惑い(9) 伊藤野枝

 今日は、伊藤野枝の「惑い」その9を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 伊藤野枝はごく若いころからとくべつな冒険家で、十代のころに九州の今宿で、砂浜から5キロ先にある能古島までひとりで泳いで渡ったそうです。当時は親の決めた嫁ぎ先を完全に拒絶して生きることはとても困難だったはずで、それを親戚の支え無くやってゆくというのがすごく、文芸でもっとも表だった仕事をしていた女性である平塚らいてうと深く関わり仕事を受け継いだ……新しい生き方を何度も創り出した……物語にも記されているように「勇敢」というのを突き詰めていった、生き方に思いました。
 バカバカしいと思うことをきっぱり辞めて出てゆく、という伊藤野枝ならではの思い切りの良さが、物語の展開にも反映されているように思いました。「自分の考えを押し立てる」という伊藤野枝の言葉が印象に残りました。本文こうです。
quomark03 - 惑い(9) 伊藤野枝
 『出よう、出よう、自分の道を他人の為めに遮ぎられてはならない。』quomark end - 惑い(9) 伊藤野枝

 最後の二行が文学的展開で、暮らしぶりはまだ今までどおりであっても、主人公の逸子の心もちは未来における変革を決意して晴れやかである……その描写がみごとでした。
 

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動物園の一夜 平林初之輔

 今日は、平林初之輔の「動物園の一夜」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
これは不思議な物語で、序盤はいかにも近代小説らしい、貧しさと閉塞感について記しているのですけれども、貯金が底をついて下宿から追い出されそうになっている男が、動物園の笹の草むらを寝床にしてやろうと目論んで、夜の園内に隠れていたら、とつぜん謎の男が目の前に現れたところあたりから、話しが盛りあがってゆきます。中盤でたどたどしい場面もあるのですが、古き良き冒険活劇みたいな、すてきな小説でした。
  

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白バラ抵抗運動を連想しました……。

きりぎりす 太宰治

 今日は、太宰治の「きりぎりす」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 「おわかれいたします」という妻からの言葉ではじまる独白のような小説です。伴侶と別れる……となると学校を卒業してもうずっと会えなくなるとか、ふるさとを離れて都会に出るのだとか、恋人と別れることになってしまって悲しいとか、いうこと以上の厳しい事態なわけですけれども、太宰治はそこで、人間性の激しい否定というようなことをちっとも記さずに、幽かな小言のように、柔らかく書き記してゆくんです。なぜ近代の女性性というのをここまで確実に書けるんだろうかと、読んでみて衝撃を受けました。なんともみごとな小説で……事実から遠く離れない描写をすることによって、迫力が出ているように思うんです。どこにでもありそうなことを積み重ねて書いているんです。100年経ってもありえそうな、大陸の片隅でも愛読されそうな、素朴なことだけを書いています。ほんとうにちょっとした、ごく静かな小言のように見える範囲で、重大なことを言っているんです。聞こえないほど小さな声を記すのが文学なんだ、と思いました。終盤の一文が印象に残りました。本文こうです。
quomark03 - きりぎりす 太宰治
  この小さい、かすかな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。quomark end - きりぎりす 太宰治
  

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侏儒の言葉 芥川龍之介

 今日は、芥川龍之介の「侏儒の言葉」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 今回いちばんはじめに、芥川龍之介が論じているのは、クレオパトラの鼻が変だったときに、恋人はいったいどう考えるのか、という問題でユーモアを交えつつ、こういうことを指摘しています。
quomark03 - 侏儒の言葉 芥川龍之介
  恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞ぎまんは一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。(略)我我の自己欺瞞はひとり恋愛に限ったことではない。我々は多少の相違さえ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ実相を塗り変えている。quomark end - 侏儒の言葉 芥川龍之介
  
 「1984」に描かれるような事実の改変は、人間や組織人ならとうぜんのように、やってしまう。自己欺瞞と「壮厳な我我の愚昧」というのが、永々つづくよと、芥川は指摘しています。この「侏儒の言葉」は、英知を学ぶということと、とんでもない話しを聞いて目を見ひらく、というのとが並行して書き記されています。
 これはさすがにふざけて書いたんだろうというような箇所もいくつか見受けられます。モーパッサンに対する評もたった一文だけで、奇妙なんです。「モオパスサンは氷に似ている。尤も時には氷砂糖にも似ている。」と書いていてただのことば遊びだろうと思う箇所や、詩としてみごとな箇所もあって、諧謔の書としても読めるんです。再読であっても新鮮に読めて、すごいように思いました。
 いっぽうで暴力や迫害に関する考察は、哲学書のごとき思弁に富んだ内容に思いました。近代の社会主義者の言い分はいま読むと当然のことを言っているだけなのになぜ彼らは迫害されねばならなかったんだと思っていた時に、芥川の「迫害を受けるものは常に強弱の中間者である」という指摘が腑に落ちました。
quomark03 - 侏儒の言葉 芥川龍之介
  強者は道徳を蹂躙じゅうりんするであろう。弱者は又道徳に愛撫あいぶされるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。quomark end - 侏儒の言葉 芥川龍之介
 
 全体の12%のところや60%近辺で記される、芥川龍之介による軍人批判も学ぶところがあるように思いました。くわしくは本文を読んでもらいたいのですが、「帝王」に関する考察も興味深いです。
quomark03 - 侏儒の言葉 芥川龍之介
 ナポレオンは「荘厳と滑稽との差は僅かに一歩である」と云った。この言葉は帝王の言葉と云うよりも名優の言葉にふさわしそうである。quomark end - 侏儒の言葉 芥川龍之介
   
 この指摘は、数十年後のナチスと「チャップリンの独裁者」に関する、適切な未来予測のようにも思います。芥川龍之介は独裁者に関してこう指摘しています。「一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱そうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に仆れる外はない。つまり帝王も王冠の為におのずから支配を受けているのである」ほかにも芥川はこう記します「我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云うことである。」現代の独裁者について考えてみたい、という人にとってこの「侏儒の言葉」にはさまざまな示唆があるように思います。
quomark03 - 侏儒の言葉 芥川龍之介
 革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹あんたんとしているはずである。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。quomark end - 侏儒の言葉 芥川龍之介
    
 中盤52%のところに記される「罪」に関する考察がみごとでした。諧謔に富む名言、というのを堪能したように思いました。恋愛論や芸術論も魅力的で、いろんな読み方の出来る本だと思います。
 

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惑い(8) 伊藤野枝

 今日は、伊藤野枝の「惑い」その8を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 本作は次回で完結です。伊藤野枝は小説や随筆で、人間の自立と自由について描きだしていったように思います。野枝の作品は、呻吟して思索された言葉として今も新鮮に読めると思います。伊藤野枝はいろんな批難にさらされてきたと思うんです。百年前は文人だというだけで国家から強い規制を受けてきましたし、当時は女性差別も厳しく、貞節を謳う人びとからも批判の的となっていました。
 伊藤野枝という名を知っている方ならご存じかと思うのですが、野枝は大杉栄と共に、帝国軍人に絞首されてしまいました。この事件では、野枝と大杉栄と七歳の幼子も亡くなっています。犯人は1945年夏の敗戦が来るまで帝国の徒として活動をつづけ権力を剥奪されないという、異常な状況がここから二十数年間も続きます。
 この「惑い」という小説はとても地味な構成をしていて、第一章で取りざたされた、新しく嫁いだ先の家が貧しすぎて無分別すぎることで主人公の逸子は煩悶していて、これが八章にもふたたび繰り返されて論じられています。
 自身の抱える憎悪と、自由のための反抗を、どのように展開させるべきか、逸子はこれに悩みます。伊藤野枝は、作中で繰り返し、因襲に対する個人的抵抗をうたっています。
 「惑い」という題名が終盤に来て上手く物語に共鳴してきたように思います。本文こうです。
quomark03 - 惑い(8) 伊藤野枝
   ……もう現在の人間生活の総ての部分に、不自由と不合理は当然なものとしてついて廻っているのだ。それに立ち向おうとすれば、唯だ、始めから終りまで苦しまなければならないのだ。諦めて、到底及ばぬ事として見のがして仕舞うか、苦しみの中にもっと進み入るか、幾度考え直して見ても、問題はたゞ、その一点にばかり帰って来るのだった。quomark end - 惑い(8) 伊藤野枝
  
「今まで続けて来た譲歩をみんな取り返した処で、決して自由にはなり得ない、その譲歩の何倍、何十倍も押し戻さなければならない」という一文が、いま悪意に捲き込まれている人びとへの、野枝からの百年越しの言葉として響くように思いました。
  

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立春の卵 中谷宇吉郎

 今日は、中谷宇吉郎の「立春の卵」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これはちょっと奇妙な随筆で、日付も珍しいもので1947年の4月1日の作品なんです。なんだか大がかりな話しで、ニューヨークと上海と東京で集団的に論じられ実験がおこなわれた「立春に卵は立つ」ということにかんするエッセーです。
 戦争が終わって1年ちょっと経った春の話しです。立春というと2月4日で、4月1日はエイプリルフールで、そこで永続的に倒れない、屹立した卵が出現した、という話しが記されている。魔法かなにかで卵が立つのか? という印象からはじまる不思議な話です。
 中谷宇吉郎というと博学な科学者であってその随筆は、ものごとと考えが整頓された、すてきなエッセーばかりなんですけれども、これはちょっとちがうんです。卵はくたっと転がるのが当然で、それがコロンブスでもないのに立ってしまう、ということについて書いています。「コロンブスの卵」の逸話ではふつうにやればけっして立たないことになっています。
 なぜ卵が立つのか、卵は立たないだろ、というのに、立った立ったという話が繰り返される。中国の古い文献には、立春にだけ卵が立つらしいのです。卵が立ったのならその裏側にトリックか科学的根拠があるはずだと言うことで、この卵が立つのかという平和な謎を、やたら深追いして論じているんです。
 底にちょっとした凹凸があって立ちやすい卵というのがどうもあるようです。カメラを三脚で立てるみたいに、タマゴの底の凸凹がちょうどうまいこと三脚みたいになっている生卵ならけっこうかんたんに立つようです。論理的に考えたらよほど不安定なものでもないかぎり、無風なら立つ可能性はあるんですけど、現実に立つかどうかは分からない。この分からないことについて、科学的に論じていて興味深いエッセーでした。最後の数ページがほんとにみごとなんです。推論と実験と検証、これを繰り返していった中谷宇吉郎の人生全体をもうすこし知りたいと思いました。
 中谷宇吉郎はほんの一文しか記していないんですけど、人類が核エネルギーを作ってしまったのちの、持続的な平和について思念しつつ、なんということもない卵について論じている、というところに戦争が終わった1年のちの世界を夢想させる力があるように思いました。

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