ガリバー旅行記(2) ジョナサン・スイフト

 今日は、ジョナサン・スイフトの「ガリバー旅行記」その2を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 前回は、小人たちの国に迷い込んだガリバーだったんですが、こんどは巨人たちの住む国にたどりついたガリバーなのでした。
 巨人たちは穏やかな人々で、悪意が無いのに、大きさの違いがありすぎて不都合が生じているんです。
 小ネコと人間のちがいよりももっと落差があるんです。羽虫と人間くらい大きさの感じがちがうので、人間の世界の財布とか金貨とか、そういうものがまったく見分けられないんです。アリならなにをしているのか眼で確認できますけど、それより小さい生き物はもう、生き物なのかなんなのかさえ眼で見分けられないわけで、その奇妙な関係性が描かれてゆきます。
 大声で話しかけてみても、言葉が聞きとれない。巨人の言葉は轟音なので聞くことさえどうもむずかしい。
 うまく関われない二者というのが描きだされます。このあたりの細部の描写がリアルで、読んでいて魅了される箇所でした。
 けんめいに理性的な生きものであることをアピールして、巨人もたいせつに扱ってくれるようになります。「私」はある巨人の家の食卓に連れてゆかれます。幼子にちょっとイタズラをされるんですが、サイズがちがいすぎるので、やばいことになってしまう。巨人と人間の紳士的な交流も描かれます。
 映画でも小説でも、ここまでサイズがちがうと敵対するのがふつうだと思うんですが、ジョナサンスウィフトの小説ではもっと牧歌的で柔らかい表現になっていました。
 これは原民喜が、原爆症に苦しむ人々を間近に見ているころに翻訳したもので、今回の巨人の国で、虫のように扱われてしまう主人公の、痛みの表現の箇所に、原民喜の当時の時代性がにじみ出しているように思いました。
 自分の身長の何十倍もある猫の描写とか、迫力のある場面でした。美しい乳飲み子の情景でさえ、サイズがちがいすぎるともはや山が動くくらいの存在感で、恐怖を感じる場面になってしまう。
 はじめは言葉も聞こえないくらい不都合があったんですが、慣れてくると、ちょっとした言葉もわかるようになって、意思疎通が出来るようになります。この家の娘さんが賢くて親切で、おかげで死なずに済んだことを記すんです。いろいろあって、サーカスに売られてしまったり、巨人たちの国王のもとに呼び出されたりします。
 「私」と親切な娘さんは、ローブラルグラットの国都の王妃のところに辿りつき、この庇護を受けるのでした。
 疑い深い巨人の国王は、学者を集めたりして、ちいさな「私」のことを研究していろいろ論じあいます。被検体の「私」が学者の勘違いをただすところが、なんだか不思議な倒錯を感じさせておもしろいところでした。
 王や王妃の計らいで、自分の部屋も作ってもらうことが出来たのでした。
 王との知的な対話があるんですが、そこで祖国の文化と巨人の文化の違いに「私」は、たいへん惑ってしまう。
 「私」と巨大蝿の格闘は、巨人の眼からはあまりにも小さすぎてちっとも見えなかったりします。文化や世界観がまるっきりちがうところに放り込まれた、という体験がみごとに描きだされていました。幻想郷のような巨人の国を旅する場面が印象に残りました。王妃は、小さい「私」のための舟を大工につくらせるのでした。箱庭のプールで舟をこぐ「私」。
 ここを映像化したらトラウマになるくらい奇妙なのでは、というような、宮廷で飼われている猿と、小さな「私」との対決の場面がありました。悪意が無いのにあまりにも大きすぎる猿との、対面……。
 大きすぎるのに悪意が無い、というのは予想もつかないことが起きてしまうわけで、この場面はちょっとほんとにすごかったです。
 陛下の考えと、「私」の考えはまったくちがうんです。王はガリバーのことを「虫」と呼んだりして、あなどっているところがあるんですよ。ガリバーは祖国の英国のことを誇りに思っていて、自分たちは虫なんかじゃないし、王は勘違いをしているのだと考える。この二者が論じ合うのが興味深かったです。
 おもしろいのが「私」の帝国主義的な軍事武装論について、巨人の王は、倫理をもって諭すんです。ふつうなら、主人公の「私」が倫理的で、王は悪いことを考えるというようなことを書きそうなもんですが、まったく逆なんです。王は「私」にこう告げるのでした。本文こうです。
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「お前はその人殺し機械をさも自慢げに話すが、そんな機械の発明こそは、人類の敵か、悪魔の仲間のやることにちがいない。そんな、けがらわしい奴の秘密は、たとえこの王国の半分をなくしても、余は知りたくないのだ。だから、お前も、もし生命が惜しければ、二度ともうそんなことを申すな。」quomark end - ガリバー旅行記(2) ジョナサン・スイフト
  
 原爆の被害を受けた作家が、戦後すぐにジョナサン・スウィフトのこういう言葉を翻訳して本にして子どもたちに届けていたのだ、というのが驚きでした。手塚治虫青年も、当時たぶんこういう原民喜の仕事を、まのあたりにしていたんだろうと、思いました。手塚治虫は、この本に記された「虫」という言葉から深い影響を受けていたのでは、とさえ思いました……。
 海辺にとつぜんやってきた鷲が「私」と住み家の「箱」とを、偶然にも巨人の国からさらっていって、この箱が海に落下し、通りがかった人間たちの船に救出されて、主人公は元の世界にもどることが出来たのでした。狂騒の世界から、元の世界に戻ってしばらくの間は、ずいぶん奇妙なことを考えるようになってしまった、世界が変わりすぎて、なんでもないところでもおっかなびっくりな事になってしまう「私」のあわれでおかしな様子が描かれるのでした。次回につづきます。
 

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