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「江戸時代」の版間の差分

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== 沿革 ==

== 沿革 ==

=== 初期・前期(1603年 - 1690年ごろ) ===

=== 初期・前期(1603年 - 1690年ごろ) ===

{{関連記事|武断政治|文治政治}}

[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG|220px|right|thumb|[[徳川家康]]]]

[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG|220px|right|thumb|[[徳川家康]]]]


{{||}}[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]700200[[]]<ref>{{Cite web |title=() 使 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E5%92%8C%E5%81%83%E6%AD%A6-60979 |website= |access-date=2024-04-13 |language=ja |first= ,, ,(),  ,, |last=,}}</ref>

[[徳川家康]]は[[征夷大将軍]]に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに[[江戸幕府]](徳川幕府)が誕生する。[[豊臣秀吉]]死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、[[大坂の陣]](大坂の役)により[[豊臣氏]]勢力を一掃。その後の[[島原の乱]]も鎮圧することで、[[平安時代]]以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「[[元和偃武]]」とよばれる平和状態が日本にもたらされた<ref>{{Cite web |title=元和偃武(げんなえんぶ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E5%92%8C%E5%81%83%E6%AD%A6-60979 |website=コトバンク |access-date=2024-04-13 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 改訂新版,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>。



設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、[[寛永]]10年ごろに「[[老中]]」「[[若年寄]]」などの末期まで続く制度が確立した<ref>{{Cite journal|和書|author=大石慎三郎|authorlink=大石慎三郎|url=http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/1001/1001-17oishi.pdf|title=江戸幕府の行政機構|journal=学習院大学経済論集|volume=10巻|issue=1号|year=1973}}</ref>。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、[[外様大名]]として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の[[親藩|親藩大名]]は大領を持ったが幕政には関与せず、[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家に仕えていた[[譜代大名]]・[[旗本]]によって幕政は運営された。[[武家諸法度]]によって大名は厳しく統制され、大大名も[[改易]]処分となり大領を失うことがしばしば発生した。[[京都]]・[[大坂]]・[[長崎市|長崎]]といった全国の要所は直轄領([[天領]])として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対しては[[禁中並公家諸法度]]や[[京都所司代]]による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。

設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、[[寛永]]10年ごろに「[[老中]]」「[[若年寄]]」などの末期まで続く制度が確立した<ref>{{Cite journal|和書|author=大石慎三郎|authorlink=大石慎三郎|url=http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/1001/1001-17oishi.pdf|title=江戸幕府の行政機構|journal=学習院大学経済論集|volume=10巻|issue=1号|year=1973}}</ref>。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、[[外様大名]]として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の[[親藩|親藩大名]]は大領を持ったが幕政には関与せず、[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家に仕えていた[[譜代大名]]・[[旗本]]によって幕政は運営された。[[武家諸法度]]によって大名は厳しく統制され、大大名も[[改易]]処分となり大領を失うことがしばしば発生した。[[京都]]・[[大坂]]・[[長崎市|長崎]]といった全国の要所は直轄領([[天領]])として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対しては[[禁中並公家諸法度]]や[[京都所司代]]による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。

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==== 元禄期 - 正徳期 ====

==== 元禄期 - 正徳期 ====

{{main|正徳の治}}

{{main|正徳の治}}元禄時代の経済の急成長により、[[貨幣経済]]が農村にも浸透し、四木([[クワ|桑]]・[[漆]]・[[ヒノキ|檜]]・[[コウゾ|楮]])・三草([[ベニバナ|紅花]]・[[アイ (植物)|藍]]・[[アサ|麻]]または[[木綿]])など'''[[商品作物]]'''の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、[[瀬戸内海]]の沿岸では[[入浜式塩田]]が拓かれて[[塩]]の量産体制が整い各地に流通した。[[手工業]]では[[綿織物]]が発達し、伝統的な[[絹織物]]では高級品の[[西陣織]]が作られ、また、[[灘五郷]]や[[伊丹市|伊丹]]の[[酒造業]]、[[有田町|有田]]や[[瀬戸市|瀬戸]]の[[窯業]]も発展した。やがて、[[18世紀]]には農村工業として[[問屋制家内工業]]が各地に勃興した。

元禄時代の経済の急成長により、[[貨幣経済]]が農村にも浸透し、四木([[クワ|桑]]・[[漆]]・[[ヒノキ|檜]]・[[コウゾ|楮]])・三草([[ベニバナ|紅花]]・[[アイ (植物)|藍]]・[[アサ|麻]]または[[木綿]])など'''[[商品作物]]'''の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、[[瀬戸内海]]の沿岸では[[入浜式塩田]]が拓かれて[[塩]]の量産体制が整い各地に流通した。[[手工業]]では[[綿織物]]が発達し、伝統的な[[絹織物]]では高級品の[[西陣織]]が作られ、また、[[灘五郷]]や[[伊丹市|伊丹]]の[[酒造業]]、[[有田町|有田]]や[[瀬戸市|瀬戸]]の[[窯業]]も発展した。やがて、[[18世紀]]には農村工業として[[問屋制家内工業]]が各地に勃興した。



人と物の流れが活発になる中で、[[城下町]]・[[港町]]・[[宿場町]]・[[門前町]]・[[鳥居前町]]・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている<ref>{{Cite book|和書|author1=林玲子|authorlink1=林玲子|author2=大石慎三郎|title=新書・江戸時代5 流通列島の誕生|series=[[講談社現代新書]]|year=1995|isbn=4-06-149261-6}}

人と物の流れが活発になる中で、[[城下町]]・[[港町]]・[[宿場町]]・[[門前町]]・[[鳥居前町]]・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている<ref>{{Cite book|和書|author1=林玲子|authorlink1=林玲子|author2=大石慎三郎|title=新書・江戸時代5 流通列島の誕生|series=[[講談社現代新書]]|year=1995|isbn=4-06-149261-6}}

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==== 徳川吉宗の幕政(享保の改革) ====

==== 徳川吉宗の幕政(享保の改革) ====

{{main|享保の改革}}

{{main|享保の改革}}

[[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|250px|right|thumb|[[徳川吉宗]]]]

[[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|250px|right|thumb|[[徳川吉宗]]]]8代将軍となった[[徳川吉宗]]は、[[紀州徳川家]]の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った([[享保の改革]])。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた[[旗本]]・[[御家人]]の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は[[倹約令]]で消費を抑える一方、[[新田]]開発による米の増産、[[定免法]]採用による収入の安定、[[上米令]]、[[堂島米会所]]の公認などを行った<ref>{{Cite web |title=堂島米市場(どうじまこめいちば)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E5%B8%82%E5%A0%B4-103668 |website=コトバンク |access-date=2024-04-15 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,山川 日本史小辞典 改訂新版,旺文社日本史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する[[足高の制]]、漢訳洋書禁輸の緩和や[[サツマイモ|甘藷]]栽培の奨励、[[目安箱]]の設置などの改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、[[1744年]](延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの[[享保の大飢饉]](享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、[[百姓一揆]]や[[打ちこわし]]が頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書などによる法令で取り締まった。宝暦(1704 - 1710年)から享保(1716 - 1735年)までの間に40回ほどに及んだ(実際はもっと多い。平均して1年に約2回)<ref>丸山真男『丸山真男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948 』 東京大学出版会、 1998年、 151ページ</ref>。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。

8代将軍となった[[徳川吉宗]]は、[[紀州徳川家]]の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った([[享保の改革]])。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた[[旗本]]・[[御家人]]の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は[[倹約令]]で消費を抑える一方、[[新田]]開発による米の増産、[[定免法]]採用による収入の安定、[[上米令]]、[[堂島米会所]]の公認などを行った<ref>{{Cite web |title=堂島米市場(どうじまこめいちば)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E5%B8%82%E5%A0%B4-103668 |website=コトバンク |access-date=2024-04-15 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,山川 日本史小辞典 改訂新版,旺文社日本史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する[[足高の制]]、漢訳洋書禁輸の緩和や[[サツマイモ|甘藷]]栽培の奨励、[[目安箱]]の設置などの改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、[[1744年]](延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの[[享保の大飢饉]](享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、[[百姓一揆]]や[[打ちこわし]]が頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書などによる法令で取り締まった。宝暦(1704 - 1710年)から享保(1716 - 1735年)までの間に40回ほどに及んだ(実際はもっと多い。平均して1年に約2回)<ref>丸山真男『丸山真男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948 』 東京大学出版会、 1998年、 151ページ</ref>。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。



なお、「[[朱子学]]は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った[[荻生徂徠]]が[[1726年]](享保11年)ごろに吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち[[経世論]]が本格化する。一方、[[1724年]](享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に[[儒学]]を学ぶ[[懐徳堂]]を設立して、のちに幕府官許の[[学問所]]として[[明治]]初年まで続いている。[[1730年]](享保15年)、[[石田梅岩]]は日本独自の道徳哲学[[石門心学|心学]](石門心学)を唱えた。[[享保]]年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった<ref>{{Cite web |title=懐徳堂研究センター |url=https://www.let.osaka-u.ac.jp/ja/about/facility/wttcfu |website=大阪大学文学部 |access-date=2024-04-24 |language=ja}}</ref>。

なお、「[[朱子学]]は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った[[荻生徂徠]]が[[1726年]](享保11年)ごろに吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち[[経世論]]が本格化する。一方、[[1724年]](享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に[[儒学]]を学ぶ[[懐徳堂]]を設立して、のちに幕府官許の[[学問所]]として[[明治]]初年まで続いている。[[1730年]](享保15年)、[[石田梅岩]]は日本独自の道徳哲学[[石門心学|心学]](石門心学)を唱えた。[[享保]]年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった<ref>{{Cite web |title=懐徳堂研究センター |url=https://www.let.osaka-u.ac.jp/ja/about/facility/wttcfu |website=大阪大学文学部 |access-date=2024-04-24 |language=ja}}</ref>。

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==== 田沼意次の幕政(田沼時代) ====

==== 田沼意次の幕政(田沼時代) ====

{{main|田沼時代}}

{{main|田沼時代}}

[[ファイル:Tanuma Okitsugu2.jpg|250px|right|thumb|[[田沼意次]]]]幕府財政は、享保の改革での[[年貢]]増徴策によって年貢収入は増加したが、[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1763年]])には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。

[[ファイル:Tanuma Okitsugu2.jpg|250px|right|thumb|[[田沼意次]]]]

幕府財政は、享保の改革での[[年貢]]増徴策によって年貢収入は増加したが、[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1763年]])には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。



これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を[[株仲間]]として公認・奨励して、そこに[[運上]]・[[冥加]]などを課税した。[[専売制]]実施の足がかりとして、[[座]]と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を[[真鍮座]]などの座に与えた<ref>{{Cite web |title=鉄座(テツザ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E9%89%84%E5%BA%A7-576174 |website=コトバンク |access-date=2024-04-24 |language=ja |first=デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 |last=改訂新版}}</ref>。

これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を[[株仲間]]として公認・奨励して、そこに[[運上]]・[[冥加]]などを課税した。[[専売制]]実施の足がかりとして、[[座]]と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を[[真鍮座]]などの座に与えた<ref>{{Cite web |title=鉄座(テツザ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E9%89%84%E5%BA%A7-576174 |website=コトバンク |access-date=2024-04-24 |language=ja |first=デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 |last=改訂新版}}</ref>。

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==== 文化・文政期(大御所時代)====

==== 文化・文政期(大御所時代)====

{{関連記事|大御所時代}}

{{関連記事|大御所時代}}

[[ファイル:Tokugawa Ienari.jpg|230px|right|thumb|[[徳川家斉]]]]


[[:Tokugawa Ienari.jpg|230px|right|thumb|[[]]]]{{Efn|[[]]51793}}[[ ()|]][[]][[]]5011[[]][[|]][[ ()|]][[]][[]][[]][[1805]]2[[]]618231,307綿<ref> 17 1993420</ref>

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発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も[[19世紀]]を迎えると、急速に[[制度疲労]]による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が[[小氷期]]に入り、[[1822年]]([[文政]]5年)には[[隅田川]]が凍結している。

発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も[[19世紀]]を迎えると、急速に[[制度疲労]]による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が[[小氷期]]に入り、[[1822年]]([[文政]]5年)には[[隅田川]]が凍結している。

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=== 仏教 ===

=== 仏教 ===

[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]による[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]が方広寺大仏を発願し、その後相次ぐ天災のため損壊と再建が繰り返されたが、それらの大仏は文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、江戸時代には大仏として日本一の高さを誇っていた。]][[仏教]]は、旗本出身である[[鈴木正三]]や独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、[[サンスクリット]]研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、[[臨済宗]]中興の祖と称される[[白隠]]などの優れた僧侶がいなかったわけではなかったが、幕府の宗教政策の一環として民衆支配の方策として用いられたために([[檀家制度]])、一概に不振だった<ref>{{Cite web |title=第8回:徳川幕府の政治体制に組み込まれた仏教 |url=https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09408/ |website=nippon.com |date=2023-06-29 |access-date=2024-04-24 |language=ja}}</ref>。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田政権や江戸幕府より邪宗とされた[[日蓮宗不受不施派]]は徹底的に弾圧された<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/007-06edofmiginitiren.htm |title=日蓮宗不受不施派の弾圧 |access-date=2024-04-24 |publisher=asahi-net.or.jp}}</ref>。

[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]による[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]が方広寺大仏を発願し、その後相次ぐ天災のため損壊と再建が繰り返されたが、それらの大仏は文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、江戸時代には大仏として日本一の高さを誇っていた。]]

[[仏教]]は、旗本出身である[[鈴木正三]]や独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、[[サンスクリット]]研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、[[臨済宗]]中興の祖と称される[[白隠]]などの優れた僧侶も存在したが、幕府の宗教政策の一環として民衆支配の方策として用いられた([[檀家制度]])ために、一概に不振だった<ref>{{Cite web |title=第8回:徳川幕府の政治体制に組み込まれた仏教 |url=https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09408/ |website=nippon.com |date=2023-06-29 |access-date=2024-04-24 |language=ja}}</ref>。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田政権や江戸幕府より邪宗とされた[[日蓮宗不受不施派]]は徹底的に弾圧された<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/007-06edofmiginitiren.htm |title=日蓮宗不受不施派の弾圧 |access-date=2024-04-24 |publisher=asahi-net.or.jp}}</ref>。



=== 神道 ===

=== 神道 ===


2024年4月26日 (金) 07:02時点における版


[1]

時代区分

1865年慶応元年)または1866年(慶応2年)にフェリーチェ・ベアト愛宕山より撮影した江戸のパノラマ。人工着色した5枚の写真をつなげて制作された。

日本史上の時代区分としては、安土桃山時代(または豊臣政権時代)と合わせて「近世」とされる。

江戸時代の期間は、一般的には1603年3月24日慶長8年2月12日)に徳川家康征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから[注釈 1]1868年10月23日慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治改元されるまでの265年間である[注釈 2]

沿革

初期・前期(1603年 - 1690年ごろ)

徳川家康

700200[3]

10[4] 
16592


147251609824

貿沿貿[5]

[6]西西[7]

中期(1690年ごろ - 1780年ごろ)

ゑちご屋チラシ

元禄期 - 正徳期


綿沿綿西18

宿[8] 184010018[9]

18貿4143貿306,0002貿3,000綿鹿[10]

徳川吉宗の幕政(享保の改革)

徳川吉宗

8[11]1744671761721619173481704 - 17101716 - 17354012[12]

17261117249173015[13]

調

田沼意次の幕政(田沼時代)

田沼意次

1751 - 1763宿

[14]

[15]

[16]

10[17]

後期(1780年ごろ - 1850年ごろ)

松平定信の幕政(寛政の改革)

松平定信

17877140

辿[18](p44)

620[19](p102)

[20][21](p90)

17937



文化・文政期(大御所時代)

徳川家斉

[ 3]501118052618231,307綿[22]

1918225

18817717177841792使使18258218192[23]

動乱の天保期

水野忠邦
大塩平八郎終焉の地

1832318378184112[ 4]3[ 5]調[24]

184018421376

西[ 6]

1843145184415710使184635272貿67退



綿

幕末期(1853年 - 1868年)

開国・日米和親条約

ペリー

18536西6221261713260[26]

沿185368915[ 7]

1858545貿8713102514635貿[ 8]綿94.586.888.29.688.7[27]

=

文久の国内政治

徳川家茂

1860733

186071186221156211769817186112418622[ 9]

18622831100[ 10]97212[ 11]

[ 12]18633510[ 13][ 14]12西[31][ 15]

1863381818646562427719113

第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題


7244851445

[32]186491186282231911宿西西

186525165222591516

18662121西西186626772082192122536



1441866212515使[ 16][33]

18662[ 17]

大政奉還 、王政復古


18673191867311525[34]521西[ 18]6
  

8186711931014151524姿1868133129西

41341868534411西411537314[ 19]15186898

5318695177

政治制度

幕藩体制




3

[37]

西181030

5104 - 5


使

18 - 191718

10



18

鹿

地方支配




宿綿退






社会


宿西



[38]

18[38]17081002[39][40][40]
大飢饉 死者1万人以上
大火 死者1万人以上
大地震 Mw8.5以上、かつ死者1万人程度以上
大噴火、および火山災害 火山爆発指数VEI4以上レベル、あるいは死者1万人以上

経済




宿

1820GDP11.750.32.818502[41]10.15%[42]

使西姿西西
農業・林業
農業技術:農業器具の進歩、千歯扱き備中鍬金肥料(干鰯油粕)、勤勉革命
農学:二宮尊徳
水産業
俵物:煎海鼠、(干鮑フカヒレ…いずれも中華料理の高級食材)
鉱業
佐渡金山生野銀山石見銀山別子銅山
手工業
商品作物マニュファクチュア
交通
陸上交通:五街道東海道中山道日光街道甲州街道奥州街道
水上交通:弁才船角倉了以河村瑞賢東廻海運西廻海運
通信:飛脚制度
都市
三都:江戸・大坂・京都、城下町宿場町門前町長野山田など)
慶長丁銀
商人
江戸商人、上方商人(大坂商人・近江商人)、伊勢商人

通貨政策


160165163613

西16206沿

16958

177218378

[43]調調[44][45]83[46][47]80[48]40[49][50]調[51]

財政

万延大判

徳川家康は武士の支配構造の基本として、士分の収入をに依存していた。そのため、幕府の経済政策の主力は米相場を安定させることが中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がるというようになかなか思うようにはいかず、また武士階級を困窮させることになり、幾度も倹約令徳政令が出されることになる。こうした要因によって商人たちが経済の主導権を握るようになった。

18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、天保の大飢饉になると藩によっては収穫ゼロ(津軽藩など)のところも出てくるようになる。これを見て田沼意次重商主義政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。また財政を改善させることを主目的とする、貨幣改鋳をたびたび行っている[43]

対外関係・外交

 [ 20]貿貿182


使







[54]

()[55]63(19m)(14.7m)

[56][57]

神道



耶蘇教(キリスト教)






16228西3貿

163512貿

163714

1865




西

鹿[58]



[59]

鹿[60]















242832145[ 21]









西


西


















 











鹿























椿

椿

西













寿





寿
























































殿殿殿


















麿




















椿寿漿



















寿

寿





























使


















1868年(慶応4年)生まれが96歳となる1960年代の時期の1964年(昭和39年ごろ)より江戸時代生まれの男性がゼロになった県が出ていた。100歳となる1968年明治100周年記念式典のころ)より江戸時代生まれの人物が女性を含めてゼロになった県が出ていた。1968年9月時点では1868年9月以前の生まれの人口が山形県、栃木県、群馬県、埼玉県が1人で青森県、富山県、石川県、奈良県が2人であった[62]1970年時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、1975年時点では6人であった。 大政奉還以前生まれ最後の人物は1976年11月16日に死去した河本にわで、うち男性は1973年8月1日に死去した後藤長次郎1866年7月4日生まれ、岐阜県)であった。 明治改元以前生まれ最後の人物は1977年5月27日に死去した中山イサで、うち男性は1976年1月2日に死去した吉川与三太郎であった。

脚注

注釈



(一)^ 159831600102159151615[]

(二)^ 1853618601867119310141868133129186853441118714[2]

(三)^ 51793

(四)^ 522

(五)^ 1814156

(六)^ 2316[25]

(七)^ 81861

(八)^ 150-80%25-17%

(九)^ 1863311使10

(十)^ 

(11)^ 300010100035001500[28]

(12)^ [29]

(13)^ 

(14)^ 30052326[30]

(15)^ 31866247

(16)^ 32526272841使

(17)^ 5西67811

(18)^ 65[35]

(19)^ 18684314殿1615

「宸翰

朕幼弱をもってにわかに大統(たいとう)を紹(つ)ぎ爾来何をもって万国に対立し、列祖につかえ奉らんやと朝夕恐懼にたえざるなり。
ひそかに考えるに中葉朝政衰えてより武家権をもっぱらにし、表は朝廷を推尊して実は敬いしてこれを遠ざけ、億兆の父母として絶えて赤子(せきし)の情を知ることあたわざるより計りなし、ついに億兆の君たるもただ名のみになり果て、それがために今日朝廷の尊重は古に倍せしがごとくして朝威は倍衰え、上下(しょうか)相離るること霄譲(しょうじょう)のごとし。かかる形勢にて何をもって天下に君臨せんや。
今般朝政一新の時にあたり天下億兆一人もその所を得ざる時は、皆朕が罪なれば今日の事朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古え列祖の尽きさせ給いしあとをふみ、治蹟をすすめてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君たる所にそむかざるべし。
往昔列祖万機を親(みずか)らし不臣(ふしん)のものあればみずから将としてこれを征したまい、朝廷の政すべて簡易にしてかくのごとく尊重ならざるゆえ、君臣相したしみて上下相愛し徳沢(とくたく)天下にあまねく国威海外に耀きしなり。
しかるに近来宇内大いに開け各国四方に相雄飛するの時にあたり、ひとり我国のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効を計らず、朕いたずらに九重中に安居し、一日の安きをぬすみ、百年の憂いを忘るるときはついに各国の凌侮を受け、上に列祖をはずかしめ奉り、下は億兆を苦しめんことをおそる。ゆえに朕ここに百巻諸侯と広く相誓い列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、みずから四方を経営し汝億兆を安撫し、ついには万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。汝億兆旧来の陋習になれ、尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず。朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜として朕が志をなさざらしむる時は、これ朕をして君たる道を失わしむるのみならず、従って列祖の天下を失わしむるなり。
汝億兆よくよく朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公議をとり、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。」
[36]
  • ^ 江戸幕府の対外関係は「鎖国」と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、「海禁」と呼ぶべきだという主張がある[52][53]
  • ^ 「人口構成の正確な状況を把握するために、いくつかの村の膨大な古い記録を調べてみたことがある」として。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』( 育てるのは二人か三人、下百姓は二人あるいは一人[61]
  • 出典



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