コンテンツにスキップ

「西園寺公望」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
→‎栄典: 校正
 
(34人の利用者による、間の42版が非表示)
1行目: 1行目:

{{政治家

{{政治家

|人名 = 西園寺 公望

| 人名 = 西園寺 公望

|各国語表記 = さいおんじ きんもち

| 各国語表記 = さいおんじ きんもち

|画像 = Kinmochi Saionji 2.jpg

| 画像 = Kinmochi Saionji 2.jpg

|画像サイズ = 220px

| 画像サイズ = 220px

|画像説明 = [[大勲位菊花章頸飾]]を佩用した西園寺([[1928年]])

| 画像説明 = [[大勲位菊花章頸飾]]を佩用した西園寺([[1928年]])

|国略称 = {{JPN1870}}

| 国略称 = {{JPN1870}}

|生年月日 = [[1849年]][[12月7日]]([[嘉永]]2年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]])

| 生年月日 = [[1849年]][[12月7日]]([[嘉永]]2年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]])

|出生地 = [[File:Flag of Japan (1870–1999).svg|25px|border]] [[日本]] [[山城国]][[京都]](現[[京都府]][[京都市]])

| 出生地 = [[File:Flag of Japan (1870–1999).svg|25px|border]] [[日本]] [[山城国]][[京都]](現在の[[京都府]][[京都市]])

|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1849|12|6|1940|11|24}}

| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1849|12|6|1940|11|24}}

|死没地 = {{JPN1870}} [[静岡県]][[庵原郡]][[興津町 (静岡県)|興津町]](現[[静岡市]][[清水区]])

| 死没地 = {{JPN1870}} [[静岡県]][[庵原郡]][[興津町 (静岡県)|興津町]](現在の[[静岡市]][[清水区]])

|出身校 = [[ソルボンヌ大学]]卒業

| 出身校 = [[ソルボンヌ大学]]卒業

|所属政党 = [[立憲政友会]]

| 所属政党 = [[立憲政友会]]

|称号・勲章 = [[従一位]]<br /> [[File:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|38px]] [[大勲位菊花章頸飾]]<br /> [[File:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|38px]] [[大勲位菊花大綬章]]<br/> [[File:JPN Toka-sho BAR.svg|38px]] [[勲一等旭日桐花大綬章]]<br/> [[File:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|38px]] [[旭日大綬章]]<br/> [[File:JPN Zuiho-sho 1Class BAR.svg|38px]] [[勲一等瑞宝章]]<br/> [[File:JPN Kyokujitsu-sho 2Class BAR.svg|38px]] [[旭日章|勲二等旭日重光章]]<br/>[[File:JPN Kyokujitsu-sho 3Class BAR.svg|38px]] [[旭日章|勲三等旭日中授章]]<br/>[[公爵]]

| 称号・勲章 = [[従一位]]<br /> [[File:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|38px]] [[大勲位菊花章頸飾]]<br /> [[File:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|38px]] [[大勲位菊花大綬章]]<br/> [[File:JPN Toka-sho BAR.svg|38px]] [[勲一等旭日桐花大綬章]]<br/> [[File:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|38px]] [[旭日大綬章]]<br/> [[File:JPN Zuiho-sho 1Class BAR.svg|38px]] [[勲一等瑞宝章]]<br/> [[File:JPN Kyokujitsu-sho 2Class BAR.svg|38px]] [[旭日章|勲二等旭日重光章]]<br/>[[File:JPN Kyokujitsu-sho 3Class BAR.svg|38px]] [[旭日章|勲三等旭日中授章]]<br/>[[公爵]]

|親族(政治家) = [[徳大寺公純]](父)<br />[[徳大寺実則]](兄)<br />[[末弘威麿]](弟)<br />[[住友友純]](弟)<br />[[西園寺師季]](養父)<br />[[西園寺八郎]](養子・養嗣子)<br />[[西園寺公一]](孫)<br />[[西園寺不二男]](孫)<br />[[西園寺一晃]](曾孫)<br />西園寺彬弘(曾孫)<br />西園寺公友(曾孫)<br />西園寺祥子(曾孫)<br />西園寺裕夫(曾孫)

| 親族(政治家) = [[徳大寺公純]](父)<br />[[徳大寺実則]](兄)<br />[[末弘威麿]](弟)<br />[[住友友純]](弟)<br />[[西園寺師季]](養父)<br />[[西園寺八郎]](養子・養嗣子)<br />[[西園寺公一]](孫)<br />[[西園寺不二男]](孫)<br />[[西園寺一晃]](曾孫)<br />西園寺彬弘(曾孫)<br />西園寺公友(曾孫)<br />西園寺祥子(曾孫)<br />西園寺裕夫(曾孫)

|サイン = SaionjiK kao.png

| サイン = SaionjiK kao.png

|国旗 = JPN1870

| 国旗 = JPN1870

|職名 = 第14代 [[内閣総理大臣]]

| 職名 = 第12・14代 [[内閣総理大臣]]

|内閣 = [[第2次西園寺内閣]]

| 内閣 = [[第1次西園寺内閣]]<hr />[[第2次西園寺内閣]]

|就任日 = [[1911年]][[8月30日]]

| 就任日 = [[1906年]][[1月7日]] - [[1908年]][[7月14日]]<hr />[[1911年]][[8月30日]]

|退任日 = [[1912年]][[12月21日]]

| 退任日 = [[1912年]][[12月21日]]

|元首職 = 天皇

| 元首職 = 天皇

|元首 = [[明治天皇]]<br />[[大正天皇]]

| 元首 = [[明治天皇]]<br />[[大正天皇]]

|国旗2 = JPN1870

| 国旗2 = JPN1870

|職名2 = 第12内閣総理大臣

| 職名2 = 第7[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]

|内閣2 = [[第1次西園寺内閣]]

| 内閣2 =

|就任日2 = [[1906年]][[17日]]

| 就任日2 = [[1900年]][[1027日]]

|退任日2 = [[1908年]][[7月14日]]

| 退任日2 = [[1903年]][[7月13日]]

|元首職2 = 天皇

| 元首職2 =天皇

|元首2 = 明治天皇

| 元首2 = 明治天皇

|国旗3 = JPN1870

| 国旗3 = JPN1870

|職名3 = [[内閣総理大臣臨時代理|内閣総理大臣臨時兼任]]

| 職名3 = [[内閣総理大臣臨時代理|内閣総理大臣臨時兼任]]

|内閣3 = [[第4次伊藤内閣]]

| 内閣3 = [[第4次伊藤内閣]]

|就任日3 = [[1901年]][[5月10日]]

| 就任日3 = [[1901年]][[5月10日]]

|退任日3 = 1901年[[6月2日]]

| 退任日3 = 1901年[[6月2日]]

| 元首職3 =天皇

|国旗4 = JPN1870

| 元首3 = 明治天皇

|職名4 = 第10代 [[文部大臣]]

| 国旗4 = JPN1870

|内閣4 = [[3次伊藤内閣]]

| 職名4 = [[内閣総理大臣臨時代理]]

|就任日4 = [[1898年]][[112日]]

| 内閣4 = 第4次伊藤内閣

|退任日4 = 1898年[[430日]]

| 就任日4 = 1900年[[11月27日]]

|国旗5 = JPN1870

| 退任日4 = 1900年[[1212日]]

|職名5 = 第7代 文部大臣

| 元首職4 =天皇

|内閣5 = [[第2次伊藤内閣]]

| 元首4 = 明治天皇

|任日5 = [[1894年]][[103日]]

| 国旗5 = JPN1870

|退任日5 = 1896年[[928日]]

| 職名5 = 第7・10代 [[文部大臣]]

|国旗6 = JPN1870

| 内閣5 = [[第2次伊藤内閣]]<br />[[第2次松方内閣]]<hr />[[第3次伊藤内閣]]

|職名6 = 第6代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]

| 就任日5 = [[1894年]][[10月3日]] - [[1896年]][[9月28日]]<hr />[[1898年]][[1月12日]]

|内閣6 = [[第2次伊藤内閣]]<br />[[第2次松方内閣]]

|任日6 = [[1896]][[5月30日]]

| 退任日5 = 1898年[[4月30日]]

| 国旗6 = JPN1870

|退任日6 = 1896年[[9月22日]]

|その他職歴1 = 第2代 [[越後府|新潟府知事]]

| その他職歴1 = 第11代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]

| 就任日6 = 第2次伊藤内閣、第2次松方内閣)<br />([[1896年]][[5月30日]]

|国旗7 = JPN1870

|任日7 = [[1890年]][[2月]] - [[1920年]][[9月6日]]<br />[[1920]][[9月7日]]

| 退任日6 = 1896年[[9月22日]]

| 国旗7 = JPN1870

|退任日7 = [[1940年]][[11月24日]]

| その他職歴2 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]

|国旗8 =

| 就任日7 = [[1890年]][[2月]] - [[1920年]][[9月6日]]<br />[[1920年]][[9月7日]]

|その他職歴2 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]

|任日8 = [[1868]][[1028]]

| 退任日7 = 19401124

| 国旗8 = JPN1870

|退任日8 = [[1869年]][[2月22日]]

| その他職歴3 = 第2代 [[越後府|新潟府知事]]

| 就任日8 = [[1868年]][[1028日]]

| 退任日8 = [[1869年]][[222日]]

}}

}}


[[:Young Saionji in Paris.jpg|thumb|200px|[[1871]] - [[1880]][[|]][[]]]]

[[File:Young Saionji in Paris.jpg|thumb|200px|[[フランス第三共和政|フランス]][[パリ]]留学中の西園寺([[1871年]] - [[1880年]])]]

'''西園寺 公望'''(さいおんじ きんもち、[[1849年]][[12月7日]]([[嘉永]]2年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]<ref group="注釈">グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している{{harv|伊藤之雄|2007|pp=8-9}}</ref> - [[1940年]]([[昭和]]15年[[11月24日]])は、[[日本]]の[[公家]]、[[政治家]]、[[教育|教育者]]。[[位階]]・[[勲等]]・[[爵位]]は[[従一位]][[大勲位]][[公爵]]。[[雅号]]は陶庵、不読、竹軒<ref group="注釈">[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]][[等持院]]ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32) </ref>。

'''西園寺 公望'''(さいおんじ きんもち、[[嘉永]]2年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]〈[[1849年]][[12月7日]]〉<ref group="注釈">グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している{{harv|伊藤之雄|2007|pp=8-9}}</ref> - [[昭和]]15年〈[[1940年]]〉[[11月24日]])は、[[日本]]の[[公家]]、[[政治家]]、[[教育|教育者]]。[[位階]]・[[勲等]]・[[爵位]]は[[従一位]][[大勲位]][[公爵]]。[[雅号]]は陶庵、不読、竹軒<ref group="注釈">[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]][[等持院]]ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32) </ref>。



== 概 ==

== 概 ==

[[戊辰戦争]]において[[官軍]]の[[山陰道]]鎮撫総督を務め、[[フランス第二帝政|フランス]]留学後には[[伊藤博文]]の腹心となった。[[第2次伊藤内閣]]にて[[文部大臣]]として初入閣し[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を兼任、[[第3次伊藤内閣]]でも文部大臣として入閣した。[[第4次伊藤内閣]]では[[無任所大臣 (日本)|班列]]として入閣し、[[内閣総理大臣]]の[[伊藤博文]]の病気療養中は[[内閣総理大臣臨時代理]]を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。

[[戊辰戦争]]において[[官軍]]の[[山陰道]]鎮撫総督を務め、[[フランス第二帝政|フランス]]留学後には[[伊藤博文]]の腹心となった。[[第2次伊藤内閣]]にて[[文部大臣]]として初入閣し[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を兼任、[[第3次伊藤内閣]]でも文部大臣として入閣した。[[第4次伊藤内閣]]では[[無任所大臣 (日本)|班列]]として入閣し、[[内閣総理大臣]]の[[伊藤博文]]の病気療養中は[[内閣総理大臣臨時代理]]を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。



72行目: 75行目:

== 来歴 ==

== 来歴 ==

=== 生い立ち ===

=== 生い立ち ===

[[1849年]][[12月7日]]([[嘉永]]2年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]])、[[清華家]]の一つ[[徳大寺家]]当主[[徳大寺公純]]と妻の末弘斐子の次男として、[[山城国]][[京都]](現在の[[京都府]][[京都市]])にて誕生した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=8}}{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=20}}。[[幼名]]は美丸(よしまる、美麿とも){{sfn|伊藤之雄|2007|pp=20}}。2歳の時に、同族で清華家の[[西園寺師季]]の養子となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=21}}。その年の7月に師季が死亡したため、[[西園寺家]]の[[家督]]を相続した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=21}}。このため実質的には実父の公純の強い影響下で成長することとなった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=21}}。公純は保守的ながらも頑固な性格で、[[国木田独歩]]はその頑固さが公望にも受け継がれたと評している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=21-22}}。[[孝明天皇]]が設置した[[学習院]]で学び、11歳の時からは御所に出仕し、祐宮(後の[[明治天皇]])の近習となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=23-24}}。また[[近習]]の同僚であった[[岩倉具視]]ともこの時期に親しくなっている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=24}}。

[[1849年]][[12月7日]]([[嘉永]]2年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]])、[[清華家]]の一つ[[徳大寺家]]当主[[徳大寺公純]]と妻の末弘斐子の次男として、[[山城国]][[京都]](現在の[[京都府]][[京都市]])にて誕生した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=8}}{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=20}}。[[幼名]]は美丸(よしまる、美麿とも){{sfn|伊藤之雄|2007|pp=20}}。2歳の時に、同族で清華家の[[西園寺師季]]の養子となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=21}}。


7[[西]][[]]{{sfn||2007|pp=21}}{{sfn||2007|pp=21}}[[]]{{sfn||2007|pp=21-22}}[[]][[]]11[[]]{{sfn||2007|pp=23-24}}[[]][[]]{{sfn||2007|pp=24}}


西園寺は学問を伊藤猶斎や秋田秋雪に学ぶ一方で、京都第一の剣客とうたわれた戸田栄之進とその甥伏見集二から剣術を学ぶなどしている{{sfn|木村毅|1973|p=140}}。また[[福沢諭吉]]の『[[西洋事情]]』を読むなどして世界の情勢にも関心を持つようになった{{sfn|木村毅|1973|p=140}}。西園寺はこの時期のことを「何も知らぬながらも頻りに憤慨して」おり、「何でも王政復古になさなければならぬ」と考えていたとしており、このため朝廷の儀式を学ぶことや、西園寺家の[[家業]]である[[琵琶]]の練習は役に立たないとしてたいへん嫌っていたため、家臣たちを心配させたと回想している{{sfn|西園寺公望|1908|p=56-57}}。

西園寺は学問を伊藤猶斎や秋田秋雪に学ぶ一方で、京都第一の剣客とうたわれた戸田栄之進とその甥伏見集二から剣術を学ぶなどしている{{sfn|木村毅|1973|p=140}}。また[[福沢諭吉]]の『[[西洋事情]]』を読むなどして世界の情勢にも関心を持つようになった{{sfn|木村毅|1973|p=140}}。西園寺はこの時期のことを「何も知らぬながらも頻りに憤慨して」おり、「何でも王政復古になさなければならぬ」と考えていたとしており、このため朝廷の儀式を学ぶことや、西園寺家の[[家業]]である[[琵琶]]の練習は役に立たないとしてたいへん嫌っていたため、家臣たちを心配させたと回想している{{sfn|西園寺公望|1908|p=56-57}}。



=== 幕末 ===

=== 幕末 ===

しかし西園寺は若年でもあり、岩倉や[[三条実美]]のよう[[幕末]]における[[倒幕運動|倒幕活動]]に強く参画していなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=24}}。[[慶応]]3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1868年]])、おそらく岩倉の推挙によって、[[近代日本の官制|三職の1つ、参与]]の一人となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=24}}。翌慶応4年1月に始まった[[鳥羽・伏見の戦い]]の際、私戦として納めようという意見に対して猛反発し、岩倉に「小僧能く見た」と絶賛された{{sfn|伊藤勲|1986|pp=103-104}}。


西[[]][[]][[|]]{{sfn||2007|pp=24}}[[]]3[[129 ()|129]][[1868]][[|1]]{{sfn||2007|pp=24}}41[[]]{{sfn||1986|pp=103-104}}



[[]][[]][[]]{{sfn||2007|pp=24}}[[]]{{sfn||2007|pp=24}}

[[]][[]][[]]{{sfn||2007|pp=24}}[[]]{{sfn||2007|pp=24}}
91行目: 96行目:

西園寺は公費留学生として年1400[[ドル]]の支給を受けていたが、これは一般の公費留学生より400ドル多かった。西園寺は400ドルを返納し、また国が公費留学生を減らす方針を決めると、公費援助を辞退して私費留学生となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=46-47}}。しかし留学費は西園寺家や徳大寺家にとっても大きな負担であり、1878年よりは明治天皇のお手元金から2年間、毎年300[[ポンド (通貨)|ポンド]]が支給されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=47-50}}。また{{仮リンク|ジュディット・ゴーチエ|en|Judith Gautier}}の依頼で、[[和歌]]のフランス語への翻訳にも協力しており、明治18年([[1885年]])に発刊された『蜻蛉集』には西園寺による下訳も収録されている<ref name="asada">[[浅田徹]]「[http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/31365 『蜻蛉集』のための西園寺公望の下訳について]」</ref>。またゴーチエの『微笑を売る女』という[[芸者]]を主題とした戯曲は西園寺に捧げられたものである<ref>{{Cite journal|和書 |author=金沢公子 |title=ワーグナーの愛したジュディット・ゴーチエ,そして日本 (井上正蔵先生古稀記念号) |journal=成城法学教養論集 |issn=03898075 |publisher=成城大学 |year=1984 |month=mar |issue=4 |pages=77-97 |naid=110000246594}} (p.95-96)</ref>。

西園寺は公費留学生として年1400[[ドル]]の支給を受けていたが、これは一般の公費留学生より400ドル多かった。西園寺は400ドルを返納し、また国が公費留学生を減らす方針を決めると、公費援助を辞退して私費留学生となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=46-47}}。しかし留学費は西園寺家や徳大寺家にとっても大きな負担であり、1878年よりは明治天皇のお手元金から2年間、毎年300[[ポンド (通貨)|ポンド]]が支給されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=47-50}}。また{{仮リンク|ジュディット・ゴーチエ|en|Judith Gautier}}の依頼で、[[和歌]]のフランス語への翻訳にも協力しており、明治18年([[1885年]])に発刊された『蜻蛉集』には西園寺による下訳も収録されている<ref name="asada">[[浅田徹]]「[http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/31365 『蜻蛉集』のための西園寺公望の下訳について]」</ref>。またゴーチエの『微笑を売る女』という[[芸者]]を主題とした戯曲は西園寺に捧げられたものである<ref>{{Cite journal|和書 |author=金沢公子 |title=ワーグナーの愛したジュディット・ゴーチエ,そして日本 (井上正蔵先生古稀記念号) |journal=成城法学教養論集 |issn=03898075 |publisher=成城大学 |year=1984 |month=mar |issue=4 |pages=77-97 |naid=110000246594}} (p.95-96)</ref>。



その間、後に[[フランスの首相]]となる8歳年上で[[急進党]]の政治家[[ジョルジュ・クレマンソー]]や[[レオン・ガンベタ]]、留学生仲間の[[中江兆民]]・[[松田正久]]・[[岸本辰雄]]・[[光妙寺三郎]]らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。西園寺の交友関係から、彼が急進共和派に近い思想を持つようになったと評する事が一般的であるが、そのの書簡で急進派を肯定的に評したものは全くない{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=39-40}}。西園寺とパリ留学時代を同じ下宿で過ごした親友クレマンソーとの友情は、[[パリ講和会議]]での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。クレマンソーはこのの西園寺を「過激な、愛すべき公子」であったと回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=42}}。

その間、後に[[フランスの首相]]となる8歳年上で[[急進党]]の政治家[[ジョルジュ・クレマンソー]]や[[レオン・ガンベタ]]、留学生仲間の[[中江兆民]]・[[松田正久]]・[[岸本辰雄]]・[[光妙寺三郎]]らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。西園寺の交友関係から、彼が急進共和派に近い思想を持つようになったと評する事が一般的であるが、そのころの書簡で急進派を肯定的に評したものは全くない{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=39-40}}。西園寺とパリ留学時代を同じ下宿で過ごした親友クレマンソーとの友情は、[[パリ講和会議]]での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。クレマンソーはこのころの西園寺を「過激な、愛すべき公子」であったと回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=42}}。




13[[1021]][[1880]]10{{sfn||2007|pp=51}}

13[[1021]][[1880]]10{{sfn||2007|pp=51}}


=== 留学後の活動 ===

=== パリ留学後の活動 ===

パリ留学後、西園寺は特に職に就くこともなく、「ぶらぶら遊んでいる」と、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=54}}。この新聞は[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]結党に向けて準備され、明治14年([[1881年]])[[3月18日]]に創刊された『[[東洋自由新聞]]』であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=54}}。西園寺が社長、松田が幹事、中江兆民が主筆、光妙寺三郎が編集委員を務めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=55}}。西園寺は後に「ほんの遊戯気分だった」「新聞は中江や松田が相談して始めたと世間では話されているがそうではなく、中江は自分が引きずり込んだ」と回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=54-55}}。新聞の論調はフランスの共和政治より[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]流の[[立憲君主制]]が優れていると説くなど比較的穏健なものであったが、政府や宮中で物議を醸し、[[右大臣]]の岩倉具視や三条実美、兄の[[徳大寺実則]]らは社長を辞めるよう強要した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=56}}。3月中には社長を辞任するよう求める明治天皇の「内諭」まで出されているが、新聞紙上で天皇に拝謁して事情を説明すると反発している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。しかし[[4月8日]]に[[宮内省]]に呼び出され、宮内卿である兄実則の手によって、社長を辞任するようにという明治天皇の「[[勅|内勅]]」が下されたため、西園寺は社長辞任を余儀なくされた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。東洋自由新聞も発行部数が減少していったため、[[4月30日]]発行の第34号にて廃刊に追い込まれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。

パリ留学後、西園寺は特に職に就くこともなく、「ぶらぶら遊んでいる」と、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=54}}。この新聞は[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]結党に向けて準備され、明治14年([[1881年]])[[3月18日]]に創刊された『[[東洋自由新聞]]』であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=54}}。西園寺が社長、松田が幹事、中江兆民が主筆、光妙寺三郎が編集委員を務めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=55}}。西園寺は後に「ほんの遊戯気分だった」「新聞は中江や松田が相談して始めたと世間では話されているがそうではなく、中江は自分が引きずり込んだ」と回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=54-55}}。新聞の論調はフランスの共和政治より[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]流の[[立憲君主制]]が優れていると説くなど比較的穏健なものであったが、政府や宮中で物議を醸し、[[右大臣]]の岩倉具視や三条実美、兄の[[徳大寺実則]]らは社長を辞めるよう強要した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=56}}。3月中には社長を辞任するよう求める明治天皇の「内諭」まで出されているが、新聞紙上で天皇に拝謁して事情を説明すると反発している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。しかし[[4月8日]]に[[宮内省]]に呼び出され、宮内卿である兄実則の手によって、社長を辞任するようにという明治天皇の「[[勅|内勅]]」が下されたため、西園寺は社長辞任を余儀なくされた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。東洋自由新聞も発行部数が減少していったため、[[4月30日]]発行の第34号にて廃刊に追い込まれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。



=== 伊藤博文の腹心 ===

=== 伊藤博文の腹心 ===

明治14年([[1881年]])[[11月24日]]、西園寺は参事院議官補に任じられ、官界に入った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=60}}。参事院は伊藤博文が[[国会 (日本)|国会]]開設の準備のために設置した機関であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=60}}。翌明治15年([[1882年]])に伊藤が[[憲法]]調査のためにヨーロッパを歴訪することになった際には、その随員に選ばれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=61}}。ヨーロッパでフランスの法制を調べるなかで、伊藤の知遇を得た {{sfn|伊藤之雄|2007|pp=61-62}}。また[[ウィーン大学]]では[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]に伊藤とともに憲法思想を学んでいる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=63}}。明治16年([[1883年]])[[8月4日]]に帰国し、参事院議官に任じられた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=64}}。明治18年([[1885年]])には駐[[オーストリア=ハンガリー帝国]][[公使]]となり、再びシュタインに学ぶことになった。また、[[ウィーン]]滞在中であった[[陸奥宗光]]と親しくなり、彼とともに伊藤の腹心としての地位を固めていくことになる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=66-67}}。翌明治19年([[1886年]])6月には帰国し、8月には法律取調委員に任命された{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=69}}。明治21(1888年)6月には駐[[ドイツ帝国]]公使兼[[ベルギー]]公使となり、[[9月20日]]には[[ローマ教皇庁]]派遣の[[特命全権公使]]を命じられ、日本を離れた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=70-71}}。[[ローマ]]を経て[[12月10日]]に[[ベルリン]]に到着したが、その4日後には最初の子である新子が生まれている。ドイツでは[[条約改正]]交渉などの任に当たったが、半年ほどで中断となり、極めて暇になった。公使時代の西園寺は1年の3分の1はパリで過ごしていたという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=72-73}}。明治22年(1889年)には[[リウマチ]]を発病し、これは生涯の持病となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=76}}。この外国駐在期間の間、伊藤とは絶えず連絡を取り、政策に関する意見を述べている。

明治14年([[1881年]])[[11月24日]]、西園寺は参事院議官補に任じられ、官界に入った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=60}}。参事院は伊藤博文が[[国会 (日本)|国会]]開設の準備のために設置した機関であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=60}}。翌明治15年([[1882年]])に伊藤が[[憲法]]調査のためにヨーロッパを歴訪することになった際には、その随員に選ばれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=61}}。ヨーロッパでフランスの法制を調べるなかで、伊藤の知遇を得た {{sfn|伊藤之雄|2007|pp=61-62}}。また[[ウィーン大学]]では[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]に伊藤とともに憲法思想を学んでいる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=63}}。明治16年([[1883年]])[[8月4日]]に帰国し、参事院議官に任じられた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=64}}。明治18年([[1885年]])には駐[[オーストリア=ハンガリー帝国]][[公使]]となり、再びシュタインに学ぶことになった。また、[[ウィーン]]滞在中であった[[陸奥宗光]]と親しくなり、彼とともに伊藤の腹心としての地位を固めていくことになる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=66-67}}。翌明治19年([[1886年]])6月には帰国し、8月には法律取調委員に任命された{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=69}}。明治20([[1887]])6月には駐[[ドイツ帝国]]公使兼[[ベルギー]]公使となり、[[9月20日]]には[[ローマ教皇庁]]派遣の[[特命全権公使]]を命じられ、日本を離れた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=70-71}}。[[ローマ]]を経て[[12月10日]]に[[ベルリン]]に到着したが、その4日後には最初の子である新子が生まれている。ドイツでは[[条約改正]]交渉などの任に当たったが、半年ほどで中断となり、極めて暇になった。公使時代の西園寺は1年の3分の1はパリで過ごしていたという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=72-73}}。明治22年(1889年)には[[リウマチ]]を発病し、これは生涯の持病となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=76}}。この外国駐在期間の間、伊藤とは絶えず連絡を取り、政策に関する意見を述べている。



明治24年([[1891年]])8月にようやく帰国し、9月には[[賞勲局]]総裁に任じられた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=79-80}}。閑職であり、不満もあったが、[[井上馨]]が知り合いの財界人に勲章を授けるよう圧力をかけてきたときにははっきりと拒絶し、「わからぬ奴」と不興を買っている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=80-81}}。明治25年([[1892年]])10月からは賞勲局総裁と兼任で民法商法施行取調委員長、翌年には[[貴族院 (日本)|貴族院]]副議長、[[法典調査会]]副総裁となっている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=81}}。以降、西園寺は公務でやむを得ない場合以外は調査会の会合に必ず出席し、あまり出席しなかった総裁の伊藤博文に代わり、実質的な総裁として[[民法]]や[[商法]]の審査に当たった{{sfn|張智慧|2009|pp=218}}。西園寺はこの中で[[戸主]]制度や[[隠居]]制度は封建時代の余習だとして廃止を提案している{{sfn|張智慧|2009|pp=218-219}}。

明治24年([[1891年]])8月にようやく帰国し、9月には[[賞勲局]]総裁に任じられた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=79-80}}。閑職であり、不満もあったが、[[井上馨]]が知り合いの財界人に勲章を授けるよう圧力をかけてきたときにははっきりと拒絶し、「わからぬ奴」と不興を買っている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=80-81}}。明治25年([[1892年]])10月からは賞勲局総裁と兼任で民法商法施行取調委員長、翌年には[[貴族院 (日本)|貴族院]]副議長、[[法典調査会]]副総裁となっている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=81}}。以降、西園寺は公務でやむを得ない場合以外は調査会の会合に必ず出席し、あまり出席しなかった総裁の伊藤博文に代わり、実質的な総裁として[[民法]]や[[商法]]の審査に当たった{{sfn|張智慧|2009|pp=218}}。西園寺はこの中で[[戸主]]制度や[[隠居]]制度は封建時代の余習だとして廃止を提案している{{sfn|張智慧|2009|pp=218-219}}。

116行目: 121行目:

{{see also|桂園時代|大正政変}}

{{see also|桂園時代|大正政変}}

[[ファイル:Kinmochi Saionji.jpg|thumb|200px|[[1906年]]、[[内閣総理大臣]]在任時]]

[[ファイル:Kinmochi Saionji.jpg|thumb|200px|[[1906年]]、[[内閣総理大臣]]在任時]]


39[[1906]][[17]][[1]][[1西]][[]][[ ()|]][[]][[]]2[[]]{{sfn||2007|pp=119}}[[]][[|]][[]][[]][[]]3[[1914]]7{{sfn||2007|pp=128-132}}40[[1907]]西{{sfn||2007|pp=132-133}}41[[1908]]1[[]][[|]][[]][[ ()|]]西西{{sfn||2007|pp=133}}西6<ref>627西</ref>[[74]]{{sfn||2007|pp=134-137}}

39[[1906]][[17]][[1]][[1西]][[]][[ ()|]][[]][[]]2[[]]{{sfn||2007|pp=119}}[[]][[|]][[]][[]][[]]3[[1914]]7{{sfn||2007|pp=128-132}}40[[1907]]西{{sfn||2007|pp=132-133}}41[[1908]]1[[]][[|]][[]][[ ()|]]西西{{sfn||2007|pp=133}}西6<ref>627西</ref>[[74]]{{sfn||2007|pp=134-137}}


首相辞任後、西園寺は病を理由に政友会総裁の活動も積極的に行わないようになり、原が事実上最高実力者となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=138-139}}。原は「西園寺のあまりに冷淡なると、松田の余りに狡猾なる」ことを批判し、西園寺が桂と会って話し合ったことを詰問して陳謝させることもあった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=141}}。政治上は対立していたが、西園寺は桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」<ref>『原敬日記』1909年(明治42年)11月9日。</ref>と言うほど2人の関係は良好であった。また、愛妾を同伴して酒を酌み交わす会をたびたび開き、養子の八郎が桂の秘書官となるなどの交流もあった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=140}}。明治44年([[1911年]])8月、桂と原の交渉の結果、桂内閣が辞職し、後継首相に西園寺が就任することになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=142}}。

首相辞任後、西園寺は病を理由に政友会総裁の活動も積極的に行わないようになり、原が事実上最高実力者となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=138-139}}。原は「西園寺のあまりに冷淡なると、松田の余りに狡猾なる」ことを批判し、西園寺が桂と会って話し合ったことを詰問して陳謝させることもあった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=141}}。政治上は対立していたが、西園寺は桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」<ref>『原敬日記』1909年(明治42年)11月9日。</ref>と言うほど2人の関係は良好であった。また、愛妾を同伴して酒を酌み交わす会をたびたび開き、養子の八郎が桂の秘書官となるなどの交流もあった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=140}}。明治44年([[1911年]])8月、桂と原の交渉の結果、桂内閣が辞職し、後継首相に西園寺が就任することになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=142}}。

126行目: 131行目:

桂は思惑通りに12月21日に首相に就任したが、国民及び議会の反発は強烈なものであった。翌大正2年([[1913年]])2月には政友会から[[内閣不信任案]]が提出され、桂は天皇に要請して、西園寺に対して不信任案を撤回するようにという勅語を出させた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=148-149}}。西園寺は一応政友会議員への説得を行ったが、議員たちはひるまず、不信任案は議会を通過した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=148-149}}。西園寺は違勅を理由に総裁を辞任する意向を漏らしたが、原に止められた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=148-149}}。桂が2月11日に辞職すると、天皇は後継首相を決める元老の協議に、西園寺も加わるよう要請した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=149}}。山縣は西園寺に組閣を求めたが健康上の理由で拒否し、西園寺が推薦した[[山本権兵衛]][[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]]が後継首相となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=149-150}}。また西園寺はこの席で、将来は[[衆議院]]における多数党の党首が首相となる、イギリス方式を導入してはどうかと提案しているが、元老の賛意は得られなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=150}}。

桂は思惑通りに12月21日に首相に就任したが、国民及び議会の反発は強烈なものであった。翌大正2年([[1913年]])2月には政友会から[[内閣不信任案]]が提出され、桂は天皇に要請して、西園寺に対して不信任案を撤回するようにという勅語を出させた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=148-149}}。西園寺は一応政友会議員への説得を行ったが、議員たちはひるまず、不信任案は議会を通過した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=148-149}}。西園寺は違勅を理由に総裁を辞任する意向を漏らしたが、原に止められた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=148-149}}。桂が2月11日に辞職すると、天皇は後継首相を決める元老の協議に、西園寺も加わるよう要請した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=149}}。山縣は西園寺に組閣を求めたが健康上の理由で拒否し、西園寺が推薦した[[山本権兵衛]][[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]]が後継首相となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=149-150}}。また西園寺はこの席で、将来は[[衆議院]]における多数党の党首が首相となる、イギリス方式を導入してはどうかと提案しているが、元老の賛意は得られなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=150}}。



山本内閣成立後、政友会幹部たちは集団指導体制に移行する方針を決めていたが、西園寺の留任を求める声が高まったため、曖昧な状態にしておくことが選択された。西園寺は京都の別荘[[清風荘]]にひきこもり、事実上政治活動の一線から退いた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=151}}。原と松田は西園寺を一旦総裁に復帰させたのち、後継総裁にその座を譲るという形式を考えたが、西園寺は健康上の理由を原因に総裁復帰を承諾しなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=152}}。同年に松田が病死し、原が後継となることは誰の目にも明らかとなった。大正4年([[1914年]])3月、[[第1次山本内閣|山本内閣]]が[[シーメンス事件]]で総辞職し、後継首相を決める元老会議に西園寺も呼ばれたが、先年の違勅問題を理由に上京しなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=152-153}}。政友会は再び野党となり、体勢を立て直す必要に迫られた。西園寺の総裁復帰を求める声も高まったため、西園寺は5月に総裁を原に譲ることを明言し、[[6月18日]]の総会で、原が正式な政友会総裁に就任した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=153}}。総裁を退いたとしても、宮中や元老に近しい立場の西園寺は、原にとってもかけがえのない存在であり、かつての確執も修復されていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=155}}。政友会が第二党に転落した際に原は、西園寺に組閣を働きかけているが拒否されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=155}}。大正5年([[1916年]])、西園寺は清風荘から[[静岡県]][[興津]]の旅館、水口屋の勝間別荘に移り、そこを爾来の拠点とした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=194}}。

山本内閣成立後、政友会幹部たちは集団指導体制に移行する方針を決めていたが、西園寺の留任を求める声が高まったため、曖昧な状態にしておくことが選択された。西園寺は京都の別荘[[清風荘]]にひきこもり、事実上政治活動の一線から退いた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=151}}。原と松田は西園寺を一旦総裁に復帰させたのち、後継総裁にその座を譲るという形式を考えたが、西園寺は健康上の理由を原因に総裁復帰を承諾しなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=152}}。同年に松田が病死し、原が後継となることは誰の目にも明らかとなった。大正4年([[1914年]])3月、[[第1次山本内閣|山本内閣]]が[[シーメンス事件]]で総辞職し、後継首相を決める元老会議に西園寺も呼ばれたが、先年の違勅問題を理由に上京しなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=152-153}}。政友会は再び野党となり、体勢を立て直す必要に迫られた。西園寺の総裁復帰を求める声も高まったため、西園寺は5月に総裁を原に譲ることを明言し、[[6月18日]]の総会で、原が正式な政友会総裁に就任した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=153}}。総裁を退いたとはいえ、宮中や元老に近しい立場の西園寺は、原にとってもかけがえのない存在であり、かつての確執も修復されていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=155}}。政友会が第二党に転落した際に原は、西園寺に組閣を働きかけているが拒否されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=155}}。大正5年([[1916年]])、西園寺は清風荘から[[静岡県]][[興津]]の旅館、水口屋の勝間別荘に移り、そこを爾来の拠点とした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=194}}。



===元老の一人===

===元老の一人===

137行目: 142行目:

{{see also|パリ講和会議}}

{{see also|パリ講和会議}}

[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺。1919年、パリ。]]

[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺。1919年、パリ。]]

その[[第一次世界大戦]]が終結し、[[パリ講和会議]]が開かれることとなった。大国の首脳が集まるこの会議に、日本としてもそれなりの代表を送る必要があった。原首相と[[内田康哉]]外相が協議し、首席全権として西園寺を派遣する方針を決めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=164}}。西園寺は健康上の理由から辞退しようとしたが、12月18日に応諾した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=164}}。この際、「無謀」であるが、老体を犠牲にするという覚悟を原に示している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=164}}。しかし決定が遅れたことと、西園寺のために船室を改装する必要があったため、西園寺が出発したのは[[牧野伸顕]]や[[珍田捨巳]]といった他の全権が出発してから1ヶ月後の大正8年([[1919年]])[[1月14日]]のことであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=166}}。西園寺と同行したのは妾の奥村花子、娘の新子と八郎の夫妻、そして[[近衛文麿]][[公爵]]らであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=166-167}}。また名門料亭[[なだ万]]の主人楠本萬助が板前二人を連れて乗船しており、船倉には日本食のための食材が5トンも積み込まれていた。これは現地で[[日本料理|日本食]]パーティーを開くためのものであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=167}}。

そのころ[[第一次世界大戦]]が終結し、[[パリ講和会議]]が開かれることとなった。大国の首脳が集まるこの会議に、日本としてもそれなりの代表を送る必要があった。原首相と[[内田康哉]]外相が協議し、首席全権として西園寺を派遣する方針を決めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=164}}。西園寺は健康上の理由から辞退しようとしたが、12月18日に応諾した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=164}}。この際、「無謀」であるが、老体を犠牲にするという覚悟を原に示している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=164}}。しかし決定が遅れたことと、西園寺のために船室を改装する必要があったため、西園寺が出発したのは[[牧野伸顕]]や[[珍田捨巳]]といった他の全権が出発してから1ヶ月後の大正8年([[1919年]])[[1月14日]]のことであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=166}}。西園寺と同行したのは妾の奥村花子、娘の新子と八郎の夫妻、そして[[近衛文麿]][[公爵]]らであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=166-167}}。また名門料亭[[なだ万]]の主人楠本萬助が板前二人を連れて乗船しており、船倉には日本食のための食材が5トンも積み込まれていた。これは現地で[[日本料理|日本食]]パーティーを開くためのものであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=167}}。




西32{{sfn||2007|pp=169-170}}20{{sfn||2007|pp=172-173}}{{sfn||2007|pp=173}}[[]]西[[427]]{{sfn||2007|pp=173-174}}[[]]{{sfn||2007|pp=179}}[[]][[]]西[[]]{{sfn||2007|pp=176}}

西32{{sfn||2007|pp=169-170}}20{{sfn||2007|pp=172-173}}{{sfn||2007|pp=173}}[[]]西[[427]]{{sfn||2007|pp=173-174}}[[]]{{sfn||2007|pp=179}}[[]][[]]西[[]]{{sfn||2007|pp=176}}
176行目: 181行目:

西園寺は田中の後任として、「憲政の常道」に従い、[[立憲民政党|民政党]]総裁の[[濱口雄幸]]を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=243-248}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=127}}。

西園寺は田中の後任として、「憲政の常道」に従い、[[立憲民政党|民政党]]総裁の[[濱口雄幸]]を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=243-248}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=127}}。



昭和5年([[1930年]])に[[ロンドン海軍軍縮会議]]が開催されることになると、西園寺は条件にこだわらず条約を成立させるべきと考えており、浜口首相や牧野・一木・鈴木らの宮中グループにその意見を伝えている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=250}}。[[幣原喜重郎]]外相は会議前に西園寺に会おうとしたが、この西園寺は、孫からうつされた風邪をこじらせ、非常な高熱で伏せっていたため、会うことはできなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=251-252}}。西園寺は高熱でうなされながら「軍縮」「イタリー」「フランス」とうわごとを言い、目が覚めると「軍縮はどうなりましたか」と秘書の[[原田熊雄]][[男爵]]に問いかけるほどだった。原田が条約は成立する見込みだと伝えると、「それで安心しました」と安堵したという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=252-253}}。

昭和5年([[1930年]])に[[ロンドン海軍軍縮会議]]が開催されることになると、西園寺は条件にこだわらず条約を成立させるべきと考えており、浜口首相や牧野・一木・鈴木らの宮中グループにその意見を伝えている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=250}}。[[幣原喜重郎]]外相は会議前に西園寺に会おうとしたが、このころ西園寺は、孫からうつされた風邪をこじらせ、非常な高熱で伏せっていたため、会うことはできなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=251-252}}。西園寺は高熱でうなされながら「軍縮」「イタリー」「フランス」とうわごとを言い、目が覚めると「軍縮はどうなりましたか」と秘書の[[原田熊雄]][[男爵]]に問いかけるほどだった。原田が条約は成立する見込みだと伝えると、「それで安心しました」と安堵したという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=252-253}}。



病が癒えた後、ロンドン条約の[[批准]]に対して枢密院が反対の意志を示すと、西園寺は内閣によって枢密院議長と副議長を更迭してもいいと激励している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=259}}。結局ロンドン条約は無事批准されたが、条約に不満を持つ海軍内の強硬派や枢密院の宮中グループと民政党に対する不満はさらに募った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=259}}。西園寺に対しても不満を持つ者も現れたが、この時点ではまだ、強硬派にとっても調停者としての権威を保持し続けていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=259}}。

病が癒えた後、ロンドン条約の[[批准]]に対して枢密院が反対の意志を示すと、西園寺は内閣によって枢密院議長と副議長を更迭してもいいと激励している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=259}}。結局ロンドン条約は無事批准されたが、条約に不満を持つ海軍内の強硬派や枢密院の宮中グループと民政党に対する不満はさらに募った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=259}}。西園寺に対しても不満を持つ者も現れたが、この時点ではまだ、強硬派にとっても調停者としての権威を保持し続けていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=259}}。



11月、濱口首相が東京駅で狙撃され、病状が悪化して昭和6年([[1931年]])4月に総辞職する(その後8月26日亡くなる)と、西園寺は民政党の後継総裁となっていた若槻を再び推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=262}}。西園寺は政友会に人気がく、[[中間内閣]]にも適当な人がなく、また首相暗殺により政権交代させると暗殺を奨励することに成りかねないとして民政党内閣の存続を決めている{{sfn|伊藤勲|1986|pp=128-129}}。この、西園寺邸によく出入りしていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=260-261}}[[宇垣一成]]陸軍大将を担いだクーデター未遂事件、「[[三月事件]]」が発生した。

11月、濱口首相が東京駅で狙撃され、病状が悪化して昭和6年([[1931年]])4月に総辞職すると、西園寺は民政党の後継総裁となっていた若槻を再び推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=262}}。西園寺は政友会に人気がく、[[中間内閣]]にも適当な人がおらず、また首相暗殺により政権交代させると暗殺を奨励することに成りかねないとして民政党内閣の存続を決めている{{sfn|伊藤勲|1986|pp=128-129}}。このころ、西園寺邸によく出入りしていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=260-261}}[[宇垣一成]]陸軍大将を担いだクーデター未遂事件、「[[三月事件]]」が発生した。



8月に事件を知った西園寺は、参謀総長[[閑院宮載仁親王]]や[[秩父宮雍仁親王]]に話して事件の元兇である[[二宮治重]]参謀次長らを更迭しようと考えたが、西園寺に近い原田や近衛文麿、牧野らは陸軍を刺激することを怖れ、結局報告は行われなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=264}}。

8月に事件を知った西園寺は、参謀総長[[閑院宮載仁親王]]や[[秩父宮雍仁親王]]に話して事件の元兇である[[二宮治重]]参謀次長らを更迭しようと考えたが、西園寺に近い原田や近衛文麿、牧野らは陸軍を刺激することを怖れ、結局報告は行われなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=264}}。

186行目: 191行目:

9月18日に[[満洲事変|満州事変]]が発生すると、西園寺は原田に対し、事件の片がつくまでは若槻首相を決して辞めさせてはならないと牧野内大臣と鈴木侍従長に伝えるよう命じた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=268}}。また陸軍が越境に関して[[奏上]]してきた場合には、天皇は即時に許さず、後で処罰が行えるようにしておくべきだとも伝えている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=268}}。

9月18日に[[満洲事変|満州事変]]が発生すると、西園寺は原田に対し、事件の片がつくまでは若槻首相を決して辞めさせてはならないと牧野内大臣と鈴木侍従長に伝えるよう命じた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=268}}。また陸軍が越境に関して[[奏上]]してきた場合には、天皇は即時に許さず、後で処罰が行えるようにしておくべきだとも伝えている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=268}}。



しかし西園寺の意見が伝わる前に陸軍は上奏を行い、天皇が陸軍に処分を下す機会を逃してしまった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=269}}。さらに若槻が陸軍に妥協的になったため、満州事変の拡大を防ぐことはできなくなってしまった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=270}}。[[第2次若槻内閣|若槻内閣]]は事変を収拾することもできず、[[安達謙蔵]]内相が政友会との「協力内閣」の成立を唱えたために民政党も混乱に陥り、12月11日に若槻内閣は総辞職した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=271}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=129}}。

しかし西園寺の意見が伝わる前に陸軍は上奏を行い、天皇が陸軍に処分を下す機会を逃してしまった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=269}}。さらに若槻が陸軍に妥協的になったため、満州事変の拡大を防ぐことはできなくなってしまった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=270}}。[[第2次若槻内閣|若槻内閣]]は事変を収拾することもできず、[[安達謙蔵]]内相が政友会との「協力内閣」の成立を唱えたために民政党も混乱に陥り、12月11日に若槻内閣は総辞職した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=271}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=129}}。




1212西[[]]{{sfn||2007|pp=272-273}}{{sfn||1986|pp=129}}西{{sfn||1986|pp=130}}1213[[]]

1212西[[]]{{sfn||2007|pp=272-273}}{{sfn||1986|pp=129}}西{{sfn||1986|pp=130}}1213[[]]
196行目: 201行目:

軍部は[[満洲国|満州国]]を建設して事変の権益を確保し続けようとした。西園寺は上京して満州国承認を認めてはならないと犬養首相らに働きかけていたが{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=274-275}}、昭和7年([[1932年]])[[5月15日]]、犬養首相は海軍青年将校によって暗殺された([[五・一五事件]]){{sfn|伊藤之雄|2007|pp=275}}。陸軍は政党内閣の成立に猛反発しており、政党内閣には陸軍大臣を出さないと参謀本部第二部長[[永田鉄山]][[少将]]が言明するなど、内閣が成立すらできかねない状況であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=276}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=133-134}}。また[[森恪]][[内閣書記官長]]らは平沼騏一郎枢密院副議長による内閣を企図していたが、彼は[[ファシズム|ファシスト]]的な革新派の一員であった。昭和天皇は西園寺に「ファッショに近き者は絶対に不可なり」と鈴木侍従長を通じて伝えており、西園寺も同意見であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=277}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=135-136}}。西園寺は牧野内大臣ら、高橋臨時首相代理や若槻民政党総裁といった政治家、陸海軍の[[元帥 (日本)|元帥]]、平沼に親しい[[倉富勇三郎]]枢密院議長とも面談した上で、5月23日に海軍大将の[[斎藤実]]元[[海軍大臣]]を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=277-278}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=136}}。西園寺は斎藤が政党でも強硬派でもない中間的な存在であり、「何もなさず、ただ四方に刺激を与えない」存在であることを祈っていた{{sfn|伊藤勲|1986|pp=138}}。西園寺は「このたびは随分骨が折れた」と述懐したが{{sfn|伊藤勲|1986|pp=136}}、平沼や陸海軍の強硬派らが持っていた、西園寺の中立性に対する信頼は大きく損なわれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=279}}。

軍部は[[満洲国|満州国]]を建設して事変の権益を確保し続けようとした。西園寺は上京して満州国承認を認めてはならないと犬養首相らに働きかけていたが{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=274-275}}、昭和7年([[1932年]])[[5月15日]]、犬養首相は海軍青年将校によって暗殺された([[五・一五事件]]){{sfn|伊藤之雄|2007|pp=275}}。陸軍は政党内閣の成立に猛反発しており、政党内閣には陸軍大臣を出さないと参謀本部第二部長[[永田鉄山]][[少将]]が言明するなど、内閣が成立すらできかねない状況であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=276}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=133-134}}。また[[森恪]][[内閣書記官長]]らは平沼騏一郎枢密院副議長による内閣を企図していたが、彼は[[ファシズム|ファシスト]]的な革新派の一員であった。昭和天皇は西園寺に「ファッショに近き者は絶対に不可なり」と鈴木侍従長を通じて伝えており、西園寺も同意見であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=277}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=135-136}}。西園寺は牧野内大臣ら、高橋臨時首相代理や若槻民政党総裁といった政治家、陸海軍の[[元帥 (日本)|元帥]]、平沼に親しい[[倉富勇三郎]]枢密院議長とも面談した上で、5月23日に海軍大将の[[斎藤実]]元[[海軍大臣]]を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=277-278}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=136}}。西園寺は斎藤が政党でも強硬派でもない中間的な存在であり、「何もなさず、ただ四方に刺激を与えない」存在であることを祈っていた{{sfn|伊藤勲|1986|pp=138}}。西園寺は「このたびは随分骨が折れた」と述懐したが{{sfn|伊藤勲|1986|pp=136}}、平沼や陸海軍の強硬派らが持っていた、西園寺の中立性に対する信頼は大きく損なわれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=279}}。



この事件の後、坐漁荘には鉄筋コンクリート造りの書庫が建てられたが、万一の際の避難用であったと見られている{{sfn|伊藤勲|1986|pp=195}}。また昭和7年(1932年)の[[血盟団事件]]では暗殺対象の一人となっている<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100281862|title=血盟団事件の大論告 : 暗殺手段の如き断乎として厳罰すべし : 五章十一節にわたって温情篭めて痛烈に|oldmeta=10065490}} 血盟団事件の大論告 大阪朝日新聞 1934.8.28(昭和9)] - 神戸大学 電子図書館システム</ref>。


{{sfn||1986|pp=195}}71932[[]]<ref>[{{|url|0100281862|title= :  : |oldmeta=10065490}}   1934.8.28(9)] -  </ref>西19349193510<ref>91274 8-9p319   1994</ref><ref>10515 10-11p242</ref>


=== 揺らぐ権威 ===

=== 揺らぐ権威 ===

満州事変以降、[[中国大陸]]における[[日本軍]]の活動はいよいよ拡張的となった。西園寺は[[リットン調査団]]の報告書に批判的な新聞報道に不快感を示している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=284}}。西園寺は[[国際連盟]]脱退には反対であったが、内外の情勢から脱退は不可避であると考えるようになった。このため国際連盟脱退に関する元老への諮問や重臣会議の開催を行わせないようにし、せめてその権威失墜を防ごうとした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=286}}。昭和7年(1932年)8月から、首相推薦の仕組みを変更することが検討された。昭和8年([[1933年]])[[2月28日]]、最初に内大臣に下問があり、内大臣は元老に下問するよう奉答し、元老は判断によって内大臣や枢密院議長、そして首相経験者である重臣と討議するという方式が決定された{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=287-288}}。

満州事変以降、[[中国大陸]]における[[日本軍]]の活動はいよいよ拡張的となった。西園寺は[[リットン調査団]]の報告書に批判的な新聞報道に不快感を示している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=284}}。西園寺は[[国際連盟]]脱退には反対であったが、内外の情勢から脱退は不可避であると考えるようになった。このため国際連盟脱退に関する元老への諮問や重臣会議の開催を行わせないようにし、せめてその権威失墜を防ごうとした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=286}}。昭和7年(1932年)8月から、首相推薦の仕組みを変更することが検討された。昭和8年([[1933年]])[[2月28日]]、最初に内大臣に下問があり、内大臣は元老に下問するよう奉答し、元老は判断によって内大臣や枢密院議長、そして首相経験者である重臣と討議するという方式が決定された{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=287-288}}。




{{sfn||2007|pp=289}}91934西退西[[]]{{sfn||2007|pp=289}}西{{sfn||2007|pp=289-291}}[[|]][[]]

{{sfn||2007|pp=289}}91934西退西[[]]{{sfn||2007|pp=289}}西{{sfn||2007|pp=289-291}}[[|]][[]]



5[[]]西{{sfn||2007|pp=291}}西{{sfn||2007|pp=291}}73{{sfn||2007|pp=291}}西調74{{sfn||2007|pp=292-293}}

5[[]]西{{sfn||2007|pp=291}}西{{sfn||2007|pp=291}}73{{sfn||2007|pp=291}}西調74{{sfn||2007|pp=292-293}}
218行目: 223行目:

西園寺は上京するや参内し、湯浅宮内大臣、一木枢密院議長、[[木戸幸一]]内大臣秘書官長と協議した。一木は平沼を推薦したが、西園寺は近衛が適任だと思っており、木戸もこれに同意した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=302-305}}。[[3月4日]]、西園寺は宮内省に近衛を呼んで首相就任を求めたが、近衛は病気を理由に辞退しようとした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=306-307}}。「元来重臣と自分は考えが違う」ため、[[革新派]]と元老の板挟みになることを嫌ってのことだったが{{sfn|伊藤勲|1986|pp=144}}、しかし西園寺は近衛を推薦し、同日午後4時に近衛に対して組閣の大命が下った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=306-307}}。しかし近衛はやはり病気を理由に大命を拝辞し、西園寺らは再び後継首相の協議を行うことになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=306-307}}。その日の夜、一木が外務大臣[[広田弘毅]]を提案し{{sfn|伊藤勲|1986|pp=145}}、西園寺らもこれに同意した。木戸と近衛、[[吉田茂]]らが広田を説得し{{sfn|伊藤勲|1986|pp=145-146}}、3月5日に広田に大命が下って3月9日に[[廣田内閣|広田内閣]]が発足した。また湯浅宮内大臣が内大臣に、[[松平恒雄]]が宮内大臣となっている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=307}}。

西園寺は上京するや参内し、湯浅宮内大臣、一木枢密院議長、[[木戸幸一]]内大臣秘書官長と協議した。一木は平沼を推薦したが、西園寺は近衛が適任だと思っており、木戸もこれに同意した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=302-305}}。[[3月4日]]、西園寺は宮内省に近衛を呼んで首相就任を求めたが、近衛は病気を理由に辞退しようとした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=306-307}}。「元来重臣と自分は考えが違う」ため、[[革新派]]と元老の板挟みになることを嫌ってのことだったが{{sfn|伊藤勲|1986|pp=144}}、しかし西園寺は近衛を推薦し、同日午後4時に近衛に対して組閣の大命が下った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=306-307}}。しかし近衛はやはり病気を理由に大命を拝辞し、西園寺らは再び後継首相の協議を行うことになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=306-307}}。その日の夜、一木が外務大臣[[広田弘毅]]を提案し{{sfn|伊藤勲|1986|pp=145}}、西園寺らもこれに同意した。木戸と近衛、[[吉田茂]]らが広田を説得し{{sfn|伊藤勲|1986|pp=145-146}}、3月5日に広田に大命が下って3月9日に[[廣田内閣|広田内閣]]が発足した。また湯浅宮内大臣が内大臣に、[[松平恒雄]]が宮内大臣となっている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=307}}。



近衛は若いから西園寺の側におり、西園寺も前途に期待をかけていた。しかし近衛は満州事変から西園寺と思想の袂を分かち、陸軍や革新派に近づくようになっていた{{sfn|伊藤勲|1986|pp=144}}。西園寺はこのことを惜しみ、「なんとか近衛を地道に導く方法はないだろうか」と考えるようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=308}}。また3月13日には一木枢密院議長が辞任したことにより、西園寺が拒み続けていた平沼が枢密院議長に就いた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=309}}。西園寺は「種々やってみたものだけれど、結局人民の程度しかいかないものだね。」と諦観にも似た感想を漏らしている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=310}}。

近衛は若いころから西園寺の側におり、西園寺も前途に期待をかけていた。しかし近衛は満州事変ごろから西園寺と思想の袂を分かち、陸軍や革新派に近づくようになっていた{{sfn|伊藤勲|1986|pp=144}}。西園寺はこのことを惜しみ、「なんとか近衛を地道に導く方法はないだろうか」と考えるようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=308}}。また3月13日には一木枢密院議長が辞任したことにより、西園寺が拒み続けていた平沼が枢密院議長に就いた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=309}}。西園寺は「種々やってみたものだけれど、結局人民の程度しかいかないものだね。」と諦観にも似た感想を漏らしている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=310}}。



=== 元老の退場 ===

=== 元老の退場 ===

225行目: 230行目:

[[5月31日]]、[[第20回衆議院議員総選挙]]での敗北によって[[林内閣]]が総辞職すると、西園寺に再び下問が行われた。候補としては[[杉山元]]陸軍大臣も挙がっていたが、この際は近衛を推すことに決めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=318}}。近衛内閣の外相には当初[[永井柳太郎]]が挙がっていたが、西園寺らが難色を示したために広田元首相が外相となることになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=319}}。[[第1次近衛内閣]]成立以降、西園寺は「近衛内閣の評判も割合悪くないようじゃないか」と機嫌をよくしていたが{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=319}}、[[7月7日]]に起こった[[盧溝橋事件]]によって心を痛めるようになった。西園寺は「こうちょいちょいいろんなことを[[支那]]でやると結局非常な損害を蒙る。思わぬところに国を持って行かれちゃあ困る。」「支那人だって日本人より利口な人もおり、また支那人だけでなく外国人で日本の肚を見透かしているものもいる。」「よほど日本もしっかりやらないと、みんなから馬鹿にされることになる」と危惧していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=320}}。また新聞が「断乎一蹴」「断乎一撃」などの言葉を使い、「さかんに人を殺したり、その数が多ければ多いほど褒め称える」風潮についても懸念を示していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=322}}。近衛についても、大陸の戦局の見通しなどについて危惧を持っていたが、希望は捨てきれないでいた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=321-322}}。昭和13年([[1938年]])[[5月23日]]、広田外相の後任として宇垣の名が上がったが、西園寺は首相候補である宇垣に傷をつけてはいけないと反対している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=324-325}}。しかし近衛は宇垣を外相とし、西園寺の意向を無視している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=325}}。西園寺は近衛には同情していたものの「今の政府のすることは矛盾だらけ」と批判的であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=325}}。10月下旬になって近衛が首相を辞任し、内大臣に移りたいという意向を示すようになると「筋が通らない」として反対し、陸軍の支持が厚い近衛が宮中に影響力を持つようになることを防ごうとした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=325-326}}。

[[5月31日]]、[[第20回衆議院議員総選挙]]での敗北によって[[林内閣]]が総辞職すると、西園寺に再び下問が行われた。候補としては[[杉山元]]陸軍大臣も挙がっていたが、この際は近衛を推すことに決めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=318}}。近衛内閣の外相には当初[[永井柳太郎]]が挙がっていたが、西園寺らが難色を示したために広田元首相が外相となることになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=319}}。[[第1次近衛内閣]]成立以降、西園寺は「近衛内閣の評判も割合悪くないようじゃないか」と機嫌をよくしていたが{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=319}}、[[7月7日]]に起こった[[盧溝橋事件]]によって心を痛めるようになった。西園寺は「こうちょいちょいいろんなことを[[支那]]でやると結局非常な損害を蒙る。思わぬところに国を持って行かれちゃあ困る。」「支那人だって日本人より利口な人もおり、また支那人だけでなく外国人で日本の肚を見透かしているものもいる。」「よほど日本もしっかりやらないと、みんなから馬鹿にされることになる」と危惧していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=320}}。また新聞が「断乎一蹴」「断乎一撃」などの言葉を使い、「さかんに人を殺したり、その数が多ければ多いほど褒め称える」風潮についても懸念を示していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=322}}。近衛についても、大陸の戦局の見通しなどについて危惧を持っていたが、希望は捨てきれないでいた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=321-322}}。昭和13年([[1938年]])[[5月23日]]、広田外相の後任として宇垣の名が上がったが、西園寺は首相候補である宇垣に傷をつけてはいけないと反対している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=324-325}}。しかし近衛は宇垣を外相とし、西園寺の意向を無視している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=325}}。西園寺は近衛には同情していたものの「今の政府のすることは矛盾だらけ」と批判的であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=325}}。10月下旬になって近衛が首相を辞任し、内大臣に移りたいという意向を示すようになると「筋が通らない」として反対し、陸軍の支持が厚い近衛が宮中に影響力を持つようになることを防ごうとした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=325-326}}。




14[[1939]][[14]]{{sfn||2007|pp=328}}{{sfn||2007|pp=333}}西{{sfn||2007|pp=328}}{{sfn||2007|pp=331}}[[]]西{{sfn||2007|pp=332-333}}

14[[1939]][[14]]{{sfn||2007|pp=328}}{{sfn||2007|pp=333}}西{{sfn||2007|pp=328}}{{sfn||2007|pp=331}}[[]]西{{sfn||2007|pp=332-333}}


=== 最期 ===

=== 最期 ===

237行目: 242行目:

またフランス留学の影響からか親[[欧米]]的で、軍部などから[[国家主義]]に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。また『原敬日記』の記述から、西園寺は権力への執着が乏しく、政治的な手腕がなかったという見方をされることもあるが、伊藤之雄などのように円熟した政治的手腕を持っていると評価する研究者もいる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=343-344}}。西園寺は冷淡で物事に淡泊であるというイメージを、秘書である松本剛吉からも抱かれていたが、これは中立的な人物であることを認識させるため、西園寺自らが広めたイメージである{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=344-345}}。宮中・財界との姻戚関係を背景に、西園寺は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、文部大臣在任中に[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。

またフランス留学の影響からか親[[欧米]]的で、軍部などから[[国家主義]]に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。また『原敬日記』の記述から、西園寺は権力への執着が乏しく、政治的な手腕がなかったという見方をされることもあるが、伊藤之雄などのように円熟した政治的手腕を持っていると評価する研究者もいる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=343-344}}。西園寺は冷淡で物事に淡泊であるというイメージを、秘書である松本剛吉からも抱かれていたが、これは中立的な人物であることを認識させるため、西園寺自らが広めたイメージである{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=344-345}}。宮中・財界との姻戚関係を背景に、西園寺は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、文部大臣在任中に[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。



西園寺は[[立命館大学]]に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓で名前を記したように、自らが千年以上[[皇室]]とともにあった[[藤原氏]]の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼いから皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは田中義一が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の上奏の不一致を昭和天皇に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、国粋派や[[革新派]]の反感をも招いた。

西園寺は[[立命館大学]]に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓で名前を記したように、自らが千年以上[[皇室]]とともにあった[[藤原氏]]の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼いころから皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは田中義一が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の上奏の不一致を昭和天皇に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、国粋派や[[革新派]]の反感をも招いた。



=== 議会主義者 ===

=== 議会主義者 ===

253行目: 258行目:


=== 宮中との関係 ===

=== 宮中との関係 ===

西園寺は一貫して、天皇が直接政治に関与して権威を低下させることを防ごうとしていた。このため昭和天皇の政治関与の動きにはたびたび懸念を示している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=224}}。しかし近衛内閣のからは次第に皇室による意志を示す必要があるとも考えており、直宮(天皇の兄弟)がその柱の一つになる必要もあると発言している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=324,328-329}}。

西園寺は一貫して、天皇が直接政治に関与して権威を低下させることを防ごうとしていた。このため昭和天皇の政治関与の動きにはたびたび懸念を示している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=224}}。しかし近衛内閣のころからは次第に皇室による意志を示す必要があるとも考えており、直宮(天皇の兄弟)がその柱の一つになる必要もあると発言している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=324,328-329}}。



== 西園寺と教育 ==

== 西園寺と教育 ==

261行目: 266行目:

[[ファイル:Stone Lantern Prince Saionji used to own (Ritsumeikan Univ, Kyoto, Japan).JPG|thumb|200px|[[立命館大学]][[立命館大学#西園寺記念館|西園寺記念館]]庭園の石灯籠]]

[[ファイル:Stone Lantern Prince Saionji used to own (Ritsumeikan Univ, Kyoto, Japan).JPG|thumb|200px|[[立命館大学]][[立命館大学#西園寺記念館|西園寺記念館]]庭園の石灯籠]]

=== 西園寺の教育思想 ===

=== 西園寺の教育思想 ===

文部大臣時代の西園寺は、教養ある「市民」の育成を重視し、「科学や[[英語]]や女子教育を重視せよ」と言明していた。また「人民がすべて、平等の関係において、自他互に尊敬し、自から生存すると共に、他人を生存せしむることを教へねばならぬ」として、[[自由主義]]的な教育を施すべきと考えていた{{sfn|張智慧|2005|pp=67-68}}。

文部大臣時代の西園寺は、教養ある「[[市民]]」の育成を重視し、「[[科学]]や[[英語]]や[[女子教育]]を重視せよ」と言明していた。また「人民がすべて、平等の関係において、自他互に尊敬し、自から生存すると共に、他人を生存せしむることを教へねばならぬ」として、[[自由主義]]的な教育を施すべきと考えていた{{sfn|張智慧|2005|pp=67-68}}。



明治23年(1890年)には井上毅らが作った「教育勅語」に対して「あの教育勅語だけではもの足らない。もっと[[リベラル]]の方に向けて教育の方針を立つべき」と考え{{sfn|張智慧|2005|pp=218-219}}、明治天皇に奏上して「第二次教育勅語」の作成に取り組んだ{{sfn|張智慧|2005|pp=66-67}}。この草案には「忠孝」や「[[愛国心|愛国]]」といった語はなく、女子も含めた日本臣民が列国国民と対等に対応できるようにするというものであった{{sfn|張智慧|2005|pp=68-69}}。しかし西園寺が病気がちとなったこと、伊藤首相が教育勅語の尊厳性を侵す行為として難色を示したことによって、結局成案とならず、草案のみが残った{{sfn|張智慧|2005|pp=71-69}}。この「第二次教育勅語」の草案は西園寺家から立命館大学に寄贈されて現存している。

明治23年(1890年)には[[井上毅]]らが作った「[[教育勅語]]」に対して「あの教育勅語だけではもの足らない。もっと[[リベラル]]の方に向けて教育の方針を立つべき」と考え{{sfn|張智慧|2005|pp=218-219}}、明治天皇に奏上して「第二次教育勅語」の作成に取り組んだ{{sfn|張智慧|2005|pp=66-67}}。この草案には「忠孝」や「[[愛国心|愛国]]」といった語はなく、女子も含めた日本臣民が列国国民と対等に対応できるようにするというものであった{{sfn|張智慧|2005|pp=68-69}}。しかし西園寺が病気がちとなったこと、伊藤首相が教育勅語の尊厳性を侵す行為として難色を示したことによって、結局成案とならず、草案のみが残った{{sfn|張智慧|2005|pp=71-69}}。この「第二次教育勅語」の草案は西園寺家から立命館大学に寄贈されて現存している。



また、以下の教育機関の設立にも関っている。

また、以下の教育機関の設立にも関っている。



=== 私塾立命館 ===

=== 私塾立命館 ===

明治2年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]](1869年[[10月27日]])、[[京都御所]]内の私邸に「[[私塾立命館]]」を創設。当時よく見られた公家家塾同様、賓師には漢学者らを招いた。しかし「私塾立命館」の性格は他の公家家塾のそれとは異なり、むしろ一般的な教育機関の性格を備えていた。塾生には西園寺門客・家臣のみならず多くの若者が遠方からも集まり、塾は次第に内外の時事問題を議論する場になっていったと伝えられる。諸藩から集まる若い塾生の中には地方の郷士の出も多くおり、記録によれば、西園寺の側近として最後まで行動をともにする[[中川小十郎]](後の立命館大学創立者)の郷里の人間も多くいたようである。塾はそのあり方に不穏な空気を感じた京都府庁([[太政官]][[留守官]])の差留命令により1年弱で閉鎖された。明治3年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]](1870年[[5月23日]])のことであった。

明治2年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]](1869年[[10月27日]])、[[京都御所]]内の私邸に「[[私塾立命館]]」を創設。当時よく見られた公家家塾同様、賓師には漢学者らを招いた。しかし「私塾立命館」の性格は他の公家家塾のそれとは異なり、むしろ一般的な教育機関の性格を備えていた。塾生には西園寺門客・家臣のみならず多くの若者が遠方からも集まり、塾は次第に内外の時事問題を議論する場になっていったと伝えられる。諸藩から集まる若い塾生の中には地方の郷士の出も多くおり、記録によれば、西園寺の側近として最後まで行動をともにする[[中川小十郎]](後の立命館大学創立者)の郷里の人間も多くいたようである。塾はそのあり方に不穏な空気を感じた京都府庁([[太政官 (明治時代)|太政官]][[留守官]])の差留命令により1年弱で閉鎖された。明治3年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]](1870年[[5月23日]])のことであった。



西園寺は私塾立命館を閉鎖させた際、大層残念に思い再興を誓う。その後を継いだのが戊辰戦争以来西園寺の家臣として仕えた[[丹波国]]の[[郷士]]・中川家出身の中川小十郎だった。中川は西園寺の文部大臣および総理大臣当時の公設秘書であり、その後も終生西園寺の側近として公と行動をともにする人物である。現在の[[立命館大学]]は、中川が明治33年([[1900年]])に創設した[[京都法政学校]]が「私塾立命館」の名跡を譲り受け発展したもので、厳密には西園寺の私塾との間に学校組織としての連続性はない。

西園寺は私塾立命館を閉鎖させた際、大層残念に思い再興を誓う。その後を継いだのが戊辰戦争以来西園寺の家臣として仕えた[[丹波国]]の[[郷士]]・中川家出身の中川小十郎だった。中川は西園寺の文部大臣および総理大臣当時の公設秘書であり、その後も終生西園寺の側近として公と行動をともにする人物である。現在の[[立命館大学]]は、中川が明治33年([[1900年]])に創設した[[京都法政学校]]が「私塾立命館」の名跡を譲り受け発展したもので、厳密には西園寺の私塾との間に学校組織としての連続性はない。



だが西園寺は中川の創設した京都法政学校への支援を惜しまなかった。事実、京都法政学校の学園幹事には西園寺の実弟の[[末弘威麿]]が就任、同じく実弟の住友財閥当主・[[住友友純]]からも学園に大口の寄付が行われるなど、自分の持つ政治力、人脈を用いて京都法政学校(立命館大学)に協力している。また西園寺の寄付した多数の書籍は立命館大学(旧制)が大学昇格条件を満たすために為されたものであり、現在も「[[立命館大学#西園寺文庫|西園寺文庫]]」として立命館大学に貴重なコレクションとして保存されている。この他にも西園寺自身および西園寺家から学園に送られた寄贈品(校地記念植樹なども含む)は数百点にも及び、これらの一部は立命館学園が「学宝」として管理している。

だが西園寺は中川の創設した京都法政学校への支援を惜しまなかった。事実、京都法政学校の学園幹事には西園寺の実弟の[[末弘威麿]]が就任、同じく実弟の住友財閥当主・[[住友友純]]からも学園に大口の寄付が行われるなど、自分の持つ政治力、人脈を用いて京都法政学校(立命館大学)に協力している。また西園寺の寄付した多数の書籍は立命館大学([[旧制大学|旧制]])が[[大学令]]による昇格条件を満たすために為されたものであり、現在も「[[立命館大学#西園寺文庫|西園寺文庫]]」として立命館大学に貴重なコレクションとして保存されている。この他にも西園寺自身および西園寺家から学園に送られた寄贈品(校地記念植樹なども含む)は数百点にも及び、これらの一部は立命館学園が「学宝」として管理している。



また西園寺は西園寺家[[家紋]]である「[[巴紋|左三つ巴]]」を立命館学園が使用することを許可しており、[[第二次世界大戦]][[終戦]]までこれを染め抜いた旗が実際に学園で使用されていた。西園寺は中川が「立命館」の名称と精神の継承を西園寺に申し出た際にはこれを大層喜び、自ら揮毫した『立命館と由緒』の大扁額を与えている。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学に言及しており、彼の作った立命館が再興し、受け継がれている事を喜んだ。昭和7年(1932年)、83歳になった西園寺は人生最後の京都訪問を行う。その際、立命館大学広小路校地を訪問先の一つに選んだ。9月22日の朝、京都市[[上京区]]にある立命館大学広小路学舎を訪れた西園寺は、校舎ホールに飾ってある自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらく目を留めたといわれている<ref>『京都日出新聞』1932年9月23日夕刊、文春新書「元老西園寺公望」</ref>。

また西園寺は西園寺家[[家紋]]である「[[巴紋|左三つ巴]]」を立命館学園が使用することを許可しており、[[第二次世界大戦]][[終戦]]までこれを染め抜いた旗が実際に学園で使用されていた。西園寺は中川が「立命館」の名称と精神の継承を西園寺に申し出た際にはこれを大層喜び、自ら揮毫した『立命館と由緒』の大扁額を与えている。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学に言及しており、彼の作った立命館が再興し、受け継がれている事を喜んだ。昭和7年(1932年)、83歳になった西園寺は人生最後の京都訪問を行う。その際、立命館大学広小路校地を訪問先の一つに選んだ。9月22日の朝、京都市[[上京区]]にある立命館大学広小路学舎を訪れた西園寺は、校舎ホールに飾ってある自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらく目を留めたといわれている<ref>『京都日出新聞』1932年9月23日夕刊、文春新書「元老西園寺公望」</ref>。

314行目: 319行目:

== 人物評価==

== 人物評価==

*公私ともに親しかった陸奥宗光は「天下第一の高人」と評し、政略を持ち肝も据わっているが、それを露骨に振り回さず、一緒に仕事をしているとそれが次第に現れると評している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=98}}。

*公私ともに親しかった陸奥宗光は「天下第一の高人」と評し、政略を持ち肝も据わっているが、それを露骨に振り回さず、一緒に仕事をしているとそれが次第に現れると評している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=98}}。

*国木田独歩は若いは「[[下瀬火薬]]質」<ref group="注釈">当時最新の火薬で、極めて爆発しやすい性質を持つ</ref>だったが、1900年から優しさの分子が増え始めてきたと評している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=97}}。

*国木田独歩は若いころは「[[下瀬火薬]]質」<ref group="注釈">当時最新の火薬で、極めて爆発しやすい性質を持つ</ref>だったが、1900年ごろから優しさの分子が増え始めてきたと評している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=97}}。

*原敬は『原敬日記』において政友会総裁時代の西園寺を「意志案外強固ならず、且つ注意粗にして往々誤あり」とその資質を批判している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=136}}。

*原敬は『原敬日記』において政友会総裁時代の西園寺を「意志案外強固ならず、且つ注意粗にして往々誤あり」とその資質を批判している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=136}}。

*孫の西園寺公一は、火のように激しい厳しい性格を包蔵しているが、表面に現れる事は滅多にないと回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=97}}。

*孫の[[西園寺公一]]は、火のように激しい厳しい性格を包蔵しているが、表面に現れる事は滅多にないと回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=97}}。

*パリ講和会議で再会した旧友クレマンソーは、「昔は過激な、愛すべき公子であったが、今はおだやかな皮肉屋となった」と回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=42}}。

*パリ講和会議で再会した旧友クレマンソーは、「昔は過激な、愛すべき公子であったが、今はおだやかな皮肉屋となった」と回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=42}}。

* [[勝海舟]]は明治31年([[1898年]])[[10月23日]]の座談で「西園寺というのは、どうでしょうか。」と尋ねられて「[[伊藤博文|伊藤]]さんの子分でネ。アーそうさ、利巧の方サ」と評している<ref>巌本善治編、勝部真長校注『新訂 海舟座談』岩波文庫、1983、p.83</ref>。

* [[勝海舟]]は明治31年([[1898年]])[[10月23日]]の座談で「西園寺というのは、どうでしょうか。」と尋ねられて「[[伊藤博文|伊藤]]さんの子分でネ。アーそうさ、利巧の方サ」と評している<ref>巌本善治編、勝部真長校注『新訂 海舟座談』岩波文庫、1983、p.83</ref>。

335行目: 340行目:

* [[安政]]2年([[1855年]])1月22日、従四位上に昇叙、侍従は元の如し。

* [[安政]]2年([[1855年]])1月22日、従四位上に昇叙、侍従は元の如し。

* 安政3年([[1856年]])2月5日、[[正四位|正四位下]]に昇叙、侍従は元の如し。

* 安政3年([[1856年]])2月5日、[[正四位|正四位下]]に昇叙、侍従は元の如し。

* 安政4年([[1857年]])10月7日、元服し昇殿を聴され、[[近衛府|右近衛権少将]]に転任。

* 安政4年([[1857年]])10月7日、元服し昇殿を聴され、[[近衛府|右近衛権少将]]に転任。

* [[文久]]元年([[1861年]])

* [[文久]]元年([[1861年]])

** 3月27日、右近衛権中将に転任。

** 3月27日、右近衛権中将に転任。

403行目: 408行目:

** 4月30日、文部大臣を辞す。

** 4月30日、文部大臣を辞す。

** 12月20日、[[正二位]]に昇叙。

** 12月20日、[[正二位]]に昇叙。

* 明治32年([[1899年]])、[[大磯]]に別荘(隣荘)を構える。

* 明治32年([[1899年]])、[[大磯町|大磯]]に別荘(隣荘)を構える。

* 明治33年([[1900年]])

* 明治33年([[1900年]])

** 10月27日、枢密院議長に就任、以て[[第4次伊藤内閣]]の班列となる。[[内閣総理大臣臨時代理]]となる。

** 10月27日、枢密院議長に就任、以て[[第4次伊藤内閣]]の班列となる。[[内閣総理大臣臨時代理]]となる。

448行目: 453行目:

* [[1940年]](昭和15年)[[11月24日]] - [[従一位]]<ref>『官報』第4167号「叙任及辞令」1940年11月26日。</ref>

* [[1940年]](昭和15年)[[11月24日]] - [[従一位]]<ref>『官報』第4167号「叙任及辞令」1940年11月26日。</ref>



;勲章

;勲章など

* [[1882年]](明治15年)[[3月11日]] - [[旭日章|勲三等旭日中綬章]]<ref>{{アジア歴史資料センター|A15110025800|参事院議官補西園寺公望外八名叙勲}}</ref>

* [[1882年]](明治15年)[[3月11日]] - [[旭日章|勲三等旭日中綬章]]<ref>{{アジア歴史資料センター|A15110025800|参事院議官補西園寺公望外八名叙勲}}</ref>

* [[1884年]](明治17年)[[7月7日]] - [[侯爵]]<ref name="fdsde"/><ref>『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。</ref>

* [[1884年]](明治17年)[[7月7日]] - [[侯爵]]<ref name="fdsde"/><ref>『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。</ref>

470行目: 475行目:

* [[1934年]](昭和9年)[[4月29日]] - [[賞杯|金杯一組]]<ref name="fdsde"/>

* [[1934年]](昭和9年)[[4月29日]] - [[賞杯|金杯一組]]<ref name="fdsde"/>

* [[1938年]](昭和13年)[[1月15日]] - [[賞杯|御紋付銀杯]]・[[絹|御絹]]<ref name="fdsde"/><ref>『官報』第3309号「宮廷録事 - 恩賜」1938年1月17日。</ref>

* [[1938年]](昭和13年)[[1月15日]] - [[賞杯|御紋付銀杯]]・[[絹|御絹]]<ref name="fdsde"/><ref>『官報』第3309号「宮廷録事 - 恩賜」1938年1月17日。</ref>

* [[1940年]](昭和15年)

* [[1940年]](昭和15年)[[11月25日]] - [[国葬]]<ref>『官報』号外「辞令」1940年11月25日。</ref>(葬儀執行:12月5日<ref>『官報』第4171号「故従一位大勲位公爵西園寺公望葬儀」1940年11月30日。</ref> )

** [[8月15日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|紀元二千六百年祝典記念章]]<ref>『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。</ref>

** [[11月25日]] - [[国葬]]<ref>『官報』号外「辞令」1940年11月25日。</ref>(葬儀執行:12月5日<ref>『官報』第4171号「故従一位大勲位公爵西園寺公望葬儀」1940年11月30日。</ref> )



;外国勲章佩用允許

;外国勲章佩用允許

* [[1896年]](明治29年)[[7月24日]] - [[フランス|フランス共和国]]:[[レジオンドヌール勲章]]グラントフィシエ<ref name="fdsde"/><ref>『官報』第3934号「叙任及辞令」1896年8月8日。</ref>

{| class="wikitable"

{| class="wikitable"

|-

|-

482行目: 488行目:

!備考

!備考

|-

|-

|[[1882年]](明治15年)[[9月29日]]<ref name="fdsde"/>

|[[1882年]](明治15年)[[9月29日]]

|{{flagicon image|Flagge Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach (1813-1897).svg}} [[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国]]

|{{flagicon image|Flagge Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach (1813-1897).svg}} [[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国]]

|[[File:D-SxWe-Order White Falcon BAR.png|70px]]

|[[File:D-SxWe-Order White Falcon BAR.png|70px]]

|二等{{仮リンク|白鷹勲章|en|Order of the White Falcon}}

|二等{{仮リンク|白鷹勲章|en|Order of the White Falcon}}<ref name="fdsde" />

|

|

|-

|-

512行目: 518行目:

|

|

|-

|-

|[[1892年]](明治25年)[[7月5日]]<ref name="fdsde"/>

|[[1892年]](明治25年)[[7月5日]]

|{{BEL}}

|{{BEL}}

|[[File:Grand Crest Ordre de Leopold.png|70px]]

|[[File:Grand Crest Ordre de Leopold.png|70px]]

|{{仮リンク|レオポルド勲章 (ベルギー)|en|Order of Leopold (Belgium)|label=レオポルド勲章}}グランドコルドン

|{{仮リンク|レオポルド勲章 (ベルギー)|en|Order of Leopold (Belgium)|label=レオポルド勲章}}グランドコルドン<ref name="fdsde" />

|

|

|-

|-

|1894年(明治27年)[[3月8日]]

|[[1894年]](明治27年)[[3月8日]]

|{{OTT}}

|{{OTT}}

|[[File:Order of the Medjidie lenta.png|70px]]

|[[File:Order of the Medjidie lenta.png|70px]]

524行目: 530行目:

|

|

|-

|-

|[[1896年]](明治29年)[[3月6日]]<ref name="fdsde"/>

|[[1896年]](明治29年)[[3月6日]]

|{{ITA1861}}

|{{ITA1861}}

|[[File:Cavaliere di gran Croce Regno SSML BAR.svg|70px]]

|[[File:Cavaliere di gran Croce Regno SSML BAR.svg|70px]]

|[[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]グラン・クローチェ

|[[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]大十字騎士章<ref name="fdsde" /><ref>『官報』1896年3月7日「叙任及辞令」。</ref>

|

|

|-

|-

534行目: 540行目:

|[[File:POL Order Orła Białego BAR.svg|70px]]

|[[File:POL Order Orła Białego BAR.svg|70px]]


|{{| ()|en|Order of the White Eagle (Poland)|label=}}<ref name="fdsde"/><ref name="fdsde"/><ref>38151896321</ref>

|{{| ()|en|Order of the White Eagle (Poland)|label=}}<ref name="fdsde"/><ref name="fdsde"/><ref>38151896321</ref>

|

|-

|1896年(明治29年)[[7月24日]]

|{{FRA1870}}

|

|[[レジオンドヌール勲章]]グラントフィシエ<ref name="fdsde" /><ref>『官報』第3934号「叙任及辞令」1896年8月8日。</ref>

|

|

|-

|-

542行目: 554行目:

|

|

|-

|-

|[[1898年]](明治31年)[[2月10日]]<ref name="fdsde"/>

|[[1898年]](明治31年)[[2月10日]]

|{{flagicon image|Flag of Denmark.svg}} [[デンマーク|デンマーク王国]]

|{{flagicon image|Flag of Denmark.svg}} [[デンマーク|デンマーク王国]]

|[[File:DNK Order of Danebrog Grand Cross BAR.png|70px]]

|[[File:DNK Order of Danebrog Grand Cross BAR.png|70px]]

566行目: 578行目:

|

|

|-

|-

|1907年(明治40年)12月17日<ref name="fdsde"/>

|1907年(明治40年)[[12月17日]]

|{{flagicon image|Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg}} [[清|大清帝国]]

|{{flagicon image|Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg}} [[清|大清帝国]]

|[[File:PER Order of the Sun of Peru - Knight BAR.png|70px]]

|[[File:PER Order of the Sun of Peru - Knight BAR.png|70px]]

|頭等第二{{仮リンク|御賜双竜宝星|zh|御赐双龙宝星}}

|頭等第二{{仮リンク|御賜双竜宝星|zh|御赐双龙宝星}}<ref name="fdsde" />

|

|

|}

|}

581行目: 593行目:


====小林菊子====

====小林菊子====


[[ ()|]][[|]]141881{{sfn||2007|pp=57}}{{sfn||2007|pp=58}}{{sfn||2007|pp=58}}西{{sfn||2007|pp=45}}西使{{sfn||2007|pp=58}}西西{{sfn||2007|pp=159}}61917[[]]{{sfn||2007|pp=161}}西西151940614{{sfn||2007|pp=338}}

[[ ()|]][[|]]141881{{sfn||2007|pp=57}}{{sfn||2007|pp=58}}{{sfn||2007|pp=58}}西{{sfn||2007|pp=45}}西使{{sfn||2007|pp=58}}西西{{sfn||2007|pp=159}}61917[[]]{{sfn||2007|pp=161}}西西151940614{{sfn||2007|pp=338}}16194111677<ref> 19411187</ref>


====中西房子====

====中西房子====

594行目: 606行目:

=== 子===

=== 子===

====新子====

====新子====

明治20年(1887年)、小林菊子との間にもうけた娘。西園寺は2歳になったから英語かフランス語を学ばせようと考えるなど教育に熱心であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=71}}。養嗣子[[西園寺八郎|八郎]]と結婚し、[[西園寺公一|公一]]、[[西園寺不二男|不二男]]など三男三女を産んだ。首相時代の西園寺が外国人を招いたパーティを開くと、そのホスト役となって得意のフランス語を披露していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=146}}。大正9年(1920年)に[[スペイン風邪]]で死去した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=161}}。西園寺は「さつぱり解けて仕舞けり雪不とき」と哀悼の句を詠んでいる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=196-197}}。

明治20年(1887年)、小林菊子との間にもうけた娘。西園寺は2歳になったころから英語かフランス語を学ばせようと考えるなど教育に熱心であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=71}}。養嗣子[[西園寺八郎|八郎]]と結婚し、[[西園寺公一|公一]]、[[西園寺不二男|不二男]]など三男三女を産んだ。首相時代の西園寺が外国人を招いたパーティを開くと、そのホスト役となって得意のフランス語を披露していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=146}}。大正9年(1920年)に[[スペイン風邪]]で死去した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=161}}。西園寺は「さつぱり解けて仕舞けり雪不とき」と哀悼の句を詠んでいる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=196-197}}。



====園子====

====園子====

629行目: 641行目:

* 『陶庵随筆』(1903年〔明治36年〕10月・新聲社/[[中公文庫]]、1990年、復刊2004年)

* 『陶庵随筆』(1903年〔明治36年〕10月・新聲社/[[中公文庫]]、1990年、復刊2004年)

*: 雑誌『世界之日本』に執筆した[[随筆]]をまとめたもの。表題の随筆のほか「懐舊談」、「欧羅巴紀遊抜書」も収録。かつて西園寺邸で書生をしていた[[国木田独歩]]による編。

*: 雑誌『世界之日本』に執筆した[[随筆]]をまとめたもの。表題の随筆のほか「懐舊談」、「欧羅巴紀遊抜書」も収録。かつて西園寺邸で書生をしていた[[国木田独歩]]による編。


== 関連作品 ==

;映画

*[[スパイ・ゾルゲ]](2003年、演:[[大滝秀治]])

;テレビドラマ

*[[落日燃ゆ]](2009年、テレビ朝日、演:大滝秀治)



== 脚注 ==

== 脚注 ==

645行目: 663行目:

* {{Cite book |和書|author=伊藤之雄 |authorlink=伊藤之雄|series =[[文春新書]] |date=2007|title=元老 西園寺公望 古希からの挑戦 |publisher=文藝春秋|page= |isbn=4166606093|ref=harv}}

* {{Cite book |和書|author=伊藤之雄 |authorlink=伊藤之雄|series =[[文春新書]] |date=2007|title=元老 西園寺公望 古希からの挑戦 |publisher=文藝春秋|page= |isbn=4166606093|ref=harv}}

* {{Cite journal |和書|author =伊藤勲 |authorlink = 伊藤勲 |title = 西園寺公望の政治理念|date =1986|publisher = 上智大學法學會|pages =101-164 |journal =上智法学論集 |volume =29(2・3) |naid = 120005883866 |url=http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000023346 |ref=harv}}

* {{Cite journal |和書|author =伊藤勲 |authorlink = 伊藤勲 |title = 西園寺公望の政治理念|date =1986|publisher = 上智大學法學會|pages =101-164 |journal =上智法学論集 |volume =29(2・3) |naid = 120005883866 |url=http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000023346 |ref=harv}}

* {{Cite journal |和書|author =張智慧 |authorlink = 張智慧 |title = 明治民法の成立と西園寺公望 : 法典調査会の議論を中心に|date =2009|publisher = 立命館大学人文科学研究所|pages =207-236|journal =立命館大学人文科学研究所紀要 |volume =93 |naid =110007508094 |url=https://hdl.handle.net/10367/00013200 |ref=harv}}

* {{Cite journal |和書|author =張智慧 |title = 明治民法の成立と西園寺公望 : 法典調査会の議論を中心に|date =2009|publisher = 立命館大学人文科学研究所|pages =207-236|journal =立命館大学人文科学研究所紀要 |volume =93 |naid =110007508094 |url=https://hdl.handle.net/10367/00013200 |ref=harv}}

* {{Cite journal |和書|author =張智慧 |title = 文部大臣西園寺公望の文教政策|date =2005|publisher =大阪市立大学日本史学会|pages =207-236|journal =市大日本史|volume =8|naid =120006002977 |url=https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_111E0000017-8-3 |ref=harv}}

* {{Cite journal |和書|author =張智慧 |title = 文部大臣西園寺公望の文教政策|date =2005|publisher =大阪市立大学日本史学会|pages =207-236|journal =市大日本史|volume =8|naid =120006002977 |url=https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_111E0000017-8-3 |ref=harv}}

* {{Cite journal |和書|author =永井和 |authorlink = 永井和 |title = 西園寺公望はいかにして最後の元老となったのか :「一人元老制」と「元老・内大臣協議方式」|date =1997|publisher =京都大学|pages =152_a-111_a|journal =京都大學文學部研究紀要|volume =36|naid =110000056959 |url=https://hdl.handle.net/2433/73080|ref=harv}}

* {{Cite journal |和書|author =永井和 |authorlink = 永井和 |title = 西園寺公望はいかにして最後の元老となったのか :「一人元老制」と「元老・内大臣協議方式」|date =1997|publisher =京都大学|pages =152_a-111_a|journal =京都大學文學部研究紀要|volume =36|naid =110000056959 |url=https://hdl.handle.net/2433/73080|ref=harv}}

653行目: 671行目:

* 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 [[角川書店]] 1983年 162-164頁

* 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 [[角川書店]] 1983年 162-164頁

* [[豊田穣]] 『最後の元老 西園寺公望』(上下) [[新潮社]]、1982年/[[新潮文庫]]、1985年

* [[豊田穣]] 『最後の元老 西園寺公望』(上下) [[新潮社]]、1982年/[[新潮文庫]]、1985年

**新版 『豊田穣文学/戦記全集 第9巻』、[[光人社]]、1991年、ISBN 4769805195


:*新版 『豊田穣文学/戦記全集 第9巻』、[[光人社]]、1991年、ISBN 4769805195

* 西園寺公望述、[[小泉策太郎]]筆記、[[木村毅]]編 『西園寺公望自傳』 [[大日本雄弁会講談社]]、1949年

* 西園寺公望述、[[小泉策太郎]]筆記、[[木村毅]]編 『西園寺公望自傳』 [[大日本雄弁会講談社]]、1949年


:*7西[[]]<br /> [[]][[]]2005

**7西[[]]<br /> [[]][[]]2005


== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

663行目: 680行目:

* [[雨声会]]

* [[雨声会]]

* [[原田熊雄]] - 編著に『陶庵公清話』 岩波書店、1943年、新版復刊1984年

* [[原田熊雄]] - 編著に『陶庵公清話』 岩波書店、1943年、新版復刊1984年

* [[勝沼精蔵]] - 西園寺公望主治医。後、[[名古屋大学]]学長。

* [[日本最後の一覧]] - [[日本最後の一覧#政治や軍事|政治や軍事]]欄の「元老」に西園寺公望の名前がある。

* [[日本最後の一覧]] - [[日本最後の一覧#政治や軍事|政治や軍事]]欄の「元老」に西園寺公望の名前がある。



== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

* [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/saionnjikinnmochi.html 国立国会図書館 憲政資料室 西園寺公望関係文書(橋本実梁旧蔵)]

* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/saionnjikinnmochi 国立国会図書館 憲政資料室 西園寺公望関係文書(橋本実梁旧蔵)]

* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/84/ 西園寺公望 | 近代日本人の肖像]

* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/84/ 西園寺公望 | 近代日本人の肖像]

* [https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/2007_01/kinmochi_saionji/index.html 明治宰相列伝 : 西園寺公望 | 国立公文書館]

* [https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/2007_01/kinmochi_saionji/index.html 明治宰相列伝 : 西園寺公望 | 国立公文書館]

672行目: 690行目:

* {{NHK放送史|D0009180130_00000|元老西園寺公国葬}}

* {{NHK放送史|D0009180130_00000|元老西園寺公国葬}}

* [http://nihonsi.web.fc2.com/biograph/kinmochi/kinmochi.htm 西園寺公望「懐旧談」]

* [http://nihonsi.web.fc2.com/biograph/kinmochi/kinmochi.htm 西園寺公望「懐旧談」]

* [https://bimikyushin.com/chapter_1/01_ref/saionji.html 美味求真.com「西園寺公望」]

* {{Kotobank}}

* {{Kotobank}}



{{Start box}}

{{S-start}}

{{S-off}}

{{S-off}}

{{Succession box

{{Succession box

| title = {{Flagicon|日本}} [[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]]

| title = {{Flagicon|JPN}} [[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]]

| years = 第7代:1900年10月27日 - 1903年7月13日

| years = 第7代:1900年10月27日 - 1903年7月13日

| before = [[黒田清隆]]

| before = [[黒田清隆]]

684行目: 701行目:

}}

}}

{{Succession box

{{Succession box

| title = {{Flagicon|日本}} [[文部大臣]]

| title = {{Flagicon|JPN}} [[文部大臣]]

| years = 第14代:1898年1月12日 - 4月30日<br />第7代:1894年10月3日 - 1896年9月28日

| years = 第14代:1898年1月12日 - 4月30日<br />第7代:1894年10月3日 - 1896年9月28日

| before = [[濱尾新|浜尾新]]<br/>[[井上毅]]

| before = [[濱尾新|浜尾新]]<br/>[[井上毅]]

690行目: 707行目:

}}

}}

{{Succession box

{{Succession box

| title = {{Flagicon|日本}} [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]

| title = {{Flagicon|JPN}} [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]

| years = 第6代:1896年5月30日 - 9月22日

| years = 第6代:1896年5月30日 - 9月22日

| before = [[陸奥宗光]]

| before = [[陸奥宗光]]

704行目: 721行目:

{{S-par}}

{{S-par}}

{{Succession box

{{Succession box

| title = {{Flagicon|日本}} [[貴族院議長 (日本)|貴族院副議長]]

| title = {{Flagicon|JPN}} [[貴族院議長 (日本)|貴族院副議長]]

| before = [[細川潤次郎]]

| before = [[細川潤次郎]]

| years = 第3代:1893年11月3日 - 1894年5月12日

| years = 第3代:1893年11月3日 - 1894年5月12日

729行目: 746行目:

| after = 陞爵

| after = 陞爵

}}

}}

{{End box}}

{{S-end}}

{{Navboxes

{{Navboxes

|list=

|list=

773行目: 790行目:

[[Category:明治時代の貴族院議員]]

[[Category:明治時代の貴族院議員]]

[[Category:在職中に死去した日本の貴族院議員]]

[[Category:在職中に死去した日本の貴族院議員]]

[[Category:大正時代の内閣総理大臣]]

[[Category:日本の内閣総理大臣]]

[[Category:明治時代の内閣総理大臣]]

[[Category:明治時代の閣僚]]

[[Category:明治時代の閣僚]]

[[Category:日本の外務大臣]]

[[Category:日本の外務大臣]]

793行目: 809行目:

[[Category:元老]]

[[Category:元老]]

[[Category:維新の元勲]]

[[Category:維新の元勲]]

[[Category:従一位受位者]]

[[Category:大勲位菊花章頸飾受章者]]

[[Category:大勲位菊花章頸飾受章者]]

[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]]

[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]]

798行目: 815行目:

[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]

[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]

[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]

[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]

[[Category:勲二等旭日重光章受章者]]

[[Category:勲三等旭日中綬章受章者]]

[[Category:大勲位金尺大綬章受章者]]

[[Category:大勲位金尺大綬章受章者]]

[[Category:従一位受位者]]

[[Category:レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者]]

[[Category:ピウス9世勲章受章者]]

[[Category:ピウス9世勲章受章者]]

[[Category:聖マイケル・聖ジョージ勲章]]

[[Category:オランダ獅子勲章受章者]]

[[Category:カルロス3世勲章受章者]]

[[Category:レオポルド勲章受章者]]

[[Category:赤鷲勲章受章者]]

[[Category:赤鷲勲章受章者]]

[[Category:レオポルド勲章受章者]]

[[Category:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者]]

[[Category:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者]]

[[Category:オダ獅子勲章受章者]]

[[Category:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ受章者]]

[[Category:レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者]]

[[Category:白鷲勲章受章者 (ロシア帝国)]]

[[Category:カルロス3世勲章受章者]]

[[Category:ダンネブロ勲章受章者]]

[[Category:ダンネブロ勲章受章者]]

[[Category:聖マイケル・聖ジョージ勲章]]

[[Category:聖アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者]]

[[Category:聖アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者]]

[[Category:白鷲勲章受章者 (ロシア帝国)]]

[[Category:在フランス日本人]]

[[Category:在フランス日本人]]

[[Category:在ドイツ日本人]]

[[Category:在ドイツ日本人]]

821行目: 836行目:

[[Category:1940年没]]

[[Category:1940年没]]

[[Category:国葬された人物]]

[[Category:国葬された人物]]

[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]


2024年6月2日 (日) 17:51時点における最新版

日本における郵船商船規則の旗 日本政治家

西園寺 公望

さいおんじ きんもち

大勲位菊花章頸飾を佩用した西園寺(1928年

生年月日 1849年12月7日嘉永2年10月23日
出生地 日本 山城国京都(現在の京都府京都市
没年月日 (1940-11-24) 1940年11月24日(90歳没)
死没地 日本における郵船商船規則の旗 日本 静岡県庵原郡興津町(現在の静岡市清水区
出身校 ソルボンヌ大学卒業
所属政党 立憲政友会
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
勲一等旭日桐花大綬章
旭日大綬章
勲一等瑞宝章
勲二等旭日重光章
勲三等旭日中授章
公爵
親族 徳大寺公純(父)
徳大寺実則(兄)
末弘威麿(弟)
住友友純(弟)
西園寺師季(養父)
西園寺八郎(養子・養嗣子)
西園寺公一(孫)
西園寺不二男(孫)
西園寺一晃(曾孫)
西園寺彬弘(曾孫)
西園寺公友(曾孫)
西園寺祥子(曾孫)
西園寺裕夫(曾孫)
サイン

日本における郵船商船規則の旗 第12・14代 内閣総理大臣

内閣 第1次西園寺内閣
第2次西園寺内閣
在任期間 1906年1月7日 - 1908年7月14日
1911年8月30日 - 1912年12月21日
天皇 明治天皇
大正天皇

日本における郵船商船規則の旗 第7代 枢密院議長

在任期間 1900年10月27日 - 1903年7月13日
天皇 明治天皇

日本における郵船商船規則の旗 内閣総理大臣臨時兼任

内閣 第4次伊藤内閣
在任期間 1901年5月10日 - 1901年6月2日
天皇 明治天皇

日本における郵船商船規則の旗 内閣総理大臣臨時代理

内閣 第4次伊藤内閣
在任期間 1900年11月27日 - 1900年12月12日
天皇 明治天皇

日本における郵船商船規則の旗 第7・10代 文部大臣

内閣 第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
第3次伊藤内閣
在任期間 1894年10月3日 - 1896年9月28日
1898年1月12日 - 1898年4月30日

その他の職歴

日本における郵船商船規則の旗 第11代 外務大臣
(第2次伊藤内閣、第2次松方内閣)
1896年5月30日 - 1896年9月22日
日本における郵船商船規則の旗 貴族院議員
1890年2月 - 1920年9月6日
1920年9月7日 - 1940年11月24日)
日本における郵船商船規則の旗 第2代 新潟府知事
1868年10月28日 - 1869年2月22日
テンプレートを表示
フランスパリに留学中の西園寺(1871年 - 1880年

西  21023︿1849127[ 1] - 15︿19401124[ 2]

[]


234

3619033919061西2西西3

51916[1]131924


[]

[]


184912721023[2][3]麿[3]2西[4]

7西[4][4][5]11[6][7]

西[8]西[8]西西[9]

[]


西[7]312918681[7]41[10]

[7][7]

[]


10281868西[11]2西[8][12][13]宿西姿

9[14][14]31西[15]3121871[16]421871[16]

[]


西318西[17][18]西10[19]使[19]

西1400400西400退[20]西18782300[21]181885西[22]西[23]

8西[24]西宿西[25]

131021188010[26]

[]


西[27]141881318[27]西[28]西[29]調[30]3[31]48西[31]43034[31]

[]


1418811124西[32][32]151882調[33]調 [34][35]16188384[36]181885使[37]19188668調[38]2018876使使920使[39]12104使西131[40]221889[41]

24189189[42][43]25189210調調[44]西調[45]西[46]

2718942[47]西西[48]281895[49]2918965西82[50]11 調西[51]301897[52]

31189813[53]430[54]

[]


331900[55]101941027西1212[56][56]

361903西[57]33%[58][59]371904912[59]

桂園時代と大正政変[編集]

1906年内閣総理大臣在任時

3919061711西2[60]319147[61]401907西[62]4119081西西[63]西6[64]74[65]

西[66]西西[67]西[68]2[69]4419118西[70]

8302西西[71]813[72]西西西[73]

191212[74]125[74]西[75][76][77]

1221219132西[78]西[78]西[78]211西[79]西西[80]西[81]

西西退[82]西西[83]419143西[84]西西5618[85]退西[86]西[86]51916西[87]

[]

1919西

2西519163[86]810西西[1]

71918920西[88]921西西退[89][88]西

パリ講和会議[編集]

牧野伸顕と西園寺。1919年、パリ。

西[90]西退1218[90][90]西西181919114[91]西麿[92]5[93]

西32[94]20[95][96]西427[97][98]西[99]

7105[100]824駿[101]9()[87]西143駿[87]19192097[102]

[]

101921西

9192010西退調[103]西[104]

101921114西西西西[105][106]西[107]西[107]

1119222西西西[108]西 [109]()[110]殿79[111]6[112]西[112]1219238調西西[113]西[114]824西[113][113][114]

12292西[115][114]西[116]西15[117]13192459[118]

西[119]西[120]67[121]西使[122]退西[123][124]西[125]

72西西[126][127]西西[128]西[128]西15192610西西[129]西[130]

憲政の常道[編集]

坐漁荘にて

14192541[131]711[131]西西[132]西812[133]

151926121128[134]西[135][136]5西西姿[137]

121228西[138]219271西使西[135][139]

満州某重大事件[編集]


[139]西西[140]830[140]

3192864西78[141]西1224[141][142]41929627西[143]西西[143]西[144][145]西調[146][147]

民政党内閣期[編集]


西[148][149]

51930西[150]西西[151]西[152]

西[153][153]西調[153]

11619314西[154]西[155]西[156]

8西西麿[157]

918西[158][158]

西[159][160]1211[161][162]

1212西[163][162]西[164]1213

西[164]西2[165]西[165]西[166]西[167][168]

政党内閣の終焉[編集]


西[169]71932515[170][171][172]西西[173][174]西523[175][176]西[177]西[176]西[178]

[179]71932[180]西19349193510[181][182]

[]


西調[183]西退退退[184]71932881933228[185]

[186]91934西退西[186]西[187]

5西[188]西[188]73[188]西調74[189]

西西[190]2[190][191]

調西[192]西[192]1226西[193]麿西[193]

二・二六事件[編集]

1936年3月4日宮内省を退出して定宿としていた麻布の住友別邸に戻る西園寺

111936西120使[194][194]

2266西[195]80西[196][196]西227[197]西西[198]麿西退[199]西使西西32[200]

西西[201]34西退[202][203]西4[202]西[202][204]西[205]3539[206]

西西西[203]西[207]313西[208]西[209]

退[]


121937123寿西[210]西西[211][212][213]129西[214]退[214]西退[215][215]

53120西[216]西[217]1西[217]77西鹿[218]使[219][220]131938523西[221]西[222]西[222]10[223]

14193914[224][225]西[224][226]西[227]

[]


1419392西調151940殿[228]西[229]716717西西[230]西[230]2鹿鹿[231]

11西1124954[232]9290西退[233][234]8000[234]

西[]


西[235][236]

西[237]西西[238]西調

西西姿西西姿

[]


西西[239]

調[]


西調[240]西[240]西[241]

[242][243][244]

調[183]

[]


[245]西[147][119]退[246]

[]


西[140][247]

西[]

西
西

西[]


西[248]

231890[249][250][251]西[252]西


[]


292318691027西西134231870523

西西西西331900西

西西麿西西西西

西西使使西西西7193283西922西[253] 西西

20[254][255]



西101935西西西駿

西151940西西西

[]


271894西301897西西西192007

明治法律学校[編集]


141881西[257]3[258]30姿[259]

120 西[260][261]

[]


341901

[]


西西[262]

[245]

西[19]





21869

尿[263]寿

[264]西4[263][263][265]

[266][263]

麿[267]西[268]

[22]

使

[]


[53]

[ 3]1900[269]

西[270]

西[269]

[25]

3118981023西[271]

[]

西
西

5

218491023

31850

418521220

51852127西

61853
121

515

71854122

21855122

3185625

41857107殿

1861
327

425

2186215

318681220

1868
14

320

419

45

421

423使

424

614使

620

1020

21869
15

315

73

31870123

1118781219

1318801021

141881
1

318

48

1124

151882311

1618831224

17188477

181885214使

19188686調

201887
64使

628使

24189194

251892107調

261893
413調

1113

1211

271894
510

512

1032

281895
65

621

291896
43

530

65

7

9182

922

928

115調

1129

301897
105

311898
1123

121調

330調

430

1220

321899

331900
10274

1212

341901
52

510

514

621

361903
713

714

391906
171西

33

327

519

830

401907914

411908714

4419118302西

19121221

21913

31914618

61917

71918
1221

1227

81919111114719823 ( ) () 西

9192097

319281110

1119371013

151940
1124

1125

125

16194117 - 18西   

[]




1878111229 - [272]

1893261211 - [272][273]

1898311220 - [272][274]

1940151124 - [275]



188215311 - [276]

18841777 - [272][277]

188821529 - [272][278]

189528621 - [272][279]

18962965 - [272]

189831629 - [272]

190740914 - [272][280]

190942721 - [272]

191281 - [272][281]

19123618 - [272]

191541110 - [272][282]

19187
111 - [272]

1221 - [272][283]

1920997 - [272][284]

19283
116 - [272]

1110 - [272][285][272]

1931651 - [286]

19349429 - [272]

193813115 - [272][287]

194015
815 - [288]

1125 - [289]125[290] 


受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1882年(明治15年)9月29日 ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国 二等白鷹勲章英語版[272]
1888年(明治21年)2月25日 バチカンの旗 バチカン ピウス9世勲章グラン・クローチェ[272][291]
1888年(明治21年)5月9日 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 1等鉄冠勲章英語版[272][272][292]
1891年(明治24年)3月16日 オランダの旗 オランダ オランダ獅子勲章英語版[272][293]
1891年(明治24年)10月15日 ドイツの旗 ドイツ帝国 赤鷲第一等勲章英語版[272][294]
1892年(明治25年)7月5日 ベルギーの旗 ベルギー レオポルド勲章英語版グランドコルドン[272]
1894年(明治27年)3月8日 オスマン帝国の旗 オスマン帝国 一等メディジディー勲章英語版[272][295]
1896年(明治29年)3月6日 イタリア王国の旗 イタリア王国 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章大十字騎士章[272][296]
1896年(明治29年)3月17日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 白鷲勲章英語版[272][272][297]
1896年(明治29年)7月24日 フランスの旗 フランス共和国 レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[272][298]
1896年(明治29年)11月10日 スペインの旗 スペイン王国 カルロス3世勲章英語版グランドクロス[272][299]
1898年(明治31年)2月10日 デンマーク王国 1等級ダンネブロ勲章[272][291]
1906年(明治39年)3月3日 イギリスの旗 イギリス帝国 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス (GCMG)[272]
1907年(明治40年)10月23日 フランスの旗 フランス共和国 レジオンドヌール勲章グランクロワ[272][272][300]
1907年(明治40年)10月30日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 聖アレクサンドル・ネフスキー勲章大綬章[272][301]
1907年(明治40年)12月17日 大清帝国 頭等第二御賜双竜宝星中国語版[272]

家族[編集]

親族[編集]


3麿15麿

[]


西13NEXUS(18)西西[302]4

[]


141881[31][303][303]西[304]西使[303]西西[305]61917[306]西西151940614[307]16194111677[308]

西[]


駿西西[309]

[]


西[310][310]131924[311][311]31928西西32西[312]46[313]4192923[314]

[]


[315]西[315]西[316]西調[317]

[]

[]


201887西2[318]西[319]91920[306]西[320]

[]


西[321]

[]


西

八郎[編集]


321899西[322]2西西[323][324]111922[325]西

[]


[326][326]宿西[326]

系譜[編集]


西西西126

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東山天皇

 

中御門天皇

 

桜町天皇

 

桃園天皇

 

後桃園天皇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

直仁親王

 

典仁親王

 

光格天皇

 

仁孝天皇

 

孝明天皇

 

明治天皇

 

大正天皇

 

昭和天皇

 

明仁

 

徳仁

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鷹司輔平

 

鷹司政煕

 

鷹司政通

 

鷹司輔煕

 

德大寺公純

 

徳大寺実則

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西園寺公望

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[]


1903361019902004
西

[]




2003



2009

[]

注釈[編集]

  1. ^ グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している(伊藤之雄 2007, pp. 8–9)
  2. ^ 京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32)
  3. ^ 当時最新の火薬で、極めて爆発しやすい性質を持つ

出典[編集]



(一)^ ab 2007, pp. 156157.

(二)^  2007, pp. 8.

(三)^ ab 2007, pp. 20.

(四)^ abc 2007, pp. 21.

(五)^  2007, pp. 2122.

(六)^  2007, pp. 2324.

(七)^ abcde 2007, pp. 24.

(八)^ abc 1973, p. 140.

(九)^ 西 1908, p. 56-57.

(十)^  1986, pp. 103104.

(11)^  2007, pp. 2526.

(12)^  2007, pp. 26.

(13)^  2007, pp. 2627.

(14)^ ab 2007, pp. 27.

(15)^ 西 1908, p. 12-13.

(16)^ ab 2007, pp. 3031.

(17)^  2007, pp. 3536.

(18)^  2007, pp. 36.

(19)^ abc 1973, p. 141.

(20)^  2007, pp. 4647.

(21)^  2007, pp. 4750.

(22)^ ab西

(23)^ , ()41984377-97ISSN 03898075NAID 110000246594  (p.95-96)

(24)^  2007, pp. 3940.

(25)^ ab 2007, pp. 42.

(26)^  2007, pp. 51.

(27)^ ab 2007, pp. 54.

(28)^  2007, pp. 55.

(29)^  2007, pp. 5455.

(30)^  2007, pp. 56.

(31)^ abcd 2007, pp. 57.

(32)^ ab 2007, pp. 60.

(33)^  2007, pp. 61.

(34)^  2007, pp. 6162.

(35)^  2007, pp. 63.

(36)^  2007, pp. 64.

(37)^  2007, pp. 6667.

(38)^  2007, pp. 69.

(39)^  2007, pp. 7071.

(40)^  2007, pp. 7273.

(41)^  2007, pp. 76.

(42)^  2007, pp. 7980.

(43)^  2007, pp. 8081.

(44)^  2007, pp. 81.

(45)^  2009, pp. 218.

(46)^  2009, pp. 218219.

(47)^  2007, pp. 84.

(48)^  2007, pp. 8687.

(49)^  2007, pp. 8890.

(50)^  2007, pp. 9293.

(51)^  2007, pp. 9395.

(52)^  2007, pp. 95.

(53)^ ab 2007, pp. 98.

(54)^  2007, pp. 100101.

(55)^  2007, pp. 105.

(56)^ ab 2007, pp. 106.

(57)^  2007, pp. 114.

(58)^  2007, pp. 116.

(59)^ ab 2007, pp. 118.

(60)^  2007, pp. 119.

(61)^  2007, pp. 128132.

(62)^  2007, pp. 132133.

(63)^  2007, pp. 133.

(64)^ 627西

(65)^  2007, pp. 134137.

(66)^  2007, pp. 138139.

(67)^  2007, pp. 141.

(68)^ 190942119

(69)^  2007, pp. 140.

(70)^  2007, pp. 142.

(71)^  2007, pp. 143.

(72)^ 813   Ref.C10050034100 

(73)^  2007, pp. 145.

(74)^ ab 2007, pp. 147.

(75)^  西  Ref.A03023387900 

(76)^ 西  Ref.A14110303000 

(77)^ 2016ISBN 978-4121023797 126-127p

(78)^ abc 2007, pp. 148149.

(79)^  2007, pp. 149.

(80)^  2007, pp. 149150.

(81)^  2007, pp. 150.

(82)^  2007, pp. 151.

(83)^  2007, pp. 152.

(84)^  2007, pp. 152153.

(85)^  2007, pp. 153.

(86)^ abc 2007, pp. 155.

(87)^ abc 2007, pp. 194.

(88)^ ab 1986, pp. 109110.

(89)^  2007, pp. 158.

(90)^ abc 2007, pp. 164.

(91)^  2007, pp. 166.

(92)^  2007, pp. 166167.

(93)^  2007, pp. 167.

(94)^  2007, pp. 169170.

(95)^  2007, pp. 172173.

(96)^  2007, pp. 173.

(97)^  2007, pp. 173174.

(98)^  2007, pp. 179.

(99)^  2007, pp. 176.

(100)^  2007, pp. 177.

(101)^  2007, pp. 178180.

(102)^  2007, pp. 180.

(103)^  2007, pp. 183184.

(104)^  2007, pp. 183187.

(105)^  1986, pp. 111.

(106)^  1997, pp. 111.

(107)^ ab 1986, pp. 112.

(108)^  2007, pp. 192193.

(109)^  1997, pp. 111112.

(110)^  2007, pp. 195.

(111)^  2007, pp. 194195.

(112)^ ab 2007, pp. 198.

(113)^ abc 1986, pp. 114.

(114)^ abc 2007, pp. 199.

(115)^  1986, pp. 116.

(116)^  1986, pp. 117.

(117)^  1986, pp. 116119.

(118)^  2007, pp. 200.

(119)^ ab 2012, pp. 79.

(120)^  2007, pp. 201202.

(121)^  2007, pp. 202.

(122)^  1986, pp. 120.

(123)^  1986, pp. 121.

(124)^  2007, pp. 203.

(125)^  2007, pp. 208.

(126)^  1997, pp. 113120.

(127)^  2012, pp. 76.

(128)^ ab 1997, pp. 126.

(129)^  1997, pp. 132136.

(130)^  1997, pp. 113114.

(131)^ ab 1986, pp. 122.

(132)^  1986, pp. 122123.

(133)^  1986, pp. 123.

(134)^  1986, pp. 123124.

(135)^ ab 1986, pp. 125.

(136)^  1986, pp. 124.

(137)^  2007, pp. 213214.

(138)^  1997, pp. 112113.

(139)^ ab 2007, pp. 222.

(140)^ abc 2007, pp. 224.

(141)^ ab 2007, pp. 239.

(142)^  2007, pp. 240241.

(143)^ ab 2007, pp. 241242.

(144)^  2007, pp. 242.

(145)^  2007, pp. 243246.

(146)^  2007, pp. 239240.

(147)^ ab 2007, pp. 243244.

(148)^  2007, pp. 243248.

(149)^  1986, pp. 127.

(150)^  2007, pp. 250.

(151)^  2007, pp. 251252.

(152)^  2007, pp. 252253.

(153)^ abc 2007, pp. 259.

(154)^  2007, pp. 262.

(155)^  1986, pp. 128129.

(156)^  2007, pp. 260261.

(157)^  2007, pp. 264.

(158)^ ab 2007, pp. 268.

(159)^  2007, pp. 269.

(160)^  2007, pp. 270.

(161)^  2007, pp. 271.

(162)^ ab 1986, pp. 129.

(163)^  2007, pp. 272273.

(164)^ ab 1986, pp. 130.

(165)^ ab 1997, pp. 149.

(166)^  2012, pp. 74.

(167)^  2012, pp. 4243.

(168)^  1997, pp. 150.

(169)^  2007, pp. 274275.

(170)^  2007, pp. 275.

(171)^  2007, pp. 276.

(172)^  1986, pp. 133134.

(173)^  2007, pp. 277.

(174)^  1986, pp. 135136.

(175)^  2007, pp. 277278.

(176)^ ab 1986, pp. 136.

(177)^  1986, pp. 138.

(178)^  2007, pp. 279.

(179)^  1986, pp. 195.

(180)^   1934.8.28(9) -  

(181)^ 91274 8-9p319   1994

(182)^ 10515 10-11p242

(183)^ ab 2007, pp. 284.

(184)^  2007, pp. 286.

(185)^  2007, pp. 287288.

(186)^ ab 2007, pp. 289.

(187)^  2007, pp. 289291.

(188)^ abc 2007, pp. 291.

(189)^  2007, pp. 292293.

(190)^ ab 2007, pp. 293.

(191)^ 10515 10-11p242  1994

(192)^ ab 2007, pp. 297.

(193)^ ab 2007, pp. 298.

(194)^ ab 2007, pp. 299.

(195)^  2007, pp. 300.

(196)^ ab 2007, pp. 301.

(197)^  2007, pp. 301302.

(198)^  2007, pp. 302.

(199)^  2007, pp. 302303.

(200)^  2007, pp. 304305.

(201)^  2007, pp. 302305.

(202)^ abc 2007, pp. 306307.

(203)^ ab 1986, pp. 144.

(204)^  1986, pp. 145.

(205)^  1986, pp. 145146.

(206)^  2007, pp. 307.

(207)^  2007, pp. 308.

(208)^  2007, pp. 309.

(209)^  2007, pp. 310.

(210)^  2007, pp. 310311.

(211)^  2007, pp. 311312.

(212)^  2007, pp. 313.

(213)^  2007, pp. 312315.

(214)^ ab 2007, pp. 315316.

(215)^ ab 2007, pp. 316.

(216)^  2007, pp. 318.

(217)^ ab 2007, pp. 319.

(218)^  2007, pp. 320.

(219)^  2007, pp. 322.

(220)^  2007, pp. 321322.

(221)^  2007, pp. 324325.

(222)^ ab 2007, pp. 325.

(223)^  2007, pp. 325326.

(224)^ ab 2007, pp. 328.

(225)^  2007, pp. 333.

(226)^  2007, pp. 331.

(227)^  2007, pp. 332333.

(228)^  2007, pp. 337.

(229)^  2007, pp. 337338.

(230)^ ab 2007, pp. 338339.

(231)^  2007, pp. 339340.

(232)^  2007, pp. 340341.

(233)^  2007, pp. 321.

(234)^ ab 2007, pp. 341.

(235)^  2007, pp. 343.

(236)^  2007, pp. 348.

(237)^  2007, pp. 343344.

(238)^  2007, pp. 344345.

(239)^ 西--:1924-274921999955-118doi:10.24546/81004920ISSN 04522400NAID 110000437196 

(240)^ ab 2007, pp. 93.

(241)^  2007, pp. 92.

(242)^  2005, pp. 56.

(243)^  2007, pp. 39.

(244)^  2007, pp. 347348.

(245)^ ab 1986, pp. 105.

(246)^  2007, pp. 279, 284.

(247)^  2007, pp. 324, 328329.

(248)^  2005, pp. 6768.

(249)^  2005, pp. 218219.

(250)^  2005, pp. 6667.

(251)^  2005, pp. 6869.

(252)^  2005, pp. 7169.

(253)^ 1932923西

(254)^ 

(255)^ RS "All Rits "

(256)^   198036-37

(257)^   201112-13

(258)^ 西 西 194996

(259)^  10 227

(260)^  

(261)^ 西?119973102-104ISSN 1342-9965NAID 120002909196 

(262)^  2007, pp. 4243.

(263)^ abcd 2007, pp. 109.

(264)^  2007, pp. 7374.

(265)^ 西 - 

(266)^  2007, pp. 22.

(267)^  1986, pp. 106.

(268)^ 西46619982836-853ISSN 02880180NAID 40003736918 

(269)^ ab 2007, pp. 97.

(270)^  2007, pp. 136.

(271)^  1983p.83

(272)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaabacadaeafagahaiajakalaman西 西

(273)^ 313718931212

(274)^ 464418981221

(275)^ 416719401126

(276)^ 西  Ref.A15110025800 

(277)^ 307188478

(278)^ 1476188862

(279)^ 53931895622

(280)^ 72661907916

(281)^ 205191349

(282)^ 131019161213

(283)^ 191719181223

(284)^ 2431192098

(285)^ 19281110

(286)^ 149919311228

(287)^ 3309 - 1938117

(288)^ 443819411023

(289)^ 19401125

(290)^ 4171西19401130

(291)^ ab13982131

(292)^ 145721511

(293)^ 249124622

(294)^ 2491241016

(295)^ 32081894313

(296)^ 189637

(297)^ 38151896321

(298)^ 3934189688

(299)^ 401918961119

(300)^ 7299401026

(301)^ 7303401031

(302)^  121990458 

(303)^ abc 2007, pp. 58.

(304)^  2007, pp. 45.

(305)^  2007, pp. 159.

(306)^ ab 2007, pp. 161.

(307)^  2007, pp. 338.

(308)^  19411187

(309)^  2007, pp. 168169.

(310)^ ab 2007, pp. 168.

(311)^ ab 2007, pp. 228.

(312)^  2007, pp. 231232.

(313)^  2007, pp. 233.

(314)^  2007, pp. 234.

(315)^ ab 2007, pp. 234235.

(316)^  2007, pp. 235.

(317)^  2007, pp. 235238.

(318)^  2007, pp. 71.

(319)^  2007, pp. 146.

(320)^  2007, pp. 196197.

(321)^ 西1940126  (6-105)

(322)^  2007, pp. 107.

(323)^  2007, pp. 197.

(324)^  2007, pp. 215.

(325)^  2007, pp. 216.

(326)^ abc 2007, pp. 108.

[]


 西812007ISBN 4002031292

 1952ASIN B000JBCD28

 西  1985

西 西4219901997

 西  2003ISBN 4004308291

 西 ︿2007ISBN 4166606093 

西29(23)1986101-164NAID 120005883866 

西 : 調932009207-236NAID 110007508094 

西82005207-236NAID 120006002977 

西 :361997152_a-111_aNAID 110000056959 

 : 27201221-80hdl:10682/1338NAID 120005945949 

西8TBS1973140-141 

西 1903 

   1983 162-164

  西 19821985
 / 91991ISBN 4769805195

西 西 1949
7西
 2005

[]

公職
先代
黒田清隆
日本の旗 枢密院議長
第7代:1900年10月27日 - 1903年7月13日
次代
伊藤博文
先代
浜尾新
井上毅
日本の旗 文部大臣
第14代:1898年1月12日 - 4月30日
第7代:1894年10月3日 - 1896年9月28日
次代
外山正一
蜂須賀茂韶
先代
陸奥宗光
日本の旗 外務大臣
第6代:1896年5月30日 - 9月22日
次代
大隈重信
先代
四条隆平
新潟府知事
第2代:1868年 - 1869年
次代
楠田英世
新潟県知事
議会
先代
細川潤次郎
日本の旗 貴族院副議長
第3代:1893年11月3日 - 1894年5月12日
次代
黒田長成
党職
先代
伊藤博文
立憲政友会総裁
第2代:1903年 - 1913年
次代
原敬
日本の爵位
先代
陞爵
公爵
西園寺家初代
1920年 - 1940年
次代
西園寺八郎
先代
受爵
侯爵
西園寺家初代
1884年 - 1920年
次代
陞爵