけて、すなわち十七世紀の間は、前代の余勢でまだ剛宕な精神や冒険的な精神が残っているが、その後は目に見えて日本人の創造活動が萎縮してくる﹂、﹁中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである﹂と評している[82]。 儒学 論語をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、室町時代には五山の僧により読まれていた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、姜沆らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、藤原惺窩とその弟子林羅山を重用したことで朱子学の研究が本格化した。幕府は昌平坂学問所を徳川家私設の学問所として設立した。民間では﹁近江聖人﹂と呼ばれた中江藤樹や、朱子の﹁祖述﹂を旨とした山崎闇斎の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。ヘルマン・オームスは朱子学と神道を統合した闇斎学派によって﹁徳川イデオロギー﹂が完成したとする[83]。松平定信は寛政異学の禁で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である懐徳堂を公認した。陽明学は中江藤樹の弟子である熊沢蕃山が学んでいたほか、大塩平八郎や吉田松陰ら幕末の志士にも学ばれた。 朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。山鹿素行は聖学と称して古学派の先駆者となり、貝原益軒は朱子学教説への懐疑を露にした。伊藤仁斎と伊藤東涯は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。荻生徂徠の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による﹁物﹂︵事物、儀礼︶に対する﹁名﹂︵概念︶の﹁制作﹂を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ富永仲基や山片蟠桃は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した[84]。 国学 ●儒学‥朱子学、陽明学、古学、古義学、古文辞学 ●国学、尊王論、宝暦事件、明和事件 ●心学 ●水戸学 ●蘭学、寛政異学の禁、シーボルト事件、蛮社の獄 ●和算文化・芸術・風俗
いくつかの地方では女性の平均的な結婚年齢は24歳で、男性は28歳だった。最初の子どもが生まれるのは結婚して3年というのが平均的だった。結婚した夫婦の半数は子ども2人以下で、あとの半数は1夫婦あたり4人から5人の出生数︵養育数︶だった[注釈 21]。 ●寛永文化、元禄文化、天明文化、化政文化 ●町人文化、上方と江戸、粋︵いき︶と通︵つう︶ ●江戸っ子 文芸 ●俳諧‥松永貞徳︵貞門俳諧︶、西山宗因︵談林俳諧︶、松尾芭蕉︵蕉風俳諧︶、与謝蕪村、小林一茶 ●戯作 ●草双紙‥浅井了意・鈴木正三ほか﹃仮名草子﹄、井原西鶴﹃浮世草子﹄ ●談義本・滑稽本‥十返舎一九﹃東海道中膝栗毛﹄、式亭三馬﹃浮世風呂﹄ ●読本‥上田秋成﹃雨月物語﹄、曲亭馬琴﹃南総里見八犬伝﹄ ●洒落本‥山東京伝﹃仕懸文庫﹄ ●黄表紙‥恋川春町﹃金々先生栄華夢﹄ ●人情本‥為永春水﹃春色梅児誉美﹄ ●合巻‥柳亭種彦﹃偐紫田舎源氏﹄ 芸能 ●人形浄瑠璃‥近松門左衛門、紀海音、竹本義太夫、豊竹若大夫、二代目竹田出雲 ●歌舞伎 ●役者‥初代・二代目・四代目・七代目 市川團十郎、初代嵐三右衛門、初代坂田藤十郎、三代目瀬川菊之丞、初代中村富十郎、三代目尾上菊五郎、三代目中村歌右衛門、五代目松本幸四郎 ●作者‥初代並木五瓶、並木宗輔、並木正三、四代目鶴屋南北、二代目河竹新七︵黙阿弥︶ ●舞踊 ●舞‥能楽を除き、徐々に衰えた。 ●踊‥念仏踊り、盆踊り ●振‥歌舞伎舞踊、上方舞 ●演芸 ●落語‥鹿野武左衛門、初代露の五郎兵衛、初代米沢彦八、初代三遊亭圓朝 ●講談 ●水芸 ●紙切 音楽 ●三味線音楽 ●歌いもの ●地歌 ●三味線組歌‥石村検校﹃琉球組﹄、野川検校、柳川検校 ●芝居歌‥岸野治朗左 ●長歌物‥佐山検校﹃躑躅﹄、浅利検校 ●端歌物‥藤永検校、政島検校、鶴山勾当、峰崎勾当﹃雪﹄﹃袖香炉﹄ ●謡曲物‥藤尾勾当﹃屋島﹄﹃虫の音﹄﹃鉄輪﹄ ●手事物‥深草検校﹃さらし﹄ ●峰崎勾当‥﹃残月﹄﹃越後獅子﹄﹃吾妻獅子﹄﹃玉椿﹄ ●松島検校‥﹃椿尽し﹄ ●菊崎検校‥﹃西行桜﹄ ●国山勾当‥﹃玉川﹄ ●三つ橋勾当‥﹃松竹梅﹄﹃根曳の松﹄ ●松浦検校‥﹃四季の眺﹄﹃深夜の月﹄﹃四つの民﹄﹃宇治巡り﹄﹃玉の台﹄﹃新浮舟﹄﹃若菜﹄﹃里の春﹄﹃末の契﹄﹃新松尽し﹄﹃三つ恋慕﹄﹃里の暁﹄﹃鳥追﹄ ●石川勾当‥﹃八重衣﹄﹃新青柳﹄﹃融﹄﹃新娘道成寺﹄ ●菊岡検校‥﹃御山獅子﹄﹃茶音頭﹄﹃楫枕﹄﹃今小町﹄﹃磯千鳥﹄﹃夕顔﹄﹃笹の露﹄﹃長等の春﹄﹃芥子の花﹄﹃梅の春﹄﹃園の秋﹄﹃ままの川﹄﹃舟の夢﹄ ●光崎検校‥﹃桜川﹄﹃七小町﹄﹃初音﹄﹃千代の鶯﹄﹃夜々の星﹄﹃桂男﹄ ●在原勾当‥﹃さむしろ﹄﹃松の寿﹄ ●菊山検校‥﹃春の曙﹄ ●吉沢検校‥﹃玉くしげ﹄﹃深山木﹄﹃花の縁﹄﹃新山姥﹄﹃夏衣﹄ ●幾山検校‥﹃萩の露﹄﹃打盤﹄﹃横槌﹄﹃新玉鬘﹄﹃四季の寿﹄﹃川千鳥﹄﹃磯の春﹄ ●葛原勾当‥﹃花形見﹄ ●光瀬都 ●長唄 ●歌沢 ●端唄 ●小唄 ●浄瑠璃︵語り物︶ ●義太夫節、豊後節、常磐津節、清元節、半太夫節、河東節、宮園節、一中節、富本節、新内節、繁太夫節、大薩摩節、荻江節 ●三曲 ●地歌 ●箏曲 ●筑紫箏‥賢順、法水 ●八橋流‥八橋検校、北島検校 ●生田流系諸派‥生田検校、継橋検校、三橋検校、市浦検校、松浦検校、浦崎検校、八重崎検校、光崎検校、吉沢検校、幾山検校、葛原勾当 ●山田流‥山田検校、山登検校、山勢検校、山木検校、千代田検校 ●胡弓楽‥八橋検校、藤植検校、政島検校、腕崎検校、吉沢検校 ●尺八楽 ●一節切 ●普化尺八 ●琴古流‥黒沢琴古 ●明清楽 ●明楽 ●清楽 ●一絃琴 ●二絃琴‥中山琴主 ●琵琶 ●薩摩琵琶‥淵脇了公 ●その他 ●下座音楽、門付、はやり歌、都々逸、ちょぼくれ、民謡 建築 ●城郭‥社会の安定と幕府による規制のため、急激に衰えた。 ●寺社‥清水寺本堂、東寺の五重塔、萬福寺、善光寺本堂、東大寺大仏殿、出雲大社本殿、春日神社本殿の改築 ●霊廟‥日光東照宮 ●御所‥京都御所再建、桂離宮、修学院離宮 ●数奇屋‥龍光院密庵、大徳寺孤篷庵の忘筌 美術 ●絵画 ●狩野派‥狩野探幽 ●琳派‥俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一 ●土佐派‥土佐光起 ●文人画︵南画︶‥池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂、青木木米、田能村竹田、渡辺崋山 ●浮世絵‥菱川師宣、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川豊国、歌川国貞 ●円山四条派‥円山応挙、呉春 ●洋風画‥平賀源内、司馬江漢、亜欧堂田善、小田野直武、佐竹曙山、佐竹義躬 ●工芸 ●陶磁器‥伊万里焼︵酒井田柿右衛門︶、京焼︵野々村仁清︶、九谷焼、瀬戸焼、萩焼 ●染織物‥友禅染、小紋染、豊後絞り ●硝子工芸‥ぽっぺん、江戸切子、薩摩切子、七宝焼 ●漆器 ●印籠 ●根付 園芸 ●花卉‥椿、桜、牡丹、芍薬、梅、躑躅、菊、楓、撫子、朝顔、仙翁、桜草、花菖蒲、万年青、唐橘、万両、藪柑子、松葉蘭、長生蘭、富貴蘭、軒忍、細辛、福寿草、蒲公英、酸漿 ●盆栽 風俗 ●娯楽‥花見、潮干狩り、金魚売り、虫売り、両国川開き、紅葉狩り、芝居見物︵歌舞伎、人形浄瑠璃︶、相撲見物、落語、講談、成田詣で、お伊勢参り、富士詣り ●茶屋‥水茶屋、芝居茶屋、相撲茶屋、待合茶屋、陰間茶屋 ●遊廓‥吉原、島原、新町、岡場所、飯盛女 ●賭博‥富籤、無尽︵頼母子講︶、賽子、花札 食文化 ●江戸料理 ●蕎麦 ●握り寿司 ●江戸前寿司 ●刺身 ●海苔巻き ●浅草海苔︵板海苔︶ ●うなぎの蒲焼 ●佃煮 ●ふぐ ●初鰹 ●天ぷら ●豆腐 ●味噌田楽 ●納豆汁 ●本膳料理 ●肉鍋 ●大判焼 ●砂糖を使った菓子 ●砂糖漬け人物
●江戸時代の人物一覧 ●徳川将軍一覧 ●大老・老中・側用人の一覧 ●町奉行・勘定奉行の一覧 ●長崎奉行・外国奉行・軍艦奉行の一覧 ●京都所司代・大坂城代の一覧 ●幕末の人物一覧 ●明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧江戸時代生まれの最後の生き残り
1868年︵慶応4年︶生まれが96歳となる1960年代の時期の1964年︵昭和39年ごろ︶より江戸時代生まれの男性がゼロになった県が出ていた[86]。市部では1950年代後半ごろで江戸時代生まれの男性がゼロ、女性も1~2人という自治体もみられる[87]。100歳となる1968年︵明治100周年記念式典のころ︶より江戸時代生まれの人物が女性を含めてゼロになった県が出ていた。1968年9月時点では1868年9月以前の生まれの人口が山形県、栃木県、群馬県、埼玉県が1人で青森県、富山県、石川県、奈良県が2人であった[88]。 1970年時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、1975年時点では6人であった。 大政奉還以前生まれ最後の人物は1976年11月16日に死去した河本にわで、うち男性は1973年8月1日に死去した後藤長次郎︵1866年7月4日生まれ、岐阜県︶であった。 明治改元以前生まれ最後の人物は1977年5月27日に死去した中山イサで、うち男性は1976年1月2日に死去した吉川与三太郎あった。脚注
注釈
「宸翰
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