死せる魂 ゴーゴリ(10)

 今日は、ニコライ・ゴーゴリの「死せる魂」第10章を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 役人たちは、不安と焦燥でゲッソリ痩せ細った顔になった、というんです。原因は「新らしい地方総督」がやって来たというのと、チチコフが手に入れた、死せる農奴たちの400人もの名簿の存在、この2つでどうも、混乱してしまっているんです。
 こんかい、嘘つきのノズドュリョフというのがクローズアップされるんです。死せる魂を400も買い取ったチチコフにかんして「偽札造りの詐欺師」だとか「知事の娘を誘拐するつもりだ」とか「役人の不正を暴く審査官なのだ」とか、いろんな噂がさかんに生じて、お役人たちがみんな混乱してしまい、いちばん信用の出来ない相手ノズドュリョフに相談をしてしまいます。粗暴なノズドュリョフはこの小説では150回ほど記載されていて、いちばんはじめ前半2%あたりの第一章で、この男がギャンブルに興じているところが描かれていて、ここで人生ではじめて出逢ったことになっているんです。ところがこの終盤でノズドュリョフは、チチコフとは幼なじみだとかいうウソを平然と言います。前半40%の第4章ではノズドュリョフが第二の主人公というかチチコフの敵対者としてさかんに描かれています。その延長戦が今回、行われたわけです。
 あまたのウソの中から立ち現れてくる世界の様相というのの描写がみごとでした。新しい地方総督がやって来るという政治的変節のある時期に、チチコフが現出させたあまたの死人の鬼籍が存在すると、それが謎めいて見えてしまい、自分の仕事と関連付けて考えてしまうんです。自分の不誠実さが原因で、死んだ人たちが怒っているかもしれない、という不安があるんです。これまで「死んだ農奴たち」という意味で記されてきた「死せる魂」のほんらいの意味が立ち現れてきたように思います。死者はいったい、どう思っているのか……。
 それから、この第10章の終盤にもなって、新しい作中作が描きだされるんです。物語の中に描かれる、ちいさな物語です。ナポレオンのニセ伝記というのも語られ続けて、これが魅力的でした。片手片足を失った傷痍軍人がふるさとに帰ってきたら、暮らしてゆくだけの生活の手立てが無くなってしまっていた。実家はもう破産してしまっていた。現代では目に見える問題を抱えている人なら、国家から生活費をもらえるわけで、生存権という概念が存在しているんですけれども。ナポレオンの時代ではそうはゆかなかった。この果敢に闘った元軍人が、生きさせろというので、お役人たちに訴えを起こしまして、役人も国が原因で深手を負った男の言い分を理解して、この生存権だけはなんとか満たせるように、ギリギリの食費だけは与えることにした。ところが、彼はちゃんと幸福に生きさせろという訴えを起こしたのであって、終身刑の囚人みたいな最低限度すぎる生存権では満足できないので、怒りはじめたのです。ちょっとここは清貧のキリスト者がパンと水のみで飢えを耐え凌ぐような感じがあるわけです。フランス人みたいに良いワインを飲んで穏やかに色恋に興じたいわけです。おかみはそれを認めないので、たいへんなことになる。彼は役人連中のまえで暴れ回って、いずこかへ去ってゆきます。ゲーテも取り上げていた忘却のレテ川というのまでたちあらわれます。
 ウクライナ生まれのロシア人であるゴーゴリが描きだす、かつての敵国フランスの裕福さとナポレオンの偉大さについての描写は、なんだか哀れに逆転した世界観を見せつけられているようなかんじというのか、屈折した笑いが生じるような描写で、逆立ちして見たような歴史の不思議を感じさせる記載でした。
 街中ででたらめを言いふらす人々によって「チチコフはじつはかのナポレオンが変装した姿なんだ」という珍説まで飛び出します。これまでチチコフにはステキな噂が絶えなかったわけですが、敵対者ノズドュリョフの悪目立ちもあって、今回からついに、権力をもつ人たちはチチコフを避けるようになったのでした。じゃあチチコフはどうするのか、この問題に関わった人々はどうするのか、というので次回の「死せる魂」最終章に続くんです。作者ゴーゴリとしては第二部第三部の構想ももっていたんですが現実にはこの第一部しか完結していないんです。「死せる魂」といえば次回の第11章で完結なんです。
 次回こそが「死せる魂」の最後の章になるはずなんですが……これはもしかすると、未完の第二部があるのだから、もしかしてチチコフが、死せる魂を蒐集しつづけた意味と真相は、完全に文学史の闇の中へと消え去ってしまうのでは……と思いました。なんだか芥川龍之介の『藪の中』の展開に似てきたように思うんです。真相がそもそも見えない、一つの結論というのがそもそも存在しない、多重に意味が積み重なった世界が立ち現れてきました。本作ではゴーゴリは、神の視点で描いているので登場人物の内心もときおり書いているんです。作者は主人公チチコフ本人の本心というのをらくらく書けるはずなんですが、ゴーゴリは意外とそういうところが秘密主義で、ほとんど記さないんですよ。
 読者の自分としては、なにか推理小説の謎解きのような、はっきりとした結末を見たいわけです。じゅうぶんにこの世界を見てきたのだから、大団円を見たいんです。ゴーゴリはこの点をどう考えて、最終章を書くのでしょうか。次回に続きます。
 

0000 - 死せる魂 ゴーゴリ(10)

装画をクリックするか、ここから全文を読む。 (使い方はこちら) (無料オーディオブックの解説)
(総ページ数/約100頁 ロード時間/約3秒)
 
ゴーゴリの「死せる魂」第一章から第十一章まで全部読む
 
ゴーゴリの「外套」を読む

生存理由としての哲学 三木清

 今日は、三木清の「生存理由としての哲学」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 戦争中に書かれた哲学書は世界中にあるんですけど、まだ輸入ものでしかなかった日本の哲学は、どうも生存理由レーゾンデートルとしての哲学としては成立しがたい状況である、と三木清が記しています。
「学校において文学の代りに語学の講義を聞かされて憤ることのできる者」はいっぱい居たんですけど、「哲学すること」のかわりに「哲学の記録の便覧」のはなしをされても「これは違うんじゃないか」と思ったりしない。日本では「哲学すること」が「生きること」とほとんど結びつかないし、教育としては成立しにくい。三木清の文章は、むずかしい問題を分かりやすく書いてくれているのでほんとにすてきだと思うんですが、本文にこう書いていました。
quomark03 - 生存理由としての哲学 三木清
  現代において、哲学するということは、人間の生存理由のいかなるものであり得るか、この根源的な問に対する情熱が哲学者といわれる者の倫理でなければならぬ。科学としての哲学、イデオロギーとしての哲学、等々の問題も、この問に比しては従属的であり、皮相的ですらあろう。quomark end - 生存理由としての哲学 三木清
 
 三木清は、生存理由レーゾンデートルとしての文学は二十世紀の日本に存在する……と文学を肯定的に捉えていたようです。今回の指摘を読んでいて、海外の哲学書を日本語訳で読んで感動した、その理由が見えたように思いました。三木清は「哲学することの倫理について、哲学者が根源的に問うことが何よりも要求されている」と記していました。
 

0000 - 生存理由としての哲学 三木清

装画をクリックするか、ここから全文を読む。 (使い方はこちら) (無料オーディオブックの解説)
(総ページ数/約10頁 ロード時間/約3秒)
 

八の字山 土田耕平

 今日は、土田耕平の「八の字山」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
これは……親子で自然界をちょっと旅する、ごく普通のとくになにも起きない童話でした。
 

0000 - 八の字山 土田耕平

装画をクリックするか、ここから全文を読む。 (使い方はこちら) (無料オーディオブックの解説)
(総ページ数/約10頁 ロード時間/約3秒)
 
追記 土を耕して田んぼを平和にする……というような名前の土田耕平は、童話をあまたに書いた作家だそうです。本文とまったく関係が無いんですが、四国には三角形のおにぎり型の山が多く、長野には万里の長城みたいな山脈の尾根が目立つように思います。
 

ゲーテ詩集(19)

 今日は「ゲーテ詩集」その19を配信します。縦書き表示で読めますよ。
 ある脳天気な男が珍しく、つらそうにしています。悩みすぎて食べものものどを通らないし、眠ることもできない……。『若きウェルテルの悩み』と共通した問題を描いたものなんですが、オチまで脳天気というのが長編とは異なっていて、ちょっとおもしろい、ごく短い詩でした。
   

0000 - ゲーテ詩集(19)

装画をクリックするか、ここから全文を読む。 (使い方はこちら) (無料オーディオブックの解説)
(総ページ数/約10頁 ロード時間/約3秒)
 
全文を読むにはこちらをクリック
  

苦しく美しき夏 原民喜

 今日は、原民喜の「苦しく美しき夏」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 『苦しく美しき夏』は昭和二十四年に記された「私」と「妻」の物語で、妻がとつぜん体調を崩すところが描かれます。入院をして治癒して家に帰ってくる場面があります。本文こうです。
quomark03 - 苦しく美しき夏 原民喜
  妻が家に戻って来て、療養生活をつづけるようになってからも、烈しく突き離されたものと美しくきつけられたものが、いつもうずいていた。quomark end - 苦しく美しき夏 原民喜
 
 ここの前段の、赤の描写が印象的でした。「静かに少しずつ恢復へ向っているようなきざし」がみえてくる描写があります。原民喜の妻は、原爆投下の1年前である昭和19年9月に亡くなっています。この掌編小説を書いたのはその5年後のことです。原民喜の小説を読むときは、同時に「WEB広島文学資料館」のサイトを閲覧することをお薦めします。
 

0000 - 苦しく美しき夏 原民喜

装画をクリックするか、ここから全文を読む。 (使い方はこちら) (無料オーディオブックの解説)
(総ページ数/約10頁 ロード時間/約3秒)
 

新しい歌の味ひ 石川啄木

 今日は、石川啄木の「新しい歌の味ひ」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 はじめに記される「哀果」というのは文学者の土岐善麿の筆名だそうです。
 ぼくは詩がまったく書けない人間なので、詩人の書いた随筆や小説がどうも特別なものに思えて好きで、一般的な小説の構文とちがう方法が存在するとそれが宝珠のように思えてくるんです。
 この掌編は、いっけん啄木の私生活を描いたように記されているのですが、主語が妙で、「男」だったり「彼」というように記されていてどうも啄木ではないかのように描かれます。
 主題もすこし妙で「新しい歌の味ひ」と書いておきながら、歌のことについてはとくになにも述べていないんです。内容としては「北歐羅巴の大國の新しい物語の本」を一晩でいっき読みしてその長編小説の魅力について記しています。
 題名は「新しい歌の味ひ」です。その味わいについては記されていないんです。歌についても記されていないんです。上手いこと対象物がすり抜けているといえば良いのか、観察対象の透明化が成されています。不思議な作品に思いました。

0000 - 新しい歌の味ひ 石川啄木

装画をクリックするか、ここから全文を読む。 (使い方はこちら) (無料オーディオブックの解説)
(総ページ数/約10頁 ロード時間/約3秒)
 
追記
石川啄木の、wikipediaのページがとほうもなく長大で、日本人は啄木が好きなんだなあと思いました。