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== 沿革 == |
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=== 初期・前期(1603年 - 1690年ごろ) === |
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{{関連記事|武断政治|文治政治}} |
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[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG|220px|right|thumb|[[徳川家康]]]] |
[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG|220px|right|thumb|[[徳川家康]]]] |
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[[徳川家康]]は[[征夷大将軍]]に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに[[江戸幕府]](徳川幕府)が誕生する。[[豊臣秀吉]]死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、[[大坂の陣]](大坂の役)により[[豊臣氏]]勢力を一掃。その後の[[島原の乱]]も鎮圧することで、[[平安時代]]以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「[[元和偃武]]」とよばれる平和状態が日本にもたらされた<ref>{{Cite web |title=元和偃武(げんなえんぶ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E5%92%8C%E5%81%83%E6%AD%A6-60979 |website=コトバンク |access-date=2024-04-13 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 改訂新版,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>。 |
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設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、[[寛永]]10年ごろに「[[老中]]」「[[若年寄]]」などの末期まで続く制度が確立した<ref>{{Cite journal|和書|author=大石慎三郎|authorlink=大石慎三郎|url=http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/1001/1001-17oishi.pdf|title=江戸幕府の行政機構|journal=学習院大学経済論集|volume=10巻|issue=1号|year=1973}}</ref>。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、[[外様大名]]として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の[[親藩|親藩大名]]は大領を持ったが幕政には関与せず、[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家に仕えていた[[譜代大名]]・[[旗本]]によって幕政は運営された。[[武家諸法度]]によって大名は厳しく統制され、大大名も[[改易]]処分となり大領を失うことがしばしば発生した。[[京都]]・[[大坂]]・[[長崎市|長崎]]といった全国の要所は直轄領([[天領]])として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対しては[[禁中並公家諸法度]]や[[京都所司代]]による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。 |
設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、[[寛永]]10年ごろに「[[老中]]」「[[若年寄]]」などの末期まで続く制度が確立した<ref>{{Cite journal|和書|author=大石慎三郎|authorlink=大石慎三郎|url=http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/1001/1001-17oishi.pdf|title=江戸幕府の行政機構|journal=学習院大学経済論集|volume=10巻|issue=1号|year=1973}}</ref>。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、[[外様大名]]として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の[[親藩|親藩大名]]は大領を持ったが幕政には関与せず、[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家に仕えていた[[譜代大名]]・[[旗本]]によって幕政は運営された。[[武家諸法度]]によって大名は厳しく統制され、大大名も[[改易]]処分となり大領を失うことがしばしば発生した。[[京都]]・[[大坂]]・[[長崎市|長崎]]といった全国の要所は直轄領([[天領]])として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対しては[[禁中並公家諸法度]]や[[京都所司代]]による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。 |
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==== 元禄期 - 正徳期 ==== |
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元禄時代の経済の急成長により、[[貨幣経済]]が農村にも浸透し、四木([[クワ|桑]]・[[漆]]・[[ヒノキ|檜]]・[[コウゾ|楮]])・三草([[ベニバナ|紅花]]・[[アイ (植物)|藍]]・[[アサ|麻]]または[[木綿]])など'''[[商品作物]]'''の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、[[瀬戸内海]]の沿岸では[[入浜式塩田]]が拓かれて[[塩]]の量産体制が整い各地に流通した。[[手工業]]では[[綿織物]]が発達し、伝統的な[[絹織物]]では高級品の[[西陣織]]が作られ、また、[[灘五郷]]や[[伊丹市|伊丹]]の[[酒造業]]、[[有田町|有田]]や[[瀬戸市|瀬戸]]の[[窯業]]も発展した。やがて、[[18世紀]]には農村工業として[[問屋制家内工業]]が各地に勃興した。 |
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人と物の流れが活発になる中で、[[城下町]]・[[港町]]・[[宿場町]]・[[門前町]]・[[鳥居前町]]・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている<ref>{{Cite book|和書|author1=林玲子|authorlink1=林玲子|author2=大石慎三郎|title=新書・江戸時代5 流通列島の誕生|series=[[講談社現代新書]]|year=1995|isbn=4-06-149261-6}} |
人と物の流れが活発になる中で、[[城下町]]・[[港町]]・[[宿場町]]・[[門前町]]・[[鳥居前町]]・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている<ref>{{Cite book|和書|author1=林玲子|authorlink1=林玲子|author2=大石慎三郎|title=新書・江戸時代5 流通列島の誕生|series=[[講談社現代新書]]|year=1995|isbn=4-06-149261-6}} |
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==== 徳川吉宗の幕政(享保の改革) ==== |
==== 徳川吉宗の幕政(享保の改革) ==== |
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[[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|250px|right|thumb|[[徳川吉宗]]]] |
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8代将軍となった[[徳川吉宗]]は、[[紀州徳川家]]の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った([[享保の改革]])。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた[[旗本]]・[[御家人]]の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は[[倹約令]]で消費を抑える一方、[[新田]]開発による米の増産、[[定免法]]採用による収入の安定、[[上米令]]、[[堂島米会所]]の公認などを行った<ref>{{Cite web |title=堂島米市場(どうじまこめいちば)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E5%B8%82%E5%A0%B4-103668 |website=コトバンク |access-date=2024-04-15 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,山川 日本史小辞典 改訂新版,旺文社日本史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する[[足高の制]]、漢訳洋書禁輸の緩和や[[サツマイモ|甘藷]]栽培の奨励、[[目安箱]]の設置などの改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、[[1744年]](延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの[[享保の大飢饉]](享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、[[百姓一揆]]や[[打ちこわし]]が頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書などによる法令で取り締まった。宝暦(1704 - 1710年)から享保(1716 - 1735年)までの間に40回ほどに及んだ(実際はもっと多い。平均して1年に約2回)<ref>丸山真男『丸山真男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948 』 東京大学出版会、 1998年、 151ページ</ref>。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。 |
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なお、「[[朱子学]]は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った[[荻生徂徠]]が[[1726年]](享保11年)ごろに吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち[[経世論]]が本格化する。一方、[[1724年]](享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に[[儒学]]を学ぶ[[懐徳堂]]を設立して、のちに幕府官許の[[学問所]]として[[明治]]初年まで続いている。[[1730年]](享保15年)、[[石田梅岩]]は日本独自の道徳哲学[[石門心学|心学]](石門心学)を唱えた。[[享保]]年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった<ref>{{Cite web |title=懐徳堂研究センター |url=https://www.let.osaka-u.ac.jp/ja/about/facility/wttcfu |website=大阪大学文学部 |access-date=2024-04-24 |language=ja}}</ref>。 |
なお、「[[朱子学]]は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った[[荻生徂徠]]が[[1726年]](享保11年)ごろに吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち[[経世論]]が本格化する。一方、[[1724年]](享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に[[儒学]]を学ぶ[[懐徳堂]]を設立して、のちに幕府官許の[[学問所]]として[[明治]]初年まで続いている。[[1730年]](享保15年)、[[石田梅岩]]は日本独自の道徳哲学[[石門心学|心学]](石門心学)を唱えた。[[享保]]年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった<ref>{{Cite web |title=懐徳堂研究センター |url=https://www.let.osaka-u.ac.jp/ja/about/facility/wttcfu |website=大阪大学文学部 |access-date=2024-04-24 |language=ja}}</ref>。 |
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==== 田沼意次の幕政(田沼時代) ==== |
==== 田沼意次の幕政(田沼時代) ==== |
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{{main|田沼時代}} |
{{main|田沼時代}} |
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[[ファイル:Tanuma Okitsugu2.jpg|250px|right|thumb|[[田沼意次]]]]幕府財政は、享保の改革での[[年貢]]増徴策によって年貢収入は増加したが、[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1763年]])には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。 |
[[ファイル:Tanuma Okitsugu2.jpg|250px|right|thumb|[[田沼意次]]]] |
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幕府財政は、享保の改革での[[年貢]]増徴策によって年貢収入は増加したが、[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1763年]])には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。 |
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これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を[[株仲間]]として公認・奨励して、そこに[[運上]]・[[冥加]]などを課税した。[[専売制]]実施の足がかりとして、[[座]]と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を[[真鍮座]]などの座に与えた<ref>{{Cite web |title=鉄座(テツザ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E9%89%84%E5%BA%A7-576174 |website=コトバンク |access-date=2024-04-24 |language=ja |first=デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 |last=改訂新版}}</ref>。 |
これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を[[株仲間]]として公認・奨励して、そこに[[運上]]・[[冥加]]などを課税した。[[専売制]]実施の足がかりとして、[[座]]と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を[[真鍮座]]などの座に与えた<ref>{{Cite web |title=鉄座(テツザ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E9%89%84%E5%BA%A7-576174 |website=コトバンク |access-date=2024-04-24 |language=ja |first=デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 |last=改訂新版}}</ref>。 |
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==== 文化・文政期(大御所時代)==== |
==== 文化・文政期(大御所時代)==== |
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{{関連記事|大御所時代}} |
{{関連記事|大御所時代}} |
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[[ファイル:Tokugawa Ienari.jpg|230px|right|thumb|[[徳川家斉]]]] |
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松平定信の辞任後{{Efn|幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた﹁[[尊号一件]]﹂で寛政5年︵1793年︶に辞職する。}}、[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]時代から[[天保]]年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍[[徳川家斉]]が握った。家斉は将軍職を子の[[徳川家慶|家慶]]に譲ったあとも実権を握り続けたため、この政治は﹁[[大御所 (江戸時代)|大御所]]政治﹂と呼ばれている。家斉の治世は、当初は質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による[[出目]]の収益で幕府財政がいったん潤うと、[[大奥]]での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方で、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化︵[[化政文化]]︶が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。[[1805年]]︵文化2年︶には[[関東取締出役]]が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こっていた。文政6年︵1823年︶には摂津・河内・和泉1,307か村による国訴は、綿の自由売りさばき、菜種の自由売りさばきを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった<ref>藤沢周平﹃藤沢周平全集 第17巻﹄文藝春秋、 1993年、420ページ</ref>。
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発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も[[19世紀]]を迎えると、急速に[[制度疲労]]による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が[[小氷期]]に入り、[[1822年]]([[文政]]5年)には[[隅田川]]が凍結している。 |
発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も[[19世紀]]を迎えると、急速に[[制度疲労]]による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が[[小氷期]]に入り、[[1822年]]([[文政]]5年)には[[隅田川]]が凍結している。 |
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=== 仏教 === |
=== 仏教 === |
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[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]による[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]が方広寺大仏を発願し、その後相次ぐ天災のため損壊と再建が繰り返されたが、それらの大仏は文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、江戸時代には大仏として日本一の高さを誇っていた。]][[仏教]]は、旗本出身である[[鈴木正三]]や独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、[[サンスクリット]]研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、[[臨済宗]]中興の祖と称される[[白隠]]などの優れた僧侶 |
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]による[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]が方広寺大仏を発願し、その後相次ぐ天災のため損壊と再建が繰り返されたが、それらの大仏は文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、江戸時代には大仏として日本一の高さを誇っていた。]] |
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[[仏教]]は、旗本出身である[[鈴木正三]]や独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、[[サンスクリット]]研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、[[臨済宗]]中興の祖と称される[[白隠]]などの優れた僧侶も存在したが、幕府の宗教政策の一環として民衆支配の方策として用いられた([[檀家制度]])ために、一概に不振だった<ref>{{Cite web |title=第8回:徳川幕府の政治体制に組み込まれた仏教 |url=https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09408/ |website=nippon.com |date=2023-06-29 |access-date=2024-04-24 |language=ja}}</ref>。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田政権や江戸幕府より邪宗とされた[[日蓮宗不受不施派]]は徹底的に弾圧された<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/007-06edofmiginitiren.htm |title=日蓮宗不受不施派の弾圧 |access-date=2024-04-24 |publisher=asahi-net.or.jp}}</ref>。 |
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=== 神道 === |
=== 神道 === |
2024年4月26日 (金) 07:02時点における版
日本の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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Category:日本のテーマ史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時代区分
日本史上の時代区分としては、安土桃山時代(または豊臣政権時代)と合わせて「近世」とされる。
江戸時代の期間は、一般的には1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから[注釈 1]、1868年10月23日(慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治に改元されるまでの265年間である[注釈 2]。
沿革
初期・前期(1603年 - 1690年ごろ)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/KokyoTowerM1108.jpg/250px-KokyoTowerM1108.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ef/Dutch-Japanese_trading_pass_1609.jpg/250px-Dutch-Japanese_trading_pass_1609.jpg)
中期(1690年ごろ - 1780年ごろ)
元禄期 - 正徳期
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/Hiroshige_le_pont_Nihonbashi_%C3%A0_l%27aube.jpg/250px-Hiroshige_le_pont_Nihonbashi_%C3%A0_l%27aube.jpg)
徳川吉宗の幕政(享保の改革)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/50/Tokugawa_Yoshimune.jpg/250px-Tokugawa_Yoshimune.jpg)
田沼意次の幕政(田沼時代)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Tanuma_Okitsugu2.jpg/250px-Tanuma_Okitsugu2.jpg)
後期(1780年ごろ - 1850年ごろ)
松平定信の幕政(寛政の改革)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/Matsudaira_Sadanobu.jpg/200px-Matsudaira_Sadanobu.jpg)
文化・文政期(大御所時代)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ee/Tokugawa_Ienari.jpg/230px-Tokugawa_Ienari.jpg)
動乱の天保期
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ab/Mizuno_Tadakuni.jpg/250px-Mizuno_Tadakuni.jpg)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/Haiguotuzhi.jpg/120px-Haiguotuzhi.jpg)
幕末期(1853年 - 1868年)
開国・日米和親条約
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Commodore_Matthew_Calbraith_Perry.jpg/180px-Commodore_Matthew_Calbraith_Perry.jpg)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/Ii_Naosuke_Portrait_by_Ii_Naoyasu.jpg/200px-Ii_Naosuke_Portrait_by_Ii_Naoyasu.jpg)
文久の国内政治
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fb/Tokugawa_Iemochi_by_Kawamura_Kiyoo_%28Tokugawa_Memorial_Foundation%29.jpg/180px-Tokugawa_Iemochi_by_Kawamura_Kiyoo_%28Tokugawa_Memorial_Foundation%29.jpg)
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第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/24/Tokugawa_yoshinobu.jpg/190px-Tokugawa_yoshinobu.jpg)
大政奉還 、王政復古
![]() |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e2/Taisei_H%C5%8Dkan.jpg/210px-Taisei_H%C5%8Dkan.jpg)
政治制度
幕藩体制
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藩
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地方支配
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社会
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災害
江戸時代もまた数々の大災害に見舞われた時代であった。幕府による災害復旧の御普請はほぼ天領に限られ、各大名領に対する救恤は多くが貸付金という形であった[38]。 中でも18世紀初頭の元禄から宝永期は巨大災害が立て続けに起こり[38]、富士山の宝永噴火後の1708年には高100石に付金2両を徴収する﹁諸国高役金令﹂を出し、幕府始まって以来の全国的課税となった[39]。領地からの収入増を目的として元禄ごろまで盛んに行われてきた新田開発は、宝永津波をきっかけに転換を迫られることとなり、以後の開発面積は激減することになる[40]。慶長期から増加し続けてきた人口はその後停滞期に入り、享保の大飢饉および天明の大飢饉ごろは減少局面も見られ、幕末までほとんど人口は増加しなかった[40]。- 大飢饉 死者1万人以上
- 大火 死者1万人以上
経済
![]() |
- 農業・林業
- 農業技術:農業器具の進歩、千歯扱き・備中鍬、金肥料(干鰯、油粕)、勤勉革命
- 農学:二宮尊徳
- 水産業
- 俵物:煎海鼠、(干鮑、フカヒレ…いずれも中華料理の高級食材)
- 鉱業
- 佐渡金山、生野銀山、石見銀山、別子銅山
- 手工業
- 商品作物、マニュファクチュア
- 交通
- 陸上交通:五街道(東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道)
- 水上交通:弁才船、角倉了以、河村瑞賢、東廻海運、西廻海運
- 通信:飛脚制度
- 都市
- 三都:江戸・大坂・京都、城下町、宿場町、門前町(長野、山田など)
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通貨政策
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財政
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徳川家康は武士の支配構造の基本として、士分の収入を米に依存していた。そのため、幕府の経済政策の主力は米相場を安定させることが中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がるというようになかなか思うようにはいかず、また武士階級を困窮させることになり、幾度も倹約令や徳政令が出されることになる。こうした要因によって商人たちが経済の主導権を握るようになった。
18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、天保の大飢饉になると藩によっては収穫ゼロ(津軽藩など)のところも出てくるようになる。これを見て田沼意次は重商主義政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。また財政を改善させることを主目的とする、貨幣改鋳をたびたび行っている[43]。
対外関係・外交
- ﹁鎖国﹂︵海禁︶政策[注釈 20]のもとで、長崎の唐人屋敷における清、長崎出島におけるオランダとの交易が幕府によって行われた。また、対馬藩を仲介した李氏朝鮮との倭館での交易も幕府の公認を受けたものだった。幕府による公式の貿易関係ではないが、薩摩藩の支配下にあった琉球王国を通じ清国・東南アジアとの仲介貿易、松前藩の勢力下にあったアイヌとの交易なども行われていた。この四箇所を﹁四つの口﹂と呼ぶこともある。交易とは違うが、天候不順により海外へ難破した者もいた。今に知られている漂流者らは、一様に外国の手厚い保護を受け、外国の知識を得て日本に帰国した。18世紀末にロシアに漂流し、女帝エカチェリーナ2世に謁見した大黒屋光太夫や、アメリカで教育を受けて幕末に活躍する中浜万次郎︵ジョン万次郎︶もその一人である。なお、江戸幕府は唯一、李氏朝鮮とは正式な国交を持っていた。
外交
●朝鮮通信使 ●日露関係史 ●日朝関係史 ●日蘭関係宗教
儒教
儒教は日本においてはむしろ儒学として発展し、江戸時代初期から中期にかけて朱子学や陽明学が盛んになった[54]。仏教
エンゲルベルト・ケンペルによる方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[ 55]。豊臣秀吉が方広寺大仏を発願し、その後相次ぐ天災のため損壊と再建が繰り返されたが、それらの大仏は文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、江戸時代には大仏として日本一の高さを誇っていた。 仏教は、旗本出身である鈴木正三や独力で大蔵経を刊行した鉄眼道光、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した慈雲、臨済宗中興の祖と称される白隠などの優れた僧侶も存在したが、幕府の宗教政策の一環として民衆支配の方策として用いられた︵檀家制度︶ために、一概に不振だった[56]。仏教内部も腐敗し、いわゆる﹁葬式仏教﹂が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田政権や江戸幕府より邪宗とされた日蓮宗不受不施派は徹底的に弾圧された[57]。神道
神道では、幕府や諸藩の儒教奨励にともなって神道と儒教が習合した神儒一致の垂加神道などの儒教神道が現れた。次いで国学の隆盛にともない儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった。復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、垂加神道や復古神道は幕末の尊王思想にも影響を与え、明治期の政策にも影響を与えた。明治維新で朝廷権力が復活したために、各地で勤皇の神社が建立され︵湊川神社もこのころ︶、天皇陵が各地で定められた。耶蘇教(キリスト教)
豊臣秀吉によるバテレン追放令の流れを受け、耶蘇教と呼ばれたキリスト教は江戸時代のほとんどを通じて徹底した取り締まりを受けた。 江戸時代初期は交易国であったイギリスやポルトガルなどからもキリスト教が伝えられたため、禁止令も徹底されなかった。しかし鎖国政策を強めるにつれてキリスト教の弾圧が強化された。 ●1622年︵元和8年︶には長崎西坂で元和の大殉教として知られる大量処刑が行われた。この3代将軍徳川家光の時代には、封建制度の確立、貿易・出入国の管理・統制の強化︵﹁鎖国﹂の徹底︶、キリシタンの禁止が三大政策となり、キリスト教徒は殉教か棄教のいずれかを選択せざるを得なくなった。 ●1635年︵寛永12年︶長崎奉行に対する職務規定︵﹁第三次鎖国令﹂︶で、日本人の東南アジア方面との往来を禁止することで、宣教師の密航の手段として利用された朱印船貿易を廃止した。 ●1637年︵寛永14年︶島原の乱が発生。この後は、全国でキリシタン取り締まりが徹底され、寺請制度などの制度によってキリシタンを摘発した。わずかに残った教徒は隠れキリシタンとして幕末まで信仰を持続した。 ●1865年︵慶応元年︶には隠れキリシタンたちがフランス人宣教師に信仰を告白して世界的ニュースとなった。彼らはその後、明治政府に弾圧された︵浦上四番崩れ︶。学問・思想
江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な学問が開花した。また経済の発展による庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的・連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ近代に近い時期として、江戸時代は歴史の上で近世と定義されている。 江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や剣術を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、僧侶ら知識階級が庶民らの子どもを集めて基本的な読み書きを教えた。この寺子屋が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎が古義堂を開くなど、私塾を構えるところもあったが、江戸中期から郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。 和辻哲郎は、﹁慶長から元禄へかけて、すなわち十七世紀の間は、前代の余勢でまだ剛宕な精神や冒険的な精神が残っているが、その後は目に見えて日本人の創造活動が萎縮してくる﹂、﹁中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである﹂と評している[58]。 儒学 論語をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、室町時代には五山の僧により読まれていた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、姜沆らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、藤原惺窩とその弟子林羅山を重用したことで朱子学の研究が本格化した。幕府は昌平坂学問所を徳川家私設の学問所として設立した。民間では﹁近江聖人﹂と呼ばれた中江藤樹や、朱子の﹁祖述﹂を旨とした山崎闇斎の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。ヘルマン・オームスは朱子学と神道を統合した闇斎学派によって﹁徳川イデオロギー﹂が完成したとする[59]。松平定信は寛政異学の禁で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である懐徳堂を公認した。陽明学は中江藤樹の弟子である熊沢蕃山が学んでいたほか、大塩平八郎や吉田松陰ら幕末の志士にも学ばれた。 朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。山鹿素行は聖学と称して古学派の先駆者となり、貝原益軒は朱子学教説への懐疑を露にした。伊藤仁斎と伊藤東涯は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。荻生徂徠の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による﹁物﹂︵事物、儀礼︶に対する﹁名﹂︵概念︶の﹁制作﹂を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ富永仲基や山片蟠桃は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した[60]。 国学 ●儒学‥朱子学、陽明学、古学、古義学、古文辞学 ●国学、尊王論、宝暦事件、明和事件 ●心学 ●水戸学 ●蘭学、寛政異学の禁、シーボルト事件、蛮社の獄 ●和算文化・芸術・風俗
いくつかの地方では女性の平均的な結婚年齢は24歳で、男性は28歳だった。最初の子どもが生まれるのは結婚して3年というのが平均的だった。結婚した夫婦の半数は子ども2人以下で、あとの半数は1夫婦あたり4人から5人の出生数︵養育数︶だった[注釈 21]。●寛永文化、元禄文化、天明文化、化政文化 ●町人文化、上方と江戸、粋︵いき︶と通︵つう︶ ●江戸っ子 文芸 ●俳諧‥松永貞徳︵貞門俳諧︶、西山宗因︵談林俳諧︶、松尾芭蕉︵蕉風俳諧︶、与謝蕪村、小林一茶 ●戯作 ●草双紙‥浅井了意・鈴木正三ほか﹃仮名草子﹄、井原西鶴﹃浮世草子﹄ ●談義本・滑稽本‥十返舎一九﹃東海道中膝栗毛﹄、式亭三馬﹃浮世風呂﹄ ●読本‥上田秋成﹃雨月物語﹄、曲亭馬琴﹃南総里見八犬伝﹄ ●洒落本‥山東京伝﹃仕懸文庫﹄ ●黄表紙‥恋川春町﹃金々先生栄華夢﹄ ●人情本‥為永春水﹃春色梅児誉美﹄ ●合巻‥柳亭種彦﹃偐紫田舎源氏﹄ 芸能 ●人形浄瑠璃‥近松門左衛門、紀海音、竹本義太夫、豊竹若大夫、二代目竹田出雲 ●歌舞伎 ●役者‥初代・二代目・四代目・七代目 市川團十郎、初代嵐三右衛門、初代坂田藤十郎、三代目瀬川菊之丞、初代中村富十郎、三代目尾上菊五郎、三代目中村歌右衛門、五代目松本幸四郎 ●作者‥初代並木五瓶、並木宗輔、並木正三、四代目鶴屋南北、二代目河竹新七︵黙阿弥︶ ●舞踊 ●舞‥能楽を除き、徐々に衰えた。 ●踊‥念仏踊り、盆踊り ●振‥歌舞伎舞踊、上方舞 ●演芸 ●落語‥鹿野武左衛門、初代露の五郎兵衛、初代米沢彦八、初代三遊亭圓朝 ●講談 ●水芸 ●紙切 音楽 ●三味線音楽 ●歌いもの ●地歌 ●三味線組歌‥石村検校﹃琉球組﹄、野川検校、柳川検校 ●芝居歌‥岸野治朗左 ●長歌物‥佐山検校﹃躑躅﹄、浅利検校 ●端歌物‥藤永検校、政島検校、鶴山勾当、峰崎勾当﹃雪﹄﹃袖香炉﹄ ●謡曲物‥藤尾勾当﹃屋島﹄﹃虫の音﹄﹃鉄輪﹄ ●手事物‥深草検校﹃さらし﹄ ●峰崎勾当‥﹃残月﹄﹃越後獅子﹄﹃吾妻獅子﹄﹃玉椿﹄ ●松島検校‥﹃椿尽し﹄ ●菊崎検校‥﹃西行桜﹄ ●国山勾当‥﹃玉川﹄ ●三つ橋勾当‥﹃松竹梅﹄﹃根曳の松﹄ ●松浦検校‥﹃四季の眺﹄﹃深夜の月﹄﹃四つの民﹄﹃宇治巡り﹄﹃玉の台﹄﹃新浮舟﹄﹃若菜﹄﹃里の春﹄﹃末の契﹄﹃新松尽し﹄﹃三つ恋慕﹄﹃里の暁﹄﹃鳥追﹄ ●石川勾当‥﹃八重衣﹄﹃新青柳﹄﹃融﹄﹃新娘道成寺﹄ ●菊岡検校‥﹃御山獅子﹄﹃茶音頭﹄﹃楫枕﹄﹃今小町﹄﹃磯千鳥﹄﹃夕顔﹄﹃笹の露﹄﹃長等の春﹄﹃芥子の花﹄﹃梅の春﹄﹃園の秋﹄﹃ままの川﹄﹃舟の夢﹄ ●光崎検校‥﹃桜川﹄﹃七小町﹄﹃初音﹄﹃千代の鶯﹄﹃夜々の星﹄﹃桂男﹄ ●在原勾当‥﹃さむしろ﹄﹃松の寿﹄ ●菊山検校‥﹃春の曙﹄ ●吉沢検校‥﹃玉くしげ﹄﹃深山木﹄﹃花の縁﹄﹃新山姥﹄﹃夏衣﹄ ●幾山検校‥﹃萩の露﹄﹃打盤﹄﹃横槌﹄﹃新玉鬘﹄﹃四季の寿﹄﹃川千鳥﹄﹃磯の春﹄ ●葛原勾当‥﹃花形見﹄ ●光瀬都 ●長唄 ●歌沢 ●端唄 ●小唄 ●浄瑠璃︵語り物︶ ●義太夫節、豊後節、常磐津節、清元節、半太夫節、河東節、宮園節、一中節、富本節、新内節、繁太夫節、大薩摩節、荻江節 ●三曲 ●地歌 ●箏曲 ●筑紫箏‥賢順、法水 ●八橋流‥八橋検校、北島検校 ●生田流系諸派‥生田検校、継橋検校、三橋検校、市浦検校、松浦検校、浦崎検校、八重崎検校、光崎検校、吉沢検校、幾山検校、葛原勾当 ●山田流‥山田検校、山登検校、山勢検校、山木検校、千代田検校 ●胡弓楽‥八橋検校、藤植検校、政島検校、腕崎検校、吉沢検校 ●尺八楽 ●一節切 ●普化尺八 ●琴古流‥黒沢琴古 ●明清楽 ●明楽 ●清楽 ●一絃琴 ●二絃琴‥中山琴主 ●琵琶 ●薩摩琵琶‥淵脇了公 ●その他 ●下座音楽、門付、はやり歌、都々逸、ちょぼくれ、民謡 建築 ●城郭‥社会の安定と幕府による規制のため、急激に衰えた。 ●寺社‥清水寺本堂、東寺の五重塔、萬福寺、善光寺本堂、東大寺大仏殿、出雲大社本殿、春日神社本殿の改築 ●霊廟‥日光東照宮 ●御所‥京都御所再建、桂離宮、修学院離宮 ●数奇屋‥龍光院密庵、大徳寺孤篷庵の忘筌 美術 ●絵画 ●狩野派‥狩野探幽 ●琳派‥俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一 ●土佐派‥土佐光起 ●文人画︵南画︶‥池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂、青木木米、田能村竹田、渡辺崋山 ●浮世絵‥菱川師宣、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川豊国、歌川国貞 ●円山四条派‥円山応挙、呉春 ●洋風画‥平賀源内、司馬江漢、亜欧堂田善、小田野直武、佐竹曙山、佐竹義躬 ●工芸 ●陶磁器‥伊万里焼︵酒井田柿右衛門︶、京焼︵野々村仁清︶、九谷焼、瀬戸焼、萩焼 ●染織物‥友禅染、小紋染、豊後絞り ●硝子工芸‥ぽっぺん、江戸切子、薩摩切子、七宝焼 ●漆器 ●印籠 ●根付 園芸 ●花卉‥椿、桜、牡丹、芍薬、梅、躑躅、菊、楓、撫子、朝顔、仙翁、桜草、花菖蒲、万年青、唐橘、万両、藪柑子、松葉蘭、長生蘭、富貴蘭、軒忍、細辛、福寿草、蒲公英、酸漿 ●盆栽 風俗 ●娯楽‥花見、潮干狩り、金魚売り、虫売り、両国川開き、紅葉狩り、芝居見物︵歌舞伎、人形浄瑠璃︶、相撲見物、落語、講談、成田詣で、お伊勢参り、富士詣り ●茶屋‥水茶屋、芝居茶屋、相撲茶屋、待合茶屋、陰間茶屋 ●遊廓‥吉原、島原、新町、岡場所、飯盛女 ●賭博‥富籤、無尽︵頼母子講︶、賽子、花札 食文化 ●江戸料理 ●蕎麦 ●握り寿司 ●江戸前寿司 ●刺身 ●海苔巻き ●浅草海苔︵板海苔︶ ●うなぎの蒲焼 ●佃煮 ●ふぐ ●初鰹 ●天ぷら ●豆腐 ●味噌田楽 ●納豆汁 ●本膳料理 ●肉鍋 ●大判焼 ●砂糖を使った菓子 ●砂糖漬け人物
●江戸時代の人物一覧 ●徳川将軍一覧 ●大老・老中・側用人の一覧 ●町奉行・勘定奉行の一覧 ●長崎奉行・外国奉行・軍艦奉行の一覧 ●京都所司代・大坂城代の一覧 ●幕末の人物一覧 ●明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧江戸時代生まれの最後の生き残り
1868年(慶応4年)生まれが96歳となる1960年代の時期の1964年(昭和39年ごろ)より江戸時代生まれの男性がゼロになった県が出ていた。100歳となる1968年(明治100周年記念式典のころ)より江戸時代生まれの人物が女性を含めてゼロになった県が出ていた。1968年9月時点では1868年9月以前の生まれの人口が山形県、栃木県、群馬県、埼玉県が1人で青森県、富山県、石川県、奈良県が2人であった[62]。 1970年時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、1975年時点では6人であった。 大政奉還以前生まれ最後の人物は1976年11月16日に死去した河本にわで、うち男性は1973年8月1日に死去した後藤長次郎(1866年7月4日生まれ、岐阜県)であった。 明治改元以前生まれ最後の人物は1977年5月27日に死去した中山イサで、うち男性は1976年1月2日に死去した吉川与三太郎であった。
脚注
注釈
(一)^ 始期については、豊臣秀吉が薨じた1598年︵慶長3年︶や関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日︵慶長5年9月15日︶、あるいは豊臣氏滅亡の1615年︵元和元年︶を始まりとする見方もある[要出典]。 (二)^ 終期については、ペリーが来航した1853年︵嘉永6年︶や桜田門外の変があった1860年︵万延元年︶、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年11月9日︵慶応3年10月14日︶とする見方や、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した1868年1月3日︵慶応3年12月9日︶、江戸開城された1868年5月3日︵慶応4年4月11日︶、あるいは廃藩置県が断行された1871年︵明治4年︶とする見方も存在する[2]。 (三)^ 幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた﹁尊号一件﹂で寛政5年︵1793年︶に辞職する。 (四)^ 同年5月22日に、江戸市中に告げられた。市中の奢侈な風俗の取締、贅沢の禁止、質素倹約が強行された。 (五)^ しかし、1814年︵天保15年︶6月、忠邦、再び老中となった。 (六)^ 源了圓は、﹁﹃海国図志﹄の日中韓の読み方の違い﹂において、後に洋務派と変法派を生みつつも刊行当時は正しく評価されなかった清国、﹃海国図志﹄への反応が鈍かった朝鮮、翻刻本23種︵うち和訳本16種︶が刊行され、国民一般に公開されて、きわめて関心が高かった日本を比較している[25]。 (七)^ 8年後の1861年、幕府は庶民の大船建造・外国船購入を許可する。 (八)^ 第1位の生糸が輸出額の50-80%、第2位の茶が5-17%を占めていた。 (九)^ 1863年︵文久3年︶11月、薩摩藩は英公使に10万ドルを交付して生麦事件を解決している。 (十)^ 嫡子の在国が許された。大名の妻子に対しての帰国が許可された。 (11)^ 旗本に対し、3000石に付き10人、1000石に付き3人、500石に付き1人の人提出を、500石以下は金納にし、この人数で歩兵組を編成した[28]。 (12)^ 長州が公家たちを懐柔し、天皇の詔勅であるといってつぎつぎにいろいろな命令を出すと、天皇には覚えがないと言った﹁偽詔勅事件﹂が次々に起こってくる。これを﹁下より出る叡慮﹂ともいう[29]。 (13)^ 全大名に命じたが、実行した藩はほとんどなかった。 (14)^ 馬関海峡を航行中の外国船︵米船ペムブローク号、300トン︶を自藩製の大砲で攻撃して﹁攘夷﹂を決行した。庚申丸から砲撃し、たまたま馬関に向かっていた癸亥丸も砲撃に加わった。しかし、米船は全速力で逃げ、両船は速力の差が明白すぎて、追跡できなかった。意気の上がった長州側は、5月23日仏軍艦キンシャン号を、26日には蘭艦メジュサ号を砲撃した[30]。 (15)^ 3年後の1866年︵慶応2年︶4月7日には、幕府、学術・商業のための海外渡航を許可している。 (16)^ 大坂に、各国駐日代表を引見した。3月25日にパークスと、26日にオランダ総領事と、27日ロッシュと、28日に英仏蘭三国代表と、4月1日に米駐日公使ファルケンブルグと会見した。 (17)^ 5月、西宮・大坂・堺・兵庫・江戸に打ちこわし。6月、武蔵一円打ち毀し︵武州世直し一揆︶、陸奥信達両郡で打ち毀し︵信達騒動︶。7月、伊予大洲藩、出羽村山郡で打ち毀し。8月、小倉藩で、長州戦争の混乱から一揆。幕府、諸国凶作・米価高騰につき庶民の外国米販売・交友を許可。11月、江戸の窮民増加。幕府、窮民中の強壮者を兵に採用と布告。 (18)^ 6ヶ条にわたる密約、協定は主として、第二次征長について、薩摩が長州藩のために政治的に援助することを決めたものだった。5条には、幕府が、朝廷を擁し正義をこばみ、周旋尽力の道を遮るときは、さつまはばくふと﹁遂に決戦に及び候ほかこれ無きこと﹂という文句を入れた。中味は防衛的な同盟であったが、この中では場合によっては倒幕もあり得ることを初めて示した[35]。 (19)^ 1868年︵慶応4年︶3月14日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に於いて、神前で五つのことを誓った。このとき御誓文とともに、明治天皇自らの信念の発表があった。これは﹁宸翰﹂︵しんかん︶と呼ばれた。︵天皇このとき数えで16歳、満で15歳︶書いたのは木戸孝允と言われている。
[36]「宸翰
- 朕幼弱をもってにわかに大統(たいとう)を紹(つ)ぎ爾来何をもって万国に対立し、列祖につかえ奉らんやと朝夕恐懼にたえざるなり。
- ひそかに考えるに中葉朝政衰えてより武家権をもっぱらにし、表は朝廷を推尊して実は敬いしてこれを遠ざけ、億兆の父母として絶えて赤子(せきし)の情を知ることあたわざるより計りなし、ついに億兆の君たるもただ名のみになり果て、それがために今日朝廷の尊重は古に倍せしがごとくして朝威は倍衰え、上下(しょうか)相離るること霄譲(しょうじょう)のごとし。かかる形勢にて何をもって天下に君臨せんや。
- 今般朝政一新の時にあたり天下億兆一人もその所を得ざる時は、皆朕が罪なれば今日の事朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古え列祖の尽きさせ給いしあとをふみ、治蹟をすすめてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君たる所にそむかざるべし。
- 往昔列祖万機を親(みずか)らし不臣(ふしん)のものあればみずから将としてこれを征したまい、朝廷の政すべて簡易にしてかくのごとく尊重ならざるゆえ、君臣相したしみて上下相愛し徳沢(とくたく)天下にあまねく国威海外に耀きしなり。
- しかるに近来宇内大いに開け各国四方に相雄飛するの時にあたり、ひとり我国のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効を計らず、朕いたずらに九重中に安居し、一日の安きをぬすみ、百年の憂いを忘るるときはついに各国の凌侮を受け、上に列祖をはずかしめ奉り、下は億兆を苦しめんことをおそる。ゆえに朕ここに百巻諸侯と広く相誓い列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、みずから四方を経営し汝億兆を安撫し、ついには万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。汝億兆旧来の陋習になれ、尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず。朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜として朕が志をなさざらしむる時は、これ朕をして君たる道を失わしむるのみならず、従って列祖の天下を失わしむるなり。
- 汝億兆よくよく朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公議をとり、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。」
- ^ 江戸幕府の対外関係は「鎖国」と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、「海禁」と呼ぶべきだという主張がある[52][53]。
- ^ 「人口構成の正確な状況を把握するために、いくつかの村の膨大な古い記録を調べてみたことがある」として。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』( 育てるのは二人か三人、下百姓は二人あるいは一人[61]
出典
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●尾藤正英﹃江戸時代とはなにか‥日本史上の近世と近代﹄︿岩波現代文庫﹀2006年。 ●田中彰﹃近代天皇制への道程﹄吉川弘文館、2007年︵原著1979年︶。 ●大塚英樹﹁江戸時代における改鋳の歴史とその評価﹂﹃金融研究﹄第18巻第4号、日本銀行金融研究所、1999年。 ●宮地正人﹃幕末維新変革史﹄ 下、岩波書店、2012年。 ●山口啓二﹃鎖国と開国﹄岩波書店、2006年。関連文献
記事本文には引用・参観されていないものの、記事に関係がある文献の一覧。 ●三上参次﹃江戸時代史︵上下巻︶﹄講談社学術文庫、1992年︵原著1943-44︶。 ●大石嘉一郎﹃江戸時代﹄中央公論社︿中公新書﹀、1977年。ISBN 4121004760。 ●水谷三公﹃江戸は夢か﹄筑摩書房︿ちくま学芸文庫﹀、2004年︵原著1992年︶。ISBN 4480088091。 ●杉森哲也﹃日本の近世﹄放送大学教材、2020年。ISBN 9784595321900。 ●磯田道史﹃近世大名家臣団の社会構造﹄文春学芸ライブラリー、2013年︵原著2003年︶。ISBN 9784168130083。 ●伊藤愼吾﹃近世国語学史﹄立川文明堂、1928年。 ●ドナルド・キーン 著、徳岡孝夫 訳﹃日本文学史︵近世篇1〜3︶﹄中央公論新社︿中公文庫﹀、2011年︵原著1995年︶。 ●鈴木健一﹃近世文学史論‥古典知の継承と展開﹄岩波書店、2023年。ISBN 9784000615808。 ●黒羽英男﹃日本の近世文学﹄文化書房、1965年。関連項目
●日本近世史 ●大坂の陣、参勤交代、武家諸法度、武断政治、島原の乱、鎖国 ●元禄時代、文治政治、側用人政治、赤穂事件 ●正徳の治 ●幕政改革 ●享保の改革、田沼時代、寛政の改革、大御所時代、天保の改革 ●幕末、黒船来航、安政の大獄、戊辰戦争 ●東京時代 ●日本の歴史 ●日本史時代区分表外部リンク
●﹃江戸時代﹄ - コトバンク ●﹁江戸時代﹂ - ジャパンナレッジ