吉野葛 谷崎潤一郎(5)

 今日は、谷崎潤一郎の「吉野葛」その5を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 赤ん坊を産み育てて二十九歳という若さで他界した母が、どのように生きたのかを調べる旅をしてきた津村……。この男を谷崎潤一郎が描きだします。津村は母の生家をつきとめて、それから母の遺していった手紙を見つけて調べたのです。母は、当時はそれほどめずらしくは無かったのですが、貧しさのために若いころ「大阪の色町へ売られ、そこからいったん然るべき人の養女になっ」てそのご平和に結婚をした、そういう経歴だったことが判明します。それについて津村はそれほど不快や怒りを感じてはおらず「花柳界の女に近づき、茶屋酒に親しん」で母の生きた世界を知りたがった。
 津村は、母の生まれ故郷を突きとめて、その紙すきを生業とした村を訪れた。
 その村のおばあさんに、かつてのことを聞いていった。
 どうして母の経歴と縁故が謎めいていってしまったのか、その事実がだんだん明らかになります。このあたりすこぶる現実的というか、みごとに細部まで書き記されていて納得がゆきました。
 若い娘を色町へ売って、その事実をのちに語るのもどうも、旧家にとっても当人にとっても良いことではなく、なんとなく黙っていた。それで子からみると謎めいて感じた。さらには吉野の千本桜の物語と地縁があって、安倍晴明の母が狐であるという伝説にも影響を受けてか、狐を民間信仰する習俗もてつだって、母の過去が謎めいていたのでした。嫁ぎ先が不運で、病のためにそうそうに家が解体していってしまったのも、津村にとっては、母はどこから来たのか分からなくなる原因だったようです。
   あと、物語の本筋とはあまり関わりが無いんですが、今回の作中に、ほととぎすという言葉の意味内容が記されていて、すこぶる驚きました。近代文学のはじまりといえば、正岡子規が深く関わっていた「ホトトギス」からいろんな文学者が作品を発表していった。近代文学の始まりの雑誌みたいなものだと思うんですけど、その「ほととぎす」ってどういう意味があるのか。谷崎は作中にこう記しています。
quomark03 - 吉野葛 谷崎潤一郎(5)
 「子をおもうおやの心はやみゆえにくらがりとうげのかたぞこいしき」と、最後に和歌が記されていた。
この歌の中にある「くらがり峠」と云う所は、大阪から大和へ越える街道にあって、汽車がなかった時代には皆その峠を越えたのである。峠の頂上に何とか云う寺があり、そこがほととぎすの名所になっていたから、津村も一度中学時代に行ったことがあったが、たしか六月頃のある夜の、まだ明けきらぬうちに山へかかって、寺でひと休みしていると、あかつきの四時か五時頃だったろう、障子の外がほんのりしらみ初めたと思ったら、どこかうしろの山の方で、不意にと声ほととぎすがいた。するとつづいて、その同じ鳥か、別なほととぎすか、た声も三声も、―――しまいには珍しくもなくなったほど啼きしきった。津村はこの歌を読むと、ふと、あの時は何でもなく聞いたほととぎすの声が、急にたまらなくなつかしいものに想い出された。そして昔の人があの鳥の啼く音を故人のたましいになぞらえて、「蜀魂しょっこん」と云い「不如帰ふじょき」と云ったのが、いかにももっともな連想であるような気がした。quomark end - 吉野葛 谷崎潤一郎(5)
 
正岡子規が中心になって作ったと言ってもいい「ホトトギス」には子規や故人へのいろんな人の思いが書き連ねられていったのだと思いました。この文芸誌には寺田寅彦の「どんぐり」や漱石の「吾輩は猫である」などが記されてゆきました。wikipediaにはホトトギスの故事について、こう記しています。「望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」
 それから津村は、「おりと婆さん」に教えてもらって、母が若いころに大切にしていた琴を見つけだすんです。母はかつて、おそらくこの琴を使って「狐噲こんかい」を弾いたのでした。八木重吉の「素朴な琴」を連想させるみごとな場面でした。八木重吉はこういう詩を記しています。

 素朴な琴
 
 この明るさのなかへ
 ひとつの素朴な琴をおけば
 秋の美くしさに耐えかね
 琴はしずかに鳴りいだすだろう
 
 谷崎は、この詩を読んだのかもしれない、と思いました。
  

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