奥の海 久生十蘭

 今日は、久生十蘭の「奥の海」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 京都に堀金十郎という武家の祐筆がいて、天保七年の飢饉のさなか烏丸中納言という貴族の娘さんと結婚するにいたります。
 危ない時世でも、この姫に腹いっぱい食べさせてやりたいということで金十郎は借金をしながら、姫におおいに飯を食べさせていたのですが、さらなる飢饉で、粥もろくに食えない状況になります。本文こうです。「冷気でその年の米が実らず、奥羽は作毛皆無で、古今未曽有の大飢饉となった」。飢饉が深刻化するさなか、妻の知嘉姫がふらっと家を出てしまいます。「どうしたのか、その夜も帰ってこない。実家へ遊びに行って、帰りそびれているのだろうと、召次の舎人とねりに聞きあわせると、実家にお帰りはなかったという。」
実家で尋ねると、姫はこのように述べていたと言います。
「二度の食をつめ、水を飲んでまでいたわってくださるのだが、その親切が重石おもしになり、あるにあられぬ思いがした」「私は犬でもねこでもないのだから、かてで飼われているのでは、いかにも空しい気がする」
 それで金十郎は、妻を探す旅に出るのでした。姫の消息を追って、金十郎は飢饉にあえぐ村々のほうぼうを訪ね続けます。
 大飢饉のなか、ゾンビのように彷徨っている数百人の飢餓者たちによる力無い暴動がおきる事態の描写がおぞましく、本文にあるように「地獄めぐり」という状態でした。作者や近親者に餓えの経験があるのか、江戸時代の飢饉の描写はちょっと尋常でない迫力を感じるものでした。
 中盤から芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」といったような、徒歩でのはてしない旅をしはじめてしまい、飢餓の冒険譚から、歴史的な紀行の小説に変じてゆくのがなんともみごとでした。
 

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追記  ここから先は完全にネタバレですので、未読のかたはご注意願います。大飢饉の最中に、いずこかへと消えてしまった姫の消息を訪ねてあらゆる村を訪問しているうちに、飢えた人々はいったいどのように去ってしまったのかを、金十郎はさまざまに目の当たりにするのでした。
 終盤では、武士の金十郎が違法な隠し鯨の肉を食った罪で裁かれてしまうのですが、無駄に抗うことも無く、武士道を重んじた態度で終わる、最後の一文がみごとな小説でした。

魚紋 吉川英治

 今日は、吉川英治の「魚紋」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これははじめ江戸時代の地味な碁会所での探りあいやら恋模様が描かれるんですが。4人……5人の悪党が、700両という大金を巡って痛烈な争いを繰り広げる無頼の物語で、中盤からはハリウッド映画の惨劇みたような諍いが畳みかけられる、江戸の悪漢小説なのでした。
 登場人物は……
 碁会所の女主人である、お可久。
 山岡屋。
 浮世絵師の喜多川春作。
 侍のかまきり。
 外科医の玄庵。
 遊び人のあざみ
 この薊というのが意外と危険な男でとんでもないことが起きるのでした。
 ある雨の日、碁会所にいる山岡屋のところに、牢番がやってきて、妙なことを言うんです。
「川底に七百両の金を沈めてある」どうも盗賊の和尚鉄が大金を盗み出して、逃げるときに川底に財宝を沈めたまま、捕まってしまった。これを川から引き揚げて、和尚鉄の代わりに知人の山岡屋に使ってしまってほしい、という依頼なのでした。和尚鉄はもう島流しを喰らうか死罪となるかで、二度と娑婆には戻れそうになく、盗んだ金の使い道はない。牢番も小判が欲しくてこの危険な依頼をしに来たのでした。
 山岡屋はさっそく永代橋の西河岸の川底を見にいくのですが、そこには役人もいるし人通りも多いし、川の流れもきつい。小判が水に洗われているのは見えるが、そうやすやすとこれを引き揚げることが出来ない。本作の題名である「魚紋」というのは魚が泳いだあとにできる波紋のことです。
 山岡屋と牢番の密談は、悪友たちに盗み聞きされてしまっていて、誰もがこの川底に沈んだままの、盗まれた七百両を狙っている……
 

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追記  ここからはネタバレなので、近日中に読み終える予定の方はご注意願います。 川底に沈んだままの、盗まれた七百両をいろんな悪党が狙っているところで……次々に事件が起きるのでした。さいごは愚かで無欲な喜多川春作だけが生きのこって、七百両はこれは、役人もこれを探しだせぬまま、東京湾に流されて海の藻屑と消えたのかと、思われます。
 

末っ子 山本周五郎

 今日は、山本周五郎の「末っ子」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 武家に育った末っ子の小出平五は、侍なのに商人の才覚があって、若いころから転売や骨董商の副業をしていて、将来のためのお金を貯めつづけていた。
 骨董の目利きが得意な平五は、叔父のために「新庄家伝来の家宝である古刀の貞宗」を、用意してきた。
 これがじつは……
 

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追記   ここからはネタバレなので、近日中に読み終える予定のかたはご注意願います。骨董の目利きが得意な平五は、叔父のために「新庄家伝来の家宝である古刀の貞宗」を、用意してきた。
 これが骨董屋から安値で買った名刀の贋作なのでした。贋作を真作であるとだましてみんなに披露して、親戚縁者を驚かせてやろうと思っていたんです。だがそこに本物の骨董鑑定家である多賀が、予想外にやって来てしまった。平五は叔父に大迷惑をかけてしまったと思ったんですが……多賀の鑑定では、じつはこの二束三文で売られていた古刀は、正宗の逸品であるということ明らかになった。となると元の持ち主に、この骨董が名刀であったことを伝えないとならなくなった。この名刀をどう扱うかで逡巡していたところ、運悪く父親が、この全てのいきさつを知ってしまって怒り狂って勘当すると言いだしてしまった。
 父は、平五をあまやかして育てたから、転売屋になったんだと大いに怒った。平五はここで、侍を辞めて家を出て、道具屋をすることを決心します。平五の発言はこうです。
「みんなで私があまやかされていると云いながら、誰一人あまやかしはしなかった、いちどでも私をあまえさせてくれたことがありましたか、お母さん、そんな記憶がいちどでもありますか」「私は末っ子で三文安いかもしれないが、決してあまやかされたことはない、ということをわかってもらえばいいんです、では失礼します」
 平五は家を出て道具屋になる。名刀を元の家の持ち主のところへ持っていった。この細江の家には、幼なじみで嫁にしたい「みの」も居るのでした。
「みのを嫁に欲しい」と平五は言うのですが、母のしのぶは事情を全て聞いてから「お断わり致します」と言うのでした。しのぶは侍魂の色濃い母で、絶対に譲らないので、平五はもはや諦めるしかなかった。
 ところがそのちょっとあとに「みの」が平五を追いかけて来た。彼女も勘当されてでも、結婚がしたかったという、妙な展開になるのでした。
 平五は妻を娶って骨董屋として成功した。まんじゅうの転売からはじめた商売は、ここに成就したのでした。

 

じいさんばあさん 森鴎外

 今日は、森鴎外の「じいさんばあさん」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 森鴎外の代表作と言えば「高瀬舟」や、史伝小説がいろいろあると思うんですが、今回は昔話と史伝が入り混じったような文体で、1809年の文化六年の老夫婦のことを描きだします。美濃部伊織というおじいさんと、妻「るん」の、不思議な物語です。
「この翁媼おうおん二人の中の好いことは無類である」。「二人の生活はいかにも隠居らしい、気楽な生活」をしていたのですが、二人には壮絶な過去があって、それを繙くところから物語の中盤が始まります。ある偶然から、若き日の美濃部伊織は、妙な逸品を手に入れることになって、これを買うときに無理な借金をして、貸し手との間に不和が生じてしまった……。掌編なんですが、オチがみごとですてきな小説でした。
 

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追記  ここからはネタバレですので、近日中に読み終える予定の方は、ご注意ねがいます。美濃部伊織は、金貸し男の無礼が許せずに、刀で切りつけてしまい、罪を犯して流罪となりました。伊織とるんは長らく生き別れとなっていたのですが、徳川家治の御追善によって罪を赦されて、三十七年ぶりに江戸で邂逅し、それから幸福に暮らすのでした。
 

津軽の虫の巣 宮本百合子

 今日は、宮本百合子の「津軽の虫の巣」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 1690年ごろ元禄時代の松前矩広が、大船に乗って津軽の海を渡るところから、この歴史小説は始まるんですが、おもに2つの事柄が主題になっていました。ひどい混乱を生んだ生類憐れみの令と、津軽の宝石のことが描かれるんです。
 「津軽の虫の巣」というのは「青紫の円い小珠」の宝石のことで、なぜ虫の巣というのかというと、その宝石には、小虫が入り込めそうな「小さい白い泡沫」がいくつかあって「名も知れぬ小虫が、はて知らぬ蝦夷の海の底深く、珊瑚の根元にでも構えた巣の様に思われる」これが珍宝として松前藩に献上された。矩広と家老の蠣崎が、これを吟味した。
 これがもしほんとうに瑠璃色の虫の巣である場合は、虫の巣を奪い去ったということで、生類憐れみの令に抵触して、松前藩が罰せられるかも知れない。だが、ただの泡沫をはらんだ宝石であるかもしれない。分からないので、火で炙ってこの宝石を浄化しよう、ということを家老が提案した。火で焼いてみると、珍宝はあっけなく砕け……。
 

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追記  生類憐れみの令は、幼子や病者の人権を尊重するという優れたところもあったのに、その運用を誤って死罪や流刑が頻発した、罰則のとりきめがまちがっていたのでは、と思いました。

春いくたび 山本周五郎

 今日は、山本周五郎の「春いくたび」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 山本周五郎といえば武士道を書く作家だと、思い込んでいたんですが、読んでみると意外と違うことを書いた作品が多くて、今回は恋愛小説っぽい場面が序盤に記された、武家の男女の物語でした。十八歳くらいの信之助が戦に向かうところで、十五歳の少女がこれを追いかけて別れの挨拶をする……。
「朝毎の濃霧もいつか間遠になり、やがて春霞はるがすみが高原の夕を染めはじめた」「文久元年の春」「井伊直弼が桜田門外に斬られてから、ながいあいだ鬱勃うつぼつとしていた新しい時代の勢が、押えようのない力で起ちあがって来た」
 主人公の信之介は「甲斐七党の旗頭」の家の出身なんです。天涯孤独の身で、十八歳にして独り立ちするしかない武士なんです。彼のことを慕う香苗は、彼が戦から帰ってくるのをずっと待ちわびています。一年経っても、信之介は帰ってこなかった。香苗は縁談を断って、信之介が村に帰るのを待っているんです。
  

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追記 ここからはネタバレなので、近日中に読み終える予定のかたはご注意ねがいます。伏見の戦争に出兵した清水信之助は、この戦で行方不明になった、ということを彼女は聞くのです。本文こうです。「信之助が死んだという青年の言葉は、なにかしら空々しいことのように感じられ、まるで知らぬ世界の知らぬ人の話としか受取れなかった。そして、——きっと帰る、必ず帰って来る。」「初めての雪が降りだした頃、香苗の家は遂に倒産した」「香苗は身もだえをし、裂けるような声で信之助の名を呼びながら泣いた。」
 それから香苗は、尼法師になって救護院で生きるようになったのですが、三十余年ほど経ったある日、伏見の戦で敗残した男が現れる。清水信之助に生き写しの男は、松本吉雄という名で、同じ伏見の戦で記憶を喪失するほどの被害を受けていた。香苗は、この松本吉雄がどうにも、記憶を失った清水信之助のように思えてならなかった。それで彼の庇護者に手紙を出して、彼の素性について質問した。返信の手紙にはこう書いてありました。「文面の末に、彼はもう自分の名も忘れているが、本名は清水信之助と云う者である」
 これを読んだ月心尼(香苗)は、病床に居た彼を探すのですが、信之助はふらりとまたどこかへ出かけてしまっていたのでした。四十年ぶりに香苗はまったく同じことを思うのでした「……きっと、きっと、信之助さまは此処へ帰っていらっしゃる」終わりの三行がなんだかすてきな物語でした。