「昭和天皇」の版間の差分
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|先代 = [[大正天皇]] |
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|地位 = [[摂政 |
|地位 = [[摂政#日本における摂政|摂政]] |
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|地位在位期間 = [[1921年]][[11月25日]] - [[1926年]][[12月25日]]<br />[[大正]]10年11月25日 - 大正15年/[[昭和]]元年[[12月25日]] |
|地位在位期間 = [[1921年]][[11月25日]] - [[1926年]][[12月25日]]<br />[[大正]]10年11月25日 - 大正15年/[[昭和]]元年[[12月25日]] |
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|政府首脳官職乙 = 天皇 |
|政府首脳官職乙 = 天皇 |
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'''昭和天皇'''︵しょうわてんのう、[[1901年]]︿[[明治]]34年﹀[[4月29日]] - [[1989年]]︿[[昭和]]64年﹀[[1月7日]]︶は、[[日本]]の第124代[[天皇]]{{efn|代数<!-- ×﹁世数﹂︵意味が異なります︶-->は[[皇統譜]]による。}}︵在位: [[1926年]]︿[[大正]]15年/昭和元年﹀[[12月25日]] - [[1989年]]︿昭和64年﹀[[1月7日]]︶。[[諱]]は'''裕仁'''︵ひろひと︶、[[御称号]]は'''迪宮'''︵みちのみや︶<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10214587 皇室略牒 宮内省図書寮]</ref>。[[お印]]は'''[[竹|若竹]]'''︵わかたけ︶。
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'''昭和天皇'''︵しょうわてんのう、[[1901年]]︿[[明治]]34年﹀[[4月29日]] - [[1989年]]︿[[昭和]]64年﹀[[1月7日]]︶は、[[日本]]の第124代[[天皇]]{{efn|代数<!-- ×﹁世数﹂︵意味が異なります︶-->は[[皇統譜]]による。}}︵在位: [[1926年]]︿[[大正]]15年/昭和元年﹀[[12月25日]] - [[1989年]]︿昭和64年﹀[[1月7日]]︶。[[諱]]は'''裕仁'''︵ひろひと︶、[[御称号]]は'''迪宮'''︵みちのみや︶<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10214587 皇室略牒 宮内省図書寮]</ref>。[[お印]]は'''[[竹|若竹]]'''︵わかたけ︶。
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[[1921年]]︵大正10年︶[[11月25日]]から1926年︵大正15年/昭和元年︶12月25日までの5年余りにわたって、父帝・[[大正天皇]]の健康状態の悪化により、[[摂政]]となり、自身の天皇[[即位]]まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に[[第二次世界大戦]]を挟み、[[大日本帝国憲法]]下の﹁[[大日本帝国憲法第4条|統治権の総攬者]]﹂としての天皇と[[日本国憲法]]下の﹁[[日本国憲法第1条|象徴天皇]]﹂の両方を経験した唯一の[[天皇]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87-122005#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典 昭和天皇︵コトバンク︶]</ref>。
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[[1921年]]︵大正10年︶[[11月25日]]から1926年︵大正15年/昭和元年︶12月25日までの5年余りにわたって、父帝・[[大正天皇]]の健康状態の悪化により、[[摂政]]となり、自身の天皇[[即位]]まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に[[第二次世界大戦]]を挟み、[[大日本帝国憲法]]下の﹁[[大日本帝国憲法第4条|統治権の総攬者]]﹂としての天皇と[[日本国憲法]]下の﹁[[日本国憲法第1条|象徴天皇]]﹂の両方を経験した唯一の[[天皇]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87-122005#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典 昭和天皇︵コトバンク︶]</ref>。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。
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== 人物 == |
== 人物 == |
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[[1926年]](大正15年/[[昭和]]元年)[[12月25日]]、大正天皇の[[崩御]]に伴い[[皇位継承]]、第124代天皇として[[践祚]]する。 |
[[1926年]](大正15年/[[昭和]]元年)[[12月25日]]、大正天皇の[[崩御]]に伴い[[皇位継承]]、第124代天皇として[[践祚]]する。 |
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大日本帝国憲法下において﹁國ノ[[元首]]ニシテ統治權ヲ總攬︵[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]︶﹂と規定された[[立憲君主]]たる地位にあった。[[歴史家|歴史学者]]の多くは、﹁戦前の昭和天皇は憲法上最高決定権を有していたものの、実際には[[日本国政府|政府]]が決定した方針を承認するのみだった﹂と指摘している<ref name="britanica">[https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87-122005 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典﹁昭和天皇﹂︵コトバンク︶]</ref>。
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[[大日本帝国憲法]]下において﹁國ノ[[元首]]ニシテ統治權ヲ總攬︵[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]︶﹂と規定された[[立憲君主]]たる地位にあった。[[歴史家|歴史学者]]の多くは、﹁戦前の昭和天皇は憲法上最高決定権を有していたものの、実際には[[日本国政府|政府]]が決定した方針を承認するのみだった﹂と指摘している<ref name="britanica">[https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87-122005 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典﹁昭和天皇﹂︵コトバンク︶]</ref>。
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但し、憲法が通常想定する大臣による輔弼が機能し得ない緊急的例外的局面([[二・二六事件]]における反乱軍鎮圧や、第二次世界大戦の[[日本の降伏]]における[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対する[[ポツダム宣言]]受諾決定など<ref name="niponica">[https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87-122005#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) 昭和天皇(コトバンク)]</ref>)については、自ら[[天皇大権]]を行使した。 |
但し、憲法が通常想定する大臣による輔弼が機能し得ない緊急的例外的局面([[二・二六事件]]における反乱軍鎮圧や、第二次世界大戦の[[日本の降伏]]における[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対する[[ポツダム宣言]]受諾決定など<ref name="niponica">[https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87-122005#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) 昭和天皇(コトバンク)]</ref>)については、自ら[[天皇大権]]を行使した。 |
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[[1971年]](昭和46年)には天皇として初めて欧州各国を訪問し、[[1975年]](昭和50年)には同じく天皇として初めて[[アメリカ合衆国]]を訪問した(いずれの外国訪問にも[[香淳皇后]]を同伴)。 |
[[1971年]](昭和46年)には天皇として初めて欧州各国を訪問し、[[1975年]](昭和50年)には同じく天皇として初めて[[アメリカ合衆国]]を訪問した(いずれの外国訪問にも[[香淳皇后]]を同伴)。 |
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[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]に崩御。これに伴い、第1皇男子の皇太子明仁親王が[[皇位継承|皇位を継承]]して第125代天皇に践祚した。 |
[[1989年]]︵昭和64年︶[[1月7日]]に崩御。これに伴い、第1皇男子の皇太子[[明仁|明仁親王]]が[[皇位継承|皇位を継承]]して第125代天皇に践祚した。
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第26代[[継体天皇]]以降の明確な記録が残る歴代天皇の中で在位期間が最も長く︵62年及び14日間︶、在位中に崩御した天皇としては最高齢︵宝算87︶である{{efn|[[2021年]]︵[[令和]]3年︶[[9月2日]]、退位し[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]となっていた[[明仁]]が、父である昭和天皇に並んで歴代最長寿の天皇となった<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210901/k00/00m/040/371000c 上皇さま 誕生からの日数、最長寿の昭和天皇に並ぶ3万2031日] [[毎日新聞]]</ref>。}}。
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第26代[[継体天皇]]以降の明確な記録が残る歴代天皇の中で在位期間が最も長く︵62年及び14日間︶、在位中に崩御した天皇としては最高齢︵宝算87︶である{{efn|[[2021年]]︵[[令和]]3年︶[[9月2日]]、退位し[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]となっていた[[明仁]]が、父である昭和天皇に並んで歴代最長寿の天皇となった<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210901/k00/00m/040/371000c 上皇さま 誕生からの日数、最長寿の昭和天皇に並ぶ3万2031日] [[毎日新聞]]</ref>。}}。
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|File:Emperor Taishō.jpg|父・[[大正天皇]] |
|File:Emperor Taishō.jpg|父・[[大正天皇]] |
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|File:Teimei.jpg|母・[[貞明皇后]] |
|File:Teimei.jpg|母・[[貞明皇后]] |
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|File:Children of Yoshihito (嘉仁), the Crown Prince of Japan c.1906.jpg|左から、迪宮裕仁親王(昭和天皇)、[[高松宮宣仁親王|光宮宣仁親王]](高松宮)、[[秩父宮雍仁親王|淳宮雍仁親王]](秩父宮)<br>([[1906年]]、満5歳) |
|File:Children of Yoshihito (嘉仁), the Crown Prince of Japan c.1906.jpg|左から、迪宮裕仁親王(昭和天皇)、[[高松宮宣仁親王|光宮宣仁親王]](高松宮)、[[秩父宮雍仁親王|淳宮雍仁親王]](秩父宮)<br />([[1906年]]、満5歳) |
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=== 摂政時代 === |
=== 摂政時代 === |
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[[原敬暗殺事件]]に続き[[高橋是清]][[内閣総理大臣]]︵兼[[大蔵大臣]]︶が組閣した1921年︵大正10年︶11月、皇太子は[[ |
[[原敬暗殺事件]]に続き[[高橋是清]][[内閣総理大臣]](兼[[大蔵大臣]])が組閣した1921年(大正10年)11月、皇太子は[[陸軍特別大演習]]の統監を代行した<ref name="kanpo19211111">大正10年宮内省告示第36号(『官報』第2784号、大正10年11月11日)({{NDLJP|2954899}})</ref>。直後の[[11月25日]]、大正天皇の「久シキニ亘ル疾患」を理由に、満20歳([[数え年]]21歳)で[[摂政]]に就任し<ref name="kanpo19211125-gogai">大正10年11月25日「[[詔書]]」、大正10年11月25日官報号外({{NDLJP|2954911/16}})</ref>、以降は{{読み仮名|'''[[摂政宮]]'''|せっしょうみや}}と称された。旧皇室典範下で、天皇に代わって[[大権]]を行使する[[皇族]]摂政に就任したのは、裕仁親王のみである。 |
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当時は[[第一次世界大戦|戦後処理]]の時期にあたり、1921年には[[四カ国条約|太平洋に関する四国条約]]、[[1922年]]には[[九カ国条約|支那に関する九国条約]]、[[山東懸案解決に関する条約]]、[[ワシントン海軍軍縮条約]]、日波通商航海条約に調印し{{efn|「波」は[[ポーランド]](波斯・[[ペルシャ]]・[[イラン]]とは異なる)。ポーランドは、1919年から1921年の[[ポーランド・ソビエト戦争]]で、[[レーニン]]が率いた[[ボリシェビキ]]軍に敗退していた。}}、台湾事業公債、関東州事業公債を創設した{{efn|1922年には、[[起訴便宜主義#歴史|起訴便宜主義]]の法制化や、外国人も対象とした[[破産法#沿革|破産法]]の新設などが行われた。また、3月には私学の[[華族]]学校の女子[[学習院]]の組織が『[{{NDLDC|2955000}} 女子学習院官制]』により官営化され、9月28日には、[[納采の儀]]などの儀式が執り行われて、良子女王との婚約が正式に告示された<ref>大正11年宮内省告示第31号(『官報』号外、大正11年9月28日)({{NDLJP|2955167/14}})</ref>。}}。[[1923年]](大正12年)4月には、戦艦「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」で[[日本統治時代の台湾|台湾]]を視察する('''[[台湾行啓]]''')。 |
当時は[[第一次世界大戦|戦後処理]]の時期にあたり、1921年には[[四カ国条約|太平洋に関する四国条約]]、[[1922年]]には[[九カ国条約|支那に関する九国条約]]、[[山東懸案解決に関する条約]]、[[ワシントン海軍軍縮条約]]、日波通商航海条約に調印し{{efn|「波」は[[ポーランド]](波斯・[[ペルシャ]]・[[イラン]]とは異なる)。ポーランドは、1919年から1921年の[[ポーランド・ソビエト戦争]]で、[[レーニン]]が率いた[[ボリシェビキ]]軍に敗退していた。}}、台湾事業公債、関東州事業公債を創設した{{efn|1922年には、[[起訴便宜主義#歴史|起訴便宜主義]]の法制化や、外国人も対象とした[[破産法#沿革|破産法]]の新設などが行われた。また、3月には私学の[[華族]]学校の女子[[学習院]]の組織が『[{{NDLDC|2955000}} 女子学習院官制]』により官営化され、9月28日には、[[納采の儀]]などの儀式が執り行われて、良子女王との婚約が正式に告示された<ref>大正11年宮内省告示第31号(『官報』号外、大正11年9月28日)({{NDLJP|2955167/14}})</ref>。}}。[[1923年]](大正12年)4月には、戦艦「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」で[[日本統治時代の台湾|台湾]]を視察する('''[[台湾行啓]]''')。 |
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[[1973年]](昭和48年)[[5月26日]]、認証式のため参内した[[防衛庁長官]](現在の[[防衛大臣]]職に相当)[[増原惠吉]]が内奏時の会話の内容を漏らし、「天皇の政治利用」と批判された。最終的に増原長官は、わずか3日後の[[5月29日]]に辞任することとなった('''[[増原内奏問題]]''')。 |
[[1973年]](昭和48年)[[5月26日]]、認証式のため参内した[[防衛庁長官]](現在の[[防衛大臣]]職に相当)[[増原惠吉]]が内奏時の会話の内容を漏らし、「天皇の政治利用」と批判された。最終的に増原長官は、わずか3日後の[[5月29日]]に辞任することとなった('''[[増原内奏問題]]''')。 |
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[[1976年]]︵昭和51年︶には、﹁天皇陛下御在位五十年記念事業﹂として[[立川飛行場]]跡地︵東京都立川市︶に﹁[[国営昭和記念公園]]﹂ |
[[1976年]]︵昭和51年︶には、﹁天皇陛下御在位五十年記念事業﹂として[[立川飛行場]]跡地︵東京都立川市︶に﹁[[国営昭和記念公園]]﹂設置が決まった︵開園は1983年︶。11月10日に[[日本武道館]]で[[天皇陛下御在位五十年記念式典 (昭和天皇)|天皇陛下御在位五十年記念式典]]が挙行され、同日に記念切手が発行。また[[12月23日]]より︵当時の[[明仁|皇太子明仁親王]]の誕生日︶記念硬貨が発行され、発行枚数は7000万枚に上った。
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[[1981年]]︵昭和56年︶、昭和天皇は80歳になるのを機に、新年一般参賀にて初めて﹁お言葉﹂を述べ、以後恒例となった{{efn|同年9月に、記者から恒例化について質問を受け、天皇は個人としての感想については言葉を濁しつつ﹁関係者に検討させ、その答えをもって決定したい﹂と述べた<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] pp.315-316</ref>。}}。同年 |
[[1981年]]︵昭和56年︶、昭和天皇は80歳になるのを機に、新年一般参賀にて初めて﹁お言葉﹂を述べ、以後恒例となった{{efn|同年9月に、記者から恒例化について質問を受け、天皇は個人としての感想については言葉を濁しつつ﹁関係者に検討させ、その答えをもって決定したい﹂と述べた<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] pp.315-316</ref>。}}。同年2月24日、来日した[[ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]と会見した。
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[[1985年]]︵昭和60年︶7月12日、第108代[[後水尾天皇]]と並び歴代最高齢に達した際、 |
[[1985年]]︵昭和60年︶7月12日、第108代[[後水尾天皇]]と並び歴代最高齢に達した際、自らの意向により祝賀行事などは行われなかったが、側近らによるお祝いで、好物の[[鰻重]]<ref>{{Cite web|和書|title=上皇さま 歴代天皇の中で最高齢に|url=https://web.archive.org/web/20210901205802/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210902/k10013238001000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-09-02|last=日本放送協会}}</ref>を食べたという。
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[[1986年]]︵昭和61年︶4月29日、[[両国国技館]]で |
[[1986年]]︵昭和61年︶4月29日、[[両国国技館]]で[[天皇陛下御在位六十年記念式典 (昭和天皇)|天皇陛下御在位六十年記念式典]]が挙行され{{efn|[[明仁|皇太子明仁親王]]と、[[常陸宮]]夫妻は同席したが、[[香淳皇后]]は[[腰椎]][[骨折]]による身体不自由状態で、[[上皇后美智子|美智子皇太子妃]]は体調不良で、各・欠席した。}}、第26代[[継体天皇]]以降の歴代天皇で在位最長を記録した。
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{{Gallery |
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=== 晩年 === |
=== 晩年 === |
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[[ファイル:Reagan hirohito.jpg|thumb|180px|1983年︵昭和58年︶11月9日、国賓として来日した[[アメリカ合衆国大統領]][[ロナルド・レーガン]]夫妻を[[迎賓館赤坂離宮|赤坂迎賓館]]に迎えての歓迎式典に臨む昭和天皇。]]
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[[ファイル:Reagan hirohito.jpg|thumb|180px|1983年︵昭和58年︶11月9日、国賓として来日した[[アメリカ合衆国大統領]][[ロナルド・レーガン]]夫妻を[[迎賓館赤坂離宮|赤坂迎賓館]]に迎えての歓迎式典に臨む昭和天皇。]]
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[[1987年]]︵昭和62年︶[[4月29日]]、昭和天皇は[[天皇誕生日]]︵旧‥天長節︶の祝宴 |
[[1987年]]︵昭和62年︶[[4月29日]]、昭和天皇は86歳での[[天皇誕生日]]︵旧‥天長節︶の祝宴会食中に、[[嘔吐]]症状で中座した{{refnest|group=注釈|このとき[[後藤田正晴]][[内閣官房長官]]が同席しており、妻から[[山本悟 (侍従長)|山本悟]]宮内庁次長へ昭和天皇の異変を伝えさせている<ref>{{Cite book|title=私の後藤田正晴|year=2007|publisher=講談社|others=同・編纂委員会 編|page=382}}</ref>。}}。8月以降になり那須御用邸での吐瀉の繰り返しや、体重が減少するなど体調不良が顕著になった。検査の結果、[[十二指腸]]から[[小腸]]の辺りに通過障害が見られ、﹁[[イレウス|腸閉塞]]﹂と判明した。食物を腸へ通過させる[[バイパス]][[手術]]を受ける必要性があるため、9月22日に[[宮内庁病院]]で[[森岡恭彦]]︵[[東京大学医学部附属病院]]院長︶執刀により、歴代天皇で初めての開腹手術を受けた。病名は﹁慢性膵臓炎﹂と発表された︵後述︶。12月には公務に復帰し、回復したかに見えた。
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しかし、[[1988年]](昭和63年)になると昭和天皇の体重はさらに激減し、[[8月15日]]の[[全国戦没者追悼式]]を最後に天皇としての公式行事出席を休止した。[[9月8日]]、那須御用邸から |
しかし、[[1988年]](昭和63年)になると昭和天皇の体重はさらに激減し、[[8月15日]]の[[全国戦没者追悼式]]を最後に天皇としての公式行事出席を休止した。[[9月8日]]、那須御用邸から帰京する際に、[[原宿駅]]側部乗降場(皇室専用ホーム)ほかで映されたのが最後の公の姿となった。 |
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9月18日には[[大相撲]]9月場所で天覧相撲が予定されていたが、高熱が続くため急遽中止となった。その翌19日の午後10時頃、大量[[吐血]]により救急車が出動、緊急[[輸血]]が始まった。以後は上部消化管からの断続的出血に伴う吐血・下血を繰り返し、さらに[[胆道]]系炎症に閉塞性[[黄疸]]、[[尿毒症]]を併発し、一進一退の状態となった。報道各社は数か月間﹁天皇陛下ご重体﹂の報道を続けた。
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[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]午前6時33分、昭和天皇は皇居吹上御所において[[宝算]]87歳をもって[[崩御]]した。 |
[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]午前6時33分、昭和天皇は皇居吹上御所において[[宝算]]87歳をもって[[崩御]]した。 |
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{{main|昭和天皇崩御}} |
{{main|昭和天皇崩御}} |
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同年[[2月24日]]、[[新宿御苑]]において日本国憲法 |
同年[[2月24日]]、[[新宿御苑]]において日本国憲法および皇室典範の下で初めての[[大喪の礼]]が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点あまりが[[副葬品]]としてともに納められたとされる<ref>﹃[[読売新聞]]﹄1989年2月23日‥﹁昭和天皇﹂副葬品明らかに ご採集の貝標本、大相撲番付表、ご愛用顕微鏡</ref>。
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{{main|大喪の礼#昭和天皇}} |
{{main|大喪の礼#昭和天皇}} |
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![[御称号]]及び<br>[[諱]]・[[身位]] |
![[御称号]]及び<br />[[諱]]・[[身位]] |
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[[7月23日]](満35歳没) |
[[7月23日]](満35歳没) |
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| style="white-space:nowrap;background-color:#FFC0CB" |第1皇女子<br />(第1子) |
| style="white-space:nowrap;background-color:#FFC0CB" |第1皇女子<br />(第1子) |
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|[[盛厚王]]︵[[東久邇宮]]家︶と結婚後、<br>盛厚王妃成子内親王となる。<br />戦後の[[皇籍離脱]]後は、<br>'''[[東久邇成子]]'''︵姓読み‥ひがしくに︶となる。<br>子女‥3男2女︵5人︶。
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|[[盛厚王]]︵[[東久邇宮]]家︶と結婚後、<br />盛厚王妃成子内親王となる。<br />戦後の[[皇籍離脱]]後は、<br />'''[[東久邇成子]]'''︵姓読み‥ひがしくに︶となる。<br />子女‥3男2女︵5人︶。
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| [[ファイル:Princess Sachiko.jpg|70px]] |
| [[ファイル:Princess Sachiko.jpg|70px]] |
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[[3月8日]](満0歳没) |
[[3月8日]](満0歳没) |
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| style="text-align:center;background-color:#FFE4E1" |第2皇女子<br />(第2子) |
| style="text-align:center;background-color:#FFE4E1" |第2皇女子<br />(第2子) |
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|'''[[久宮祐子内親王]]'''、夭折。<br>子女:無し。 |
|'''[[久宮祐子内親王]]'''、夭折。<br />子女:無し。 |
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| [[ファイル:A0287992 1472024.jpg|70px]] |
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[[5月26日]](満59歳没) |
[[5月26日]](満59歳没) |
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| style="text-align:center;background-color:#FFC0CB" |第3皇女子<br />(第3子) |
| style="text-align:center;background-color:#FFC0CB" |第3皇女子<br />(第3子) |
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| style="white-space:nowrap;" |[[鷹司平通]]と結婚<br />皇籍離脱後、'''[[鷹司和子]]'''︵姓読み‥たかつかさ︶となる。<br>︵[[皇室典範]]第12条{{refnest|name="JILArt.12"|[[皇室典範]]︵昭和二十二年法律第三号︶<ref group="注釈">﹁第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。﹂</ref>}}の規定による︶<br>子女‥無し、養子‥1男︵1人︶。
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| style="white-space:nowrap;" |[[鷹司平通]]と結婚<br />皇籍離脱後、'''[[鷹司和子]]'''︵姓読み‥たかつかさ︶となる。<br />︵[[皇室典範]]第12条{{refnest|name="JILArt.12"|[[皇室典範]]︵昭和二十二年法律第三号︶<ref group="注釈">﹁第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。﹂</ref>}}の規定による︶<br />子女‥無し、養子‥1男︵1人︶。
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| [[ファイル:Ikeda Atsuko.JPG|70px]] |
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|''存命中''({{年数|1931|3|7}}歳) |
|''存命中''({{年数|1931|3|7}}歳) |
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| style="text-align:center;background-color:#FFC0CB" |第4皇女子<br />(第4子) |
| style="text-align:center;background-color:#FFC0CB" |第4皇女子<br />(第4子) |
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|[[池田隆政]]と結婚<br />皇籍離脱後、'''[[池田厚子]]'''(姓読み:いけだ)となる。<br>([[皇室典範]]第12条<ref name="JILArt.12" />の規定による)<br>子女:無し。 |
|[[池田隆政]]と結婚<br />皇籍離脱後、'''[[池田厚子]]'''(姓読み:いけだ)となる。<br />([[皇室典範]]第12条<ref name="JILArt.12" />の規定による)<br />子女:無し。 |
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| [[ファイル:Emperor Akihito (2016).jpg|70px]] |
| [[ファイル:Emperor Akihito (2016).jpg|70px]] |
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|''存命中''({{年数|1933|12|23}}歳) |
|''存命中''({{年数|1933|12|23}}歳) |
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| style="background-color:#ADD8E6" |第1[[皇子|皇男子]]<br />(第5子) |
| style="background-color:#ADD8E6" |第1[[皇子|皇男子]]<br />(第5子) |
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| style="text-align:left;background-color:#e6b422" |[[正田美智子]]︵姓読み‥しょうだ︶と結婚<br />︵→[[皇太子妃]]→[[皇后]]→[[上皇后]]︶<br />'''[[明仁]]'''︵'''第125代天皇'''︶<br />[[1989年]]︵昭和64年︶[[1月7日]]‥<br>父である昭和天皇の崩御に伴い、<br>即位︵[[皇位継承]]‥践祚︶。<br />[[2019年]]︵[[平成]]31年︶[[4月30日]]に[[退位]]︵[[明仁から徳仁への皇位継承|譲位]]︶、
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| style="text-align:left;background-color:#e6b422" |[[正田美智子]]︵姓読み‥しょうだ︶と結婚<br />︵→[[皇太子妃]]→[[皇后]]→[[上皇后]]︶<br />'''[[明仁]]'''︵'''第125代天皇'''︶<br />[[1989年]]︵昭和64年︶[[1月7日]]‥<br />父である昭和天皇の崩御に伴い、<br />即位︵[[皇位継承]]‥践祚︶。<br />[[2019年]]︵[[平成]]31年︶[[4月30日]]に[[退位]]︵[[明仁から徳仁への皇位継承|譲位]]︶、
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'''[[上皇 (天皇退位特例法)]]''': |
'''[[上皇 (天皇退位特例法)]]''': |
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|''存命中''({{年数|1935|11|28}}歳) |
|''存命中''({{年数|1935|11|28}}歳) |
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| style="background-color:#ADD8E6" |第2皇男子<br />(第6子) |
| style="background-color:#ADD8E6" |第2皇男子<br />(第6子) |
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|[[津軽華子]]︵姓読み‥つがる︶と結婚<br>︵→[[正仁親王妃華子]]︶。<br />'''[[常陸宮正仁親王]]'''︵'''[[常陸宮]]'''当主︶<br />[[皇位継承]]順位第3位<ref group="注釈">第1位‥(皇嗣) [[秋篠宮文仁親王]]︵53歳︶、第2位‥[[悠仁親王]]︵12歳︶、第4位以降は不在。</ref>。<br>子女‥無し。
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|[[津軽華子]]︵姓読み‥つがる︶と結婚<br />︵→[[正仁親王妃華子]]︶。<br />'''[[常陸宮正仁親王]]'''︵'''[[常陸宮]]'''当主︶<br />[[皇位継承]]順位第3位<ref group="注釈">第1位‥(皇嗣) [[秋篠宮文仁親王]]︵53歳︶、第2位‥[[悠仁親王]]︵12歳︶、第4位以降は不在。</ref>。<br />子女‥無し。
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| [[ファイル:Shimazu Takako (1950, cropped).jpg|70px]] |
| [[ファイル:Shimazu Takako (1950, cropped).jpg|70px]] |
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|''存命中''({{年数|1939|3|2}}歳) |
|''存命中''({{年数|1939|3|2}}歳) |
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| style="text-align:center;background-color:#FFC0CB" |第5皇女子<br />(第7子) |
| style="text-align:center;background-color:#FFC0CB" |第5皇女子<br />(第7子) |
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|[[島津久永]]と結婚<br />皇籍離脱後、'''[[島津貴子]]'''(姓読み:しまづ)となる。<br>([[皇室典範]]第12条<ref name="JILArt.12" />の規定による)<br>子女:1男(1人)。 |
|[[島津久永]]と結婚<br />皇籍離脱後、'''[[島津貴子]]'''(姓読み:しまづ)となる。<br />([[皇室典範]]第12条<ref name="JILArt.12" />の規定による)<br />子女:1男(1人)。 |
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|} |
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444行目: | 444行目: | ||
=== 乃木希典による教育 === |
=== 乃木希典による教育 === |
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; 乃木の薫陶 |
; 乃木の薫陶 |
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[[1912年]]︵[[明治]]45年︶[[7月30日]]の祖父・[[明治天皇]] |
[[1912年]]︵[[明治]]45年︶[[7月30日]]の祖父・[[明治天皇]]が崩御。同年[[9月13日]]の大喪当日に陸軍大将・[[乃木希典]]は、夫人[[乃木静子]]と共に自宅で[[殉死]]し波紋を呼んだ。晩年の乃木は[[学習院]]院長を務め、少年時代の迪宮裕仁親王︵のちの昭和天皇︶にも影響を与えた。乃木は直接的な言葉よりも﹁暗示﹂や﹁感化﹂によって、迪宮に将来の天皇としての自覚を持たせようと試みたとされる<ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.392</ref>。
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乃木の﹁雨の日も︵馬車を使わずに︶[[外套]]を着て徒歩で登校するように﹂という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になったあとも記者会見の中で度々紹介している<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.175</ref><ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.266</ref><ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] pp.330-331</ref>。このように、複数回個人名を挙げたことは、極めて異例であった<ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.392-393</ref>。
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乃木の﹁雨の日も︵馬車を使わずに︶[[外套]]を着て徒歩で登校するように﹂という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になったあとも記者会見の中で度々紹介している<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.175</ref><ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.266</ref><ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] pp.330-331</ref>。このように、複数回個人名を挙げたことは、極めて異例であった<ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.392-393</ref>。
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鈴木 |
[[鈴木たか]](足立たか)の回想によれば、実際に[[赤坂御用地|青山御所]]から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった<ref name="yomi19890107-kiseki">1989年1月7日『読売新聞』「昭和天皇のご生涯 戦争の暗い時代から平和の象徴へ多難な軌跡」</ref><ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.393</ref>。鈴木孝によれば、側近が「乃木大将の拝謁」を報告した際には「院長閣下と申し上げなきゃいけない」と注意したという<ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.394</ref>。 |
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一方で乃木は、皇位継承者たる迪宮は常に最上位でなければならないという考えのもと、弟宮たちとは明確に区別した。また乃木の指示で、迪宮ら三親王も出席する学習院の朝礼の際には[[教育勅語]]の暗唱に続いて、生徒たちに﹁最高の望みは何か﹂と問い、﹁天皇陛下のために死ぬこと﹂と唱和させた<ref name="sasaki2005-400">[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.400</ref>。また乃木は月に数度、院長室に迪宮を招いて皇孫としての心得や軍人時代の経験などを語り聞かせていた<ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.401</ref>。
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一方で乃木は、皇位継承者たる迪宮は常に最上位でなければならないという考えのもと、弟宮たちとは明確に区別した。また乃木の指示で、迪宮ら三親王も出席する学習院の朝礼の際には[[教育勅語]]の暗唱に続いて、生徒たちに﹁最高の望みは何か﹂と問い、﹁天皇陛下のために死ぬこと﹂と唱和させた<ref name="sasaki2005-400">[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.400</ref>。また乃木は月に数度、院長室に迪宮を招いて皇孫としての心得や軍人時代の経験などを語り聞かせていた<ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.401</ref>。
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1912年︵[[大正]]元年︶[[9月11日]]︵9日、10日<ref>[[#山田 1941|山田 1941]] p.6︵{{NDLJP|1101006/31}}︶</ref>など他説あり︶、参内した乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意とともに、自ら写本した﹃[[中朝事実]]﹄を与えた<ref name="yomi19890107-kiseki"/>。乃木の﹁これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように﹂との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は﹁院長閣下はどこかに行かれるのですか?﹂と質問したという。
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1912年︵[[大正]]元年︶[[9月11日]]︵9日、10日<ref>[[#山田 1941|山田 1941]] p.6︵{{NDLJP|1101006/31}}︶</ref>など他説あり︶、参内した乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意とともに、自ら写本した﹃[[中朝事実]]﹄を与えた<ref name="yomi19890107-kiseki"/>。乃木の﹁これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように﹂との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は﹁院長閣下はどこかに行かれるのですか?﹂と質問したという。
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[[9月13日]] |
[[9月13日]]大喪当日の乃木夫妻の殉死は、翌14日朝に皇太子と2人の弟宮たちには、養育掛長だった[[丸尾錦作]]から知らされ、その辞世の歌も接し涙を流した<ref>﹃昭和天皇実録・第一﹄p.598</ref><ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.285</ref>。丸尾によると、皇太子はこの時、涙ながらに﹁乃木院長が死なれた﹂﹁ああ、残念である﹂とつぶやいた<ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.286</ref>。
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乃木が与えた『中朝事実』が、のちに[[三種の神器]]を重要視する考え方に影響を与えたとの意見もある<ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.397</ref>。 |
乃木が与えた『中朝事実』が、のちに[[三種の神器]]を重要視する考え方に影響を与えたとの意見もある<ref>[[#佐々木 2005|佐々木 2005]] p.397</ref>。 |
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しかし11月、[[元老]]・[[山縣有朋]]が﹁良子女王の家系︵[[島津氏|島津家]]︶に[[色盲]][[遺伝]]がある﹂として婚約破棄を進言した。山縣は、[[西園寺公望]]や[[内閣総理大臣|首相]]の[[原敬]]と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意思が尊重され、[[1921年]]︵大正10年︶2月10日に[[宮内省]]から﹁婚約に変更なし﹂と発表された。
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しかし11月、[[元老]]・[[山縣有朋]]が﹁良子女王の家系︵[[島津氏|島津家]]︶に[[色盲]][[遺伝]]がある﹂として婚約破棄を進言した。山縣は、[[西園寺公望]]や[[内閣総理大臣|首相]]の[[原敬]]と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意思が尊重され、[[1921年]]︵大正10年︶2月10日に[[宮内省]]から﹁婚約に変更なし﹂と発表された。
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事件の責任を取って[[宮内大臣]][[中村雄次郎]]が辞任し、山縣も[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長など全官職の辞職願を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して、山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月1日、山縣は失意のうちに病 |
事件の責任を取って[[宮内大臣]][[中村雄次郎]]が辞任し、山縣も[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長など全官職の辞職願を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して、山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月1日、山縣は失意のうちに病没した。
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=== 関東大震災と婚礼の儀の延期 === |
=== 関東大震災と婚礼の儀の延期 === |
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[[ファイル:Emperor Hirohito and empress Kojun of japan.JPG|thumb|180px|1924年(大正13年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と妃良子女王]] |
[[ファイル:Emperor Hirohito and empress Kojun of japan.JPG|thumb|180px|1924年(大正13年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と妃良子女王]] |
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{{seealso|関東大震災}} |
{{seealso|関東大震災}} |
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[[1923年]]︵大正12年︶[[9月1日]]発生の[[関東大震災]]では、霞関離宮が修理中 |
[[1923年]]︵大正12年︶[[9月1日]]発生の[[関東大震災]]では、霞関離宮︵現‥国会前庭部︶が修理中だったため、[[箱根]]︵震災で大きな被害を受けた︶に避暑も兼ね行啓する予定だったが、当時の首相・[[加藤友三郎]]が急逝し、政治空白が発生したため、東京の宮城︵[[皇居]]︶に留まり命拾いをした。1973年︵昭和48年︶9月に昭和天皇は当時を振り返り、記者懇談で﹁加藤が守ってくれた﹂と語っている<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.191</ref>。
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地震における東京の惨状を視察した皇太子裕仁親王(当時[[摂政]])は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して翌年1月に延期した。 |
地震における東京各地の惨状を視察した皇太子裕仁親王(当時[[摂政]])は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して翌年1月に延期した。 |
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後年、[[1981年]](昭和56年)9月の取材で、昭和天皇は関東大震災について「惨憺たる様子に対して、非常に感慨無量でありました」と述懐している<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.321</ref>。また、同会見では、甚大な被害に加え、皇族にも死者が出た{{efn|[[関東大震災]]では[[山階宮武彦王]]の妃[[武彦王妃佐紀子女王|佐紀子女王]]、[[閑院宮]]家の[[寛子女王]]、[[東久邇宮]]家の[[師正王]]が薨去した。}}ことから、9月1日を「慎みの日」としていることを明かしている<ref name="#1">[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.322</ref>。 |
後年、[[1981年]](昭和56年)9月の取材で、昭和天皇は関東大震災について「惨憺たる様子に対して、非常に感慨無量でありました」と述懐している<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.321</ref>。また、同会見では、甚大な被害に加え、皇族にも死者が出た{{efn|[[関東大震災]]では[[山階宮武彦王]]の妃[[武彦王妃佐紀子女王|佐紀子女王]]、[[閑院宮]]家の[[寛子女王]]、[[東久邇宮]]家の[[師正王]]が薨去した。}}ことから、9月1日を「慎みの日」としていることを明かしている<ref name="#1">[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.322</ref>。 |
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=== 二・二六事件 === |
=== 二・二六事件 === |
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{{seealso|二・二六事件}} |
{{seealso|二・二六事件}} |
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1936年︵昭和11年︶[[2月26日]]に起きた[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[皇道派]]青年[[将校]]らによる[[二・二六事件]]の際、[[侍従武官]]長・本庄繁[[陸軍大将]]が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわに﹁朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す︵許す︶べきものありや︵あるというのか︶﹂﹁老臣を悉く倒すは、朕の首を[[真綿]]で締むるに等しき行為﹂と述べ、﹁朕自ら[[近衛師団]]を率ゐこれが鎮圧に当らん﹂と発言したとされる<ref>﹃本庄繁日記﹄昭和11年︵1936年︶2月27日付︵原書房︶</ref>。
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このことは﹁ |
このことは﹁君臨すれども統治せず﹂の[[立憲君主制|立憲君主]]の立場を忠実に採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して、初めて自らの意思を述べたともいえる。この天皇の意向は明確に軍首脳に伝わり、決起部隊を[[反乱軍]]として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。
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このときの発言について、 |
このときの発言について、1945年︵昭和20年︶[[第二次世界大戦||大戦]]の[[日本の降伏|終戦決定]]での、いわゆる“聖断”と合わせ、後年﹁立憲君主としての立場︵一線︶を超えた行為だった﹂﹁あのときはまだ若かったから﹂と語ったといわれている。この事件との関連は不明ながら、1944年︵昭和19年︶に長男[[上皇明仁|継宮明仁親王]]が満10歳になり、﹁[[皇族身位令]]﹂の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、父親たる自身の意思により、任官を取り止めさせている。また明仁親王の教育係として、帝国陸軍の軍人を就けることを、特に拒否している。
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なお2019年に[[NHKスペシャル]]により発見された[[海軍軍令部]]の極秘資料によれば[[日本海軍|海軍]]は事件前から[[二・二六事件| |
なお2019年に[[NHKスペシャル]]取材班により発見された[[海軍軍令部]]の極秘資料によれば、[[大日本帝国海軍|海軍]]は事件前から[[二・二六事件|2・26事件]]の予兆を把握しており、事件発生直後に天皇の下に駆け付けた[[旧皇族|皇族]]で[[軍令部総長]]の[[伏見宮博恭王]]を通じ、海軍が天皇の命により天皇側の重要な戦力として事件の初期から反乱軍を牽制するように動いていたことが明らかになっている<ref>2019年8月15日(木) 午後7時30分~8時43分放送﹃NHKスペシャル 全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~﹄[https://www.nhk.or.jp/special/detail/20190815.html]</ref>。
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=== 太平洋戦争(第二次世界大戦) === |
=== 太平洋戦争(第二次世界大戦) === |
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御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の[[1904年]](明治37年)に自身の祖父たる[[明治天皇]]が[[日露戦争]]開戦の際に詠んだ[[御製]]を引用した。 |
御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の[[1904年]](明治37年)に自身の祖父たる[[明治天皇]]が[[日露戦争]]開戦の際に詠んだ[[御製]]を引用した。 |
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{{枠の始まり|緑}} |
{{枠の始まり|緑}} |
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「''四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ''」<br> |
「''四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ''」<br /> |
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<small>四方の海(にある国々)は 皆兄弟姉妹/同胞と 思う世に なぜ波風が 立ち騒ぐのだろう</small> |
<small>四方の海(にある国々)は 皆兄弟姉妹/同胞と 思う世に なぜ波風が 立ち騒ぐのだろう</small> |
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{{枠の終わり}} |
{{枠の終わり}} |
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[[ファイル:Hirohito visit to the Yasukuni Shrine in 1934.jpg|300px|thumb|右|昭和天皇 靖国神社親拝︵[[1934年]]︶。]]
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[[ファイル:Hirohito visit to the Yasukuni Shrine in 1934.jpg|300px|thumb|右|昭和天皇 靖国神社親拝︵[[1934年]]︶。]]
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{{See also|靖国神社問題#天皇の親拝}} |
{{See also|靖国神社問題#天皇の親拝}} |
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昭和天皇は[[1945年]]([[昭和]]20年)の終戦直後から[[1975年]](昭和50年)まで、 |
昭和天皇は[[1945年]]([[昭和]]20年)の終戦直後から[[1975年]](昭和50年)まで、[[靖国神社|靖國神社]]に下記の計10回[[参拝|親拝]]していた(行幸3回・行幸啓7回)。<br /> |
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⚫ | |||
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|author=三浦朱門監修|authorlink=三浦朱門 |
|author=三浦朱門監修|authorlink=三浦朱門 |
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|title= 靖国神社 : 正しく理解するために |
|title= 靖国神社 : 正しく理解するために |
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661行目: | 660行目: | ||
|isbn = 4759308962 |
|isbn = 4759308962 |
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|quote=年表 |
|quote=年表 |
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}}</ref>。ただし、[[例大祭]](春と秋の年に2回)に際しては[[勅使]]の発遣を行っている。 |
}}</ref>。ただし、[[例大祭]](春と秋の年に2回)に際しては、[[平成]]・[[令和]]時代に入っても[[勅使]]の発遣を行っている。 |
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* {{0}}1. [[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月20日]]:(昭和天皇行幸) |
* {{0}}1. [[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月20日]]:(昭和天皇行幸) |
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* {{0}}2. [[1945年]](昭和20年)[[11月]]:臨時大招魂祭(昭和天皇行幸) |
* {{0}}2. [[1945年]](昭和20年)[[11月]]:臨時大招魂祭(昭和天皇行幸) |
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672行目: | 671行目: | ||
* {{0}}9. [[1969年]](昭和44年)[[6月10日]]:創立百年記念大祭(昭和天皇、香淳皇后行幸啓) |
* {{0}}9. [[1969年]](昭和44年)[[6月10日]]:創立百年記念大祭(昭和天皇、香淳皇后行幸啓) |
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* 10. [[1975年]](昭和50年)[[11月21日]]:大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸啓) |
* 10. [[1975年]](昭和50年)[[11月21日]]:大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸啓) |
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昭和天皇が |
昭和天皇が親拝を行わなくなった理由については[[左翼]][[過激派]]の活動の激化、[[宮中祭祀]]が[[日本国憲法|憲法]]違反であるとする一部野党議員の攻撃など、様々に推測されてきたが近年﹃[[富田メモ]]﹄や﹃[[卜部亮吾侍従日記]]﹄<ref>富田メモは[[日本経済新聞]]朝刊︵2006年7月20日付け、未刊行︶で公表。卜部日記は[[朝日新聞]]朝刊︵2007年4月26付け︶で公表。同年に刊行。</ref>などの側近の記述から、1978年︵昭和53年︶に[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]での[[A級戦犯]]14名が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では定説となっている。
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なお天皇家の親拝が途絶えたあとも、弟宮の高松宮および三笠宮一家は参拝を継続している<ref>2006年7月21日『[[東京新聞]]』朝刊{{full|date=2014年1月}}、また靖国神社境内の遊就館にも展示がある</ref>。 |
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== 外遊 == |
== 外遊 == |
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!style="width:6em;background-color:#d99502" |年 !!style="width:5em;background-color:#d99502" | 出国!!style="width:5em;background-color:#d99502" | 帰国!!style="width:45em;background-color:#d99502"|訪問地!!style="width:4em;background-color:#d99502"| 同行!!style="width:4em;background-color:#d99502"|備考 |
!style="width:6em;background-color:#d99502" |年 !!style="width:5em;background-color:#d99502" | 出国!!style="width:5em;background-color:#d99502" | 帰国!!style="width:45em;background-color:#d99502"|訪問地!!style="width:4em;background-color:#d99502"| 同行!!style="width:4em;background-color:#d99502"|備考 |
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| [[1971年]]<br />(昭和46)||[[9月27日]]||[[10月14日]]||{{BEL}}、{{GBR}}、{{DEU}}<br>({{USA}}、{{DNK}}、{{FRA}}、{{NLD}}、{{CHE}}立ち寄り)||[[香淳皇后]]||国際親善 |
| [[1971年]]<br />(昭和46)||[[9月27日]]||[[10月14日]]||{{BEL}}、{{GBR}}、{{DEU}}<br />({{USA}}、{{DNK}}、{{FRA}}、{{NLD}}、{{CHE}}立ち寄り)||[[香淳皇后]]||国際親善 |
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| [[1975年]]<br />(昭和50)||[[9月30日]]||[[10月14日]]||{{USA}}||香淳皇后||国際親善 |
| [[1975年]]<br />(昭和50)||[[9月30日]]||[[10月14日]]||{{USA}}||香淳皇后||国際親善 |
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|title = 自省録 : 歴史法廷の被告として |
|title = 自省録 : 歴史法廷の被告として |
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|year = 2004 |
|year = 2004 |
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|publisher = |
|publisher = 新潮社 |
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|isbn = 4-10-468701-4 |
|isbn = 4-10-468701-4 |
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|pages = 71-72 |
|pages = 71-72 |
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==== 戦後 ==== |
==== 戦後 ==== |
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[[画像:Hiro4.jpg|thumb|180px|助け合って食糧難を乗り越えるようラジオで呼びかける昭和天皇、1946年︵昭和21年︶5月。]]
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[[画像:Hiro4.jpg|thumb|180px|助け合って食糧難を乗り越えるようラジオで呼びかける昭和天皇、1946年︵昭和21年︶5月。]]
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* 初の[[日本社会党]]政権を成立させた[[片山哲]]首相に対しては、「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、[[社会主義]]イデオロギーに基づく急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行っていたことが記録に残っている。また[[片山内閣]]の外相 |
* 初の[[日本社会党]]政権を成立させた[[片山哲]]首相に対しては、「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、[[社会主義]]イデオロギーに基づく急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行っていたことが記録に残っている。また[[片山内閣]]の外相だった[[芦田均]]は「内奏を望む昭和天皇への違和感」を日記に記している<ref>{{Cite book|和書 |
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|author = 芦田均 |
|author = 芦田均 |
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|editor1=進藤栄一|editor1-link=進藤栄一|editor2-first=|editor2-last=下河辺元春|editor2-link=下河辺元春 |
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|title = 芦田均日記 |
|title = 芦田均日記 |
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|date = 1986-02 |
|date = 1986-02 |
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|publisher = 岩波書店 |
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|isbn = 4000087525 |
|isbn = 4000087525 |
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|volume = 第2巻 |
|volume = 第2巻 |
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|chapter = 1947年7月18日、1947年7月22日 |
|chapter = 1947年7月18日、1947年7月22日 |
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}}{{要ページ番号|date=2014年8月}}</ref>。 |
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* [[1947年]]︵昭和22年︶9月23日、 |
* [[1947年]]︵昭和22年︶9月23日、都内在住の天皇側近からGHQを通して[[アメリカ合衆国国務省]]に伝送されたいわゆる﹁天皇メッセージ﹂によると、﹁天皇は[[アメリカ合衆国]]が[[沖縄県]]をはじめ[[琉球諸島]]を[[アメリカ合衆国による沖縄統治|軍事占領し続ける]]ことを希望していた﹂とされる。天皇の意見によると、﹁その占領は、アメリカ合衆国の利益になり、日本を守ることにもなり、沖縄の主権は、日本に残したまま長期[[租借]]という形で行われるべきである﹂と考えられた。これは﹁日本本土を守るため、沖縄を切り捨てた﹂とする見方がある一方、﹁租借という形で日本の[[主権]]を確保しておく﹂といった見方もある<ref>2015年4月18日21時[[NHK総合]]放送[[NHKスペシャル]]﹃戦後70年 ニッポンの肖像 日本人と象徴天皇﹁第一回﹂﹄</ref>。
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* [[農地改革#日本の農地改革|農地改革]]後の農村を視察していたアメリカ人が農作業をしていた老人に﹁農地改革の成果﹂と﹁[[ダグラス・マッカーサー]]をどう思うか﹂について質問したとき、マッカーサーのことを﹁[[お雇い外国人]]﹂と思いこんだ老人から﹁陛下も本当にいい人を雇ってくださいました﹂と真顔で答えられ返答に窮したという逸話がある{{efn|日本についてのアメリカンジョークとしても同様の内容が伝わる。}}。
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* [[農地改革#日本の農地改革|農地改革]]後の農村を視察していたアメリカ人が農作業をしていた老人に﹁農地改革の成果﹂と﹁[[ダグラス・マッカーサー]]をどう思うか﹂について質問したとき、マッカーサーのことを﹁[[お雇い外国人]]﹂と思いこんだ老人から﹁陛下も本当にいい人を雇ってくださいました﹂と真顔で答えられ返答に窮したという逸話がある{{efn|日本についてのアメリカンジョークとしても同様の内容が伝わる。}}。
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* [[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]からの使節が[[皇居]][[皇居#宮殿|新宮殿]]について﹁新しいのですね﹂と感想を述べたとき、﹁[[明治宮殿#戦災による焼失|前のはあなたたちが燃やしたからね]]﹂と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた[[明治宮殿|御常御殿]]は戦災で焼失しており、[[吹上御所]]が完成する[[1961年]]︵昭和36年︶まで、昭和天皇と香淳皇后は戦時中[[防空壕]]として使用した[[御文庫]]を引き続いて仮住居としていた。
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* [[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]からの使節が[[皇居]][[皇居#宮殿|新宮殿]]について﹁新しいのですね﹂と感想を述べたとき、﹁[[明治宮殿#戦災による焼失|前のはあなたたちが燃やしたからね]]﹂と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた[[明治宮殿|御常御殿]]は戦災で焼失しており、[[吹上御所]]が完成する[[1961年]]︵昭和36年︶まで、昭和天皇と香淳皇后は戦時中[[防空壕]]として使用した[[御文庫]]を引き続いて仮住居としていた。
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* イギリスなど[[君主制]]国家に対しては、比較的新興国の部類に入る[[パフラヴィー朝|イラン帝国]]なども含めて好感と関心を抱いていたという。主権回復後ほどない[[1956年]]︵昭和31年︶には[[エチオピア帝国|エチオピア]]皇帝[[ハイレ・セラシエ1世|ハイレ・セラシエ]]の来日を迎え、満洲国皇帝・溥儀以来の大がかりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している。1975年︵昭和50年︶の[[沖縄国際海洋博覧会]]にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった[[1976年]]︵昭和51年︶の[[中央アフリカ帝国]]建国に際しても祝電を送っている。
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* イギリスなど[[君主制]]国家に対しては、比較的新興国の部類に入る[[パフラヴィー朝|イラン帝国]]なども含めて好感と関心を抱いていたという。主権回復後ほどない[[1956年]]︵昭和31年︶には[[エチオピア帝国|エチオピア]]皇帝[[ハイレ・セラシエ1世|ハイレ・セラシエ]]の来日を迎え、満洲国皇帝・溥儀以来の大がかりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している。1975年︵昭和50年︶の[[沖縄国際海洋博覧会]]にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった[[1976年]]︵昭和51年︶の[[中央アフリカ帝国]]建国に際しても祝電を送っている。
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* [[1971年]]︵昭和46年︶[[6月]]、[[佐藤栄作]]首相が[[アーミン・マイヤー]][[駐日アメリカ合衆国大使|米国駐日大使]]と会談した際、天皇から﹁日本政府が、しっかりと[[蔣介石]]︵[[台湾]]の[[中華民国]]政府︶を支持するよう促された﹂と伝えられていたことが、秘密情報解除された[[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]の外交文書で判明。しかし、[[国際連合|国連]]代表権は同年[[10月]]の[[国際連合総会|国連総会]]で[[採択]]され[[毛沢東]]主席の[[中華人民共和国]]に移行した<ref>2015年7月31日﹃[[中日新聞]]﹄朝刊4面﹁昭和天皇 蔣介石を支持 米文書で判明 異例の政治的発言﹂</ref>。
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* [[1971年]]︵昭和46年︶[[6月]]、[[佐藤栄作]]首相が[[アーミン・マイヤー]][[駐日アメリカ合衆国大使|米国駐日大使]]と会談した際、天皇から﹁日本政府が、しっかりと[[蔣介石]]︵[[台湾]]の[[中華民国]]政府︶を支持するよう促された﹂と伝えられていたことが、秘密情報解除された[[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]の外交文書で判明。しかし、[[国際連合|国連]]代表権は同年[[10月]]の[[国際連合総会|国連総会]]で[[採択]]され[[毛沢東]]主席の[[中華人民共和国]]に移行した<ref>2015年7月31日﹃[[中日新聞]]﹄朝刊4面﹁昭和天皇 蔣介石を支持 米文書で判明 異例の政治的発言﹂</ref>。
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* [[1975年]]︵昭和50年︶に﹃[[タイム (雑誌)|タイム]]﹄誌のインタビューで中華人民共和国訪問の希望を語っており<ref name=asahi201812/>、[[1978年]]︵昭和53年︶10月に中国の指導者として初めて訪日した[[鄧小平]][[中国共産党中央軍事委員会]]主席と会見した際は天皇から﹁あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない﹂と謝罪して鄧小平を感激させ<ref> |
* [[1975年]]︵昭和50年︶に﹃[[タイム (雑誌)|タイム]]﹄誌のインタビューで中華人民共和国訪問の希望を語っており<ref name=asahi201812/>、[[1978年]]︵昭和53年︶10月に中国の指導者として初めて訪日した[[鄧小平]][[中国共産党中央軍事委員会]]主席と会見した際は天皇から﹁あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない﹂と謝罪して鄧小平を感激させ<ref>﹁入江相政日記﹂、241頁</ref>、[[1984年]]︵昭和59年︶4月には﹁中国へはもし行けたら﹂と述べて中国政府の訪中要請に前向きだったものの日本政府は沖縄訪問を優先したことで見送られた<ref name=asahi201812>{{cite news |title= ﹁なぜ官僚の私が…﹂天皇訪中、大使は保守派を説得した|publisher=朝日新聞 |date=2018-12-22 |url=https://www.asahi.com/articles/ASLCZ6550LCZUTIL04V.html |accessdate=2019-09-12}}</ref><ref>城山英巳﹃中国共産党﹁天皇工作﹂秘録﹄、8頁︵文春新書︶</ref>。
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* 生真面目な性格もあり、戦後政治において政争絡みで日本の政治が停滞することを好まなかったことが窺える。﹃[[入江相政日記]]﹄には、いわゆる﹁[[四十日抗争]]﹂の際、参内した[[大平正芳]]に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。
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* 生真面目な性格もあり、戦後政治において政争絡みで日本の政治が停滞することを好まなかったことが窺える。﹃[[入江相政日記]]﹄には、いわゆる﹁[[四十日抗争]]﹂の際、参内した[[大平正芳]]に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。
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* 侍医 |
* 晩年の侍医だった[[伊東貞三]]も「伊東…きょうは満月だよ、そこを開けてごらん…きれいだよ」と末期がんであった昭和天皇に言葉をかけられたことを、「とても命の危機が迫っているとは思えない人間離れしたお姿だった」と回想している<ref name=":0" />。 |
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=== 公務におけるもの === |
=== 公務におけるもの === |
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* [[スポーツ]]に関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身につくものはなかった」と発言した。昭和天皇自身は[[乗馬]]が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、[[障害飛越競技|障害飛越]]などの[[馬術]]を習得しており、戦前はよく行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳([[古式泳法]])も得意で、[[水球]]を楽しむ写真も残っている。 |
* [[スポーツ]]に関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身につくものはなかった」と発言した。昭和天皇自身は[[乗馬]]が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、[[障害飛越競技|障害飛越]]などの[[馬術]]を習得しており、戦前はよく行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳([[古式泳法]])も得意で、[[水球]]を楽しむ写真も残っている。 |
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* デッキゴルフや[[ビリヤード]]を好み、戦艦﹁比叡﹂を御召艦にしていた際に侍従を相手に興じている<ref>[[#日本海軍のこころ|吉田 (2000)]]224頁。</ref>。乗艦時は無表情だった昭和天皇が、このときは屈託もなく笑って楽しんでいたという<ref>[[#日本海軍のこころ|吉田 (2000)]]228頁。</ref>。
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* デッキゴルフや[[ビリヤード]]を好み、戦艦﹁比叡﹂を御召艦にしていた際に侍従を相手に興じている<ref>[[#日本海軍のこころ|吉田 (2000)]]224頁。</ref>。乗艦時は無表情だった昭和天皇が、このときは屈託もなく笑って楽しんでいたという<ref>[[#日本海軍のこころ|吉田 (2000)]]228頁。</ref>。
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* [[映画]]も大の好みであった。「[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリン五輪]]記録映画『[[民族の祭典]]』や[[ヴィリ・フォルスト]]監督の『[[未完成交響楽]]』([[オーストリア]]映画)、[[ディアナ・ダービン]]主演の『[[オーケストラの少女]]』なども鑑賞された」と、戦前の[[大日本帝国海軍|海軍]][[侍従武官]] |
* [[映画]]も大の好みであった。「[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリン五輪]]記録映画『[[民族の祭典]]』や[[ヴィリ・フォルスト]]監督の『[[未完成交響楽]]』([[オーストリア]]映画)、[[ディアナ・ダービン]]主演の『[[オーケストラの少女]]』なども鑑賞された」と、戦前の[[大日本帝国海軍|海軍]][[侍従武官]](海軍少将)だった[[山澄貞次郎]]による回想記<ref>{{Cite news |
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|title = 昭和天皇の生活描く 海軍侍従武官の手記発見 |
|title = 昭和天皇の生活描く 海軍侍従武官の手記発見 |
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|newspaper = [[東京新聞]] |
|newspaper = [[東京新聞]] |
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|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080626043555/http://www.tokyo-np.co.jp/feature/essay/ |
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|archivedate = 2008-06-26 |
|archivedate = 2008-06-26 |
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}}</ref>。 |
}}</ref>がある。 |
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* 1975年(昭和50年)10月31日の記者会見で「 |
* 1975年(昭和50年)10月31日の記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今どういう番組を見ているかということには答えられません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した<ref name="kaiken"/>。 |
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** 現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっており<ref>{{Cite book|和書 |
** 現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっており<ref>{{Cite book|和書 |
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|author |
|author=半藤一利 |
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|coauthors = 御厨貴、原武史 |
|coauthors = 御厨貴、原武史 |
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|title = 卜部日記・富田メモで読む人間・昭和天皇 |
|title = 卜部日記・富田メモで読む人間・昭和天皇 |
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|archiveurl = https://web.archive.org/web/20110629051219/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110626/ent11062613080008-n2.htm |
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20110629051219/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110626/ent11062613080008-n2.htm |
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|archivedate = 2011-06-29 |
|archivedate = 2011-06-29 |
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}}<br /><ref group="注釈">昭和天皇もコロンボのファンで、1975年に訪米された際は実現こそしなかったが、フォークが昼食会に招待されたこともあった。</ref>}}という記事もあるが、訪米直前のニューズウィークのインタビューでは、国民に人気のあることは知っているが観たことはないと答えている{{refnest|[http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/03/1975_2.php ︻再録︼1975年、たった一度の昭和天皇単独インタビュー ワールド 最新記事 ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト]<br /><ref group="注釈"> |
}}<br /><ref group="注釈">昭和天皇もコロンボのファンで、1975年に訪米された際は実現こそしなかったが、フォークが昼食会に招待されたこともあった。</ref>}}という記事もあるが、訪米直前のニューズウィークのインタビューでは、国民に人気のあることは知っているが観たことはないと答えている{{refnest|[http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/03/1975_2.php ︻再録︼1975年、たった一度の昭和天皇単独インタビュー ワールド 最新記事 ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト]<br /><ref group="注釈">︵日本で人気のあった︶アメリカのドラマ﹃刑事コロンボ﹄を陛下も見るそうだが、どんなところを楽しんでおられるのか。<br />時間の都合がつかず、私自身はその番組を見ることはできませんでしたが、一般の国民が非常に楽しんで見たと聞いています。</ref>}}。
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* テレビの被写体になることに関して |
* テレビ映像の被写体になることに関しては『[[皇室アルバム]]』のプロデューサーだった古山光一は「秋田国体に行かれたときに、小雨が降って侍従が傘を差し出したら、強風で傘が飛び、陛下の帽子も飛ばされた映像もあるんです。戦前なら即NGでしょうが、陛下はそれをご覧になって『おもしろい映像だったね』とおっしゃったそうです。そういうお声を聞くと侍従も困るといえません。昭和天皇の人間性で、この番組は、救われてきた気がします」と振り返っており、古山も天皇と皇族の動静がテレビ報道されることに一定の理解を示していた<ref>{{Cite journal|和書 |
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|date = 2012-03 |
|date = 2012-03 |
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|journal = 文藝春秋 |
|journal = 文藝春秋 |
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966行目: | 967行目: | ||
|year=2005 |
|year=2005 |
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|title=陛下の御質問 - 昭和天皇と戦後政治 |
|title=陛下の御質問 - 昭和天皇と戦後政治 |
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|publisher= |
|publisher=文春文庫 |
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|id=ISBN 978-4-16-767940-8 |
|id=ISBN 978-4-16-767940-8 |
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|page=124 |
|page=124 |
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* [[武蔵野]]の自然を愛し、[[ゴルフ場]]に整備されていた[[吹上御苑]]使用を[[1937年]]︵昭和12年︶に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。
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* [[武蔵野]]の自然を愛し、[[ゴルフ場]]に整備されていた[[吹上御苑]]使用を[[1937年]]︵昭和12年︶に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。
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* '''﹁[[雑草]]という植物はない﹂'''と言ったとされることでも知られる。これに関連し、1984年︵昭和59年︶8月の取材において、雑草と言う呼称について﹁少し侮辱的な感じがして、どうも好まないのです﹂﹁どうもおもしろくない名前﹂と発言している<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.352</ref>。
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* '''﹁[[雑草]]という植物はない﹂'''と言ったとされることでも知られる。これに関連し、1984年︵昭和59年︶8月の取材において、雑草と言う呼称について﹁少し侮辱的な感じがして、どうも好まないのです﹂﹁どうもおもしろくない名前﹂と発言している<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.352</ref>。
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* 2018年、生前採取していた[[テヅルモヅル]]が新種であったことが判明し |
* 2018年、生前採取していた[[テヅルモヅル]]が新種であったことが判明し「トゲツルボソテヅルモヅル」と命名された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180309-3SEXE3KM6RJBHHEWHQ64NMSR2M/|title=昭和天皇が採集した深海生物が新種と判明 ヒトデの仲間、東大などが分析 国内での新種発見は106年ぶり|accessdate=2018-03-31|date=2018-03-09|publisher=産経ニュース}}</ref>。 |
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== 短歌 == |
== 短歌 == |
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昭和天皇は生涯に約1万首の[[短歌]]を詠んだといわれている。うち公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。
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昭和天皇は生涯に約1万首の[[短歌]]を詠んだといわれている。うち公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは、[[御製]]の立場によるところが大きい。
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帝国憲法期の[[御歌所]]の流れから、戦後は[[木俣修]]、[[岡野弘彦]]ら[[現代歌人協会|現代歌人]]の指導による影響も受け変容していった。公表された作品の約4割は[[字余り]]で、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・[[南方熊楠]]に触発されたもののみである。
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; 昭和天皇の歌集 |
; 昭和天皇の歌集 |
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:* みやまきりしま:天皇歌集(毎日新聞社編、1951年11月、毎日新聞社) |
:* みやまきりしま:天皇歌集(毎日新聞社編、1951年11月、毎日新聞社) |
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[[ファイル:Hirohito echiurid.jpg|200px|thumb|[[興居島]]で[[ユムシ]]を採取する昭和天皇(1950年(昭和25年)[[3月19日]])。]] |
[[ファイル:Hirohito echiurid.jpg|200px|thumb|[[興居島]]で[[ユムシ]]を採取する昭和天皇(1950年(昭和25年)[[3月19日]])。]] |
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[[ファイル:Emperor Showa in laboratory.jpg|200px|thumb|研究室内の昭和天皇(1950年頃)。]] |
[[ファイル:Emperor Showa in laboratory.jpg|200px|thumb|研究室内の昭和天皇(1950年頃)。]] |
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昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いだ。[[1925年]]︵大正14年︶6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の[[服部廣太郎]]の勧めにより、[[変形菌]]類︵粘菌︶と[[ヒドロ虫類]]︵ヒドロゾア︶の[[分類学]]的研究を始めた。1928年︵昭和3年︶9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。[[1929年]]︵昭和4年 |
昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いだ。[[1925年]]︵大正14年︶6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の[[服部廣太郎]]の勧めにより、[[変形菌]]類︵粘菌︶と[[ヒドロ虫類]]︵ヒドロゾア︶の[[分類学]]的研究を始めた。1928年︵昭和3年︶9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。[[1929年]]︵昭和4年︶6月には、[[南方熊楠]]︵在野の博物学者で粘菌研究第一人者︶が住む紀伊田辺を軍艦長門で行き進講を受けた。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁︵あるいは日本国天皇︶の名で発表されており、﹃日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討﹄をはじめ、7冊が生物学御研究所から刊行されている。また、他の分野については専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果は生物学御研究所編図書としてこれまで20冊刊行されている。
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1934年︵昭和9年︶には、海中生物の採集に使うための |
1934年︵昭和9年︶には、海中生物の採集に使うための御用船として﹁葉山丸﹂が建造された。これは[[横須賀海軍工廠]]で建造された全長15.1メートルの[[和船]]型[[内火艇]]で、宮内省で管理された。第二次世界大戦時は[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に下賜され、戦後は英[[オーストラリア軍|豪軍]]が接収して[[瀬戸内海]]でヨットとして使用していたが、1949年に退役したあとは[[海上保安庁]]の管理下に入り、修復工事を経て再び採集作業に用いられた。1956年には、同庁の23メートル型港内艇﹁[[むらくも型巡視艇 (初代)|むらくも]]﹂を改装・改名した﹁はたぐも﹂がその役割を引き継いだ。そして1971年には、新造船として﹁[[まつなみ (巡視艇・初代)|まつなみ]]﹂が建造されて、3代目の採集船となった。これらの艇は、普段は通常の[[巡視艇]]と同様の警備救難業務にあたっていた。なお﹁はたぐも﹂の就役後は﹁葉山丸﹂は通常の巡視艇として用いられていたが、1967年に船体を規格12メートル型に改装した︵しらぎく型︶。この際に主機関は引き継がれたが、旧船体は役目を終えたことから、[[大山祇神社]]︵[[愛媛県]][[今治市]]︶の[[海事博物館]]に保存、公開されている<ref name="SoW2003">{{Cite journal|和書
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|year = 2003 |
|year = 2003 |
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|title = 昭和天皇と私 : 八十年間お側に仕えて |
|title = 昭和天皇と私 : 八十年間お側に仕えて |
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|date = 1992-04 |
|date = 1992-04 |
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|publisher = 学習研究社 |
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|isbn = 405106218X |
|isbn = 405106218X |
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}}{{要ページ番号|date=2014年8月}}</ref>。また、詠んだ和歌の中で、[[干拓]]事業の進む[[有明海]]の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを﹁祈る﹂と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の[[山下弘文]]などが指摘している。
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}}{{要ページ番号|date=2014年8月}}</ref>。また、詠んだ和歌の中で、[[干拓]]事業の進む[[有明海]]の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを﹁祈る﹂と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の[[山下弘文]]などが指摘している。
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昭和天皇の海洋生物研究の一部は[[明仁]]の研究とともに、[[新江ノ島水族館]]([[神奈川県]][[藤沢市]])で公開されている。 |
昭和天皇の海洋生物研究の一部は、[[明仁]]の研究とともに、[[新江ノ島水族館]]([[神奈川県]][[藤沢市]])で公開されている。 |
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* 昭和天皇の研究著書 |
* 昭和天皇の研究著書 |
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** 日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討(1967年2月) |
** 日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討(1967年2月) |
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と発言したとされる。この会談内容については関係者による直接又は伝聞に齟齬がある︵[[昭和天皇・マッカーサー会見#第1回会見]]を参照︶。昭和天皇自身は1976年︵昭和51年︶11月6日の取材で、﹁秘密で話したことだから、私の口からは言えません﹂とした<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.249</ref>。翌1977年︵昭和52年︶8月23日に行われた取材でも、マッカーサーの印象について問われた際﹁マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした﹂﹁男子の一言のごときことは、守らねばならない﹂と述べ、遂に崩御まで口外しなかった<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.257-258</ref>。
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と発言したとされる。この会談内容については関係者による直接又は伝聞に齟齬がある︵[[昭和天皇・マッカーサー会見#第1回会見]]を参照︶。昭和天皇自身は1976年︵昭和51年︶11月6日の取材で、﹁秘密で話したことだから、私の口からは言えません﹂とした<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.249</ref>。翌1977年︵昭和52年︶8月23日に行われた取材でも、マッカーサーの印象について問われた際﹁マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした﹂﹁男子の一言のごときことは、守らねばならない﹂と述べ、遂に崩御まで口外しなかった<ref>[[#陛下、お尋ね申し上げます 1988|陛下、お尋ね申し上げます 1988]] p.257-258</ref>。
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また当時の宮内省総務課長で随行者の一人であった[[筧素彦]]も最初に昭和天皇と対面したときのマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、のちに『マッカーサー回想記』などで発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している<ref name="omoide"/>。 |
また当時の宮内省総務課長で随行者の一人であった[[筧克彦|筧素彦]]<ref>筧素彦︵1906年 - 1992年︶も、後年に回想﹃今上陛下と母宮貞明皇后﹄︵[[日本教文社]]、1987年︶を刊行している。</ref>も最初に昭和天皇と対面したときのマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、のちに﹃マッカーサー回想記﹄などで発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している<ref name="omoide"/>。
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=== 天皇自身の発言 === |
=== 天皇自身の発言 === |
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|title = 天皇陛下の全仕事 |
|title = 天皇陛下の全仕事 |
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|date = 2009-01 |
|date = 2009-01 |
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|date = 2014年8月 |
|date = 2014年8月 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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=== 自身の著書 === |
=== 自身の著書 === |
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* {{Cite book |
* {{Cite book ja|author=裕仁|title=日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|2429548}}|url-access=registration|publisher=[[生物学御研究所]]|date=1967-02-15}} |
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* {{Cite book |
* {{Cite book ja|author=裕仁|title=相模湾産ヒドロ虫類|publisher=生物学御研究所|date=1988}} |
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* {{Cite book |
* {{Cite book ja|author=昭和天皇(山田真弓・補足修正)|title=相模湾産ヒドロ虫類2|publisher=生物学御研究所|date=1995}} |
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=== その他の著書 === |
=== その他の著書 === |
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=== 史料・回想録 === |
=== 史料・回想録 === |
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* {{Cite book|和書|author= 山田米吉|title= [https://dl.ndl.go.jp/pid/1101006/1/2 大御光]|publisher = 日本図書刊行会|date=1941|id=全国書誌番号:1101006|ref=山田 1941}} |
* {{Cite book|和書|author= 山田米吉|title= [https://dl.ndl.go.jp/pid/1101006/1/2 大御光]|publisher = 日本図書刊行会|date=1941|id=全国書誌番号:1101006|ref=山田 1941}} |
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* {{Cite book|和書|author=高橋紘|authorlink=高橋紘 |title= 陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡|publisher |
* {{Cite book|和書|author=高橋紘|authorlink=高橋紘 |title= 陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡|publisher=[[文春文庫]] |date=1988-03|isbn = 978-4167472016|ref=陛下、お尋ね申し上げます 1988}} |
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* {{Cite book|和書|editor1=黒田勝弘|editor1-link=黒田勝弘|editor2=畑好秀|title |
* {{Cite book|和書|editor1=黒田勝弘|editor1-link=黒田勝弘|editor2=畑好秀 |title=昭和天皇語録|publisher=[[講談社学術文庫]] |year=2004|isbn = 978-4061596313|ref=昭和天皇語録 2004}} |
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* {{Cite book |
* {{Cite book|和書|author=藤田尚徳|authorlink=藤田尚徳 |year=2015|title=侍従長の回想|publisher=講談社学術文庫 |isbn=978-4062922845 |ref={{SfnRef|藤田尚徳|2015}}}} |
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* {{Cite book|和書|author= |
* {{Cite book|和書|author= |title=[[昭和天皇独白録]] 付:[[寺崎英成]]御用掛日記 |editor=マリコ・テラサキ・ミラー |editor-link=マリコ・テラサキ・ミラー|date=1991-03|publisher=[[文藝春秋]]|ncid=BN06169666|ref={{SfnRef|寺崎、テラサキ|1991}} }} |
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* 木戸日記研究会校訂 『[[木戸幸一]]日記 (上下)』([[東京大学出版会]]、1966年)、ISBN 9784130300117/ISBN 9784130300124 |
* 木戸日記研究会校訂 『[[木戸幸一]]日記 (上下)』([[東京大学出版会]]、1966年)、ISBN 9784130300117/ISBN 9784130300124 |
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* 木戸日記研究会編 『木戸幸一関係文書』(東京大学出版会、1966年)、ISBN 9784130300131 |
* 木戸日記研究会編 『木戸幸一関係文書』(東京大学出版会、1966年)、ISBN 9784130300131 |
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* [[渡辺誠 (料理人)|渡辺誠]]「初公開 昭和天皇日々の献立」(『[[文藝春秋 (雑誌)|月刊 文藝春秋]]』2003年2月号) |
* [[渡辺誠 (料理人)|渡辺誠]]「初公開 昭和天皇日々の献立」(『[[文藝春秋 (雑誌)|月刊 文藝春秋]]』2003年2月号) |
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* [[岩見隆夫]]『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』( |
* [[岩見隆夫]]『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』(文春文庫、2005年) |
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* [[宮内庁]]編『[[昭和天皇実録]]』([[東京書籍]] 全18巻・別巻1(総索引))、2015年3月-2019年3月 |
* [[宮内庁]]編『[[昭和天皇実録]]』([[東京書籍]] 全18巻・別巻1(総索引))、2015年3月-2019年3月 |
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⚫ | * {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1971 |title=比島捷号陸軍航空作戦 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書48 |ref={{SfnRef|戦史叢書48|1971}} }} |
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==== 側近の日記 ==== |
==== 側近の日記 ==== |
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* [[富田メモ]] |
* [[富田メモ]] |
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* [[木下道雄]]側近日誌 文藝春秋、のち中公文庫 |
* [[木下道雄]]側近日誌 文藝春秋、のち中公文庫 |
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* 小林忍侍従日記 |
* 小林忍侍従日記 文春新書で刊 |
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* [[田島道治]] 拝謁記 岩波書店で刊 |
* [[田島道治]] 拝謁記 岩波書店で刊 |
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=== 研究文献 === |
=== 研究文献 === |
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* [[レナード・モズレー]]『天皇ヒロヒト』 |
* [[レナード・モズレー]]『天皇ヒロヒト』高田市太郎訳 |
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*:[[毎日新聞社]]、1966年/[[角川文庫]](上・下)、1983年 |
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* エドウィン・P・ホイト『世界史の中の昭和天皇 -「ヒロヒト」のどこが偉大だったか』 |
* エドウィン・P・ホイト『世界史の中の昭和天皇 -「ヒロヒト」のどこが偉大だったか』 |
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* |
*:[[樋口清之]]監訳、クレスト社、1993年、ISBN 487712005X |
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* [[出雲井晶]]編『昭和天皇』([[日本教文社]]、1996年、ISBN |
* [[出雲井晶]]編『昭和天皇』([[日本教文社]]、1996年)、ISBN 4531062825 |
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* [[秦郁彦]]『昭和天皇五つの決断』( |
* [[秦郁彦]]『昭和天皇 五つの決断』(文春文庫、1994年)、ISBN 416-7453029 |
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** 旧版『裕仁天皇 五つの決断』([[講談社]]、1984年 |
** 旧版『裕仁天皇 五つの決断』([[講談社]]、1984年)、ISBN 406-2011271 |
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* 秦郁彦「歪められた昭和天皇像」(『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』 |
* 秦郁彦「歪められた昭和天皇像」(『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2003年3月号) |
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* 「近代の三人目の天皇として 昭和天皇の場合」 |
* 「近代の三人目の天皇として 昭和天皇の場合」-『天皇はいかに受け継がれたか 天皇の身体と皇位継承』[[加藤陽子]]責任編集(歴史学研究会編、績文堂出版、2019年2月)、ISBN 9784881161340 |
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* [[加藤恭子 (評論家)|加藤恭子]]『昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』(文藝春秋、2003年、ISBN 4163655301 |
* [[加藤恭子 (評論家)|加藤恭子]]『昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』(文藝春秋、2003年)、ISBN 4163655301 |
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* 加藤恭子・秦郁彦・ |
* 加藤恭子・秦郁彦・吉田裕・高橋紘『大論争「昭和天皇 国民への謝罪詔書草稿」四つの謎』(『[[文藝春秋 (雑誌)|月刊 文藝春秋]]』2003年8月号) |
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* [[伊藤之雄]]『昭和天皇と[[立憲君主制]]の崩壊 - 睦仁・嘉仁から裕仁へ』([[名古屋大学出版会]]、2005年、ISBN |
* [[伊藤之雄]]『昭和天皇と[[立憲君主制]]の崩壊 - 睦仁・嘉仁から裕仁へ』([[名古屋大学出版会]]、2005年)、ISBN 4815805148 |
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* ピーター・ウエッツラー『昭和天皇と戦争-皇室の伝統と戦時下の政治・軍事戦略』(森山尚美訳、[[原書房]]、2002年、ISBN |
* ピーター・ウエッツラー『昭和天皇と戦争-皇室の伝統と戦時下の政治・軍事戦略』(森山尚美訳、[[原書房]]、2002年)、ISBN 4562035730 |
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* [[古川隆久]]・[[森暢平]]・[[茶谷誠一]]編『「昭和天皇実録」講義-生涯と時代を読み解く-』[[吉川弘文館]]、2015年 |
* [[古川隆久]]・[[森暢平]]・[[茶谷誠一]]編『「昭和天皇実録」講義-生涯と時代を読み解く-』([[吉川弘文館]]、2015年)、ISBN 9784642082853 |
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<!-- 本文の加筆なく{{oldid|62934683|差分|62938803}}で追加された --> |
<!-- 本文の加筆なく{{oldid|62934683|差分|62938803}}で追加された --> |
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* [[米窪明美]]『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』 |
* [[米窪明美]]『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』([[新潮社]]、2015年/[[新潮文庫]]、2018年) |
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* {{Cite book|和書 |
* {{Cite book|和書 |
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|author=ベン=アミー・シロニー|authorlink=ベン=アミー・シロニー |
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}} |
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* [[ハーバート・ビックス]]『昭和天皇 |
* [[ハーバート・ビックス]]『昭和天皇』吉田裕監修、[[岡部牧夫]]・[[川島高峰]]・[[永井均 (歴史学者)|永井均]]訳 |
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*:上・下(講談社、2002年/講談社学術文庫、2005年) |
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* [[井上清 (歴史家)|井上清]]『井上清史論集4 天皇の戦争責任』([[岩波現代文庫]]、2004年 ISBN 9784006001148) |
* [[井上清 (歴史家)|井上清]]『井上清史論集4 天皇の戦争責任』([[岩波現代文庫]]、2004年 ISBN 9784006001148) |
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* 吉田裕『昭和天皇の終戦史』([[岩波新書]]、1992年、ISBN |
* [[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]『昭和天皇の終戦史』([[岩波新書]]、1992年)、ISBN 4004302579 |
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* [[原武史]]『昭和天皇』(岩波新書、2008年、ISBN 9784004311119) |
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* 内野光子『短歌と天皇制』(風媒社、2000年、ISBN 4833120186) |
* 内野光子『短歌と天皇制』(風媒社、2000年、ISBN 4833120186) |
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* 田所泉『昭和天皇の短歌』(創樹社、1997年、ISBN 4794305222) |
* 田所泉『昭和天皇の短歌』(創樹社、1997年、ISBN 4794305222) |
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* {{Citation|和書|author= |
* {{Citation|和書|author=半藤一利|authorlink=半藤一利|date=2006-07|title=決定版 [[日本のいちばん長い日]]―運命の八月十五日|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|ISBN=978-4167483159|ref={{SfnRef|半藤一利|2006}}}}初版は、[[大宅壮一]]編『日本のいちばん長い日』文藝春秋新社、1965年 |
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* {{Citation|和書|author=半藤一利|date=2003-08|title=[[聖断]]―昭和天皇と鈴木貫太郎|publisher=[[PHP研究所]]|ISBN=978-4569629841|ref={{SfnRef|半藤一利|2003}}}}初版は |
* {{Citation|和書|author=半藤一利|date=2003-08|title=[[聖断]]―昭和天皇と鈴木貫太郎|publisher=[[PHP研究所]]|ISBN=978-4569629841|ref={{SfnRef|半藤一利|2003}}}}初版は『聖断 天皇と鈴木貫太郎』文藝春秋、1985年 |
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* {{Cite book |和書 |author=半藤一利 |author2=保阪正康 |author3=御厨貴|authorlink3=御厨貴|author4=磯田道史|authorlink4=磯田道史|year=2015 |title=「 |
* {{Cite book |和書 |author=半藤一利 |author2=保阪正康|authorlink2=保阪正康 |author3=御厨貴|authorlink3=御厨貴|author4=磯田道史|authorlink4=磯田道史|year=2015 |title=「昭和天皇実録」の謎を解く|publisher=[[文春新書]] |isbn=978-4166610099 |ref={{SfnRef|半藤|保阪|御厨|磯田|2015}} }} |
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* {{Citation|和書|last=豊下|first=楢彦|title=昭和天皇・マッカーサー会見|year=2008|series= |
* {{Citation|和書|last=豊下|first=楢彦|authorlink=豊下楢彦|title=昭和天皇・マッカーサー会見|year=2008|series=岩波現代文庫|publisher=岩波書店|isbn=9784006001933|ref={{SfnRef|豊下楢彦|2008}}}} |
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* |
* [[原武史]]『昭和天皇』岩波新書、2008年。ISBN 978-4004311119 |
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* {{Citation|和書|author=原武史|date=2015-9|title=「昭和天皇実録」を読む|publisher=岩波新書|isbn=978-4004315612|ref={{SfnRef|原武史|2015}}}} |
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=== 雑誌 === |
=== 雑誌 === |
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* {{Cite journal|和書|author = 毎日新聞社 編|date = 1989-01-21|title = 崩御昭和天皇 : 激動87年のご生涯のすべて|journal = 毎日グラフ|volume = 緊急増刊|issue = 2045|publisher = 毎日新聞社|ref=毎日グラフ『崩御昭和天皇』 1989}} |
* {{Cite journal|和書|author = [[毎日新聞]]社 編|date = 1989-01-21|title = 崩御昭和天皇 : 激動87年のご生涯のすべて|journal = 毎日グラフ|volume = 緊急増刊|issue = 2045|publisher = 毎日新聞社|ref=毎日グラフ『崩御昭和天皇』 1989}} |
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=== その他 === |
=== その他 === |
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; 他の人物の伝記等 |
; 他の人物の伝記等 |
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* {{Cite book|和書|author=高松宮妃喜久子|authorlink=宣仁親王妃喜久子|year=1998|month=11|title=菊と葵のものがたり|publisher=中央公論社|isbn=978-4120028397|ref={{SfnRef|高松宮妃喜久子|1998}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=高松宮妃喜久子|year=2002|month=1|title=菊と葵のものがたり|publisher |
** {{Cite book|和書|author=[[高松宮]]妃喜久子|year=2002|month=1|title=菊と葵のものがたり|publisher=中公文庫|isbn=978-4122039599|ref=高松宮妃喜久子 2002}} |
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* {{Cite book|和書|editor=女性自身編集部|editor-link=女性自身|title = 昭和の母皇太后さま : 昭和天皇と歩まれた愛と激動の生涯 : 保存版|date = 2000-07|publisher = [[光文社]]|isbn = 4334900925|ref=昭和の母皇太后さま 2000}} |
* {{Cite book|和書|editor=女性自身編集部|editor-link=女性自身|title = 昭和の母皇太后さま : 昭和天皇と歩まれた愛と激動の生涯 : 保存版|date = 2000-07|publisher = [[光文社]]|isbn = 4334900925|ref=昭和の母皇太后さま 2000}} |
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* {{Cite book|和書|author=佐々木英昭|authorlink=佐々木英昭|title = 乃木希典|date = 2005-08|publisher |
* {{Cite book|和書|author=佐々木英昭|authorlink=佐々木英昭|title = 乃木希典|date = 2005-08|publisher=[[ミネルヴァ書房]] |series=[[ミネルヴァ日本評伝選]] |isbn = 978-4623044061|ref=佐々木 2005}} |
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* {{Citation|和書|author=[[阿部牧郎]]|date=2003-11|title=大義に死す―最後の武士・阿南惟幾|publisher=[[祥伝社]]|ISBN=978-4396632403|ref={{SfnRef|阿部牧郎|2003}}}} |
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* {{Citation|和書|author1=ダグラス・マッカーサー|others=津島一夫 訳|title=マッカーサー大戦回顧録 | |
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* {{Cite book|和書|author=原武史|authorlink=原武史|title=皇后考|publisher= |
* {{Cite book|和書|author=原武史|authorlink=原武史|title=皇后考|publisher=講談社|date=2015-2|isbn=978-4062193948|ref=原 2015}} |
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** {{Cite book|和書|author=原武史|title=皇后考| |
** {{Cite book|和書|author=原武史|title=皇后考|publisher=講談社学術文庫|date=2017-12|isbn=978-4062924733|ref=原 2017}} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[森暢平]] |title=大正期における女性皇族像の転換 : 良子女王をめぐる検討 |date=2016-06 |publisher=[[成城大学]] |journal=成城文藝 |volume=236|pages=60-26|url=http://id.nii.ac.jp/1109/00003738 |naid=120006029357|issn=02865718 |ref=森 2016}} |
* {{Cite journal|和書|author=[[森暢平]] |title=大正期における女性皇族像の転換 : 良子女王をめぐる検討 |date=2016-06 |publisher=[[成城大学]] |journal=成城文藝 |volume=236|pages=60-26|url=http://id.nii.ac.jp/1109/00003738 |naid=120006029357|issn=02865718 |ref=森 2016}} |
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* {{Cite book|和書|author= 伏見博明|title= 旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて|publisher = [[中央公論新社]] |date=2022-01 |
* {{Cite book|和書|author=伏見博明 |authorlink=伏見宮博明王|title= 旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて|publisher = [[中央公論新社]] |date=2022-01|isbn=978-4120054952 |ref=伏見博明 2022}} |
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* {{Cite book|和書 |author=アンドレ・ヴィオリス|year=2020 |title=1932年の大日本帝国 |publisher=[[草思社]] |isbn |
* {{Cite book|和書 |author=アンドレ・ヴィオリス |year=2020 |title=1932年の大日本帝国 |publisher=[[草思社]]|others=大橋尚泰 訳 |isbn=479422477X |ref={{SfnRef|ヴィオリス|2020}}}} |
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; 軍事関連 |
; 軍事関連の文献 |
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* {{Cite book|和書|author=吉田俊雄|authorlink=吉田俊雄|year = 1985|month = 1|title = 戦艦比叡|publisher = [[朝日ソノラマ]]|series = 航空戦史シリーズ 51|isbn = 4-257-17051-4|ref = 吉田比叡}} |
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⚫ | * {{Cite book |和書 |editor=[[防衛研究所|防衛庁防衛研修所戦史室]] |year=1971 |title=比島捷号陸軍航空作戦 |publisher=[[朝雲新聞]]社 |series=[[戦史叢書]]48 |ref={{SfnRef|戦史叢書48|1971}} }} |
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* {{Cite book|和書|author = 吉田俊雄|title = 日本海軍のこころ|date = 2000-12|publisher = 文藝春秋|isbn = 4-16-356900-6|ref = 日本海軍のこころ}} |
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* {{Cite book|和書 |
* {{Cite book|和書|author=吉田俊雄|authorlink=吉田俊雄 |title = 日本海軍のこころ|date=2000-12 |publisher = 文藝春秋|isbn = 4-16-356900-6|ref = 日本海軍のこころ}}文春文庫、2002年 |
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* {{Cite book|和書 |
* {{Cite book|和書|author=吉田俊雄 |date=1985-01 |title = 戦艦比叡|publisher = [[朝日ソノラマ]]|series = 文庫版 航空戦史シリーズ 51|isbn = 4-257-17051-4|ref = 吉田比叡}}[[光人社NF文庫]]で新装再刊 |
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⚫ | * {{Cite book|和書 |author=伊藤正徳|authorlink=伊藤正徳 |year=1960 |title=帝国陸軍の最後〈第3〉死闘篇 |publisher=文藝春秋新社 |asin=B000JBM31E |ref={{SfnRef|伊藤正徳・3|1960}}}}同上 |
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* {{Cite book|和書 |author=伊藤正徳 |year=1961 |title=帝国陸軍の最後〈第5〉終末篇 |publisher=文藝春秋新社 |asin=B000JBM30U |ref={{SfnRef|伊藤正徳・5|1961}}}}同上 |
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* {{Cite book |和書 |author1=猪口力平|authorlink1=猪口力平|author2=中島正|authorlink2=中島正|year=1951 |title=神風特別攻撃隊 |publisher=日本出版協同 |asin=B000JBADFW|ref={{SfnRef|猪口|中島|1951}}}} |
* {{Cite book |和書 |author1=猪口力平|authorlink1=猪口力平|author2=中島正|authorlink2=中島正|year=1951 |title=神風特別攻撃隊 |publisher=日本出版協同 |asin=B000JBADFW|ref={{SfnRef|猪口|中島|1951}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=猪口力平 |author2=中島正 |year=1967 |title=神風特別攻撃隊 |publisher=河出書房 |asin=B000JA7KI6|ref={{SfnRef|猪口|中島|1967}}}} |
** {{Cite book |和書 |author=猪口力平 |author2=中島正 |year=1967 |title=神風特別攻撃隊 |publisher=河出書房新社 |asin=B000JA7KI6|ref={{SfnRef|猪口|中島|1967}}}}上記の再刊 |
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* {{Cite book |和書 |author=高木俊朗|authorlink=高木俊朗 |year=2018 |title=陸軍特別攻撃隊2 |publisher=文藝春秋|series=文春学藝ライブラリー |isbn=978-4168130786|ref={{SfnRef|高木俊朗②|2018}}}}新装再刊(全3巻) |
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* {{Cite book |和書 |author=大島隆之|authorlink= |year=2016|title=特攻 なぜ拡大したのか|publisher=[[幻冬舎]]|isbn=978-4344029699|ref={{SfnRef|大島隆之|2016}} }} |
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2024年6月25日 (火) 13:00時点における版
昭和天皇 | |
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![]() 1956年(昭和31年)撮影 | |
即位礼 |
即位礼紫宸殿の儀 1928年(昭和3年)11月10日 於 京都御所 |
大嘗祭 |
1928年(昭和3年) 11月14日・15日 於 仙洞御所大嘗宮 |
元号 | 昭和: 1926年12月25日 - 1989年1月7日 |
内閣総理大臣 | |
先代 | 大正天皇 |
次代 | 明仁 |
天皇 | 大正天皇 |
内閣総理大臣 | |
誕生 |
1901年(明治34年)4月29日 午後10時10分 ![]() 青山御所 |
崩御 |
1989年(昭和64年)1月7日 午前6時33分 (87歳没) ![]() 吹上御所 |
大喪儀 |
葬場殿の儀 大喪の礼 1989年(平成元年)2月24日 於 新宿御苑葬場殿 |
陵所 |
武蔵野陵 (東京都八王子市長房町) |
追号 |
昭和天皇(しょうわてんのう) 1989年(平成元年) 1月31日[1]追号勅定 |
諱 |
裕仁(ひろひと) 1901年(明治34年)5月5日命名 |
別称 | 昭和帝(しょうわてい) |
称号 | 迪宮(みちのみや) |
印 | 若竹(わかたけ) |
元服 | 1919年(大正8年)5月7日 |
父親 | 大正天皇 |
母親 | 貞明皇后 |
皇后 |
香淳皇后(良子女王) 1924年(大正13年)1月26日 結婚 |
子女 | |
皇嗣 | 皇太子明仁親王[注釈 2] |
皇居 | 宮城・皇居 |
栄典 | 大勲位 |
学歴 | 東宮御学問所修了 |
副業 | 生物学者 |
親署 |
![]() |
人物
1901年︵明治34年︶4月29日に皇太子嘉仁親王︵当時、のちの大正天皇︶と同妃節子︵当時、のちの貞明皇后︶の第1男子として誕生する。弟に、秩父宮雍仁親王︵淳宮雍仁親王︶、高松宮宣仁親王︵光宮宣仁親王︶、三笠宮崇仁親王︵澄宮崇仁親王︶の3人がいる。少年期は学習院初等科︵院長‥乃木希典︶に通学し、卒業後は東宮御学問所︵総裁‥東郷平八郎︶で教育を受けた。 1916年︵大正5年︶に立太子。日本の皇太子として初めてイギリス王国やフランス共和国、ベルギー王国、イタリア王国などをお召艦で訪問した︵皇太子裕仁親王の欧州訪問︶。帰国後、父大正天皇の病気により摂政に就任︵直近最後の摂政︶。この他、外地にも行啓した︵台湾行啓︶。 1926年︵大正15年/昭和元年︶12月25日、大正天皇の崩御に伴い皇位継承、第124代天皇として践祚する。 大日本帝国憲法下において﹁國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬︵第4条︶﹂と規定された立憲君主たる地位にあった。歴史学者の多くは、﹁戦前の昭和天皇は憲法上最高決定権を有していたものの、実際には政府が決定した方針を承認するのみだった﹂と指摘している[4]。 但し、憲法が通常想定する大臣による輔弼が機能し得ない緊急的例外的局面︵二・二六事件における反乱軍鎮圧や、第二次世界大戦の日本の降伏における連合国に対するポツダム宣言受諾決定など[5]︶については、自ら天皇大権を行使した。 1945年︵昭和20年︶8月15日に、ラジオでいわゆる﹁玉音放送﹂を行って国民に終戦を宣言した。1946年︵昭和21年︶1月1日には、いわゆる﹁人間宣言﹂︵新日本建設ニ関スル詔書︶を発して神格化を否定[4]︵それ以前については﹁現人神﹂参照︶。占領期にはダグラス・マッカーサーとの会見などを通じて独自の政治的影響力を発揮した[5]。また、1946年︵昭和21年︶2月から1949年︵昭和24年︶まで全国各地を巡幸し、敗戦後の国民と接した︵昭和天皇の戦後巡幸︶。 1947年︵昭和22年︶5月3日に施行された日本国憲法では、﹁日本国の象徴であり日本国民統合の象徴︵第1条︶﹂である天皇︵象徴天皇制︶であり﹁国政に関する権能を有しない︵第4条︶﹂とされている。また、昭和天皇は生物学研究者でもあり、﹃相模湾産後鰓類図譜﹄などを著した[4]。 1971年︵昭和46年︶には天皇として初めて欧州各国を訪問し、1975年︵昭和50年︶には同じく天皇として初めてアメリカ合衆国を訪問した︵いずれの外国訪問にも香淳皇后を同伴︶。 1989年︵昭和64年︶1月7日に崩御。これに伴い、第1皇男子の皇太子明仁親王が皇位を継承して第125代天皇に践祚した。 第26代継体天皇以降の明確な記録が残る歴代天皇の中で在位期間が最も長く︵62年及び14日間︶、在位中に崩御した天皇としては最高齢︵宝算87︶である[注釈 4]。 2019年︵令和元年︶の第126代天皇践祚︵即位︶時において、皇室典範に基づき皇位継承権を有する3名の親王︵秋篠宮文仁親王、悠仁親王、常陸宮正仁親王[注釈 5]︶の﹁最も近い共通祖先﹂である︵詳細は﹁皇位継承順位﹂を参照︶。生涯
幼少時代
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/Michi-no-miya_Hirohito_1902.jpg/180px-Michi-no-miya_Hirohito_1902.jpg)
皇太子時代
摂政時代
-
台湾総督府前で騎兵隊の出迎えを受ける(1923年撮影)
-
新婚の皇太子夫妻(1924年撮影、満23歳)
-
皇太子夫妻と照宮(1926年撮影、満25歳)
即位
日中戦争と第二次世界大戦
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/Imperial_general_headquaters_meeting.jpg/200px-Imperial_general_headquaters_meeting.jpg)
(1943年(昭和18年)4月29日 朝日新聞掲載)
「象徴天皇」として
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/Emperor_Showa_%26_Empress_Kojun_1956-11.jpg/180px-Emperor_Showa_%26_Empress_Kojun_1956-11.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/16/Photograph_of_President_Gerald_R._Ford_and_Emperor_Hirohito_of_Japan_Inspecting_the_Guard_on_the_South_Lawn_of_the_White_House_at_the_Arrival_Ceremony_for_the_Emperor%27s_State_Visit_-_NARA_-_7839955.jpg/180px-thumbnail.jpg)
晩年
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f5/Photograph_of_The_Reagans_and_Japanese_Emperor_Hirohito%2C_Tokyo%2C_Japan_-_NARA_-_198544.jpg/180px-Photograph_of_The_Reagans_and_Japanese_Emperor_Hirohito%2C_Tokyo%2C_Japan_-_NARA_-_198544.jpg)
同年2月24日、新宿御苑において日本国憲法および皇室典範の下で初めての大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点あまりが副葬品としてともに納められたとされる[81]。
年譜
●1901年︵明治34年︶4月29日午後10時10分、父親の皇太子嘉仁親王︵のちの大正天皇︶と母親の皇太子妃節子︵のちの貞明皇后︶との間に第一子・第一皇男子として、青山の東宮御所に誕生。 ●祖父帝・明治天皇の命名により、称号は系譜
昭和天皇の系譜 |
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昭和天皇 | 父: 大正天皇 |
祖父: 明治天皇 |
曽祖父: 孝明天皇 |
曽祖母: 中山慶子 | |||
祖母: 柳原愛子 |
曽祖父: 柳原光愛 | ||
曽祖母: 長谷川歌野 | |||
母: 貞明皇后 |
祖父: 九条道孝 |
曽祖父: 九条尚忠 | |
曽祖母: 菅山 | |||
祖母: 野間幾子 |
曽祖父: 野間頼興[83] | ||
曽祖母: 不詳 |
系図
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/04/Showa_family_1936.jpg/220px-Showa_family_1936.jpg)
昭和天皇一家。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fb/Showa-family1941_12_7.jpg/220px-Showa-family1941_12_7.jpg)
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122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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124 昭和天皇 |
| 秩父宮雍仁親王 |
| 高松宮宣仁親王 |
| 三笠宮崇仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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125 上皇 |
| 常陸宮正仁親王 |
| 寬仁親王 |
| 桂宮宜仁親王 |
| 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||
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126 今上天皇 |
| 秋篠宮文仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
皇子女
香淳皇后(良子女王)との間に2男5女の7人の皇子女をもうけた。うち夭折した第2皇女子(第2子)を除き、2男4女の6人が成人した。
御称号及び 諱・身位 |
読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
照宮成子内親王 | てるのみやしげこ | 1925年(大正14年)12月6日 | 1961年(昭和36年)
7月23日(満35歳没) |
第1皇女子 (第1子) |
盛厚王(東久邇宮家)と結婚後、 盛厚王妃成子内親王となる。 戦後の皇籍離脱後は、 東久邇成子(姓読み:ひがしくに)となる。 子女:3男2女(5人)。 |
![]() |
久宮祐子内親王 | ひさのみや
さちこ |
1927年(昭和2年) | 1928年(昭和3年)
3月8日(満0歳没) |
第2皇女子 (第2子) |
久宮祐子内親王、夭折。 子女:無し。 |
![]() |
孝宮和子内親王 | たかのみや
かずこ |
1929年(昭和4年) | 1989年(平成元年)
5月26日(満59歳没) |
第3皇女子 (第3子) |
鷹司平通と結婚 皇籍離脱後、鷹司和子(姓読み:たかつかさ)となる。 (皇室典範第12条[84]の規定による) 子女:無し、養子:1男(1人)。 |
順宮厚子内親王 | よりのみや
あつこ |
1931年(昭和6年) | 存命中(93歳) | 第4皇女子 (第4子) |
池田隆政と結婚 皇籍離脱後、池田厚子(姓読み:いけだ)となる。 (皇室典範第12条[84]の規定による) 子女:無し。 | |
![]() |
継宮明仁親王 | つぐのみや
あきひと |
1933年(昭和8年)
12月23日 |
存命中(90歳) | 第1皇男子 (第5子) |
正田美智子(姓読み:しょうだ)と結婚 (→皇太子妃→皇后→上皇后) 明仁(第125代天皇) 1989年(昭和64年)1月7日: 父である昭和天皇の崩御に伴い、 即位(皇位継承:践祚)。 2019年(平成31年)4月30日に退位(譲位)、 2019年(令和元年)5月1日 - 。 |
![]() |
義宮正仁親王 | よしのみや
まさひと |
1935年(昭和10年) | 存命中(88歳) | 第2皇男子 (第6子) |
津軽華子(姓読み:つがる)と結婚 (→正仁親王妃華子)。 常陸宮正仁親王(常陸宮当主) 皇位継承順位第3位[注釈 24]。 子女:無し。 |
![]() |
清宮貴子内親王 | すがのみや
たかこ |
1939年(昭和14年) | 存命中(85歳) | 第5皇女子 (第7子) |
島津久永と結婚 皇籍離脱後、島津貴子(姓読み:しまづ)となる。 (皇室典範第12条[84]の規定による) 子女:1男(1人)。 |
主な出来事
乃木希典による教育
- 乃木の薫陶
宮中某重大事件
関東大震災と婚礼の儀の延期
田中義一首相を叱責、内閣総辞職
1928年︵昭和3年︶6月4日に起きた張作霖爆殺事件︵満洲某重大事件︶の責任者処分に関して、内閣総理大臣の田中義一は﹁責任者を厳正に処罰する﹂と昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかったとき、昭和天皇は﹁それでは、前の話と違うではないか﹂と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる︵田中首相は、その後間もなく死去した︶。 田中内閣時には、若い昭和天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導のもと、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの﹁陰謀﹂によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。昭和天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。この事件で 昭和天皇は﹁その後の政治的関与について、慎重になった﹂という。 なお﹃昭和天皇独白録﹄には、﹁﹃辞表を出してはどうか﹄と昭和天皇が田中義一首相に内閣総辞職を迫った﹂という記述があるが、当時の一次史料︵﹃牧野伸顕日記﹄など︶を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。 昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄は﹁牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ︵憲政下における明治天皇の実態とは異なる︶を抱き親政を志向したため﹂と、原武史は﹁地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響による﹂とそれぞれ論じている。「天皇機関説」事件
二・二六事件
太平洋戦争︵第二次世界大戦︶
開戦
1941年︵昭和16年︶9月6日、第6回御前会議で、対英米蘭戦は回避不可能なものとして決定された。 御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の1904年︵明治37年︶に自身の祖父たる明治天皇が日露戦争開戦の際に詠んだ御製を引用した。
「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」
四方の海(にある国々)は 皆兄弟姉妹/同胞と 思う世に なぜ波風が 立ち騒ぐのだろう
戦争指導
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/%E5%B3%B6%E6%9D%91%E4%BF%A1%E6%94%BF5.jpg/180px-%E5%B3%B6%E6%9D%91%E4%BF%A1%E6%94%BF5.jpg)
和平に向けて
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bb/Gozen-kaigi_14_August_1945.jpg/200px-Gozen-kaigi_14_August_1945.jpg)
敗因に対する考え
昭和天皇は戦後間もない1945年︵昭和20年︶9月9日に、栃木県の奥日光に疎開していた長男、皇太子の継宮明仁親王︵現‥上皇︶へ送った手紙の中で、戦争の敗因について次のように書き綴っている。「 | 「国家は多事であるが、私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」(一部抜粋)[124] | 」 |
象徴天皇への転換
マッカーサーとの会見
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d4/Macarthur_hirohito.jpg/180px-Macarthur_hirohito.jpg)
人間宣言
天皇イメージの転換
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/Showa_emperor_wearing_tenno_gofuku.jpg/180px-Showa_emperor_wearing_tenno_gofuku.jpg)
戦後巡幸
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/14/An_old_woman_looking_for_Showa_Emperor_in_1949.jpg/180px-An_old_woman_looking_for_Showa_Emperor_in_1949.jpg)
スポーツ観戦
相撲
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/02/Michi-no-miya_Hirohito_1913_Sumo.jpg/180px-Michi-no-miya_Hirohito_1913_Sumo.jpg)
武道
野球
靖国神社親拝
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e4/Hirohito_visit_to_the_Yasukuni_Shrine_in_1934.jpg/300px-Hirohito_visit_to_the_Yasukuni_Shrine_in_1934.jpg)
外遊
外国訪問は生涯に3回あった。この他、皇太子時代に外地訪問も行っている︵当時は日本国内、#行幸の節を参照︶。皇太子時代
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Crown_Prince_Hirohito_in_Oxford_1921.jpg/180px-Crown_Prince_Hirohito_in_Oxford_1921.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Crown_Prince_Hirohito_in_Edinburgh_1921.jpg/180px-Crown_Prince_Hirohito_in_Edinburgh_1921.jpg)
天皇時代
一覧
年 | 出国 | 帰国 | 訪問地 | 同行 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1971年 (昭和46) |
9月27日 | 10月14日 | ![]() ![]() ![]() ( ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
香淳皇后 | 国際親善 |
1975年 (昭和50) |
9月30日 | 10月14日 | ![]() |
香淳皇后 | 国際親善 |
アメリカ合衆国訪問
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Ford_and_Emperor1975.jpg/180px-Ford_and_Emperor1975.jpg)
行幸
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b9/No_1_Middle_School_Tainan_and_Hirohito.jpg/180px-No_1_Middle_School_Tainan_and_Hirohito.jpg)
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逸話
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幼少・皇太子時代
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天皇時代
戦前
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戦時中
●対英米開戦後初の敗北を喫したミッドウェー海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、﹁大戦中期のガダルカナル島の戦いにおける敗北以降、各地で日本軍が連合国軍に押され気味になると、言動に余裕がなくなった﹂という。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で﹁この懸案に対し、大臣はどう思うか…﹂などの独り言がよく聞こえたという[要出典]。 ●南太平洋海戦の勝利を﹁小成﹂と評し、ガダルカナル島奪回に一層努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。 ●ガダルカナル島の戦いでのヘンダーソン基地艦砲射撃成功の際、﹁初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ﹂と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告、これは連合艦隊司令長官山本五十六と司令部にも伝わっていた[171]。だが、参謀・黒島亀人以下連合艦隊司令部は深く検討せず[172]、再度の艦砲射撃を企図した際、待ち伏せていたアメリカ軍との間で第三次ソロモン海戦が発生。御召艦を度々務めた戦艦﹁比叡﹂を失い、翌日には姉妹艦﹁霧島﹂も沈没し、天皇の懸念は的中した。 ●太平洋戦争︵大東亜戦争︶のペリリュー島の戦いの折には﹁ペリリューはまだ頑張っているのか﹂と守備隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も3度も与えている。 ●﹁原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させた﹂と伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は﹁どうやったら敵を撃滅できるのか﹂と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山元気参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。 ●陸海軍の仲違いや互いの非協力には内心忸怩たるものがあった。1943年︵昭和18年︶、第三南遣艦隊司令長官拝命の挨拶の為に参内した岡新海軍中将に対して、赴任先のフィリピン方面での陸海軍の協力体制について下問があった。﹁頗る順調﹂という意味の返答をした岡中将に対して、﹁陸軍は航空機運搬船︵﹁あきつ丸﹂﹁神州丸﹂など︶を開発・運用しているが、海軍には搭載する艦載機のない空母がある。なぜ融通しないのか?﹂とさらなる下問があった。 そのときはそれ以上の追及はなかったものの、時期が夏場だったこともあり、﹁返答に窮する岡中将の背中には見る見るうちに汗染みが広がっていくのが見えた﹂という。 ●戦争中、昭和天皇は靖国神社や伊勢神宮などへの親拝や宮中祭祀を熱心に行い、戦勝祈願と戦果の奉告を行っていた。政治史研究家の原武史は、﹁昭和天皇が熱心な祈りを通じて﹃神力によつて時局をきりぬけやう﹄[173]とするようになったという。 ●大戦末期に開始された特別攻撃に対しては複雑な感情を抱いていた。特攻開始当初は、戦果を上奏した米内光政海軍大臣に、﹁かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。﹂と発言するなど、戸惑っていたが[174]、陸軍初の特攻隊﹁万朶隊﹂に対しては﹁万朶隊はそんなにたくさんの弾丸を受けながら、低空攻撃をやって、非常な戦果をあげたことは結構であった﹂と述べている[175]。1945年の元旦に宮中恒例の晴れの御膳が大膳職からだされたが、その後に軍からも白布に包まれたお膳が届けられた。軍からそのお膳について﹁連日のごとく出撃している特攻隊員に対し、その壮途にはなむけて出す料理でございます﹂という説明を聞いた昭和天皇は長い間何も言わずそのお膳を見つめていたが、手をつけることはなくそのまま侍従武官に下げた。下げられた武官たちは昭和天皇の胸の内を察して胸がつまる思いになったという[176]。しかし﹁一撃講和﹂を考えていた昭和天皇は特攻に期待を抱いており、神風特別攻撃隊﹁第2御盾隊﹂が硫黄島の戦いで、空母を撃沈する大戦果を挙げたとの上奏があると、硫黄島へ再度の特攻出撃を命じている[177]。沖縄戦でも日本軍は多数の特攻機を出撃させたが、毎日夕刻に侍従武官から受ける特攻の戦果の上奏に対して、昭和天皇は﹁そうか、本当によかった﹂と心から喜んでいた。ある日、侍従武官が地図を広げて天皇に戦況を説明していると、昭和天皇が特攻隊が突入した地点に深々と最敬礼をしたので、侍従武官は、天皇が懸命に耐えている悲痛な心の一端を示したのだと察した[178]。昭和天皇には、軍の最高指揮官大元帥として部下将兵の戦果を褒めたたえる面と、天皇として臣民を十死零生の非情の作戦に従事させ悲しむ面の両面を、両立させざるを得ない立場にある苦悩があったという指摘もある[179]。昭和天皇は戦後に特攻に対して﹁特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた。﹂という思いを述べている[180]。 ●﹁天皇として自分の意を貫いたのは、二・二六事件と終戦の時だけであった﹂と語っている︵後述︶。 ●戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。﹃昭和天皇独白録﹄によれば、対米英開戦時の首相であった東條英機に対して﹁元来、東條という人物は話せばよく判る﹂﹁東條は一生懸命仕事をやるし、平素言っていることも思慮周密で中々良い処があった﹂と評していた。もっとも、﹁追い詰められた東條の苦しい言い訳には、顔をしかめることもあった﹂と伝わる。しかしながら、のちに極東国際軍事裁判︵東京裁判︶でA級戦争犯罪人として有罪が確定し死刑となった東條の葬儀には勅使を遣わしている。東條の側近に対しての評価は辛辣で、﹁田中隆吉とか富永恭次次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ﹂と名指しで非難している[181]。東條の首相失脚後に、後ろ盾を失った富永が、第4航空軍司令官としてフィリピンの最前線に送られたときにも、昭和天皇は、富永の指揮能力を懸念してその人事に難色を示していたが、レイテ島の戦い初期において富永は積極的な作戦指揮でマッカーサーを苦戦させ[182]、一時的にレイテ島の制空権を確保するなど健闘していたため[183]、昭和天皇は﹁第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ﹂と称賛している[184]。また田中については、東京裁判の際にジョセフ・キーナン主席検事から昭和天皇の戦争責任を回避するための協力を求められ、昭和天皇の訴追回避のために検事側証人として出廷したとする説もある[185]。 ●﹃昭和天皇独白録﹄などにより松岡洋右や白鳥敏夫、宇垣一成、大島浩などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらず、この一件を理由としていい感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、天皇は山下に拝謁の機会を与えていない︵もっとも、フィリピン転出の際には拝謁を果たしており、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものともいわれる︶。晩年、﹁﹃この間出た猪木正道の近衛文麿について書かれた本が正確だ﹄、と中曽根に伝えよ﹂と昭和天皇に命ぜられたと宮内庁長官・富田朝彦が当時の首相・中曽根康弘に言ったという。中曽根は﹃評伝 吉田茂﹄で批判的に書かれていた近衛と松岡についてのことだと理解した[186]。 ●終戦時の陸軍大臣でかつて侍従武官として昭和天皇に仕えた阿南惟幾には好感を抱いており、阿南が侍従武官のときには馬術の指導を受けたり、長い時間2人で話し込んだり、自分のワイシャツを贈ったりしている[187]。阿南が師団長として戦場に赴くこととなったときには、出征の門出として阿南を宮中に招き2人きりで陪食している。これは前例がなかったことで、2人は松花堂弁当を食べ、食事が終わった後も時間が許す限り話し込んでいる[188]。昭和天皇は阿南のことを親しみをこめて﹁あなん﹂と呼んでいた[189]。阿南は陸軍大臣に就任すると﹁国体護持﹂と﹁昭和天皇の安全の保障﹂のために早急な降伏に反対したが、最後は昭和天皇が﹁聖断﹂を下して終戦が決まると、泣き崩れる阿南に﹁あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある﹂とやさしく説いた[190]。その後、阿南は責任を取って自決したが、そのときに身に着けていたのは昭和天皇から拝領したワイシャツであった。阿南自決の知らせを聞いた昭和天皇は﹁あなんはあなんとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした……﹂と蓮沼蕃侍従武官長にもらしている[191]。侍従長の藤田尚徳によれば、阿南は昭和天皇が信頼していた数少ない陸軍軍人で、阿南の率直豪快な性格を好んでおり、その死を悼んでいたという[192]。初代宮内庁長官の田島道治によれば、昭和天皇は、阿南について﹁終戦ハ鈴木、米内、木戸、それから陸相の阿南、と皆私の気持をよく理解してゝくれて其コムビがよかつた。﹂と評したとされる。 ●宮内省と宮殿の間にある大膳寮で調理された食事は、御文庫︵戦争後半から天皇皇后が暮らした建物︶に車で運ばれ、当直侍医の﹁おしつけ﹂(毒見)を受ける。開戦直後から食糧事情が厳しくなった上、生真面目な昭和天皇が闇物資を仕入れることを禁じたため、戦争末期の食事はかなり貧しかった。主食は配給の米に丸麦や外米を混ぜたものを日に一度だけ、他の2食はうどん、そば、すいとん、代用パン、イモ類など。物資を囲い込み、贅沢を続けた軍部とは大違いだった[193]。 ●御文庫の御書斎の飾り棚にエイブラハム・リンカーンとチャールズ・ダーウィンのブロンズ像を置いていた。敵国の元大統領と皇室の神話とは相いれない進化論を唱えた科学者である。だが、昭和天皇はリンカーンを政治家として尊敬し、ダーウィンの学者としての真摯な姿勢に共感し、何の違和感も抱いていなかったらしい。ちなみに、1942年(昭和17年)4月29日︵天長節︶、自身の41歳の誕生日の夜に香淳皇后と側近たちと共に﹁ミッキーの捕鯨船﹂というアメリカ映画を鑑賞したことが記録されている[193]。戦後
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公務におけるもの
●﹁あ、そう﹂に象徴されるように発言のバリエーションが少ない一方、表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップ︵GHQカメラマンディミトリー・ボリアが撮影、時期は1950年︵昭和25年︶- 1951年︵昭和26年︶頃︶なども写真に残っている。ただし、終戦まで天皇の笑顔を写した写真は、検閲によって一切公開不許可であった[200]。 ●1982年︵昭和57年︶の園遊会で黒柳徹子と歓談した際、黒柳が当時の自著﹃窓ぎわのトットちゃん﹄を﹁国内で470万部売って、英語で外国でも出ることになりました﹂と説明すると、昭和天皇は﹁よく売れて﹂と答えた。あたかも天皇へ自著を自慢しているように映ってしまい、周囲の大爆笑に黒柳は照れ笑いを浮かべながら﹁︵売上を︶福祉のために使うことができました﹂と説明した。このほか、柔道家の山下泰裕が昭和天皇から﹁︵柔道は︶骨が折れるだろうね﹂と声をかけられた際、文字通りに受け取ってしまい﹁はい、2年前に骨折しましたが、今はよくなって頑張っております﹂と朗らかに返答したエピソードがある。 ●1983年︵昭和58年︶5月、埼玉県行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館へ行幸。天皇がガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、記者団が一斉にフラッシュをたいてその様子を撮影しようとしたため﹁君たち、ライトをやめよ!﹂と記者団を叱った。カメラのフラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。 ●晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって﹁国会の開会式には無理に出席しなくとも……﹂という声が上がった。ところが天皇は﹁むしろ楽しみにしてるんだから、楽しみを奪うような事を言わないでくれ﹂と訴えたという。家族・家庭
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人物像
天皇自身の発言
1972年︵昭和47年︶3月7日・﹃ニューヨークタイムズ﹄のインタビュー[213][214] [天皇] 自身の人生と知的発達にもっとも影響を与えた人物は、ドイツで学んだあとに日本の西洋史の権威となった日本人教授、箕作元八である。 [天皇] 箕作元八の著書は、何年か前に私に西洋史の傾向や西洋の民主主義を理解することの重要性を証明してくれた。そして、私の勅書においても、具体的なアイデアの速やかな採用に貢献した。生活・趣味
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食事・好物
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天皇のお食事というものは賜宴、陪食の場合は別として、たいそう質素であり、特に主食では一般の家庭より無味なものを召し上がっておられることを解ってもらえれば、結構だとおもう。[233] |
生物・自然
●生物学者だった昭和天皇は、1912年4月27日に学習院初等学科5年生の授業でカエルの解剖を習った。帰宅してからもトノサマガエルの解剖を行い、観察後は死骸を箱に入れて庭に埋め、﹁正一位蛙大明神﹂の称号を与えたという[164][167]。 ●昭和天皇は海の生物が好きであり、臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って磯釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、すべて食べる主義であった。終戦直後には﹁ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ﹂と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した︵のちに﹁あまりおいしいものではなかった﹂と述べた︶という。採集品については食べることはなかったともいわれ、船頭が献上した大ダイをそのまま標本にしてしまい、船頭が惜しがったというエピソードも伝わる。 ●1929年︵昭和4年︶、戦艦﹁長門﹂で和歌山県に訪問し進講を受けた南方熊楠のことを昭和天皇は後々まで忘れることがなく、その名を戦後の御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。通常は桐の箱で渡される標本は森永キャラメルの大箱に入れられていたが昭和天皇はそれさえも面白がったという。 ●﹁テツギョ﹂というキンギョとフナの雑種とされる魚を飼育していた。のちに遺伝子分析でキンブナとリュウキンの雑種と判明した。 ●海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。訪欧時フランスのバルビゾンのレストラン﹁バ・ブレオー﹂でエスカルゴを食べる際、その個数について﹁サンク︵仏語で5つ︶﹂と﹁3個﹂をかけて近習をからかったことがある[205][237]。 ●武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を1937年︵昭和12年︶に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。 ●﹁雑草という植物はない﹂と言ったとされることでも知られる。これに関連し、1984年︵昭和59年︶8月の取材において、雑草と言う呼称について﹁少し侮辱的な感じがして、どうも好まないのです﹂﹁どうもおもしろくない名前﹂と発言している[238]。 ●2018年、生前採取していたテヅルモヅルが新種であったことが判明し﹁トゲツルボソテヅルモヅル﹂と命名された[239]。短歌
昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだといわれている。うち公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは、御製の立場によるところが大きい。 帝国憲法期の御歌所の流れから、戦後は木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の指導による影響も受け変容していった。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。 昭和天皇の歌集 ●みやまきりしま‥天皇歌集︵毎日新聞社編、1951年11月、毎日新聞社︶ ●おほうなばら‥昭和天皇御製集︵宮内庁侍従職編、1990年10月、読売新聞社︶ ●昭和天皇御製集︵宮内庁編、1991年7月、講談社︶ 昭和天皇・香淳皇后の歌集 ●あけぼの集‥天皇皇后両陛下御歌集︵木俣修編、1974年4月、読売新聞社︶生物学研究
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f2/Hirohito_echiurid.jpg/200px-Hirohito_echiurid.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/47/Emperor_Showa_in_laboratory.jpg/200px-Emperor_Showa_in_laboratory.jpg)
- 昭和天皇の研究著書
- 昭和天皇と専門の学者の共同研究
- 昭和天皇の採集品を基に専門の学者がまとめたもの
- 相模湾産後鰓類図譜(馬場菊太郎)(1949年9月、岩波書店)
- 相模湾産海鞘類図譜(時岡隆)(1953年6月、岩波書店)
- 相模湾産後鰓類図譜 補遺(馬場菊太郎)(1955年4月、岩波書店)
- 増訂 那須産変形菌類図説(服部廣太郎)(1964年10月、三省堂)
- 相模湾産蟹類(酒井恒)(1965年4月、丸善)
- 相模湾産ヒドロ珊瑚類および石珊瑚類 (江口元起)(1968年4月、丸善)
- 相模湾産貝類(黒田徳米・波部忠重・大山桂) (1971年9月、丸善)
- 相模湾産海星類(林良二)(1973年12月、保育社)
- 相模湾産甲殻異尾類 (三宅貞祥)(1978年10月、保育社)
- 伊豆半島沿岸および新島の吸管虫エフェロタ属(柳生亮三)(1980年10月、保育社)
- 相模湾産蛇尾類(入村精一)(1982年3月、丸善)
- 相模湾産海胆類(重井陸夫)(1986年4月、丸善)
- 相模湾産海蜘蛛類(中村光一郎)(1987年3月、丸善)
- 相模湾産尋常海綿類(谷田専治)(1989年11月、丸善)
- 相模湾産八放サンゴ類(今原幸光・岩瀬文人・並河洋)(2014年3月、東海大学出版会)
- 昭和天皇が発表したヒドロ虫類の新種
- Clytia delicatula var. amakusana Hirohito, 1969 アマクサウミコップ
- C.multiannulata Hirohito, 1995 クルワウミコップ
- Corydendrium album Hirohito, 1988 フサクラバモドキ
- C. brevicaulis Hirohito, 1988 コフサクラバ
- Corymorpha sagamina Hirohito, 1988 サガミオオウミヒドラ
- Coryne sagamiensis Hirohito, 1988 サガミタマウミヒドラ
- Cuspidella urceolata Hirohito, 1995 ツボヒメコップ
- Dynamena ogasawarana Hirohito, 1974 オガサワラウミカビ
- Halecium perexiguum Hirohito, 1995 ミジンホソガヤ
- H. pyriforme Hirohito, 1995 ナシガタホソガヤ
- Hydractinia bayeri Hirohito, 1984 ベイヤーウミヒドラ
- H. cryptogonia Hirohito, 1988 チビウミヒドラ
- H. granulata Hirohito, 1988 アラレウミヒドラ
- Hydrodendron leloupi Hirohito, 1983 ツリガネホソトゲガヤ
- H. stechowi Hirohito, 1995 オオホソトゲガヤ
- H. violaceum Hirohito, 1995 ムラサキホソトゲガヤ
- Perarella parastichopae Hirohito, 1988 ナマコウミヒドラ
- Podocoryne hayamaensis Hirohito, 1988 ハヤマコツブクラゲ
- Pseudoclathrozoon cryptolarioides Hirohito, 1967 キセルカゴメウミヒドラ
- Rhizorhagium sagamiense Hirohito, 1988 ヒメウミヒドラ
- Rosalinda sagamina Hirohito, 1988 センナリウミヒドラモドキ
- Scandia najimaensis Hirohito, 1995 ナジマコップガヤモドキ
- Sertularia stechowi Hirohito, 1995 ステッヒョウウミシバ
- Stylactis brachyurae Hirohito, 1988 サカズキアミネウミヒドラ
- S. inabai Hirohito, 1988 イナバアミネウミヒドラ
- S. monoon Hirohito, 1988 タマゴアミネウミヒドラ
- S. reticulata Hirohito, 1988 アミネウミヒドラ
- S. (?) sagamiensis Hirohito, 1988 サガミアミネウミヒドラ
- S. spinipapillaris Hirohito, 1988 チクビアミネウミヒドラ
- Tetrapoma fasciculatum Hirohito, 1995 タバヨベンヒメコップガヤ
- Tripoma arboreum Hirohito, 1995 ミツバヒメコップガヤ
- Tubularia japonica Hirohito, 1988 ヤマトクダウミヒドラ
- Zygophylax sagamiensis Hirohito, 1983 サガミタバキセルガヤ
戦争責任論
概要
マッカーサーに対する発言に関して
﹃マッカーサー回想記﹄によれば、昭和天皇と初めて面会したとき、マッカーサーは天皇が保身を求めるとの予想をしていたが、昭和天皇は、 ﹁私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねる為、あなたをお訪ねした﹂ と発言したとされる。この会談内容については関係者による直接又は伝聞に齟齬がある︵昭和天皇・マッカーサー会見#第1回会見を参照︶。昭和天皇自身は1976年︵昭和51年︶11月6日の取材で、﹁秘密で話したことだから、私の口からは言えません﹂とした[242]。翌1977年︵昭和52年︶8月23日に行われた取材でも、マッカーサーの印象について問われた際﹁マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした﹂﹁男子の一言のごときことは、守らねばならない﹂と述べ、遂に崩御まで口外しなかった[243]。 また当時の宮内省総務課長で随行者の一人であった筧素彦[244]も最初に昭和天皇と対面したときのマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、のちに﹃マッカーサー回想記﹄などで発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している[161]。天皇自身の発言
1975年︵昭和50年︶9月8日、米国NBC放送のテレビインタビュー[245] [記者] 1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか。 [天皇] もともと、こういうことは内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。︵中略︶戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。 1975年︵昭和50年︶9月20日・アメリカ・ニューズウィークのインタビュー[246] [記者] ︵前略︶日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか。 [天皇] ︵前略︶開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています。 1975年︵昭和50年︶9月22日・外国人特派団への記者会見[247] [記者] 真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか。 [天皇] 私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。 1975年︵昭和50年︶10月31日、訪米から帰国直後の日本記者クラブでの記者会見[248][249][250]。 [問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、﹁私が深く悲しみとするあの戦争﹂というご発言をなさいましたが、このことは陛下が、開戦を含めて戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか。︵﹃タイムズ﹄記者︶ [天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。 [問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか。︵中国放送記者︶ [天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。 1981年︵昭和56年︶4月17日・報道各社社長との記者会見[251] [記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは? [天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは二回︵引用註‥二・二六事件と第二次世界大戦の終結︶でした。陵・霊廟・記念館
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/Emperor-Sh%C5%8Dwa-Memorial-Museum-3.jpg/200px-Emperor-Sh%C5%8Dwa-Memorial-Museum-3.jpg)
財産
●終戦時‥37億5千万円。現在の金額で7912億円ほど。 ●崩御時‥18億6千900万円、および美術品約5千点。美術品は1点で億単位の物も多数という。 ●皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有したが、昭和17年時点までには、日本銀行、日本興業銀行、横浜正金銀行、三井銀行、三菱銀行、住友銀行、日本郵船、大阪商船、南満洲鉄道、朝鮮銀行、台湾銀行、東洋拓殖、台湾製糖、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主であった。 ●皇室の財産も例外でなく一般国民同様に課税対象であり、昭和天皇崩御の時には相続税が支払われている。香淳皇后が配偶者控除を受け、長男の第125代天皇︵現‥明仁上皇︶が相続税を全額を支払った。この時に御物と呼ばれる古美術品は相続せずに国庫に納められ、それを基に三の丸尚蔵館が開館した[253]。 ●終戦後、GHQにより皇室財産のほとんどが国庫に帰したとされるが、1944年︵昭和19年︶に、参謀総長と軍令部総長から戦局が逆転し難いとの報告を受けた後、皇室が秘密裏にスイスの金融機関に移管して隠匿させた財産が存在した、という主張がある[254][255]。軍における階級
日本軍の階級
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/06/War_flag_of_the_Imperial_Japanese_Army.svg/25px-War_flag_of_the_Imperial_Japanese_Army.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4f/Naval_Ensign_of_Japan.svg/25px-Naval_Ensign_of_Japan.svg.png)
外国軍の階級
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Flag_of_the_British_Army.svg/25px-Flag_of_the_British_Army.svg.png)
栄典
勲章︵国内︶
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/13/JPN_Daikun%27i_kikkasho_BAR.svg/60px-JPN_Daikun%27i_kikkasho_BAR.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/13/JPN_Daikun%27i_kikkasho_BAR.svg/60px-JPN_Daikun%27i_kikkasho_BAR.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2f/JPN_Toka-sho_BAR.svg/60px-JPN_Toka-sho_BAR.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/JPN_Kinshi-kunsho_1Class_BAR.svg/60px-JPN_Kinshi-kunsho_1Class_BAR.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/09/JPN_Zuiho-sho_1Class_BAR.svg/60px-JPN_Zuiho-sho_1Class_BAR.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/JPN_Bunka-kunsho_blank_BAR.svg/60px-JPN_Bunka-kunsho_blank_BAR.svg.png)
外国勲章
国名等は受章当時。日付は、日本の官報で受章した︵捧呈された︶日付、又は当該国官報で授与された日付のうち、早い方。皇太子・摂政時代
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cb/Prince_Hirohito_Star_of_the_Order_of_the_Bath_1921-5.jpg/180px-Prince_Hirohito_Star_of_the_Order_of_the_Bath_1921-5.jpg)
![イギリスの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg/25px-Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg.png)
![フランスの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Flag_of_France_%281794%E2%80%931815%2C_1830%E2%80%931974%29.svg/25px-Flag_of_France_%281794%E2%80%931815%2C_1830%E2%80%931974%29.svg.png)
![イタリア王国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/78/Flag_of_Italy_%281861%E2%80%931946%29.svg/25px-Flag_of_Italy_%281861%E2%80%931946%29.svg.png)
![ロシア帝国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f3/Flag_of_Russia.svg/25px-Flag_of_Russia.svg.png)
![オランダの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/20/Flag_of_the_Netherlands.svg/25px-Flag_of_the_Netherlands.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Flag_of_Sweden.svg/25px-Flag_of_Sweden.svg.png)
![ルーマニア王国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Flag_of_Romania.svg/25px-Flag_of_Romania.svg.png)
![イギリスの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg/25px-Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg.png)
![イギリスの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg/25px-Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Flag_of_Norway.svg/25px-Flag_of_Norway.svg.png)
![スペインの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Flag_of_Spain_%281785%E2%80%931873%2C_1875%E2%80%931931%29.svg/25px-Flag_of_Spain_%281785%E2%80%931873%2C_1875%E2%80%931931%29.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9c/Flag_of_Denmark.svg/25px-Flag_of_Denmark.svg.png)
![ポーランドの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fa/Flag_of_Poland_%281919%E2%80%931928%29.svg/25px-Flag_of_Poland_%281919%E2%80%931928%29.svg.png)
![チェコスロバキアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cb/Flag_of_the_Czech_Republic.svg/25px-Flag_of_the_Czech_Republic.svg.png)
![ペルーの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/Flag_of_Peru.svg/25px-Flag_of_Peru.svg.png)
![ポルトガルの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5c/Flag_of_Portugal.svg/25px-Flag_of_Portugal.svg.png)
天皇時代
●1927年︵昭和2年︶6月9日 -![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/78/Flag_of_Chile.svg/25px-Flag_of_Chile.svg.png)
![ボリビアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b3/Bandera_de_Bolivia_%28Estado%29.svg/25px-Bandera_de_Bolivia_%28Estado%29.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9c/Flag_of_Denmark.svg/25px-Flag_of_Denmark.svg.png)
![スペインの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Flag_of_Spain_%281785%E2%80%931873%2C_1875%E2%80%931931%29.svg/25px-Flag_of_Spain_%281785%E2%80%931873%2C_1875%E2%80%931931%29.svg.png)
![チェコスロバキアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cb/Flag_of_the_Czech_Republic.svg/25px-Flag_of_the_Czech_Republic.svg.png)
![ルーマニア王国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Flag_of_Romania.svg/25px-Flag_of_Romania.svg.png)
![オーストリアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/41/Flag_of_Austria.svg/25px-Flag_of_Austria.svg.png)
![イギリスの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg/25px-Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg.png)
![ハンガリー王国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/Flag_of_Hungary_%281915-1918%2C_1919-1946%29.svg/25px-Flag_of_Hungary_%281915-1918%2C_1919-1946%29.svg.png)
![バチカンの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b3/Flag_of_Vatican_City_%282023%E2%80%93present%29.svg/20px-Flag_of_Vatican_City_%282023%E2%80%93present%29.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bc/Flag_of_Finland.svg/25px-Flag_of_Finland.svg.png)
![中華民国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/08/Flag_of_the_Republic_of_China-Nanjing_%28Peace%2C_Anti-Communism%2C_National_Construction%29.svg/22px-Flag_of_the_Republic_of_China-Nanjing_%28Peace%2C_Anti-Communism%2C_National_Construction%29.svg.png)
![ブラジルの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/Flag_of_Brazil.svg/25px-Flag_of_Brazil.svg.png)
![タイ王国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Flag_of_Thailand.svg/25px-Flag_of_Thailand.svg.png)
![フィリピンの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/99/Flag_of_the_Philippines.svg/25px-Flag_of_the_Philippines.svg.png)
![ベルギーの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Flag_of_Belgium.svg/23px-Flag_of_Belgium.svg.png)
![ブルネイの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9c/Flag_of_Brunei.svg/25px-Flag_of_Brunei.svg.png)
![ドイツの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/ba/Flag_of_Germany.svg/25px-Flag_of_Germany.svg.png)
![イタリアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Flag_of_Italy.svg/25px-Flag_of_Italy.svg.png)
![ギリシャの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5c/Flag_of_Greece.svg/25px-Flag_of_Greece.svg.png)
![ギリシャの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5c/Flag_of_Greece.svg/25px-Flag_of_Greece.svg.png)
![エチオピアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Flag_of_Ethiopia_%281897%E2%80%931974%29.svg/25px-Flag_of_Ethiopia_%281897%E2%80%931974%29.svg.png)
著書
自身の著書
●裕仁﹃日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討﹄生物学御研究所、1967年2月15日。 ●裕仁﹃相模湾産ヒドロ虫類﹄生物学御研究所、1988年。 ●昭和天皇︵山田真弓・補足修正︶﹃相模湾産ヒドロ虫類2﹄生物学御研究所、1995年。その他の著書
●国立科学博物館﹃天皇陛下の生物学ご研究﹄国立科学博物館、1988年。 ●宮内庁侍従職 編﹃おほうなばら : 昭和天皇御製集﹄読売新聞社、1990年。ISBN 4643900954。 ●宮内庁 編﹃昭和天皇御製集﹄講談社、1991年。ISBN 4062046954。脚注
注釈
出典
参考文献
史料・回想録
●山田米吉﹃大御光﹄日本図書刊行会、1941年。全国書誌番号:1101006。 ●高橋紘﹃陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡﹄文春文庫、1988年3月。ISBN 978-4167472016。 ●黒田勝弘、畑好秀 編﹃昭和天皇語録﹄講談社学術文庫、2004年。ISBN 978-4061596313。 ●藤田尚徳﹃侍従長の回想﹄講談社学術文庫、2015年。ISBN 978-4062922845。 ●マリコ・テラサキ・ミラー 編﹃昭和天皇独白録 付‥寺崎英成御用掛日記﹄文藝春秋、1991年3月。 NCID BN06169666。 ●木戸日記研究会校訂 ﹃木戸幸一日記 ︵上下︶﹄︵東京大学出版会、1966年︶、ISBN 9784130300117/ISBN 9784130300124 ●木戸日記研究会編 ﹃木戸幸一関係文書﹄︵東京大学出版会、1966年︶、ISBN 9784130300131 ●渡辺誠﹁初公開 昭和天皇日々の献立﹂︵﹃月刊 文藝春秋﹄2003年2月号︶ ●岩見隆夫﹃陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治﹄︵文春文庫、2005年︶ ●宮内庁編﹃昭和天皇実録﹄︵東京書籍 全18巻・別巻1︵総索引︶︶、2015年3月-2019年3月側近の日記
●入江相政日記、朝日新聞社で刊 ●卜部亮吾侍従日記、同上 ●徳川義寛終戦日記、同上 ●富田メモ ●木下道雄側近日誌 文藝春秋、のち中公文庫 ●小林忍侍従日記 文春新書で刊 ●田島道治 拝謁記 岩波書店で刊研究文献
●レナード・モズレー﹃天皇ヒロヒト﹄高田市太郎訳 毎日新聞社、1966年/角川文庫︵上・下︶、1983年 ●エドウィン・P・ホイト﹃世界史の中の昭和天皇 -﹁ヒロヒト﹂のどこが偉大だったか﹄ 樋口清之監訳、クレスト社、1993年、ISBN 487712005X ●出雲井晶編﹃昭和天皇﹄︵日本教文社、1996年︶、ISBN 4531062825 ●秦郁彦﹃昭和天皇 五つの決断﹄︵文春文庫、1994年︶、ISBN 416-7453029 ●旧版﹃裕仁天皇 五つの決断﹄︵講談社、1984年︶、ISBN 406-2011271 ●秦郁彦﹁歪められた昭和天皇像﹂︵﹃文藝春秋﹄2003年3月号︶ ●﹁近代の三人目の天皇として 昭和天皇の場合﹂-﹃天皇はいかに受け継がれたか 天皇の身体と皇位継承﹄加藤陽子責任編集︵歴史学研究会編、績文堂出版、2019年2月︶、ISBN 9784881161340 ●加藤恭子﹃昭和天皇﹁謝罪詔勅草稿﹂の発見﹄︵文藝春秋、2003年︶、ISBN 4163655301 ●加藤恭子・秦郁彦・吉田裕・高橋紘﹃大論争﹁昭和天皇 国民への謝罪詔書草稿﹂四つの謎﹄︵﹃月刊 文藝春秋﹄2003年8月号︶ ●伊藤之雄﹃昭和天皇と立憲君主制の崩壊 - 睦仁・嘉仁から裕仁へ﹄︵名古屋大学出版会、2005年︶、ISBN 4815805148 ●ピーター・ウエッツラー﹃昭和天皇と戦争-皇室の伝統と戦時下の政治・軍事戦略﹄︵森山尚美訳、原書房、2002年︶、ISBN 4562035730 ●古川隆久・森暢平・茶谷誠一編﹃﹁昭和天皇実録﹂講義-生涯と時代を読み解く-﹄︵吉川弘文館、2015年︶、ISBN 9784642082853 ●米窪明美﹃天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇﹄︵新潮社、2015年/新潮文庫、2018年︶ ●ベン=アミー・シロニー 著、大谷堅志郎 訳﹃母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来﹄講談社、2003年。ISBN 4062116758。 ●ハーバート・ビックス﹃昭和天皇﹄吉田裕監修、岡部牧夫・川島高峰・永井均訳 上・下︵講談社、2002年/講談社学術文庫、2005年︶ ●井上清﹃井上清史論集4天皇の戦争責任﹄︵岩波現代文庫、2004年 ISBN 9784006001148︶ ●吉田裕﹃昭和天皇の終戦史﹄︵岩波新書、1992年︶、ISBN 4004302579 ●ジョン・ダワー﹃敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人﹄ 三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳︵岩波書店︵上・下︶、2001年、増補版2004年︶ ●内野光子﹃短歌と天皇制﹄︵風媒社、2000年、ISBN 4833120186︶ ●田所泉﹃昭和天皇の短歌﹄︵創樹社、1997年、ISBN 4794305222︶ ●ジョン・トーランド 著、毎日新聞社 訳﹃大日本帝国の興亡5平和への道﹄早川書房︿ハヤカワ文庫NF 新装版﹀、2015年8月。ISBN 415050105X。 ●半藤一利﹃決定版 日本のいちばん長い日―運命の八月十五日﹄文藝春秋︿文春文庫﹀、2006年7月。ISBN 978-4167483159。初版は、大宅壮一編﹃日本のいちばん長い日﹄文藝春秋新社、1965年 ●半藤一利﹃聖断―昭和天皇と鈴木貫太郎﹄PHP研究所、2003年8月。ISBN 978-4569629841。初版は﹃聖断 天皇と鈴木貫太郎﹄文藝春秋、1985年 ●半藤一利、保阪正康、御厨貴、磯田道史﹃﹁昭和天皇実録﹂の謎を解く﹄文春新書、2015年。ISBN 978-4166610099。 ●豊下楢彦﹃昭和天皇・マッカーサー会見﹄岩波書店︿岩波現代文庫﹀、2008年。ISBN 9784006001933。 ●原武史﹃昭和天皇﹄岩波新書、2008年。ISBN 978-4004311119 ●原武史﹃﹁昭和天皇実録﹂を読む﹄岩波新書、2015年9月。ISBN 978-4004315612。雑誌
●毎日新聞社 編﹁崩御昭和天皇 : 激動87年のご生涯のすべて﹂﹃毎日グラフ﹄緊急増刊第2045号、毎日新聞社、1989年1月21日。その他
他の人物の伝記等 ●高松宮妃喜久子﹃菊と葵のものがたり﹄中央公論社、1998年11月。ISBN 978-4120028397。 ●高松宮妃喜久子﹃菊と葵のものがたり﹄中公文庫、2002年1月。ISBN 978-4122039599。 ●女性自身編集部 編﹃昭和の母皇太后さま : 昭和天皇と歩まれた愛と激動の生涯 : 保存版﹄光文社、2000年7月。ISBN 4334900925。 ●佐々木英昭﹃乃木希典﹄ミネルヴァ書房︿ミネルヴァ日本評伝選﹀、2005年8月。ISBN 978-4623044061。 ●阿部牧郎﹃大義に死す―最後の武士・阿南惟幾﹄祥伝社、2003年11月。ISBN 978-4396632403。 ●ダグラス・マッカーサー﹃マッカーサー大戦回顧録﹄津島一夫 訳、中公文庫、改版2014年。ISBN 978-4122059771。 ●原武史﹃皇后考﹄講談社、2015年2月。ISBN 978-4062193948。 ●原武史﹃皇后考﹄講談社学術文庫、2017年12月。ISBN 978-4062924733。 ●森暢平﹁大正期における女性皇族像の転換 : 良子女王をめぐる検討﹂﹃成城文藝﹄第236巻、成城大学、2016年6月、60-26頁、ISSN 02865718、NAID 120006029357。 ●伏見博明﹃旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて﹄中央公論新社、2022年1月。ISBN 978-4120054952。 ●アンドレ・ヴィオリス﹃1932年の大日本帝国﹄大橋尚泰 訳、草思社、2020年。ISBN 479422477X。 軍事関連の文献 ●防衛庁防衛研修所戦史室 編﹃比島捷号陸軍航空作戦﹄朝雲新聞社︿戦史叢書48﹀、1971年。 ●吉田俊雄﹃日本海軍のこころ﹄文藝春秋、2000年12月。ISBN 4-16-356900-6。文春文庫、2002年 ●吉田俊雄﹃戦艦比叡﹄朝日ソノラマ︿文庫版 航空戦史シリーズ51﹀、1985年1月。ISBN 4-257-17051-4。光人社NF文庫で新装再刊 ●伊藤正徳﹃帝国陸軍の最後︿第3﹀死闘篇﹄文藝春秋新社、1960年。ASIN B000JBM31E。同上 ●伊藤正徳﹃帝国陸軍の最後︿第5﹀終末篇﹄文藝春秋新社、1961年。ASIN B000JBM30U。同上 ●猪口力平、中島正﹃神風特別攻撃隊﹄日本出版協同、1951年。ASIN B000JBADFW。 ●猪口力平、中島正﹃神風特別攻撃隊﹄河出書房新社、1967年。ASIN B000JA7KI6。上記の再刊 ●高木俊朗﹃陸軍特別攻撃隊2﹄文藝春秋︿文春学藝ライブラリー﹀、2018年。ISBN 978-4168130786。新装再刊︵全3巻︶ ●大島隆之﹃特攻 なぜ拡大したのか﹄幻冬舎、2016年。ISBN 978-4344029699。 その他 ●田代靖尚﹃昭和天皇のゴルフ 昭和史を解く意外な鍵﹄主婦の友社・インフォス情報社、2012年12月。ISBN 978-4-07-283914-0。昭和天皇を扱った作品
映画 ●﹃日本の悲劇﹄︵1946年、日本映画社 - 記録映画から引用︶ ●﹃日本のいちばん長い日﹄︵1967年、岡本喜八監督 - 演・松本幸四郎︵八代目︶︶ ●﹃激動の昭和史 軍閥﹄︵1970年、堀川弘通監督 - 演・二代目 中村又五郎︶ ●﹃大日本帝国﹄︵1982年、東映、舛田利雄監督 - 演・二代目 市村萬次郎︶ ●﹃スパイ・ゾルゲ﹄︵2003年、東宝、篠田正浩監督 - 演・花柳錦之輔︶ ●﹃太陽﹄︵2005年、スローラーナー、アレクサンドル・ソクーロフ監督 - 演・イッセー尾形︶ ●﹃終戦のエンペラー﹄︵2013年、ピーター・ウェーバー監督 - 演・片岡孝太郎︶ ●﹃日本のいちばん長い日﹄︵2015年、原田眞人監督 - 演・本木雅弘︶ ●﹃日本独立﹄︵2020年、伊藤俊也監督 - 演・野間口徹︶ テレビドラマ ●﹃歴史の涙﹄︵1980年、TBSテレビ - 二代目 市村萬次郎︶ ●﹃そして戦争が終った﹄︵1985年、TBSテレビ - 加藤剛︶ ●﹃天皇陛下の野球チーム﹄︵1990年、TBSテレビ - 市川染五郎︵七代目︶︶、※皇太子時代 ●﹃命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳﹄︵1994年、TBSテレビ - 北大路欣也︶ ●﹃聖断﹄︵2005年、テレビ東京 - 本田博太郎︶ ●﹃あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機﹄︵2008年、TBSテレビ - 野村萬斎︶ ●﹃負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜﹄︵2012年、NHK﹃土曜スペシャルドラマ﹄- 大藏千太郎︶ ●﹃昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録 拝謁記﹄︵2019年、NHK﹃NHKスペシャル﹄- 片岡孝太郎︶ ●﹃ザ・クラウン﹄︵2019年、Netflix - トーゴ・イガワ︶、第3シーズン・第8話のみ登場。 映像 ●﹃昭和天皇87年のご生涯﹄︵2005年より上映、昭和天皇記念館︶ ●﹁昭和天皇とその時代﹂第一巻、蘇る昭和の記録・企画・製作‥日本記録映画社(映像科学館、YouTube配信) ●﹁昭和天皇とその時代﹂第二巻、企画・製作‥日本記録映画社(映像科学館、YouTube配信) ●﹁天皇皇后両陛下 ヨーロッパご訪問の旅﹂︵1972年、企画‥宮内庁 製作‥毎日映画社、35ミリフィルム、40分︶※ 映文連登録番号5693 マンガ ●﹃昭和天皇物語﹄︵2017年 から﹃ビッグコミックオリジナル﹄連載、作画 能條純一‥原作 半藤一利﹁昭和史﹂、脚本‥永福一成、監修‥志波秀宇︶関連項目
外部リンク
●昭和天皇・香淳皇后 - 宮内庁 ●データベース﹃世界と日本﹄日本政治・国際関係データベース 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 ●大行天皇崩御に際しての竹下内閣総理大臣の謹話 (1989年1月7日) ●﹁大喪の礼﹂御式における竹下内閣総理大臣の弔辞 (1989年2月24日) ●天皇陛下崩御に際しての弔意奉表について - ウェイバックマシン︵2007年11月12日アーカイブ分︶ (昭和64年1月7日) - 文部科学省![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/15px-Wikisource-logo.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/15px-Wikisource-logo.svg.png)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/15px-Wikisource-logo.svg.png)
昭和天皇 | ||
日本の皇室 | ||
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先代 大正天皇 (嘉仁) |
皇位![]() 昭和天皇 1926年12月25日 – 1989年1月7日 大正15年/昭和元年12月25日 – 昭和64年1月7日 |
次代 明仁 |
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- 1989年没