今日は、豊島与志雄の「化生のもの」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
「仏性のもの」という作品なのかと思って読みはじめたら「化生」という今では聞きなれないことばが使われる短編小説でした。
小泉美枝子という美しい未亡人に、なにか妙な噂がついてまわる、というところから物語が始まります。美枝子はどうも、再婚していないのに妊娠をしたらしい、という噂が生じます。
けっこう下品なことをいろいろ述べてまわる人々がおおぜい出てきて、愛人の問題や男女のちがいのことについてこのように論じます。「一切のことを秘密に運ぶ能力を、女は持ってるのだ。それに比べると、男はまるで赤ん坊だ。どんなに秘密に事を運ぼうとしても、すぐに尻尾を出すからね」と語ります。
中盤でこういう場面があります。
浅野は眉をひそめた。
「実は、まだひどいことがあります。あなたが姙娠されてるとかいうような……。」
美枝子はにっこり頷いた。
「むしろお芽出度い話ですわ。恋人が出来たり、赤ちゃんが出来たり……ふふふ。」
美枝子当人は、妊娠したという噂はまったく気にしていない。なぜかというと……。
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(総ページ数/約10頁 ロード時間/約5秒)
ここからはネタバレなのでご注意ください。美枝子当人は、妊娠したという噂はまったく気にしていない。なぜかというと、この嘘を言いはじめたのは美枝子本人だったわけで、星山という嫌な男を遠ざけるために、嘘の妊娠について噂を広めてみたのでした。これで太い金の指輪の男は美枝子との再婚を辞めたというわけなのでした。
美枝子と親しい浅野は、彼女の妊娠の噂で混乱してしまいます。
「板倉さんのティー・パーティーの日にね、星山さんが、途中で誰かに襲われなすった」という場面がありました。この襲った男がどうも、浅野という男だったのでした。この事件があって、浅野は美枝子との恋愛を諦めて去っていったのでした。浅野が書き残した手紙はこうでした。
私の胸の奥に神聖無垢なあなたが永久に留ることを、御信じ下さいますでしょうか。私は今、あなたに対する感謝と愛とで一杯です。同時に、世間というものに対する憎悪で一杯です。私は田舎に戻り、一切のことを妻に告白するつもりです。
美枝子は、どういう意図で、星山と浅野を驚かせたのか、その真相が終盤に告げられるのかと思ったら、それは「微笑み」にかき消されてゆくのでした。最後の数ページの美枝子の態度が魅力的な、短編小説でした。
これは、戦後すぐに書かれた小説なんですが、なぜか同時期に書かれた谷崎の「細雪」でも出ていた「板倉」という名が出てきます。まったく関連性は無いはずなんですが。板倉という名前をとおして、貧富の差とか、下品な男とか、謎めいた女の思いとかが、2つの作品に書きあらわされています。